窓に嵌め込まれた分厚い鎧戸を、雪が絶え間なく叩いている。

 暖炉の側の椅子におさまり、乾した果物と香料を入れた熱いワインを少しずつ口に含みながら、彼は、膝にかけた毛織の毛布を引き寄せた。

 冬でも私服に決して毛皮を用いないというのは、兵士たちが言う『将軍閣下の愛すべき奇癖』のひとつだ。

 そのわけは、帝都に伺候する際に、リューネ市が奢侈を戒め軍備増強に励んでいることを強く印象付けるためだとも、最も貧しい兵士と同じ心持ちで戦うためだとも、あるいは一朝事あらば即座に最前線に立つべく、常に肉体と精神を鍛錬するためだとも言われている――

「はあ? そんなもん、全部に決まっとるだろうが」

 あるとき騎士のひとりに、この奇癖の真の理由を問われて、彼は答えたことがあった。

「わしは、見てくれの押し出しが良くないからなあ。こういう工夫で、少しでも各方面の人気を取ろうという寸法だ。
 寒いんだよ、実際のところは、本気で! そこを、敢えてがんばっとるというわけ。
 いや、正直に言うと、一番寒いのは頭なんだがな!」

 四十も後半にさしかかり、灰色の髪がやや薄くなってきた中背で小太りの男が、騎士たちの前で、ぺちぺちと自分の頭頂部を叩いてみせる。

 この男が、ガイガロス砦――アーケリオンの長城の要であり、《帝国の盾》とも《人間世界の盾》とも呼ばれる要塞――の主、リューネ侯爵マクセス・レイド将軍であるなどとは、その瞬間のみを目にした者ならば、誰ひとりとして思うまい。

 マクセスは、威厳という言葉の対極にあるような男だった。

 明るい青の目が、子どものようにくるくるとよく動く。

 物言いにも表情にも愛嬌があって、話しぶりが軽妙で、面白い男。

 彼と初めて会った人々は、だいたいそういう印象を受ける。

 そして、彼の人となりをもっとよく知る者は、こう評する。

 その舌は真綿、その頭脳は剃刀。

 そして、戦場で彼とまみえた敵は、こう評する。

《冷血》マクセスと。

「おうい」

 物騒な二つ名が嘘のように間延びした声で、彼は、閉まったままの扉に声をかけた。

「いつまで、そんなとこに突っ立っとるんだ。従卒はとっくに下がっとる。入れ」

 一瞬、間があってから、ごんごんと重いノックの音がして、ぎいと扉が開かれた。

「……なんで、わかったの」

「扉の向こうから、お前の足音がしたからなあ」

 マクセスは、暖炉の火で足先をあぶりながら、持ち前の飄々とした態度で答えた。

 入ってきた人物は、胡散臭そうな目つきで戸板を見やった。

 扉の厚さは、大人の手のひらを二枚重ねたほどもあるのだ。

「まあ、こっちに来て、火にでも当たれ。わしの娘が、初陣の前夜に風邪を引くような間抜けじゃ、部下たちに示しがつかん」

 はだしの足先で、自分の斜め向かいに置かれた椅子を指し示す。

 労わっているとも馬鹿にしているともつかない将軍の態度に、入ってきた人物――長い髪をきっちりと編み込んで頭に巻きつけ、一見するとまるで少年のように見える少女は、少なからずふてくされた様子で、すすめられた椅子に座った。

