甲斐武田を探検っ!!

              甘利山大輪寺 甘利氏館跡

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史跡・関係地名:甘利氏館跡/甘利左衛門尉昌忠墓所など

住所:山梨県韮崎市旭町上条北割(大輪寺と周辺)

場所のわかりやすさ:○

駐車場:○(境内2-3台?)

説明板:○

売店:×

地図:

  

関係人物:甘利備前守虎泰・甘利左衛門尉昌忠(信忠)・慶受院日国(開山 甘利昌忠三男)など

<甘利氏>韮崎市にある甘利山大輪寺周辺は古くから甘利荘と呼ばれていました。甲斐武田氏の祖武田信義の子で一条忠頼の次男行忠が甘利荘を管理する立場となり、この地に屋敷を構えたことから「甘利」を称するようになります。その甘利氏で著名な人物といえば信虎に重臣として仕えた甘利備前守虎泰。信虎追放後も板垣駿河守信方とともに若き武田晴信を補佐し、天文十七年(1548)二月上田原合戦で討死します。その虎泰の嫡男が甘利左衛門尉昌忠(永禄七〜九年頃信忠に改名)。彼は当時13歳でしたが父の跡を継ぎ永禄年間初期、晴信の側近として活躍します。

昌忠で有名な逸話があります。永禄五年(1562)武蔵松山城攻めの際、彼に属していた米倉晴継(父は鉄砲の弾除け「竹束」考案者「米倉重継」)が深手を負います。そこで昌忠は傷によいと言われていた「馬糞汁」を飲ませようとします。もちろん?晴継は断固拒否!そこで、昌忠は自らそれを飲み「美味しい!」と言ったんだとか。上司にそんなことされたら、飲まない訳にはいけません。しょうがなく飲むと完治してしまったんだとか。部下からの信頼も厚く将来を有望されていた昌忠ですが、永禄十年(1567)馬から落馬したことが原因で死去したと伝わります(死去した年代については様々な説があります)。昌忠死後は彼の弟もしくは子の信康(甲斐国志では虎泰の子)が跡を継ぎますが、長篠設楽ヶ原の戦いで討死します。

<甘利氏館跡>日蓮宗池上本門寺派である甘利山大輪寺。開山は慶受院日国聖人ですが、寺記によると彼は甘利昌忠の三男で父昌忠を永禄十年に喪い、後年天正十八年(1590)に甘利氏の館跡に開基を父昌忠として大輪寺を創建したと伝わります。ただ実際行って見てみると、屋敷跡とはいうものの素人が見た限りでは何がどうなっているのかよくわかりませんね・・・。しかしYahoo!地図などの航空写真をみると方形の区画がわかります。また、大輪寺周辺には北門・的場などの地名が残っているそうです。1989年に大輪寺東側を調査した際には、礎石のある建物跡・16世紀中頃の天目茶碗などが発掘され、武士などの有力な人物が住んでいた跡であろうと考えられています。そのことなどから、甘利氏館跡の可能性がかなり高いと考えられています。

<甘利左衛門尉昌忠墓所>本堂裏の墓地にいくと、比較的目立つ場所に甘利昌忠・慶受院日国聖人のお墓があります。同じような石碑のうち、向かって左が昌忠、右が日国となります。亡くなった当時のお墓ではないのですが、いざ対面するとなんともすばらしい時間を過ごすことができますね。

墓所写真

 

左写真:甘利昌忠墓(法名・大輪寺伝日作大居士)・右写真:慶受院日国墓

周辺の甲斐武田氏関係地:扇平山城・武田八幡神社願成寺竜岡将棋頭など

参考文献など:甲斐国社記寺記・戦国遺文武田氏編・山梨県史資料編・新編武田信玄のすべて・武田一族のすべて・山梨県埋蔵文化財センターHP他

<2006/8/11 2010/2/7リニューアル>