第十八話 夏の夜の夢(3)

「山下君……」

 名前を呼びながら、胸に頬をつけたまま、震える唇で息を吐いた。小さい体を竦めるように、彼の胸に抱かれている。

 熱を帯びた私の体は、溶けてしまいそうだ。それは夢のようで、花火が終わると消えてしまうような気がした。

「俺には何も言ってやれない……」

 と、山下君は、震える声で言った。

「ううん、いいの。何も言わないで欲しい。貴方がいるだけでいいの」

「タマ……」

 同情とか、慰めとか、貴方の気持ちに言葉をつけたら、交わしたキスを否定する事になるだろう。

 彼が、私を、せめてマキさんの次に好きでいて欲しい。気持ちの篭ったキスだったと思いたかった。

 その時、夜空に、一段と眩く、何発もの花火が連続で、上がった。次々と頭上で花開き、またその上に光が走った。耳を劈くような破裂音と、瞼に残像を残す煌き。辺りは昼間のように明るくなった。

 私は、山下君の胸の中で、幻を見ているように花火を眺めた。彼も、私の背中に腕を回したまま、空を見上げている。夢のようだった。本当に……。

 そして、最後に大きな花火が開き、その輝きが、力尽きるように消え去ると、浜は何もなかったように静寂の闇に沈み、しばらくすると、集った人々のざわめきが次第に広がっていった。

 山下君は、

「終わったね、花火」

 と言って、私から腕を解いた。

「うん……」

 心がぎゅっと、淋しさに鷲掴みにされるような気がした。でも、夢から覚めたように、私は涙を拭って、彼に笑いかけた。 

 その時、彼のGパンのポケットで、ケータイが唸り始めた。

「あ、ちょっと待って」

 そういって、片手で取り出したケータイを、彼は慌てて耳に当てた。そして私に背を向け、2,3歩離れると、話し始めた。

「もしもし、マキ?」

 ドキンと、胸が脈打つ。彼の大きな高い背中が、急に遠くになった。マキさんからのケータイ……。

「ああ、今終わったよ。うん、すげー奇麗だった。ああ、今度は一緒に見よう。決ってるじゃないか! うん、分った。ちょっと待って」

 彼は振り向いて、少し困った顔で、私に耳から外したケータイを差し出した。

「タマ。 なんか、マキが話したいって言ってるんだけど……」

「え?」

「大丈夫?」

「あ、うん、代わって」

 私は、震えた手で、ケータイを受け取った。まだ、乱れている気持ちでマキさんと話すのは、正直言って胸が痛い。

 山下君も笑みを閉じ、複雑な顔で私を見ていた。

「もしもし、マキさん?」

――「玉子さん? 花火奇麗だった?」

「うん、すごく……。マキさん、体調はどう?」

――「ありがとう、もうベッドから起き上がってる。今も病院の公衆電話まで車椅子で来た」

「へえ、ほんとに? よかったね。どんどん良くなるね」

――「うん、アメリカ行きに向けて頑張らないと……」

「そうよ、もう少しで出発でしょ? 頑張って」

――「玉子さん」

「なに?」

――「お兄さんと二人で、楽しかった?」

「え? うん……、楽しかったけど……」

――「そう……。よかったね」

 ケータイをギュッと握り締めた。マキさんの声が沈んでいる気がした。

「あ、もう終わったから、山下君は帰るよ。お兄さんに代わるね」

 山下君にケータイを差し出しながら、火照っていた頬がすうっと冷たくなる気がした。

『お兄さんと二人で』――彼女は気にしていたんだ。私と山下君の事を。

「うん、わかった。明日の朝、早めに行くよ。じゃあ、おやすみ」

 ケータイを代わった、山下君の声が沈んでいる気がした。私から視線を逸らせて、ケータイを切った。

 彼は……、私のためにマキさんを裏切ったのだ。私が泣いて、気持ちを言ってしまったために……。

「山下君、ごめんなさい……私のために……」

 山下君は私を見て、強張った顔をふっと笑顔に変えた。

「タマのせいじゃないよ」

「でも……」

 彼は大きくため息を吐いた。そして、肩を落として俯いていた私の顔を覗きこむように屈むと、肩に手を置いた。

「タマ、今度の店の休みはいつ?」

「え? 明後日だけど」

「じゃあ、その日は空けといて。一日デートしよう。二人で行きたいところがあるんだ」

 私は驚いて、彼を見上げた。

「え?  だって、だって山下君。マキさんは?」

 山下君は、躊躇うように口を閉ざしたが、また私に微笑んで言った。

「あと、少しで離れるんだ。タマとの思い出がほしい」

「山下君」

 その言葉が何を意味しているのか分らなかった。ただ分っている事は、私と彼があと数日で、もしかしたら永遠に別れてしまうかもしれないということだ。

                  <第19話 最後の約束>

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