
101分署に、ヒゲ現る。
――これは、ひとつの事件の記録である。
*** 第1章 型破りな監査 ***
1 ロドリーゴ・ゴメス
2 謎の男
3 ヒゲ
4 オリエンタルビューティ
5 真面目一徹
6 わたしの天使
*** 第2章 彼はいつでも被害者 ***
1 勝負
2 失敗
3 北風と太陽
4 鬼斬一徹
5 我慢大会
6 本物
7 決着の刻
*** 第3章 愛のかたちは人それぞれ ***
1 外野にて
2 紳士の条件
3 合わせ鏡
4 君がいなきゃダメだ
*** 第1章 型破りな監査 ***
1 ロドリーゴ・ゴメス
「……ほーう……」
颯爽とした身ごなしで車から降り、男は、感心するような微笑を浮かべた。
立派な口髭の下で、白い歯がキラリと光る。
年齢を感じさせない、引き締まった長身。色の濃い肌に、彫り深い顔立ち。
思わず『セニョール……』と呼びかけたくなるような紳士だった。
ロドリーゴ・ゴメス捜査官。
本署、即ち00分署から、この101分署の担当として派遣されてきた、監査である。
――監査なのだ。
しかし。
(……普通だな)
目の前にそびえたつ101分署の玄関からは、誰一人として、迎えに出てくる様子がなかった。
監査の入る日取りは、各分署に、前もって通達される。
普通ならば、こうして彼が到着した時点で、署長以下、管理職がずらりと並んでお出迎え、となるところだ。
(気に入った)
ゴメス捜査官は、そういったシステムが好きではなかった。
抜き打ちでやるのでなければ、いったい何のための監査なのやら。
それに、普段は椅子にふんぞり返っているのであろう中年どもが、むやみにぺこぺこしておべっかを使ってくるのも気持ち悪い。
これくらいのほうが、清々しいというものだ。
……まあ、『ゴミ箱』と呼ばれる101分署に配属されるような札付きのオフィサーたちのことだから、悪意をもって出迎えをボイコットしているという可能性も捨てきれないが。
いずれにしても、全てはこれからの監査で分かることである。
(むむ、いざ)
ゴメス一等官は、おもむろにタイの位置をただし、颯爽とした足取りで入り口の階段をのぼり、本署とはくらぶべくもなく薄汚れた、101分署の建物へと足を踏み入れた。
2 謎の男
(……B−……C−……D、D、C+……)
と、心のなかでぶつぶつ呟きながら、ゴメス捜査官は、101分署の廊下を歩いていた。
――別に、監査の仕事をしているわけではない。
(むう。101分署の男たちは、皆、外見に無頓着すぎるっ)
実は、すれ違う男たちの容貌に評定を下しているのである。
これは彼の癖のようなもので、相手の容姿を一目見た瞬間に、反射的に点数をつけてしまうのだ。
ちなみに、この評価法には、最高でA+++まであるのだが、
(それは、もはや神の領域だ)
と彼は思っている。
――で、自分はといえば、A++。
ゴメス捜査官は、けっこうナルシストだった。
(D! あのシャツ、三日は洗っていないと見たっ。……C+。顔は悪くないが、顔色が悪いっ。まるで幽霊じゃないか。……B−。これといって欠点はない。しかし、若者のくせに、どうにも覇気がないな。もっと活き活きとした表情が欲しいところだ)
余計なお世話である。
こんなゴメス捜査官だが、先ほど挨拶に行った際、分署長ジーズ・バンタムの濃い顔を見た瞬間には、さすがにビビってしまった。
(よ、…………妖怪か?)
あの濃さは、もはやAとかDとかいう範疇を超えている。
それにしても――
101分署の人々は、今日が監査の日であることを知らないかのような、泰然たる様子だ。
監査のバッジをこっそりポケットに入れている、人の悪いゴメス一等官だが、仮にそのバッジを胸につけていたとしても、彼らの反応は変わらないのではなかろうか。
と。
(あれは?)
