第八話 告白

 

 休日。
 一人暮らしの私には、結構つまらない日なのかも知れない。
 今日も、テキトーに食事して、ソファに転がり読みかけの本のページをあける。
 ごろりと仰向けに体を横たえると、ソファに背中が沈んでゆく。
「うふっ、大矢寝苦しかっただろうな、このソファじゃあ」
 と、独りごと……。私の身長でもゆったりとはいかないから、彼には酷なサイズだっただろう。

 寝苦しそうに背を丸めた姿を思い出して、ぷっと噴出してしまった。

 あの時、確かに一人でないというのは楽しいことだ。

 あんなことさえなければ、大矢と一日を過ごしていたかも知れない。少なくとも、彼といることに不快感はなかった。

 大矢の事を考えると、途端に彼の唇の熱が蘇ってくる。私は指で自分の口に触れながら、お互いにただの同僚以外の気持ちなど持ってないのに、彼が私を求めてきた事に驚いた。男の人と、二人で過ごすという事は、関係を持っても仕方がないということなのだろうか。彼をそんな気持ちにさせたことに、後悔もしているし、反面、臆病な自分に苛立ちも覚えている……。なんだか、複雑な気分だ。

 今まで、大矢の事は何も知らないし、知ろうとも思わなかった。確かに多田君が辞めて、彼とほんの少し距離が縮まった気がするが。

 テーブルの上の冷めてしまったコーヒーカップを見つめた。4人掛けのテーブルに椅子が二つ。一人には広いテーブル。何だか淋しい。
 いつも繰り返す、一人の食事、一人の時間、一人の部屋……。
 いつまでこれを続けるんだろう。
 最近では、故郷の母からのお見合いの話も来なくなった。
『ご馳走様』と言って微笑んだ大矢の顔が浮かんできて、胸が熱くなった。でも、もうあんな事、起こることはないだろう。

 私はいつものように、時間を持て余して夜を迎えた。読みかけだった小説も、もの悲しいラストまで読み終えてしまった。今日はどこへも出かける気分になれず、ずっと部屋で一日を過ごした。

 ベランダの窓を染めていた、夕刻のオレンジ色が、いつしか静かに闇に色を消し去られている。窓に近寄って、ゆっくりカーテンを引く。

 今日も一日が終わる。
 時計の針が七時をまわったのを見て、店のロッカールームの混雑を思った。
「皆、もう帰ったかな?」

 平日の店は、案外暇だったかも知れない。どうしても、大型店は土日に客が集中する。でも、一人で朝から働いている大矢は忙しい思いをしただろう。

 店のことを思いながら、食事をしようと冷蔵庫を開けたとき、
『ピンポ〜ン』
 突然、玄関のチャイムが鳴った。
「また、新聞の勧誘かなあ。オートロックの部屋にすれば良かった!」
 と一人呟きながら、ドアの前で不機嫌丸出しの言い方で尋ねた。
「どなた〜?」
「俺……大矢です」
「え?」
 瞬間、私の体は思いがけない名前にフリーズ状態になった。
「大矢……?」
 立ち尽くしてドアを見つめた。確かに大矢の声。

「ど、どうしたの?」
 慌てて開けようとして……。でも、ドアノブに手がすぐには伸びない。一昨日のことが脳裏を掠める……。
「森野さん、話がある……少しだけ……」
 ドアの向うで彼の小さな声を聞いた。話……。何か店にあったのかも知れない。大矢の声は沈んでいるように聞こえた。
 ふうっとため息を吐いて、ドアを開けると、背の高い彼の顔が、入り口の上の方でじっと見つめていた。
「どうかしたの? 大矢。何か店であったの?」
 心臓はドキドキと落ち着かないが、年上らしく笑顔も添えて訊いた。大矢は固い表情で、私をじっと見た。
「少しだけ話をさせてもらえませんか?」
「え? あ……一昨日の事は気にしてないよ。忘れて」
「それもありますが……。出ませんか? 外に……」
 彼の真剣な目に心がざわつく。どうしたんだろう。ここでは話せないこと? 私は、返事を躊躇った。
「下に車を止めてますから、待ってます」
 彼は、私の返事も訊かずに踵を返して、階段を下りて行った。

 溜息が出る。彼の固い表情が、私の心も不安にした。
 もしかしたら侘びたいのかも知れないと、思った。あれで、結構律儀なとこもある。
 そうだ。きっと謝りに来たんだ。ギクシャクしたままじゃあ、大矢も遣りにくいのだろう。そう思うと気持は軽くなった。
 私はとりあえず化粧をして、着替えた。そして、何となく浮かない気持ちで部屋を出た。

