第六話 疑惑

 

 テーブルについて、微笑む恭介に紅茶を満たしたカップを差し出した。

 恭介は、真帆と向かい合った席で、「ありがとう」と言って、カップを手に取った。

 楽しむように紅茶を揺らしながら、ゆっくりとティカップを口元へ運んだ。

 その様子を見ながら、真帆は、自分のカップにも紅茶を注ぎ、ポツリと恭介に尋ねた。

「何故、ここへ?」

 恭介が一瞬、手を止めたのを見て、彼を探るように再び訊いた。

「何故来たんです? お仕事休んでまで、ここへ。何のために? まさか本当に薔薇を植えるためだなんて、思えないですけど」

「薔薇を植えるためですよ」

 恭介は、間髪いれずに硬い表情で答えた。

「薔薇を植えるためです。この家の庭には、小さい時、それはたくさんの薔薇が植えてありました。母が結婚当時から育てて増やしていったものなんですが、子供ながらにその美しさに見惚れていた。兄も今の淋しい庭を見たら、きっと薔薇を植えると言ったと思いますよ。たとえ、兄が戻ってこなくても、真帆さんがここで暮らさなくなっても、植えようと思いました。この家には僕も愛着がありますから」

 そう言って、真剣な顔で真帆を見つめた。

 真帆は返事をしないで、恭介の視線を逸らすように紅茶のカップに口をつけた。恭介は、真帆の様子にお構いなしに続ける。

「でも、貴女が戻ってくれて良かった。母から聞きました。ここでしばらく住んでくれるって……。兄の事を許してくれたわけではないと思いますが、僕や両親とすぐに縁を切ると言われると思っていたので、内心嬉しかったです」

「嬉しかった」という言葉に、真帆は恭介を見た。

 そして、穏やかに笑っている彼に躊躇った。

 祐介の事を問いただされても仕方ないのに、彼は何も訊いては来ない……。仕事を放り出して遣ってきたのは、祐介の行方を知りたいからだろう。

 だけど、こうして、真帆の前で何もなかったように微笑んでいる。

 やはり、この人は何も知らないのだ……と、真帆は、安堵した。

 

 でも、ホッとするのと同時に、激しく罪の重さに苛まれた。

 もし、今、強く彼に祐介の事を訊かれたら、全てを打ち明けてしまうだろう。責められても隠し通すほど、真帆はしたたかな女にはなれない。

 この穏やかな恭介との時間を、後悔と苦悩の時に変える事は至極簡単な事だ。心が今も、引き裂かれるほど痛む。

 

 でも……祐介はどこへ? ――――思い起こした光景に、真帆は身震いした。確かに彼は、書斎の床にに倒れた。その祐介を置き去りにして、何事もなかったように出て行ったのは自分自身だ。彼の死を確認したわけではない。でも、あの苦しみようは、命に関わる状況だったに違いない。

 あの時、祐介は……死んでいなかったのか?  

 再び繰り返して、記憶を呼び起こす。あの時の祐介の姿……!

 突然、体に戦慄が走る。血の気の引いた蒼白の顔で、呆然と宙を見る。あの日の場面が脳裏に現われ、心を麻痺させる。その場面の中に立ち尽くす、悪魔のような自分に体が震えてきた。

「真帆さん? どうしたの? 気分でも悪いの?」

 恭介の言葉に、ハッと我に返った。彼は、只ならぬ真帆の様子を心配そうに見つめている。

「あ、ごめんなさい。ちょっと疲れてしまって……」

「大丈夫ですか? あの、悪かったです。突然遣ってきて……。休んでください。僕は帰りますから」

「あっ、駄目! 帰らないで! 今日はいてください!」

 真帆は、立ち上がろうとした恭介に叫んだ。咄嗟に出た言葉に自分でも驚いて、口元を指で押さえた。

 恭介は、ふっと笑顔になって、優しく真帆を見て答えた。

「はい、解りました。そうします」

 上気する頬に手を当てながら、恭介を困惑して見つめた。

 彼の優しい視線から目を逸らせて、でもそれを体中に受けて、心が平生を取り戻してゆくのを感じていた。

 

 夢だったのかも知れない――――と、真帆の心の中に、はじめて一条の光が差し込んできた。闇のように底のない苦悩の渦が、悪夢だと

 あの恐ろしい時間は、全て夢の中の出来事だったと、そう信じてしまっても許されるのか……?

