隠れ家

 午後6時19分。
 見つめる先の、オフィスビルの扉が押し開けられた。
 
 コートの襟を立て、うす暗い通へ出てきた貴方は、すぐに、立ち尽くす私に気付いた。そして、いつものように微笑む。軽いため息が聞こえてきそうな、困ったような微笑。その表情をつぶさに見て、私はいつものようにがっかりする。私がどう思うかなど、きっと貴方には関係ないのだろう。柔らかく遠慮がちに視線を向けて、困惑した心の有り様をうかがわせるように、私から視線を逸らして近づく。そして口角を上げ、仕方ないなと言わんばかりに訊ねる。

「どうしたの? 驚いた」
 
 少し首をかしげる様に見て、私の前に高い背丈の影を落とす。私は、ただ黙って物欲しそうに貴方を見上げる。そんな自分が嫌いなくせに、どうしようもなく見つめる。
 向かい合った二人の間の50センチの距離は、一向に縮まらない。手を伸ばせば貴方のスーツの胸に触れられる距離。

「近くに用があったから……。由岐さん、いるかなって思っていたら、ほんとに会っちゃった」
 
 私はいつものように精一杯の背伸びをする。子供だと思われたくないし、会いたくって何時間も待っていたと絶対に悟られたくない。それは18歳のささやかなプライド。
 貴方に会えた喜びは、感覚の無くなった指先の冷たさまで忘れてしまう。冷え切った体が、さっきまで辛くて泣きそうだったのに、会えた途端に心の熱が足先にまで届いている。
 でも、今日は……、いつもみたいに笑ってあげない。いつもみたいに頬を染めて話さない。もしかしたら、今日が会える最後の日になるかも知れないから。 
 
 次第に街に明りが灯る。それを待っていたように、膝頭が痛くなるような冷気が、私と貴方を包む。立ち尽くす私と貴方を照らして、車道を走る車のライトが物悲しく流れていく。
 色のない冬の街。私は、ただ、貴方の言葉を待つ。

「お茶でも飲む? いつものケーキ屋で」
 
 漸くそう言って、寒そうに肩を窄めて、貴方は困り顔を少し笑顔に変えた。
 迷惑な訪問者――いつでもきっとそう思っているだろう。後から出てくる会社の同僚や上司に訝しそうに見られるのが嫌なはずだ。だって、高校の制服に白いソックス。黒のローファー。三十歳の貴方は、さっさと隠してしまいたい危険な高校生だと思っている。
 この前会いにきたとき、偶然出てきた事務員の女の人に、「妹さん?」って聞かれてたよね。私は悲しくなって唇を噛んだけど、貴方は当然のように、
「まあ、そんなようなもん」
 と、明るく笑って答えてた。貴方の堂々とした答えっぷりは、この子とは何の関わりもないからって、ちゃんと相手に思わせてる。ちょっとは罰悪そうに赤面したり、勘ぐられることを焦ったり、もっと必要以上に言い訳したり、そんなそぶりが見たかったのに。
 いつも貴方は冷静で、私の手の届かない世界にいることを知らしめようとする。
 
 川添由岐也という名前は、私のB6サイズの日記帳の中で、「Y」と名前を変える。誰に見られても絶対に貴方だと分からない。日記に書かれた垂れ流された私のいやらしい想いが、誰も傷つけることがないように、ありふれた片思いと一笑に付してもらえるように。
 もしも私が明日死んでも、「Y」は永遠に「Y」のままだ。
 好きになってはいけないのに、こんなにも想いをつのらせる。私はまるで罪人だ。

「わかった。いつものフルーツタルト、食べたくなったんだろ」
 
 貴方は思い出したように言って、いつもの店のある場所へ先んじて歩く。私の返事もきかないで。私は、くるりと向けられた背中を小走りに追う。
 振り返らない背中を見つめながら、私は涙が溢れそうになる。
 今、この気持ちを私が叫んだら、貴方はどうするのだろう。
「ケーキなんかいらない! 貴方が好きです」って……。その広い冷たい背中に向かって。大声で。
 
