命へ続く稜線〜山岳救助隊出動記

 

「山が静か過ぎるなあ……
 と、ストーブにかかったやかんの湯を急須に注ぎながら、ポツリと山村巡査部長が言った。
「ヤマさん、良い事じゃないですか。この土日は、登山者が押し寄せてきますよ。ブリザードにでもなって見なさいよ。救助に分刻みの出動だ」
 煙草を大きく吸って、長身の大谷警部補が窓に広がる谷川連峰を見つめながら、ふうっと煙を吐き出だした。
「この時期にこんなのどかな山は解せん。無事三連休が過ぎれば良いがな」
 ヤマさんも警部補と並んで湯のみを口にしながら、窓の白い宙に浮かぶように姿を晒す、天を衝く山々を眺めた。
 二人のベテランの山岳救助隊員の背中は角ばって逞しい。新人の葉山一樹は、訓練で使ったザイルを巻き取りながら、二人の話に耳をそばだてていた。まだ冬山救助の経験がない彼は、いつ掛かるか知れない出動命令にいつも緊張感を緩められずにいた。この部署に配属になってから、厳しい訓練に明け暮れ、山岳救助のノウハウを叩き込まれた一年間だったが、彼自身、冬山の難しさは良く理解している。まして、救助に当たる状況を考えれば、並の技量では責任を全うすることなど出来ないと思った。雪焼けしたまだ学生っぽい葉山の若い顔もここでは笑みを忘れてしまう。
「葉山、初めての冬山だなあ。夏とはまた厳しさが違うからな、心してかかれよ!」
 後ろから勤務三年目の若い沖隊員が、笑いながら声をかける。ここでは、葉山の次に歳は若いが、既にその表情にはゆとりが感じられる。厳しい修羅場を経験した結果の自信なのだろう。
「はい。でも冬の谷川岳には大学のワンダーフォーゲル部で幾度も登っていますから、自信有りますよ」
 と、沖隊員を振り向き言った。
「ほう、それは頼もしい! しかしなあ、遊び気分じゃあこの仕事はきついぞ。なんせ命を背負って登るんだからなあ」
 と、五十過ぎの丸顔をばせてヤマさんが葉山に向かって言った。
「え?」
 葉山はヤマさんの言葉を訊き返そうとした。『命を背負って登る』――それは命を背負って下りるの間違いだろうと言いたかったが、また大谷警部補と話し出した彼に口を閉じた。

 谷川連邦はまるで一枚のパノラマ写真のようだ。県警山岳警備隊の待機所の窓枠の中に、青き空を背景に、天に浮かぶ氷塊のように純白の雄々しい姿を現している。それは地球上の奇跡の一つと言いたくなる程に美しかった。


 一月六日。
 朝から多くの登山者のパーティが土合駅に降り立った。小さい山間の終点駅は重装備の登山者で込み合っている。そして次々と、雪のちらつき始めた登山ルートへと入ってゆく。

 ヤマさんの皺の刻まれた小さな目が、鷹のように眼光を飛ばして鋭く厳しく、窓辺に立って、え立つ連峰を凝視している。その山々は昨日とはうって変わって、灰色の空に続く雲を頂上に抱きかかえ、まるで地鳴りをかすような重々しい表情をしていた。
「もう中腹まで吹雪いているなあ……
 ヤマさんの低い声が静かな待機室に響く。デスクを囲んだ隊員達六名は、置かれた天気図に各々ため息を吐いている。強い低気圧の接近で天気は急速に悪化していた。

 午後一時十五分。
 突然、午後の待機室に無線の雑音と叫び声が流れた。空気をつんざき、一気に緊張が走る。

――
『谷川岳ザンゲ岩付近にて滑落事故。一名負傷。救助出動されたし』

 隊員達は即座に装備を整えだす。皆、寡黙に表情も引き締めたまま手順をこなして行く。 腰の安全ベルトについたカラビナの音が、カチャカチャと動きに合わせて鳴る。
「関西山岳会、六人パーティ。一人滑落するも、無事救助。しかし足を骨折。ザンゲ岩にて雪洞を堀りビバークする。四人は自力下山を試みる」
 大谷警部補が、耳に当てたヘッドフォンの無線を繰り返して叫んだ。
「よし、集合。原田! 県警救助へり要請! 新潟県警にもヘリ出動たのめ!」
 次々と大谷隊長から端的な指示が飛ぶ。
「沖! 山岳会に連絡して、至急集まってもらえ! 救助に参加してもらう。それと所属の関西山岳会に連絡と確認を頼む」
「はい。隊長」
 葉山は、ふと窓に目をやった。午前中チラつく程度だった雪が、既に斜めに吹き降ろされている。新人の葉山でさえ谷川連峰が吹雪いて、非常事態になって来ているのが解る。これでは100%ヘリでの救出は無理だろうと思った。

