あの場所で

  その店はあの頃のままだった。
「ティルームMIYABI」と書かれた、入口の重いガラスのドアを開けると、変わらずに迎えてくれる小さく流れるピアノの音。一階のショウーケースに花畑のように並んだスイーツ。そして、頭にスカーフを巻いた店員の明るい「いらっしゃいませ」。
 由布(ゆう)は、微笑む店員に軽く会釈をして、二階へ続く階段をゆっくり昇る。上の階は喫茶室になっていて、南側は一面ガラス張りの窓からいっぱいに陽光が降り注ぎ、駅近くの京都タワーがビルの間から見える。
 何もかもが懐かしいと、二階を見回して思った。この町へ戻った時から何だか胸の奥がせつなくて、この店も時が止まっていたように、あの頃のままの空気を漂わせている。
 あれから、もう五年経ったんだ――――と、二階のお気に入りだった席へ座った。

 一組のカップルが、ケーキに舌鼓を打ちながら、微笑みあって取留めのない話を交わしている。ふと、あの頃の自分と亮輔が重ななる。
 生まれ育った京都の女子大に進学して、その四年間の思い出の中にいつもいた優しい恋人、河出亮輔――――由布は、その過ぎ去った日々に、胸をぎゅっと掴まれる気がした。
 この店で待ち合わせをして、何時間も二人で話をした。あの頃は未来に何の憂いもなくて、きっと二人は輝いていただろう。
 もう戻ることはない。ただ、今はあの頃のときめきの中に自分を浸していたいと、窓から街並みを見る。傷ついた心は、この町の至る所に散りばめられた、亮輔の笑顔を必要としている気がした。美しい思い出として。

 亮輔とは、大学生になってはじめたバイト先で知り合った。出町柳にあった大型のスーパーマーケット。自宅から近かったことがそこに決めた理由だったが、同じ様に入ってきた新人の学生バイトの中に彼がいた。同じ一回生で爽やかな笑顔の真面目な学生という感じだった。
「京都の大学に憧れていた」という、奈良県出身の亮輔と、直ぐに親しくなった。彼は国立大の法学部で、弁護士を目指していた。下宿先への帰り道が由布と同じ方向だったことから、バイトがの後一緒に帰るようになり、本当に自然に付き合いだした。
 初めての恋人。そして初めての男――――それは、静かな加茂川の流れのように、今でも記憶の中を穏やかに流れる。きっと、一生消えない人だと思う。
「お待たせしました」
 運ばれてきたアイスティのグラスにストローを差込み、からんと氷を鳴らす。
 今は、席の向かいには誰もいない。別れてから五年。思い出に変えるには十分な年月だと、由布は胸のせつなさに答えるように一人微笑んだ。


 ***


「由布、孝也さんから手紙着ていたよ」
 母の手が、荷物のダンボールを開けていた由布の前に、白い封筒を差し出した。
「あの人、今更、何の便りなん?」
 険しい母の表情に、由布は微笑んで答えた。孝也と聞くだけで、母は不機嫌になる。
「うん、離婚届。判を押したって言ってたから、送ってくれたんよ」
 母はふうっと大きくため息を漏らして、中身を取り出す様子を見ている。そして、沈んだ声で、広げられた薄い紙を見ながら、呟いた。
「こんなもん一枚で、他人に戻れるんやね」
 母の言葉に返事をしないで、由布は見慣れた夫の字を目で追った。丁寧に押された印が決意を表しているように見える。
「終わったわ。やっと……」
 彼女の言葉に、母はポンと背中をを叩くと、黙って階下へ降りていった。
 由布は手を広げて、まだ指に残ったままの指輪を見つめた。これを嵌めた時の喜びを消してしまうのが怖くて、まだ外せないでいる。心の奥底ではまだ、孝也がやり直そうと言ってくることを期待しているのかも知れない。離婚するということは、二人の結婚生活を否定し消し去ることだ。決意したとはいえ、あの二年間を全て否定することは悲しいことだった。
 でも、もう終わる。届けを送り返す時、これを外そうと、由布は銀の指輪を見つめながら思った。
 
