第五話 夜の海

  海沿いの二車線だけの狭い道路の左手に、月明りの夜空と境界線をもつ、静かな海が広がっている。

 遠くには船の灯が、宙に浮かんでいるように、波に翻弄されながら揺れている。小さく灯る船の明かりが、キラリキラリと波間に光を放って、闇に煌く宝石のようだ。

 私は、助手席の窓から、月の明りにぼんやりと照らされた暗い海を見つめた。その海は、淋しいけど、とても清らかで澄み切っている気がした。

 浜に沿ってゆるいカーブが続く道路は、街から離れているためか、対向車も少なく、車は滑るように走ってゆく。私と山下君だけが、この海を独占しているような錯覚に囚われる。

「何か聴く?」

 そういって、片手でボックスを開けて、数枚のMDを取り出しながら、

「ビヨンセでいい?」

 と、すっとオーディオに差し込んだ。暗い車内に、オーディオについたオレンジのライトとノリのいいリズム、澄んだ音域の広いボーカル。

 私の体にサウンドが飛び込んでくる。

 山下君は運転をしながら、私に笑いかけた。

 夜の静寂の中を走る車。言葉は要らない。流れてくるフロントビューを黙って見ながら、山下君の隣で、彼の運転する車に身をゆだねる。

 それだけで、とても幸せな気分だった。このまま時間が止まればいいと、もう一度、彼の横顔を見つめた。

 

 曲が終わる頃、家に着いた。

「じゃあ、また明日」

「うん、有難う。おやすみなさい」

 車のテールランプが遠のいていくのを、見えなくなるまで見送った。足が地に着いてないような感じで、気分までふわふわしている。

 ただ送って貰っただけなのに、耳に軽やかな旋律が残ったままだ。

 火照った頬が、夜風に撫でられ、心地良かった。

 

 ****

 

 次の日。

 いつもと同じ一日の始まりなのに、私は落ち着かない。
 山下君の姿ばかり探している。でも、教室のざわめきの中に彼の姿はなかった。
「おはよう!」
 突然後ろから声を掛けられて、慌てて振り向くと、杉君が後ろの机に腰をもたせて立っていた。一瞬、ドキッとしたけど、またからかいに来たんだろう。
「おはよ。杉君か」
「何? ごあいさつだねえ。俺に会えた感動はないのかよォ」

 と、スポーツマンらしいさっぱりした短めの頭に、目線までの前髪を掻きあげながら、ちょっと不愉快そうな顔をした。  
「そ、そんなことより、今日は山下君は一緒じゃないの?」
「え? ああ、病院じゃねーの? 妹の。手術近いって言ってたからな」
「何、手術って? そんなに悪いの?」
 驚いたように早口で訊く私に、杉君は、口を突き出して言った。
「なんだ? 山下に興味あるわけ? お前が?」
「そ、そんなんじゃなくって……山下君も妹さんの事、すごく心配していたから……

  杉君は怒っているかのように口を固く結んで、しばらく黙って私を見た。そして、腕を組むと、硬い表情のままで、冷たく言い放った。

「あいつは駄目だ。諦めろ」
「え?」
 呆気にとられてる私に、それだけ言って背を向けた。そして、ぷいとそのまま後ろの席へ移動して行った。私は訳が解らなくって、ぼんやり彼の後姿を追った。

 でも、その後、杉君は二度と話しかけてこなかった。

 諦めろ――――そんな言葉を、杉君から聞くとは思わなかった。諦めるも何も、まだ山下君とは、友達になりかけたところだ。杉君は、友人の山下君に、私が相応しくないと思って、そういったのかもしれない。 私だって 、そんなことちゃんとわかっている。 ちびで地味で、引っ込み思案……。どう考えてもいい女じゃない。

 

 私の周りには、いつも明るい賑やかさが溢れている。

 何かに開放されたような大学の雰囲気は、時々眩しく感じる。高校時代と見違えるほど、奇麗にお化粧したり、おしゃれしたり。皆、それなりに自己主張して輝いている気がする。

 私もお堅い制服は脱ぎ捨てた筈なのに、心にかかった鍵はなかなか外せない。私が、もしりかさんくらい背があって、美沙みたいに誰とでも話せる性格だったら、この煌びやかな自由な空気を思いっきり吸い込むのに……。いつまでたっても、息を止めたままだ。

 背中に弾んだざわめきを感じながら、一人席について、読みかけの本を開いた。

 

 

 午後の講義が終わり、私はバイト先へ急いだ。

 山下君の事を考えながら、西日を追いかけるように、小走りに歩く。

 妹の手術というのは、どういう事なのか彼に尋ねたかった。昨日、ちらっと山下君が言った時、何故詳しく訊かなかったのか後悔した。大学にも来ていないし、バイトも休むかも知れないと思うと、余計に会いたくなって来る。店長が『あいつも大変なんだ』と言ったことが頭をよぎった