 
 谷川岳登山道入口あたりには、登頂を断念したパーティが次々と下山してきていた。雪はますます激しくなり、視界を遮る。
 装備を終えた山岳救助隊六人は、一旦登山道入口あたりに陣取り、隊長の大谷警部補の指示を待っていた。大谷隊長とヤマさんは、県警、消防、地元山岳会と打ち合わせに入っていた。
「これは結構新雪が積もるなあ。山は大荒れだ。もし明日まで雪洞でビバークしたままだったら、気温が夜ぐんと下がるから助からんなあ……
 三十五歳の、精悍な顔をした原田隊員がポツリと言った。
「地上から助けに行かないと勿論ヘリは無理だしね」
 若い沖隊員も深いため息を吐いた。空を見上げても天候が回復する兆しは全くない。
 葉山も初の冬山救助に暗雲が垂れ込めているのを感じ取っていた。

「あ、あのう……救助隊の人達ですか?」
 突然、オレンジ色のヤッケの少年が話しかけてきた。
 葉山は傍に心細そうに立つ少年に、
「ああ、そうだけど、何か用かい?」
 と、微笑み掛けて訊いてやった。すると、突然少年は、90度体を折り曲げて、頭を下げた。
「お、お願いです! お願いです! お父さんを助けてください! 連絡があって、足を折って動けないんです! 助けて……
 驚いて目を見張る隊員達の前で、中学生くらいの少年は涙に声を詰まらせて、それでも頭を上げなかった。葉山はそっと彼の震える肩を掴んで、顔を上げさせた。少年は涙を顔中に零して、泣き声を堪えて唇をきつく噛んでいる。
 原田隊員が進み出て、少年の肩を叩いて言った。
「心配するな! 助けに行ってやるから。お父さんの名前は?」
「はい、大矢 歩です。下山したら温泉に一緒に入ろうって……約束してたんです……
「わかった。泣くな! 無事に連れ帰ってやる! 君の名は?」
「亮太です……
 少年とのやり取りを、打ち合わせを終えた隊長とヤマさんも立ち止まって見ていた。
 集合がかかり、集まった隊員の顔には、少年のけなげさに言い知れぬ闘志がっている。山に立ち向かう勇気が体中に溢れていた。
「ようし! 第一陣、しゅっぱーつ!」
 大谷隊長の掛け声が、雪に音を奪われた深い山々に木霊した。
 
 登山口から鉄塔広場まで、長く樹林帯が続く。人間の手を拒んだ自然のままの樹木は、まるで意志を持っているかのように、山の裾野を覆いつくしている。乱雑に生えた巨大な針葉樹が立ち塞がり、風と雪の脅威に立ち向かっている。しかし樹林帯の中を吹き荒れる風雪はぴゅうぴゅうと枝を鳴かせて、ますます強くなってきた。
 漸く樹林帯を抜けると連なる白い山々が一望できた。もう風雪を弱める木々の加護は無い。
「ようし!尾根道を行く! アンザイレン用意!」
 隊長の言葉で、一本のザイルに、各々が腰の安全ベルトのカラビナを通した。救助隊は一本のザイルに繋がれた事になる。
 尾根に出ると真っ直ぐには立っていられない程の強風に見舞わせた。風速は、十五メーターを越えているだろう。それに体にぶつかる雪はまるで砂粒の様に硬さを持つ。風と相まって痛みさえ感じさせる。
 冬山に精通したベテランぞろいのこの一団は、そんな風雪の脅威にも足を止めることなく、一定の速さで進んでゆく。
 先頭を行くのは原田隊員。少しの迷いも見せず、膝上高さの新雪をザックザックと蹴散らしながら歩を進める。そして、隊長と沖、香野、多田、森隊員。新人隊員の葉山の後ろに最もベテランのヤマさんと、いつもの順列が続く。その後には、山を知り尽くした地元山岳会がつながり、後方は救急隊の登山経験者山下さんと、総勢二十人の布陣だ。