 マンションの玄関を出たところに、白い車が止まっていて、中に大矢の横顔が見えた。
「大矢、ごめん。お待たせ〜」
 車の助手席に乗り込みながら、わざと明るく言った。
「…………」
 何なの? 無視! 大矢は、チラッと私を見たが、何を言わないで視線をフロントに戻した。 
 そして黙りこくって、車のエンジンをかけた。
「どこ行く気?」
 少しムッとして言うと、
「飯、食ってから話します……」

 と、私に何も聞かないで、途端にハンドルを切って、車を通りに向けた。そのまま、どこへ行くとも告げずに、半ば強引に車道の流れに割り込み、アクセルを踏んだ。
 それから、訳のわからない沈黙が続いた。彼は私に全く目を向けようとしないで、前を見つめたままハンドルを切る。
 街のショーウインドの眩い灯りが彼の横顔を撫でてゆくが、固い表情を崩さない。何かが遭ったのは確実のようだ。私は不安な気持ちを抱きながら、彼と同じ様に、黙ってフロントガラスに現われる景色を目で追った。
 しばらく、海沿いの道を走った。そして、ヨットハーバーに近いイタリアンレストランが見えると、大矢は車をその駐車場へ入れた。
 そこに入って、海側の窓辺の席へ向かい合って座る。大矢は、頬杖をつき、相変らず黙ったままで暗い海を眺めている。ウエイターが注文を訊きに来ると一言、

「アラビアータ」

 と告げると、また口を閉じて、海に目を向けた。

「あ、私はカルボナーラ」

 と、慌ててウエイターに頼んで、大矢を見る。何なの? 普通、「何にする?」とか、訊かない?
 そして、パスタが運ばれてくると、無表情で食べ始めた。私が思い余って、「ねえ」と声をかけても知らん顔……。なんだかふて腐れたように、私を見ないで、パスタをズルズル啜る。

 まあ、いいか……と、私も食べ始めた。いつもなら笑い掛けないまでも、いろいろと話しかけてくるのに。何で言葉も交わさず、気まずい雰囲気で食事をしなければいけないのか……。パスタの巻きついたフォークを口に押し込みながら、顔を上げた。すると今度はじっと見つめられていて、目がバッチリ合った。びっくりして思わず咳き込んでしまった。
「ゴホッ、ゴホッ……オエッ。ちょっと! 大矢! 何なのよ! 用がないなら帰るわよ」

 私はついに切れた。全くさっぱり、彼の考えている事がわからない。大矢は、怒っている私を前にして、
「出ましょうか……」

 と、一人パスタを食べ終えて、立ち上がろうとしている。
「ちょっと! 待ちなさいって! まだ食べてないよ!」
 何なの一体! 
 確かにずっと仏頂面で、にこりともしない奴だけど、こんな不機嫌な態度を私に対して取った事がない。
 私の事を怒っているように思えた。もしかしたら、あの朝拒否した事を今になって怒っているのか……。昨日は笑ってくれたのに……。
 味もよく分らないまま、スパゲテイを食べ終えたが、自分が誘っておいて、不機嫌な顔をされたのではたまらない。私も段々腹が立ってきた。
 
 もろに不愉快な顔をした私を乗せて、車は夜の海へ遣ってきた。
 波止場には、オレンジの街灯が灯り、波にゆれるヨットの穂先がリズミカルに上下動を繰り返すのを照らしていた。
 遠くで船の汽笛の鳴く声もしている。
 黙って大矢が車を降りた。私も彼の後に続く。
 そして、無言のままで、船を係留するコンクリートの岸壁に腰を下ろした。
 丁度心地良い風がさわさわと、並んで座る私達に吹いてきた。

 大矢の髪が夜の浜風に撫で付けられ、眉根を寄せて目を細める。膝を立てて、手をその上に乗せて、暗い海に浮かぶ、ほのかな船の小さな灯を見ている。

 静かな波の寄せ返す潮騒が、無言のままの二人の間を流れる。大矢の顔は、私に向けられる事はなかった。
 しかし、何故このイケメン君は、こんな夜に年上の女なんかとムーディな海に来ているんだろう。私には、今夜の彼がさっぱり解らなかった。
 

 しばらくして、大矢は意を決したように、海を見つめたままで、突然話を切り出してきた。
「森野さん、本当に多田さんの事好きだったんでしょう?」
「えっ? な、なんで……」