 無言のまま、足をぶらぶらさせながら、火を見つめている。

 炎を映しこむ、鮮やかなみどりの目も、本物の金を思わせる髪の色も、マクセスとはちっとも似ていない。

 彼女は、亜麻布の下穿きと上着を身につけ、室内履きをつっかけていた。

 ベッドにもぐり込む直前の服装だ。

「眠れんのか」

 マクセスは、暖炉の炎近くに寄せておいた壷を顎で指した。

「そこのホットワイン、飲んでもいいぞ。わしのだが」

「――父さん」

「うん?」

 問いかけには答えず、不意に呼びかけてきた娘に、マクセスは軽く首を傾げてみせた。

 フェリスは普段、マクセスのことを『親父』と呼ぶ。

 彼女を孫のように可愛がっている古参の兵士たちが、冗談めかして、フェリスの前でマクセスのことを『親父さん』と呼ぶのが移ったのだ。

 マクセスと妻のあいだには、三十の半ばまで子どもが無かった。

 フェリスが生まれた時には、同年輩の兵士たちの中には、すでに息子たち、娘たちを成人させている者もいた。

 そういう連中にとっては、フェリスはまさしく孫のような年齢なのだ。

 だから、かもしれない。

 フェリスは、特に人前では、マクセスのことを『父さん』とは決して呼ばなかった。

 わざと荒っぽく『親父』と言うか、他人行儀に『将軍閣下』と言った。

 マクセスは、穏やかな微笑を浮かべた。

「怖いのか。フェリス」

「怖くないよ」

 固い返答は、打てば響くようにあった。

「怖いはずないでしょ。だって、もしも……
 もしもだけど、明日死んじゃっても、あたしは絶対《顔の無い女神》さまに、楽園に連れて行ってもらえるもん。フェザンが言ってた」

