ターミナル玄関口サブゲート入り口時空跳躍サブゲート⇒『DOG FIGHT』 Copyright 2009 キュノ・アウローラ, All rights reserved.

DOG FIGHT


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【主な登場人物】

Χ(カイ)

 アンダーグラウンドで製造される、ヒトと犬を融合させた生物のうちの1頭。

 耳、尾、肩から先、腰から下が黒い毛に覆われた犬のものになっている。

 四足歩行をする。

 ヒトの言葉は話せず、吠え声、鳴き声で意志を伝える。

 闇の闘犬ショー「ドッグファイト」で圧倒的人気を誇っていたが、

 試合会場の支配人に噛み付いて大怪我を負わせ、廃棄された。

 闘争本能の塊のような性格で、戦いに怯えるということがなく、血に酔う。

 たいへん警戒心が強いが、主人と認めた相手にはこの上なく忠実。



一ノ森 賢(イチノモリ ケン)

 闘犬を養成するトレーナーの中でも、天才的な腕を持つと言われた男。

 かつては破格の報酬でオーナーに雇われ、「ドッグファイト」で何度も闘犬を優勝させていたが、

 ある事件を機に失踪し、表舞台から姿を消していた。



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 ――――――――――――――――――――――――――――――





 アンダーグラウンドのバー【ミザリー】で、拷問ショーの出し物にされる一頭の「犬」。

 それは数週間前まで「ドッグファイト」で絶大な人気を誇った闘犬【Χ】(カイ)だった。

 闘争本能の塊のような性格のΧは、ドッグファイト・ショーの試合会場の支配人に噛み付いて大怪我を負わせ、廃棄されてしまったのだ。

 身体を切り刻まれ、悲鳴をあげるΧを見て歓声をあげる客たち。

 Χは拘束された身体で狂ったように周囲を見回すが、逃げ場はない。

   ↓

 その頃、バーの表では、呼び込みのボーイが、ひとりの男に声をかけていた――

「変態向けのショーに興味はない」

 薄汚れたレインコートに身を包み、暗い目をサングラスで隠したその男は、そう言い捨てて去ろうとするが、

「でも旦那、今日のは格別だよ。滅多にない出し物だよ。『闘犬』が手に入ってね!」

 ボーイの言葉に、サングラスの奥で、男の目がぎらりと光った。

「……何だと?」

   ↓

 弱り切ったΧが舞台裏に運び込まれ、ブーイングする観客たちに、司会者が叫ぶ。

『もっと酷いものが観たい!?』

『YES!!』

『なら、このスクリーンをご覧!』

 檻に投げ込まれたΧの前に、水を入れた皿が置かれる。

 彼はこの24時間、餌も水も与えられていなかった。

 傷ついた身体を引きずり、震える舌を伸ばして水を舐めるΧ。

 だが次の瞬間、Χは絞り出すような苦鳴をあげると、悶え苦しみ始めた。

 水には毒が入れられていたのだ。

『本邦初公開、闘犬の薬殺ショーだよ!』

 司会者の叫びに、狂ったような歓声をあげる観客たち。

 そこへ、ひとりの男が飛び込んできた。

   ↓

 その男は客たちを突き飛ばすようにして舞台裏に駆け込み、Χの檻の前に立つ。

「何だ、てめえはっ! 出て行け!」

 駆けつけてきた用心棒たちに、男は凄絶な眼光を向ける。

 ただならぬ鬼気に圧され、一瞬怯む用心棒たち。

 その隙に、男は側に置かれていたキイカードで檻のロックを解除すると、手近のミネラルウォーターのボトルを掴み、檻に入った。

「馬鹿が! やられるぞ……」

 呻く用心棒たち。

 Χはこの店に運ばれてきた初日、用心棒のひとりの指を3本食いちぎっていたのだ。

「飲め!」

 泡を吹いてもがくΧに、ミネラルウォーターのボトルを差し出す男。

「!」

 鋭い爪を持つΧの前肢が跳ね上がり、男の頬を浅く裂いた。

 Χにとって、人間はもはや自分を虐待する敵でしかなかった。

 ましてや、見たこともないこの男を信用するなど……

   ↓

 その途端、男はその場の全員が驚くほどの身のこなしでΧに飛びかかった。

 仰向けにして胸の上に馬乗りになると、両脚で前肢を押さえつけ、Χの口にボトルの飲み口を突っ込む。

「飲め!」

 無理矢理、Χに水を飲み込ませると、男は鋭い牙も恐れずΧの口を開かせ、その顔を横向きにすると、喉の奥に指を突っ込んだ。

 びくりと身体を痙攣させ、血の混じった水を吐き出すΧ。

「もう一度だ! 胃の中のものを全部吐き出せ!」

 用心棒たちは、呆気にとられたように男の動きを見つめていた。

 その動作は、明らかに、素人のそれではなかった。

 何度か嘔吐を繰り返した後、Χはぐったりとして檻の床に横たわる。

 ヒューヒューと細い息が、かろうじて命があることを示しているが、半開きになった目は虚ろで、どう見ても助かりそうにはなかった。

   ↓

 不意にカチリという音がして、男は檻の中で立ち上がり、振り返った。

 そこには、銃を構える用心棒たちと、【ミザリー】の支配人の姿があった。

「よくも、うちのショーを滅茶苦茶にしてくれたな。――代わりに、てめぇが次の出し物になれ」

 支配人の恫喝にも全くたじろぐことなく、男はちらりとΧを見下ろし、それから、平然と支配人たちを見返した。

「なぜ、こいつを殺す……?」

「なぜ、だと? ――ショーだよ! ショービジネスだ。お客がそれを求めてる。
 生贄を生かして使い回すようなケチなショーは飽きられるんだよ、ええ?
 分かるだろう。毎回が本番、ナマの処刑ショーなんだよ。
 ウチのお客は、常に新鮮な血と肉を求めてるんだ」

 支配人の長広舌は、そこで不意に止まった。

 いつの間にか、男の手には小型の銃が握られていた。

 その銃口は真っ直ぐに、支配人の突き出た腹に向けられている。

 男は薄く笑った。――その表情には、支配人たちの背筋を冷たいものが這い上がるような、鬼気迫るものがあった。

「それじゃ今度は、てめぇの臓物ステージにぶちまけろ」

「……何者だ、てめぇは?」

 額から、一粒の冷や汗を流して、支配人。

「どうやら、そこらの愛犬家のニイちゃんってわけじゃなさそうだな」

「俺は……【一ノ森】だ……」

   ↓

「一ノ森……?」

 記憶を反芻するようにその名を呟いた支配人の目が、はっと見開かれる。

「てめぇが、か?」

 一ノ森 賢。

 ドッグファイト・ショーの業界では、天才的トレーナーとして名を知られた男だ。

 彼が担当した犬は、どれもめきめきと頭角を表し、優勝への階段を駆け上った。

 そうやって、何頭もの闘犬を優勝に導いた一ノ森だが、「ある事件」を境に、その消息はぱったりと途絶える――

「あんたは、例の一件以来、行方知れずってことだったが……」

「この犬を引き取りたい」

 それ以上の詮索を遮るように、男……一ノ森は、切り口上で言った。

 支配人の目に、狡猾そうな光が浮かんだ。

 彼は用心棒たちに銃を下げるよう合図すると、 太い指を組んでふんぞり返る。

「こいつの権利はうちにあるんだ。タダでは渡せねぇな」

 一ノ森もまたレインコートのポケットに銃を収め、肩をすくめる。

「そうか、残念だ。……【Mr.S】がお喜びになると思ったんだがな」

 不意に出た名前に、支配人がぎょっとしたような表情になる。

 今現在、この街を取り仕切っていると見なされているボスの呼び名だ。

「あんた、今はMr.Sの下で働いてるのかい?」

「ボスはこういうのを集めるのがご趣味なんだ。……分かるだろう。愛玩犬にするのさ」

「犬」にも様々な用途があり、ショーで戦う「闘犬」の他、用心棒代わりに用いられる「護衛犬」、そして、鑑賞用や時には性的な目的で利用される「愛玩犬」などがいる。

 Χの目が揺れて動き、一ノ森を見上げた。

 だが、サングラスに覆われた一ノ森の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。

「……よし、いいだろう、連れて行け」

 支配人は、そう言って大きく頷いた。

 このまま手元に置いたところで、この犬は近いうちに死ぬだろう。死骸を片付ける手間がかかるだけだ。

 それならば、ボスに名前を売っておいたほうが得に決まっている。

「権利書を。……よし。Mr.Sには、あんたのことをよく言っておいてやるよ」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。そいつ、すぐに死ぬんじゃねえか? それで、俺が傷物をよこしたと思われたら――」

「俺を誰だと思ってるんだ? 犬の体調管理のことなら俺に任せておけ」

 悠然と檻から出て、一ノ森は支配人の用心棒たちを指で呼びつけた。

「――今、迎えの車を呼ぶ。この犬を裏口まで運んでおいてくれ」

   ↓

 程なく【ミザリー】の裏口に、黒塗りの車が停まった。

「そいつは後部座席に乗せろ」

 ぐったりとした身体に拘束具を着けられ、口輪を嵌められたΧが後部座席に運び込まれる。

 一ノ森はその隣に乗り込むと、支配人たちに軽く手を振り、出せ、と運転手に合図した。

「……悪い、シン。助かった」

 しばらく走ってから、一ノ森は不意に、それまで張り詰めていた糸が一気に緩んだかのような虚脱した表情を見せた。

「お前が空いてなかったら、どうしようかと思ったぜ。この車のおかげで、俺が大物と繋がってると奴らに信じさせることができた」

「ケンちゃん、相変わらず、ヤバい橋渡ってるね!」

 気弱そうな顔をした運転手は、はははと笑った。

 どうやら気弱そうに見えるのは下がった眉のせいで、中身はそれほどでもないようだ。

「ワタシ、ちょうど女の子送って、お店に戻るところだった。ちょうどよかったよ。けど……」

 ちらりとバックミラーを見て、

「ケンちゃん、悪いけど、その荷物かなり臭う。これ、まずいね。仕事中に変なもの乗せたってばれたら、ワタシ、クビになってしまうよ」

「すまんな。デオドラントスプレーか、女の子の香水でもふっといてくれ」

「ああ!」

 運転手は何事か思いついたように笑顔になると、ダッシュボードを開けて巨大なスプレー缶を取り出し、後ろ手に、いたって無造作に、Χに向かって噴霧した。

 Χが苦しげにもがき、小さく呻く。

 運転手は得意げに、

「これ、お客がゲロあげたとき用。強力消臭剤ね。いつも積んである。『そなえあれば、うれいなし』よ」

「学があるな」

「ホントはワタシ、カレッジいきたかったね。今もよ。そのうち、おカネ貯まったら、カレッジ行くよ」

 とりとめもない話をするうちに、車は目的地に到着した。

「本当にすまん、助かった。――そのうち、必ず礼はする。必ずだ。カレッジの入学金、払ってやるよ」

「期待しないで待ってるよ。じゃ!」

 シンの車が走り去り、路上には一ノ森と、Χだけが残された。

「……行くぞ」

 Χの身体を引きずり、一ノ森は、側に佇む建物に入っていった。

 それは老朽化し崩れかけた、もう住むものもないはずのアパートメントだった――

   ↓

 Χは恐ろしい悪夢の中をさまよっていた。

 血飛沫、突き出されるナイフやメス、ハサミ……

 自分を取り囲み叫びたてる人間たちの歪んだ顔、顔、顔……

 彼はもがき、切り裂くような悲鳴をあげて跳ね起きた。

 目を開くと周囲は真っ暗で、それが余計に恐怖心をあおった。

 ここはどこだ? 何をされる?

 そこはコンクリートの打ちっぱなしで、立方体に近い、何もない部屋だった。

 高い位置に横長の窓があり、わずかに夜空が見えた。

 Χの身体の下には毛布が敷かれていた。

 身動きすると、がさがさと奇妙な感触があった。

 はっとして見下ろす。

 身体の傷には、すべて手当てが施されていた。

 だが、そのことによってΧはパニックに陥った。

 何をされた? 今度は何をされた?

 生々しい傷口から血が滲むのも構わず、身体を覆うパッドを噛み取り、包帯を引きちぎる。

 この場から逃れようと闇雲に駆け出すと、首輪で喉が絞まり、床に転倒した。

 怖い。怖い。嫌だ。

 鎖に噛み付き、必死に引っ張る。だが、到底ちぎれそうになかった。

 そのとき、Χは不意にびくりと耳をそばだてた。

 足音が近付いてくる。

 Χは壁際に身体を押し付け、唸った。

 金属の扉が開き、サングラスをかけた男が入ってきた――

  ↓

 一ノ森は、牙を剥き出して唸るΧを見下ろした。

 怯え切っているのは、細かく震える身体と、ぺったりと伏せた耳を見ればわかる。

「落ち着け……俺は何もしない……」

 穏やかに呼びかけながら、姿勢を低くして近付く。

 一ノ森が差し出した水皿を見ると、Χは悲鳴のような声をあげて壁に身体をぶつけ始めた。

 まるで、そうすれば壁を通り抜けてこの空間から逃れられるとでもいうように。

 毒入りの水を飲まされた苦しみを思い出したのだ。

「無理に飲まなくてもいい……ここに置いておく」

 一ノ森はリードの届く範囲に水皿を置き、ゆっくりと離れた。

 一ノ森が扉の外に姿を消すと、Χは震えながらうずくまり、ぼろぼろと涙を零した。

  ↓

「こりゃ長丁場になるな……」

 暗い部屋の中、手巻きラジオに付いたライトの灯りのみを頼りに古びた椅子に座り、一ノ森は呟いた。

 彼は、このアパートの元からの住人ではなかった。

 無人となったアパートに、捨てられていた家具を運び込み、勝手に住み着いているのだ。

 アンダーグラウンド最大の闘犬ショー「ドッグファイト」で何度も犬を優勝させ、闘犬のオーナーたちから引く手あまたであった頃には、一等地のペントハウスに住み、高級な酒に酔ったこともあった――

 そんな日々は、いまや遠い夢にすぎない。

 一ノ森はキャビネットからペンと分厚い手帳を取り出すと、Χの反応を克明に記録しはじめた。

 これは、トレーナーになった時からずっと欠かさず続けてきた彼の習慣だった。

 手帳を閉じ、椅子に深く寄りかかり、こめかみを揉んで目を閉じた。

 ――あいつはひどく虐待されたせいで、人間不信に陥っている。

 せっかく手当てをしておいたのに、保護パッドをほとんど全て剥がしてしまっていた。何かおかしなことをされたと思ったんだろう。

 水に化膿止めの薬品は混ぜてあるが、悪化しないか心配だ。

 だが、今の状態では無理に手当てをしても同じことの繰り返しだろう。

 ここからは根気の勝負だ。

 次は、そう、そうだな、1時間半後だ……

   ↓

 1時間半後、再び入室。

 歯を剥き出して唸る。極度に怯えている。

 水にはまったく口をつけていない。

 近付くとさらに唸る。

 飛び掛かられたときに備えて身構えながら近付いたが、恐怖で身体が強張っているらしく攻撃をしかけようとはしない。

 水皿を取り、Χの前で中身を飲み干してみせた。 

 俺が倒れないのを見て、Χは訳が分からないという顔をしている。

 水皿を持って退室。

 次の給水は、もっと奴の喉が渇いてからだ。

   ↓

 3時間後、入室。

 反応は前回と変わらない。

 Χは毒を盛られることに怯えている。この恐怖心を取り除かなくては経口補水ができない。

 Χの目の前で、水皿から直接飲んで、口を開けてみせる。

 水皿を置く。渇きは感じているようだが、近付いてはこない。

 唸ってこちらを威嚇する。

 俺がいる前で飲みたくないようだ。隙を見せることになるからだろう。やはり闘犬だ。

 水皿を置いて退室。今日はこれで様子見だ。

   ↓

 夜が明けた。

 俺は一体何をしているんだ?

 こんな記録までつけて、お笑いだ。

 あいつが死んだときに、もうこの業界からは足を洗うと決めたはずだ。

 ――そうだ、試合に出させるためじゃない。

 なら何のためだ。

 そんなことはどうでもいい。

 理由なんか探したって仕方がねえんだ。

 これから入室する。

   ↓

 入室。

 水皿は空になっている。

 Χは上体を起こして吠えた。驚異的な回復力だ。

 だが、吠え声がおかしい。擦れてがさついている。

 咳き込み、苦しげな様子。薬を飲んだときに喉をやられたのかもしれない。

 特に深い胸の傷が気になる。周辺が腫れているようだ。

 水皿に新しい水を入れて、また一口飲んでみせる。

 今回からは少量の餌も与える。市販の弁当をフードプロセッサにかけたものだ。

 作った俺が言うのもなんだが、見た目がゲロそっくりだ。

 俺なら食わない。

 我慢して、奴の目の前で舐めてみせた。

 味は予想よりもマシだった。ビタミン製剤を水のほうに溶いておいてよかった。これに酸味を加えたらアウトだ。

 少々狡い手を使う。 

 リードの届かないぎりぎりの範囲に餌と水を置き、退室。

   ↓

 扉を出てすぐ、激しく鎖の鳴る音。

 奴は空腹を感じている。餌と水に届かないので腹を立てているのだ。いい傾向だ。

 俺が入室すると、Χは飛び上がるようにして壁の隅に戻り、唸った。

 餌と水の皿をΧのほうに押してやる。

 俺が敵ではないこと、自分が俺によって給餌されていることを教えておかなくてはならない。

 こちらを見る視線にまだ敵意はあるが、いくぶん鋭さが弱まったように思える。 

 胸の傷の腫れはいまだ引かず。

 しばらく待ったが、近付いてくることはない。

 退室する。

   ↓

 ……このようにして、それから数日間、一ノ森とΧの探り合いは続いた。

 一ノ森は、Χの部屋に入って食事を摂るようにした。

 自分が先に食事を摂る様子を見せ、それが済んでからΧに給餌することで、上下関係を理解させるのだ。

 Χは、常に目で一ノ森の動きを追っていた。

 彼は徐々に一ノ森の存在に慣れ、警戒を解きつつあるようだったが、まだ、近付くことは許さない。

 一方、一ノ森はΧの胸の傷の経過を案じていた。

 Χが手当てを受け入れないせいで、大きく開いた傷はなかなか塞がらず、ひどく腫れてじくじくと汁を滲ませていた。

 かなり痛みもあるようだ。

 このままでは傷口から細菌に感染しかねないと判断した一ノ森は、とうとう、強硬手段に出ることにする。

   ↓

 一ノ森が部屋に入ると、Χは扉が開く前にそのことを察知していたかのように身構えて吠えた。

 こちらを睨みつけるΧの目に、わずかな不安がよぎったのを一ノ森は見逃さなかった。

 一ノ森はサングラスを外していた。

 治療のためのキットを詰めたウエストバッグを巻き、左手に訓練用の強靭なアームカバーをつけている。

 闘犬の牙も通さない頑丈なものだ。

 いつもと違う雰囲気にΧは緊張し、いっそう吠え立てたが、一ノ森は気にも留めないように近付いていった。

 Χの視線が揺れた。

 この男に服従するべきか、それとも戦うべきか?

 Χは後ずさり、壁にぴったりと身体をつけて唸った。

 その目の中には恐怖があった。

 ――水をくれた。餌をくれた。だが、この男はこれから自分に何をするのだろう?