 思っても見ない言葉に、困惑して大矢を見る。
「わかりますよ。森野さん単純だし。辛くないですか?」

 やっと私を振り向いた目は、真剣だった。私は思わず、上気した顔を視線から逸らせた。
 でも多田君の事を、何で彼に話さねばならないのか……そう思うと、遠慮のない大矢の言い方が不愉快だった。

 私は、溜息を吐くと、ふっと笑って彼を見返した。
「ふふっ! びっくりした。あんたに多田君の事心配してもらってんだ」
 意地悪な言い方だと思ったけど、あっさり気持ちの中へ踏み込もうとする大矢が許せない気持ちだった。彼には、多田君と私の事など、全く関係ないのに。
「多田君は好きだよ。でもね、少女じゃ有るまいし、そんな事で悩むタイプじゃないよ。私の逞しさは、貴方が一番知ってるでしょ? カノジョが欲しいくらいだよ」
「え、まあ、そうですけど。逞しいところが魅力的だったりしますから」
「は? まさか大矢。本気で逞しい女だなんて思ってるんじゃないよね? 逞しいなんて言われても嬉しくないし!」

「あ、いえ……」

 大矢は、しどろもどろで、返事に困っている。私はプッと噴出した。大矢もやっと、苦笑いを浮かべて頭を掻きながら、普段の顔をした。

「話って、その事? 多田君の……」
 優しく微笑んで彼を見る。
「いいえ。俺自身の事」

 大矢はまた、笑みを消して、暗い海を見つめた。私は、気にせず顔を覗きこんだ。
「何? 言ってみ」
 大矢はチラッと私に視線を向け、風に乱れた前髪を掻きあげた。
「宴会のとき、森野さん、俺を皿で殴ったでしょう?」
「ゲ! 思い出した? あはは、寝てたと思ってた。ごめんごめん」
「あの時は意識ありましたから……」
「え?」
「あんまり、貴方が優しいから、思わず本音吐いちゃったんですよ。頭に激痛が走った時はショックでした」
「大矢……」

 潮騒が大きくなった気がした。
 あの時の彼の言葉が記憶のゴミ箱から出てくる。もう、とっくに捨ててしまった言葉……。
『俺、お前を愛してる』
 間違いなくそう聞こえたが……。ジョーク……じゃあ、ないというの?
 私は海を見つめたままの大矢の横顔を睨めつけ、声を荒げた。
「悪い冗談は止してよ! 怒るよ。年上をからかうモンじゃあないよ!」
 どきどきと浮き足だつ心臓とは反対に、ははは……と軽く笑い飛ばした。
「考えて見なさいよ! これでも私は三十だよ。 大矢や、若い子に太刀打ちできないって!」
 てれ隠しもあったけど、私は彼に同情されているような気がして、言葉を真剣に受け取る気がしなかった。

 だってどう考えても、彼に愛されてるなんて考えられない!
「そう、言われると思ってました」
 大矢が深く溜息を吐く。
「でも、俺の正直な気持ちですから。だから、あの朝、本当に嬉しかった。俺だけの森野さんとの時間のような気がして。ちょっと舞い上がりすぎてしまいましたけど」
 フッと彼が微笑を向けた。淋しそうな微笑……。
「俺、歳の事なんか考えてなかったですよ。多田さんの事は気になってたけど」
 次の言葉を聞くのが恐いくらいだった。大矢の真っ直ぐな瞳は、私の心を射抜いてしまいそうだ。

 でも、彼の気持ちを、素直に信じることなど出来ない。私と大矢は、余りに歳が違いすぎる。
 彼は戸惑う私に向かって、はっきりと言った。

「貴女が本当に好きです」 
 大矢の澄んだまっすぐな目が、私を捕らえて離さない。
 突然の告白に、上昇していく体温をどう止めたらいいのか分らない……。乾いた唇が震えてくる。


 でも、何も答えてあげられない。
 私には彼の事をどう思っているのかさえ、解らなかった。
「大矢……。からかうのは止めて。こんな年上で何の魅力もない女に、それを信じてと言う方が無理な事だよ」
「何故ですか? 好きになるのに理由の説明が要るんですか?」
「もう! だから、いっぱい他に若くて可愛い子はいるじゃない! なんで私なんか……」
「森野さんしか考えられません。上手くいえないけど……」

