第三話 約束

 私は、彼が名前を呟いたのを、聞こえなかった振りをして声をかけた。
 
「山下君、今日は店暇みたいだね」
 
…………
 「雨、まだ降ってるし……」

 彼から返事はない。暗い表情は変わらず、ふうっと大きく肩で息をした。

 そして、ケータイを持った手をぶらりと下げ、肩を落としたままで、また通路の方へ戻った。

……、あの、ごめんなさい。くだらない事言って……

 私は、美沙の話や、バスケ部の話が気に障ったのかもと思い、慌てて彼の後を追った。

 通路のロッカーの前で、山下君はスチールの鈍い色の扉に拳を当てて、何か耐えるように、くっと唇を噛んでいるように見えた。

 私は、その様子に驚いて、

「あの……」

 と、言ったきり、彼の傍にただ立ち尽くした。高くて大きい肩が、乱れた息と共に、微かに震えている。

「山下君……」

 私はどうして良いかわからずに、胸元で両手を握ったまま、突っ立っていた。

「ごめん……、俺……」

そう言った彼を見上げた時、突然に大きい手が伸びてきて、私は裏口に続く通路の壁に押し付けられた。一瞬、何がおこったのかわからなかった。

身を硬くした時、山下君の長い腕が私の背中へ回された。そして、身を屈める様にして、私の肩へ顔を預けてきた……

「どうしたら、いいんだ……」

 彼の絞り出すような声と、震える肩……。泣いている……! 

 どうしたら良いのかわからず、ドギマギしている私を彼はギュウと抱き締めてきた。驚きで、息が止まりそうな私の顔に彼の髪が掛かった。

 山下君の髪のにおいと雨のにおいがした。彼の肩はまだ小刻みに震えている。

 190センチ近い体を必死で支えながら、私は飛び出しそうな心臓と戦い、そっと背中に手を回した。 

 静かに泣かせてあげようと思った。それで少しでも悲しみが和らぐのなら……。男の人の涙なんて、余程のことだろう。私は瞳を閉じて、彼の濡れた髪に撫でるように触れた。

 広い背中がまだ振るえている。私の首筋に、暖かくて冷たい涙が零れた。

 時はしばらくこのままで続いた。外のどしゃぶりになった雨の音が、全ての音を消してくれているようだ。私は静かに息を吐いた……
 

「ごめん……。どうかしてるわ、俺」
  と、彼は私から腕を外して、雨を拭いたタオルを手に取り顔を覆った。
 
「ホント、悪い。驚いただろう。何でもないから……。気にしないで」
  もう、口調はいつもの彼に戻っていた。

「大丈夫?」

「ああ。なさけねーヤツだよな! 自分で呆れる」

 山下君は、タオルで涙をふき取って、顔を大げさに歪めて苦笑いした。

 

 外は雨の音が激しくなった。
  私はまだドキドキしている。心臓の鼓動が彼に聞こえないか心配な程に……。体に感じた山下君の重さと、彼の残り香が夢から覚ませてくれない。
  店に戻った私達は、無言のままで時を共有した。

  しばらくして車が店先に止まり、店長が帰ってきた。
 
「よく降るなあ! おっ、和己来てくれてたのか。大丈夫なのか?」
 
「はい、すみません。大丈夫です」

山下君は、何もなかったように、店長に笑いかけている。

『大丈夫』という会話がサラリと交わされた。『大丈夫』で有る筈が無い。彼の涙は余程の事だ。でも、山下君は、いつものように仕事をこなし、私に指示をあたえている。

彼と目を合わせられない私に比べ、普段と変わらない山下君。すごく大人に感じた。
 彼が店の裏の倉庫へ行った後、店長が私に、
「あいつ、良くやってくれるんだよ。バカデカイから花と縁が無いように見えるけど、最初は客として花を買いに来てくれてたんだよ」

