第十五話 揺れる心(2)

 

「遅くなりました!」

 花屋の裏口のドアを開けて、店の中へ急いで入って行った。バイトに入る時間を少し過ぎている。

 店長は、店のレジカウンターの前に立って、私を振り向いた。

「今朝は有難うございました。山下君の妹さん、すごく喜んでくれましたよ。奇麗だって」

 明るい調子で言うと、店長も頷いて微笑んでくれた。

「ああ、それはよかった。玉子ちゃん、それよりお客さんだよ」

「え? 私にですか?」

「うん、大学の友人だって。事務所で待ってもらってる」

 私は誰だか検討もつかないまま、事務所の扉を開けた。

「こんにちは」

「リカさん! ど、どうしたの?」

 事務所の椅子に足を揃えて神妙な顔付きで掛けているリカさんを見て、私はとにかく驚いた。

 彼女は少し力ない声で私に謝って、俯き加減の顔を上げた。

「ごめんなさいね。ちょっと話がしたくって待たせて貰ってたの」

 彼女の様子からただ事ではないと思って、店の中へ戻り、店長に出勤時間を遅らせたいと言った。

「いいよ。まだ配達の時間じゃないから、一時間後に入ってくれたら」

 店長も、リカさんの様子が気になったようで、快く了解してくれた。

「はい。すみません」

 店長に深々と頭を下げ、私は、笑顔のないリカさんと、裏口から店を出た。

 

 私達は大学の近くのいつものカフェに入った。夏休みになって、学生で賑わうここも、今日はひっそりしている。

 奥の窓際の席に向かい合った私とリカさんはアイスティーを頼んで、顔を見合わせた。

「ごめんなさいね。突然で……ケータイも知らなかったから」

 いつも、自信に溢れて毅然とした大人のリカさんなのに、私に二度謝って、その後はしばらく押し黙って、俯いたままだ。

 そして、グラスに水滴が付いた冷たいアイスティーが運ばれてくると、彼女はそれを丁寧にストローでかき混ぜながら、中で回る氷に目を落としたまま、ポツリと呟くように言った。

「亮輔に別れようって言われた……。理由も言ってもらえず、突然に……」

 瞬間、体に鋭い刃物が突き立てられたように、衝撃的な一言だった。私は言葉を失くし、息を呑んだ。

 リカさんはまるで他人事のように、私にふっと笑顔を向けて、

「何だろうね。全く意味が解らない……。ただ、ごめんって繰り返すだけで……」

 と、独り言のように呟いた。

 そして、突然両手で顔を覆って、静かに肩を震わせた……。

 胸元の大きく開いた白いカットソーの似合う、彼女の大人らしさが私には眩しすぎるのに、目の前にいるのはまるで少女のように涙を零し、細い肩を震わせるリカさんだ……。

「なぜ?」

 私はやっと言葉を口に出せた。

 彼女は、戸惑いを隠せない私を、涙の溜まった瞳で見つめて言った。

「それは私が貴女に教えて欲しい……。何故なの? 玉子ちゃん……」

 リカさんの言葉に、胸をえぐられるような気がした。彼女の瞳は、私を責めている。

「リカさん、杉君は貴女と別れないって言ってた。そんな事、信じられない」

 彼女の沈んだ顔に向かって私は声を荒げた。

「だって、杉君は私に言ったもの。本当にそんな事有る筈が無い!」

 自分に確かめるように繰り返して言って、リカさんを見つめた。彼女は指で涙を拭って、普段の表情に戻った。

「昨日、怪我の後、彼について病院へ行ったの……。彼の怪我は足の甲の剥離骨折もあって、思ったよりひどかったわ。夏の試合は出場出来ない事が解って、亮輔の落ち込んだ姿は見てられなかった。病院の待合室でずっと何も言わずに二人で座っていた……何も話すことも出来なくて……」

 リカさんの潤んだままの瞳は、私の心を締め付けるように悲しく見つめてくる。次に聞かされる言葉が怖くて、私は身じろぎもせず膝の上の両手を堅く握った。

 窓の風景に目を向けたリカさんが深いため息を吐いた。

「私……、ずっと気になって仕方なかったの。貴女と亮輔の事……。彼ね、腐れ縁だからっていつも言ってたけど、私といても、平気で楽しそうに貴女の事話していた。どじで引っ込み思案で……昔から自分が庇って来てやったって、嬉しそうに……。大学でも、貴女を見るとすぐに傍にいって笑っている……。そんなの、変でしょ? いくら中学からの友達でも……」