「落ち着け……お前の傷を治してやる……」

 穏やかな声を聞くと、服従したいような気がした。

 彼は前の主人のように電気ショックを与えたり、スパイクの付いた首輪で彼を従えようとしたりしなかった。

 Χはこれまで、興奮と戦闘衝動、恐怖と力による支配に服従することは知っていたが、こんな気分――相手を信じて身を委ねてみたい、という感覚――は味わったことがなかった。

「動くなよ……いい子だ……」

 一ノ森の手がゆっくりと近付いてくる。

 その瞬間、Χの脳裏に恐怖の記憶がフラッシュバックした。



 血飛沫、突き出されるナイフやメス、ハサミ……

 自分を取り囲み叫びたてる人間たちの歪んだ顔、顔、顔……



   ↓

 Χは絶叫し、同時に防衛本能が爆発した。

 彼はばねのように躍り上がって一ノ森の腕に喰らい付き、深く牙を立てて狂ったように頭を振った。

「馬鹿野郎!」

 怒声とともに、頬に拳が叩きつけられ、Χははっと我に返った。

 ――思い出した。

 そうだ、こうやって噛み付いた。試合会場の支配人に。

 それから、何人もの人間たちが駆けつけてきて、取り囲まれ、檻に入れられて――

 それから、あの地獄が始まった――

 Χは悲鳴をあげた。

 一ノ森の腕から口を離し、がくがく震えながらうずくまり、何度も自分の腕を噛んだ。

 その目からは焦点が失われていた。

 コンクリートの床に黒々とした染みが広がる。恐怖のあまり失禁したのだ。

   ↓

「Χ!」

 一ノ森はΧを引き起こすと、床に仰向けに転がして馬乗りになった。

 噛み付かれた腕は、アームカバーをつけた左手だった。そうでなければ、今ごろ手首から先がなくなっていただろう。

 毒を吐かせたときのように、前肢を脚で押さえつけ、身動きを許さない。

「Χ!」

 視線が定まらないΧの顔を両手でがっちりと挟んで覗き込み、大声で名を呼ぶ。

 アームカバーに覆われた左腕を、がちがち鳴る牙のあいだにぐいと押し込んだ。

「俺がお前のボスだ。噛みたいか? 噛め!」

 Χは涙を流しながら必死に口を開き、顔を背けようとする。

「噛まないのか? ――よし、いい子だ」

 一ノ森はΧの頭を撫で、笑顔を見せた。

 彼がΧの前で笑ったのは初めてのことだった。

   ↓

 Χの目に焦点が戻った。

 彼はじっと一ノ森の顔を見た。

「俺がお前のボスだ、Χ」

 一ノ森は穏やかに言って、Χの喉と顎を舐めた。

 Χはびくりと身体を強張らせたが、抵抗しなかった。

「いいか……今から、お前の胸の傷を治療する。痛むと思うが……我慢しろ」

 Χは不安から小さくもがこうとしたが、一ノ森はΧの顔を挟んで目を合わせ、厳しく言い渡す。

「動くな」

 Χは、動きを止めた。

 治療のあいだ、Χはずっと動かなかった。

 痛みに顔を歪め、浅い息をつきながらも、一ノ森の表情と、その動作の全てをうかがっている。

 Χは一ノ森をボスと認めた。

 全ての「犬」は信頼できるボスを必要としている。命令に従い、ボスを満足させ、誉められることが喜びなのだ。

「終わったぞ。――よく我慢したな」

 一ノ森はΧを誉め、立ち上がった。

 Χは起き直ると、大きな保護パッドを貼り付けられた胸元を見下ろし、居心地悪そうに身動きした。

「外すなよ」

 それだけ言い置いて、一ノ森は退室した。

 扉を閉めると、彼は飛び上がり、ガッツポーズを取った。いいぞ。……いや、まだだ。落ち着け。

 一方、Χは一ノ森が去った扉のほうをじっと見上げていた。

 やがて彼はのっそりと壁の隅へ行き、毛布の上に丸くなった。

 そして毛布に鼻先を埋め、静かに寝息を立て始めた。

   ↓

 翌日、給餌のために入室した一ノ森は驚いた。

 Χは背筋を伸ばしてきちんと座り、一ノ森を待っていた。

 胸の保護テープはそのままだった。Χは言いつけを守ったのだ。

「いい子だ……」

 一ノ森の言葉に、Χの尾がぱたぱたと左右に振れた。

 一ノ森が扉の内側に座ってパンをかじっているあいだ、Χは姿勢を崩さず、一ノ森が食事をする様子をじっと見つめていた。

 そして一ノ森もまた、Χの様子を観察していた。

(こいつは、俺の命令を待っている。
 これならば、あるいは……次の段階に進めるかもしれない)

 食事を終えた一ノ森は、1度退室すると、アームカバーをはめ、スタンガンを握った。

 一ノ森は、Χのリードを外し、言葉だけで彼を従わせることができるか試そうとしていた。

 スタンガンは、万が一、Χが襲い掛かってきたときに、電気ショックで失神させるためだ。

 ――今の調子ならば、おそらく、こいつを使う必要はないだろう。

 使ってしまえば、あいつはまた人間に怯えるようになってしまうかもしれない。

 上手くいけばいいのだが……。

   ↓

 再び入室した一ノ森を見上げ、Χは嬉しげに尾を振った。

 だが、一ノ森が手にしたスタンガンを目にして、その表情が不安にかげった。

「いいか、Χ……これから、お前のリードを外してやる……」

 一ノ森は、ゆっくりと言った。

「お前は、俺を喜ばせたいだろう? 俺の命令を聞いて、それに従え。
 いいか。もし、お前が俺に噛み付こうとしたら、俺は、お前にショックを食らわさなきゃならん。
 だが、俺は、そんな真似はしたくない。分かるな?」

 Χは、一ノ森の言葉に注意深く耳を傾けていた。

 その内容が全て理解できたのかどうかは不明だったが、一ノ森を見つめるΧの表情からは、ボスの命令に従おうとする恭順さが滲み出ていた。

「よし、いい子だ……じっとしていろよ」

 一ノ森はゆっくりとΧに近付いた。

 Χは、かすかに肩をふるわせたが、動かずに一ノ森を待っていた。

 アームカバーをつけた手が伸ばされ、喉元に触れたとき、Χは目を閉じて唸った。

 全身が緊張し、耳が倒れている。

「何もしやしない……落ち着け、Χ……いい子だ」

 そして、一ノ森はΧのリードを首輪から外した。

   ↓

 Χは、そっと目を開けて、辺りの様子を確かめた。

 何も変わっていない……ように、見えた。

「いい子だな」

 ボスがそう言って笑った。

 いい子。――自分は褒められたのだ。

 Χは嬉しくなり、ぱたぱたと尾を振った。

 ボスが足元を指差し「来い」と言った。

 言われたことの意味ははっきりと分かった。

 ……だが、自分は引き綱に縛られているのではないか?

 それでも、命じられたことには従いたかった。

 立ち上がると、首から重く垂れ下がるいつもの感触が消えていた。

 戸惑って見下ろすと、リードは外され、床に落ちていた。

 ボスが自由にしてくれたのだ。

 Χは、飛ぶように一ノ森に駆け寄った。

 できることなら彼に飛びつき、感謝を表現したかったが、Χは命じられた通りに彼の足元に座って、その顔を見上げた。

「よし! 偉いぞ。……お前はいい子だ」

 褒められ、頭と首筋を撫でられると、幸福感で心臓が爆発しそうだった。

 このボスの命令なら、何にでも従いたい。

 もっと褒めてもらいたい。

 そして、ボスに笑ってもらいたい――

   ↓

 一ノ森が餌の皿を運んできた。

「今日も弁当の残りだ。本当は、もっといいものを食わせてやりたいんだがな……」

 言って、皿の中身を食べてみせようとした一ノ森を、Χは、キュ……と鳴いて止めた。

 一ノ森は、Χの意図を察し、驚きながらも、そのまま皿を床に置いた。

「……食べていいぞ」

 Χは、一ノ森の表情をうかがいながら、餌のにおいを嗅ぎ、それから食べ始めた。

 一ノ森が『毒見』をしない餌に、Χが口をつけるのは初めてのことだった。

 食べながら、何度も一ノ森を見上げる。

「犬」は、高い知性を持っている。

 どうすれば、自分の忠誠をボスに示すことができるかを、よく理解していた。

 ボス、俺は、あなたを信じています。だから、あなたが与えてくれる食べ物なら怖くない……

   ↓ 

 一ノ森は、Χの行動に深く心を動かされたが、表面上は落ち着き払っていた。

 あえて褒めず、何も言わずに、Χの前に水皿を置く。

 Χの身体がびくりと強張った。

 ためらうように、一ノ森を見上げる。

 毒の入った水を飲まされた苦痛と恐怖は、Χの記憶にまざまざと焼きついていた。

 一ノ森は、無表情にΧを見下ろした。

 交差する視線の中に、動作も言葉もないやり取りがある。

 ――水は怖い。でも……ボスは、俺を傷つけたりしないでしょう……?

 ――そうだ、Χ、お前は俺を喜ばせたいんだろう? お前のボスを信じて、その水を飲むんだ……

 Χは、ためらいがちに水皿の前に伏せ、注意深くにおいを嗅いだ。

 一ノ森の顔を何度もうかがいながら、やがて、意を決したように鼻先を水に近づけ、ほんの少し舐めた。

 また一ノ森を見上げる。

 一ノ森は大きくうなずいた。

 Χは、水皿に覆い被さるようにして、一滴あまさず水を飲み干した。

   ↓

 一ノ森は膝をつくと、Χを抱き締めて撫でた。

「よし、よくやったぞ、Χ!」 

 Χは千切れんばかりに尾を振り、一ノ森にのしかかるようにして身体を摺り寄せた。

「おっと……それは駄目だぞ」

 一ノ森は巧みに体をさばいてΧを床に倒し、今度は自分が上から乗りかかった。

「犬」は、本能的に、自分よりも強い者に対して服従する。

 特に、攻撃的で荒々しい気性の「闘犬」は、トレーナーを自分よりも下と見なせば、決してその命令に従わない。

 訓練でも、遊びでも、常にトレーナーのほうが「犬」よりも上位に立たなくてはならないのだ。

 Χは身体をひねってもがいたが、その抵抗はほんの形だけのものだった。

 やがてΧは自ら脇腹をさらけ出して、一ノ森に恭順の意志を示した。

「よし……」

 一ノ森は立ち上がった。

 この静かな興奮。満足感。

 闘犬と、確かに心が通い合ったという感覚。

 もう、2度と、味わうことはないと思っていた――

「……リードも外れたことだし、お前はそろそろ、風呂に入らなきゃならんな。
 シンの奴が言ってた通り、さすがに、かなり臭うからな」

 一ノ森は言った。

 おそらくΧは、廃棄されて以来、まったく身体を洗っていないのだろう。

 Χとわずかな時間、組み合っただけでも、服や手に強烈な体臭が染み付いている。

「まずブラシをかけて、それから水浴びだな。
 気持ちいいぞ。この近くに、ちょうどいい場所があるんだ――」

   ↓

 Χを待たせ、一ノ森は、ブラシを取りに自室に入った。

 その一室は、拾ってきたラグやソファなどで、質素ながら居心地よさそうにしつらえられていた。

 古びたクロゼットを開け、しまいこんでいたブラシのセットを取り出そうとして、一ノ森の動きが、ふと止まった。

 ブラシを納めた黒革のバッグに、金で刻印された「N」のイニシャル――

 一ノ森はブラシを置くと、物が雑多に詰め込まれた引き出しを開けて、底を探る。

 やがて、彼は壊れやすい宝物にでも触れるような手つきで、一枚の写真を取り出した。

 その写真には、洒落たスーツを着て、今よりも遥かに若々しく見える一ノ森自身と、彼の足元に寄り添う、一頭の「犬」の姿が写っていた。

 誇らしげにもたげられた頭、写真でもはっきりと分かる、黒くつややかな毛並み。

 そのところどころには金褐色の筋が走り、まるで稲妻のように見えた。

 写真の片隅には、文字が添えられている。



『ネオン ザ ライトニング  第102代ドッグファイト王者

 専属トレーナー  ケン イチノモリ』



 一ノ森の唇が小さく動き、その犬の名を呟いた。

 そっと親指を動かし、写真の中の姿を撫でる。

 2度と戻ることのない、輝かしい日々――

 一ノ森は静かに写真をしまうと、ブラシの入ったバッグを手に、Χの待つ部屋へと戻った。

   ↓

 彼の姿を見ると、Χは嬉しげに尾を振った。

「来い、伏せろ」

 命じられるが早いか、駆け寄り、おとなしく一ノ森の足元に伏せる。

 一ノ森がブラシをかけてやると、Χは気持ちよさそうに目を細めた。

 だが、ブラシが顔の側へきたとき、ぴくりと耳が動く。

 怪訝そうな顔をしてブラシのにおいを嗅ぎ、一ノ森の顔を見上げた。

「どうした、Χ……」

 問いかけながらも、一ノ森にはその理由が分かっていた。

 Χは、ブラシに染み付いた、自分以外の「犬」のにおいを感じているのだ。

「使い古しは嫌か?」

 言って、頭を撫で、あごの下をくすぐってやる。

 Χは不安を忘れたようにうっとりと目を閉じ、一ノ森の手に顔をすり寄せた。

   ↓   

 ブラッシングを終え、一ノ森は、Χをシャワーのある場所へ連れて行くことにする。

 古びたアパートの玄関を出ると、どれも似たり寄ったりのみすぼらしいビルが立ち並んでいる。

 一ノ森おすすめの「シャワールーム」は、この開発から見捨てられた地区の外れにあった。

 舗装の剥がれた街路を歩きながら、Χに声をかける。

「もう少し我慢しろよ」

 ヒュン……と情けなさそうに鳴いたΧは、一ノ森によって人間用のスウェットを着せられ、フードを目深にかぶらされた上に、ぼろぼろの車椅子に座らされていた。

 スウェットはオーバーサイズのゆったりとしたものだったが、それでも、衣服を身につけるということに慣れていないΧにとっては、居心地が悪いらしい。

 まだ日の高いこの時間帯、この辺りをうろついている人間は、滅多にいない。

 だが、こんな場所にも住んでいる者たちはいて、皆、一ノ森と同じ不法占拠者だった。

 そういう連中はたいてい昼に眠り、夜に出歩くのだが、ときたま窓の端や、古びたカーテンの陰から外をのぞいているときがある。

「犬」は一部の金持ちしか所有することができない、貴重品だ。

 アンダーグラウンドでは「犬」のオーナーであることがステータスになる。

 だからこそ、Χを大っぴらに連れて歩くことはできなかった。

 一ノ森は周囲に油断なく視線を配りながら、懐に入れた銃を常に意識していた。

「犬」の存在を知れば、貪欲な連中がハイエナのように群がってくるおそれがある――

   ↓

 幸いにして襲撃を受けることもなく、目的地にたどり着くことができた。

 そこは、傾きかけたビルとビルの隙間にある、ちょっとした空き地のような場所だった。

 片隅には、錆びてひび割れたいくつもの配管が剥き出しになっている。

「待ってろ」

 一ノ森は裏口からひとつのビルに入ると、壁に取り付けられたいくつかのバルブをひねった。

 すると、外の配管のひび割れから、勢いよく水が噴出した。

 突然のことにΧは悲鳴をあげ、逃げ出そうとしたが、一ノ森の命令を思い出し、その場に留まる。

「……すまん、すまん! 驚いたか?」

 戻ってきた一ノ森は、怯えているΧを撫でてやった。

「ここが俺たちのシャワールームだ。来い」

 ほとんどが不法占拠者ばかりのこの地区では、個人のねぐらに水道があることは稀だ。

 使い勝手のいい水場には大勢が集まり、水汲みの順番をめぐって揉め事が起こることもある。

 水争いを避けるために、一ノ森は、他の者が見落としていたこの配管を探し出し、密かに使っていた。

 いつもは小型のウォーターバッグに水を汲んでねぐらで使うのだが、Χを洗ってやるには、その程度の量ではとても足りない。

   ↓

 スウェットを脱がせてやると、Χは勢いよく身体を震わせた。

 水への警戒心は既に薄れ、肌に触れる冷たい感触を心地好く感じているようだ。

 一ノ森はボディソープのボトルを取り出すと、Χの身体にかけて、ブラッシングしながら洗ってやった。

 Χは大人しくされるがままになり、時折身体をくねらせては、洗って欲しい場所を示す。

「……こいつは、やり甲斐があるな」

 溜まっていた汚れと垢が、灰色の水となって流れ落ちていく。

 一ノ森はボディソープのボトルを振り、中身がほとんど残っていないことに気付いて舌打ちをした。

 このままでは、洗い切る前に空になってしまいそうだ。

 ――また盗ってこなきゃならんな、と、一ノ森は思った。

 一ノ森は、定職に就いていない。

 現金が必要になったときは日雇いのアルバイトをこなし、後は、ゴミ捨て場を漁ったり、店から商品を盗んで暮らしていた。

 そういう「仕事」のときは、アンダーグラウンドではなく、サバービア(山の手)に出向く。

 お決まりの仕事着は、スーツだ。いかにも汚いなりをして行ったのでは、店の者も警戒する。

 スーパーなどではなく、しゃれた内装の小さな店を選ぶ。

 そういう店では店員の監視が行き届くと思っているから、経費の節減のために、監視カメラを外見だけの偽物にしていることが多い。

「仕事」のたびに店を替え、目を付けられないようにすることも大切だ。

 全て、6歳になるまでに覚えたことだった。

 栄光の階段を昇る以前の、悲惨な暮らしを思い出し、一ノ森の唇に自嘲的な笑みが浮かんだ。

「……お前も、馬鹿な奴だ」

 呼びかけられ、Χが不思議そうに一ノ森を見る。

「お前は本当なら、こんな暮らしをしてるはずじゃない。
 いい肉を食って、専属のスタイリストが付いて――王者の生活があったはずだ。
 どうして、それをぶち壊すような真似をした?」

 Χは、首を傾げ、それから一ノ森の膝に頭をこすり付けた。

 一ノ森は、苦笑した。

「……そうだな。こんなことを、お前に訊いても仕方がない……」

 呟き、動きを止める。

 その目はΧに向けられていながら、Χを通り越して、過去の光景を見つめているようだった。

 Χは、ボスの注意を引き戻そうとするように、鼻づらで一ノ森の手を押した。

 我に返ったように、一ノ森はΧに笑いかける。

「……ああ。それに、どっちがマシな生活か、分かりはしないからな」

 Χは一ノ森を見上げ、ボスの言葉に同意するように彼の手のひらを舐めた。

 顎の下を掻いてやると、幸せそうに目を細める。

 その穏やかな顔つきと、リラックスし切った姿は、とても希代の「闘犬」であったとは思えなかった。

 そのとき、

「……まああ! 可愛い、ワンちゃん!」

 甲高い声が、その場に響き渡った。

   ↓

 Χの動きは、一ノ森の反応が遅れるほど俊敏だった。

 一ノ森の手の下からばねのように跳ね起き、現れた人影に向かって飛び掛かる。

 まさに一瞬。

 牙を剥き、喰らい付く――

「止まれ!」

 悲鳴よりも早く、一ノ森の命令が轟いた。 

 尻餅をつくように倒れ込んだ人影にのしかかり、今にもその喉首を噛み裂こうとした体勢で、Χは止まった。

 一拍遅れて、一ノ森が駆け寄る。

 Χの下で仰向けになり、今にも目玉が飛び出しそうな顔をしていたのは、汚らしい身形をした老婆だった。

 老婆、だろう、多分。

 ぼろぼろの衣服、まばらになった頭髪、しわくちゃで垢だらけの顔。

 最初の声の甲高さで、ようやく女性だと判別できたような有様だった。

「Χ……!」

 振り向いてきたΧの顔を、一ノ森は、拳で殴りつけた。

   ↓

 老婆の上から転がり落ち、Χは目を見開いて一ノ森を見た。

 その表情がたちまち歪み、悲痛な鳴き声をあげる。

 だが、一ノ森は容赦しなかった。

「俺の命令なしに、攻撃するな!」

 Χに馬乗りになり、首輪を持って強く締め上げる。

 Χはもがき、必死に鳴いて許しを乞うたが、一ノ森は懲罰の手を緩めなかった。

 そうしながら、彼は、自分を殴りつけてやりたいと思っていた。

 油断していた。

 ほんのわずかなきっかけで、一瞬にして爆発する、野生の戦闘衝動――

 これが、Χが廃棄されることになった原因なのだ。

「いいか! 俺の命令なしに、攻撃はするな! 2度とだ! 分かったか!?」

 怒鳴りつけた瞬間、がっ! と後頭部に鈍い衝撃が走った。

   ↓

「――ワンちゃんを、苛めちゃダメよ!」

 危うく飛びかけた意識に突き刺さるように、きんきんと高い声が聞こえた。

 ぐらつく頭を振りながら背後を見ると、重そうな布袋を持った老婆が、仁王立ちになっている。

 どうやら、あれで殴られたらしかった。

「ワンちゃんを、苛めちゃダメよ! 警察に、電話するわよ!?」

「そりゃ、勘弁だな……」

 老婆が再び振り回してきた袋を、一ノ森は軽々と受け止めた。

「わ、わたしを殺したら、警察に電話するわよ! 本気なんだから!」

「ばあさん……いい加減にしてくれ」

 一ノ森は、うんざりと呟いた。

 殺された後にどうやって電話するのか、などということよりも、鼓膜に響くその声がこたえる。

 ちらりと見ると、Χはその場にうずくまり、ぶるぶると震えていた。

「……あの犬は、俺が面倒を見てるんだ……」

 言いながら、一ノ森は奇妙な印象を受けた。

「犬」は非常に高価なものだ。浮浪者が、身近に接するようなものではない。

 それなのに、この汚らしい老婆は、Χを恐れたり気味悪がる様子もなく「ワンちゃん」と呼んでいる――

「まあ、まあ、かわいそうにね。ワンちゃん、泣いてるわ」

 老婆は、完全に一ノ森を悪者扱いしている。

 言われて見ると、Χは、涙こそ流していないものの、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「泣いてないだろ。嘘つくなよ、ばあさん。
 ――来い、座れ」

 命じられて、Χは驚くほどの素早さで駆け寄り、一ノ森の足元に座った。

 見上げるその目に、必死の色がある。



 ごめんなさい、ボス、もうしません。

 だから、俺を、捨てないで下さい――



「いい子だ、Χ」

 撫でてやると、Χはしばらくのあいだ身体を強張らせていたが、やがて、おずおずと鼻先を擦りつけてきた。

 一ノ森の手を舐め、ようやく安心したように身体を伏せる。

   ↓

「――おお、可愛い可愛いでちゅね、ワンちゃん! いい子でちゅね!」

「いい度胸してるな……」

 恐れ気もなくΧの前にしゃがみ、赤ん坊ならば一発で泣き出しそうな顔芸を見せる老婆に、一ノ森は苦笑した。

 何だか知らないが、彼女は、大の「愛犬家」らしい。

 Χの存在を知られた以上は、すげなくするよりも、味方に引き入れることを考えたほうがいいだろう。

「いい子、いい子。昔いた子に、そっくりでちゅ!」

「……ばあさん、あんた、ドッグファイトを観るのか?」

「飼ってたのよ」

 一ノ森が相手のときには口調がそっけない老婆だ。

 老婆は、大胆にも手を伸ばすと、Χの顔に触ろうとした。

 グウッ、とΧが唸ると同時に、一ノ森がΧの背中を押さえ、低く囁く。

「動くな、Χ……」

 張り詰めた弓のように緊張しているΧの背筋を撫で、安心させてやる。

「可愛い、可愛いワンちゃん!」

 Χの顔をぺたぺたと触り、耳をつついて、老婆は子どものように喜んでいる。

 Χは迷惑そうに顔を背けていたが、その表情は、徐々に和らぎつつあった。

   ↓

「あらあら、濡れてまちゅね〜。ワンちゃんは、お風呂の最中だったんでしゅね!」

 そう言うと、老婆は、ぱあっと顔を輝かせた。

「そうだ! ちょっと待ってね。いいもの、あげまちゅからね!」

 何事かと、一ノ森とΧが見守るうち、老婆はよたよたと自分の荷物――先ほど一ノ森を殴りつけた、重そうな袋――のところに戻り、中を探った。

「……ああ、あったわ、これ、これ!」

 薄汚れ、正体の分からない染みがべったりとついた袋から老婆が取り出したのは、綺麗にラッピングされた、ボディソープのボトルだった。

 ボディソープは淡いピンク色で、同じ色の固形せっけんもセットになっている。

「はい、これ! ワンちゃんのお風呂用にあげまちゅね〜」

「ばあさん……」

 ラッピングには、オーガニック化粧品で有名な企業のラベルが付いていた。

 浮浪者が買える代物ではない。

 どこかに捨てられたものを拾ったか、あるいは盗んだのだろう。

 リボンについた小さなバラの造花はくしゃくしゃに潰れていて、これまでずいぶん長いあいだ、持ち歩いていたらしいことを想像させた。

「ばあさん、有り難いが……これは、あんたの持ち物だろ。貰えない」

「【ローズ】と呼んで」

 言って、老婆は口を尖らせた。

 よく見ると、老婆がくれたボディソープとせっけんはローズの香りがついたもので、彼女が身に着けている、垢じみてよれよれになった衣服も、薔薇の花がプリントされたものだった。