 孝也と結婚したのは、由布が大学を卒業し、出版社に勤めて二年目の秋だった。念願の東京暮らしで、大手の出版社のノンフィクション部門勤務。仕事に夢中になり、昼も夜もなく働いた。そして、ある作家の出版記念パーティで、CM制作会社を経営していた峰岸孝也と知り合った。
 彼は最高の男だった。十五歳も年上の彼に、心を奪われるのは必然だったと言い切れるほど大人で器の大きい人。たちまち嵐のような恋に巻き込まれた。やっとの思いで手に入れた編集者の仕事も、彼に夢中になると途端に色を失った。大都会で一人、がむしゃらに働くことに疲れたのかも知れない。両立させてやっていけるほど器用な人間ではなかったのかもしれない。関係を持ってすぐ、彼との結婚を望むようになった。
 ある意味閉塞した古風な京都の町で育った由布には、派手な世界で生きる遊び上手でやり手の孝也を満足させることは出来なかった。でも、魅了された心は恥らうこともなく全てを曝け出し、束縛できない人を欲しがった。孝也が若い由布を重荷に感じ始めた頃、偶然妊娠した。その事を諦め半分に告げると、社会的にも立場のあった孝也は、信じられないほどあっさりと結婚を口にした。勿論二人の間に愛がなかった訳ではない。孝也は若い彼女を慈しんだし、由布も相応しい女であろうと懸命だった。

 仕事中心で帰らない夫を待つ孤独な妻、淋しがる妻を重荷に感じる夫。不安、嫉妬、疑惑……若い妻は、大都会の高層マンションの一室で、子供のためにとじっと耐えていた。子供が生まれれば、幸せになれる――誰もが思う、そんな夢を見て。
 しかし、孝也のいない一人の夜に突然襲われた激しい痛み……由布は子供を死産した。連絡も取れなかった孝也に、夫婦であるという信頼が、彼女の中で打ち砕かれた。二人の結婚生活は二年で破綻し、京都の実家へ戻ってきたのだ。
 由布は躊躇うことなく、離婚届の妻の欄に署名した。

 孝也との関係は、果たして愛し愛されたといえるのだろうか。あれは恋という熱病だったのかも知れない。 身勝手で傲慢な想い。自分に無いものに惹かれ、手に入れたいともがく。縋っても追いかけても、心を吹き抜ける風は安らぎを与えてくれない。満たされない心は、いつしか枯れた泉のようにひび割れてゆく。
 二階の窓から見える、狭い通りに面した町家の静かな息遣いに、由布はホッと息をついた。この町は、きっと穏やかな時間をくれると……。

 ***

 
 荷物の整理がつき、由布は待っていたように就職活動を始めた。
 たった二年の出版社勤務の経歴は、京都の小さな会社でさえ門前払いされた。でも遣り甲斐を見つけるためにも、この業界でやり直したいと思うのだった。学生時代に見た夢をもう一度叶えてみたい。
 思うに任せない就職に、疲れた体と心を休めるように、毎日「MIYABI」に立ち寄った。ここでお茶を飲むたびに、亮輔との思い出に浸れて、学生時代に引き戻されるような気がした。東京での五年間が夢のようで、次第に目覚めてゆく自分がいるような錯覚に陥る。そして、何だか学生のあの頃のように、恋人を待ってるような気持ちになる。心が乾いた時、ささやかでも優しい思い出に包まれたいと思う。由布は、そんな過去を持っている自分が、幸せだと思った。