 祐介が、生きていて、昨夜のあのメールを送ってきたのだとしたら、全てつじつまが合う。

 生きているのかもしれない――真帆は、顔を上げた。

 

 薔薇を植えよう。

 その間だけでも、そう信じてみよう。夢なら、夢を見てみよう。結末がどうなったとしても、甘んじて受ける覚悟は出来ている。

 祐介の妻として、ここで少しの間だけでも生きてみたい。これが、あの結婚式を挙げた真帆の唯一の望みだった。

 真帆は、左手の甲を広げ、じっと薬指の指輪を見つめた。七年間、この指輪を嵌めるために時を重ねた。

 やっと、手にした証。見つめているだけで、胸が熱くなる。

 涙が溢れそうになり、唇を噛んだ。そして歪んだ視界から隠すように、左手を握って右手で包んだ。

 

 恭介は、真帆を黙って見つめていた。

 冷静にいられるはずはない。真帆が苦しんでいるのは解かる。

 結婚式で自分が嵌めた指輪をうっとりと見て、涙を堪えている彼女を見つめながら、自分のここへ来た目的を忘れようと思っていた。

 取り乱して、「祐介」と叫びながら玄関に現れた真帆。暗い表情で、脅えてた目を向ける彼女を責めてどうなる……。全ては起こってしまったのだ。もう時間を戻す事など出来ない。

 恭介は、美しい花が描かれたカップをゆっくりソーサーに戻した。

 彼女は間違いなく兄を愛している。今でも……。そして、待っている。

 そう思うと、自分の遣ったことは間違いではないのかと、自ら問いたださずにはいられなかった。

 窓の外の荒れた庭を見つめる真帆を嫌な汗をジワリと体に掻いて、恭介は、瞼に浮かんできた光景に顔を歪めた。

 それはあまりに凄惨で、そして悲しい場面だった。ここで冷静に振舞っている自分が、恐ろしくなってくる。

 恭介は、あの時、実の兄より真帆を選んだ。真帆をこれ以上悲しい目に遭わせたくなかった。

 どうしてこんな事に! ――――いや、理由などわかっている。兄はそれ以上の罪を犯したのだ。

 真帆を救えるのは自分しかいない――――恭介は拳を握り、唇を噛み締めた。

「恭介さん」

「え?」

 真帆の声に、顔を向ける。真帆は、目に今にも零れそうな程涙を溜めて、それでも無理やりに微笑んで、恭介を見つめていた。

「私も、薔薇を植えて庭の手入れをしたいと、ここへ戻ってきたんです」

「真帆さん……」

「ここにお義父さんにつれられてはじめて来た時、祐介も貴方と同じことを言いました。薔薇を植えないか、二人で……と。だから、一人でも、庭に薔薇を植えるつもりでした」

 真帆の表情は穏やかだった。長い髪を肩にたらして、小さい口元に笑みを湛えながら黒い瞳を優しく細める。

 恭介はこくりと頷き、黙ったまま、窓から見える淋しい庭に目を向けた。

「ここにいっぱい薔薇が咲いたら、素敵でしょうね」

 と、真帆は立ち上がって、庭に続くガラス戸を開け放った。

 南に向いた庭から、暖かな風がふわりと吹き込んでくる。

 ガラス戸に軽くもたれかけて立つ真帆に風が纏わりつくように、背中の中ほどまである柔らかいストレートの髪をサラサラとなびかせる。

 襟ぐりの開いた白いシャツと生成りのパンツの真帆の後姿を、恭介は眩しそうに見つめた。肢体に細身のシャツがすっきりと体の線を表して、細い腰には茶色のベルトが巻きついている。

 高校生だった自分が見ていた真帆は控えめで素朴な美しさだったが、5年たった今、艶(あで)やかで、しっとりとした大人の女の美しさを身に纏っている。時々覗かせる凛とした表情には近寄りがたい強さも感じる。

 5年ぶりの再会に、彼女に関わってしまった事を後悔したくはない。いや、いずれは後悔と苦悩に満ちた日々が、訪れるかも知れない。

 でも、今は、一人にしておけない。恭介は、兄の恋人として引き合わされた瞬間から、抱いてしまった甘い疼きを、再び感じている自分に苦笑した。

 真帆の涙を見なければ、そんな想いなど封じ込める自信はあった。兄の元で幸せな笑顔を浮かべていれば、きっと義姉として接していただろうと思う。

『初恋』などというものは、手に入れば興ざめしてしまう、愛とは呼べない幼い感情の昂ぶりだと思っている。だから、儚く美しい思い出に変わる。

 恭介も再会するまで、それを望んでいた。彼にとって、年上の大学生だった真帆は、『初恋の人』として、様々な記憶の中の1つに変わろうとしていた。

「この人には、ピンクの薔薇が似合う」

 真帆を見つめながら、恭介はゆっくり立ち上がると、窓辺へ近づいて行った。

「薔薇の花言葉を知ってますか?」

 と、真帆の横に立って、庭を見ながら、語りかけた。

 真帆は、恭介の横顔を見上げて、「いいえ」と軽く首を振る。

 恭介も庭を見ながら、少しはにかんで話し出した。

「薔薇はどの色にも愛にまつわる花言葉が付いているんです。でも色によって、その激しさが違ってくる。赤は勿論、官能的な『情熱の愛』、白は純粋な『無償の愛』、そしてその中間がピンクのバラで『感銘』……つまりは友愛や、尊敬の気持ちに感じる気高い愛といったところですね」