 ――このばあさんは、昔は、いい暮らしをしていたのかもしれないな。

 一ノ森は、不意に、そう思った。

「犬」を飼っていたという話が本当なのか、それとも呆けかけた老人の妄想なのかは分からなかったが……

 浮浪者が、実用品であるはずのボディソープを使いもせず、後生大事に持ち歩いていたというところが、引っかかったのだ。

 薔薇の花や、その香りは、彼女にとって、優雅な昔の生活を思い出させてくれるものなのかも知れない……

   ↓

「……悪いな、Ms.ローズ。それじゃあ、お言葉に甘えて、ボトルのほうだけ貰おう」

「せっけんも貰ってちょうだい」

「こいつを洗ってやるときには、ボトルタイプのほうがいいんだ……。
 こんなことを言うのもなんだが、あんたこそ、せっけんが必要だぞ」

「失礼なこと言わないで! あげるって言ってるでしょ」

 ローズはなおもしつこく食い下がっていたが、不意に、何かを思い付いたようにせっけんを引っ込めて、にっこりと笑顔になる。

「……ああ! そうね。それじゃ、わたしたち、お揃いにしましょうね、ワンちゃん!」

 ころりと機嫌を直して頭を撫でてくるローズを、Χは、じっと見つめた。

 それから、一ノ森を見る。

 一ノ森は苦笑して、小さく肩をすくめた。

 Χは、ぺろりと舌を出して、ローズの薄汚れた皺くちゃの手を舐めた。

 急に舐められて、ローズは驚いたようだったが、やがて、幼い子どものように、くしゃくしゃの顔全部で笑った。

「大好きよ、ワンちゃん! ……そうだわ、ワンちゃんのお名前は?」

「Χだ」

「そうでちゅか! Χちゃんでちゅか! Χちゃんは、ほんとに可愛いでちゅね〜!」 

 どうやら一ノ森の名前には、まったく興味がないらしい。

 一ノ森はローズの贈り物であるボディソープでΧを隅々まで洗ってやると、水を止め、同じソープで洗っておいたスウェットを再びΧに着せた。

 Χは嫌がったが、ただでさえ、ローズの出現で時間を食ってしまったのだ。

 早いところ変装を済ませて、ねぐらに引き上げなくては、どんな面倒事に巻き込まれないとも限らない。

「もう帰っちゃうのね……」

 ローズは、しわしわの顔に、隠そうともせずに落胆の色を浮かべた。

 Χもまた、いまや彼女が敵ではなく、自分に愛情を抱いていることを理解していたので、彼女と同じように、少し淋しげな表情を見せていた。

「Ms.ローズ、こいつのことは、周りの連中には絶対に内緒にしておいてくれよ」

「ええ、ええ、分かってるわ、誰にも言わない。
 ――ねえ」

 ローズは、一ノ森の袖を掴み、懇願するように言った。

「あんたたち、明日、また、ここに来てちょうだい。ごちそうしてあげる。
 汚くないのよ、美味しいの。ほんとよ」

「ああ……」

 信用してもいいのか、本当に?

 確かに悪意はなさそうだが、どこまで正気か分からないようなばあさんだ。

 これ以上、関わり合っては、いずれ面倒なことになるのではないか……?

 ヒュン、とΧが鳴いた。

 彼はローズの方を見て、舌を出し、笑顔のようなものを見せた。

 車椅子の座席からはみ出した黒い尾が、ぱたぱたと左右に振れていた。

 一ノ森は苦笑した。

「――ありがとうよ、Ms.ローズ。明日、また来る」

   ↓

 こうして、一ノ森とΧ、そしてローズの交流が始まった。

 一ノ森には、ローズと触れ合うことで、Χの「人間」に対する不信感が薄れ、不意に爆発する攻撃性が抑えられるのではないか、という目論見があった。

 Χは――自分と同じように――もはや、ドッグファイトの舞台に立つことはないのだ。

 それならば、穏やかに生きることを教えてやったほうが幸せだろう……。

 翌日、水場を訪れた一ノ森とΧを、3人分の出来合い弁当を持ったローズが迎える。

 これも、おそらくはどこかで拾うか盗んできたものだろうが、一ノ森は追求せず、ただ礼を言った。

 Χの旺盛な食欲を見てローズは喜び、また来て、とせがむ。

 一ノ森は承知した。

 ――この先のことについて、一ノ森にも、明確なビジョンがあるわけではなかった。

 放っておくことが出来ずに、Χをあの店から連れ出し、給餌し、治療を施した。

 だが……Χの身柄を、いつまでも隠しておけるだろうか?

 定職に就いていない自分が、こいつを養っていくことができるだろうか?

 Χには決して見せることがなかったが、一ノ森は、Χを救ってからというもの、強い義務感と共に、常に漠然とした不安を抱えていたのだった。

 ローズが、その一端を担ってくれるというのであれば、渡りに舟だ。

 口には出さなかったが、ローズの出現によって、一ノ森は、重荷を分け合う相手が出来たような安心感を覚えていた。

「……ローズが好きか? Χ」

 一ノ森が尋ねると、Χは大きく尾を振ってローズの手を舐め、甘えて彼女の膝に顔を擦り付けた。

「御主人様が好きでちゅか? Χちゃん」

 黒い毛並みを撫でながらローズが尋ねると、Χは背筋を伸ばして座り、じっと一ノ森を見つめた。

 その表情には、人間の子どもが時折見せるような、全き信頼が滲み出ていた。

「いい子だ、Χ」

 一ノ森に撫でられると、うっとりと目を細め、頭を傾ける。

 その表情を目にする度に、守ってやらなくては、と、心から感じる……

 廃棄された「闘犬」と、社会的弱者が2人。

 この荒廃した、広大な街では、一片のゴミ屑のようなものかもしれない。

 だが、たとえ小さく、明日の知れぬものであったとしても――

 今、この瞬間、ここには、確かに幸福があった。

   ↓ 

 数度、会ううちに、一ノ森はローズを信用に値する人物であると判断し、自分たちのねぐらを教えた。

 こちらがローズのもとに出向くよりも、ローズに来てもらうほうが、Χの存在が露見する危険が少ないからだ。

 ローズは、やって来るたびに、食べ物や雑貨を持ってきた。

 一ノ森が、そこまでしてもらう必要はないと言っても聞かない。

 孫に菓子や玩具を買い与える祖母のように、Χに何かを与えることが、彼女の一番の楽しみになっているようだった。

 Χはいまや彼女にもすっかり懐き、まるで大きな猫のように身体をすり寄せて甘えた。

 一ノ森は、それを微笑ましいことだと思いながらも、心のどこかで、一片の違和感を感じていた。

 しばらくのあいだは、その感情の正体をはっきりと言い表すことはできなかったが――

 違和感は徐々に強まり、ある日、ローズの足元で脇腹を晒して身体をくねらせるΧの姿を見たとき、不意に、胸の内にある感情が明瞭な言葉に変わった。

「……まるで、愛玩犬みたいじゃないか?」

 言ってから、一ノ森は自分自身に腹を立てた。

 そうするように――Χの攻撃性を抑え、人間を信じ、甘えることを教えたのは自分自身ではないか?

 そうだ、人間と共に暮らすことを考えた場合、攻撃的であるよりも、こちらのほうが良いに決まっている。

 だが……何なのだろう、この思いは?

 Χが「闘犬」としての鋭く硬質な雰囲気をだんだんと失っていくように見えることが、一ノ森には、どこか気に入らなかった。

 他者を寄せ付けず、ただ勝利の興奮と主への忠誠のために戦う「闘犬」――

 そういった存在を育て上げることが、かつての一ノ森の使命だった。

(俺は……まだ、トレーナーとしての自分を捨て切れていない、ということか……)

 苛烈な訓練の間に「闘犬」はオーナーとトレーナー以外の者全てを敵と見なし、触れようとすれば牙を剥くようになる。

 この峻烈な誇りと激しい怒りが、彼らをドッグファイトの舞台で戦わせ、勝利させる原動力となるのだ。

 だから、今、ローズに甘えているΧの姿を見て、違和感を感じる……?

(それとも……俺は……嫉妬、しているのか?)

「闘犬」とトレーナーとは、一心同体。

 訓練を通じて、両者の間には、余人には入り込むことのできない絆が生まれる。

 だから……だから――?

(馬鹿馬鹿しい。もう、全て、終わったことだ――)

 ヒュン、と足元で声が聞こえ、一ノ森は物思いから覚めた。

 Χはローズから離れ、一ノ森の横に来て、背筋を伸ばして座っていた。

 一ノ森の顔を食い入るように見つめるその表情には、不安の色があった。

「犬」は、ボスの感情の変化を敏感に察知する。

 ボスが気分を損ねたのではないかと感じ、だが、その原因がはっきりと判らずにうろたえているのだ。

「……Χ」

 安心させるために名を呼び、笑顔を見せてやり、顎の下を撫でてやる。

 Χは一ノ森の手を舐めながら、何度もその顔を見上げた。

「いい子だ……」

「Χちゃんは、あんたのことが本当に好きなのね」

 ローズが呟いて、羨ましそうな顔をする。

「きっと、この子はずっと、あんたから離れない」

「……ああ……」

 ずっと。

 一年先のことも、一月先のことも、一週間先のことも判らない。

 それでも、一ノ森は頷いた。

   ↓

 さらに数日が過ぎた。

 その日、一ノ森は割れたアスファルトを踏みながら、家路を急いでいた。

 スーツを着て、手にはビジネスマン風の鞄と、高級デパートメントの袋を持っている。

 サバービア(山の手)で一仕事を終えた帰りだった。

 袋の中身は、あちこちの店で盗んだ食べ物や雑貨だ。

 サバービアでは逆に目立つため、外していたサングラスを、スーツの胸ポケットから取り出して掛ける。

 無意識に、スーツの内側のベルトに挟んだハンドガンを確かめ、周囲の気配に気を配った。

 これまでに幾度か、アンダーグラウンドに迷い込んだサラリーマンと間違えられ、強盗に襲われたことがある。

 アンダーグラウンドの住人は滅多に銃など持っていないから、銃を見せてやるだけで大抵は引き下がる。

 多少、骨のある奴を相手にするときでも、1、2発の威嚇射撃で事足りることがほとんどだ。

 それでも、ここに住み始めてから、4人撃った。

 死んだかどうかは、確かめていない。

 人を撃った現場に呆然と立ち尽くすような間抜けな真似は一ノ森はしなかったし、様子を見に戻ることもなかった。

 そして、次に何かの用で通りかかる頃には、死体は綺麗に消えている。

 そこで殺しがあったことなど、まるで嘘か幻だったかのようにだ。

 腐った死体に蛆が湧き、鴉が群がるなどというのは前世紀のおとぎ話。

 死体は金になる。 

 衣服も所持品も、皮膚も髪も骨も臓器も――リサイクル可能な資源なのだ。

 生きて磨耗し、死んで消費され、跡形もなく消え去る。

 それを空しいと感じるようでは、このアンダーグラウンドでは生きて行けない。

「永遠」など、サバービアの住人たちの頭の中にある幻想だ。

 今、この一瞬を。

 次の一瞬を。

 その次の一瞬を――

   ↓  

 何事もなくねぐらのアパートメントに帰り着いた一ノ森は、がらんとした部屋の片隅に据えられたテーブルの上に袋を載せた。

 その底を持ち上げて、今日の戦利品をざらざらと流し出す。  

 肉やスープのパック、マッサージ用クーリングジェル、ボディソープ……

 その中から、一ノ森は、しゃれたデザインの小さな箱を取り上げた。

(ローズには、いつも世話になっているからな……)

 ささやかなお返しとして、彼女に渡すつもりで手に入れたその品物は、薔薇の香りがする高価なハンドクリームだ。  

 どこかの国の契約農家で生産されている、本物の薔薇から取れたエッセンシャルオイルを使用しているというのが謳い文句だった。

 その国には今も、季節には朝ごとに満開になる薔薇の谷間があるという。

 みずみずしい薔薇の花びらがしっとりと露を含み、薄青く立ち込める朝靄の粒子の一粒一粒にさえ、高貴な香りが移って――  

 一ノ森はほんのわずかのあいだ、その幻想的なイメージをもてあそび、それから苦笑した。  

 自分は花に興味などない。

 あのばあさんの影響だ。  

 薔薇にまつわる品物を持ち歩き、ときどきその香りを吸い込んでは、ローズもまた、あの谷間に心を遊ばせてきたに違いない。  

 垢にまみれ、ぼろをまとった肉体から離れて、湿った地面の上を歩き、薔薇の芳香に満ちた清浄な空気を肺に満たす。

 今、この一瞬を。

 次の一瞬を。

 その次の一瞬を――

 生き延びるために、アンダーグラウンドの人間も、夢を見る。

 それは遠くおぼろげな幸せの記憶であったり、この世ならぬ神の世界であったり、あるいは――

(……俺の夢はどこにある……?)  

 ストロボの爆発。

 スポットライトの乱舞。

 その熱、熱狂、絶叫――  

 観客たちのスタンディングオベーション。

 耳を聾する地鳴りのような歓声とスタジアムの揺れを……

 ぴたりと隣に寄り添う、熱い身体の熱を感じたような気がして、一ノ森は、はっと目を見開いた。

 盗んだ食べ物のパックを強く掴みながら、静かに、自分自身に対して腹を立てる。

 戻るのか?

 戻りたいとでも言うのか? あの場所に?

 ……一ノ森は、ふと、部屋の奥にある重い金属の扉を見やった。

 Χがそこにいる。

 見えずとも、物音ひとつ聞こえなくとも、感じた。

 Χは扉の向こうで背筋を伸ばして座り、自分を待っている。

 ボスが帰ったことを、とっくの昔に感づいているのだ。

 一ノ森には、Χの感情が手に取るように判った。

 じっと待ちながら、焦れて、鳴いてボスを呼びたいと思っている。

 だが、無駄に声をあげることは禁じられている――声を聞きつけられ、見つかっては困る――ため、我慢している。

 扉を開ければ、Χは全身が目になったように一ノ森を見上げるだろう。

 尾を振り、舌を出して、「いい子だ」と撫でてもらえるのを待っている……

(戻りやしない。もう2度と……。
 Χを、あいつと同じ目には、遭わせない)

 一ノ森は肉のパックを手に、扉に向かった。

 そのとき、アパートメントの入り口で、騒々しい物音があがった。

   ↓  

 一ノ森はハンドガンを抜き、階段を駆け下りて入り口に向かった。  

 物音の正体は分かっていた。  

 一ノ森が自ら仕掛けた、維持費のかからない警報装置である。  

 入り口の、ちょうど人間の脛の高さに細い針金を張り、針金の一方の端を、壁に立てかけた大量の金属パイプに結び付けてあるのだ。  

 不注意な侵入者が引っかかれば、金属パイプが散乱し、死人も飛び起きるような音を立てる。  

 ちょうど今のようにだ。  

 一ノ森が入り口と呼んでいるのは、本来ならばアパートメントの裏口にあたる場所だった。  

 1階の窓と、本来のメインエントランスは、全て内側から封鎖してある。  

 路地の奥まった場所にある、あの裏口から侵入してきたのだから、単に浮浪者が迷い込んできたという訳ではなさそうだ……  

 いざとなれば、撃つことに躊躇いはなかった。  

 だが、階段を駆け下り、銃を構えた一ノ森の目に飛び込んできたのは、

「う、撃たないで……!」  

 入り口にうずくまり、必死に両手を挙げる老婆の姿だった。

「……ローズ!? 何、してるんだ?」  

 油断無く銃は構えたまま、ただし銃口は天井に向けて、一ノ森はローズに近付いた。  

 コンクリートの床に、緩んだ針金が光っているのが見えた。  

 やはり、ひっかかったのはローズであるらしい。  

 だが、彼女は、ここのトラップのことを知っている。

 一ノ森が教えたのだ。

 これまでに訪ねてきたときは、いつも針金をまたいでここを出入りしていたのに、なぜ、今日に限って?  

 老齢のせいで足元がふらついたのか?  

 それとも――

「た、大変よ!」  

 彼女は、立ち上がろうともがきながら叫んだ。  

 どうやら、針金に引っかかって倒れ、膝かどこかをしたたかに打ち付けたらしい。  

 つまり、彼女がそれだけ慌てる何か……

 思わず針金の存在を忘れて駆け込んでしまうほどに、急いで一ノ森に知らせるべき何かが、起きたということだ――

「どうした……」  

 手を貸してやりながら、一ノ森の口調も思わず緊迫する。

「く、黒い服の奴らが、来たの」

「黒い服……だと?」

「今、あんたが着ているような――スーツよ! とても、高そうなの。あれは警察じゃない。組織の人間だわ、きっと」

「――落ち着け、ローズ」  

 痛みのためか、それとも心配のためか、涙目になっているローズの肩を、一ノ森はぐっと掴んだ。

「頼むから、順を追って話してくれ。
 そいつらは、何をしていた? あんたは、どこで、そいつらを見たんだ?」

「ええと、そうね、1時間くらい、前。……わたしが、ここに来ようとしていたら、近付いてきたのよ。
 黒いスーツの、2人。
 そいつら、あんたの写真を持ってた――」

「写真だと?」

「そうよ、サングラスをかけてない、あんたの写真……それでも、すぐにあんただって分かったわ。
 こいつを知らないかって言うから、知らないって言ったの。
 そしたら、見かけたら知らせろって。金をやるって……」

 ローズは、痩せた身体をがたがたと震わせた。

「あんたたちに、早く知らせなきゃと思って……でも、そのままここに来たら、ばれるかも知れないし……
 1度、家に戻って、しばらくしてから来たのよ。大急ぎで来たの。
 ねえ、あんた、組織を裏切って逃げてきたの? 大変だわ。見つかったら、殺される――」

「……そうじゃない……」

 確かに、そうではない。  

 だが、思い当たる節はあった。  

 Χと初めて出会った、あの店――【ミザリー】でのことだ。

 表舞台から身を引いて以来、初めて、自分の名を名乗った。  

 今にして思えば、軽率だったかもしれない。  

 だが、名乗らなければ、あの場を切り抜けることができなかったこともまた事実だ。

【一ノ森 賢】――  

 不世出の天才トレーナー。  

 そのネームバリューは、アンダーグラウンドにおいては、いまだ一定の効力を持っている。  

 そして、それだけに、厄介な連中を引き寄せることも充分に考えられた……

「一体、どこの連中だ……」

「――知りたいか?」  

 不意に聞こえた声に、一ノ森は銃口を向けようとした。  

 だが、それよりも早く、足元でコンクリートが弾けた。  

 一ノ森は半端な方向に銃口を向けたまま、ぴたりと動きを止めた。  

 その顔に、見る見るうちに苦々しい表情が広がる。

「……つけられたな、ローズ」  

 入り口には、銃をこちらに向けて構えた、2人の男が立ち塞がっていた。

   ↓

「ひっ、ひ……!」

 奇妙な声をあげて、ローズが腰を抜かす。

 男たちの銃口が彼女に向けられるのを見て、一ノ森は鋭く叫んだ。

「待て!」  

 同時、彼女を庇うように半歩、前に出る。

「このばあさんを撃ってみろ。そんな真似をしたら、お前らを絶対に許さない……」

「は! どうするってんだ?」  

 2人組の片方――サングラスのために判別しがたいが、もう1人よりは若く見える――が嘲るように叫んだが、もう1人、年嵩のほうが、相棒を肘で制した。

 軽く洟をすすり、表情の読めない目をこちらに向け、言ってくる。

「……そっちが素直にすりゃ、ばあさんが痛い目に遭わずに済む」

(よし、乗ってきた……)  

 一ノ森は、胸の内で呟いた。  

 追い詰められた場面では、人間は色々なことを一瞬にして考えるものだ。  

 一ノ森が、一見無謀とも思えるこの行動に出たのは、それなりの理屈があってのことだった。  

 この2人組が消し屋であるとすれば、彼らの姿を見る前に、自分たちは殺されていたはずだ。  

 わざわざ向こうから声をかけてきたというのは、こちらと、何らかのやり取りをする腹があるからだろう。  

 彼らにとって、ローズの存在は邪魔なだけだから、撃ち殺すのに何の躊躇いもない。  

 だが、こちらにとってローズが大事な人間であるということをにおわせておけば、黒服たちは必ず、ローズを人質に使おうとする。  

 人質としての価値があるあいだは、少なくとも、彼女は殺されることはない……  

 ローズを見捨てる、という選択肢は、一ノ森の中には無かった。  

 そうできる段階は、もう、とっくに通り過ぎていた――

「人の家でドンパチやる前に、名前くらい名乗ってもらいたいもんだな……」  

 銃口を振って指示され、ハンドガンを手放す。

 両手を挙げた一ノ森は、そう言って皮肉げに唇を曲げた。  

 若いほうが慎重に近付いてきて、ハンドガンを蹴り飛ばす。

「――【一ノ森】だな?」  

 癖なのか、再び洟をすすって、年嵩のほうが尋ねた。  

 質問ではなく、断定の調子だった。

「……あんたらみたいに礼儀知らずの知り合いは、いないはずだがな」  

 答えた途端、いきなり、腎臓のあたりにパンチを食らった。若いほうが殴りつけてきたのだ。  

 呻いて前かがみになった一ノ森の腹に、さらに蹴りが入る。

 ローズの悲鳴が上がった。

「質問に答えろ」  

 年嵩のほうが、飽くまでも事務的な調子で言った。

「……そうだ……」

「それは良かった。――ボスがお呼びだ。一緒に来てもらおう」  

 ボス? 誰だ。  

 そう考えた一ノ森の脳裏に、閃くものがあった。  

 今、この時期に、自分を探させる『ボス』。

「お前ら……【Mr.S】のとこのもんか……?」  

 一ノ森の問いには答えず、年嵩のほうが、ぐるりと辺りを腕で示した。

「『犬』はどこだ?」  

 犬。  

 こいつらの狙いは、Χなのか――?  