内心、感心していたゴメス捜査官は、そのとき、ナゾの物体に視線を奪われた。
廊下の突き当たり。その隅っこに、大ぶりなヤシの鉢植えが置いてある。
その、ヤシの陰で。
何やら、白いモノが「ひょいっ、ひょいっ」とうごめいていた。
「…………」
ゴメス一等官は、しばし無言で、その「ひょいっ、ひょいっ」を観察した。
――どうやら、人間であるらしい。
白衣を着た、ひょろりとした体格の、人間だ。
だが、なぜかヤシの木のかげで、壁に向かい、反復横跳びをしている。
しかも、
(お……遅い……)
反復横跳びというよりは、まともに●●●を踏んでしまって慌てている幼児、といった感じの動きだった。
訓練校の教官ならば、憤りのあまりに血管がブチ切れかねない遅さだ。
と、そのとき。
見られていることを悟ったか、唐突に、そいつがゴメス捜査官のほうを振り向いた。
ぼさぼさの茶色い前髪の下から垣間見えるふたつの目に、じーっと凝視され――
(……間違いない。妖怪だ)
ゴメス捜査官は、今度こそ心の底からそう思った。
どう見ても女ではなさそうだから、男なのだろうが、評定を下すことも忘れている。
と、そいつは不意に「ひょいっ」と、鉢の陰に引っ込んだ。
そして、それきり、出てこなくなる。
「…………」
ゴメス捜査官は、好奇心にかられて、そこをのぞきに行ってみた。
しかし、不思議なことに、鉢の裏側には、あの謎の男の姿はなかった。
髪の毛一筋すらも残っていない。
「……………………」
ゴメス捜査官は、しばしその場にたたずみ(その際、最もダンディに見える角度で頭を傾けることは忘れなかった)、世の中の諸々の神秘について考えをめぐらせた。
廊下の突き当たりで、ヤシの鉢植えを前にダンディなポーズで考え込む男の姿に、忙しく行き交う署員たちは、一様にいぶかしげな視線を向けた。
やがて――
ゴメス捜査官は、清々しい表情で顔をあげた。
「よし。忘れよう」
――なかなかの、つわものであった。
3 ヒゲ
ゴメス捜査官は、先ほどの怪奇現象をものともせず、相変わらずすれ違う署員たちをランキングしながら、廊下を突き進んでいた。
すると、
「あれ、ないっ! ない、ない、ない! なんでやの? ……こら〜、誰やねん? ウチが持ってきたお茶っ葉、勝手にどっか持ち出した奴はぁ!」
不思議ななまりの、元気のいい声が聞こえてきた。
(むっ?)
声の源は、廊下の半ばの給湯室だ。
ゴメス捜査官は、ひょいとそこをのぞき込んだ。
「茶っ茶っ、茶ぁ〜♪ どこやねん? ひょっとしたら、どっかそのへんに……う〜ん、やっぱりないなぁ?」
ナゾの歌を口ずさみながら、床に膝をつき、そのあたりの棚をがさがさと漁っているのは、濃い色の金髪を短くした少女だった。
シンクの側に置かれた、可愛いネコ模様のマグカップは彼女のものだろう。
少女自身、くりっとした少々吊り気味の目など、どこかネコを彷彿とさせるところがあった。
「んっ?」
給湯室の入り口から顔を出しているゴメス捜査官に気付いたか、少女――ジエラは、さっと振り向いてきた。
そのとたん、眼差しを厳しくし、しゃがんだまま、びし! とこちらに指を向けてくる。
「あんたかっ!? うちの茶を持ち出したんは」
しかし、いきなり茶泥棒の濡れ衣を着せられそうになっても、ゴメス捜査官は動じなかった。
すたすたと給湯室に入り、真面目な顔で、ジエラの目の前にひざをついて目線を合わせる。
「?」と疑問符を浮かべるジエラの手を取り、彼は言った。
「君は、なんてきれいなんだ……」
「……へっ?」