 その日は突然の雨に、思わず「MIYABI」に走りこんだ。面接の申し出を、もう決ったからと断わられて、落ち込んだ気分で川原町を歩いていたら、突然の雷。梅雨明けの、夏の到来を思わせる土砂降りで、アーケードの下を走りここに飛び込んだのだ。
 店に入ると同じ様に雨に降られた人で、席はいっぱいだった。仕方ないと諦めながらも、空きそうな席を見回した。
 いつも座る窓側の席は、スーツ姿の男性が頬杖をついて、雨に霞む町を見ている。浮かない顔をした横顔に、由布は目を留めた。
「え……?」
 まさかと思った瞬間、驚きで体が動かなくなった。どくんと鼓動がはねると、駆け足の後のように体の隅々まで脈打っている気がした。同時に体温が上がってくる。
 その男性が、瞬きもしないで見つめる由布に気付き、顔を向けた。途端に、虚ろだった目を見開いて、驚きで立ち上がらんばかりに腰を浮かせた。
「由布?」
 低い声もアクセントも同じ呼び方。時が巻き戻る。
「亮輔……さん?」
 こんな偶然があるなんて……とうろたえ、逃げ出したい気持ちになったが、何とか平静を装って彼に近づいた。今では、思い出の中だけの人だ。会ったとしても、五年前に戻るわけもないし、もう関係のない人だ。由布は、微笑を浮かべた。
「久しぶりね。驚いたわ」
「驚いたんは俺だよ。京都に帰ってたんか?」
 亮輔は、まだ信じられないという顔で、落ち着かない目で由布を見た。
「うん。二週間前……。貴方は? まさかずっと京都に?」
 向かいの席の椅子に軽く腰を預けた。彼に微笑みながら、関東弁を使ってる自分が奇妙だった。
「ああ、大学院を出てから司法試験に通って、今はここで大学の先輩の法律事務所に厄介になってる。駆け出しの弁護士というわけや。君は?」
「わあ、すごいのね。夢を叶えたんだ。弁護士目指してるって言ってたものね」
「君こそ、さっさと出版関係の内定取り付けて、東京へ行ったやないか。夢を叶えたんは君の方が先やろう?」
「あ、うん。そうだったね」
 思いもかけない出会いは、何だか押し問答のように言葉だけが重なってゆく。訊きたいことはいっぱいあるが、上手く言葉にならない。亮輔は、突然の再会を戸惑っているように「驚いた」ばかりを呟いている。
 ウエイトレスが、水を運んできて、注文を聞いた。
「あ、私は……」
 と、断わろうとすると、
「アイスティだろ?」
 と、亮輔は由布に微笑み、人差し指を立てて代わりに注文した。
「いいだろ? 久しぶりに会ったんだ。少しくらい話そう」
 亮輔は、ふっと笑みを零した。その表情は、五年前の爽やかで明るいばかりの笑顔ではない。落ち着き払った余裕のある一人の大人の男。由布には、そんな風に見えた。仕立ての良いチャコールのスーツ、清潔な短い髪、趣味の良い渋めのネクタイ。痩せ型の顔に彫りの深い整った顔は、町を歩いていても人目を惹くだろう。由布は、五年経って再会した彼は、思っていたよりずっと素敵だと思った。それに自分のように挫折などとは縁がなく、自信を纏っている様に見えた。 
「変わらないね。由布は」
 亮輔が突然言った。
「え? そんなことないよ。老けましたよ」
「いや、やっぱり東京におったからかな? 随分奇麗になった」
 彼の笑みに赤面する自分がおかしかった。社交辞令に余裕でお礼を言うくらい、なんでもないことなのに。 
 テーブルに冷たいレモンティが、氷の軽い音を立てて置かれた。琥珀色のグラスについた水滴が滑り落ちる。
「冬でもアイスティ飲んでいたよなあ。腹が冷えないか心配した」
 と、亮輔がテーブルに手を組み、笑って言った。
「ふふ、そうね。好きだったけど、ほんとはね。貴方といたら時間を忘れて話してたから、喉を潤すのに必要だったの」
「え? そうなの? 確かに取りとめのない話を延々してたよなあ。今じゃ何を話したか忘れたけど」
「イエスが口癖の教授の話。バイト先の怖いパートさんの話。訴訟法の矛盾点と民事法の問題点、そして二人の夢の話」
「ははは、お前、つまらん話を真剣に聞いてくれたよなあ」
 二人は、漸く笑みを交わせた。「君」から「お前」に呼び方が変わったことが、由布には妙に嬉しかった。
 