 吐き気をこらえながら、一ノ森は言った。

「死んだよ」

「なら、死体を見せろ」

「臭くてかなわんから捨てた」  

 また、脇腹に蹴りが入った。  

 身体を二つ折りにして胃液を吐いた一ノ森の髪を掴み、若いほうが怒鳴る。

「作り話をぬかすと、ためにならねえぜ!
 ボスは、嘘がお嫌いだ。御自分の名前を勝手に使われることもな」  

 ちらちらする目の前に【ミザリー】のネオン看板が見え、檻の中で痙攣するΧの姿、ぶよぶよにたるんだ腹の支配人の姿が次々と浮かんでは消えた。  

 耳の奥に、自分自身の声が聞こえた。

『そうか、残念だ。……【Mr.S】がお喜びになると思ったんだがな』  

 ――ああ、まったく残念だ。

 うかつにアンダーグラウンド1の権力者の名前なんか出すべきではなかったのだ。  

 だが、あの場を言い抜けるためには、どうしてもその名が必要だった――  

 年嵩のほうが、ハンカチを取り出して洟をかんだ。

「余計な嘘はいらんぜ。どっかに居るんだろ。
 判るんだよ。俺は動物アレルギーなんでな。
 さあ、どこだ? チャンスは1度だ。
 吐かなきゃ、ばあさんの脳ミソが壁一面に飛び散ることになる」

「……分かったよ……」  

 一ノ森はのろのろと立ち上がり、両手を後頭部で組んだ姿勢のまま、背中にぴったりと銃を突きつけられながら階段を上った。

「さっさとしろ、ババア、ぶっ殺すぞ」  

 若いほうが、後ろでローズを追い立てている。  

 やがて一ノ森は、招かれざる客たちとともに、買い物袋を置いた部屋まで戻ってきた。

「そこだ……」

「待て、動くな。口で言え。どこだ」

「あの……扉の向こうだ」

「繋いでるのか?」

「ああ、繋いでる」

「そうか。――あんたが行け。犬をここにつれて来い。大人しくさせるんだ。妙な真似をしたら撃つ」  

 年嵩のほうが言って、一ノ森の背を銃口で押した。

 若いほうは、老婆を「動くなよ」と脅しておいて、一ノ森の隣に回り、銃とともにスタンガンを構えた。

(こいつら……Χを生け捕りにする気か……)  

 一ノ森はゆっくりと、後頭部に回していた右手を動かして、重い扉のノブに触れた。  

 ノブはまるで帯電しているように感じられた。  

 背後で「だめよ」と呟いているであろうローズの恐怖と悲嘆。  

 2人組の緊張。  

 そして扉の向こうで、異様な状況を感じ取りながらも、声もあげずにじっとその時を待っているΧの視線――  

 それら全てが集中したノブを握り、ぐっと捻る。引く。  

 扉が開いた、その瞬間。  

 一ノ森は鋭く一声叫んだ。

「――Fight!」

   ↓  

 その命令は電気信号のようなものだった。  

 回路を繋ぎ、雷管を発火させ、全てを吹き飛ばす火薬を爆発させる。

 その火薬の名は、闘犬の戦闘衝動――  

 それは危険極まりない賭けだった。

 Χと出会ってから、闘犬としての本格的な訓練をさせたことは1度もない。

 虐待により負った傷が、Χの身体能力にどの程度の影響を及ぼしているのか分からなかった。  

 普通に歩行する分には何の支障もないようだったが、刹那の動きが生死を分ける場面では、腱のわずかなこわばりが、筋肉のわずかな衰えが命取りになる場合もある。  

 それでも、一ノ森は賭けた。  

 自分と、ローズと、Χ自身の命を、この命令に賭けた――  

 ガッと地面を蹴る音が響いた。  

 強靭な爪がコンクリートに食い込む音。  

 巨大な漆黒の稲妻のように、Χは、一ノ森のほとんど真横にいた若いほうに飛び掛かっていった。  

 慌てて突き出されるスタンガンよりも高く、速く、かっと剥き出された牙が、一瞬後には柔らかな喉首に深々と食い込む――

 同時、年嵩のほうが、そちらに銃を向ける。  

 一ノ森は振り返り、ずっと後頭部に当てていた右手を、投げ出すように振った。  

 その手から飛んだのは、スーツの襟首に仕込んであった薄型のナイフだ。  

 万が一の事態――サバービアで盗みを見咎められた、あるいは職質を受けたときに備えて用意していたものだった。  

 ナイフは狙い過たず、男の顔面に向かって飛んだ。  

 回転して飛んだから、威力は低い。ほんのわずかな傷にしかならない。   

 だが、それでも、銃の正確な発射を阻止するには充分だった。  

 反射的にナイフを払い除けようと腕が泳ぎ、明後日の方向に一発――  

 一ノ森は猛然と駆け寄り、左手で相手の銃を掴んで押し戻しながら、右の拳を渾身の力で男の顔面に叩きつけた。

 指に、サングラスのテンプルがへし折れる感触と相手の頬の骨格そのものを感じ、倒れた相手の胸に馬乗りになる。

 まるでプログラミングに従うかのような自動的な動作で銃を奪い取り、顔面に向けて一発、撃った。  

 一発で充分だった。

 身体の下でほんのわずかに跳ねた身体は、次の瞬間にはもう動かなくなっていた。

 自分でも驚くような冷静さで、鼻の無くなった死体から降り、一ノ森は身を翻した。

 それと同時に、若いほうの上にのしかかっていたΧが身を起こしてきた。

 Χの前肢の下で、男が既に絶命していることは一見して判った。

 取り返しのつかない量の血が、コンクリートの床に広がっている。

 血溜まりの中の死体の上で、ぐっと身をもたげたΧが振り向き、一ノ森を見た。

 一ノ森は、息を呑んだ。

 その表情も、その目も、まるで、知らない犬のもののように見えた。

 顔面の下半分が、動脈血の鮮やかな赤に染まっているからというだけではない。

 その視線は一ノ森を超えて、どこか遠くを見ているようだった。

 一種の恍惚状態に陥っているような――あるいは、冷酷な薄笑いにも似た、奇妙な表情。

 点々と返り血を浴びた厚い胸板が、弾むように上下している。

 それを見た時、一ノ森は悟った。

 こいつは、どこまでも、闘犬なのだ。

 先程の、あの動き。

 そして、この表情。

 血に塗れた勝利の階段の上に君臨する王者の顔つきだった。

「Χ……」  

 呼びかけたが、声は出ていなかったかもしれない。  

 ふと、Χの目に馴染みのある光が戻った。  

 Χは死体から飛び降り、一目散に一ノ森の側へ駆け寄ってきた。  

 一ノ森の足元に、背筋を伸ばして座り、じっと見上げる。

   

 ボス、俺は命令どおりに戦いました。敵を殺した。

 これでいいんでしょう――?

 

「……いい子だ、Χ」  

 一ノ森は右手を差し出し、人を殴りつけた拳の腱に鈍く引き攣れるような痛みを感じながら、Χを撫でてやった。

「よくやった……」  

 愛撫を受けたΧは、目を閉じて一ノ森の手に頬を寄せる。

 おそらくは無意識のうちにだろう、舌を伸ばして、口の周りに付いた血を舐め取ろうとした。

「止せ」  

 一ノ森は鋭く制止し、早く口を洗わせなければ、と思った。今更かもしれないが。Χの口には、死んだ男の血が溢れているのだ。  

 文字通りに血で血を洗うドッグファイトの世界では、トレーナーは血液感染する疾病を特に警戒する。  

 あの男がそういう疾病のキャリアーで無ければ良いのだが――  

 Χはヒュン、と鳴き、切なげに一ノ森の脚に身体を擦り付けた。  

 戦いで高揚した身体を鎮めてほしい、とでも言っているように。

   

 ボス、俺の戦いに満足してもらえなかったのですか?

 どうか、もっと誉めて、撫でて下さい――

 

「いい子だ、Χ、お前はよくやった……」  

 少し乱暴なほどに、指の腹で力強く撫でてやると、Χはうっとりと喘ぎ、口の端から赤く染まった涎を垂らした。

「ローズ」  

 言葉もなく、腰を抜かしている老婆に、一ノ森は言った。

「【Mr.S】の部下を殺した。このねぐらは、もうヤバい。俺たちは、ここを引き払うことにする――」

   ↓

「【Mr.S】の――」

 繰り返して、ローズは、死人のような顔になった。

「それじゃ、逃げられない……! すぐに見つかるわ!」

「見つかりやしないさ。あんたが喋らなきゃな」

 一ノ森の鋭い言葉に、ローズはぶるぶると頭を振る。

「絶対、喋らない」

「それでいい……」

 一ノ森は、まだ震えている老婆の肩を宥めるように抱いた。

「ローズ、今すぐに、ここを離れろ」

 黒服たちを撃ったとき、一ノ森がまず心配したのは、近くに居る敵は本当に2人だけなのだろうかということだった。

 もしも近くに仲間がいるなら――

 銃声を聞きつけてそいつらが突入してきたら、もう逃げられない。

 だが、幸いにして、そんな気配はなかった。

 こいつらは【Mr.S】の命令で【一ノ森】と【犬】を探しに来たが、こちらを素人と見くびって、2人だけで片を付けようとしたに違いない。

 おそらく、手柄を他の者と分け合いたくなかったからだ。

 となれば、一ノ森たちに残された時間は、こいつらが戻らないことにMr.Sが気付き、捜索が始まって、ここで死体が見つかるまで――

 いや、実際は捜索隊が繰り出されるまでだ、と、一ノ森は苦々しくひとりごちた。

 黒服どもがうろつく中を、Χを連れて移動することは、不可能に近い。

「【Mr.S】も、まだ、あんたのことまでは掴んでいないだろう。今なら、まだ間に合う。……それとも……」

 一ノ森は、ローズをじっと見つめた。

「俺たちと、一緒に来るか?」

 ローズは、一瞬ぽかんとし、それから、ぶるぶるとかぶりを振った。

 一ノ森は苦笑した。

 馬鹿馬鹿しいことを訊いたものだ。

 このアンダーグラウンドで【Mr.S】に目を付けられるということは、最も望ましくない形での死が確定したのと同義語だった。

 死神に手をかけられた男と犬。

 そんな者と、いつまでも関わり合いになりたい人間など、いるはずがない――

「あたしは……」

 ローズは、しわくちゃの目尻から涙を溢れさせた。

「すっごく、足が遅いから……Χちゃんや、あんたの邪魔になっちゃうもの……。
 あんたたちと離れたくないわ……。せっかく、お友達になれたのに……もう、お別れなのねえ……」

 薄汚れた薔薇のプリントのスカートを持ち上げて、洟をかんだ。

 それまでじっとしていたΧが、一ノ森の表情をうかがいながら、そっと老婆に近付いた。

 彼はローズの傍らに座ると、彼女の頬を濡らす涙を舐め、ヒュン、と鳴いて鼻先を押し付けた。

 ローズがΧを抱きしめて撫でているうちにも、一ノ森は、いつまでもぐずぐずしてはいなかった。

 自室に駆け込み、血のついたスーツを脱ぎ捨てる。

 ボディソープを出し、貯めてあった水をボウルにあけて、手や顔から血と硝煙を徹底的に洗い流し、拭き取った。

 腹の底から湧き上がってくる気分を押し殺すように、作業に没頭する。

 目立たないぼろに着替え、バックパックに手回り品を詰め込んだ。

 もともと、最小限の持ち物しか無いので、荷造りはすぐに終わった。

 ――ネオンとの思い出の品は、タオルに包み、荷物の奥に押し込んだ。

 ジャケットの内側にハンドガンを突っ込み、ポケットには弾薬を詰め込む。

 ここのところ補充していなかったので、ずいぶん目減りはしていたが、今はこれだけあれば充分だ。

 ……これ以上の弾数が必要になるような破目に陥ったら、自分たちが生き延びることができるとは到底思えなかった。

 全てを済ませ、あの部屋に戻ると、ローズは立ち上がっていた。

 一ノ森は有無を言わせず、ローズの顔や手を石鹸で洗わせ、

「これに着替えろ」

 と、古びてはいるが清潔な服を放った。

「でも、この薔薇の服、お気に入りなのよ……」

「血が付いたから、処分するしかない。留置場に入ったり、組織の連中の尋問を受けるのは嫌だろ? 頼む……」 

 ローズがもたもたと着替えをしているあいだに、一ノ森は、Χの顔や手足を手早く洗ってやった。

 渋るΧにスウェットを着せる頃には、ローズも着替え終え、側にやってきていた。

 何だか、今までよりも、小さく見えた。

「ローズ……」

 一ノ森は、ふとあることを思い出し、隅のテーブルに駆け寄ると、金のラインが入った美しい小箱を取り上げ、老婆の前に立った。

「今まで、本当に世話になった。ありがとう……。
 これは、俺たちからのほんの気持ちだ。受け取ってくれ」

 薔薇のハンドクリームを渡すと、老婆はそれをじっと見つめ、涙の溜まった目で一ノ森を見た。

「……また、逢える?」

「ああ……」

 言いながら、部屋を出る。階段を降りる。

 素早く路地の様子をうかがい、一ノ森は、ローズの目をじっと見つめた。

「あんたは、そっちへ。俺たちはこっちへ行く。ここでお別れだ。
 だが、事が落ち着いたら、必ず戻って来る……。本当だ。
 いつか、必ず、また逢おう」

 ローズは頷いた。

 軽く足を引き摺りながら、彼女は振り返り、振り返り、路地を遠ざかっていった。

「無事でな……」

 一ノ森は、そう呟かずにはいられなかった。

 ローズの姿が曲がり角の向こうに消えても、その場所を、ずっと見つめているΧ――

 その首筋を、軽く叩いて促す。

「行くぞ」

   ↓

 通りは無人だった。

 いつも水場へ移動する時のように、Χを車椅子に乗せ、一ノ森はゆっくりと進んだ。

 慌てて動けば、それだけ人目につく……

 前肢を隠すために肩から毛布をかけられ、耳を覆うために目深に帽子をかぶらされたΧは、たびたび身をよじり、どこか心細げに一ノ森の顔を見上げた。

 一ノ森が笑いかけてやると、安心したように前を向く。

 だが、そんな一ノ森自身は、いまや、周囲を取り巻く空気さえもが、無言の敵意を孕んでいるように感じていた。

(どこへ行けばいい……?)

 周囲の気配に対して神経を研ぎ澄ましながら、胸中でひとりごちる。

 ――適当な空き家を見つけておさまるか。  

 だが、適当な建物に目星をつけて踏み込んでも、そこが本当で空き家であるという保証はない。  

 一ノ森たちのような不法占拠者が住み着いている可能性があった。  

 そういう連中と鉢合わせして、争いになったら面倒だ。

 騒ぎになれば、黒服たちに聞きつけられるかもしれない。

 それに、Χの正体に気付かれたら、間違いなく、あっという間に噂が広まってしまう――

 そのとき、ふと、名案が浮かんだ。

(そうだ……シンの家なら……)

 サッティヤジート・シン。

 Χを連れ出すときに世話になった、高級クラブの運転手の顔を思い浮かべ、一ノ森は少し気が楽になったような気がした。

(確か、あいつは独り者のはずだし……)

 彼とは、一ノ森が天才トレーナーとして表舞台での華やかな生活を満喫していた頃からの付き合いだった。

 付き合いで行ったクラブからの帰り、たまたまシンのリムジンに乗り込むことになったのが縁だ。

(入学金、払ってやるなんて大言壮語しておいて……このザマじゃ、あいつに呆れられちまうな……)

 隠遁生活を送るようになってからも、この前のときのように、何度か世話になっている。

 シンという人間の凄いところは、一ノ森が落ちぶれてからも、最初に会ったときとまったく変わらない態度で接してくることだった。

「ワタシ、何故だか知らないけど、ケンちゃんのこと気に入ってしまってるのよねえ。
『たでくう むしも すきずき』よ!」

 と、笑顔で言ってくる男だ。

 おそらく、一ノ森がΧを連れて転がり込んでも、例の困ったような顔で、笑って許してくれるに違いない。

 ――だが、そうすると、今度はシンをこの事態に巻き込むことになる……。

(……それでも、今は、他に行くところがない……)

 長々と居座るつもりはなかった。

 どこか遠くへ――どこ、という当ては、まだ無かった――高飛びするまでの数日、仮の寝床を貸してもらえれば充分だ。

 だが、問題は、シンの家までは、ここからかなり遠いということだった。

 公共の交通機関を利用するのは、危険が大きすぎる。

 サブウェイは強盗のたまり場のようなものだし、Χの正体がばれた時に逃げ場がなくなるからだ。  

 一ノ森は物陰に車椅子を寄せると、

「今から、シンと話すからな。少し待っていろ」  

 ヒュン、と鳴くΧの頭を撫でてやってから、携帯を取り出し、シンの番号をプッシュした。

   ↓

 2コールもしないうちに、通話ボタンが押された気配があった。

「シンか? 俺だ――」

『――ああ、エガワ!』

 シンの陽気な大声に、一ノ森は面食らった。

 一ノ森が何かを言い返すよりも早く、シンは、機関銃のようにまくしたてる。

『あー、ダメダメ、ダメよ! 麻雀のお誘い、お断りね。

 この前、言ったでしょ。その日は、伯父さん一家が遊びに来るって。

 だから、ワタシ、都合が悪いのよ。――残念だけど、また今度ね!』

 それだけ言い残して、一方的にプツリと通話を切ってくる。

(……何だ……?)

 一ノ森は、しばらく呆然としていた。

 江川? ――俺の事を、誰かと間違えたのか?

 だが、着信画面には、相手の名前が表示されるはずだ。

(シンは、俺の名前を、エガワと登録している……?)

 そこまで考えを巡らせて、一ノ森は、ふと、以前にシンが言っていたことを思い出した。 

   顧客のプライバシーを守る、これ、いちばん大事なことね。
   だから携帯のナンバーリストなんかも、みんな偽名で登録してるのよ。万が一のときに備えて、ね。
  『そなえあれば、うれいなし』よ!

 ……だから、一ノ森のことも「エガワ」と登録していたということか。

 だが、それならば、掛けてきたのは一ノ森であると判るはずだ。

 現に、この前電話をかけたときには、普通に会話が成り立ったのに――

(伯父さん一家、だと……? あいつは……確か、天涯孤独の身だと言ってたんじゃ……)

 一家――

 ファミリー……?

(まさか)

 一ノ森は、表情を強張らせた。

 陽気ではあったが、どう考えても不自然な、シンの言葉。

 あれは――こちらに、何らかの危険を知らせようとする暗号ではないのか?

 ファミリー……組織。

 まさか【Mr.S】が、もうシンのところにまで手を回しているというのか?

 シンが一方的に喋りまくり、こちらに話させようとしなかったのは、通話が盗聴されていたか、あるいは【Mr.S】の部下がすぐ側にいたためではないのか。

(危なかった……)

 シンの身が案じられたが、もしも拷問や自白剤が使われていたとすれば、あんなふうに一ノ森をフォローしようとはせずに、逆にこちらを安心させておびき出そうとしたはずだ。

 そう考えて、一ノ森は、シンの身を案じて騒ぐ心を無理矢理に落ち着かせようとした。

 いまや【Mr.S】の長い手が自分たちの身辺に迫りつつあることを、一ノ森ははっきりと感じていた。

 シンがあそこまで機転の利く男でなかったら、今ごろは、まっしぐらに敵の手の中に落ち込んでいるところだった――

「……大丈夫だ、Χ」

 不安げに身を捩り、一ノ森の顔を確かめようとするΧに、一ノ森は笑顔を見せたが、その表情には今、少なからぬ翳りがあった。

「残念だが、シンのところには行けなくなった。
 ……仕方が無い。こうなったら、どこか安全な隠れ家を探して落ち着こう――」

   ↓

 危険を感じ、シンの家を訪れることを諦めた一ノ森だったが、日が暮れる頃には、それ以上の移動はほとんど不可能になりつつあった。

 アンダーグラウンドの辻々に、黒服たちの姿が目立ち始めたのだ。

 一ノ森は冷や汗を浮かべながらも、目立たないようサングラスを外し、フードを目深にかぶって歩いた。   

 ここ数年、この荒んだ街で生活し、その住人たちの様子をつぶさに観察してきた一ノ森の偽装は優秀だった。

 夜の『仕事』にふらふらと出てゆく、ぼろをまとった連中に紛れて、黒服たちからほんの10mほどしか離れていない場所をすり抜けても気付かれずに済んだ。

 だが、この幸運がいつまでも続くものでないことは、一ノ森自身、よく承知していた。

 汚れた帽子を被って獣の耳を隠したΧは、一ノ森の命令通り、従順に顔を伏せている。

 それでも『完全な』人間とは骨格の構造が異なるΧに、長時間、車椅子に座ったままの姿勢を強いるのは無理があった。

 時折、苦しげに身体を捻って楽な体勢になろうとしているのが、車椅子のハンドルを通じて感じられる。

 だから、一刻も早く、安全なねぐらを見つけなくてはならないのだが――

(くそ、思ったよりも、連中の動きが速い……!)  