「へえ?」

「悪いやつらと戦って死んだ人は偉いから、楽園に入れてもらえるんだって。知ってた? だから、あたしたちはみんな大丈夫だよ」

「なるほど」

「それに、あたしはまだ子どもだから、絶対入れてもらえるんだって」

「そうか」

 火を見つめたまま、矢継ぎ早に喋り続けるフェリスに、マクセスは、のんびりとした調子で相槌を打つ。

 十一歳。

 彼の娘は、まだ、ほんの十一歳。

 初陣には、さすがに少し早すぎるのではないかと、周囲は言う。

 後方で輸送や救護に従事したり、本陣で貴人の側に侍るのとは違う、前線の戦闘に出るのだ。

 たとえ試合で大人を負かすほどの技量を持っていたとしても、実戦での斬り合いは、まったくの別物。

 大切な一人娘、せっかく神の恩寵を受けた貴重な才能を、なぜ、むざむざと死の危険に晒すのか。

 そう言い募る人々に、マクセスは笑って、

『この子の前に敷かれた道の行く先を知る者ならば、きっと、早すぎるとは言わんだろう』

 予言者のように謎めいた言葉を口にしたかと思うと、あとはもう、何も言わなかった。

「――ねえ、楽園に行ったら、先に行ったみんなに会えるのかな」

 フェリスは、とめどなく喋り続けている。

「楽園って、すごく広いと思う? リューネくらいかな。それだったら、すぐにみんなを探せるよね」

「ああ、そうだな」

「あっ、でも、帝国くらい広かったらどうしよう。馬に乗らなきゃ。楽園にも、馬っているの? あ、分かった。戦いで死んだ軍馬のみんながいるんだ!」

「そうかもなあ」

 みんな元気にしてるのかな、懐かしい、あたしのこと忘れてなきゃいいけど、と椅子の上で嬉しそうにはしゃいでいたフェリスは、ふと、黙り込んだ。

 しばし、炎の中で薪のはじける音だけが響く。

 マクセスは、促すようなそぶりも見せずに、ただ、フェリスを見つめながら、ホットワインを一口すすった。

「……まあ、でも、あたし、絶対に死なないよ」

 ややあって、フェリスは呟いた。

 その拳が、右腰の上、剣の柄が来るあたりできつく握り締められる。

「だって、こんなに早く来ちゃったら、楽園で、みんなに笑われちゃうもん。
 フェリス、お前はまだ、なんにも仕事してないじゃないかって……」

「お前は、死なんよ」

 出し抜けに、マクセスが言い放った。

 それは激励とか、祈りというようなものではなく、断言の口調だった。

 フェリスは、思わず、父の顔を見た。

 自分をまっすぐに見つめる、青い目。

 父の表情は、笑っていた。

「お前はまだ小さいが、明日戦う敵の、誰よりも、強い。誰よりもな」

「……なんで、分かるの?」

「父さんは、将軍だから、だいたい分かる」

 口から出任せなのか、本気なのか分からないようなことを、大真面目に頷きながら言う。

 フェリスの顔に一瞬、苦笑いが浮かんだが、その笑いはすぐに掻き消えてしまった。

「あたし……強いから、何人か殺しちゃうよ、明日、きっと」

 固く両手を絞り合わせて、フェリスは言った。

「でも、それが、あたしたちの仕事で、ちゃんと暮らしてるみんなを守るためだもんね。
 父さんも、兵士のみんなも、ずっとそうやってきた――」

「そうだ」

 マクセスは、即座に頷いた。

「よく分かっとる。さすが、わしの娘だ。
 毎日いっしょうけんめい暮らしている人たちを守るために、その暮らしを壊そうとする敵を殺すのが、わしらの仕事だ」

 父の言葉を、ひとつひとつ噛み締めるように、フェリスは、何度も小さく頷きながら聞いている。

 殺すという経験を、どうすれば彼女が乗り越えることができるのか、マクセスは、娘がもっとずっと小さい頃から、慎重にはかり続けてきた。

『皇帝陛下がお喜びになるだろう』という、若い騎士を舞い上がらせる決まり文句は、彼女の心には響かなかった。

 フェリスには、上の者に自分を売り込み、成り上がろうという意欲が決定的に欠けていた。

 敵の残虐さを強調し、怒りと憎しみを駆り立てるという方法もあったが、これは、マクセス自身が好まなかった。

 負の感情に身を任せては、戦場において絶対的に必要な、冷静な判断力を欠くことになる。

 そうして、最も有効だと分かったのは『毎日いっしょうけんめい暮らしている人たちを守るために』という一言だ。

 リューネのみんなを守るため。

 友だち、隊のみんな、街の人たちを守るため。

 この言葉があれば、彼の娘は、罪の意識に押し潰されることなく、人を斬ることができるだろう。

 娘を修羅の道に送り出す父親からのはなむけだ。

 だが、彼の娘は賢い。

 父に与えられた都合の良い言葉を盲信し、安心し切ってはいない。

 だから、今夜、ここに来た――

「殺すことが、怖いか」

『怖い』という言葉に反応したように、フェリスは鋭い横目でマクセスを見た。

 だが、一文字に引き結ばれた唇から、予想したような憎まれ口は出てこず、しばらくして、ただ一度、小さく頷いた。

「それでいい」

 マクセスは立ち上がり、娘の頭をわしわしと撫でた。

「それは、お前が、ちゃんとした人間の心を持ってる証拠だ」

「……父さんは、これまでに全部で何人くらい斬った?」

 珍しく嫌がる素振りを見せず、されるがままになりながら、フェリスは不意に言った。

 それは、彼女なりの、精一杯の照れ隠しだったのかもしれない。

「うん? そうだな。ちょっと、数え切れんなあ」

「父さんも、最初は怖かった?」

「ああ、怖かったぞ。誰にも内緒だが、鎧の下で、ちょっと漏らしそうになったくらいだ」

「漏らしたの!?」

「漏らしとらん! ほんのちょっとだけだ」

「それって、漏らしたってことでしょ!? うわあ! 将軍なのに、かっこわるーい!」

「大丈夫だ。その時はまだ、ただの騎士だったからな!」

「えーっ、それでも、やだよぉ!」

 初めて少女らしく笑いながら、フェリスは父親の手を払い除けた。

「――ねえ。今日だけ、ここで寝てもいい?」

「『将軍閣下』の部屋でか?」

 呆れたように目を大きくしてから、マクセスは、一転してにっこりと笑う。

「だが、いいぞ。お前は、わしの娘だからな」

「やった! だって、こっちの部屋のほうが、あったかいんだもん」

「そうかあ?」

「そうだよ。じゃ、ベッド借りるね!」

「……おい。わしは、どこで寝るんだ?」

「知らなーい。おやすみ、将軍閣下」

 ひひひ、とわざとらしい笑いをあげながら、フェリスは壁の窪みにしつらえられた寝台にのぼり、頭まで毛布をかぶった。

「仕方ないな。わしは、もう少し後で寝るよ。おやすみ」

 マクセスは、もとの椅子に深々と身を沈め、肘掛けに頬杖をついて、じっと炎を見つめた。

 燃えていた薪のひとつがぼろりと崩れて、炎のかたちが変わったとき、彼はふと目を上げて、フェリスが入ってきた扉の方に視線を向けた。

「御苦労。今夜はわしに任せて、休んでいいぞ。お前も、明日に備えろ。
 ……あと、戸を閉めて行け。寒いから」

 ほんの少し開いていた扉の隙間で、影のような姿が動いた。

 僅かな炎の光を受け、ちらりと光った目は、鷹のような金。

 その目はすぐに伏せられて、彼は、頷いたようだった。

 音も無く、扉が閉まる。

「……そりゃ、グウィンの奴も、寝られんよなあ」

 独り言のように呟き、フェリスの方に目を戻すと、大きく伸ばされた手が毛布から突き出て、幸せそうな寝顔が見えていた。

《冷血》マクセスは、苦笑した。

「わしらよりも、大物か」

 ガイガロス砦の夜が更けてゆく。


《翼持つ女神》の再臨とうたわれる辺境の戦乙女の誕生まで、あと、ほんの僅か――





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