『毒入り林檎』

「林檎を縦割りに切ってるとねえ、心も切ってる気がするわ」
 ストンとナイフが真っ赤な林檎を裂いた。半分になって、底を失った林檎は、白い皿の上で船のようにゆらゆら揺れる。
 里美は黙って、真帆を見つめている。その視線を無視するかのように、真帆は白い実を曝したばかりの林檎の断面をじっと見ている。真帆の手に握られた果物ナイフが、林檎の皿の横で冷たく光っている。
「里美、林檎好き?」
 と、真帆は皿の上で二つになった林檎から視線を逸らさずに、テーブルを挟んで神妙な顔で座っている里美にポツリと尋ねる。
「好きだけど……」
 里美が答えると、今度は聞こえなかったように、半分の片割れの林檎を手に取り、それを目を細めて口を尖らせ不愉快そうに眺める。ムッとして見ている里美の目の前で、
「切り刻んでしまおうか」
 そう言うと、また皿に手に持った林檎をたてて、ストンと残った軸の根元からナイフを入れた。皿にガチッと刃先が当たり、林檎は一片が勢い余って皿から落ちる。それをゆっくり皿に戻すと、見つめたままの里美に、真帆はその時やっと視線を向けた。

 真帆から、自宅に遊びに来いと、突然会社に電話が掛かってきたとき、里美は返事を躊躇った。彼女とは大学時代の友人だが、大学卒業と同時に結婚をして専業主婦になった真帆と、結構忙しく働く独身OLの里美とでは時間も合わず、ずっと疎遠になっていた。それが突然、自宅に遊びに来いと言い出したのだ。
「親友でしょ? 顔ぐらい見せなさいよ」
 と、返事を渋る里美に、真帆が受話器の向こうで明るく声をあげる。里美はふうっと息を吐いた。そう、用件は解っている。きっとあの事だ。
 里美は、プライドが高くお嬢様育ちで我儘な真帆を、実のところ親友だとは思ってはいない。お互い三年ぶりに会いたいと思うほど心を通わせた関係ではないが、真帆に呼び出される要因の一つに覚えがあった。
「丁度、博也、出張でいないから、女同士で楽しく語りましょうよ」
 やはり博也のことかと、里美はもう一度ため息を吐いた。
 結局、突然の電話に、断わる理由がひらめかず、真帆に押し切られて貴重な休日をつぶす事となった。

 林檎の皿と同時に持ってきたテイカップの紅茶が冷めて、どんよりした赤色に変わってきた。里美は何となく愉快になって、口角が上がってくるのを隠すように、そのカップを口元に運んだ。卒業してから三年ぶりに見る、真帆の怒りを露にした表情。里美は、その射る様な黒い瞳で睨まれる事を予想していた。昔から、気に入らない事があると、子供のように人を睨み付ける。その表情はちっとも変わっていないと思った。少なくとも、今は里美と博也の事で思い悩んでいるのだ。
「主人と会ってるの?」
 相変わらず唐突で、順序も何もあったものではない。お茶を出して、林檎を振舞う気でいるなら、会話も「仕事はどう?」くらいから入るべきだろう。里美は、カップをソーサーに戻して、ため息を吐く。
「会ってるわよ。仕事先の担当者だもの」
「知ってるわよ、そんな事。そうじゃなくって、個人的にってこと」
 真帆は声のトーンをさげて、すごんででもいるつもりだろうか。見据えた目が余計きつくなる。
「会ってないわよ。いくら学生の時つき合っていた男だからって、不倫相手の対象にだって考えた事もないわ。いい加減にしてよ」
 里美は、わざと真帆が引っかかるだろう言葉を盛り込んだ。「つき合っていた男」と「不倫」。そして、くすっと笑って真帆を見た。
 案の定、真帆は頬を紅潮させて、唇を震わせている。

 あの時、こんな女に負けたんだと里美は思った。
 大学の卒業間近、同じサークル仲間だった里美と真帆と、そして博也。
 熱烈とは言い難かったが、博也と里美は二年前からつき合っていた。勿論、卒業後も彼と別れるつもりはなかった。
 ところが、さっさと就職の内定を貰っていた里美と違い、文学部ということもあり、博也は希望の就職から見放されてしまっていた。半ば彼が諦めたところへ、突然真帆は自分の父親の会社を勧めてきた。
 真帆が、誠実で優しいタイプの博也を気に入っていたのは解っていた。しかしわがままで派手好きの真帆を、彼が苦手にしていたのも知っていたし、少しくらいの誘惑に惑わされる事などないと思っていた。
 男と女ほど解からないものはないと里美は思う。真帆の父の会社に就職を決めた博也は、ついでに真帆を選んだことを告げた。つまりは、裏切られたということだ。君だけだなんて言っておきながら、「ごめん」で済ましたあの男も許せないが、友達のカレシと知っていて、誘惑したこの女も絶対許せない。
 それにあの時、博也の口から真帆が妊娠したと聞いたが……。

