<6> 疑惑 (2)

 

 昼までに花壇の場所は、恭介の手で奇麗に掘り起こされた。

 後は肥料を埋め込んで、薔薇の苗木を植えるだけだと、自分の起こした後を見ながら、肩で息を吐いた。

 起こされた土は、やっと目覚めたかのように、まだ湿っていて荒い塊のまま、陽射しに晒されている。

 でも、その柔らかさは、恭介の靴跡をくっきり残して、苗を植えられるのを待ってるようだ。

 黒い土を見ながら、これなら薔薇も喜ぶと、恭介は塊を足で踏み崩した。

「恭介さん、はい」

 と、背後で真帆が声を掛けた。スコップを土に差したままで振り向くと、お絞りを差し出して、にっこり微笑んでいた。

「喉、渇いたでしょ? 休憩しましょう。冷たい飲み物入れるわ」

「有難う。そうだね。後は肥料を入れるだけ出し。ここから西側は、明日に遣ろう」

「そうですね。思ったより早く出来そう。恭介さんのお陰で」

 真帆は、屈託ない笑顔を恭介に向けた。彼は、顔の汗を拭いながら、照れ臭そうに笑い返した。

 リビングに続く縁側に腰掛けた恭介に、真帆が氷の浮いた炭酸水のグラスを手渡した。彼はそれを片手で掴み、そのまま口元へ運んだ。

「美味い!」

 と、一言言って、真帆に笑いかける。真帆はふっと笑みを零す。

 そして黙って、恭介が腰掛けている隣へ腰を下ろした。

 二人で並んで、まだ土が起こされただけの色のない庭を、何も語らずに見つめた。

 お互いに、薔薇の木が根付き、色とりどりに花を咲かせる様子を思い浮かべながら……。

 そして、その様子を、こうしてまた二人一緒に見たいと思った。薔薇の木が育って緑に覆われて、きっと、それは言葉に出来ないほど美しい庭の景色に違いない。

 恭介は、燦燦と陽光を浴びせる太陽を頭上に見上げながら、ポツリと真帆に言った。

「土いじり、僕に向いているかも知れない。気持ちがゆったりする感じ」

「そう? 慣れないと大変でしょ?」

「いや、大変だとは思わないよ。そうだね、土いじりって、子供の頃に遣った砂遊びと同じ感覚かな。ここにこれから奇麗な薔薇が咲くということは、落とし穴にどんな風に人が落ちるかと言う期待に満ちた気持ちと同じだ。わくわくするね」

 真帆は、途端に声を上げて笑い始めた。

「いやだ。そんないたずら心と同じなんですか? 物静かな恭介さんのイメージが変わりそう」

「物静か? ああ、兄と比べたらおとなしい子供でしたけど、結構悪ガキでしたよ。ただ、兄は小さい時から剣道を遣っていて、僕は一人で絵を描いてるような子だったから、両親も回りも、おとなしい子だと思っていたかも知れない」

 恭介は、子どもの頃の祐介と自分を思い出した。

 彼は幼い時から、いつも優しかった兄の背を追いかけて育ってきた。 

「この庭に、父が僕らのために向かい合って座れるブランコを買ってくれたんです。僕がまだ、幼稚園くらいかな。それが楽しくってね。毎日、兄の帰りを待ちました。兄が、ぐんぐんこいでくれるんですよ。1回転するくらい……。ところが、それが度を越えちゃって、ついに僕が振り落とされたんです」

「ええ? そんな、大丈夫だったんですか?」

「ははは、大丈夫じゃないですよ。でも巧くブランコから離れて落ちたので、頭を切ったのと、落ちた時支えた腕を骨折したくらいで済みましたけど」

 驚いて見つめる真帆を気にしながら、恭介は、懐かしい遠くを見るような目で話を続けた。

「兄は『お兄ちゃんでしょ』と、散々にしかれていました。僕がもっとと喜ぶからこいだんですけどね。僕は、即入院したんです。そしたら、兄がね、毎日毎日、学校が終わると病室にくるんです。僕が退屈しているだろうからって……一ヶ月間。まだ2年生ですよ……兄貴……」