 店では、店長が配達の準備をしていた。
「お疲れさん! 玉子ちゃん、今日も和己は休むって言うから、また一人だけど頼むね。配達済んだら、今日はすぐ戻るから」
「はい……」

やっぱり来ない……。

「あの、店長、山下君の妹さんって病気なんですね? 重いんですか?」
 店長は、切花を選びながら、
「ああ、心臓が悪いらしい。もうすぐ手術だって言ってたから、バイトどころじゃないんだと思うよ」
 と、言った。

「心臓!? 」

 息を呑んだ。まさか、そんなことって……。

 慌しく準備をしている店長の横で、私はぼうっと立ち尽くした。山下君の涙の訳がわかった様な気がする。手術だなんて、安堵できる状態じゃあないのでは……。

 店長が出て行って、ポツンと一人になった。 
 私は店番をしながら、彼が昨夜「一番大事な人」と言った妹が、重い病気と闘っていると思うと、ますます彼に会いたくなった。

 会って何が出来るわけではないが、「大丈夫だよ」って励まして――――いいえ、そうじゃない。「大丈夫だ」と、彼の笑う顔を見て、安心したいのは自分の方だ。苦しくないよ、悲しくないよ、辛くないよ……山下君が心を痛めてないと思いたいのだ。

 ケータイの事が頭を擡げる。教えてもらったケーバンに掛ければ、事情もわかるし声も聞ける。でも、自分から彼に連絡する勇気が無い。私には待つことしか出来なかった。

 日曜日の約束……、まだ確認もしていない……

「今日はご苦労様。じゃあ明日も頼むね」
「はい。失礼します」
 店長に挨拶して店を出た。
 ため息ばかり吐いてる。弱虫で引っ込み思案の性格が嫌いだ。頭の中は彼の事ばかりなのに、ケータイもできない。
 暗い駅への道を今日は一人、浮かない足取りで歩いていた。
 と、駅の改札に長身の男の人が立っているのが見えた。抜きん出て背の高い後姿……
「山下君!」
 私は思わず駆け寄り、声を掛けた。
「タマ、遅いぞ」
 と、振り向いた顔に驚いた。
「杉君!」
「山下でなくて悪かったな」
「なんで、ここに……
「ああ、練習の帰り……。と、いうより、おまえを待ってた」
「え?」
 私は呆然とした。聞き違いかと思ったが、彼は言葉を続けた。
「バイト、山下と一緒だって?」
「え? あ、そう。でも、休みだった。今日は」
「ふうん……で、浮かない顔してんのか」
「そんな事ないよ」
 杉君に落ち込んでる顔を見られた。そう思うと、余計落ち込んだ。とぼとぼと改札を抜けて、彼の後について歩いた。

「ほら、とにかく篠原まで帰るぞ。話があるから」
 電車がホームに滑り込んできた。私はいつの間にか杉君に手を引かれ、走っていた。と、言うより引っ張られて飛んでるみたいだ。階段を一気に上がって、何とか最後尾の車両に乗り込んだが、もう息をするのが精一杯の状態。
「おまえ、相変わらず足遅いなあ」
「あ……はあ……はあ……。体育会系と一緒にしないで……死にかけた……
 杉君は、窓上の荷台につきそうな頭を気にしながら微笑んだ。そして、胸を押さえて喘いでいる私を見下ろして話し掛けた。
「大学に行って、初めて一緒に電車乗るよなあ。講義もほとんど同じなのに、おまえ、俺を避けてんじゃねェか?」」
 そんな事ない……と、返事できなかった。確かに杉君を避けていた。だって、段々と華やかになる彼の周りに、地味な私の居場所など無い。

 思わず俯く私に、彼は黙って一つため息を吐いた。
 私は、話を逸らすように杉君の顔を見上げて尋ねた。一番訊きやすい質問。
「りかさんは帰ったの?」
 杉君は、斜めに私を見下ろして、
「彼女は関係ないねェだろ」
 と、窓に目をやった。確かに関係ないけど、不機嫌な顔をされるとは思わなかった。私ももう話す気分になれなくて、沈黙のままで揺れる電車に身を任せた。
 私達は、お互い空いた席にも座らずに、窓に流れる同じ景色を見ているだけだった。

 

 電車は短い間隔で、4つの駅をクリアし、篠原駅に着いた。  話って何なんだろうと思いながら、彼の高い背中を見て電車から降りた。
 改札に定期券をかざして、無言のまま彼の後に通ると、
「まだ、良いだろ。少し歩こうか」
 と、杉君が振り向いた。
「良いけど……