「こんなに細い手をしているのに、君は、弱さを感じさせない。それどころか、とても溌剌として、力にあふれているように見える。それは、君の瞳の光のせいだろうな。強烈な自我のきらめきを持っている」
「……え〜っと、あの……」
「わたしは君の光に惹かれてしまったよ。もっと君を知りたい。名前を……教えてくれないか」
「え、あ、う。ウチはジエラ・ネイルズ捜査官やけども……」
思わず相手のペースに巻き込まれて名乗ったところで、
「はっ!」
と、ジエラは唐突に自分を取り戻し、ばたばたと暴れ始めた。
「あああああ! アカン〜! おっさん、手ェ放してんか! ウチはなぁ、ギア一筋やねん! こんなトコでこんなコトしとって誰かに目撃されてウワサが広まってギアに誤解されたりしたら、ウチ、おっさんをスチールクリートに詰めて産業廃棄物処分場にほかすでぇ〜!!」
過激だ。
しかし、ゴメス捜査官はあきらめなかった。
「神はわたしになんと過酷な運命を与えたもうたのか……君のような魅力的な女性の心を、既に他の男が奪っているなんて。嗚呼……」
――目に入る男性を片っ端からランキングする、という変な習性の持ち主であるゴメス捜査官だが、彼の妙な癖はそれだけではなかった。
彼は、女性も分類するのである。
しかし男性の場合と違い、女性には、二つのランクしかない。
『守備範囲内』と『それ以外』だ。
そして、守備範囲内の女性は、とにかく片っ端から口説かずにはいられない。
……なかなか、難儀なおっさんである。
なぜこんな人が監査などやっているのか分からないが、名立たる101分署の監査ともなれば、これくらい変わり者でなければつとまらないと思われているのかもしれない。
「嗚呼やないで、おっさん! あんた、監査の人やろっ? こんなことしてるヒマはないんとちゃうんか〜っ!?」
ジエラの激しいツッコミに、
「おや」
ゴメス捜査官は、ふっと真顔に戻って手を放した。
興味深そうな口調でたずねる。
「わたしは、バッジを隠しているのに……君は、どうして、わたしが監査だと分かったのかね?」
「えー? だってなぁ」
ジエラは、当然のように答えた。
「ちょっと前から、みんなウワサしとったもん。なんか、ヒゲが監査に来るらしいて」
……すごく大雑把な伝わり方だ。
しかし的は射ている。
「ヒゲ……」
毎日手入れを欠かさない自慢のヒゲだが、そんな風に言われると、少し悲しいものがあった。
「――で、ヒゲのおっさん。お名前は?」
悪意があるんだかないんだか、いまいち読み切れないにこやかな顔で問いかけたジエラに、
「ロドリーゴ・ゴメス。……どうかロドリーゴと呼んでくれたまえ」
ゴメス捜査官は瞬時に立ち直り、ふっと斜め向きのダンディなポーズをとり、キラリと白い歯を光らせてそう名乗った。
……変なおっさんだが、とにかく、つわものであることだけは確かだ。
4 オリエンタルビューティ
給湯室でなおも茶を探すジエラと別れ、ゴメス一等官は、再び廊下を進んでいた。
(むう……既にメンは割れていたというわけか。とすれば、ここの署員たちは、わたしが監査と知っていてあの振る舞い……)
口髭の下で、にやりと笑う。
(ますます気に入った。面白い仕事になりそうだ。……おっと、B−)
味のある感想を抱きつつ、やはりランキングは忘れない。
そこへ、
(むうっ!?)
目の前の角を曲がって、こちらへ向かってくる二人連れがあった。
一人は、男。
驚くべき長身だ。体格もよく、まるで壁が歩いているようである。
しかし、やわらかそうな銀髪や、穏やかな顔つきのためか、さほど威圧感は感じさせない。
(B+っ。……いや、それよりも……!)