「リカさん……」

「あの病院の待合室で、亮輔……、私に言ったの。君を傷つけることになるから、もう別れてほしいって……。きっと……誰か……他の人の事を考えていたんだね、あの時……。傍にいる私じゃなくって、傷付いた自分が本当に会いたい人の事を……」

 窓を見たままの彼女の横顔は、すごく綺麗だった。柔らかくカールした髪が頬に掛かって、きゅっと結んだ唇のあでやかな口紅の色が美しい。こんな場面にふさわしくないと私は思った。

 彼女に見惚れながら、私は審判を受ける罪人のように、次に耳にする言葉に怯えていた。

 リカさんは真っ直ぐに私を見た。

「だから、きっと誤魔化せなくなったんだと思う。彼、純な人だし、本当にまっすぐな性格だから、私に言わずにいられなかったんだね。他に好きな人がいることを……」

 時間は二人の間で止まったままだ。テーブルのアイスティの氷が小さくなってグラスに透明の層を作っている。

 何をどう言えば良いのか……どうしたらリカさんに私の気持が伝わるのか、頭の中で繰り返される思考に結果が出ない……。

 どうあれ、私が彼女を傷つけたことに変わりはない……。でも、ただ正直な気持を彼女に伝えたかった。

「リカさん……。私……山下君が本当に好きです……。杉君の事は友達以上に考えられない……。彼がどんな風に私を思ってくれていても答えてあげる事は出来ないんです。でも……山下君には自分を犠牲にしても守りたいほど愛する人がいて、私は今本当に苦しんでいます。そのことを杉君が知って、私に同情してくれた……。それがきっと彼の気持を乱してしまった原因だったと思います」

「玉子ちゃん……」

「杉君も怪我をして、きっとフツウの精神状態じゃないと思うの。自分にとって誰が本当に大事かわからなくなっているのかも知れないし……。本当に彼を想っているのなら、迷わないで……杉君の傍にいてあげてほしい……。私、そうしているの。山下君に突き放されても彼の傍にいたいから……ただ、近くにいたいから……」

 私の頬に溢れる涙が一滴が流れていった。リカさんは驚いたように、目を見張ったまま私を見ている……。

「玉子ちゃん、貴女……、そんな辛い想いをしていたの?」

 リカさんの言葉に声を上げて泣きそうになった。でも、無理やり笑顔を作った。くしゃくしゃの、きっと変な笑顔。

「貴女に本当は文句の一つも言ってやるつもりだったの。私と亮輔の間に割り込むなって……。彼が突然、あんな事を言ったのは貴女が近づいて来たからだって。でも、玉子ちゃんの気持は良くわかったわ……」

 リカさんは、さっきよりも穏やかな顔で、私を見てくれている。そして、氷の解けたアイスティのストローを、また指で摘んで、かき混ぜながら言った。

「本当に人を好きになるって、おかしなものよね。わざわざ苦しい方へ心を向けなくってもいいのに……。届かない想いって、どうなってしまうんだろうね……。私たち……馬鹿だな……」

 リカさんは思い詰めたように肩で息を吐いて、視線を上げた。私もその様子に同じように目を伏せて息を吐いた。

 そして、二人で、静かに笑いあった。

「玉子ちゃん……。私も貴女のように亮輔の傍にいる。傷付いて苦しむかも知れないけど……。でも、亮輔への気持は変わらない。貴女と同じように今の気持を大切にする」

「うん……、リカさん、私よりずっと貴女は幸せです。だって、会う事だって出来るじゃない。私はもうすぐ山下君に会うことも事も出来なくなるの。アメリカに留学しちゃうから……」

「え?」

「だから、今は彼の事で心の中を一杯にしておきたい。彼の事しか考えたくない」

「玉子ちゃん……」

 リカさんが、目を細めて私を見た。私に腹を立てている筈だけど、今は私に同情するように眉を寄せている。

 人を好きになってしまったら、どうして幸せな結末を神様は用意してくれないのだろう。男と女が寄り添うように出来ているのなら、涙なんか必要ないじゃないか……。私も、杉君も、リカさんまで……届かない思いは、螺旋の迷路のようにずっと続いてゆくのだろうか……。

 杉君がもう一度、リカさんと幸せになることを、私は本当に願っていた。

 泣くのは、私だけでいい……。壊れるのは私一人でいい……。私のせいで、杉君とリカさんが苦しむなんて、そんなこと絶対あってはならないことだ。こんな、魅力のない私のせいで。