と、

「ええ?山下君がですか?」
「うん。ほとんど毎日。求人の貼紙をしたらバイトしたいって言ってきてね。ちょっとためらったんだけどね。でも、今じゃあ彼目当てに、花を買いに来るファンもいるくらいだ」
 店長の言葉に驚いた。山下君と花なんて、結びつけようがない!
「ただ、いろいろ事情があってね、あいつも大変なんだ。だから、時々急に来れない時があるだろうから、その時はカバーしてやってくれ」
「あ、はい。解りました」
 そうだったのか。だから、この小さな店にもう一人バイトが必要になったんだ。
 でも、彼の事情って何だろう。さっきの電話、マキって人も関わっている事なのだろうか。私の肩には、まだ、彼の冷たい涙の頬が乗っているような気がした。
「店長、そろそろ閉店準備にかかりますよ」
「ああ、たのむ。今日は雨のせいでひどい売り上げだなあ」
 山下君は慣れた様子で店のシャッターを下ろしていった。4枚の大きなシャッターが閉まると、手を払いながら、中からガラス扉にロックを掛けた。いつものように、手際よく片付けてゆく。

閉店の準備をしながら、私は、彼から目が離せないでいた。

 

「じゃあ、失礼します」
 
と、私達が店の外へ出た時、運良く雨は上がっていた。扉を閉める山下君を待って、私は背中を見つめていた。
 彼は、私の方を振り返って、ふっと笑顔になった。
「タマ、今日はホントにごめん」
 少しはにかんで、山下君が言った。もう顔は穏やかに笑っている。

「え……? 私、覚え悪いからもう忘れちゃった」
「ありがとう」
 彼は長い前髪を掻きあげて、下を向き、照れくさそうだった。
「送るよ。駅まで」
「いいよ、大丈夫。山下君、家と逆方向なのに」
「いいんだ。送りたいんだ」
 山下君の腕が私の背中にのびて、体を押されながら駅へと歩き出した。ちょっとドキドキして、背中の彼の手がとっても熱く感じた。
「タマ、迷惑かけついでにお願いがあるんだけど。今度の日曜日、店が定休日だから、よかったら付き合ってくれない?」
「え?」
「都合悪いかな?」
「あ、いえいえ! 悪くないよ」
「じゃあ、いいかな? 時間はケータイににメールするよ」
「うん……
 もしかして、デートに誘われている? 生まれて初めて!
 私は、雲の上を歩いているようだった。山下君に背中を支えてもらってなければ、酔っ払ったようにフラフラしてただろう。正直、本当に夢のようだった。初めての約束……
 そっと彼の顔を見上げた。彫りの深いはっきりした顔立ちが、すごく男っぽい感じがした。思わず、恥ずかしくなって下を向いた……

 どう見てもかっこいい、この人とデート? 胸の鼓動は、段々と大きくなって顔が熱くなってくる。
 何かすごく幸せで、駅までの道が、地球一周分続けば良いのにと本当に思った。
「じゃあ、気をつけてな! また、明日」
「うん、ありがとう」
 恋人同士みたいに、改札口で手を振る。山下君が軽く手を上げて暗い街の通りへ去るのを、私は見えなくなるまで見つめていた

 

 *****

 

 次の日、講義の時間が始まっても、昨夜の夢が覚めてない状態だった。時々、一人でに笑顔が出る。
「ちょっと、玉子! 気色悪い! 何ニヤニヤしてんのよ」
 美沙が顔をしかめる。美沙からしたらすごく些細な事だろうけど、昨夜の山下君との約束は、眠れないくらい嬉しかった。思い出すたびに、頬が緩んでしまう。

「ほら、あんた選択科目仏語でしょ! 早く移動しないと始まるよ!」
「あ! 忘れてた!」
 私は慌てて廊下へ飛び出した。
 広い廊下には、移動する学生が結構いたが、
向こうから杉君と山下君が並んで歩いてくるのが見えた。 巨大な二人は、1km離れていても判るほど目立っている。
「よう、タマ」
 と、杉君が微笑ながら手を挙げた。私はそれに答えることができず、俯いたまま通り過ぎようとした。
 そして、隣りの山下君をちらりと見た。彼はいつものもう一つの顔で、ニコリともせず向かってくる。私もドキドキして、下を向いたまま歩いて行った。

 すれ違い座間、何か話をする二人の声が聞こえた……。そして、山下君の傍を通り抜けようとしたとき、私の肩にポンとやさしく、大きな掌が乗った。

 彼の手……。振り向いた私に、振り向いた彼の瞬間の微笑……。私にだけくれた微笑……。嬉しさに胸が踊るように鼓動を打つ。
 山下君のの立ち去る広い背中にすがりたいような気持ちを抑えて、私はゆっくりと教室へ向かった。
 杉君を忘れられる……そんな予感に囚われながら……
 