 木枯らしに、葉の落ちたプラタナスの枝が風に鳴る。その街路樹の立ち並ぶ通りを行くと、いつもの店が見えてくる。フランス語のつづり文字で書かれた看板の白い壁の店は、大きなショーケースに美しく色とりどりにケーキが並べられている。その奥に10席ほどのティルームがある。オフィス街にポツリと建つ、ここは貴方と私の隠れ家だ。
 最初、会いに行ったとき、貴方は本当に驚いたし、本当に喜んでくれたし、本当に困ってくれて、ここへ連れてきてくれた。
 あの時と、同じ夜の風景が窓に流れている。足早に行き交う人。それを見下ろす高層ビル。ゆっくりと市街を流れる車の波。貴方と二人の時間が嬉しくて、静かなBGMが知っている曲になった時、小さな声で口ずさんだ私を、慈しむように見てくれた。
 でも今は、月に一度はわざとらしい偶然をよそおって、待ち伏せする高校生を手放しで喜んではくれない。自分でも馬鹿なことをしているとわかっている。
 
 初めて貴方に会ったとき、傍で笑っていたのは姉だった。あれから二年間、ずっと片思いは変わらない。「彼女の妹」――これが私の身分。何があってもこれは永遠に変わらない気がした。
「ただ、妹として会うだけよ……」
 姉への罪悪感を、身勝手に理由付けして、私は貴方に会いに来た。ただ会いたくて、会いたくて……。

「もうすぐ、卒業式だね。何かお祝いしなくちゃね」
 向かい合った席で、貴方は前髪を掻き揚げて、そしてテーブルに頬杖をついてしみじみと言う。そして、入れたての芳しいブラックのコーヒーの香りを吸い込んでから、カップに少しだけ口をつける。
 私の前に置かれたフルーツタルトとミルクティが、これで我慢しろと言わんばかりに甘い香りをいっぱいに漂わす。無言で、お前にはこれがお似合いだ。お前の欲しがっているものは、思い詰めても手に入らないと私に訴えかけるように。

「ここに来ること言ってんの? もう7時になるよ。家の人、心配してないか?」
 
 と、貴方は急に笑顔を閉じて、目を細めた。相変わらず愛想のない今日の私に、そろそろ手を焼き始める。腕の時計をちらちら気にする。長めの前髪を丁寧に掻き揚げ撫で付ける。そして、軽く溜息を吐く。
 その後、いつもなら、「送るよ」と言って立ち上がる。私はその言葉を聞いて、淋しくって泣きたくなるが、決して「いやだ」とは言わないで素直に頷く。
 でも、今日の貴方はいつもと違う。私はそれが解かっていて、ゆっくりとフォークで美しく飾られたタルトを壊してゆく。イチゴは白く汚れたお尻を出されて、カスタードが醜くフルーツにまぶされる。「破壊」する快感は、誰でも持っているのだろうか。目ので、折角の芸術的ともいえる美しさを壊されて、眉間に縦皺を寄せて見つめている貴方が、愉快でたまらない。「美味しい」って、口に入れる私を予想して、もしかしたら「子供だね」なんて笑って見たかったのかも知れない。
 でも、怒ると思っていたのに、貴方は、突然すうっとティスプーンを持つ手を伸ばしてきた。手が止まる私の前から、ごろっと皿の上で転がったイチゴを器用に救い上げた。

「話があるなら、聞いてあげるから言ってみて」
 
 と、言いながら、スプーンのイチゴを口に放り込んだ。私はただ、その様子を唖然として見ている。私の皿から奪い取られたイチゴは、いつも宇宙より遠い貴方が、私に触れたような錯覚を覚える。体がきゅっと縮まって息苦しい。
 貴方はイチゴを噛み潰し、すっぱさに顔を歪めて、もう一度私に尋ねた。

「話があって来たんだろう? 今日はいつもと違うカコちゃんだね」

『カコちゃん』と言う言い方が不愉快だった。いつも、どんな時も『カコちゃん、カコちゃん、カコちゃん』! 私が喜ぶとでも思っているの? そんな子供に言うような言い方! 不機嫌な顔を向けながら、その勢いで貴方に石を投げつける。

「お姉ちゃんと、なんで、別れたの?」
 
 貴方は私の石つぶてなど、ちっとも痛くはないように、冷めた目を向けた。

「君には、関係ない大人の次元の話だ」
 
 大人の次元? 貴方が30歳で、姉が27歳……。確かに大人なんだろうけど、呆れた言い訳。

「恋愛に大人とか子供とか、ラインを引かなきゃあだめなの?」
「君には答えたくないってことだ。たとえ彼女の妹でも……」
 
 そんなこと解かってる。貴方をこうして困らせるためにのみ存在している恋人の妹。おまけに姉がかわいそうだなんて、少しも思ってない悪魔のような女。
 
 テーブルのミルクテイが、冷めて香らなくなった。食べられなかったタルトがゴミの様に、その横で解けている。
 不愉快そうな顔をして、貴方はぬるくなったコーヒーをこくりと飲む。
 姉との関係も、私との関係も全て消失しているのだと、暗に私に告げるように窓に注がれる貴方の視線。
 私は、これが最後の機会だと思った。今までじっと我慢してきた一言を、思い切って口に出してみよう。全てが壊れた今だから……。

