『十年目の上弦の月』

 思いっきり苦い抹茶入りのお茶を入れてやった。
 これでちょっと目がさめるだろう。

 リョウとその彼女は、私の母の前で正座して緊張した様子だ。なんせ婚約者を紹介に来たのだから、いい根性してるじゃない!

「そうなの。同じ会社でお勤めなの」
「はい。亮輔さんにはいつも良くして貰って……」
「いや、この人英語が得意なんで、外人との交渉の時はいつも助けて貰ってるんだ」

 何、女の自慢してんだよ。バカみたい!
 私だって英語の宿題、いつもやってあげてたじゃん。
「恩に着る」って言いながら、何一つ着せてもらってないよ。猫でも恩は返すだろう。(?)

「あさ子、お茶まだなの?」
「はあい!」
 畏まった二人の前にすかしぼりの茶碗を差し出す。そして、リョウの耳元で、
「どうぞ、しょじょ茶……いえ粗茶ですが……」
 と、お断りを一言。
 続いて、
「有名店のしょじょ饅頭、もとい常用饅頭です」
 と、お茶菓子にもひねりを加えて差し出す。
 リョウは、私をチラッと上目遣いに見て、すぐ視線を母の方へ戻した。
 知らない振りを決め込む気だね?
 この野郎!あんたのアキレス腱は私なんだよ。もっと、見つめて笑顔くらい作れ!

「それで、結婚式の日取りはもう決めたの?」
「うん、おふくろ達が秋が良いだろうって言うから、一応十月に予定してる」
「晃代、嬉しかったろうね。もう三十になるのにリョウは仕事ばっかりで彼女もいないって、いつも心配してたから」
「ああ、親父もおふくろもこの人が気に入って、すごく喜んでくれている」
 そう言って、リョウは私の特製のお茶に口をつけた……。
「ぶうっ!」
 思いっきり噴出した。ざまあみろ!
「す、すげえ……。あさ子の奴」
「大丈夫?」
 すっとハンカチを差し出す彼女。あいつの汚した胸元を拭ってやっている。
「ごめんなさいね、リョウちゃん!これ、あさ子、お茶もまともに入れられないの!」
ふん!当然です。アキレス腱麻子ですから!

「ゴメンゴメン」と、満面の笑みで謝りながら、台所から顔を覗かせた私に、リョウはこっちを見て、顔をしかめた。
 私は思いっきり、舌を出してあかんべ?をしてやった!

 リョウの婚約者、洋子さんは、シャンと背筋を伸ばしお茶を口へ運んでいる。
 仕草の綺麗な知的な美人。がさつな彼にはもったいないような人。
 この人と秋に結婚するんだ……。

 
 私と亮輔は、母同士が姉妹のいとこ同士。家も近かったので、物心付いたらリョウがいた。
 小さい時は私よりチビで泣き虫だった。引っ込み思案なリョウを、いつも引っ張って学校へ連れて行ってた。やれ誰々ちゃんにいじめられた、ほれ忘れ物した、おっと学校の池に落ちた。何かある度庇って来た。
 仕事を持ってた私達の母親に代わって、それはそれは彼を大事に育ててやった。お互い一人っ子で兄妹もいなかったけれど、同じ年にもかかわらず私は立派なお姉さんだった筈……。

 中学生になったら、リョウはグングンと背が伸びた。
 おまけにバスケ部に入ったもんだから、三年の時には180センチを越えてしまった。
 あの頃から、彼は大人の顔を見せるようになる。もう、だれもチビと言って苛めないし、一緒に学校へ連れて行かなくても友達も一杯いたし。相変わらず無口だったけど、私のおせっかいも疎ましくなったようだ。うちに泊りに来ることも、途端に無くなってしまった。
 保護者としては、至極淋しいことだった。


「じゃあ、おばさん。遅くなるから、洋子を送っていくよ」
「そうだね。ほんとうに良かったね。洋子さん、リョウちゃんをお願いね。私の息子みたいな子だから」
「はい」
 二人が、立ち上がった。
 リョウは、彼女の背中に手を回し、顔を見合わせて微笑んでいる。
 玄関で、洋子さんは丁寧にお礼を言って、彼の待つ車へ出て行った。
 暫くして、車のエンジンの音が静かな夜に響いて、そして遠ざかっていった。
 
「いいお嫁さんでよかったね」
「何言ってんの。まだ、オヨメサンじゃないじゃん。それに最初はみんなあんなモンよ!」
「何ふくれてんの? ははあ、もう小姑根性出てきたね」
 母さんは、そう言って、けらけら笑った。

 
 今夜は明るすぎる上弦の月。夜空はよく晴れて、月は雲に遮られることもない。
 星の輝きを奪うほどに傲慢に、月は地上の万物に光を与える。

 あの日の月も今夜と同じ、恥かしいほどの明るさだった……。

 二階の窓から月を見上げていると、車が庭に入ってきた。
「リョウ?」
 帰った筈の彼が何故に舞い戻った?
「ヤバイ。お茶の仕返しか?」
 一階の物音に耳を澄ませる。

「おばさん! 只今」
 やっぱりリョウの声。ぐえっ、まずい! なんだろ?
「あら、リョウちゃん! 忘れ物?」
 母さんの言葉に返事もせずに、二階の階段をダダダッと駆け上がってきた!
「開けろ!あさ子!」
 と言いながら、ドアをすでに開けて、目を吊り上げて、口をへの字に結んだリョウが立っている。
「何なのよ!何、何、何」
「こっちが訊きたいよ! 何か文句あんのか」
「あるよ! 無いわけないだろ! このエロ男」
「何がエロだ! 言ってみろよ」
「あんな綺麗な人、犯していいと思ってんの!」
「誰がそんなことしたよ! 知りもしないで言うな」
「ああ、知らないよ! 知りたくもない」
「お前、まだ根に持ってるのか! あのこと」
「ぐっ……!」
「やっぱり……。お前、へびみたいな性格だからな」
「勝手に人の性格を決めるな!」

