『さようなら』

 カツカツカツ……。
 相変わらずモグラ先生は黒板なのに几帳面な字を書く。一字一字止めとはねをきちんと守って、手本を写すように美しい字が並んでゆく。
 し?んと静まり返ったこの空気の中、このリズムで書かれるといつも俺は途端に眠くなった。そんな居眠りタイムを先生自身でわかっているのか、時々書く手を止めて後ろを振り返る。そして、一回り教室を見回して、また無言で長々と字を綴ってゆく。
『モグラ』と言う名は俺が勝手につけた。それは、ずばり顔がモグラに似ているからだ。ウェリントンの丸い黒ぶちのめがねをかけたピーターラビットに出てきた変なモグラにそっくりだった。まあ、この絵本を俺の隣であくびをしながらノートを取っている田宮に見せられたから、このことに気が付いて良いアダナが付けられた訳だが、彼女の本は全て英文だったので、はなから読めない俺にはこのモグラの役割はわからないが。

 しかし、今日の俺たちの教室は妙に静かだ。
 外は昨日の雨が嘘のように晴れ上がり、青色しかない空に小鳥の鳴き声が吸い込まれてゆく。
 秋晴れの爽やかな風が窓から流れてきて、窓際の田宮の長い髪をさらさらと揺らしている。差し込んでくる柔らかい陽射しが彼女の黒い髪を少し茶色に輝かせている。こうして頬杖を突いて彼女を見ていると、案外可愛い奴だったんだなあって気付く。でも彼女は俺の視線にも気付かずに、ついに居眠りを始めた。
 カツカツカツ……。
 大丈夫。モグラはまだ振り向いていない。しかし、田宮の頭は前へコクリ、右へコクリと揺れだした。これって、非常にやばい状態。何せモグラは至極陰険で、居眠りしているのを見つけると直ぐに立たせるから。真面目な優等生の田宮でも例外じゃない。
 しかし、彼女が居眠りしてるなんて俺は始めてみた。大概寝るのは俺で、起こし役が田宮だったのに……受験勉強で寝不足しているのかな? 久しぶりに会う彼女は、少し疲れたような顔色で、何だか心配になる。
 起きそうにない田宮を見ながら、俺は一人、彼女ととモグラの間で緊迫感にドキドキしている。モグラのことだ。絶対にこれ幸いに日頃のストレスを彼女にぶつけてくる。
「田宮!! 目が覚めるようにその場に立ってろう!!」――――ってな具合に、多分眉間と鼻の頭に皺を寄せて、唾を飛ばして怒鳴るはずだ。皆は真っ赤になる彼女に嘲笑を送る。それはクラスの中でも真面目人間の彼女には酷な事だ! 
 意を決して、彼女にそっと顔を近づけた。風が彼女の髪を俺の鼻先まで持ち上げて、ふんわりと花の香りが鼻腔を擽る。 口の中に甘い味がして、何だか一段と鼓動は高鳴る。
 田宮のうな垂れた横顔の髪の間から少し覗いた小さめの耳に惹かれるように口を寄せた……。
「田宮、田宮……、起きろ……」
 途端に、彼女の長いまつげは上へ持ち上げられ、大きな瞳が真ん丸く見開かれた。零しそうだった鉛筆をきゅっと握り締めて、辺りを驚いたようにきょろきょろ見ている。
 良かった。俺の囁く声が聞こえたようだ。ちょっと勇気がいったが、はじめて彼女に触れるくらい近寄った。ちょっと……照れ臭い。
 俺がちらちらと隣の席から視線を送るのを全く気がつかない様子で、彼女は小さくため息を吐いた。
 モグラ先生は、いつものただ着ているだけのくたびれたスーツの背中を慌しく動かして、手の届く範囲にどんどんと『たんぱく質の構造』について黒板を埋めて行く。相変わらずのたいくつな授業だが、理系進学を目指すクラスメートたちはせっせとノートを取っている。教室には黒板を叩くチョークの音と、鉛筆を滑らせる音しかしない。でも、今の俺にはその音がとても心地良い。
 俺は何とはなしに、超真面目な優等生の学級委員長の田野倉女史のノートを拝見した。背後から肩越しに見る彼女のそれは、ビックリするくらい整って書かれている。このまま出版して本にしたいくらいの美しさだ!
 ついでに席を立ち上がって、いつも皆を笑わすひょうきん者の岡部のところへ近づいて覗き込む。ぶうっ! 嘘だろ? こいつ、螺旋構造のDNAがうなぎだ。おまけに男と女のうなぎで絡まってる。やっぱり楽しませてくれるじゃんか! 女のうなぎは巨乳だ。
 その隣の乙女チック川田は? OH! 花をバックにふきだしで台詞が書いてある。
『剣道部の山田君、貴方のDNAが欲しい。お願い……』
 お、おい?! 俺、鼻血でてないか?
 しかし始めて見るクラスメートのノートは結構面白い。俺は次々と覗いて回った。 
 隣の教室からは、古典の『源氏物語』の朗読が聞こえてきた。明るい大山先生のおかしなアドリブにどよっと笑いが起こっている。男っぽいキャラの先生の色気の無い姿が浮かんでくるようだ。俺も文系のクラスを選択したら良かったかな。まあ、今ではそれも関係ないことだけど……。
 と、隣の田宮に目を向けると、彼女はまた船を漕いでいる。今日は本当に眠いようだ。そろそろモグラが長いたんぱく質のらせん構造を書き終えて、振り向くはずだ。
 俺はもう一度、田宮の耳元へ唇をつけて囁いた。
「田宮! 起きろって。俺の声が聞こえるだろう?」
 ついでに唇も軽く押しつけて、キスしてしまった……! 柔らかい彼女の頬に……。さっきの川田のノートの影響だ、これは! 心臓が爆発しそうになった。 
 彼女がピクッと体を振るわせた。そして、自分の所業に赤面してる俺の前を、突然に椅子を倒して立ち上がった。
「なんだね? 田宮君?」
 モグラが驚いて振り向いた。クラスの連中も椅子の倒れる大きな音に、田宮を見つめる。彼女は両の手を震わせて、頬にあてがってる。そして、震える声で呟いた。
「や、山本君が……。山本君が……。私の事、好きって言った……。今……聞こえた……」
 クラスはモグラの授業より静まり返った。皆、唖然として泣き出した田宮を見ている。
「何、寝ぼけた事を言ってるんだ!!」
 モグラが珍しく大きな声で、田宮を叱責する。俺も焦って怒鳴った!
「本当だ、田宮! 俺は好きだなんて一言も言ってないぞ! 皆に誤解されるだろう! そりゃあ、ちょっと甘い感情に流されかかったけど、田宮を好きだなんて……」
 なんとも恥ずかしくって、俺は机に顔を伏せてこの場を耐えた。
 田宮は立ったまま、おいおいと泣いている。まるで場所もわきまえないで、小さな子供のように声を上げて泣き叫んでいる……。
 そんな田宮を身動ぎもせず見ていたモグラが吊り上げた目をため息と共に優しくして、クラス委員の田野倉女史に静かに言った。
「田野倉、田宮を保健室へ連れて行って遣れ」
 メガネの枠を持ち上げて田野倉女史は立ち上がった。田宮はクラス委員に肩を抱かれても、涙は止まらない様子だった。彼女の涙は、涙腺の弱い女史にウイルスを撒き散らすように広がって、所々で鼻をすする音が聞こえてくる。
 俺が見つめる中を、教室の扉は閉められて、田宮は出て行った。