「へえ、良くご存知ね。驚きました」

 と、真帆は明るい笑顔を向けて言った。

「いや、母の受け売りです。今でも、母は薔薇を好きですから、何でもよく知っています」

 と、恭介は照れたように前髪を掻き揚げて、苦笑いして言った。

「私、黄色の薔薇の花言葉は知っていますよ」

 真帆は、殺風景な庭をまた見ながら、笑顔を消して小さな声で呟く。

「黄色の薔薇ですか?」

「ええ。花言葉は、『嫉妬』って言うんです。何だか、黄色の薔薇を送られても嬉しくないっていう感じでしょう」

 恭介は、黙って彼女の沈んでゆく横顔を見つめた。

「今の私には、一番似合う薔薇ですけど」

 風が真帆の髪を後ろへ撫で付けた。

 一瞬にして淋しい表情に変わった真帆を、抱きすくめてしまいたい衝動に駆られた。

 しかし、そうしたところで、何が変わると言うわけではないと、恭介は思い止まるように両手をにぎり締めた。

 真帆にとって、恭介との関係など、兄を挟んで向かい合っているだけのささやかなもの。恭介は自分がどう関わろうと、兄を消す事は出来ないとわかっている。 

 大きく外気を吸い込むように深呼吸すると、明るく真帆に言った。

「真帆さん、庭の手入れを始めましょうか。折角のズル休みが無駄になってしまう」

「ふふ、本当ですね。じゃあ、宜しくお願いします」

 真帆はそう言って、恭介に頭を下げた。

 庭は荒れ放題で、花壇だった跡は雑草が芽吹いている。所々に残る植木以外、美しかった庭の跡などどこにもない。

 真帆は途方にくれる様に溜息を零した。

「冬の間に土を起こしておけば良かったんですけど、そんな気分にならなくって。土も痩せてますね」

「今日は土を返して、肥料を入れましょうか。苗木は、また分けて貰ってきますから、その後で植えましょう」

「じゃあ、肥料買ってこないと……」

 真帆はそう呟いて、荒れた庭を見回した。

「あ、肥料なら油粕をついでに仕入れてきたから、大丈夫。車のトランクにあります」

「え? ほんとに? 良かった。じゃあ、今日のうちに植える準備が出来ますね」

 真帆が楽しそうに笑う顔を見て、恭介はほっとした。

「あ、待って。手袋と道具を取ってくるから」

 シャツの袖を捲り上げようとしている恭介にそう言って、慌てて駆け出した。彼は微笑みながら、真帆の姿を追う。

 二人で始めることを、彼女も楽しんでいると思うと、思わず笑みがこぼれた。

 

 真帆は、道具を抱えて、家から出てきた。

 そして、恭介に笑いかけ、重そうにしながら歩いてきた。

 ところが、急に足を止めた。

「真帆さん?」

 恭介が怪訝な顔で近づくと、困惑した表情で庭の1箇所をじっと見つめている。

「どうかしましたか?」

 真帆は、その場所を見つめたままで、恭介にポツリと言った。

「変なの……。あの植木の根元……、土が掘り起こされている」

「え?」

 庭の外れの植木が大きく成長した根元は、土の色が変わっている。2メートルほどの範囲だけ、黒い土に変わっていた。

「誰かが、掘り返したんだわ」

 真帆が立ちすくんだまま、脅えるようにその場所を見つめている。

 恭介は、言葉を閉じ硬い表情で、木の陰になったそこを見た。

「親父が……」

 恭介が、その場所に視線を向けたままで、眉根を寄せてポツリと言った。

 真帆は、彼を振り向き、じっと見つめる。

「荒れた庭の話をしてましたから……。来たんだと思います。植木も大きくなりすぎたと気にしてたし。その時掘り返したんだと思いますよ。何なら訊いてみましょうか?」

「あ、いえ。お義父様なら良いんです。鍵もお持ちですから。私も、結婚の準備で忙しくしていて、このところここに来なかったから……。庭だけ手付かずで、きっと気にしてくださったんですね」