 時折、体を抱き込んで、雪もろとも放り投げようとする突風が襲う。葉山は緊張を隠せなかった。大学の登山では冬山を何度も経験してはいるが、幸か不幸か、今遭遇しているような荒れ狂った山に挑んだ経験はなかった。勿論、あったとしたらそれは遭難に続く序曲だ。次第に、猛威を振るう風に彼は恐怖と戦慄を感じて息を荒げた。
(俺は何故、こんな恐ろしい所にいるんだ! もし、風に煽られて谷に落ちたら死ぬんだぞ!)
 尾根下に口を開ける深い谷が、一段と恐怖を呼び起こした! 葉山の足取りは次第に重くなり、前の隊員と距離が開いてきた。恐怖感が体力を奪っていく感じがする。
「葉山!」
 突然、腕を掴まれて、耳元にヤマさんの怒鳴り声を聞いた。
「お前は、あの子の親父の命を今背負っているんだぞ! 俺達がもし辿り着けなかったら、上で助けを待つ親父は死ぬんだ! 解るか! もう、俺達は命を背負って歩いてるんだぞ! 恐れるな! 必ず登りきるんだ! 命のために」
 ヤマさんの言葉に、葉山は少年の涙の顔を、自分に深々と頭を下げたあの姿を思い出した。
「くっ!」
 気合を入れなおした。
(そうだ! もし、この山に負けて俺達が諦めたら、間違いなくあの子の親父の命は助からない。ヤマさんの言う通りだ! もう、俺達は命を背負っている! 自分がくじける事で尊い命を失うんだ!)
 葉山は雪で遮られた視界を、白いベールを透かすように目を凝らして前を見つめた。薄っすらと幻影のように一本の道のようなくねった稜線が続いている。それは間違いなく、あの少年の父の元へ続く道だった。命へ続く稜線だった。

 一行はゆっくりとラクダの背から、右方向にマチガ沢の切り立った岩場を見ながら進んで行く。
 と、急に隊列が歩を止めた。
「おい! 自力で四人下りてきたぞ! 山岳会から六人! 一緒に下山頼む!」
 猛吹雪の中、パーティの4人は、体中を雪に包まれてふらふらと隊員に近づいてきた。
「大丈夫か!?」
 隊長が声をかけた。
「俺達は大丈夫、このまま自力で下ります! 二人、残っています! ザンゲ岩の稜線より直ぐの岩場です! 行ってやってください!」
 4人の男達は、隊員とすれ違うたびに、謝罪の言葉と感謝の言葉を口にした。そして、山岳会に挟まれるようにして、下山して行った。
「葉山! お前も一緒に下山するか?」
 ヤマさんが、顔を近づけ言った。
「いいえ! 俺は少年と連れ帰ると約束しています。この背負った命を下ろす気はありません!」
 ヤマさんはゴーグルの中の目を細めて、
「ようし!」
 と、肩をポンと叩いた。
「もう少しだ! しゅっぱーつ!」
 隊長が手を振り下ろして合図した。一行はまた、ザンゲ岩に向かって歩き出した。
 すでに風は二十メートルを超えているかも知れない。雪は少しおさまって来たが……
 しかし強風で目の前の新雪が吹き上げられ、全く視界が利かない。それは、まるでもうもうと立ち登る濃い煙と同じだった。葉山には、隊列を繋ぐこの一本の赤いザイルだけが自分を導いてくれるモノだった。
 二十メートルの風速が体に当たると、まるで岩の塊を押し付けられている様に重さがある。姿勢を低く折り曲げて、風の塊をかわすように歩く。体に感じる温度は一メートル風が強いと一度下がる。既にマイナスの体感温度で、骨まで凍りつきそうな寒さだった。ピッケルを持つ手の感覚が薄れていく。しかし、ザンゲ岩まで後少しと思う気持ちが、全員に耐える勇気を起こさせた。
 そうしてガレ沢のコルに出て、岩稜を慎重に歩いて行くと、雪にも存在を隠されないほど切り立った岩壁を持ったザンゲ岩が姿を現した。雪煙が視界を遮るが、この巨大な凍った黒い岩肌は、雪の白しかない世界に、否応無しに山の偉大さを確かめさせる。吹雪の下で山は確かに雄々しくそびえ立っているのだ。