 真帆は、沈黙したまま俯いた。祐介の話を聞いている顔から、次第に色が失われていく。

「僕達は……それからも……ずっと、仲の良い兄弟でした。……兄は本当に優しい人だった」

 恭介は、真帆の小刻みに震える肩を見ながら、呟くように言った。

「真帆さん……。兄が許せなかったんですね……」

 恭介の虚ろな暗い瞳が真帆を見つめた。その目尻から、すうっと一滴涙が流れた。

 凍りついた真帆の瞳が、恭介を貼り付いた様に見つめる。脅えるように唇が震えている……。

「私……、私……! ごめんなさい……!」

 真帆が突然、頭を抱え込み、激しく振った。苦痛に歪んだ顔が、搾り出すようにうめき声を上げる。

 恭介は無言で、真帆の泣き叫ぶ様子を見ていた。その目は冷ややかだった。

「祐介は……、死んだの! 私が……紅茶に薬を……」

 真帆は叫んで、息を詰まらせた。蒼白の顔に、恐怖以外映していない瞳が、憐れな位に見開かれている。

「ううっ!……」

 うつ伏した彼女の、髪が解けて肩を覆うように広がった。真帆の手は、床に爪を立てるように、強く握り締められている。

 恭介はその取り乱した様子を静かに見つめていた。驚く事も罵る事も庇う事もなく、ただ表情を変えずに見つめている。

 そして、穏やかな声で、真帆に囁いた。

「確かめたんですか? 死んでいるのを……」

 真帆は、その声にびくっと体を震わせた。

「倒れて……兄の絶命するのを見ていたのですか?」

 真帆は、少し顔を上げ、息を止め嗚咽を飲み込んだ。

「わ、私……、確かめるだなんて……。飛び出してしまって……この家を……。く、苦しんで動かなくなった祐介を、置き去りにして……、私……」

 恭介は、冷静な面持ちで真帆の言葉を聞いていた。

「メ……メールが……。夕べ……、祐介からメールが来ました……。式の前に死んだと思っていたのに……」

 脅えたように震える真帆の声は、途切れ途切れに口をついて出る。

「確かめたくて……、朝……来たら、祐介は……いなかった……どこにも……どこにも!」

「真帆さん……。兄貴の最後は確かめていないんですね?」

 そう言って、恭介は真帆の肩を抱き起こした。

「はい……。朝、倒れていた部屋を見に行ったら、祐介はいなかった……。恭介さん! 祐介は……どこに……?」

 涙を頬に溢れさせて、脅えた目で恭介を見た。教えを請うように、すがり付いてくる視線に、恭介は戸惑った。

 冷静さを取り戻すように、ゆっくりと息をついて、恭介は小さな声で真帆に答えた。

「兄貴は……、出て行きました……。もう貴女の前には二度と現われない……」

「祐介は……生きているの?……」

 おそるおそる、祈るように真帆は蒼白の顔を向ける。痛々しい脅えた表情の真帆が、恭介の胸をえぐる。

 真帆を、彼はそっと抱きしめた。自分の胸に真帆の頭を押し付けるように、しっかり髪に手を入れて。

 真帆は、全身から力が抜けていったように、恭介の胸に体を預ける。そして苦渋に満ちた表情で堅く目を閉じて、彼は答えた。

「だから……、出て行ったんです。この家から。貴女の前から……」 

「ああ! 神様!」

 恭介の腕の中で叫ぶと、天を仰ぐように顔を上げ、途端に頬に涙を零した。まるで奇蹟を目の当たりにして、感謝の言葉を捧げるしもべのように、「神様」と何度も呟き、はらはらと涙を零した。その顔は、安堵した表情に変わり、嗚咽を漏らしながら、恭介の胸に縋る。

 恭介は、そんな真帆の耳元で、小さく囁いた。

「兄貴のことは、もう忘れましょう……。貴女が悪いんじゃない! 許されないのは兄貴の方だ」

 真帆を強く抱き締めながら、恭介の顔は暗く沈んでいた。

 