 教室にまた静けさが戻る。誰も、田宮のことをひやかす奴はいなかった。ただ皆口を閉ざし、先生の重苦しい教室の雰囲気を壊す言葉に期待を寄せてモグラを見つめている。
 先生は教壇に手をついて、静かに語り始めた。
「いいか、諸君。先生にも山本が何を悩んで、何を苦しんでいたのか想像もつかん。だがな、生きてさえいれば、楽しい事だって嬉しい事だって、友達や家族と分かち合えるんだ。一時の感情で命を絶つような浅はかな行為を僕は許さん。回りの残された者はきっとあいつ以上にこれから悲しんで苦しんでいくんだ。僕は山本に同情なんかしないし、絶対許さん」
 眉間に皺を寄せて、モグラはメガネの奥の目をぎゅっと細めた。
 そうだ。馬鹿な俺は自殺した。ここに居るとそんな事忘れてしまっていた……。
 先生の言うとおり、とりわけどうしても死なないといけない訳があったんじゃない。今ではその理由を説明する事さえ意味がないような気がする。
 モグラは話を続けた。
「よく見なさい。山本の机のゆりの花を……。クラスメートが一人自分の人生をまっとう出来なかったんだ。この光景を記憶に残して、自分が辛い時このバカモノを思い出して遣りなさい。そして、死ぬ事の無意味さをよく考えて見なさい。それがきっと山本への供養になる」
 白いゆりの花は皆の視線を浴びて燦燦と輝くように清らかなオーラを放っている。
『バカモノ』の俺は、確かに『オオバカヤロウ』だ。
 今迄何の挫折も知らず、親の言うがままに順調に生きてきたくせに、突然襲われた無力感。俺は、全てを葬る快感に酔った。死んではいけないと叫ぶ本能がいつしか死んだらどうなると問いかけてきた。転がり落ちる石ころは加速する。
 フツウの高校生だった俺が自殺志願の仲間を持ったとき、ついに狂気の一端は始まりを告げ、理性の楔を抜き取ってゆく。
 そして俺達は死んだ。理由も残さずに。

 俺は自分の席から立ち上がった。
――――皆、さようなら。馬鹿な俺みたいになるなよ。最後の別れに俺のこと思い出してくれて嬉しかったよ。モグラ先生、有難う。田宮……、元気でね。

 葬式の日、俺の棺を抱いたまま号泣している親父を見て、やっと夢から覚めた。跡継ぎだなんだと重い枷を履かせて、期待に応えられない俺にいつも冷たい眼差しを向けていると腹が立って仕方なかったのに、あの日、始めて自分の愚かさを思い知った。それから初七日の間、泣いて泣いて後悔ばかりしていた。後の祭りだって言うのに。
 俺は自分自身を苦しめる事からも悩む事からも喜ばす事からも逃げた代償として、今永遠に生きていた全てを葬り去る。

「さあ、続きを始めるぞ!」
 モグラはまた、背を向けて、黒板に『たんぱく質のらせん構造』を書き始めた。カツカツと黒板を叩く音が続く。
 俺は、そんな光景に後ろ髪を引かれる思いだったが、踵を返して窓の光へと向かった。別れの時間は否応なしに遣ってきている……。今はない俺の体がここにいたいとダダをこねて、涙がだーっと溢れてきた。
「さようなら」
 と、気持ちを断ち切るように笑って言ってみた。そして、もう一度教室を見回わした。
 最後に見た教室は、暖かくて一番安らぐ静かな空間だった。
                
              了