 これほどまでに黒服たちの――【Mr.S】の行動が素早いなどとは、一ノ森は予想していなかった。  

 元のねぐらに置いてきた死体が、早くも見つかったのか?  

 だが、あそこを脱出してから、まだ1日も経っていないのだ。

 気候から考えて、この程度の時間で死体が腐敗するはずもない。

 臭気で感づかれたのでもなければ、建物の中の死体を発見することは、相当に困難なはずだが――

(……殺した連中が、GPSでも身に着けていたか……)  

 そうだとすれば、発信源が一箇所に留まることで、モニターしている側に異変が伝わる。  

 あるいは、定期的に幹部に連絡を入れる手筈になっており、それが途切れたことによって異変が察知されたのだろうか?

(だが今、そんなことはどうでもいい……  
 問題は……今からどうするか、だ……)  

 このまま、だらだらと移動を続けていれば、遅かれ早かれ、黒服たちの網に引っかかることになるだろう。  

 一刻も早く、安全な場所を見つけて潜り込まなくては――

 その時だ。  

 ヒュン、と、不意にΧが鳴いた。  

 一ノ森は一瞬、身を強張らせたが、その瞬間、周囲に黒服の姿はなかった。  

 Χは身を乗り出すようにして、近くの建物を見ていた。  

 ――その基礎部分近くに、横に細長い窓のようなものが開いている。

「……あそこに入りたいのか?」  

 一ノ森は目を凝らした。

 金属の網が嵌まっているように見えるが、街灯もないアンダーグラウンドの街路はほとんど闇に閉ざされていて、よく判別できなかった。

 だが、迷っている暇はなかった。

 いつ、角を曲がって黒服たちが姿を現すかも知れないのだ。  

 一ノ森は、そちらに車椅子を寄せた。

 側に立ってみると、窓の高さは、地面から、膝の半ばほどまでしかなかった。だが、暗い内部には、確かに何らかの空間があるようだ。そして、人の気配は感じられなかった。

 一ノ森は、古びた金網に思い切り蹴りを入れた。

 思ったよりも軽い音を立てて、金網は暗闇の内側へ落ち込んだ。

「行け!」  

 一ノ森が鋭く叫び、Χは車椅子から飛び降りて暗闇の中に躍り込んだ。  

 車椅子を素早く折り畳んで投げ入れてから、一ノ森自身も窓の内側に滑り込んだ。

 内部の空間は、どうやら半地下構造になっているらしい。

 そろそろと足を下ろしたが、爪先が床に触れないので、両手でぶら下がってみたが、それでも着かない。  

 ヒュン、とΧの声が聞こえて、それが思いの外近かったので、思い切って手を離した。  

 ほんの10cmほどの落下の後、一ノ森は、暗闇の中に立った。  

 温かい毛皮の感触が足に擦り寄り、鼻先が押し付けられる感触があった。

「……隠れ家を見つけたな」  

 手触りだけを頼りに撫でてやると、湿った温かい舌で舐められた。

「いい子だ、Χ」  

 言って、長く無理な体勢で座っていたために負担がかかっていたであろう腰の辺りをさすってやる。  

 照明ならあるが、一ノ森は敢えてそれを灯すことはしなかった。

 暗闇に光が漏れれば、それはネオンサインの看板同然にはっきりとこちらの居場所を指し示してしまう。  

 一ノ森とΧは、どんな場所とも判らない地下の空間で身を寄せ合い、疲労の中で、いつしか眠りに落ちていった。

   ↓   

 翌朝、目を覚ました一ノ森は、自分たちが小さな空っぽの地下室の片隅にいること、自分の傍らにΧが寄り添って眠っていることに気付いた。  

 かすかに、自分を責める気持ちが湧き上がる。

 闘犬とトレーナーは、決して同じ寝床では眠らない。

 そんなことをするのは愛玩犬だけだ。  

 だが、昨夜は周囲の状況も判らなかったし、そんなことにも構っていられないほど疲労困憊していた……  

 Χは一ノ森の腿の上に頭を休め、丸くなって眠っていた。  

 その身体には無数の傷痕があり、白っぽくなった古いものから赤みを帯びた真新しいものまで、ひとつひとつが、彼がくぐり抜けてきた過酷な戦いを物語っていた。  

 その身体は、まるで長年使い込まれた武器のようだった。  

 人間の思うままに動き、手入れされ、調整され、大切にされ、だが、使えなくなれば捨てられる道具――

 だが、Χは、まだ戦える。

 一ノ森は、その事を確信していた。

 黒服に飛び掛かり噛み殺したΧの動きには、一瞬の迷いも遅滞もなかった。

 その血に宿る本能が、肉体に刷り込まれた訓練が、彼を動かす。

(だが……こいつは、もう、他人の慰みのために戦うことはない……)

 肩の辺りの毛皮を撫でてやると、Χは小さく身動ぎをしたが、目を開けることはなかった。

 安心し切ったような表情で眠るΧの姿を見ていると、守ってやらなくてはならない、という義務感が湧き上がった。

 辺りを見渡すと、右の壁の片隅に小さな金属製の扉が見えた。

 一ノ森たちが入ってきたのは、今、彼らが背にしている壁の上部に横長に開いた窓で、外へと通じていそうな場所はその2ヶ所だけだった。

「Χ……」  

 そっと揺り起こすと、Χはすぐに目を開け、ぐんと伸びをして欠伸をした。  

 すぐに背筋を伸ばして座り、一ノ森を見上げる。  

 その素直な顔つきは、一瞬見せた、あの血塗れの表情とはまるで別の犬のもののようだった。

「起こしてすまなかったな。ちょっと、あの扉を開けてみようと思ってな……」  

 近付くと、扉の大きさは一ノ森の胸の辺りまでしかなく、把手は錆び付き、埃の粒子が積もっていた。  

 掴んで回してみようとしたが、満身の力を込めてもびくとも動かなかった。  

 数度、試した後、一ノ森は諦め、壁に寄り掛かって再び座り込んだ。  

 Χが近付いてきて、遠慮がちに側に座った。  

 彼が身体を寄せたがっているのが判った。  

 やはり共に眠ったからだろうか、Χは一ノ森に、以前よりも親しみを感じているようだ。  

 迷ったが、手を伸ばし、受け容れてやることにした。  

 Χはぴったりと一ノ森に寄り添い、身体をすり寄せると、安心したように深く息をついた。

 「しばらくは、ここに居るしかなさそうだ……
 連中が、俺たちがこの近くにはもう居ないだろうと判断するまでな」  

 再び眠気が襲ってきた。  

 どのみち、こんな場所では他に出切る事もない。  

 一ノ森とΧは、互いの体温を感じながら瞼を閉じた。

   ↓

 Χは、これまでにない安らぎにうっとりと浸っていた。

 兄弟や親の顔も知らず、闘犬として育成され、ずっと檻の中で過ごしてきたΧにとって、こんなふうに他者の温もりを感じながら眠るのは初めての経験だった。

 眠っているといつも悪夢がやって来るのに、昨日は、幸せだったような気がした。

 どこだか判らない場所の、不思議な夢を見た。

 青い空があって、その下に、あの、歳をとった雌の人間の服に描いてあったようなものがたくさんあった。

 いい匂いがした。

 ボスが身体を洗ってくれるときの匂いだ。

 鼻先に、肺に、大気に満ちる湿り気を感じて―― 

 ボスが目を覚ましたとき、本当は一緒に目覚めていた。

 だが、その幸せを壊したくなくて、眠っているふりをしたのだ。

 ボスが立ち上がってしまったときは哀しかった。

 でも、ボスはもう一度、こんな風に近寄らせてくれた――

 Χは胸の中で誓った。

 俺は、このボスに一生服従しよう。

 ボスのために戦う。

 そして、いつか……

 ……いつか……

   ↓  

 一ノ森は、48時間もすれば、この地区の特別警戒は解かれるだろうと考えていた。

【Mr.S】の部下を殺した者が、現場近くにいつまでもうかうかと居残っているはずがない。  

 相手が、そう読んで、捜索の目をより遠方に向けるだろうと予想したのだ。  

 ……だが、予想に反して、隠れ家の周辺をうろつく黒服たちの数は日増しに増えるばかりだった。  

 金属製の扉がどうやっても開かないので、横長の天窓の縁に飛びつき、懸垂の要領で身体を持ち上げ、通りの様子を確かめるしかなかった。  

 昼間は目立ち過ぎるため、主に夜、様子を窺うのだが、近くの辻を黒服たちがうろついていることが度々あった。  

 1度など、ちょうど目の前の通りを黒服たちが通り過ぎようとしているところで、慌てて床に飛び降り、気配を殺した事もあった。

 動きがとれないまま、地下室に入って2日目、30時間を超えた辺りからが急激に辛くなった。

 持ち込んだ僅かばかりの食物は既に底をつきかけていたが、それよりも深刻な事があった。

 飲料水が手に入らないのだ。  

 最初は、ナップザックに詰め込んだ水筒に入っていた水をΧと分け合っていたのだが、それも飲み尽くしてしまった。  

 水源のある場所を選べば良かった、と後悔が湧き上がったが、ここに飛び込んだ時の状況を思い返すと、そんな余裕はまるで無かった……  

 水が無くなって半日、Χは、ほとんどの時間をうとうとと眠って過ごすようになっていた。

 時折、目を開けては、一ノ森を見上げて、その手を弱々しく舐める。  

 Χの舌が燃えるように熱いことに、一ノ森は心を抉られるような気がした。

 残酷な渇きに、Χの強靭な体力も刻一刻と削り取られていっているのが手に取るように分かった。   

 そして、このまま水分を摂ることができなければ、自分の身体も長くは持たない。  

 一ノ森は、意を決すると、熱っぽくだるい身体を引きずるようにして立ち上がった。  

 Χも立ち上がろうとするので、手で制する。

「水を、汲みに行ってくる……」

 荷物から空の水筒を取り出し、掲げて見せる。

「ここで待て、Χ。お前は、目立ち過ぎる」

 Χは、不安そうな表情をしていた。

 その眼差しに、見捨てられるのではないかという恐怖を読み取った一ノ森は、Χの首筋を抱き、力強く撫でてやった。

「大丈夫だ……すぐに戻る……」  

 Χは笑顔のようなものを見せると、ヒュン、と擦れた声で鳴いて、一ノ森の頬を舐めた。

   ↓  

 通りには、夕闇の帳が降り始めていた。 

 一ノ森は、慎重に辺りを窺いながら、隠れ家の天窓から這い出した。  

 ……黒服たちの姿は無かった。

 (浮浪者の服装も、だいぶ、板についてきたな……)  

 一ノ森は胸中で自嘲気味に笑った。  

 着替えていない衣類は悪臭を放ち始めていたし、髪はべたつき、顎に触れると、剃っていない髭がざらついた。  

 汚いジャケットの内側に水筒をねじ込み、フードを被った顔を伏せて、よろよろと大儀そうに歩く。  

 半分は演技だが、半分は本当に身体を動かすのが億劫だからだ。

(水場はどこにある……?)  

 夜が訪れようとしているのに、街は、奇妙に静かだった。  

 おそらく、黒服たちがうろついているせいで、本来の住人たちはねぐらで息を潜めているのだろう。  

 路地に入り、剥き出しの水道管を探す。  

 長くこういった街で生活していると、水や食料を見つけ出すのに一種の勘が働くようになる。

 どういう場所に、どんなふうにライフラインのパイプが埋設されているかが判るのだ。  

 口の中に冷たい水が溢れる感覚を想像して、一ノ森はかさついた唇を唾を舐めた。

 濁った、錆の混じった水でも構わない。

 早く、Χにも飲ませてやりたい……

(あった)   

 剥き出しになった古いパイプが露出している部分を見つけた。  

 足早にそれを辿っていくと、やがて、まるで本流のパイプに突き立てられた剣のように、細いパイプが飛び出し、蛇口が取り付けられた場所があった。  

 アンダーグラウンドには、何ヶ所もこういう場所がある。

 周辺に住み着いてきた不法占拠の先人たちの仕事だ。

 他に人影がないことを確かめて、一ノ森は駆け寄り、震える手で蛇口を捻った。

 澄んだ水が噴出した。  

 まるで天国から降る豪雨のようだ。

 両手で受けて存分に喉を潤し、何度も顔を洗って冷たい感触を堪能した。

 それから、水筒を取り出し、流れ出る水を受ける。

(待っていろよ、Χ……今、美味い水を持って帰ってやる。  
 渇きがおさまったら、移動しよう。あいつらが気付かない間に、遠いところへ行くんだ――)  

 一ノ森は、気付かなかった。

 水を求めて屈み込んでいる彼の背後で、潜んでいた2人の男が姿を現し、そっと忍び寄って来ていることに。  

 出し抜けに、後頭部で手榴弾が爆発したような衝撃が炸裂し、一ノ森は水筒を落としてその場に崩れ落ちた。  

 水が血のように地面に広がり、それはあっという間に乾いた地面に吸い込まれていった。

 「……間違いない。この男だ」  

 気を失った一ノ森の髪を掴んで、携帯に登録された画像と顔を見比べ、黒服のひとりが頷く。

「『犬』も近くにいるぞ」  

 一ノ森を殴りつけたブラックジャックを懐に収めながら、もう1人が呟き、一ノ森のジャケットの肩から人間のものとは違う黒い毛をつまみ上げた。

「そいつを起こせ。『犬』の居所を聞き出す。――その前に、ボスに連絡しなきゃな」

 1人目の黒服が油断無く辺りを見回しながら、携帯を耳に押し当てる。  

 もう1人は銃を抜き、一ノ森を仰向けに転がすと、乱暴にその頬を張った。

   ↓  

 一ノ森が出て行ってからずっと、Χはまっすぐに座り、天窓を見上げていた。

『大丈夫だ……すぐに戻る……』  

 ボスは、そう言っていた。  

 水を汲んでくる、と、言っていた。  

 もうすぐ、あの容れ物に水を入れて、ボスが帰ってきてくれる……。  

 だが、どんなに神経を集中させて耳を澄ましても、ボスが戻ってくる足音はなかなか聞こえてこなかった。  

 やがてΧは座ったままの姿勢に疲れ、揃えた前肢の上に顎を載せて伏せたが、その目はじっと天窓を見上げたままだった。  

 ――こんなふうにトレーナーを待った経験は、今までに数え切れないほどあった。

 Χは孤独に慣れていた。

 ケージに入れられたまま、ただひたすらに戦いの時を待つ時間を、あの頃は、辛いとも思わなかった。

 だが、今は――

 Χは、しばらくすると立ち上がり、ボスが座っていた場所へ歩いて行き、その上に座った。

 ボスのにおいがする。

 それを感じた途端、Χは、不意に胸を絞り上げられるような苦しさを感じた。  

 ヒィン……  

 Χは、毛皮に覆われた鋭い爪を持つ前肢で、傷だらけの胸を押さえた。  

 不安に駆られて、身を捩る。

 俺は、病気、なのだろうか――?  

 その胸の痛みが、肉体の苦痛ではなく、深い淋しさによるものだと、Χには判らなかった。  

 ボスは、必ず戻ってきてくれる。  

 ……本当に?  

 自分は、捨てられてしまったのではないだろうか?  

 あの時、お前のような犬はもう要らないと、廃棄された時のように――  

 ヒッ……  

 一ノ森のにおいがするざらついた床に顔を擦り付けて、Χはぼろぼろと涙を零した。  

 嫌だ。ボス、早く、帰ってきて下さい――  

 その時だ。  

 Χは、不意に何かを感じ、ぴくりと耳をそばだてた。  

 頬はまだ涙に濡れていたが、ぐっと身を起こした顔つきは険しく引き締まり、その目は油断無く光っている。  

 それは五感と呼べるほどにはっきりとした感覚では無かったが、本能が何らかの異変を告げていた。  

 ……ボス……?  

 Χは、迷わなかった。  

 素早く立ち上がると、ただの一挙動で天窓に飛び付き、通りに這い出す。  

 鼻を路面すれすれに近付け、臭跡を嗅ぎ分けると、すぐに駆け出した。  

 Χの鋭い耳は、間近に迫るいくつもの足音を聴き分けていた。  

 十字路を曲がろうとして、飛び退るように角に身を隠す。  

 黒服たちがたくさんいた。  

 今までに無いくらい、たくさんいた。  

 彼らはΧの存在には気付かず、何か口々に喋りながら辻を曲がっていった。  

 ボスのにおいがする方へ。

 Χは足音を殺し、慎重に物陰を選びながら、ボスの姿を求めて、黒服たちの後をつけていった。

    ↓

 仰向けにされた顔面を叩き付ける大量の水が鼻孔を塞ぎ、呼吸を妨げた。  

 酸素を求めて喘いだ口に水が流れ込み、一ノ森は咳き込もうとしたが、肺の中には、もう吐き出すべき呼気など残っていなかった。

「しぶとい男だな。そろそろ死ぬぞ」  

 嘲るような男の声が聞こえると同時、髪を掴まれ、ぐいと引き起こされる。  

 サングラスは、何度目かに殴られた時に吹っ飛んでいた。  

 ちらちらする視界いっぱいに、自分の髪を掴んでいる男の顔が広がる。

 「『犬』はどこだ?」

「……知らん……俺は、何も知らん……」  

 呻いた途端に、再び蛇口の真下に顔を突っ込まれる。  

 後頭部を殴り付けられて失神し、目を覚ました時には、こいつらに捕らえられていた。  

 それからずっと、水道を使った水責めを受け続けている。  

 もう何時間も経ったような気がした。  

 一ノ森は必死にもがいたが、両手足を拘束する男たちの膂力は強く、振り払う事はできなかった。  

 その抵抗も、既にかなり弱々しいものになっていた。

 死への恐怖、苦痛への恐怖が、一ノ森の朦朧とした意識を揺さぶる。

(息が、吸いたい――)  

 この肺にもう一度新鮮な空気を満たす事が出来るなら、次の瞬間に頭を撃ち抜かれても構わないという気がした。  

 簡単な事だった。  

 Χの居所を喋ればいいのだ。  

 それだけで、この終わりのない苦しみから解放される――

「おい、『犬』はどこだ! 喋るか!?」

(……Χ……)  

 一ノ森の口が開いた。  

 その目に、青みがかった靄に包まれた薔薇の谷が映り、青い空が映り、それから、地下室で自分を見上げているΧの姿が映った。

「――おい、こいつ、何か喋ろうとしてる」  

 乱暴に引き起こされた一ノ森は、壊れた人形のように首をぐらつかせた。

「おい! 『犬』はどこだ! 吐け!」  

 そうだ、喋れば、楽になれる……  

 こんな苦しい思いは、もう、しなくても済む……

「さっさと言え!」  

 胸倉を掴まれ、一ノ森は、岸辺に打ち上げられた魚のように口を動かした。

 真っ直ぐに自分を見上げる、Χの眼差し。

 押し付けられた鼻面の温かさ、寄り添う毛皮の感触――

「…………知ら、ん……」  

 腹に重い蹴りが入り、一ノ森はぬかるんだ地面に転がって咳き込んだ。

「くそが! ……こいつ、喋らんぞ。どうする?」  

 黒服の片方が叫び、再び一ノ森に蹴りを入れた。  

 銃を抜き、スライドに手をかけて唸る。

「殺すか……?」

「まあ落ち着け」  

 もう1人が言った。

「できれば両方とも生かして連れて来いというのが【Mr.S】の御命令だ」

「――できれば、だろう?」  

 そう口を挟んだのは、また別の黒服だった。  

 いまや、この場所にいるのは一ノ森と2人の黒服だけではなかった。

『一ノ森を発見した』

 その連絡を受けて、大勢の黒服たちが集まって来つつあった。

 彼らが与えられた仕事は、一ノ森と『犬』を発見し、その身柄を確保する事だった。

 主人がいれば、『犬』はその近くにいるに違いないのだ。

「やっちまえよ。トレーナーなら幾らでも代わりが見つかる。この辺りを虱潰しに探せば『犬』だって見つかるぜ……」

「うるさい」  

 最初の黒服の1人は不機嫌げに唸った。

『できればどっちも生かしたまま連れて来て欲しいですね!』  

 ――それが【Mr.S】の言葉だった。  

 できれば。……【Mr.S】の言葉を字義通りに取ることは危険だ。

 彼らのボスの「できれば」は「必ず」と同義語であり、「〜して欲しい」というのは「できなかった時は覚悟しておけ」という意味だった。

「余計な口を出すな。この場を仕切るのは俺だ」  

 最初の黒服は、足を引っ張ろうとする仲間にそう言い捨てて、一ノ森の方に向き直った。  

 ポケットから取り出したスイッチナイフの刃を出し、一ノ森の手に押し当てる。

「おい! これ以上下らん嘘を吐くなら、指先から1インチごとに切り刻んでやる。まずは小指からだ。
 もう1度訊くぞ。『犬』はどこだ?」  

 一ノ森の顔が、まるで泣くように歪んだ。

「……何も……知らん……」

「そうか」  

 黒服の顔に鮫のような笑みが浮かんだのと、その声が響いたのは同時だった。

「――おい……!?」  

 その瞬間、遅れずに反応出来た者は、その場に集まっていた10人ほどのうち、半数にも満たなかった。  

 音もなく現れた一頭の『犬』が、一番端に立っていた黒服に疾風のように飛び掛かり、その喉笛を引き裂いた。  

 ぱっくりと開いた喉首から噴き上がる血飛沫に、一瞬、全員の注意が引き付けられる。

「くそっ!?」  

 慌てて銃を向けようとした別の黒服の腕に、鋭い牙が食い込んだ。

「ぐあっ!」  

 Χはその男の顔面に爪の一撃を叩き付けて頭蓋骨を砕き、大きく跳んで、倒れ掛かってくる身体を避けた。  

 その足元で銃弾が弾ける。  

 だがΧは怯まなかった。  

 彼には、命を懸けて助けるべき者がいるのだ。  

 稲妻のようなぎざぎざの軌跡を描いて銃弾を避けながら、Χは一ノ森の方に突進した。

「……ようこそ、ワンちゃん」  

 一ノ森の傍らで、黒服がスイッチナイフを放り出し、膝をついた姿勢のまま銃を構えた。  

 Χが、行く手を塞ぐ3人目の脚に喰らい付く。

 悲鳴が上がった。

 男の動きと――その瞬間、Χの動きも、止まる。

「いいぞ」  

 黒服は呟き、ぐっとトリガーを引き絞った。  

 ぱん、と軽い音が響き、Χの身体が空中でもんどりうって、地面に叩き付けられる。  

 ぐったりと倒れたまま、ほとんど状況が理解できていなかった一ノ森が、その光景を見て、目を見開いた。  

 ……グゥッ……  

 一度は倒れたΧが、喉の奥で唸り、地面を引っ掻いて立ち上がろうとする。  

 必死の眼差しが一ノ森を見つめた。  

 その口が、何かを訴えるように大きく開き――

 次の瞬間、Χの身体は急に力を失い、湿った地面にどさりと倒れた。

「――Χッ!!」  

 一ノ森は血を吐くように叫んだ。

 身を起こし、駆け寄ろうとしたが、男たちに押さえつけられ、Χの身体に近付く事が出来なかった。

「放せ、くそったれっ!」  

 一ノ森は叫び、暴れたが、その動きは弱々しいものでしかない。

 その耳の後ろに、今度は銃のグリップが叩き付けられ、一ノ森は再び意識を失った。

「……連れて行け」  

 動かなくなったΧと一ノ森を見下ろし、男は満足げに言った。

「ボスはお喜びになるだろう」

   ↓ 

 

   

 暗がりの中、ずっと先のほうを、一頭の『犬』が飛ぶように駆けて行く。

(ネオン……? いや……Χ……?)  