 静かだった。

 まだ若葉をやっとつけはじめた落葉樹の、枝をすり抜けるように、ゆっくりと流れてゆく風の音以外聞こえない。

 真帆は一頻り泣くと、まだ涙を溜めたままの瞳で、片付いた庭をぼんやり見ていた。

 薔薇が根付けば、初夏には美しい花が咲く。

 本当にその花をここで見ることが出来るのだろうか……と真帆は、ゆっくり庭に視線を巡らせる。

 その気持ちを察したように、恭介は腕の中の真帆に囁く。

「二人で、薔薇が咲いたらこうして見よう」

「恭介さん……」

 彼は優しく微笑んで、もう一度抱く手を強めた。

「私は……本当に許されるの……?」

 恭介の腕の中で、真帆が消えそうな声で尋ねた。

「いいですか、今までの苦しい事は全て忘れて。貴女は何もしていない。兄貴は本当に出て行ったんだから、許すも許されるもない」

「あ、ありがとう……恭介さん」

 真帆は体中から、苦しみを吐き出すように大きく息をつき、恭介の言葉に静かに目を閉じた。

 祐介が苦しみもがく姿を、凍りついたように見たあの時間から今日までの地獄の日々が、全て消し去られたのだ。

「生きていてはいけないと……、あれからずっと思っていました。罪を償うのは当然なのに、勇気が出なかった。彼が来ないとわかっていて、式を挙げようとしたなんて、自分が恐ろしい……」

 真帆は、顔を歪めて身を竦めるように背を丸めた。

 この細い体に、耐え切れない罪を背負っていたのだと、恭介は思わず手に力を篭めた。彼女はきっと命を絶っていただろう。この家で、再び祐介の亡骸を見れば、間違いなく死を選んでいただろう。壊れてしまった祐介との関係を誰に打ち明けることもなく、希望に満ち溢れていた筈のこの家で……。

 亡骸になった真帆を、自分はどんな目で見たのだろう。兄の裏切りを知っている自分は、祐介を心底恨んだだろう。恭介は、既に真帆に想いを寄せている自分に気付いている。

 失いたくない……と、唇を噛んだ。真帆に生きていて欲しいと、そのためなら何でもすると……、それはもう懇願するような気持ちだった。

「僕は、貴女が好きです……」

「恭介さん……」

 静かな窓辺で呟かれた言葉に、瞬間、真帆の体が強張り、頬をつけていた胸から離れ、恭介の顔を見上げた。恭介はゆっくりと腕を解くと、真帆から顔を逸らすように目を閉じた。

「こんな時に打ち明けるべきではないと思うけど……、何があっても、死ぬなんて言葉を聞かせないで欲しい。貴女に初めて会ったときから、ずっと憧れていました。何度も……、こうして抱き締めたいと思っていた。兄貴がいなくなって、突然こんなことを言うのは卑怯だと思うけど、貴女に何かあったら、悲しむ人間がいることを知って欲しい……」

 真帆は、戸惑う心を露にして、恭介の胸から離れた。思いも寄らない告白に、動揺している。

「恭介さん……。それ以上は言わないで……。私のことに、貴方を巻き込みたくない。お兄さんを殺していたかも知れない人間に、そんなこと言ってはだめです」

「真帆さん……」

 恭介が、目を細めて、辛そうに真帆を見た。真帆は彼から顔を逸らしたままで、明るい庭に視線を向け、呟くように言った。

「私は、祐介に裏切られても、これからも愛していくつもりです。そうしないと、生きていけない……」

 庭から、吹き込んだ風が、真帆の長い髪を揺らした。黙って庭を見つめる彼女を、恭介は愛おしそうに見つめた。

「分っています。貴方がこの先、幸せになるのだったら、僕はどうこうしようなんて思っていません。ただ、ここに薔薇を植えるまで、そばにいたい。貴女が立ち直ってくれたら、忘れますから」

 真帆は、彼の言葉に、振り向いた。恭介は、ただ微笑んで、彼女を見ていた。

「有難う……。大丈夫です……。しっかり生きてゆきますから。でも、しばらくの間だけ、甘えてもいいですか? ここで答えを見つけられる間だけ……」

 恭介は、少し照れたように頬を緩ませて、笑いかけた。そして、真帆に「はい」と答えた。

 祐介の去った後、真帆にはこれからどうして生きてゆくべきか、心を決めねばならないことがあった。大河内の人たちには知られたくないこと……。たとえ、彼が永遠にこの家に戻ってこないとしても、真帆はここで彼を待つしかないと思っていた。