 学生時代の思い出の代名詞でもある「河出亮輔」との再会を、やっと嬉しいと思った。傷ついて今は空っぽの自分が、彼の中では、まだ輝きのある「白石由布」のままのような気がした。
 窓を叩く激しい雨も忘れて、思い出話に時を忘れた。夕立がおさまり、雨が止んだことも気付かないほど、夢中で話した。
「やっぱり、貴方といるとアイスティが必要だわ」
 と解けてしまった氷の上澄みをストローで混ぜた。思い出話にはにかむ由布をじっと見ていた亮輔がポツリと言った。
「お前、結婚してるんだね」
 亮輔の抑揚のない声に、ストローが止まる。由布は右手を慌ててテーブルの下に隠した。薬指に忘れていた指輪が締まる。
 これは――と、言いかけて、言葉を呑んだ。離婚することを、彼の耳に入れてどうなるというのか。東京まで夢を追いかけていって、そのために亮輔と別れたのに、結果があまりにお粗末な気がした。
 彼は硬い表情になり、由布を見つめている。由布はふうっと肩の力を抜いて、亮輔に答えた。
「ええ、二年前に東京の人と。だって、女にとって五年って、短いけど長い年月なのよ。何も無いほうがおかしいでしょ?」
 と平然と笑顔を返した。
「そうか。そうやな。あれから五年も経ってるんやしな」
 笑みを閉じた亮輔は呟いた。
 過去に好きだった男との再会なんて、こんなものだと由布は思った。奇跡的に再会しても、それだからどうこうなれるわけではない。お互いに接点のない時間は、それぞれの道を歩んでいるのだから。
 弾んでいた会話が、止まる。ここで向かい合っているのも潮時なのかもしれないと、アイスティのストローに口をつけた由布の背後で、突然亮輔の名が呼ばれた。
「亮輔さん! 遅くなってごめんなさい。雨に降られちゃって」
 と、二人の前にスラリとした黒のスーツの姿の女性が立ち、由布を訝しげに見た。
「美香ちゃん」
「亮輔さん、いいのかしら。こちらの方は?」
「ああ、学生の時の友人。偶然会ったんだ。あ、白石さんだ。えっと、この人は俺の事務所のアシスタントの美香ちゃん」
 美香ちゃんと呼ばれた女性は、奇麗な顔を少し強張らせて、由布に会釈した。由布も立ち上がって、丁寧に頭を下げた。亮輔が待っていたのはこの人だと思うと、何だか居た堪れなくなった。
「今日は有難う。懐かしくて楽しかった。じゃあ、私はこれで」
 と彼に笑いかけると、バッグから小銭を出して伝票の上に置き、席を立った。
「あ、由布!」
 亮輔の声が聞こえない振りをして、そのまま階段を駆け下り、そのまま重いガラス扉を思いっきり開けて、外に飛び出した。

 「MIYABI」で、彼が待っていたのは、自分ではなかった。分りきっているその事が、彼女の気持ちを曇らせた。由布がそうであるように、亮輔の五年間も様々に軌跡を残していて当然だ。恋人だっているだろう。一瞬でも、あの頃に時間を巻き戻してしまったことが哀れだった。
 雨の上がった空をやるせない気持ちで仰いだ。そして、
「過去の思い出に慰められたいなんて、浅はかな自分に呆れる」
 と、呟いた。胸の奥がざわつく。
 再会したことで、学生時代のセピア色だった亮輔が、はっきりとした輪郭を持って、由布の心に居ついてしまった。
 由布はくっと唇を噛み締め、水溜りの出来た通りを足早に歩いた。会ったことを後悔するように。
 
 
 ***


 それから、由布は再び川原町の「MIYABI」に、寄る事はなかった。
 就職活動はしているし、町にも出かけたが、亮輔と会ったあの店には、もう行かないと決めた。思い出は思い出だ。それが現実身を帯びることは、二人の過去を塗り替えるような気になった。思い出は、美しいままで良い。愛されていた過去だけでも、今の由布には十分慰めになる。
 