「ねえ、由岐さん。さっきお祝いしてくれるって言ったよね? 卒業の」
 
 貴方は、話題が変わったことに安堵している。顔にうっすら笑みが浮かぶ。私の大好きな爽やかな微笑みが私の言葉を待ちわびる。

「ああ、いいよ。何か欲しいものがある? 記念にプレゼントするよ」
「貴方の一日を私にください」
「え?」
「卒業してから、一日だけ、私に会って下さい」
 
 そう言ったあとで、テーブルの壊されたタルトに視線を落とす。膝の上でグッと手を握り締める。拒絶される怖さが、体を縛る。
 返事に困るのは解かっている。姉と別れたということは、こうして私に気を使って会う必要なんか、貴方にはない。勿論、可愛がることもないし、泣こうがわめこうが、関係のない年下の女の子で済む。
 ましてや、あって欲しいなんて、いくら優しいあなたでも、無理だと断るのは当然だ。

「解かった。いいよ……。卒業式の済んだ次の日曜日に、空けておくよ」
 驚いて顔を上げ、貴方を見る。
「ほ、本当ですか? 由岐さん。ほんとに会ってくれるの?」
 貴方は、いつもの表情で優しく笑う。
「ははは、君が言い出したんだろ? いいよ。時間はまた連絡する」
 
 その笑みに羞恥心が引き出され、私は火照ってくる頬に手を当てる。
 思いがけない言葉は、大人の余裕? 30歳の男が、「可愛い」なんていうレベルの女の子をあしらうのは簡単なことなんだろう。何度も突然に会いに来た私の気持ちは解かっている筈だけど、きっとその時の接し方だって自信が有るのだろう。

「解かったら、もう遅いから帰ろう。途中まで送っていくから」
 
 貴方は、嬉しさが私からあふれ出てしまわぬうちに、二人の時間に終止符を打つ。テーブルの伝票を掴んだ貴方の手を、私は悲しい気持ちで見つめた。
 
 
 外は、肩を窄めても首筋に冷気が忍び込むほど冷えていた。
 貴方はコートの襟を立てて、
「寒いね」
 と言った。私は、貴方と並んで顔を見上げながら、
「うん、寒いね」
 と答えた。
 勿論いつものように、暖かい手はコートのポケットから出て来そうにない。私はまた、がっかりしてついて歩く。
 でも、貴方にとってつまらない繋がりが、まだ終わらなかったことに、私の心は溶けてしまうほど暖かく燃えている。
 また会える……この喜びは色のない雪の原が、春が来て色とりどりの花に覆われたくらい大袈裟に、私を有頂天にする。
 胸できゅっと掴んだコートの袷に、切なさを封じ込めて貴方の背中を見つめた。
 


 「香子、高校の制服、クリーニングに出しておくね」
「うん……」
 ハンガーに掛かった慣れ親しんだ制服を、母が取り外して腕にかけた。私は振り返り、その様子を見ている。
「卒業しちゃったね」
「うん。楽しかった。3年間」
 物悲しいような、嬉しいような、相反する気持ちが湧いてくる。
 卒業しても、私は何も変わらないのに、周りの全てが変わって行って、きっと私を違う人間にしてしまうのだろう。時はそのために刻まれて、私は次第に幼いベールを脱いで行く。