「おおい! いるか!」
 隊員たちが声を張り上げて進む。岩の陰は吹き溜まりの雪で腰ほどの降雪量があった。その深い雪の中から、赤い塊が飛び出てきた。
「いたぞ! 無事だあ!」
 先頭の原田隊員が隊列に振り向き大きくピッケルを持った手を振った。その声に、岩を目指して皆が歩みを速めた。
「救急隊! 山下さん! 頼む!」
 隊長の声にカラビナを外し後方から、救急隊員が列を追い越していった。
 
「有り難うございます! 中の者も無事です!」
 雪洞の周りに集まった救助隊に、待っていた中年の男は顎鬚を白く凍らせて満面の笑みだった。雪洞には救急隊員が潜り込んでいる。
「右大腿部骨折! 右肩脱臼! 右半身打撲! 脈拍、呼吸、意識正常! 出します! タンカ頼みます!」
 救急隊山下隊員は叫んで、応急手当の準備を始めた。
 沖隊員と葉山はタンカを準備し、中の男を引きずり出した。痛みに蒼白の顔を歪めたが、男の意識ははっきりしていた。
「あ、ありがとう……。面倒かけます」
 手当てをされながら、雪焼けの顔で覗き込む隊員に男は頭を起こして言った。
「大矢さん?大矢 歩さんですね」
 原田隊員が声をかけた。男は驚いたようで、顔を彼に向け目を見開いている。
「亮太君が待っています。帰りましょう!」
 その言葉に男は顔色をパッと明るくした。そして、「はい、有り難うございます」と小さく頷き涙の潤んだ目で、見守る隊員達を見回した。彼らの暖かい笑顔を受けて、男はもう一度言葉を繰り返した。
「有り難うございます!」
 男の目尻を零れた一滴で、隊員達は気持ちを充分に受け取っただろう。
 そして隊長の無線に怒鳴る声が、静かなひとときに響いた。
「二人救助! 一人負傷。命に別状なし! 下山する! 以上」

 隊員達はタンカに負傷者を頑丈に固定し、しっかりと四方で支えられるようにバランスを取りザイルをかけた。これからの下山がタンカを引きながらになるので、大変困難になる。沖、香野、多田、森の救助になれた隊員が四方のザイルを安全ベルトに固定し、手でバランスを取りながら下山を始めた。
 タンカを守るように隊員は後方につき、救助した一人が続き、山岳会の有志が先頭に立って、夕暮れの近い谷川岳を下山し始めた。一番後方から、ベテランのヤマさんが列を見守る。
 風は幾分弱まったが、新雪は帰りの尾根道にの高さまで降り積もっていた。そして時折吹く突風は、雪煙を巻き上げ、何もかもを神聖な山から排除しようとするように、深い谷へ向かって吹き降ろされる。
 細い稜線の下方に切れたつ崖の底には闇を湛えた谷が、不気味に轟々と地響きに似た唸り声を上げていた。風が我がもの顔に飛び交っているために鳴っていると解っていても、葉山には、死を招き入れる悪魔の咆哮に思えてならなかった。
 前を行くタンカを支える4人の隊員は、突風が吹く度に身を挺してタンカを守っていた。はじめての実戦を見つめる葉山は、タンカに覆いかぶさり守ろうとする、その危険を顧みない姿に涙が滲んできた……。命を守ること……それを当然の如く行う隊員達が眩しくて仕方なかった。

 急な勾配のある岩陵を過ぎて、漸く救助隊はややなだらかな尾根の踏破に入った。
 運の良いことに、あれ程狂っていた空から雪が降り止んだ。ただ風は変わらずに突然の強風を伴い、救助隊をなぎ倒そうとする。
 気温はぐんと下がった気がする。山は重い雲に覆われ、既に薄暗くなってきた。
 その時だった。再び突風が稜線を襲った。雪煙が隊列を包み込んだ。その激しさに葉山は膝を折って身を屈めた。
 一番後方を守っていたヤマさんが、葉山の直ぐ後ろで叫んだ!
 「しまった!」
 アンザイレンしていた葉山のザイルがギュンと張り詰めた。そして強い力で後方にひっぱられ、葉山は足をすくわれるように稜線上に叩きつけられ、谷へ向かって腹ばいのまま滑り落ちようとした。
「滑落!!」
 前の沖隊員が大声で叫んだ。その瞬間、葉山は反射的に手に持ったピッケルを力の限り、雪の中に振り下ろしていた! 新雪を貫いて、ガツッと堅い手応えがあった! 同時に登山靴で雪を蹴った!

