<19>優しい場所

 

 土曜日――――。

 ベランダに降り注ぐ朝の陽射しを見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。

 そして、明るさを増してくる外の景色とは反対に、曇りがちの心に溜息を吐いた。

 いつもなら、この時間は既に会社へ出ている。勿論休日出勤になるが、不規則に忙しさが増す設計課では、土日も出勤が認められていた。

 お役所の仕事が決ってから、土曜日はほとんど出勤している。日曜日だけは、体を休めるために出社はしなかったが、特に出かけたりもしないで、ゴロゴロと時間を過ごすだけ。

 設計課に勤務して、私は本当に仕事しかしてこなかった。一般職ではなく、資格をもった女というのが生意気に映るのか、他の課の社員から誘われたこともないし、あっても仕事以上に大事だと思うことが出来なかった。

 貴方に会うまで、私は本当の恋なんて知らなかったのかも知れない。でも、知ってしまった恋心が、これ程苦しいものだなんて、私はよくよく恋愛というものに縁遠い女だ。

 昨日の貴方からの電話を、思い出しては肩を落とす。

 貴方の奥さん……、優子さんの存在が、リアルなものとなって、私を責め続ける。

 

 ぼんやりとテーブルに掛けて、冷めてしまったコーヒーカップを見つめていると、玄関のチャイムが鳴った。

「朝から、誰だろ。宅急便かな?」

 気だるそうに立ち上がって、インターフォンを取った。

「はい……」

――「美也さん? 良かった、いたんだ。山名です」

「え? 山名?」

 私は驚いて、受話器を壁に掛けると、玄関へ向かった。

 ガチャッとドアを開けると、Gパンのポケットにに両手を突っ込んだ、Tシャツ姿の山名が、照れ臭そうに笑いながら立っていた。手に白い綿のジャケットを掛けて、全くの普段着だ。

「山名……。どうしたの? びっくりした」 

 彼は、クシャクシャと頭を掻きながら、

「どうしたもこうしたもたいへんですよ! とにかく入っても良い?」

 と、笑いながら言った。大変という言葉に、また仕事で何かあったのかと、

「いいよ。どうぞ上がって」

 と、スリッパを置いた。山名はドアを閉めると、きょろきょろしながら上がってきた。

「ソファに掛けて。コーヒーでいい? で、どうしたの?」

 キッチンで、コーヒーを入れながら、ソファに掛けた彼を振り向いた。

「ここが、桜井美也の住処か」

 山名は、部屋の隅々を探るように見て、足を組んだ。

「山名、大変って、どうしたのよ。何か不備でも見つかったの?」

「あはは、大変は嘘。そういわないと、鬼の住処には入れないでしょう?」

「山名! 何よ、それ!」」

 クスクス笑う彼に、仁王立ちになって怒鳴った。

「悪い悪い! 前もって誘ったら、いつものように断わるでしょ? 会社に電話したら誰も出なかったから、まだ出社してないんだと思って。今日はドライブにでも行こうかと誘いに来た」

 私は、ふうっと力が抜けた。本当にお騒がせな奴。

「美也さんってさあ、仕事ばっかりで休みも潰しちゃうし、たまには気分転換も必要だろ? 今日は僕が犠牲になってあげるから」

「犠牲って、悪かったわねえ。どうせ淋しい鬼ですから」 

 頬を膨らませて、彼を上目遣いに睨んだ。山名は、ぶっと噴出して、けらけらと楽しそうに笑った。

 彼の唐突な誘いに驚いたが、それでも、今日は断わりたくなかった。彼の言うとおり、良い気分転換になるかも知れない。

 私は、怒った顔を笑顔に変えて、山名に言った。

「有難う。鬼の住処に乗り込んできた勇気に免じて、今日は付き合ってあげる。その代わり、ひつじちゃんでいなさいよ。絶対」

「チェッ。前もって釘を刺すなんて、相変らず、嫌な性格」

「じゃあ、用意してくるから、お利口にしててよ」

 彼の前にコーヒーカップを置いて、子供をなだめるように言うと、

「は〜い」

 と、山名は何だか嬉しそうにして、少し照れて赤くなってる。私は彼を見て、愉快な気分になった。

 

 こういう一日も必要なのかも知れない。

 特に山名のように、言うなれば優しい男の人と過ごすって言うのは、気持ちが穏やかになってくる。

 これが甘えるってことなら、関係ない彼には悪いと思うけど、貴方のことで思い悩んでいた心には、心地よい時間だった。

「ところで山名。どこへ向かってるの?」

 前方の高速の入口を見ながら、彼に尋ねた。

「白川郷」

「え? あ、あの岐阜県の合掌つくりの里?」

 驚いて顔を向けた私に、山名はにっこりと笑いかけた。

「そう。あそこの民家は素晴らしいんだ。建築家として、絶対見ておくべきだと思う」

「見ておくって、車で白川郷まで行ってたら、今日中に帰って来れないかも。分ってるの?」

 山名は、涼しい顔をして、私を一瞥すると、高速に乗った。

「明日、何か予定でもあるの?」

「ない……けど」

「じゃあ、文句言わない。きっとあそこが気に入るから」

 と、明るい顔で私に言う。

 山名は、カーステの音量を上げて、ハンドルを握る指で、リズムを取り始めた。私は、そんな彼に諦め気分で、溜息を吐いた。

 フロントガラスに降って来る陽射しは、強くなってきた。

 緑の多い、静かな山里で過ごすのも、一興かもしれない。私は、

「分った。私は初めてだし、噂に聞く合掌つくりの家、見てみたい」

 と、建築士の顔で、山名を見た。彼は爽やかに微笑み、コクリと頷いた。

                    <次話へ>

【目次ページ】

 お読み頂きありがとうございます。次話、山名との初デートです。