「香子、その口紅赤すぎるよ。こっちの方がよいよ」

 ドレッサーの前で化粧する私に、姉が傍に来て鏡を覗き込んだ。
 そして、顎を持ち上げ、手に取ったピンクの口紅を軽くひく。
「ほら、黒い髪にはピンク系の方が可愛くって似合うでしょう?」
 姉は、私の下ろした長い髪に指を入れながら、鏡の中の私の澄ました顔に頬を近づけてきた。
「今日はデートかな? 随分念入りにお洒落しているじゃない」
 と、ひやかす様に笑いかける。私は答えずに、鏡の中で頬笑む姉の大きな瞳をじっと見つめた。
 そう……。今日は貴方との約束の日。
 何も知らない姉の笑顔に、胸がざわつく。でも、それよりも、私は姉を責めてしまう。貴方と別れても、笑っているこの人のことを。
「お姉ちゃん……。なんで、由岐さんと別れたの?」
「また、その話しかあ。まあ、香子は由岐也が気に入ってたものねえ」
 苦笑した後で、姉は深く溜息を吐いた。
「だからね、彼に転勤が決まって遠くに離れちゃうことが一つ。私がまだ、結婚に踏み切れないって事が一つ。それに……」
 彼女の明るい顔が曇ったように見えて、私は恐る恐る振り返り、姉を覗きこんだ。
「由岐也……、はっきり言わないけど、好きなオンナの人がいるのかも知れない……。何となくだけど、最近そんな気がしてた。オンナの勘ってやつ」
 抑揚のない呟きが、独り言のように放たれる。
「え……」
 私の口紅の色がくすんで見える。姉は、強がった言葉を閉じて、目を伏せた。
 二人の間の葛藤を知るものなど誰もいない。明るい笑顔の後ろに、きっと涙の跡を隠しているのだろう。思わず唇を噛んだ。
「香子。私と由岐也はもう終わっているから、忘れるつもり。きっと別れる運命だったのよ」
 姉が言った運命という言葉が、妙に悲しく聞こえた。
 
 
 
 三月の空は、随分明るい色になった気がする。
 でも、空気はやっと春の香りを含んだばかりで、まだ頬を撫でてゆく風は冷たい。
 
 私は貴方を待っている。
 ――『駅で午後一時』
 滑稽なくらい短いメールを信じて、待っている。
 長い髪が好きだと言った貴方のために、いつもは束ねた髪を下ろした。はじめてお化粧もして、初めてコロンもつけた。制服ではない白いワンピースに、ヒールのパンプスですっと背筋を伸ばして立つ。
 今日は一緒にいられる。少しだけ、貴方に近づける。
 
 日曜日の午後の駅は空いていた。私は構内の大きな丸い柱に背をもたせ、ひたすら駅に近づく人に目を凝らす。時間が経つほどに慌しく視線を巡らせ、背伸びをし、髪を揺らせて四方に顔を向ける。
 
 四十分、約束の時間を過ぎた。
 私は柱に肩をつけて、俯き加減で広い出入り口をぼんやり見ている。私の存在は次第に色を失くして来て、背中の丸い柱と同化する。
 身動ぎもせず、ただ貴方を待っている姿は哀れなものだ。目だけを動かして、駅の壁のシンプルな丸い時計を見る。
 都合が悪くなったのだろうか? 時間を間違えて言ってきたのかも。夕べ飲みすぎて寝過ごした? それとも、病気……。きりがないほど理由を見つける。どれも本当に思えてくる。
 悲しい顔がしたいけど、もう少しだけ我慢しよう。もしかしたら、タクシーで駆けつけてくれる。ゼイゼイ言って走ってきてくれる。
 貴方に会えたその時は、涙の跡だけは見せたくない。これ以上ない満面の笑みで迎えたい。
 今日で最後。これで会えないと分かっているから。
 
 その時、突然鳴り出したケータイに、ドキッと鼓動が高くなった。バッグから取り出した手の中の携帯は、貴方の名前を光らせている。
「もしもし、由岐さん?」
 耳に当てる前に声が出た。走っているわけでもないのに息が弾む。

――「カコちゃん……」
「どうかしたの? 待ってるのに」
――「ずっと、迷っていた。君に会うことを」
「えっ? どういうこと?」
 
 貴方がふうっと溜息を吐くのが解かった。重苦しい沈黙は、不安の塊に私を鎖で雁字搦めにする。身動き出来ず、貴方の声を聞き漏らすまいと静かに呼吸を繰り返すだけ。

――「今日、この町を出てゆく。最後に、君に会って別れを言うつもりだった。だけど、このまま会わないで別れよう」
 
 貴方の言葉は余りに突然で、私は息が止まりそうだった。でも、別れる覚悟なんか、当たり前のように出来ている。私には届かない人だもの。でも、どうして会ってくれないのか解からない!