ゴメス一等官の視線を奪ったのは、その男と連れ立って歩いている女性のほうだった。
古語でいう東方美人、オリエンタルビューティとは、まさにこのような女性のことをいうのだろう。
墨を流したようなつややかな黒髪には癖ひとつなく、すらりと伸びた手足は、完璧に形作られた陶器の人形のそれのようだ。
造作は控えめではあるが品よくととのっており、すっと切れあがった眼の縁に、長い睫毛が影を落としている。
淡い化粧が、繊細な美しさをより一層際立たせていた。
「……? あの」
突然、目の前に立ち塞がったゴメス捜査官に、彼女は怪訝そうな表情を見せた。
「美しい……」
「――は?」
「これほどまでに神秘的な美が人の身に宿るのだと、わたしは今まで知らなかった。……ああ、あなたの美しさを知ってしまったこのときから、もはや、わたしの心は一時たりとも休まることはないでしょう。やわらかな花びらが酷い風に散らされるように、あなたの美しさが何者かによって汚されてしまうのではないかと、耐えがたい不安がわたしを責め苛む……」
と、苦しそうにポーズをとるダンディな男を、その女性はあっけに取られて見つめていたが、やがて、困ったように微笑む。
「あの……ありがとうございます。そんなにほめていただいて」
「いや、たとえ幾千の言葉を並べても、あなたの美しさを言い尽くすことは到底できない。真の美は心で感じるもの、言葉では表現できないものなのです。そして、同じように、わたしの心にあふれるこの想いも、とても言葉で表し尽くすことはできない……」
手を握られ、熱い――というか熱すぎる眼差しで見つめられて、涼しげな黒い瞳が、いよいよ困ったようにまたたく。
「……ええと……あの……あなた、私のことを誤解なさっているようですが」
「誤解なものか。あなたは美しい、誰よりも……。過ぎた謙遜は嫌味ですよ、セニョリータ」
ゴメス捜査官のウインクを受けて、
「あ。やっぱり……」
美女は、がっくりと肩を落とした。
その落ち込みの意味をはかりかね、疑問符を浮かべているゴメス一等官の肩に、ぽん、とほっそりした手を置いて、彼女は言った。
「大変申し訳ないのですが…………実は、私、男なんです」
「………………」
5 真面目一徹
その1分後、ゴメス捜査官は――
衝撃の事実に撃墜されているかと思いきや、またまた元気よく廊下を進んでいた。
(相手の性別を間違えるとは、確かに不覚だった……。しかし、このわたしが騙されるほどに美しく女性的な男ならば、それはもはや女性であると言い切っても過言ではないっ!)
という、よく分からない論理によって自己完結したらしい。
――ミチルがその論理を聞かずに済んだのは、彼にとっても、そしてゴメス捜査官にとっても幸いなことであった。
と。
「むうっ!?」
廊下を驀進していたゴメス捜査官の足が、ぴたっ! と止まった。
――オーダーオフィスの内部は、課ごとに、いくつもの部屋に分かれている。
廊下に面した扉は、いちいち閉めるのが面倒くさいからか、それとも少しでも開放的な雰囲気を醸そうという配慮からか、いつでも開けっぱなしにされていた。
彼の目を奪ったのは、そんな開きっぱなしの扉の奥にちらりと見えた、豊かな鳶色の巻き毛を持つ、ゴージャスな美女の姿――
美女と見れば、とにかく口説かずにはいられないのがゴメス捜査官だ。
先ほどの失敗を忘却の彼方に吹き飛ばして、彼は迷いなくその部屋に足を踏み入れた。
独特の臭気が鼻をつく。美女が前にした机の上には、ネイルカラーの瓶がずらりと並んでいた。
はしばみ色の眼を細めて爪の彩色に腐心している美女の他に、その部屋には、数人の人物がいた。
窓を開け、ばっさばっさと白衣を振って換気をしている男がひとり。