 恭介は、真帆が安堵したように笑顔で話すのを聞きながら、その場所を黙ったまま見続けていた。表面の黒い土は乾いて、植木の葉の影に守られるように、陽射しを拒んでいる。

「恭介さん? どうかしました?」

「いえ。さあ、始めましょうか……」

 と、真帆の手から、抱えたスコップを取り上げた。

 真帆は、手袋を受け取る恭介の顔が暗いような気がして、訝しそうにチラッと顔を覗きこむ。

 その視線に気付いて恭介は、ふっと微笑んだ。

 真帆はホッとしながら、仕事を休んでここにいることを気にしているのかと、もう一度尋ねてみた。

「恭介さん、本当に学校の方は大丈夫なんですか? 着任早々にズル休みなんて……」

 彼が仕事を放りだして来てくれたことは、正直に嬉しい。一人でいたら、とても冷静でいられたとは思えない。

 恭介が来たのは、祐介を心配しての事だと解かっている。

 何もなかったように笑顔で接してくれる彼の態度に、困惑しているのも確かだ。

 でも、恭介の微笑は、真帆に今はひとときの安らぎをもたらせてくれる。

「ははは……。一応病欠と言う事で、連絡しましたけど。まあ、ここなら、学校までは車で1時間くらいは掛かるし、隣町だから、まさか生徒に会うようなことは無いでしょう」

 恭介は、屈託なく笑って答えた。

「実家の近くでしょう? 勤務先の中学校は」

「ええ、親の希望で地元の学校を希望しましたから。新米の美術教師だから、クラスも持ってないし、結構暇です。だから、手伝いに来ますよ。奇麗に庭が出来るまで」

「有難う……。申し訳ないと思うけど……、でも、今は本当に嬉しいです。一人じゃない事が……」

 と、真帆は小さな声で言って、恭介に微笑んだ。

「一人になんてしませんよ。僕はいつも貴女の傍にいますから」

 返された彼のまっすぐな視線に躊躇いながら、真帆は胸の高鳴る鼓動に戸惑った。

 恭介は、真帆が一番縋ってはならない祐介の弟だ……その事を思い起こしながら、真帆は青く澄んだ空を見上げた。

 

 桜の花びらがどこかから、風に乗って庭に舞い降りてきた。

 もう桜は日一日と、身を細らすように花びらを散らしていく。黄緑の葉が枝に色を付け始めると、芽吹きの肌寒い春から暖かい新緑の風が薫る頃へと移り変わる。

 堅い土を掘る恭介の額には、汗が流れてくる。

 でも、手を休める事もなく、スコップで深く掘り進んでいく。

 真帆は詰まれたブロック塀沿いに、枯れ草のあとを片付けている。芽吹いている雑草も摘み取っているようだ。

 丸く屈んだ真帆の背中を、恭介は時折見つめた。時たま、枯れ草の中の虫に小さく悲鳴を上げながら、束ねた髪を揺らして、忙しそうに動く背中が愛らしく思えた。

 こうして汗を流していると、時間もゆっくりと流れ、穏やかな気持ちになれる。

 時折、春の太陽に顔を向けると、体中が浄化されてゆくような気になる。ゆっくりと大きく恭介は深呼吸した。

 穏やかな陽射しの中で、土に触れると言う事は、人間の本能の中に喜びとして持っているのかも知れないと、恭介は汗を拭いながら思った。

「きゃあ! これは嫌!」

 突然真帆が、手に持った移植ゴテを投げ出して、後退りした。

「どうかした? 」

 慌てて恭介が近寄ると、

「ごめんなさい! これだけは許して」

 と、顔を背けて指差した。そこには、10センチ程もあるミミズが、真帆の掘り起こした土の中から半分体を出し、苦しそうに身をくねらせる。

 恭介は笑いながらそれを摘んで、自分の手の平に乗せた。

「真帆さん、ミミズがダメだなんて、土に叱られますよ。こいつが沢山いる土ほど良い土なんです。こいつが土の中を蠢く事で自然に土が耕されて、おまけに大食漢のミミズの糞(ふん)は植物に適した団粒構造に一役買います。とっても役に立つ奴なんですよ」

 真帆は、恭介の差し出した手の上のミミズに顔を歪めながら、体を仰け反らせて、無理やりに笑っている。

「流石に先生ですね。よくご存知」

 恭介は、彼女の様子に噴出しながら、ミミズを掘り起こした土の上に戻して、

「先生と言っても理科の先生じゃなくって、僕は美術教師ですけど」

 と、真帆を振り返った。

「あ、そうでした!」

 真帆は明るい顔で笑った。

 何もなかったように……、こうして庭に二人でいることが当然であるかのように、時は流れてゆく。

 時々、「恭介さん」と振り返る真帆に、 恭介は兄の存在など消し去りたいと思った。

 その笑顔こそ自分にとって一番守るべきものだと、恭介は全ての彼女への疑惑を打ち消した。

                         【次話へつづく】

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