 一ノ森は、もつれる足取りで『犬』の後を追っていた。

(どこへ行くんだ――戻って来い――)  

 引き止めたいのに、まるで空気が水飴にでも変わってしまったかのように一歩一歩が重く、開いた口から声は出なかった。

(駄目だ、行くな……!)

 すると、心の叫びが通じたかのように、『犬』は立ち止まり、振り向いた。

 その顔と毛皮は、赤黒い血にべっとりと染まっていた。

『犬』の哀しげな目が一ノ森を見つめ、次の瞬間、その姿は音もなく地面に崩れ落ちて見えなくなった。

(……Χ……!)  

 一ノ森はがくりと膝をつき、暗い地面に拳を叩き付けて泣いた。  

 ――守って、やれなかった。  

 まただ。  

 また、守ってやれなかった……

 

 どれほど、そうしていただろうか。

 ふと、一ノ森の耳に、奇妙なノイズが聞こえてきた。

 それは最初、羽虫が飛ぶ音に聞こえ、それから点けっ放しのラジオの唸りのようになった。  

 ――近付いたり遠ざかったりする、それは、低い話し声だった。

(……誰、だ……)

   

 男の声。  

 聞いた事のない、男の声だ。

   

 水面に浮かび上がるように、一ノ森は意識を覚醒させていた。  

 目を開けて、最初に視界に飛び込んできたのは、自分自身の腹だった。  

 肩と、首の筋肉が猛烈に痛んだ。

 一ノ森は、深くうなだれた姿勢で椅子に座らされていた。  

 両手は光沢のある黒い布を何重にも巻き付けて肘掛に固定されており、足もぴくりとも動かせない事から判断して、同じように拘束されているらしい。  

 辺りは薄暗かった。  

 だが、そこは牢獄などではなかった。  

 廃ビルの一室でもなかった。  

 一ノ森は、鈍痛を訴える後頭部を庇いながら、のろのろと頭を動かして辺りの様子を確かめた。  

 ――飴のように艶々と光る木製の調度類が並んでいる。  

 橙がかった柔らかな光を放つランプが、芸術的なガラス細工の傘の下から部屋を照らしていた。  

 爪先に感じる絨毯の感触は、どこまでも沈み込んでいきそうだった。  

 部屋の設えは、一ノ森たちの民族のルーツである小さな島国の伝統的な手法を取り入れたものだったが、一ノ森には、その事は判らなかった。  

 ただ、美しい部屋だと感じた。  

 まるで小さな万華鏡のように、そこここに小さなオブジェや絵がちりばめられている。  

 だが、同時に、どこか不吉なものを感じさせる部屋だった。

 永遠に砕けては生まれ続ける万華鏡の模様のように、ぐるぐると果ての無い闇の中に飲み込まれていくような――

   

 一ノ森が拘束されている椅子からさほど遠くない位置に、黒光りする衝立が置かれていた。  

 ランプの光を受けて玄妙な色合いに輝く小鳥たちの図案が、艶やかな表面に凍り付いている。  

 その向こうから、低い声が聞こえ続けていた。  

 ――おそらくあの向こうにはデスクがあり、そこで、誰かが、電話をかけているのだ。

「…………、…………」  

 耳を澄ましても、内容までは聞き取れなかった。  

 強く殴られたせいだろう、一ノ森の耳の奥ではいまだにがんがんと鼓動のリズムで痛みが脈打っており、そのせいで、小さな音を聞き取ることが難しかった。

「…………それじゃ、失礼」  

 それだけ、聞こえた。  

 かたんと音がしたのは、携帯を置いたためだろう。  

 それから、衝立の向こうで、男が立ち上がった。  

 最初に目に入ったのは、半白の髪だ。  

 色男の部類に入るであろう、見覚えの無い顔。  

 壮年の容貌で、やや小柄だが、体型はすらりとして、銀鼠色のスーツが板についていた。  

 その肌の色から、一ノ森と同じ遺伝子上の特徴を持っていることが判った。  

 男は何事か考えているらしく、表情を窺わせない顔つきでしばらくその場に突っ立っていたが、不意に、ぱっと一ノ森のほうを向いた。  

 視線が合う。  

 一ノ森は、驚いた。  

 その瞬間、まるでスイッチが切り替わったように、男の顔に、ホロ映像に写ろうとする子どものような朗らかな笑みが広がったからだ。

「どうも、初めまして!」  

 早足で衝立の横を回って来ながら、男は言った。

「僕は、佐々木龍人(ササキ リュウジン)と申します。いやはや、こんなところまで御足労願ってしまいましてねえ、いやほんと!」  

 笑顔のまま、まくし立てるように喋る。  

 その口調と外見とのアンバランスさに、一ノ森は、違和感を感じずにはいられなかった。  

 容貌も、声も、言葉遣いも、確かに成熟した大人のものなのに、まるで子どもが喋っているようだ。

   

 佐々木 龍人――

   

 この男が名乗るのを直接聞く機会がある人間は、このアンダーグラウンドにも、そう多くはない。

「……【Mr.S】……」  

 そうしたくはなかったが、声に幾分かの畏怖が混じったかもしれない。  

 一ノ森の呟きに、男は、ますます人懐っこい笑みを見せた。

「ええ、そう呼んで下さる方も多いようですね!  
 そうだ、飲み物でもいかがです? あ、要らない? そうですか。そうですよね。私の部下が、随分と手荒い真似をしてしまったようでねえ、どうもどうも」  

 喋りながら、【Mr.S】は棚の上に置かれたグラスを取って、自分で琥珀色の液体を注いだ。  

 その右手指の、親指を除いた4本には残らず指輪が嵌まっており、どれも存在感のあるデザインで、服装のシンプルさとは幾分不釣合いな印象を与えた。  

 彼の動きを見ているうちに、最初の驚きは過ぎ去り、怒りと憎悪とが込み上げてくるのを感じた。  

 この男の命令のせいで、Χは――

「さて、早速本題に入らせていただきたいんですがね、一ノ森さん。貴方に関しては、少々残念な報告を受けておりましてねえ。  
 何の話かは、もうお判りでしょう? え、判らない? またまた。とぼけても無駄ですよ! 【ミザリー】のオーナーから連絡が入っているんです。
 一ノ森さん、既に御案内の事とは思いますが、僕たちのビジネスでは、ネームバリューが非常に大切なんですよ。
 この僕の名を勝手に使って頂いては、たいへん困りますね!」

「……だから、撃たせたのか!?」  

 一ノ森の怒声に、【Mr.S】は、少し驚いたように目を見開いた。

「おや……誤解して頂いては困りますね! 僕は、殺せと命令したわけじゃない。  
 できれば生かして連れて来て欲しいですね、って言いましたよ! いやほんと」  

 悪びれもしない口調に、ますます憎悪が募った。  

 今すぐに飛び掛かってその口を引き裂いてやりたかったが、拘束された身体ではそれも無理な事だ。

 「……何が、望みだ……」

「あはっ!」  

 睨み付ける一ノ森に、【Mr.S】は面白くて堪らないというように手を叩いた。

「随分、元気な方ですねえ。面白いな。  
 貴方はそもそも、今この場に座っているという事実が奇跡のようなものなんですよ?
 何しろ、これまで僕の名を騙った方は、その直後に、何故か軒並み不幸な運命に見舞われていましてねえ。
 建築現場で足を滑らせてビルの基礎に埋まってしまうとか、お家が火事になって家族もろとも焼け死んでしまうとか、強盗に襲われて生きたまま身体中の臓器を抜かれてしまうとか……」

 指を折りながら説明する表情が本当に楽しそうで、一ノ森は吐き気がしそうだった。

 この男はどこかがおかしい。

 物言いも、表情も、全てが不協和音のように神経に障る。

【Mr.S】は、そんな一ノ森ににっこりと微笑みかけた。

「でも、ね。貴方は、若くして不幸な死を遂げるには惜しい人材だと思いますよ。
 ですから――ちょっと、僕のビジネスに付き合ってもらいたいんです」

「ビジネス、だと……」

「なに、簡単な事ですよ!」  

 作品の構想を語る映画監督のように、指を立てて、早足に歩き回りながらまくし立てる。

「つまり……僕がオーナーになって、ドッグファイト・ショーに、闘犬を出してみたいなと!
 貴方には、そのトレーナーを務めていただきたいんです。
 不世出の天才と言われた貴方だ、きっと良い仕事をして下さるに違いありません!
 ああ、もちろん、お給料は支払いますよ? 僕って太っ腹なほうなんです。いかがですか?」

「……断る……!」  

 考えるまでも無かった。  

 一ノ森は、犬が牙を剥くように唸った。

「あんたらは、Χを殺した……!」

「えぇ?」

【Mr.S】は眉をぎゅっと寄せ、口を尖らせた。  

 次の瞬間の彼の動きは、一ノ森の目には捉え切れなかった。  

 指輪を嵌めた拳が顔面に叩きつけられ、一ノ森は仰け反った。  

 身体ごと椅子が浮き、もう少しで床に倒れそうになるほどの打撃だった。  

 ワインサーバーの蛇口を捻ったように鼻血が噴き出し、一ノ森は喘いだ。

 一ノ森を見下ろして、【Mr.S】は、何が起きたのか判らないというように、血飛沫のついた自分の拳をしげしげと見下ろした。

「おや? 失礼、ちょっとぶつかってしまいましたかね?  
 ――なんちゃって」  

 そう呟いた途端に、【Mr.S】の顔から笑みが掻き消えた。

 「……老婆心ながら忠告しておくと、僕の機嫌だけは損ねない方がいいですよ。僕は、部下たちほど優しくないんでね」  

 独り言のように呟くその表情を目にした時、一ノ森は、何故この男がアンダーグラウンド1の権力者にのし上がったのか理解したと思った。  

 ひとつひとつ指輪を外し、歪みを点検するように眺めてはあっさりと屑籠に放り込みながら、【Mr.S】は続けた。

「ああ……それとも、あれかな。僕が言い忘れたからかな。
 いい事を教えてあげましょうか?
 あの『犬』は、生きてますよ」  

 ……一瞬、何と言われたのか判らなかった。

 「何、だと……?」  

 あの犬。  

 銃で撃たれたΧが、生きている――?

「麻酔銃ですよ! だから、言ったでしょ? できれば生かして連れて来て欲しいですね、って言ったって。
 僕の部下は、僕の言う事をとてもよく聴いてくれるんです……。  
 そう、Χといえばなかなかの逸材だ。廃棄されたと聞いて、勿体無いと思っていたところだったんですよ。
 貴方があれを訓練すれば、きっと素晴らしいショーになる。
 地獄から甦った犬! 不死身の闘犬! なんちゃって」

「それは……駄目だ……」  

 自身の血に塗れながら、一ノ森はかぶりを振った。  

 ストロボの爆発。スポットライトの乱舞。その熱、熱狂、絶叫――  

 観客たちのスタンディングオベーション。

 耳を聾する地鳴りのような歓声とスタジアムの揺れ……  

 虐待ショーの出し物にされていた経験がΧの心に与えた影響を考えれば、彼がもう一度、あのリングの上に立つ事が出来るとはとても思えなかった。

「あいつは、もう、試合には出られない――」

「あはっ!」

【Mr.S】は可笑しくて堪らないというように笑った。

「何を仰いますやら! あの犬は、僕の部下を3人も殺してる。生粋の殺し屋だ。リングの上でも、きっと素晴らしい殺しを披露してくれますよ……」  

 一ノ森の肩に手を載せ、1人で納得したように頷く。

「まあ、そう、貴方が乗り気で無ければ、この話は御破算になってしまいますがね。
 そうだ、その場合は、あの犬は競売にかけましょう!  
 きっといい値が付くでしょうねえ。ああいう犬を、愛玩犬としてお望みのお客さまは多いんです。
 屈強で、強情であればあるほど、調教の面白さが増すというものだ。違いますか?」

「…………よせ……」

「鞭、電気ショック、薬剤――貴方たちトレーナーだって使うんでしょう?」

「やめろ……」

【Mr.S】は、一ノ森がΧに対して抱いている感情を正確に理解し、それを利用しようとしている。  

 一ノ森もまた【Mr.S】の意図を正確に理解していたが、このやりとりは最初から勝敗の決まったゲームに過ぎなかった。

 あの檻の中から救い出した時の、Χの姿が脳裏に甦った。

 Χがもう一度、人間たちの慰みのために弄ばれるのを想像すると、臓腑が焼けるような思いがした。

「ああ、そうだ! もう一度【ミザリー】に送り返してやってもいい。あの店のオーナーが喜ぶでしょう――」

「やめろっ!」  

 一ノ森は血を吐くように叫んだ。

「わかった……俺が、あいつのトレーナーになる……!」

「わあ、嬉しいなあ! では、あの犬をドッグファイト・ショーに出していただけるんですね?」

「ああ、出してやる……優勝させてやる!
 ……Χに……会わせろ……!」

「喜んで!」

【Mr.S】が満面の笑みを浮かべて、古めかしい呼び鈴を引く。  

 音もなく扉が開いて黒服たちが現れた。  

 拘束を解かれながら、一ノ森は、崩れ落ちそうになる膝を懸命に支えていた。

(Χ、すまない……俺は、お前を、守ってやれなかった……)

   ↓

 

 

 ぱん、という乾いた音と同時、胸に鋭い痛みが走った。

 意識を失う寸前、回転する視界に映ったのは、ぐったりとしたボスの姿だった。



 幾つもの奇妙な夢に苛まれながら、夢とも現ともつかない世界を彷徨い――

 そして、意識の回復は、唐突に訪れた。



 ガァッ……!

 どれくらいの時間が過ぎたのかは、全く判らなかった。

 だが、目を見開いた瞬間に、Χの鋭い視力は、即座に周囲の様子を見て取った。

 暗闇。

 檻。

 広大な倉庫のような場所の一角に置かれた檻の中に、自分は、閉じ込められている――

 息が、止まった。  

 ウァ……  

 叫ぼうとして、Χは自分の口にラバー製の強靭な轡が嵌められている事に気付いた。

 前肢を上げて、轡を取ろうともがいたが、両手には爪を封じるための拘束具が取り付けられており、自由に動かすことができなかった。

 ア・ァ……

 Χの目が見開かれた。

 その視界に、あの光景が甦る。

 真っ白にぎらつくスポットライトの光が広がり、人間たちの興奮した叫び声が聞こえた。

 突き出される、幾つもの銀色のきらめき。

 どれも赤い血にぬめっている。

 それが次々と肉体に突き刺さる。

 抉り、切り裂き、掻き回す――

 ヒイイィィイッ!

 Χは絶叫した。

 跳ね起き、逃れようと駆け出すが、檻の鉄格子に激突して崩れ落ちる。

 その痛みも感じないように、Χは何度も鉄格子に身体をぶつけた。

 その目からは焦点が失われ、口の端には白い泡が溜まっていた。

 やがて、痣だらけになった身体で、Χはずるずると床にへたり込んだ。

 悲痛な声をあげながら、四肢で床を掻き、そうすれば金属の隙間を抜けることが出来るとでもいうように、檻の壁に身体を押し付ける。

 ヒッ……  

 見開かれ、血走った目から、ぼろぼろと涙が零れた。

 嫌だ、怖い、嫌だ、怖い
 助けて、ボス、ボスは、どこに……?

 ボスの姿は、暗い部屋のどこにも無かった。

 においも、気配さえも感じなかった。

 Χは擦れた声で遠吠えをあげた。

 何度も、声が嗄れるまで吠え続けた。

 それでも、ボスは来なかった。

 心臓を締め付けられるような不安感は、やがて胸を掻き毟られるような痛みに変わり、それから、絶望になった。

 ――捨てられた……?
 俺は、ボスに捨てられたのか?
 それとも……
 ボスは、死んでしまった……?

 Χは、死という事を理解していた。

 それは彼にとって、最も馴染み深いものだったからだ。

 熱い身体が、血を流し、もがき、痙攣し、動かなくなって、冷たくなる。

 最後にボスを見たとき、ボスは黒服たちに囲まれて、ぐったりしていた。

 自分がこれまでに打ち倒してきた『犬』たちの、最期の様子に似ていた。  

 ボス……  

 巨大な哀しみの波がΧの心を攫い、彼は声をあげて泣いた。  

 助けようとしたのに。  
 守れなかった。
 嫌だ、嫌だ。
 ボス、俺を、置いていかないで下さい……

 檻の片隅に身体を丸めてうずくまり、がたがたと震える四肢を引き付けて小さくなる。

 その耳の奥で、興奮した人間たちの喚き声が爆発し、Χは弱々しく前肢を上げて幻影を振り払おうとした。

 不安定に揺らぎ、あちこちに飛んでいた瞳が、ふと、一点に止まった。

 鼻先を清浄な空気の流れがかすめ、甘く芳醇な香りがした。

 ああ、あの匂いだ。
 青い空の下にある、あの不思議な場所の――
 ボスは、あの場所に行ったのだろうか。
 俺も行きたい……ボスと一緒に、あの場所へ――  



 その時だ。

 近付いてくる足音を、感じた。



 それは音として聞こえたわけではなかった。

 Χの鋭い感覚は、わずかな床の震動を捉えたのだ。

  敵……
 敵が、来た。

 ――ウゥ……!

 殺戮の本能が沸き立つ。  

 Χの瞳に、焦点が戻った。  

 全身の毛が逆立ち、萎えた筋肉に力が戻る。  

 理性よりも、感情よりも深く、強く、その肉体を突き動かすのは戦闘衝動――  

 Χは、弾ける寸前のばねのように身をたわめ、足音が近付いてくるのを待った。  

 すぐ側の扉から、エアポンプの駆動音が響く。

 暗闇に、一条の光が射し込む――

 

 切り裂くような絶叫と共に、Χは飛び掛かった。

 恐怖、怒り、哀しみの叫び。

 人間の頭蓋を一撃で砕く爪が、風を巻いて振り下ろされ……


「Χ……!」


 飛び込んできた影の声が鼓膜を震わせ、意識に届いた瞬間、Χは、中空で目を見開いた。

 一瞬後、その身体が檻の鉄格子に激突し、激しい衝撃に意識が朦朧とする。

「……Χ! Χ! ……しっかりしろ……」

 ――ああ――
 俺も、あの場所に来たんだろうか。
 ボスが待っている、あの場所に――

「Χ!」

 轡を嵌められた顔に、温かいものが押し当てられる。

 その熱、そのにおいに、Χは、この上ない安らぎが全身を満たすのを感じた。 

 ああ、ボス、ずっと、そうしていて下さい。
 もう、二度と、俺を独りにしないで下さい――

「Χ! しっかりしろ……!」

 うっすらと目を開けると、鉄格子の向こうに膝をついたボスの姿があった。

 いつもの黒眼鏡で顔を隠してはいず、顔は血に塗れ、痣だらけだった。

 片方の瞼が腫れ上がったその目が、涙で濡れていることに、Χは心を痛めた。

 どうしたのですか、ボス……泣かないで……
 俺が、貴方を守る……

「――素晴らしい! まさしく、感動の再会という奴ですね!」

 不意に聞こえたその声に、Χは弾けるように身を起こし、飛び掛かろうとした。

「やめろ!」

 一ノ森が叫び、鉄格子の隙間から腕を差し入れ、Χの首輪を掴んで抑える。

「やめろ、Χ! ――座れ!」

 Χはびくりと身を竦ませ、一ノ森の命令に従った。

「あはっ! なんだ、とってもいい子じゃないですか!」

 半白の髪を撫で付けた、雄の人間が近付いてきて、檻の中のΧを値踏みするようにじろじろと眺めた。

 Χは、轡を嵌められた口で牙を剥き、唸った。

 その人間からは、香水のにおいと、葉巻のにおいと――何か、もっと別の、嫌なにおいがした。

 ウゥ……!