「由岐さん、これからの約束なんて私は望まない。ただ、一度だけ、恋人みたいに過ごしたかっただけ。私のために時間を使って欲しかっただけ。あの隠れ家のようなケーキ屋から外に出たかっただけです」
 
 頬に、失意の塊が涙になって零れ落ちる。頭の中は、まだ貴方を説得しようと懸命なのに、心が落胆してしまうと言葉も出てこない。
 泣いてる私に沈黙していた貴方の声が、また少しトーンを変えて耳に届いた。

――「ずっと、君を見ていたよ。白いワンピースが眩しかった」
「え!……」
――「髪を下ろすと、すごく大人びて見えるね。いや、化粧しているからかな?」
「由岐さん! どこ? どこにいるの?」
――「とても綺麗だよ……。カコちゃんなんて呼べないな」
「由岐さん! 教えて! どこなの?」
 
 ケータイに叫ぶなんて、みっともないと思う。両手でぎゅっと握り締め、口を寄せて怒鳴る。でも、押さえられなかった……会いたくて。
――「カコちゃん……。大人気ないのは俺の方だよ。君に会って、プレゼントを渡して食事して、そして手を振って別れる。そんな簡単なことに自信が無い……。君に会うのが怖くなったなんてサイテーの大人だ」
 
 意味が解からない! 

――「君が月に一度会いに来てくれるのが、いつの間にか楽しみになった……。赤い頬をして、俺を見てくれるカコちゃんが可愛くて仕方なかった。勿論、始めは香織の妹として見ていたよ。でも、君を待ってる俺に気付いて……。だから、会ったらどうなるか解からない。会わないで綺麗に別れたい」
 
 ケータイを耳に当てたまま、ふらふらと貴方を探す。

――「俺は君にとって、良い大人でいたい。12才も離れた男のことなんて、君ならすぐ忘れられる。これから世界が広がってゆく君には、きっと容易いことだ。それに香織もこれ以上傷つけたくはない。俺さえ消えれば、全て元に戻る」
「由岐さん! どこ?」
――「さようなら、もう時間だ。今日は本当に悪かった。会わないで行くね」
 
 貴方のケータイから、発射のベルが聞こえた。ホーム!!
 改札を駅員の静止も聞かずに走り抜けた。階段を一気に駆け上る。まだ、この上のホームでベルが鳴っている!
 息の続く限りの全力疾走で、電車の最後尾へたどり着く。無我夢中で、閉まりかけたドアに取り付き滑り込む。
 
 電車は混んでいた。吊り輪につかまった人や閉まったドアに凭れた人。座席は全て埋まっている。
 ゴトンと車両が揺れ、ゆっくり快速電車は滑り出した。ウィ?ンとうなるモーター音。だんだんと窓の景色が変わりだす。
 
 貴方を探す。
 新幹線の乗り継ぎ駅まで、この電車が乗り入れている。間違いなく乗っている。
 貴方を探す。一心不乱に。
 会わなければ、終わったのか、始まったのか、何も分からない。
 人にぶつかって、睨まれて、背と背の間をすり抜けて、とにかく、とにかく会わなくては、止まったままだ、私の心は。
 
 車両を渡ってゆく。息はまだ弾んだままだ。7両目、6両目、5両目……、4両目、3両目……。
 8両編成の電車は、左右に小さく揺れながら、右手の窓に静かに波立つ海を抱いて、左の窓に連なる家並みの屋根を広げて、速度は最速になった。

「由岐さん」
 海に面した二人掛けの奥の座席に座り、窓に肘をついて、額に手を当てている貴方を探し当てた。瞳を閉じたまま、貴方は思い悩むようにこうべを垂れ、まるで電車に乗っていることさえ忘れているように、周りに心を閉じていた。

「由岐さん!……」
 
 今度は少し大きい声が出た。私の声に、貴方がゆっくり顔を上げる。そして、大きく見開いた目が私を見据えて、「あっ」と小さく声を漏らす。
 私は眩暈を起こして倒れそうなほど、整わない呼吸にあえいで、大きく息を吸い込んでいた。体は、今頃じっとりと汗ばんでいる。
 貴方は、すっと立ち上がると、眠っている隣の人の前を通って、私の前に立った。そして吊り輪を片手で掴むと、私に微笑んで言った。いつものように、困った顔をして……。

「負けた。かなわないな、君には」
 
 いつもポケットの中にあった貴方の手が、私の背中に回された。初めて知った貴方の胸の大きさに、私はしばらく感動していた。体中の筋肉が溶けてしまったように貴方の胸にもたれかかる。そして、震える両手を貴方の背中に回した。
 貴方は電車の揺れから守るように抱いてくれて、もう一度囁いた。

「これからも、かなわないだろうな。君には……」
 
 私はまた会いに行く。貴方がいるところなら、どこまでも……。
 
      
          
                    (END)