 孝也に離婚届と指輪を送り返しすために、由布は郵便局にやって来た。
 どんなに辛いと思っても、新しく歩き出すことは勇気がいることだ。コトンと封書を飲み込んだポストの前で、由布は暫く立ち尽くした。孝也が少しくらいは悲しい気持ちを持ってくれるかもしれないと、思う自分に苦笑した。
 全ては過去にしまわれる。亮輔と同じ様に、今は苦しいばかりの孝也との恋も、そして、いつか思い出という甘い幻になるのだ。
 由布は、ため息を吐いて踵を返した。

 
 京都に戻り、三週間目の夜、突然母が一階の居間から叫んだ。
「由布! 電話よ!」
「あ、は〜い」
 自宅の黒電話に連絡なんて誰だろうと、階段を降りて、上がった受話器を掴んだ。母は誰とも言わずに夕食の片づけをしている。
「もしもし?」
――「由布?」
 その声に、体がびくっと身構えた。
「亮輔……? どうしたの? 電話なんて……びっくりした」
 受話器の向こうで小さく溜息が吐かれた。由布も戸惑っている。
――「ごめん。こんな時間に……。すごい馬鹿なことをしていると思う」
「……酔ってるの?」
――「ホントに情けない。お前に逢いたくなって……。すぐ近くの寺の門の前まで来た」
 ドキドキと鼓動が早くなってくるのが分った。
「どうして? 私達はもう……。会う理由がない」
――「お前が勝手に京都から出て行ったんだろ? 何故、今頃帰ってきたんだ!」
「亮輔……」
 受話器の向こうで、叫ばれた言葉に驚いた。五年も経っているというのに、由布には亮輔の気持ちが分らない。
――「頼む、逢いたい」
 酔っているからだろうか……。たった一度、あそこで会っただけなのに、からかっているのかと思った。
「分った。とにかく行くから、待ってて」
 ため息を吐いて、由布はゆっくり受話器を置いた。
 その音で、台所の母が暖簾から顔を覗かせた。
「亮輔君ね?」
「うん……。近くにいるからって……」
 母は、由布の傍へ立ち、腕を掴んだ。
「あのね、由布。亮輔君ね、時々電話をくれてはったんよ。貴女が東京へ行ってしもてから」
「え?」
 驚いて、母の顔を覗きこんだ。母は少しバツの悪い顔をして、眉根を寄せて話し始めた。
「由布は東京で元気でやってるかとか、仕事は順調かとか、二、三ヶ月に一度は訊ねてくれはったん。それで、貴女のケータイ番号を教えると言うたんやけど、もうそんな付き合いやないからって。電話があったことも知らせんといて欲しい言うて……。由布の夢を応援したいから、別れたんだとも言ってたんよ」
「お母さん! ほんまやの? なんで、電話なんか……」
 顔が熱くなる気がした。あっさり過ぎる程奇麗に別れたのに、何故電話なんか……。由布は、母の前でうろたえた。
「亮輔君ね……。貴女がたった2年で仕事を辞めて結婚すると伝えたとき……実は電話の向こうで泣いてたんよ。自分は何のために由布を諦めたのか分らんって……。それっきり、もう電話は掛かってこなかった」
 母の話が終わるや否や、由布は何かに突き動かされるように家を飛び出した。
 
 京都の夜は暗い。街燈の少ない路地を、一番近い寺まで走った。
 でも、由布の頭に渦巻くのは、亮輔への疑問符ばかりだ。
「由布が夢を叶えに東京に行きたいのなら、俺のことは忘れて、頑張って来いよ。俺も由布のことは忘れるから」
 忘れる――そう言ったのは亮輔ではないか! 
「離れて付き合ってもお互い辛い想いをするだけだし。新しい気持ちで、お互いの道を進んでいこう」
 と、由布の別れたくない気持ちに、踏ん切りをつけさせたのも亮輔だ。
 なのに、何故……。
 由布は息を切らしながら、暗い夜の闇に重い扉を閉ざした寺の門へ、石段を登って行った。