 
バイトの時間が待ちどうしい。今日はどんな話が彼と出来るのだろう。日曜日の行く先についてかもしれない。
 梅雨空の合間から厚い雲をかき分けるように、強い日差しが射してきた。もしかしたら、今年の夏は大好きになるかも知れない……
 見上げる空は、雲間から、群青の色が覗いていた。

 

 五時前になった。雨は上がって、街を西の空から射した陽射しが、オレンジ色に変えている。

 私は、軽い足取りで、強い西日に手を翳しながら、花屋へやってきた。

「お疲れ様です」
「ああ、待ってたよ。助かった! 店、頼める? 急な注文入って困ってたんだ」
 店長が、私を見るなり慌ててエプロンを外してる。
「はい、いいですけど。今日、山下君は?」
「和己は彼女のとこ! 今日は来ないと思うよ。閉店の九時前には戻れると思うけど、一人で大丈夫かな?」
「あ、はい。店長が戻られるまで待ってますから」
「サンキュー! 隣町の知り合いのキャバクラなんだけど、客の誕生日だとかで、大量注文なんだ」
 店先のワゴンには、溢れんばかりの切花が詰め込まれていた。
「じゃあ、頼むね!」
 車はクラクションを一つ鳴らして、日の沈みかけたオレンジ色の街へ走り去っていった。
 私はそのまま店先に立って、西の空を彩る陽の名残を見つめていた。薄くて切れ切れの夏の雲を朱色に染めて、厳しかった夏の太陽は消えてゆく。もの悲しい時間帯だ。
 一つ息を吐いた……。浮かれすぎた道化師になるところだったと、今までの自分が恥かしい。『カノジョのとこ』…………店長の言った言葉に、ガッカリしてる自分がいる。ガッカりどころか、ひどく悲しかった……。きっと、昨日の電話の「マキさん」のことろだろう……。まるで、夢から覚めたようだった。目覚めはひどく辛かった。

「有り難うございました!」
 夕方は、買い物帰りや勤め帰りのお客さんが結構あって、一人でフル回転だった。最初は緊張もしていたし、もたもたして時間もかかったが、忙しくなるとそんなことも言ってられなくなって、とにかく必死で応対した。
「リボン、こんな感じでいいですか?」
「あら、上手ねえ。きれいだわ! あの大きいお兄ちゃんよりマシだね」
「ああ、山下君ですね」
「そうそう! おっきな体で花を触るから何か可愛くてね。多少の事は許してあげるの。それに男前だしね」
 お客のおばさんは、笑いながら山下君の事を話した。
「あら、そう言えば、今日は彼休みなの?」
 
と、別の女性客が尋ねた。
「はい。今日は用があるみたいです」
「何だ、残念ね。貴女もあのA大の学生さん?」
「はい。山下君と同じ文学部の一回生です」
「あら、あの子も文学部? ガラじゃないわねえ」
「本当ね。理系かと思った」
 一頻り彼の話でで盛り上がっている。本当にこの店で人気者なんだ。この、話好きそうな奥さん連中を相手に奮闘している山下君を想像すると、吹き出してしまいそうだ。

 しかし、どうしてこんな男の子があんまりしたがらない花屋のバイトを選んだんだろう。花が物凄く好きなのかっていうと、そんな感じは全然しなかったけど……
 私は忙しく働きながら、もしかしたらと、裏口が気になってしかたない。 「今日は彼女のところ」と、彼を思うたびに、付け加えた。
 

 日曜日の約束……山下君は、彼女がいるのに誘ったのだろうか……。そんなこと、彼女の立場なら許さないだろうに。

 

 夜の帳がおり始める街には、ネオンサインが灯り、街灯も歩道を明るく照らし始めた。

 店の前を行き交う人は、みな一様に急ぎ足で通り過ぎてゆく。店は来客もなくなり、急に暇になった。

 私は、鉢植えの水遣りや切花の残り具合を書き留めたり、一人だとすべき事も結構ある。

 時間は山下君の事を考え無くて良いように、いつもより早く過ぎて行ってくれる。

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