 ふうっと、リョウが深くため息を吐いた。
 そして、
「俺、来月から海外赴任だ。10年は日本に戻ってこない」
「え…?」
 リョウは私の横をすり抜け、窓辺に立って眩い月を見上げた。
「あの時も、こんな月だったよな。半分の……」
 そう、こんな月だった……。あの日も……。

 高校生になった私達は、少し大人になったのか、中学時代に離れてしまった時間を取り戻したかったのか、とにかくお互いの家をよく行き来するようになった。
もう、顔を合わす照れ臭さも無くなって、学校のこと、友達のことや部活のこと、それはほとんど毎日会っては語り明かす日々。
 私は、どんどん素敵に大人の顔に変っていくリョウに惹かれていった。
 でも、あんまり存在が近すぎて自分の気持ちを素直に表現できない。いつも、最後は憎まれ口で終わってしまう。

 そんな時、私達の親同士が夏の旅行に出かけてしまった。夏期講習でいけない私とリョウを残して……。
 あの日、塾から帰ったリョウが夜食を食べに来て、私がやきそばを作ってやって……。
 お笑い番組のくだらないテレビを一時間も見て、笑って……。
 次に悲しい映画の放送を思わず見てしまったのが、いけなかったのかも……。
 ソファで並んで、お互い無口になってラストの悲しいラブシーンに涙した……。

 突然、画面がお茶のCMに変わったとき、私はリョウに抱きしめられてキスされた。
 よくいう甘いとか、トロケルとか、そんなもんじゃない。息苦しいし歯は当たるし舌は気持ち悪いし…。今、思うと、突然のディープキスだったんだけど、何せ不慣れでヘタクソだから美しいシーンを夢見てた私には、少しショック。ましてや、次に緊張でガチガチの私を無理やりソファに押し付けて……。

 リョウが、始めての人になった。

 すごく恥かしかったのに、リョウは乱れた私に背を向けて、
「ゴメン……」
 と、たった一言だけ。
 なぜ、謝られるのか考えた。何故、抱きしめてくれないのか、フル回転の頭で考えた!
 結論はすぐに出た。愛されていたわけじゃない。この人は成り行きで、本能だけで抱いたんだ!
 そして、私の口をついて出た言葉は、
「帰って。二度と来ないで! 顔も見たくない!」


 十年前の、あの日からお互いの間の大きな川は渡れない。ただのいとこ同士に戻って、心に触れないように付き合ってきた。あの日を忘れるには、リョウに会わないこと……。
 それから、何年も避け続けて、時の流れは心から存在の必要性まで消してくれた。

「謝って済まそう何て虫が良すぎる。私はすごくあの時傷ついたんだから」
「謝る気はないよ。俺にとっては、大切な思い出だし」
「え?」
 リョウの言ってる意味が解らなかった。
「物心付いた時から、お前しか見えなくて、でも、気の小さい俺はお前に気持ちを打ち明けることもできず、ずっと片思いだったから」
「嘘! そんなへたな弁解はやめろ!」
「ホントの気持ちさ。知りたかったんだろ? 俺の気持ち」
 彼はもう一度、月を見上げた。
「傷つけてしまったことをずっと引きずってきた。なぜ、あの時もっとお前に優しく出来なかったんだろう。もっと大切に出来なかったんだろう。好きだったのに……」
「リョウ…」
「ホントに、どうしたらいいのか解らなかったんだ。お前の顔をみたら罪悪感しか残らなくて」
 リョウは遠い目をして、静かに語った。
 まだ、私達は幼かった。彼の気持ちはよく解る。夢みる心と現実のギャップは今の私なら、良くわかる……。
「良かった! 本当はそんなに深刻じゃないよ。ただ、少しだけ私のことを思い出してほしかっただけ。私にとってもあれは、唯一あんたとの思い出だし」
 リョウがふっと微笑んで振り向いた。私も、笑いかけた。

「明るい月だなあ、まだ半分のくせに」
 今夜の月は満月にならないから滑稽なほど危うい。だから、美しくもあり醜くもある。
 若いというのは美味しいもんだ。今の私達には、夢の世界だが……。

 二人並んで月を見上げた。
「もし、あの日にリセットできて、恋人同士になってたら結婚してた?」
「解らない。でも、こんなにお前を見るたび辛くはなかっただろうな」
 リョウは、優しい笑顔を向けてきた。そして、一つ肩で息を吐いて言った。
「しかし、お前、ほんと恐い性格だな。とっくに忘れてると思ってた。こんな日に嫌がらせとは!」
「私より良い女連れてくるからだよ!」
「良くいうよ! 俺なんか無視してさっさと結婚したの、誰だ?」
「ははは……」
「こんな妊婦に過去を責められるとは思わなかった。いつだ予定日」
「来月の27日」

 二人で眺める月は、とても優しい。
 魔法に掛かってしまいそう。

「麻子…リセットしてみる?」
「悪い奴だな……」

 あの日とは違う優しいキスのとろける蜜の味。眩暈がするほど刺激的……。
 私は、またリョウのアキレス腱に返り咲いた……。

     (了)