 リカさんは、私と別れ際に、

「有難う。励まされちゃったね」

 と、気持ちは沈んだままだと思うけど、微笑んでくれた。いっぱい私に言いたいことがあっただろうに……。私は、黙って手を振った。

 

******

 

 じりじりと焼き尽くすような日差しの中を、白いTシャツにつばの小さい麦わら帽子で、蝉の鳴き声しか聞こえない住宅地の通りを歩いている。

 手には、頼まれたJAMPと、お見舞いのハーゲンダッツのアイス。杉君の好きなものを二つ持って。

 やっと、彼のお見舞いに行く。歩いて10分くらいの杉君の家が、わざわざ駅前の本屋によって来たから、30分以上も炎天下を歩き通しだ。

 バイトが休みの今日、朝のうちに杉君に携帯をかけた。この前、やっと教えてもらった携帯番号を押す手が何度か躊躇って、そのたびに深呼吸して押し直した。これ程携帯の数字を見つめて掛けたのは初めて……。リカさんがバイト先に来てから、2日悩んで、やっと連絡する気になった。彼がどうしているのかとずっと気がかりな気持と対称的に、二人のことに関わるべきじゃないという気持ちもあって、なかなか決心がつかなかった。

 でも、電話の向こうの彼は意外と明るくって、会いたいと言うと家に来いとさらりと言った。ついでに、遠慮もなくほしいものを聞かされて買い物を頼まれてしまった。まあ彼が元気そうだったからそれは良いとして、もしかしたら私が案じて、ただ見舞いに来ると思っているのかも知れない。今日はリカさんのことを彼に話すつもりでいる。彼女の涙はあの日、私の心に重い石を投げ込んだままだった。

 地表のあらゆるものが夏の激しいエネルギーを与えられて、全てが熱を放出しているように温度は上がってゆく。こんなちっぽけな私なんて、これ以上歩いたら溶かされてしまうかも知れないと思った。今日は本当に燃えるような暑さだ。

 帽子のつばを掴んで、杉君の家の方を眺める。公園の傍を通っている時、開放された蝉の、暑さに酔いしれるような鳴き声が木立の緑の中から聞こえ、耳を劈(つんざ)く。

 中学のときは、この住宅に挟まれた道を何の躊躇いもなく彼の家まで幾度も辿ったのに、今日は足が重い……。

 それはリカさんのことを話すと言う重荷と、高校に行ってから疎遠になった彼との距離のためだろう。

 

 杉君の家は、相変わらず花好きのおばさんの手入れの行き届いた花壇に、夏の花が見事に咲き誇って、白い外壁に色とりどりの影を映している。大輪のひまわりの花が、私と同じくらいの目線で迎えてくれている。

「こんにちわ、金原です!」

 チャイムを押して、インターホンに近づいて、大きく声を上げた。

 ガチャッと扉が開いて、中から懐かしいおばさんの顔が飛び出して来た。

「まあ! 久しぶりね! 玉子ちゃん」

 丸顔の優しい笑顔は相変わらずだ。おばさんは懐かしそうに私を見て、背中を押しながら迎え入れてくれた。

「おばさん、杉君はどうですか?」

「うん、平気な顔してるけど落ち込んでるよ。部屋にいるから行ってやって。ホントに良く来てくれたわね。中学の時はいつも寄ってくれて、よく勉強を見てやってくれてたのに、高校になって来てくれなくなったから、どうしているのかって思ってたのよ」

「すみません。なんか……」

「あ、当然よね。いつまでも子供じゃあないんだし。ふふ、でも玉子ちゃん、変わらないね。あの頃に戻った気がしたよ。うちのは馬鹿でかくなってふけちゃったけど」

 おばさんと笑いあうのは本当に久しぶりだ。まだこの家には中学の頃と同じ空気が流れていて、私はホッとした。

 