 バラバラと雪が転がってゆく音が下方でした……

「大丈夫か! 葉山!」
 隊員達と山岳会の男達が集まってきた。体に巻きついたザイルは、稜線から谷に落ちそうな位置のヤマさんの体重を支えて、息が出来ない程に締め付けてきた。
 雪を踏み固めて、隊員達はザイルを引き上げた。
「よく遣った! 葉山! よくピッケルを打った!」
 大声で怒鳴った大谷隊長の語尾が震えている。ピッケルは旨く、堅く凍った雪に深く突き刺り、滑り落ちる体を止めていた。
 葉山が稜線へ引き上げられ、続いてヤマさんが雪まみれで助けられた。
「すまない! 足元の雪が滑った」
 ヤマさんの滑落の場所は、谷へ突き出した雪庇が崩れ、雪がそれとともに流れて行ったようだ。もう少し大きく崩れていると、葉山も巻き込まれていた。二人同時に滑落するという事は、いくら山のスペシャリストの集団でも最悪の事態は起こりうる。
 山の自然は、常に人間を拒み続け、死と隣り合わせの困難を背負わせる。だが、山に魅せられた者は、そのことさえも美徳と思え戦いを挑む。
 葉山も全てを克服し、山を征服する魅力に取り憑かれたひとりだ。
「葉山! 助かったよ! よく滑落を踏ん張って止めてくれたな。駄目かと思ったぞ。ありがとう!」
 ヤマさんは、雪に腰を下ろして放心状態の葉山の傍により、頭を大きなグローブの手でポンポン叩いた。
「よく遣った! 一人前だな!」
 集まった皆に次々声を掛けられた。隊員達の綻んだ顔が、葉山を見下ろしている。葉山は仲間に見守られて、恐怖で小刻みに震える体が、次第に熱くなって自信に代わって行く気がした。
「さあ! 行くぞ! 雪が凍りついたら厄介だ」
 隊長の声に、再び隊列は細い稜線沿いに歩調を合わせて下山を始めた。


 谷川岳登山道入口に、救助隊一行が姿を見せたのは、夕刻五時を回っていた。
「救急車に運びます!」
 山の家前の広場には、救急車が待機していて、同行の救急隊員がタンカのザイルを外し、待っていた隊員とともに救急車に運んだ。
「大矢さん!」
 救急車の周りは、関係者で人盛りが出来た。
 隊員達は歩みを止めて、その様子をじっと見詰めていた。
「有り難うございました! なんてお礼を言っていいか……
 立ち尽くす隊員達の前に、女性が走り来て、深々と頭を下げた。遭難者の妻らしい。頬に安堵の涙が光っている。そして、彼らに関係者が次々と礼を述べていった。
 葉山は救助出来た達成感の興奮と激しい疲労感に見舞われて、暫くは体が動かなかった。他の隊員も、その場に立ち尽くしたままだ。
 するとそこへ、オレンジ色のヤッケが走ってきた。あの少年だった……。彼は、じっと隊員達を見回して、また深々と体を折って頭を下げた。隊員達の表情がふっと緩む。そして、顔を上げた少年の顔にはこの上ない満面の笑みが溢れていた。
「ようし! 引き上げるぞ!」
 隊長の掛け声で、皆、歩き出した。隊長が、見守る少年の頭を撫でた。そして、ヤマさんも微笑む彼の頭をポンと叩いた。少年は次々と隊員たちに頭を撫でられ、笑顔を送られた。最後に葉山が、少年の肩に手を置いて声をかけた。
「よかったな!」
 彼は、もう一度、深々と頭を下げて隊員達に向かって叫んだ。
「有り難うございました!!」

 葉山は前を行く七人の山岳救助隊員の大きな背中を見ていた。その背中には、間違いなく「勇気」と「誇り」が背負われている。その中のひとりと成った自分も胸を張った。
 困難を克服して助けた命は、幾人もの喜びに繋がる。それは、尊くかけがえのないものだ。
 背負った命を無事に下ろした隊員達の足取りは、やっと軽やかに雪を踏みしめていた。
 
                                                    <了>

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