 暗い海を見る大矢の横顔を黙って見つめた。嬉しくないといえば嘘になる。
 胸の高鳴りも火照った体も、彼の告白にときめいている気持があるから……。

 ただ、どうあれ、私の答えは既に決まっている。
「大矢……ありがとう」
「森野さん」
「でも、聞かなかった事にする。貴方の事は嫌いじゃない。多田君の事も関係ない。だけど、やっぱり貴方とは良き同僚でいたい……。貴方を好きになってしまったら、私、きっと一緒に仕事出来ない。今の関係を大切にしたいの……」

 風が当たって、停泊したヨットのマストがカラカラと音をたてる。
 暗い海に、それはとても悲しい響きだった。

「解りました……。覚悟はしてたから……。忘れてください。貴女の気持ちは理解できるから」
 と、夜空を見上げて言うと、大矢は立ち上がった。
「帰りましょうか。送ります」

 私は、『これでいい』と心で繰り返した。
 前を歩く大矢の背中を見つめていると、あの朝抱き締められた広い胸を思い出し、すがり付きたい気持ちがした。
 でも、慌てて打ち消す。
 後悔はない。二人には、これしか選択肢はないから。
 彼にはもっとお似合いの人がきっと出来る。こんな七つも年上の女じゃあなくって……。

 波止場を照らすオレンジ色の街灯を見上げた。その柔らかい光は優しくて、とてもせつなかった。

 

 ***

 

 

 次の日は、私一人の出勤日。 大矢は休みを取っている。

 彼が休みであることに、私はホッとしていた。今日は気持ちを乱さずに済みそうだ。
 
 ところが、朝から体調が悪かった。体に、気だるさが纏わり付いている。
 昨夜、一睡も出来なかったことが、溜まっていた疲れを呼び覚ましたような気分だ。
「森野さん? どうしたんです? すごい目が赤いし、顔色が悪いですよ」
「あ、大丈夫。夕べあんまり寝れなかったから……」
 すれ違う人に必ず声を掛けられた。相当にひどい顔をしているんだろう。

 七年ぶりに聞いた『好きです』という言葉の響きが、神経を高ぶらせたのか、そのまま夜明けを向かえてしまった。
 あの波止場の波の音が、まだ耳に残っている。大矢の言葉も全て……。

 バックヤードで、ボウっとしたまま在庫の確認をしていると、コスメの川田さんと大森さんが遣ってきた。
「森野さん、今日大矢君お休みですよねえ?」
「うん、休んでるよ。彼の定休日」
「そうですか……」
 と、私を通り越し、二人は通路で話し始めた。

「どっか、出かけてんじゃない? 大矢君」
「うん、そうは思うんだけどォ、いつもなら、短いけどォちゃんとメール返してくれるのよねェ。でも、昨日の夜は来なかったんだってェ……」
「そう、変ね」

 大矢と聞いて作業中の手が止まる。
 何だ。私にあんな事言っておいて、若い子達とメールの交換してたんだ! 妙に腹が立った。私には今まで、彼からの電話なんて全て仕事の話ばかりなのに……。
 やっぱりあいつの事なんて信用するんじゃなかった!
 頭の中で、昨日にこりともせず帰っていった大矢の顔が、急にニマ〜っと笑い顔になる。
 彼の言葉に動揺し眠れなかったなんて、こんなにボロボロの私は超バカ!

「ちょっと! 川田さん、早くコスメコーナーへもどんなさいよ。貴女相談員でしょ! バックヤードは関係ないはずよ」
 ビックリして二人が私を見た。
 そして、不服そうな顔を向けて、
「は〜い」
 と返事したが、出口で、
「嫌よねェ! 何でもうるさくってさァ、おばちゃんは」
 と聞えよがしに言って出て行った。
 ば〜ろ〜! おばちゃんで悪かっな! ……再起不能。ため息つきまくり……。

 今日は平日にも関わらず、来店客が多かった。
 おまけに大矢が休みの日は、忙しさも倍増する。改めて彼の存在の大きさを確信する。

「森野さん! キャラクターの棚品薄ですよ」
「お客様が商品お探しです」
「この在庫ありますか?」
 次々と声を掛けられて、てんてこ舞いになる。
 大体、こんなに広い売り場を契約社員二人で回すこと事態無理がある。
 パートとアルバイトは募集しても直ぐに集まるが、条件の悪い私達の待遇では、来ても長続きしない。
 大矢のように、大の男がこの条件の下文句も言わずに働いているのは奇跡に近い……。 