 恭介を、自分のことで悩ませることだけはしたくない。これ以上、彼に関わって生きてはいけない。それだけは、はっきりと決心していた。

 でも、「薔薇を植える間だけ」と言った彼の言葉が、一瞬、真帆に思わぬ喜びをくれた。恭介の告白を聞いて、冷え切った心が、小さい炎がついたように暖かくなった。

 少しの間だけ……。二人は、荒れた庭を見つめた。吹き込んでくる春の優しい風に、体を包まれながら。

 

 

 その時、恭介のケータイが彼の脱いだ上着のポケットで鳴った。

「誰だろ」

 と、真帆に視線を向けながら、恭介はケータイを取り出す。

「……お袋からだ……」

 真帆は驚いたが、恭介は平然とした顔をして話し始めた。

 ケータイの向こうの母は、甲高い声を上げ怒っていた。恭介は、参ったという顔をして、頭を掻いた。

――――「恭介! 貴方、どこにいるの! 夕べは帰ってこないし、連絡も取れないし、どんなに心配したと思っているの!」

 「ああ、悪かった。夕べは大学の俺の部屋に戻っていたんだ。急いでやりたい事があったから。ごめん。昨日はケータイ切ったままだったな」

――――「今日、学校行かなかったでしょ? さっき同僚の先生が具合はどうかって電話くれたわよ。一体どうしたっていうの!」

 「だから、どうしても大学の関係で用が出来たんだって。学校には病欠って届けておいたから。で、口裏合わせておいてくれた?」

――――「ホントに、学生のずる休みじゃないんだから! 病気で死に掛けてるっていっときましたよ」

 「はは、じゃあ、明日は瀕死の状態で行かなきゃあいけないな」

――――「笑いごとですか! 本当に貴方まで、連絡もなくいなくなったら、母さんどうしたらいいのよ……。祐介のことで、頭はいっぱいなのに……」

  ケータイの向こうで、母が声を詰まらせた。恭介は心配をかけたことを後悔して溜息を吐いた。何も知らない母が悲しい……。

 「ごめん。心配かけた……。何もないから……」

――――「それと恭介。また、ドイツの女の人から電話があったの。連絡が欲しいって。至急に」

 「え? そうか……。解かった、とにかく今から帰るよ」

 

 ドイツからの電話……。恭介は途端に気持ちが重くなった。真帆が彼女の名をを聞けば、また取り乱すだろう。

 とにかく、風見香織を納得させなければ……。

 ケータイを切りながら、真帆を見る。 彼女は、帰ると言う言葉に振り向いて、淋しそうな表情に変わった。

「お袋が帰れとうるさい。とりあえず顔を見せてきます。兄の失踪があってから、お袋も普通の精神状態じゃないので、心配だから。大丈夫……ですね? 真帆さん、貴女は」

「はい。私は大丈夫……。貴方のお陰です」

「真帆さん……」

 恭介は、リビングのテーブルを背に、淋しく佇む真帆をもう一度抱きしめた。真帆は一瞬、体を堅くしたが、そのまま彼の胸に体を預けてきた。

「本当にもう、忘れて……兄貴のことは。悲しい事は考えないで……。明日、また来ますから」

 優しい囁きが、心の底へ落ちる。真帆は、頬を赤く染めて、こくりと頷いた。甘えてはいけない人だと思っても、深く傷ついた心にを恭介の微笑みは眩しい。

 恭介は、真帆に見送られて、家を立ち去った。

 

 一人になると、祐介が死んでいなかったという喜びは、涙になって頬に溢れた。

 悪魔にならなかった。まだ、人として生きてゆける! 

 祐介が自分を捨てたとしても、そんなことは些細な苦しみだと思えるほど、真帆の喜びは大きかった。生きていてくれただけで良いと、感謝した。

 真帆は、ソファにゆったりと座り、両手で自分の腹部を抱えるように押さえた。

「私は生きてゆける。一人でも……」

 静かに目を閉じ、喜びに酔いしれた。

 

目次ページ>