――それは、紛れもなく先ほどの反復横跳び男だったが、ゴメス捜査官は、力技で見なかったことにした。
その途端に、
「は! あなたは――」
奥の机から、がたんと音をたて、一人の男が立ち上がった。
そのまま、慌て気味に近寄ってくる。
金髪の、なかなかの美男子だが、
「A−! 眉間にシワが」
「む……!?」
真面目なジェイドが、ナゾの言葉に思わず考え込んだ隙に、さっとロッサーナの肩に腕を回すゴメス捜査官。
しかしというか、さすがというか、ロッサーナは全く動じなかった。
「……何者? あんた」
悠揚迫らぬ態度で、爪に息を吹きかける。
「ロドリーゴ・ゴメス。どうか、ロドリーゴと呼んでほしい」
「名前を聞いてるんじゃないんだけど?」
「君の美しさの虜になった哀れな男さ」
と、またもポーズをつけるゴメス捜査官を、ちらりと横目で見やり、ロッサーナは冷たく答えた。
「あたしが美しいのは認めるけどね。あたし、濃い男は趣味じゃないの」
――濃いと言い切られても、ゴメス捜査官はへコまなかった。
「崇拝する女性の言葉にならば、男は喜んで従うものだ。君の望むような男になってみせるよ。どうすればいい? 言ってくれ」
「とりあえず、3秒以内にあたしの視界から消えてほしいのね。暑苦しいから」
「ああ、君の大胆な美しさは、男の心臓に火をつけずにはおかない。そして情熱の炎は、つれなくされればされるほど燃えあがるものだ……」
「燃やすわよ。あんた」
にべもない。
金髪の男が、横で何やら言っているが、ゴメス捜査官は意に介さなかった。
「君が選んだ色は、ピジョンブラッド……その長い爪で、君はいったいどれほど多くの男たちの心に血を流させてきたのだろう?」
「よくもそれだけ口が回るわね。このサードニクスオレンジならどう言ったの?」
「サードニクス……それは夏の石の名だね。そして、そのつづりは嘲弄、冷笑という言葉に通う。その色は、まさしく君にふさわしい。情熱と冷たさを併せ持ち、思いのままに男を翻弄する君に――」
立て板に水の滑らかさで続くゴメス捜査官の甘い囁きを、
「ええー御歓談中に申し訳ありませんが」
真横からかかった生真面目な声がさえぎった。
思わず振り向いた彼の目の前にあったのは、むんっ。という効果音付きで、眉間にシワを寄せたジェイドの顔である。
「………………」
彼は、びしと背筋を伸ばし、真剣な表情のままで言ってきた。
「このたびは、監査の任務ご苦労様です。申し遅れましたが、私はジェイド・フォスター。この、凶悪犯罪対策課の課長を勤めております。この班の責任者として、一言、ご挨拶申し上げます」
「ああ」
こんな反応はこの分署に来て初めてだったので、ゴメス捜査官は、わざとそっけなく返事をしてみた。
しかしリーダーは、不安げな様子を見せることもなく、じーっと謹直な眼差しをゴメス捜査官の目に据えている。
(……なかなか、肝の据わった若者だ)
たっぷり10秒ほども見つめあった末、ゴメス捜査官は、ふっと満足げな笑みを洩らした。
その真意をはかりかねて、ジェイドが怪訝そうな表情を浮かべる――
それは、まさにその瞬間に起こった出来事だった。
6 わたしの天使
ドガァッ!! ボコッバキッ パリーン
突如として、とんでもない音が連続で響きわたった。
廊下のほうからだ。
「ぎゃああああ〜」
ついでに、悲鳴まで聞こえてくる。
「む!?」
ゴメス捜査官は反射的に身構えたが、他の面々はといえば、落ち着いたものだ。
イグナシオはいつの間にやらひらひらと踊っているし、ロッサーナは慣れた手付きでトップコートを塗っている。
「こら! 二人とも!」
ジェイドだけは、そう怒鳴りながら、廊下のほうへ向かった。
