甲斐武田を探検っ!!

       立石

 

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史跡・関係地名:立石

住所:山梨県中央市関原

場所のわかりやすさ:△

駐車場:○(すぐ横の公園にどうぞ)

説明板:×

売店:×

地図:

 

関係人物:三枝虎吉・三枝守吉など

<とある言い伝え>丘陵上にあるの農道三叉路に建つ自然石。これはなんでしょう?特に何かが刻まれているわけでもなく、高さは87cm、幅44cm、奥行23cmと「豊富村の石造物」には記載されています。地元では立石(たていし)と呼ばれ、ある言い伝えが残されています。

 

三枝虎吉菩提寺である三星院はかつて三枝院といい、場所も今と違い山の麓にありました。家臣から「若殿さま」と呼ばれていた三枝虎吉の子孫某は様々な教養を身につけるため、屋敷から三枝院まで毎日通っていました。屋敷からお寺まではいつも家臣が送り迎えをしていました。しかし、徐々に若殿もその道に慣れてきたので送り迎えも中間の丘までということになりました。家臣は丘の上から若殿さまがお寺に入っていくまで見届けていたのですが、徐々に怠けるようになり、家臣は辺りに転がっていた石を丘の上に建てました。その石は遠くから見るとあたかも人が立っているいるように見えたため、若殿さまも安心して、そして怠けることなくお寺にむかっていったといいます。

 

そのような言い伝えの残る石でした。今はすぐ横に大きな公園がありますが、かつては畑?もしくは荒地であったのでしょうね。

 

旧三枝院側(山側)から丘を登っていくと三叉路がありますが、これを右に行き、道なりに進んでいくと三枝氏屋敷跡、三星院にたどり着きます。もちろん今は舗装され道幅も広くなっており自動車も通行可能となっています。また、若殿さまがお寺に向かって下った道があり、そこは「殿坂」と呼ばれているのだとか。

<妄想タイム>中央市(旧豊富村)の丘陵上にある「立石」。図書館で調べ漠然とむかってしまったので、まるでわからず右往左往しましたが、何とか直感を元にたどり着きました。関原地区と木原地区の境、丘陵上の現在大きな公園となっているすぐ北東でした。

言い伝えであろうと伝説であろうと武田家重臣三枝虎吉が絡んでるとなるとウキウキしてきます。三枝虎吉の子孫というと誰なのでしょうか?せめて年代を特定できないか?妄想を膨らませると・・・。子孫というくらいですから虎吉の子ではないのでしょうね、きっと。さらに三枝氏、天正十年(1582)武田家滅亡後は徳川家に属し、この地から離れるので年代は限られてきますね。甲斐国志などをチョット調べますと、当てはまるのは虎吉の孫で、三枝昌貞(守友)の子、守吉。慶安三年(1650)に77歳で死去したと伝わる人物。昌貞が設楽原(長篠)で討死した後は隠居していた虎吉とともにいたと思われ、武田家滅亡時は虎吉とともに家康に拝謁したと伝わっています。三枝虎吉屋敷にいた頃の武田家滅亡前の天正年間は10歳にも満たない、一人でお出かけさせるにはチョット不安なお年頃。いい感じではないでしょうか?うーん。なかなか楽しい妄想ができました(笑)・・・そう考えていくと、お供の怠けた家臣は誰でしょう?守吉の母は向山三河守の娘と伝わりますので、ひょっとしたら向山の関係か?・・・などなどと妄想は終わらなくなります。

<御礼>ちょうど「立石」のある畑で作業していたおばあちゃんと、とても楽しく話をする事ができました。「私なんか全然知らんだよ」なんて言いながら、結構な知識と貴重な地元証言!ありがとうございました!!

周辺の甲斐武田氏関係地:三星院三枝土佐守虎吉屋敷跡など

参考文献など:豊富村の石造物・三枝氏の足跡を訪ねて/豊富村教育委員会・甲斐国志など

<2011/10/10>