「子供、いないんだね」
 と里美は、整然と片付いた、高級そうな広いマンションのリビングを見回しながら、真帆に言った。
「そんな事、今関係ないでしょ。貴女と主人が不倫しているかどうか知りたいだけよ!」
「いい加減にしてよ。私が嘘をつけない性格だって知ってるでしょ? それにもう調べたんじゃないの、私のこと。それとも、彼が怪しい行動でも取ってるっていうの?」
 里美の言葉に、真帆は黙り込んだ。
 当然だと里美は鼻で笑った。博也と浮気などしていない。実際、会社の中で仕事上で会うだけで、食事を一緒にしたこともない。真帆に疑われるような事は何も無かった。今更、自分を裏切った男とよりを戻すなんて、有り得ない事だとさえ思っていたから。
 それでも真帆は責めるように睨み付ける。里美は呆れた顔をして、真帆を見た。そして、
「あんた、だんなのこと信じてないんだね」
 と言うと、真帆はぴくっと眉を動かした。嘲った里美の笑いは、強張った真帆の表情を益々醜くする。 
「信じなさいよ。彼は浮気なんか出来る男じゃないわ。仕事でも、家庭でも、充分縛っているじゃない」
 そう、浮気は絶対出来ない人――――頭の中に、真剣な博也の眼差しが浮かんできた。
 しばらく黙っていた真帆が、ふうっと大きく息を吐き、力が抜けたように椅子の背にもたれかかった。そして、にっこりと笑った。
「そうね。そうだわね。浮気するような人じゃない。それに私に惚れてるもの」
「ほんとよ。あんたに惚れているよ。仕事中、よくあんたの話をするもの。料理が上手いだとか、センスがいいだとか」
「ほんとに? 貴女に言ってたの? 彼」
「ほんとよ。聞かされてる。のろ気話は止めてって言ってやった」
 そう言いながら、里美はしょぼくれた博也の顔を思い出していた。

 真帆は、突然皿の林檎の皮を剥き始めた。顔がぱっと明るくなって、すいすい剥いてゆく。
「林檎、好きなの私。これ、青森の無農薬で、農家に頼んでわざわざ送ってもらった高級品なのよ」
 そういうと、二切れ小皿に乗せて、里美に差し出した。そして自分もフォークに刺した一切れを口にほうり込んだ。
「あんたの気持ちは解るけど、本当に博也とは関係ないから、へんな事勘ぐらないでね。不愉快だわ」
「ごめんなさい?。彼のスーツから貴女の名刺が出てきて……。確かめたかっただけなの。貴女の口から聞いたら安心できるから」
 真帆は罰が悪そうに、甘えるような上目遣いで里美を見て微笑んだ。
「確かに、旨いわ、この林檎」
「でしょう!」
 安心した途端に屈託なく笑って、真帆は幸せだと言わんばかりにまた高級林檎の皮を剥き、しゃりしゃりと食べはじめる。そして、
「主人たらね」
 と、勝ち誇ったように、主人主人と繰り返す。里美は相槌を打つことも馬鹿らしくなり、黙って林檎を食べ続けた。
 その後、博也の事だけでなく、大学の友人達の噂話までたっぷりと聞かせて、真帆はいつものように身勝手に笑った。

 
 休日を潰された里美は、真帆の家を出て急いで駅へ向かった。そして早足で歩きながら、周りを気にしつつ、ケータイをかける。
「もしもし、あ、博也?」
 馬鹿女――――と、心の中で罵った。おいしそうに林檎を食べる真帆の顔が浮かんだ。
「今夜のデートの返事、オッケーよ。誘ってくれて有難う。7時ごろには出張から帰って来るんでしょう? 約束の場所で待ってるね。そっちに泊まるって言ってあるなら、朝まで一緒にいられるね。うん、楽しみにしてるから」
 ケータイをゆっくり切った。
 別に嘘をついた訳じゃない。再会して、博也から幾度も誘われたが、里美は真帆の心配するような関係は、いつも断わっていた。彼の口から、壊れかけた二人の様子は聞いていたから、放っておいても真帆は幸せだとは言えない。過去を詫びて結婚を後悔する博也のことは、憎からず思っていたが、嫉妬深い真帆に関わりたくなかった。
 でも、今日、毒入り林檎を食べてしまった。仕返しという甘い味の……。
 里美は、駅のホームへ上る階段を駆け上がりながら呟いた。
「自分が悪いのよ。私を怒らせてゲームを始めてしまったのは、あんたよ」
 そう、学生のあの時の続きのゲーム……。今度泣くのは、あんた――――里美はくすっと笑って、夕刻の混んだホームを見上げた。

 口の中に、まだ林檎の甘ったるい香りが残っていた。

             <おわり>