第十九話 最後の約束

 

 部屋の窓から、青く澄み切った空を見ていた。まだ昼前なのに、既にセミの声が、熱を帯びてきた大気を震わせている。

 夢の余韻が残ったまま、私はぼんやりと遮るもののない強い陽射しに顔を向けていた。昨夜の花火の音が、空を覆う眩い光が、頭の中を駆け巡っている。

 全てが夢だったのかも知れない。唇に残った熱に、体の芯が疼くようで、せつない。

 彩られた夜が終わり、今の私は、冷たい冬の灰色の風景に囲まれた湖の岸辺に立っているように、見るもの全てが虚しかった。

 タマとの思い出が欲しい――そう言った山下君の微笑を、何度も思い出した。本当に夢の続きは見られるのだろうか。

 でも、あと少しで、私の夢は終わる。

「明日……。最後の約束……」

 呟いた後、淋しさに唇を噛んだ。本当なら、明日が待ちどうしくって仕方ない筈なのに。

 ぼんやり止まったままの窓の景色を眺めていると、ベッドの上に放り出していたケータイが、いつものメロデイを奏でた。

「山下君!」

 私は慌てて、ケータイを取り上げた。表示には番号が出ていない。山下君ではない。

「誰だろう」

 躊躇いながら、開いたケータイを耳に当てて、小さく声を出した。

「もしもし?」

――「玉子さん? 私、マキです」

「マキさん!」

 驚いて、顔を上げ、大きな声を出した。まさか、マキさんがケータイしてくるなんて、本当に思いもしなかった。

「あ、あの、大丈夫なの? 体は? ど、どうかしたの? 何かあったの?」

 しどろもどろで焦って話す私を、彼女がくすっと笑う声が微かにした。

――「大丈夫。もう、車椅子なら病室を出られるって言ったでしょ? 今、公衆電話よ。私はケータイ使えないから、すごく不便なの」

「あ、そうか。昨日、聞いたんだったね。でも、私の番号……、山下君から?」

――「うん。玉子さんと話したいって言ったから、しぶしぶ教えてくれたの。忙しいから、あんまり掛けるなって念押しされたけど」

「忙しいだなんて、そんなことないけど、何かあったのかって驚いた。元気ならいいの。安心した。でも、山下君は病室にいないの?」

――「お兄さんは朝いてくれたんだけど、回診のあと、渡米の手続きがあるからとか言って出かけたきり」

「そう。もう少しだものね……。いろいろと忙しいだろうね」

 しんみりと呟く私に、マキさんは答えなかった。そして、一呼吸置いて、沈んだ声が聞こえてきた。

――「玉子さん……きいていい?」。

「え? 何?」

――「玉子さんは……、お兄さんが好き?」

 マキさんの言葉に、ぐっと胸をつかまれた気がした。 どう答えていいのか分らず、何も言えないでいると、彼女は小さな声で、呟くように言った。

――「私、玉子さんになら、和己をあげてもいいと思ってる」

「マキさん!」

 彼女の言葉に驚いた。そして、すごく腹が立った。あげてもいいだなんて、山下君の気持ちをわかって言っているのかと、思わずきつい口調で返した。

「何を言っているの?  私と山下君は、ただの友達だよ。それに、もうすぐ、アメリカで暮らすんでしょ? 二人で。どうして私に、そんなことを!」 

――「私……、和己の大事なものを……、次々、奪ってしまう……。バスケットも、大学も……、友達も……。それに、玉子さんも……」

「マキさん……」

 ケータイの向こうで、声を詰まらせ鼻を啜りながら話すマキさんの悲しい顔が浮かんでくる。山下君を思って、苦しんでいる彼女に、私は言葉を失くした。

――「お兄さんね、玉子さんのことを楽しそうに話すの。優しくって一緒にいると安心するって。私の手術の後、しばらく玉子さんが病院に来なかった時、すごく落ち込んでいた。もしかしたら、玉子さんを好きなんじゃないかって……。でも、私のせいで、玉子さんとも離れてしまう」

「それは、違うよ。山下君はマキさんの事しか考えてないよ! そんなこと、わかっているでしょ? 貴女のためなら、何を失くしてもいいと思っているのよ、彼は! 彼の気持ちを疑うような言い方しないで。山下君が可哀想よ」

――「でも、こんな病気の私……。和己に相応しくない……」

「相応しいかどうかなんて、貴女がきめることじゃない!」

 私は、ケータイに向かって叫んでいた。

「山下君に必要なのは、マキさんだけだよ。貴女がそんなこと思っているなんて知ったら、本当に悲しむ。お願いだから、頑張って元気になって。マキさんとずっと生きてゆくことしか、彼は考えていない」

 マキさんはケータイの向こうで、すすり泣いている。私の頬にも、涙が伝った。彼女が、ずっと苦しんでいるのは分っているから。

 私は、もう一度、彼女に言った。

「頑張って。山下君のために」

――「うん……。ごめんなさい。こんな事を言って。頑張って治してくる」

「待ってるからね。大丈夫。山下君はちゃんと自分のゆきたい道を見つけている。マキさんが元気になれば、彼はアメリカで頑張ると思う。だから、彼が好きなら、貴女も頑張って」

――「有難う……。玉子さん……」

 切れたケータイを握り締めた。そして、涙を拭った。

 私の存在が、マキさんを苦しめているのだろうか……。

 明日の約束……。会ってもいいのだろうか……。山下君と二人で……。

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