 アイスをおばさんに渡して、JAMPを小脇に抱え、二階の杉君の部屋へ上がった。堅く拳を握ってドアを叩くと中から彼が叫んだ。

「遅いぞ! タマ」

 杉君はベッドに足を投げ出して座っていた。足首の頑丈な包帯が痛々しい。

「遅いって、何よ! 折角暑い中来たのに、有難うくらい言いなさいよ」

「まだかまだかと待ってたんだぞ」

「え?」

「今週号のJAMP」

 彼は笑顔になって、私から漫画を受け取った。

「はいはい、JAMPに会いたかったんでしょ!」

 私が口を尖らせて拗ねた顔をすると、パラパラと漫画のページを繰りながら、

「お前を待ってたって言ったら困るだろう? バカだな」

 と独り言のように呟いた。言葉を返せなくて、私は部屋を見回した。

 この部屋も変わらない。壁に貼ったNBLのポスターは新しい物になっているが、額をつき合わして勉強をしてた机も本棚も同じように私を迎えてくれる。高校時代の3年間なんて、本当は抹消できるほど短い時間なのかも知れない。

 でも、私と彼の間には渡れないほどの大きな河が既に流れてしまっている……。それを淋しく思っても、どうしようもない。

 私は彼の投げ出した足元に腰を下ろした。

「少しは良いの? 足」

「ああ、まだ解らないけど、一日でも早く治したいからこうしてずっとベッドの上。退屈で死にそうだ」

 杉君は頭の後ろで手を組んで、大きなため息を吐いた。

「ふふ。仕方ないね。早く治さないとエースが不在じゃあ、戦力落ちるよ。皆、待ってるよ」

「だと良いけど。俺からバスケ取ったら何も残らないからなあ」

「そうだね、残るのはJAMPくらいだ!」

「おまえなあ、ホントにバカにしてない? 俺のこと」

「ははは…、してるかも! だって文学部の杉亮輔って何かピンとこないよう」

「うるさい」

 軽いジョークだって、いつものように時間を埋めてくれる。

 ただ、彼の次の言葉に、私はまた困惑した。

「タマももう俺のところには、残ってくれないしなあ……」

 彼の傍にこうして寄り添う事を何故拒むんだろう……。私はふと自分の心の行き場所が間違っているような気がした。

 私の心の中には山下君がいて、杉君にはリカさんがいる。私の中から、山下君を消し去る事は出来そうにない。そして、悲しませたリカさんから杉君を奪うような事も出来ない。

 私と杉の心はどんな場所に落ちてしまうんだろう……。胸が痛い。

 彼から視線を逸らせて、ポツリと言葉を吐いた。躊躇う気持に声は小さくなる。

「リカさん……泣いてた……」

 窓の外から、沈黙に相応しくない蝉の鳴き声が部屋に入り込んでくる。

 杉君は窓に目を向け、夏の暑い空気を漂わしている見慣れた街を眺めた。

 彼が見つめている窓の風景は、海まで真っ青な夏空が続いている。家々の屋根は太陽に照り付けられて、暑さを耐えるように同じ高さに並んで地表に影のコントラストをつけている。 街を覆う熱は益々上りつめてきただろう。

 彼の横顔を見つめたまま、私はもう一度小さく呟く。

「私、リカさんの涙は見たくない……」

 彼が窓から目を逸らせて、また深いため息を吐いた。このさっきまでと違う空気を呼吸するだけで、胸が重苦しい。

 でも、杉君は急に口を閉ざして、宙を見つめるばかりだった。

「リカさんが私に会いに来たの。驚いた……杉君が彼女と別れるなんてこと……」

「何故、驚くんだ?」

 私の言葉が終わらないうちに、彼が声を荒げて私を見つめた。

 真剣に私に向いた瞳は、真っ直ぐで何の躊躇いもない。瞬きもしないで、まるで私を責めるように口元は固く結ばれている。

「だって、杉君、リカさんと別れないって言ったじゃない!」

 私は反発する子供のような口調で、きっと見返して言った。ただ、この言葉だけは彼に伝えたかった。

 しばらく険しい表情だった杉君の顔がふっと緩んで、仕方ないと言う風にため息を吐いた。そして、穏やかな顔になって話し始めた。

「お前に会いに行ったと、その夜、彼女からケータイがかかって来た。そのときは本当に驚いた。タマのことなんて一言も言ってないのに……。困らせて、ごめん」

「杉君……」

 暗い顔の私に、彼は無理やり笑顔を作って言葉を続ける。

「お前のせいで、リカを泣かせたんじゃないよ。ただ、これ以上リカと付き合っていたら、もっと悲しませると思った。大学に行って、好きなバスケをやって、リカみたいなカノジョもいて、結構楽しくやっていたし。本当に、このままずっとリカと一緒だと思っていた」