 私はともかく、大矢が辞めたらどうなるんだろう。辞めるなんて聞いたこともないが、もしかして、ここで正社員をめざすつもりなのだろうか。
 私は、毎日一緒に働いているのに、彼の事を何も知らない事に気付いた。
 どこに住んでいるのか、大学はどこだったのか、何故この仕事を選んだのか……正直、何一つ知らない。
 実際、彼は自分のことは何も言わないし、きっとこの職場で彼のことを詳しく知ってる人は誰もいないだろう。
 
 大矢の事を考えながらも、私は広い売り場のフロアを駆け回り、仕事をこなしていった。
 眠ってないせいか、ずんと疲労感に引きずられる。 体が重くて息が上がる。
 でも、気分が悪いなんていう暇もない。

 ところが、忙しさが一段落した午後、つい私の体が悲鳴を上げた。立っていられない……。バックヤードの通路でしゃがみこんだ。
「森野さん! どうしたの? 真っ青じゃないの顔!」
 うずくまった私を久野女史が見つけて、抱きかかえてくれた。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で……」
「何言ってるの! 普通じゃないよ! 誰か、肩貸して!」
 久野女子の叫んだ声を聞いた次の瞬間、目の前が真っ暗になって訳が解らなくなった。
 意識が薄れる中で、遠くに大騒ぎの声を聞いていた……。


 目覚めたのは、近所の病院のベッドの上。
 ベッドの隣りに葉山主任の心配そうな顔があった。
「大丈夫か? 森野。やっと気がついたか」
(大矢じゃないのか……)と、ぼんやり思った。
 何故か、そう思った。

「主任すみません。寝てしまったんですね、私」
「救急車で運んでもらったんだ。びっくりしたぞ。過労だってことだ。点滴済んだら、家で休め。明日も休んでいいからな」
「すみません。忙しいのに。店、大丈夫ですか?」
「ああ。皆、カバーしてくれるから。明日は大矢も来るし。調子良くなるまで休みとって良いからな」
「すみません」

 情けなかった……。
 病気で休んだことなんか一度もないのに。それも 店で倒れちゃうなんて。
 最悪の気分だった。


 点滴を受け、体調は何とか良くなった。
 重い足を引きずり、呼んで貰ったタクシーに乗り込んだ。
 タクシーの窓から夕刻の町を見ていた。今、店は買い物客でピークの忙しさだろう。不甲斐ない自分に、街並みが涙で滲んできた。

 部屋に戻り、ベランダから沈んでいく夕日を見つめる。
 私は何をやってるんだろう。
 この歳になって、年下の大矢に振り回されている。挙句の果てに一番に守ってきた仕事場に迷惑をかけた……。
 体のだるさと自己嫌悪で、立っているのが辛いほどだった。
 とにかく、元気になって明日は出勤したい。土日は忙しいのは解っている。

 私は、着替えてベッドに横たわった。
 天井が間近に迫ってくるような嫌な感覚に目を閉じ、うとうとと浅い眠りに落ち入った。

 
 ケータイのメロディが、静かな部屋に響く。
 もう窓には夜の帳が下りていた。私は、朦朧としたままの頭で、ケータイを手探りで、バックの中から取り出した。

「はい……」
 確認もしないで、ボウっとした意識のまま耳にあてる。

――『森野さん! 大丈夫ですか?』
 大きな声に目が覚めた。
「大矢?」
――『店で倒れたって聞いて……。大丈夫? まだ気分悪い?』
「ありがと、大分良い。ちょっと、疲れたかな。寝不足してたし……」
――『まさか俺のせい?』
 マズイ言い方になったと思った。彼に振り回されている自分を知られたくなかったのに。
「違うよ。過労だって。ずっと仕事忙しかったから……」
――『今から行きます』
「えっ?」
――『何も食べてないでしょ? 食べるもん届けますよ』
「あ、そんなこといいよ! 大矢!」
 ケータイが切れた。
「もう! 大矢のバカヤロ!」
 思わずケータイを布団の上に投げつけた。
「本当に勝手なんだから! 誰のためにこうなったと思ってんのよ!」

 顔を両手で覆った。
 また、あの朝のような事になったら……。今度も拒否できるだろうか。彼に気持ちを告げられた後なのに……。
 部屋に入れる訳にはいかない。
 でも……同時に、嬉しい気持ちも心の隅に感じていた。
 本当に心配されている。
 それに落ち込んだ気分での一人は辛い。彼の優しさに甘えたい。
 私の中で葛藤が続く。

 そして、玄関のチャイムが鳴った。

                      (次話へつづく)

 <目次ページ>

 久しぶりに更新しました。24日も更新します。3話ずつ纏めています。