 彼は、門の太い柱に背を持たして座り込み、うな垂れていた。
「亮輔!」
 由布の声に、乱した髪をそのままに顔を上げた。そしてまた俯いた。それは、あの店で会った時の自信に溢れた亮輔ではない。
「貴方が分からない! どうして逢いたいなんか言うの? 私達、五年前に別れたんと違うの?」
 由布は、涙で滲んできた亮輔の姿に声を荒げた。亮輔は気だるそうに、「ごめん」と謝り、
「お前が結婚したのもおふくろさんから聞いてる。ダンナがいるのに、それでももう一回逢いたかった。MIYABIで、偶然会ってから、あの後何度もあそこへ行った。でも由布は来なかったし……。堪らず、電話した……」
「あほう! 別れて五年も経ってから、電話するくらいやったら、何で別れようっていうたん? 東京に電話もしてくれへんし、もう終わったって思うやんか」
 由布は彼の前で仁王立ちになって、拳を握り、泣きながら怒鳴った。
「俺は、由布の夢を邪魔したくなかった。まだはっきりした未来も約束できへん大学院生の俺に、東京の出版社で働くと胸を張ったお前は眩しすぎた。自信がなかったんや。こんなに遠いところで、由布を縛ることなんて無理や」
 顔をあげ、亮輔はぼんやりと暗闇を見つめた。由布は力尽きたように、その隣にぺたりと座り込んだ。
 亮輔は、由布の顔から目を背けるようにしながら、そっと彼女の手を掴んだ。
「早く司法試験に通って、胸を張って由布を迎えに行こうと思ってた。なのに、俺がまだ受からんうちに仕事も辞めてしまって、結婚したと聞いた。あの時、諦めたんや。本当に諦めた。なのに……、まさかあの思い出の喫茶店で会うなんて……。俺には悪夢やった」
「亮輔……。じゃあ、私の事をずっと好きでいてくれたん? ほんとに」
「ああ。四年間の付き合いは、女は由布だけやと思わせるほど楽しくて幸せやった。別れてからも、忘れることなんて出来なかった。でも、今更どうしようもないのに……。俺はすごい大事なものを失くしたんやと思う」
 由布は下を向くと、自分の手を掴む彼の手を、頬に押し当てた。
「由布……」
「亮輔、気がつかんの? 右手の薬指……」
「えっ?」
 彼が体を由布に向け、両手で彼女の手を掴んできた。
「指輪がない……。何で……」
 信じられない様子で、彼は何度も指を撫でた。
「結婚はしたけど、離婚することになったの。だから京都に帰ってきたの。もう指輪は返したよ。私の東京での五年間は、がむしゃらで、人の気持ちを汲んで生きてきたような日々やなかった。私にとっても、お互いを思いやっていた貴方との付き合いが幸せすぎたんやと思う。京都に戻ったら、町のあちこちで亮輔の姿を探してた。忘れられなかったのは私も同じよ」
 亮輔が力いっぱい由布を抱き締めてきた。
「由布……。夢やないよなあ。信じられん。時々、京都には狐が出るから」
「あはは、そうやね。私はバツ一の妖怪だよ」
「妖怪でも何でも良い! 由布やったら!」

 抱き締められたまま、亮輔と何度も口づけをした。
 再会のキスは、溶けるように熱を帯びている。

「由布。その空き家になった薬指に、指輪を嵌めさせて。明日、早速つくりに行こう」
「有難う、亮輔。明日、待ってる。あの思い出の場所で……」
 由布の時間はまたゆっくりと動き始める。この京都で、あの二人の場所から……。
 
               おわり

 

 お読み頂きありがとうございます。久々に書いたので、恋愛って何だっけ?と、恐ろしい感覚に戸惑いました。

 これは 『大人の小説同好会』に参加させて頂いくために書きました。今後もこちらの活動を応援したいと思います。

 読み応えのある作品がUPされています。ぜひ、立ち寄ってみてください。

 お粗末さまでした!
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