 私は身じろぎもしないで、彼の言葉を聞いている。

「だけど……怪我をして落ち込んでると、傍にリカがいても……こんな事、勝手な言い分だけど……タマに会いたかった。お前の事を考えたし、顔を見たかった。……どうしようもないよ」 びくっと体が堅くなった。私は脅えながら、杉君を見た。

「それで、リカさんは?」

 杉君は暗い顔をした。二人の間に交わされた言葉が辛いものだったのは確かだろう。彼の気持をリカさんが受け取るわけない。

「今まで通り、傍にいると言った。俺を責めもしなかった……。勝手な俺をそれでも好きだと言ってくれた」

 と、彼は独り言のように呟いた。

「リカさんは待っててくれるよ。貴方の気持が戻るまで……。本当に杉君のことが好きだって言ってたもん。彼女、大人だし綺麗だし、それにとっても優しい良い人だと思うよ。杉君、怪我なんかしたから、本当に大切な人見失っちゃったんだよ」

 彼の心に届くように明るく言った。杉君はそんな私を黙って見つめていた。

 そして、今度は杉君が、私に訊ねた。

「タマは平気なのか? 山下の事……」

「え……」

 突然に杉君は山下君の名前を……。体の中心がズキッと疼いた。

「あいつ、アメリカへ行っちまうんだろ? いなくなるんだぜ。もう、顔を見たくても見る事さえ出来ないのに、お前大丈夫なのか? 俺とリカの事、気にしてる場合じゃないだろう?」

「杉君……」

 ストレートな言葉で私の心を抉り取る様に、杉君は私に現実をぶつけてくる。

「そんな事……そんな事……、私に如何しようもないことだもの……。私は……最後まで……山下君の良い友達で……」

 涙が急に溢れてきてしまった。

 良い友達で……良い友達で……。こんな言葉、何回唱えてみたって心の空洞は埋められない。そんな事、私だって解っている。

 だけど、傍に居るためには、そう自分に言い聞かせないと、彼が遠くなってしまうから……。

 昔から私は杉君の前では無防備だ。彼には関係ないと思いながら、誤魔化すことも出来ないで気持を曝け出してしまう。彼の気持を知っていても、リカさんに悪いと思いながらも、頬に流れる涙を止められなかった……。

「タマ……ごめん。悪かった。山下のことなんか……」

 杉君はベッドにかけた私の腕を掴んだ。そして私を抱いてくれた。

 彼の広い胸は私をすっぽりと包んでくれる。体中の力が抜けて、躊躇うこともなく私は彼の胸で泣いた。

 もしかしたら、私はこうして杉君に甘えたいがために会いに来たのかもしれない……。リカさんのことを口実に……。この辛い胸の内を杉君にわかって欲しかったのかも知れない……。

 時は流れを止めたままだ。震える肩に彼の大きな手がそっと置かれた。杉君は何も言わない。

 私は優しい胸の中で、子供のように泣きじゃくる。甘えてはいけない人と解っているのに、縋ってしまう自分に嫌悪感を抱きながら、そっと背中に手を回した……。

 今日だけは許して欲しい。私の行き場のない想いを涙に変えてしまう事を……。

「タマ……、俺には言えよ、何でも……。甘えて良いんだから」

 彼の言葉は体の隅々まで優しく響いてきた。大きな手が、頭をやさしく撫で付ける。

 私はこうしている事が至極当然のように彼の胸の中にいる。今はこのままでいることに戸惑いもなかった。

 でも、こうして抱きしめられるのは、私ではない。

「杉君……ごめんなさい。私の事で来たんじゃないのに」

 私の存在が杉君を惑わせているのなら、リカさんまで悲しませたのは私だ。そう思うといたたまれなくなる。

「私……帰る」

「タマ……」

 困惑した彼の顔を見ないように胸から離れて、背を向けた。そしてゆっくりと立ち上がった。

「俺はお前の傍にいるよ。今までと同じように……」

 背中で呟かれた言葉を断ち切るように静かにドアを閉めた。

 もうここに来てはいけない。

 今までと同じように――――それはもう私たちには無理な事だと思う。腐れ縁だとか言ってふざけていた頃には戻れない。お互いの心の底を覗いてしまったのだから……。

 帰る私の足取りは来た時よりもっと重かった。強くなった陽射しは私を責めるように容赦なく照りつける。

 ふっと見上げた空に入道雲がわき出して来ていた。午後から夕立が来るかも知れない。

                          第十六話 夏の夜の夢 へ

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