 全身を緊張させて威嚇の声を上げるΧの首筋を、一ノ森の手が繰り返し撫でる。

「Χ……いい子だ、落ち着け……この男には、手を出すんじゃない……」

「そうですよ。でないと、売り飛ばしてしまいますからね!」

 嬉しそうに両手を揉み合わせ、にこにこ笑いながら【Mr.S】は言った。

「ワンちゃん、初めまして。僕が、君の新しい飼い主ですよ!
 君がよく働いてくれたら、美味しい餌も、極上の寝床も与えてあげましょう。可愛い雌犬だって用意してもいい。
 でも、もしも、役に立たなかったら……その時は、たっぷり君の鳴き声を聞かせてもらうことになる。
 忘れないで下さいよ? 僕は、怖い飼い主ですからね!」

「Χ」

 一ノ森は、傷ついた闘犬の頬に手をかけ、視線を合わせた。

「お前は……お前は、また、ドックファイト・ショーに出るんだ……
 俺がお前を訓練してやる……
 お前は、優勝して、王者になるんだ……」

 囁くその目から、新たな涙が溢れて、顔の下半分を染めている血と混ざり合った。

「……すまない、Χ……本当は、お前に、こんな真似はさせたくなかったが……」

 Χは、じっと彼のボスの言葉に耳を傾けていた。

 ショーに出る。

 その言葉の響きが持つ意味は、彼にも理解できた。

 そして、ボスが深く哀しんでいることも――

 Χはヒュン、と鳴き、轡を嵌められた鼻面を寄せて、一ノ森の涙を拭った。

 驚いたように見返す一ノ森を、Χは、穏やかに見つめた。

 泣かないで下さい、ボス。
 また、戦えばいいんでしょう?
 大丈夫……
 俺は、ボスのために戦う。
 そして……

 ……そして……

「出してやれ」  

【Mr.S】の命令で檻の鍵が開かれ、Χは一ノ森の側に駆け寄り、千切れんばかりに尻尾を振った。

   ↓

 一ノ森とΧは、黒服たちに周囲を固められ、【Mr.S】自らの案内で「新居」に移動中だった。

 漆黒の大型車は、艶やかな外見ばかりでなく搭載している機能も完璧だと見え、震動も駆動音も全く感じられないために、まるで動かない小部屋に閉じ込められているような気がした。

「それはもう素晴らしい物件なんですよ! 130階なんです、ええ。
 あのビルの所有権を巡っては、少々ゴタゴタがあったんですがねえ、ラッキーな事に、競合相手が突然死してしまいまして、いやほんと! 年寄りがあんまりカッカしたもんだから、ちょっと、脳の血管がね!
 ええ、とにかく、世間ではそういう事になってますよ」

 鋼鉄のような沈黙の中、上機嫌に喋り続ける【Mr.S】の声だけが響き続けていた。

 車内の内装は、まるで応接室の縮小版のようで、小型のテーブルを挟み、ソファが向かい合う設えになっている。

 【Mr.S】は座席の傍らに据えつけられたキャビネットを開き、シャンパンのボトルを取り出した。

 繊細なレリーフの施されたグラスをふたつ取り出し、一方を一ノ森の方に軽く掲げて見せたが、一ノ森は首を横に振った。

 渇きは感じたが、この男が注いだ酒など口にしたくは無かった。

 一ノ森は手錠を嵌められ、黒服に左右を固められて座席に座っていた。

 Χは、轡を嵌められたままでその足元にうずくまり、首輪から伸びるリードは、一ノ森の手にあった。

 当初は、黒服の一人が牽こうとしたのだが、Χは拘束された口で猛然と牙を剥き、一ノ森以外の者を決してリードに触れさせようとはしなかった。

 今も、揃えた前肢に顎を乗せ、主に害を為すのならば許さないという顔つきで、黒服たちに鋭い視線を向けている。

「――ビル内部に、広い犬舎も用意させました! きっとΧくんも気に入ってくれると思いますねえ。
 一ノ森さんがいなくても退屈しないように、色々と玩具も用意させましたよ……」

【Mr.S】の言葉に、Χは急に頭をもたげ、一ノ森を見上げた。

『一ノ森さんがいなくても』

 彼が、その一言に反応したのだと、一ノ森には分かった。

「……今日は、Χを、犬舎には入れない。俺の側に居させる」

 一ノ森は【Mr.S】を見ずに、はっきりと言った。

「こいつは、俺と離れる事を嫌う。
 新しい環境に慣れるまでは、俺が絶えず付き添って、精神的に安定させてやる必要がある……」

「へえ、ベッドにも上げるんですか?」

【Mr.S】は、揶揄するように言った。

「愛玩犬のように?」

「……そんな事はしない!」

 一ノ森のきつい口調に、黒服たちが一斉に緊張した。

 だが、【Mr.S】は座席にふんぞり返ったまま、にやにやと笑うばかりで、特に腹を立てたような顔でもない。

 ――出し抜けに、その手がひるがえって、高価なシャンパンが一ノ森の顔面にぶちまけられた。

 怒りの叫びを上げ、テーブル越しに【Mr.S】に飛び掛かろうとしたΧのリードを素早く踏み付け、床に押し伏せたのは、一ノ森自身だった。

「あははっ!」

 明るく笑いながら、【Mr.S】はグラスに新たなシャンパンを注いだ。

「まあまあ、そうカッカせずに、頭を冷やしてくださいよ。ねえ?」

 Χが喉の奥で唸り、身を起こそうともがく。

 その限界まで撓められたバネのような力を感じながら、一ノ森は泡立つシャンパンを髪から滴らせ、じっとうつむき続けていた。

   ↓

 やがて、彼らが乗る車は、圧倒的な量感をもってそそり立つビルの地下駐車場に滑り込んだ。

 降車した一ノ森とΧは、黒服たちに囲まれて、ムービングウォークに乗った。

 上機嫌で先頭に立つ【Mr.S】の行く手で、巨大な漆黒の扉が、まるで鮫の顎のように上下に開く。

「骨格認証システムです。骨格をスキャンして、僕のものと確認されれば、自動的にロックが解除される……。それ以外の者にとっては閉ざされた扉です」 

 その扉の内部は、磁気高速エレベーターになっていた。

 壁の一面は強化ガラス張りになっており、音もなく上昇し始めた最初のうち、そこから見えるのはただ規則的に過ぎてゆく照明の輝きだけだった。

 だが、すぐにその光景は一変した。

 まるでモニターのスイッチを急に入れ替えたときのように、不意に、外の風景が現れたのだ。

 Χが目を見張り、一ノ森の傍らで小さく身を乗り出した。

 ――夜だった。

 アンダーグラウンドの灯りが、まるで漆黒の宇宙に散らばる恒星のように眼下にきらめいている。

 一ノ森にとっては、かつて何度と無く目にした事がある光景だった。

 だが、Χにとっては、これほどまでに壮大な光景を目にするのは初めての経験だった。

 廃棄される前は、檻の中とリングの上だけが彼の世界だったのだ。

 魂を奪われたように夜景に見入っているΧを【Mr.S】は満足げに見つめていた。

 一ノ森は、その視線が気に入らなかった。

「……さあ、どうぞ!」

 エレベーターの上昇が止まり、停止を知らせる音が響くと同時に【Mr.S】が言った。

「貴方たちのために改装させた部屋です! ――どうです、気に入っていただけましたか?」

 一ノ森たちは、エレベーターから踏み出し、その部屋の中に立った。

 そこは、素晴らしいフラットだった。

 最高級の絨毯は一歩踏み出すごとに足裏が沈み込む柔らかさで、薄暗い間接照明の中でも、その毛足が完璧に揃っていることが見て取れた。

 かつて不世出の天才トレーナーと持て囃され、贅沢な暮らしを経験していた一ノ森には、備え付けられた家具がいずれも最高ランクの工房で創られた一点ものだという事が判った。

「あちらがベッドルーム、こちらがシャワールーム……なんちゃって、まるで不動産業者みたいですね!
 ああ、トレーニング・ルームは、ここの一階下ですから。後でご自由に見て回ってくださいね。広いですよ?
 まあ、そこより外には出られませんが、構わないでしょう?
 要りようの品は何でも、内線電話で言いつけてください。すぐに用意させるようにしておきますからね!」

 一ノ森が睨みつけると、【Mr.S】は礼なら構わないとばかりに鷹揚に手を振った。

「いえ、良いんですよ、これも、良い仕事をしていただくための投資という奴です。
 ――さあ、Χくん、良い物を見せてあげましょうか」

【Mr.S】が、どっしりとしたテーブルの上に載っていた小さな端末を操作すると、ごく小さな駆動音が響き、何の変哲も無い奥の壁と思われた一面が、天井から下方にスライドし始めた。

 先ほどエレベーターの中で見たのと同じ、しかし遥かに大規模な夜景が、広大な壁一面に広がる。

「いかがです、まるで天上から世界を見下ろしているようでしょう?
 あんなゴミ溜めで這い回るより、この方がずっといい。違いますか?」

【Mr.S】はそう言ったが、Χはおそらく、その内容をほとんど理解できなかっただろう。

 ただ、敵意に満ちた目つきで、【Mr.S】を睨みつけた。

「ねえ?」

 戯れのように耳に触れられて、Χは身を硬くし、轡を噛まされたままの口で牙を剥いて唸った。

【Mr.S】は素早く手を引っ込めると、ペットに悪戯をして喜ぶ子どものようにくっくっと笑った。

「それじゃ、後はごゆっくり!」

 仮面のような表情で突っ立っている部下たちにぞんざいな合図を送り、踵を返して、元来たエレベーターの方に向かう【Mr.S】。

「――そうだ」

 エレベーターの扉が開き、乗り込もうとした時、ふと彼は足を止めた。

「貴方にお返ししなきゃならない物があるんでした」

 見分けのつかない黒服の1人が進み出て、手にしていた大きな鞄から中身を取り出した。

 ――それは、みすぼらしいナップザックだった。

 一ノ森は息を呑んだ。

 それは、Χと身を隠した、あの小さな半地下の部屋に置き去りにしてきた荷物だった。

「部下たちが見つけましたよ。多分、貴方には必要な物でしょう?」

「……返せ……」

「ええ、どうぞどうぞ! そのために持ってこさせたんです」

【Mr.S】は部下の手からナップザックを奪うと、無造作に絨毯の上に放り出した。

 黒服たちの目も気にせず、一ノ森はそのナップザックに駆け寄り、ひったくった。

 手を突っ込み、中身を確認する。

 詰め込まれている、わずかばかりの金や食料などどうでも良かった。

 そのナップザックの奥には、かけがえの無い思い出の品が詰め込んであった――

「……復活戦は、1ヶ月後に設定しておきましたよ。
 Χくんの仕上がりを、楽しみにしていますからね」

 そんな一言を残して、【Mr.S】は部下たちを引き連れてエレベーターに乗り込み、立ち去っていった。

   ↓

【Mr.S】と部下たちが姿を消してしばらくの間、一ノ森は、じっとその場を動かずにいた。

 手にしたナップザックの重みが、彼の心を、逆らい難い力で過去へと引き戻していた。

 ――そうだ、自分は、戻ってきたのだ。

 もう、2度と近付くことは無いと心に決めていた世界に……

 あの頃、自分はここと同じように豪奢な部屋で高級な酒に酔い痴れ、窓から外を眺めては、世界中を見下ろす気分に浸っていた。

 そんな時、隣にはいつも、その気分を分かち合う、一頭の闘犬がいた――



 ヒュ……

 控えめな鳴き声が、一ノ森の意識を現在に引き戻した。

「……ああ……」

 背筋を伸ばして座り、一ノ森を見上げるΧは、いまだ轡を嵌められたままだ。

「苦しかっただろう、Χ。今、外してやる……」

 一ノ森が膝をつき、後頭部に回された轡のベルトを外してやっている間、Χは、大人しく頭を垂れてじっと動かずにいた。

 だが、轡が外された瞬間、Χは不意に感情を露わにした。

 痣だらけの身体を一ノ森に擦り寄せて嬉しげに尾を振り、無精髭でざらつく頬に顔を寄せ、舌で舐める。

 ――だが、一ノ森の硬い顔つきは変わらなかった。

 その瞬間、彼の心には、目の前のΧの姿は映っていなかった。

 漆黒の毛並みに、幾筋もの流星のように走る金褐色の筋。

 食い入るように見つめてくる金色の眼差し。  

 そう、そうだ、俺は戻ってきた。  

 だが、もう、ネオンは居ない――



 一ノ森の反応に、Χの表情はたちまち曇った。

 人間が記された文字の意味を読み取るよりも明確に、「犬」は主の感情の機微を感じ取る。  

 Χは、一ノ森の心が自分に向けられていないことを感じた。

 それが哀しくて、でも、どうすれば良いのか分からないのだ。

 ……クゥン……

 ただ上目遣いに一ノ森を見つめ、小さな声で鳴く。



 ボス、どうしたのですか。
 どうして、俺の事を見てくれないのですか――?



「……ああ……」

 一ノ森は、我に返ったように笑顔を見せ、Χの縺れ汚れた毛並みを撫でてやった。

「そうだな。……俺たち2人とも、酷い顔だ。まずは、シャワーでも浴びるか……?」



 血と泥に汚れた服を脱ぎ捨て、黒い艶やかな石で敷き詰められたシャワールームで、一ノ森は熱い湯を頭から浴びた。

 こんな風に惜しみなく湯を使うのは、数百日ぶりのことだった。

 湯が傷に沁みる痛みを差し引いても、肌を叩く水滴の感触は本当に心地好く、骨の髄まで染み着いた疲労が溶け出していくようだった。

 ボディソープを手に取り、一ノ森は顔を顰めた。

 広がった香気は薔薇のエッセンシャルオイル特有のものだった。

【Mr.S】一流のもてなしだ。

 一ノ森たちについての情報をことごとく調べ上げ、それに合わせることで、彼らを満足させようとすると同時に圧力をかけている。

 お前たちの全ては、自分の手の中にあるのだと――

「来い、Χ」

 一ノ森に呼ばれ、入り口で待っていたΧは嬉しげに尾を振って駆け寄った。

 水を弾く毛並みに湯を揉み込むようにして馴染ませ、ボディソープをかけて洗ってやる。

「犬」の中には入浴を嫌う者も多いが、Χは、一ノ森の行為ならば何でも無条件に受け入れるつもりのようだった。

 そして、一ノ森の指の感触にくすぐったがって身を捩る様子は、今、自分たちが置かれている状況をまるで意に介していないかのように見えた。

 Χにとっては、今、一ノ森と触れ合える悦びが全てだった。

 自分たちを取り巻く周囲の品物全てが【Mr.S】によって用意された物である事、そして自分が今や彼の所有物になったという事実が、Χには、まだはっきりとは認識できていないのだ。

「いい子だ、Χ、目を閉じていろ……」

 瞼を軽く撫でて閉じさせ、耳に湯が入らないよう注意しながら、縺れた長い髪も洗ってやる。

 Χはじっと身体を動かさず、ただ一ノ森の指がもたらす感覚を味わう事に集中していた。

 泡と共に汚れをすっかり洗い流してしまうと、一ノ森は備え付けられていたタオルを取って、Χの濡れた毛を拭いてやった。

 クロゼットに歩み寄り、開くと、そこにはバスローブからスーツまで、ありとあらゆる服が揃えられていた。

 全て、誂えたかのように、一ノ森の体格にぴたりと合った。

 胸の奥に微かな苦味を感じながら、素晴らしい肌触りのバスローブに袖を通し、一ノ森は壁の一面を占める窓に歩み寄った。

「来い」

 Χはぴたりと一ノ森に寄り添い、一ノ森と共にアンダーグラウンドの灯を見下ろした。

 遥か眼下に点々と浮かび上がる輝きの周囲は、深い闇の底に沈んでいる。

 ――あの場所から見上げるこの部屋の明かりは、きっと天空の星のように映るのだろう。

 このビルは絶大な権力と富の象徴であり、この部屋はアンダーグラウンドの住人ならば誰しもが夢に見る光り輝く高みであり、夢であり――そして、牢獄だった。

「……Χ」

 一ノ森は呟いた。

「俺が、お前を王者にしてやる。
 俺とお前で、いつか、本当に、この街の全部を見下ろしてやろう――」  

 名を呼ばれた事に反応し、Χは一ノ森を見上げ、ヒュン、と鳴いた。

「ああ、そうだな。
 ――明日から、トレーニングを始める。きついぞ。今夜はよく眠っておけ……」

 シャワーを浴び、身体が温まったためか、急に睡魔が襲ってきた。

 ここ数日の過酷な逃避行の疲れが、どっと1度に押し寄せてきたかのようだった。

 一ノ森は大股に部屋を横切ると、ベッドルームを確認した。

 近付いただけでドアは音もなく横に滑り、キングサイズの寝台と、キャビネットやテーブルが見えた。

 一方、Χは窓際に座ったまま、どこか不安げに、一ノ森の姿を視線で追っていた。

 一ノ森と引き離されていた時間は、Χにとってこの上ない苦痛だった。

 

 ボスと一緒にいたい、一緒に……
 でも、ボスはいつも、俺とは別の部屋で眠る…… 



「来い、Χ」

 一ノ森はベッドルームに入り、キングサイズの寝台に腰を下ろすと、そう呼びかけた。

 予想した通り、Χは千切れんばかりに尾を振り、飛ぶように駆け寄ってきた。

 いきなりボスに飛びつくような無作法な真似はしない。

 だが、行儀良く座ったものの、口には出さない期待がΧの全身から気配のように溢れている。



 ああ、ボス、この部屋で眠ってもいいのですか?
 ……また、ボスの隣で、眠ってもいいのですか? 



 Χが心底からそれを望んでいる事が、一ノ森には手に取るように分かった。

 更なる「来い」という一言を待ち詫びる真っ直ぐな眼差しに、一ノ森は、静かに首を振った。

「……だめだ」

 その目に深い失望の色が浮かぶよりも早く、首筋を両手で包むようにして撫でてやる。

「いいか、Χ……。お前は、闘犬なんだ。
 愛玩犬とは違う。
 闘犬が、人間と同じベッドで眠ることはないんだ。
 だが、この部屋には居ていいぞ。ほら、これをやる……」

 一ノ森は、ベッドから毛布を剥いで、部屋の隅に敷いてやった。

「よく眠れよ、Χ」

 Χは聞き分け良くヒュンと鳴くと、一ノ森が敷いた毛布の上に丸くなり、揃えた前肢の上に顎を載せ、目を閉じた。

「ああ、いい子だな……」

 一ノ森は、倒れ込むようにして寝台に身を投げ出すと、シーツをかき寄せるのもそこそこに、夢も無い深い眠りへと落ちていった。

 ――Χは、しばらくそのままの姿勢でいたが、やがて、つと目を開くと、毛布から降り、その端を銜えて引き摺り始めた。

 部屋の片隅から、寝台のすぐ傍ら、一ノ森の足元まで毛布を引いてきたΧは、ようやく安心したように毛布に包まり、丸くなって、静かに寝息を立て始めた。

   ↓

 翌日、目を覚ました一ノ森は、部屋の隅にΧの姿が無い事に気付いて跳ね起きた。

 だが、すぐに、寝台の傍らに丸くなるΧの姿に気付く。

 Χは毛布に包まり、深い眠りの中にいるようだった。

 その姿は、ヒトのものと似てはいるが、一方で、完全な異形でもあった。

 たてがみのように背中まで覆う髪、その間から飛び出した尖った耳。

 腕の、肩から先を覆う毛皮は、人間のものよりも遥かに厚く強靭だ。

 手指の先には、硬く鋭い爪が突き出している。

 腕と同じように、腰から下もまた、艶やかな毛皮に覆われていた。

 ふさふさとした尾がぴくりと震え、小さく振れてから、毛布の上に静かに落ちる。

「闘犬」――  

 ヒトと犬との性質を、姿を併せ持つ、遺伝子改造の産物。  

 自然から逸脱した姿でありながら、堂々と、しなやかで、美しい――

 そう感じる自分は、おかしいのだろうか?  

