甲斐武田を探検っ!!

 

歓盛院

 

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中央市下三条地区の曹洞宗、富田山歓盛院(ふでんいんかんせいいん)。寺記によると建久五年(1194)、甲斐源氏でこの地域の大きな支配勢力であった秋山光朝により真言宗、金華山光照寺としてひらかれます。その後文明十年(1478)曹洞宗、歓盛院となり、富田(とだ)対馬守範良の保護を受けました。

富田対馬守範良は甲府盆地西部に勢力を持ち、武田信虎などと抗争を繰り広げた大井氏に仕えた人物。詳しい研究はこれからの人物なのですが、信虎の時代には「富田城」という城が登場します。永正十二年(1515)十月、武田信虎は大井氏の居城を攻めるが深田に馬の足をとられ大敗(勝山記)。また、大永元年(1521)九月十六日、甲斐に乱入した今川勢により富田城が落とされたとの記録(塩山向嶽禅庵小年代記・高白斎記)も残され、さらに同年十一月二十三日、甲斐府中に近い上条河原にて武田軍に敗れた今川勢は富田城に撤退(塩山向嶽禅庵小年代記)、翌大永二年(1522)一月十四日には今川勢は城を駿河に帰っています。永正十二年の記述、「深田」から大井氏は上野城ではなく富田城におり、詰城として上野城があったのでは・・・といわれ、最近ではこの説が有力とされているようです。

その富田城は度重なる水害などにより所在地ははっきりしていません、現甲西工業団地付近であろうとは言われています。富田氏は富田城に大きく関係していたと考えられており、またこの歓盛院も山号「富田山」からも富田氏、さらには大井氏との関係が指摘されています。

富田範良は大永四年(1524)八月二十四日に死去、法名は栄山歓盛居士です。寺内墓地には「鷹野氏先祖、歓盛院殿昌翁常繁庵主」の石碑(右上写真)があり、没年元和九年(1623)四月十九日と記されています。この法名が富田範良だとも言われ位牌もあるようですが、どうなのでしょうか?マダマダ調べてみます。

墓地内をチョット散策すると、真新しいのですが望月家のものが。側面に少し説明があり「甲斐望月家 始祖武田信繁三男望月太郎 先祖望月遠江守信雅」とあります。天正三年(1575)長篠で討死した望月左衛門尉がご先祖様のようです。

甲府盆地西部は特に水害の多かった地域で、史料なども多く残されておらず、また史跡なども多くが土砂に埋没しているようです。いつか偶然でも様々なものが発見され、未だほとんど解明されていない「西郡」の歴史が少しでも紐解かれることを願っています!

 <2009/6/21>