 杉君は、私に合わせるようにゆっくり歩いてゆく。

 私は、昼間に山下君の事を訊ねた時の彼の怒った様子が頭にこびりついていて、いつものようには話せないでいた。

  彼と二人きり……。駅前の道路を並んで歩いてる影に気付いて、どっきりした。一緒に帰るなんて、思ってもみなかったから。
 私は、右肩に時々触れる彼の腕に戸惑い、離れたりくっついたりして、揺れている。 ちらっと見上げる彼の横顔はやっぱり素敵で、胸が苦しくなった。

 杉君を好きだという気持ちは、妙な緊張感をもたらして、ますます言葉を遠ざける。 
 

 駅前通から浜に続く坂道は、小さな街頭がひとつ灯るだけで、古びた倉庫の塀が続く間は真っ暗だ。
 慣れた道と言っても、足元が見えなくて歩き辛い。途端に小石に乗り上げ、フラッと体が揺れた。

「危ない」

 と、彼の手が腕を掴んだ。そして、その腕から私の手を探し当て、ぎゅっと掴んだ。包んだ大きな手は、少し汗ばんだように暖かい湿り気があった。私は、驚いて彼を見上げた。

「お前、ドジだから、ホントあぶなっかしい!」

 杉君が、手を引っ張って言った。

 真っ暗な中で、お互いの顔は確かめられない。でも、彼から掛けられた言葉が、ずっと前に聞いた言葉と全く同じだった。私は何か可笑しくなって、プッと噴出した。

「なんだよ」

「うん、ごめん。前にもここで同じこと言われたと思って」

「ああ、そうだな。お前が第一志望の大学に落ちた時だろ? あの時は、メソメソ泣きながら歩いていたんだっけ」

 彼は、暗い道を注意深く、私の手を引きながら頷いた。覚えていてくれた事がすごく嬉しくて、体から緊張した、暗い気持ちが薄らいでいった。

「だって、推薦で落ちたんだよ。ものすごいショックだったんだもん」

「話しべたのお前が面接受けるなんて、無謀なことだろう。どう考えても。受かってたら、その大学のレベル、疑っちゃうな」

「ひどいなあ。でも、本当に、あ、うって言ってるうちに、終わっていた」

「バカだよなあ、おまえ」

 彼が鼻で笑って、包んだ手の指を、私の指に組んできた。私は、何だか、不思議に気持ちが穏やかになった。あの時、結果を知った杉君が、泣きじゃくる私を、黙ってここへ連れてきてくれた。傍に座って海を見ていただけだけど、どれ程、それが嬉しかったか……。

 浜の松林が見えて、視界が広がった。遊歩道が浜沿いに通っていて、そこを横切り、階段を降りると篠原の浜が広がっている。

 私は、杉君に手を引かれたまま、ゆっくり階段を降りた。

 しっとりとした夜風に潮の香りが運ばれてくる。夜の海はさざ波の音しかなくて、空気は闇の静寂に覆われているし、空を照らす月は少し欠けて薄っすらとした霞をかぶっている。ここにいるのは間違いなく私と杉君だけだ……
「杉君、よくここを走ってたねえ」
「ああ。俺、バスケバカだったからなあ。お蔭で大学もバスケの強いとこ選んだ」
「そうなんだ。うち、強豪だもんね。でも、なんで文学部に?」
「おまえねえ、それって、なんでジャンプしか読まない、文学なんて全くガラじゃない俺が文学部って可笑しいって、暗に言ってると思うけど」
 と言って、横目で私を見て口を尖らせた。私はあんまり図星だったので肩を竦めた。
「失礼なヤツ! まあ、ほんとのとこ、どこでも良かったんだけど。バスケが出来れば」
 杉君は夜風に乱れた髪を掻きあげながら、照れくさそうに言った。
「しかし、ここの海はいいよなあ。特にまだ人が来ない今の海が好きだなあ」
 彼は、繋いでいた私の手を放すと、伸びをしながら深呼吸した。そして、砂の上に並べられたテトラポットに腰を下ろした。
 私も 微笑みながら、横に座った。
  

 杉君と私は、中学の頃は、もっと近くにいた。彼は、いつも、私のノートをあてにして授業中は寝てばかりいたし、試験の時も良く一緒に勉強した。バスケの試合も彼のお弁当まで作って応援に行ってた……。あのころは、まだ幼かったからか、傍にいてもこんなに胸が苦しくなかった。
 でも高校に入ると、途端に杉君と距離を感じるようになった。彼の周りが賑やかになって、私はいつも蚊帳の外みたいな疎外感を味わっていた。