 だが……遠い昔から、人間の魂は、そのような存在に奇妙に惹き付けられてきたのではないか。  

 神話に現れるパーンやサテュロス、ケンタウルス、スフィンクスのように、ヒトと獣の挟間にある者を、人間はその想像力の中で、神々の列に加えてきた――  

 一ノ森は足音を殺して寝台から降りようとしたが、Χの鋭い感覚は僅かな衣擦れの音、気配の動きも逃さなかった。  

 目を開き、一ノ森を見上げると、牙を覗かせて笑顔を見せる。  

 一ノ森は手を伸ばし、その首筋を撫でてやった。  

 Χは一ノ森の手に頬を擦り付け、舌で舐めると、甘えるように軽く噛んだ。

 皮膚が傷付くほどの強さではない、ほんの甘噛みだが、

「それは駄目だ」  

 一ノ森は厳しく言い、すかさず首輪を締め上げた。  

 ――闘犬は、その基本的な身体能力で、人間を遥かに上回っている。

 その気になれば人間ひとりを打ち倒し、喉首を噛み裂くことなどわけもない。

 だからこそ、トレーナーは「犬」の僅かな違反も許さず、常に厳格なボスとして「犬」の上位に立たなくてはならない。

 たとえそれが愛情からであっても、甘えを許し、気侭に振舞わせれば、闘犬はやがて命令に従わなくなり、自らボスの座に就こうとトレーナーに牙を剥く。

 彼らの本能がそうさせるのだ。

 そんな状態では、過酷なトレーニングを経て試合を勝ち上がる事など、とても出来はしない――



 それは、トレーナーとしての鉄則のはずだった。

 だが、Χの反応を目にして、一ノ森は驚いた。

 Χは雷に打たれたかのように顔色を変えて、すぐさま床に仰向けになり、一ノ森の前に脇腹を晒して恭順の意を表した。

 呼吸が急激に乱れ、喉がヒューヒューと鳴った。

 息が詰まったためではない。極度の動揺のためだ。

 身体ががたがたと震え、その目には涙が浮かんでいた。

「どうした、Χ……!?」  

 一ノ森はΧの傍らに膝をつき、両肩を掴んだ。  

 Χは、一ノ森の腕にしがみ付き、悲痛な声で鳴いた。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい、ボス、もうしません。  
 だから……どうか、俺を嫌わないで。  
 俺を捨てないで……
 一人は嫌だ……!



「Χ……」  

 廃棄され、虐待され――ようやく見出した、信頼するボス。

 その一ノ森と引き離されていた、僅かな時間の間に、Χの心にはこれほどまでに深い傷が残っていた。

 Χはもはや、一ノ森の存在に深く依存し、彼無しには自分を保つことが困難なまでになっていた。

 今のΧにとって、一ノ森の不興を買う事は、たとえそれが些細な事であったとしても、自分の全存在を否定されたも同然と感じられるのだ。

「……よし、判った……」  

 一ノ森はΧを強く抱き、何度も撫でてやった。

「いい子だ、Χ……いい子だ。俺は、もう、怒っていないからな……」  

 Χは涙を流しながら、食い入るように一ノ森を見つめた。

 そうする間に、身体の震えは徐々におさまり、呼吸も落ち着いてきた。

「Χ、お前はいい子だ。俺の、大事な、自慢の闘犬だ……」  

 囁きながら、一ノ森は感じていた。  

 ――こいつを、勝たせなくてはならない。

 負ければ、Χは、俺を失望させたと思うだろう。

 こいつは、きっとそれに耐えられない。

「Χ……俺が、お前を、王者にしてやる。
 俺に誉められたいだろう? なら、俺の言う通りにするんだ。そうすれば勝てる。
 勝ったら、たくさん誉めてやるからな……」  

 ヒュン……  

 Χは鳴いた。  

 王者になれば、ボスは喜んでくれる。  

 Χには、その事が理解できた。



 俺は、勝たなくては。
 そして、王者になる。
 そうすれば、ボスは喜んでくれる……



「いい子だ、Χ」

 ボスのにおいと体温が、不安の渦を消していく。

 Χは一ノ森の肩に顎を載せて目を閉じ、深く息をついた。

   ↓

 その日から、厳しいトレーニングが始まった。

 居住空間の一階下に用意された広大なトレーニングルームには、ありとあらゆる訓練のためのマシンが揃えられていた。

 Χは見慣れない空間に一瞬、怯んだ様子だったが、一ノ森が背中を押してやると、彼の脚に寄り添うようにしてトレーニングルームに入り、辺りを用心深く見回した。

「訓練は久しぶりだろう、Χ? 焦ることはないぞ。少しずつ、身体を慣らしていけばいい……」

 復活戦まで、あと1ヶ月。

 ――それまでに、仕上がるか。

 焦燥を押し隠し、一ノ森は穏やかに言った。

「試合の感覚を思い出すんだ。大丈夫、お前なら、必ず王者になれる……」

 入念なストレッチで筋肉を解させ、身体の柔軟性を確かめる。

 毛皮の上から何度も手のひらを滑らせ、筋肉の状態をはかる。

 それは手仕事の職人の技に似ていた。

 測定の数値だけでは現れない微妙な状態を見極める。

 一ノ森の手指の感触に、Χはうっとりと身を捩ったが、ボスの厳格な顔つきを見て取り、すぐに真剣な表情になった。

「さあ、訓練開始だ」



 訓練の内容は多岐に渡った。

 全方向にセットされたマシンから発射されるボールを躱すことで、動体視力と瞬発力を増すための回避訓練。

 心肺機能を向上させ、持久力を増すためのランニング。

 筋肉を増強し、膂力を増すためのウエイト・トレーニング。

 そして、訓練用のバトル・ドロイドを使った模擬試合――

 毎日10時間以上の厳しいトレーニングに、Χは不平の欠片も見せずに臨んだ。

 休憩時間になると、いつでも飛ぶように一ノ森の足元に駆け寄り、弾むような息を吐きながら見上げる。

 自信と期待に満ち――同時に、底知れぬ不安と渇望を湛えたような目で。



 ボス、これでいいのですか。
 俺は、ボスを満足させることができましたか?
 お願いです、どうか俺を誉めて、撫でてください……



「いい子だ、Χ」

 汗に濡れた熱い身体をタオルで拭いてやりながら、繰り返し、一ノ森はそう言った。

「いいぞ。その調子だ。お前は、必ず勝てる――」

 一ノ森の手の下で脇腹を震わせ、気持ち良さそうに伸びをするΧの姿は、とても、かつてドッグファイトで人気を博した希代の闘犬であったとは思えなかった。

 だが、いざとなれば皮膚の下で鋼のように固く引き締まる筋肉のこと、時に別の犬のように厳しく、遠くに向けられる眼差しのことが一ノ森にはよく分かっていた。

 緊張と弛緩の極端なまでのコントラストが今のΧの特徴であり、それはいくらか精神の不安定さを感じさせるものではあったが、一ノ森は、Χの全てを受け入れることを心に決めていた。

 1日、また1日と迫ってくる復活戦の日。

 その日までに、Χを最高の状態に仕上げてやらねばならない。

 どのように接すればΧの能力を最大限に引き出し、伸ばしてやれるのか……

 その見極めこそ、トレーナーの目と手腕が問われるところだった。

 突き放すように厳しく接するほどに実力を発揮する「犬」もいれば、逆に、そうすることで潰れてしまう「犬」もいる。

 今のΧは明らかに後者だった。

 一ノ森が少しでも責めるような態度を見せれば、その場でパニックに陥りかねない。

 そのさじ加減は、一ノ森にとっても本当に難しかった。

 闘犬を、より積極的に、より強靭に育て上げるためには、ただ誉めるだけでは駄目なのだ。

 決して殴ったり罵ったりはせず、微妙な表情、言葉の間で、Χに要求を伝える。



 ……Χ、俺は、まだ満足していない。
 お前なら、まだやれるはずだろう?



 そういう時、Χの表情はたちまち泣き出しそうに曇り、一ノ森に近付こうとしてはためらいながら、必死の眼差しで彼を見上げる。



 ああ、ああ、ボス、何がいけなかったのですか。
 どうすればボスを満足させることができるのですか?
 ボスに満足して貰えなければ、俺は……



 Χは、最終的には必ず一ノ森の要求に応えた。

 それがどれほど厳しく高度な要求であってもだ。

 訓練の苦しさ、困難さなど、Χにとっては問題ではなかった。

 ただ、一ノ森が示す反応こそが全てだった。

(ネオンとは……まるで違うな……)

 時に、ふと、そう感じることがあった。

 ネオン・ザ・ライトニング――

 大胆不敵で、好戦的で、精神的にも肉体的にもタフなネオンは、時に一ノ森にさえも牙を向き、隙あらばボスの座を狙ってきたものだった。

 相手をするときには、スタンガンを手放すことができなかったほどだ。

 本気の激しい格闘の末に、最後にはいつも一ノ森に首輪を締め上げられ、床に仰向けに押し付けられることになるネオンだったが、そんな時でさえも悪びれずににやにや笑っているのが彼だった。



 ああ、残念だ。
 分かった、大人しくあんたに従うよ……今はまだ。



 いつ逆転するとも知れない上下関係の緊張感はあったが、ネオンと過ごした日々は一ノ森にとって忘れられないものだった。

 ネオンは勝利に拘る性格で、ファイトに勝った瞬間の歓喜の雄叫びは、感情の爆発そのものだった。



 見てくれたかい、ボス、俺の戦いを!
 喜んでくれよ、俺は、あんたのために勝ってやったんだぜ……



 ――それは、主従関係というよりも、戦友同士の関係に似ていたかもしれない。

 共に同じ高みを目指す同志だ。

 遂にネオンがドッグファイト王者の座に上りつめた夜、2人で巨大な窓の側に立ち、アンダーグラウンドの灯を見下ろした。

 王者は珍しく真剣な面持ちで壮大な夜景に見入っていたが、やがて、ふと顔を上げ、一ノ森に笑いかけた。

 その瞬間の表情が、忘れられなかった――

ヒュン……!

 悲痛な声が、一ノ森の意識を回想から引き戻す。

 手に触れる濡れた感触に、はっとして見下ろすと、動きの止まった一ノ森の手を、Χが哀しげに舐めていた。



 どうしたのですか、ボス……
 ボスは時々、そうやって俺を見てくれない。
 俺はボスだけ見ているのに……
 お願いです、俺のことだけを見てください……
 そうじゃないと、俺は……とても、哀しい……



「――すまない……」

 一ノ森は安心させるようにΧを抱き、逞しい闘犬の身体を、赤ん坊をあやすようにそっと揺すった。

「大丈夫だ。俺は、ここにいる。
 お前の事を見ている……」



 まだ、Χには知らせていなかったが、明日からは、Χにとってさらに辛い訓練が始まるのだ。

 一ノ森はΧが喘ぎ、満ち足りて大きく口を開けるまで熱心に愛撫してやった。

   ↓ 

 翌日、2人はいつものように、巨大な窓から矢のように突き刺さってくる朝日を浴びながら朝食を摂った。

 食事は小さな専用のエレベーターに載せられて、この場所に届けられる。

 Χは、ここに来た当初は警戒して食事に手をつけようとしなかったが、一ノ森に促され、今ではすっかり旺盛な食欲を見せていた。

 だが、対照的に、一ノ森の食はあまり進まなかった。

 食事の度に、自分たちが今や、豪奢な籠の中で飼われるペットの立場にあることを思い知らされるような気がするからだった。

 必要な物をインターコムで注文すれば、食事と同じ方法で、大抵は数分も経たないうちに届けられた。

 食べ終えた後の皿など必要のない物は、同じエレベーターに載せて下に送ればよかった。

 ……そして、一ノ森とΧは、この部屋と、1階下のトレーニング・ルームより外には一歩も出ていなかった。  

 一応、脱出を試みたこともあったが、ここへ来るときに使った高速エレベーターの扉は、閉まればほとんど壁と同化する精密なつくりで、この階にはコントロールパネルもなく、また、指をかけられそうな隙間ひとつなかった。

 トレーニング・ルームとの行き来に使うのは、奥にもう一つある別のエレベーターで、こちらは本当にただ2階分を昇降するだけのものだった。

 食事を運ぶためのエレベーターも、無論詳しく確認したが、内部は1辺が25cm程度しかない立方体で、とても潜り込んで脱出を図れるような代物ではなかった――



「よし、今朝もよく食べたな、Χ」

 塞ぎがちになる気分を振り払うように、一ノ森は笑顔を見せてΧに声をかけた。

 Χのコンディションを高めるための特別なメニューは、一ノ森自身が考案し、注文して調理させた物だ。

 Χは満足げに口のまわりを舐め、一ノ森の膝に頬を押し付けた。

 頭を撫でてやると、くすぐったがってぱたぱたと耳を動かし、甘えるようにクゥンと鳴く。

 自分の手に無防備に身を任せるΧの姿を見下ろし、一ノ森の表情に微かな痛みが過ぎった。

 今日のトレーニングは、Χにとって地獄のような辛さになるはずだった。

 自分を信頼し切っている闘犬にそのような苦痛を与えると思うと、心が痛んだ。

 だが、それも勝利のため――Χの身を守るためだ。

【Mr.S】が役立たずの闘犬に情けをかけるとは思えなかった。

 だから、勝たせてやらなくてはならない……

 どんな事をしてでも。

「――来い」

 食後の休憩を終えると、一ノ森は短く命令して先に立った。

 Χは尾を振り、何も知らずに一ノ森の後に従い、トレーニング・ルームに降りた。



 訓練はいつも通りに進んだ。

 回避訓練で、次々と撃ち出される球をかわすΧの動作には、訓練を始めた頃とは比較にならないほどの切れがあった。

 元来優れた能力を秘めた肉体が、訓練によってさらに鍛え上げられ、磨き抜かれて一つの完成された凶器となる――

 やがて、絶え間ない激しい運動に、Χの額や胸板には汗が光り、息が荒く乱れてきた。

 当初は完璧にかわしていた球が、時折、鋭い音を立ててΧの身体をかすめる。

(スピードは……やはり、ネオンよりは、少し劣るか……)

 ネオンは、ライトニングという二つ名が示す通り、まるで閃光のように動き、その速度が鈍ることはなかった。

 最速モードで撃ち出された球すら、彼の艶やかな毛皮にはかすりもしなかったのだ。

(……いかんな)  

 一ノ森は、内心でかぶりを振った。

 苦々しい思いは、Χの動きに対してではなく、訓練が始まってからというもの、どうしてもネオンとΧを比較してしまう自分自身に向けられたものだった。

 ΧにはΧの優れた資質があり、そこをさらに伸ばしてやらなくてはならない。

 苦痛に対する耐性、形勢が悪くなった時の驚くほどの冷静さ、粘り強さが、これまでの訓練から見えてきたΧの持ち味だった。

 今もまた、何度か命中弾を受けながらも声さえ上げず、さらに、致命打となるような球は受けていない。

「――よし、そこまでだ!」

 Χは激しく身体を震わせて汗を振り払うと、一目散に駆け寄ってきた。

 きちんと前肢を揃えて座り、はっはっと息を弾ませて一ノ森を見上げる。

「よし、いい子だ……」

 今から自分の身に起こる事を何一つ知らぬげなΧの視線に、一ノ森は良心の呵責を覚えた。

 だが、これは必要な事なのだ。

 Χが再びドッグファイト・ショーの舞台に立つために、避けては通れない試練――

 一ノ森はΧの前に膝をつき、視線を合わせた。

 Χは驚いたように目を見開いた。

 普段、一ノ森は厳格なボスとしての態度を崩さず、Χと同じ高さに視線を下げる事は決してなかったからだ。

「……耐えろよ、Χ」

 一ノ森は右手でΧの首輪をしっかりと掴むと、左手をポケットに滑り込ませ、リモコンのスイッチを押し込んだ。

   ↓

 耳を聾する轟音がトレーニング・ルームに響き渡った。

 地鳴りのように圧倒的で、暴力的な音響。

 それは何千もの人間の喉から発される、絶叫のような歓声だった。

 規則的に踏み鳴らされる靴音、出鱈目に吹き鳴らされる鋭い口笛。

 内臓を揺さぶるかのような音楽の律動。

 そして繰り返される言葉はひとつだった――

『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』

 Χの目が限界まで見開かれ、焦点が飛んだ。



『さあ、ご覧! クラブ【ミザリー】の残虐ショーだよ! 今日の犬は何Vまで耐えられるかな?』

 スイッチが押されると同時に、右手首と左足首に取り付けられた電極に電流が流される。

 筋肉が激しく引き攣り、剥き出しの心臓を有刺鉄線で擦られるような苦痛が貫いた。

 ウウッ! ウウウゥッ……!

 電流が意思に反して顎の筋肉を収縮させ、鋭い牙が折れ砕けそうな強さでラバー製のギャグに食い込む。

 がくがくと身体を痙攣させながら、その場から逃れようともがいても、チェーン入りの拘束具で腰を固定されているために身動きできなかった。

『いいぞ、もっと鳴け!』

『電圧を上げろ!』

 何もかもが狂ったような色彩の渦になり、振り上げられる拳はメスと鋏に変わり、渇望にぎらつく目は殺人的なビームライトに変わり、笑う口は血の塊を喰らったような真っ赤な三日月になった。

 ウ・ウ・ゥ……!

 この苦しみが永遠に続くのだろうか。

 こんな風にいたぶられて、最後には、俺の前に連れて行かれた奴らのようにずたずたにされて死んでいくのだろうか。

 嫌だ、嫌だ、俺は――

 身体を貫く人口の雷が爆発し、心臓が止まったかと思った。

『なんだ、動かなくなったよ』

『このままじゃあ面白くないぞ、止めをさせ!』

『そうだ! 殺せ!』

『殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!』

 鼓膜から脳髄を侵食する恐怖。脊髄を貫く恐怖。

 人間どもに対する恐怖。



 ウァ……ウアァァアァアッ!!  



 全方位スピーカーから放出される音響が、Χの肉体に刻み付けられた恐怖をよみがえらせる。

 Χは激しく頭を振り立て、正気を失ったかのように暴れ始めた。

「Χ……! 耐えろ! 耐えるんだ! 俺の目を見ろ!」

 一ノ森はパニックに陥ったΧを必死に宥めた。

 こうなることは分かっていた。

 Χの、苦痛に満ちた記憶を呼び起こすことは、一ノ森にとっても耐え難い苦しみだった。

 だが、たとえ厳しいトレーニングで敵を上回る実力を身につけたとしても、ドッグファイト・ショーの会場でこの大音響に耐えることができなくては、勝利は得られないのだ。  

 ウオオァァァ!!

 Χは仰け反り、咆哮した。

 首輪を掴み、必死に叫ぶ一ノ森の声が遠ざかる。  

 幾つもの手が伸ばされる。

 押さえつけ、殴りつけ、撫でさすり、つねり上げて引き裂く――  

 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 恐怖は怒りに変わり、怒りは憎しみに、憎しみはまた恐怖に戻って電子加速装置のように速度を増す。

 嫌だ、嫌だ、復讐してやる、反撃してやる、この、人間ども――!

「Χ、俺の目を見ろ!」  

 一ノ森に怒鳴られて、Χは絶叫とともに鉤爪を振るった。  

 その一撃は一ノ森の腕を跳ね除け、左目を瞼ごと抉って、肉片を飛ばした。  

 一ノ森の身体が硬直する。  

 膝をつき、前にのめった男の首筋に、Χは喰らいついた――

「……Χ……」  

 その、微かな囁きが。  

 Χの牙を、頚動脈を噛み裂く直前で、止めた。  

 Χはゆっくりと口を閉じ、何が起きたのか分からないという表情で、目の前の光景を見つめた。

 片手を床に着き、俯いて左目を押さえた一ノ森の指の間から、ぼたぼたと真っ赤な血が垂れ落ちている。

 

 何故……?  

 誰がやった?  

 ……俺、が……?  

 俺が、ボスを、傷つけた……?

 

 一ノ森の喉の奥から搾り出される、苦痛の唸り。

 かつての自分と同じように。

 

 俺が……ボスを……?  
 

 ゆっくりと視線を落とし、右手を見下ろす。  

 その爪は血に染まっていた。  

 Χの口が悲鳴を上げるように開いたが、叫びは迸らなかった。  

 喉が詰まる。息が止まる。身体が震える。

   

 ボスを傷つけてしまった。  

 もう、取り返しがつかない――

 

「Χ……」  

 強い腕が冷や汗に濡れた首に巻き付き、引き寄せる。  

 Χの尖った耳に口をつけ、一ノ森は囁いた。

「聞け! 怖がらなくていい……あれは……王者を讃える声だ。お前を呼んでる……
 Χ、お前は勝つんだ。大丈夫だ、俺がついてる……」

 呟くように続ける一ノ森の顎を伝って、Χの肩にぼたぼたと血が滴り落ちる。

 その声音が不安定に揺らぎ始め、荒い息遣いに変わった。

 腕と血の熱さを感じて、Χは涙を流した。

 この熱を失ったら、生きていけない。

 ああ、ボス、嫌だ――誰か――  

 Χは一ノ森の腕を振りほどき、後ずさった。  

 縋るように部屋の隅を見上げて、激しく吠え立てる。  

 そこに監視カメラが埋め込まれているのだ。

(Χ……)  

 半分になった、霞みがちな視界の中で、一ノ森はそれを見ていた。  

 一ノ森は最初にこの部屋に足を踏み入れたときから、カメラの存在には気付いていた。

 トレーニング・ルームだけではない、彼らが行動するほとんど全ての範囲にカメラが設置されている。

 おそらく【Mr.S】かその部下が、常にこちらの様子を監視しているはずだ。

 集中が殺がれることを懸念して、Χには教えていなかった。

 だが、Χもまた、とっくに気付いていたのだ。

 何もかも分かっていながら、一ノ森を信頼し、黙って従っていた。

「Χ……こっちへ来い……」  

 血に濡れた手を伸ばし、呼びかける。

 振り向いたΧの表情は、恐れに歪んでいた。  

 一ノ森に対してではなく、彼を失うことへの恐れ――  

 もはや轟く歓声も音響も、Χの耳には入っていないようだった。  

 トレーニング・ルームの扉が音もなくスライドして開き、銃を構えた黒服たちが入ってきた。

「撃つな……!」  

 一ノ森は叫んだが、その声は弱々しいものでしかなかった。  

 黒服たちは一ノ森の腕を掴み、立たせて連れ出そうとした。  

 首を捻ってΧを見やると、彼は一ノ森を追おうとはせず、涙を流しながらじっと見つめていた。

「待っていろ、Χ……大丈夫だ、俺が、お前を――」

「ボスに連絡しろ。医者を手配だ!」  

 扉が閉まる。  

 その途端に、もう一方の目も闇に閉ざされて、一ノ森は意識を手放した。



    【続きます】








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