 きっと、彼が遠く成ったんじゃなくって、臆病な私が彼と距離を置きたかったんだと思う。彼のいる世界はキラキラして、近寄り難かった。

 それでも杉君は、いつも私に話しかけてくれたし、頼りにしてくれた。それを腐れ縁とか言って、変わらない態度で。 友達として、私を気に掛けていてくれたのだろう。私には、それが本当に嬉しかった。 

 大学生になって、杉君はどんどん素敵になった。もう私には手の届かない人だ。
 学部が同じ……今では、それ以外、私と彼を繋ぐものなんてない。杉君も、新しい世界に、私が必要でない事を理解している。時々、見かけて話しかけてくれる。私には、それで十分だ。


「大会、近いんでしょ? この間練習見に行った」
「ホント? 珍しいなあ。おまえ大学に入ってから応援に来たこと無いのに。俺の雄姿に惚れただろう」
「バカ言ってる」
 いつものジョークが交わされる。見に行かないのは、これ以上に彼を好きに成らないため。友達以上恋人未満って誰かが言ってた。でも、私はその言葉にも当てはまらない、ただの腐れ縁。

 ただ、彼にだけは、こうして普通に話が出来る。心がいつも、穏やかになる。私がきっと、彼の優しさを知っているからだろう。一番信頼しているからだろう。

 海を見ていた彼が、じっと私を見た。

「何?」
「髪型、似合ってるよ。見違えた」
 と、照れ臭そうに言って、また海に視線を向けた。
 私は驚いて杉君を見た。彼は優しく微笑んでいた。途端に、心の箍が外れた。押さえていた感情が、爆発したように溢れてきた。
「泣いているのか?」
…………
「おまえ、昔からよく泣いたからなあ……
…………
 こんな些細な事が嬉しい。
 彼と二人でここにいることが、私には辛かった。やっぱり諦めきれない想いが溢れてくる。
 私の涙は、彼にどう思われているんだろう。
 

 杉君は涙の訳を訊かないで、また、海に向かって呟いた。
「タマ……。山下のこと……、好きなのか?」
 私は涙の顔のままで、彼を見た。彼は笑みを消し去り、真っ直ぐの目で私を見ている。細面の輪郭に全てが整った顔立ちが、薄明かりに厳しい表情になった。
「山下が好きなのか」
 二度目に訊かれた時、やっと意味を理解した。そして、彼の次の言葉にひどく困惑した。
「あいつはだめだ。あきらめろ!」
「杉君、どういう事? そんなこと貴方には関係ない」
「解っている。理由は俺の口からは言えない。でも山下を好きになっても、おまえが苦しむだけだ」
 夜風が肌に纏わり付いた。私は夢のようなひとときから、現実に引き戻された。
 杉君から言い放たれた言葉は、私の心を隅々まで壊していく。
 杉君を諦めて、そして山下君まで諦めろというの? 私は山下君に相応しくないという事なの? 相手にされないという事なの?
 
 自分でも解っていたことだ。そんなこと……
 
でも、杉君に腹を立てる気持ちになれなかった。
「ありがとう。心配してくれてんだね、私の事……。解った。大丈夫。好きとかそんなんじゃあない」
「タマ……
「山下君にバイト先でちょっと優しくしてもらったから、嬉しかっただけ。彼みたいな人、私をどーのなんて思わないよ」
 杉君は黙って見つめていた。
 私は、涙の跡を拭い取り、よくしゃべった。杉君が哀れみの言葉を挟まないように……
「なんかね、美沙が彼の事イイっていってたよ。山下君の事。杉君にはりかさんがいるしって。私は、これでも男嫌いで通っているから。杉君が心配しなくても、誰も好きになんかならないもん。バイトだって、山下君とは二回しか一緒に入ってないし。話もあんまりしない。私、自分がチビだから背の低い人が好みなんだ。だって、山下君とじゃあ、並んで歩いたら幼稚園の入学式じゃん」
 自分でも意味の解らないことを並べ立てた。でも私も成長した。喉まで上がってきている嗚咽に堪えて、クダラナイコトを話せるようになったんだから……

 

 私が好きなのは、杉君だよ――――心配そうに見つめる瞳にこのフレーズを言ってみたい衝動に駆られた。もっと自信のある人なら、そうリカさんのような人なら、想いをぶつけてしまえるのだろうに……。私は正直者じゃない。ただの弱虫。
「話って、それだけなの?」
「ああ」
「じゃあ、帰ろうか。もう遅いし」
 私の言葉に
立ち上がった杉君の高い背中に、私は「さよなら」と呟いた。もう、これ以上どうにもならない想いを引きずっていたら、自分が壊れてしまいそうだった。

 杉君を忘れよう! 今日限りこの気持ちに、封印をしよう。  

 霞の掛かった月の淡い光が、砂の上に二人の影を落とした。寄り添うことは無い二人の影を

 

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