既に事態を把握しているらしく、落ち着いた物腰だ。
「廊下で暴れるなと、何度言ったら分かる!?」
(……まるでハイスクールにいるようだな)
と、ゴメス捜査官は、皮肉でなしに思った。
「まったくおまえたちは、いつもいつも! 通行人に迷惑だろうがっ」
「仕方ねえだろっ!?」
ジェイドの説教に、威勢よく怒鳴り返す声が聞こえてくる。
「こうでもしなきゃ、俺の身の安全が保障されねえんだよっ! ったく、この馬鹿ときたら、なんで、こう、毎日毎日性懲りもなく……!」
声の主は、言っているうちに、怒りがぶり返してきたらしい。
げんっ! という音が聞こえて、
「ああああ〜……」
少々、弱々しくなった悲鳴がそれに続いた。
「ギア。それくらいにしておけ」
「ふふふ。いっそ、ここらできっちり始末しといたほうが、後腐れがなくていいかもしれねえなぁ……」
怨念の漂ううめき声を聞きながら、
(――ギア? どこかで聞いた名だな。しかも最近)
ゴメス捜査官は首をひねった。
しかし、彼が記憶の糸をたぐり寄せるよりも早く、その声の主が、リーダーとともに部屋の入り口に姿を現す。
――その若者は、黒い装甲ジャケットを、少々ラフに着崩していた。
ばさばさの金髪。外回りの任務の最中でもないというのに、黒いミラーグラスをかけっぱなしにしている。
微妙に余り気味の服の上からでは、さほど屈強な身体つきをしているようにも見えないが、腕力はあるようだった。
というのも、彼は、片手で黒髪の男の襟首をつかんで、こともなげにずるずると引きずっていたからだ――
「お?」
見慣れたメンツのなかに、見慣れない顔を発見し、ギアはミラーグラスの後ろで目を見開いた。
しかし、すぐに事態を悟ったようで、ぽんと手を打つ。
……手を放したため、引きずられていた黒髪の男の頭がごとんと床に落ちたが、大して気にも留めない。
指差して言う。
「そこのヒゲ。監査だな?」
「こら、失礼だろう。面と向かってヒゲなどと」
そういうジェイドの言葉も、微妙に失礼だ。
しかし、当のゴメス捜査官の耳に、そんな会話は、ほとんど届いていなかった。
「……?」
何を思ったか、いきなりすたすたとこちらに近づいてくるヒゲ氏に、ギアは、怪訝そうな表情を浮かべた。
ヒゲ呼ばわりが気に障ったのだろうか(無理もないが)。
しかし、彼が浮かべた表情に、怒りの要素はまったく見て取れない。
そう、その表情はまるで、なにかに驚いているような、あるいは、夢でも見ているような……
ギアが戸惑っているうちに、ゴメス捜査官は、その目の前までやってきていた。
そして言った。
「君は、なんて可愛いんだ……」
「――――――は?」
思考停止に陥ったかのような表情で固まったギアの手をひっしと握り、ゴメス捜査官は熱っぽい口調でかきくどいた。
「君のような美しい少年に出会うことができるなんて……わたしは、この邂逅を与えたもうた神に感謝を捧げよう。君の姿を一目見た瞬間、わたしはすっかり心を奪われてしまったよ……」
「…………」
「…………」
あらゆる予測をブッチギリで超えた、ゴメス捜査官の行動に――
ジェイドは、完全に硬直した。
この瞬間に(不幸にして)戻ってきたミチルとゼファも、二人そろって入り口で凍りついた。
イグナシオは――何を思ったか1人で鏡に向かい、ギアとゴメス捜査官のマネをしてポーズをとっている。
「……女だけじゃなくて男も口説くのね」
別段腹を立てるでもなく、ただ呆れたように、ロッサーナ。
ゴメス捜査官。
美女と美少年(……)を見れば、どうしても口説かずにはいられない男。
――ますます(周囲にとって)難儀なおっさんであった。
「…………えーっと。いや、あのな。ちょっと待て。落ち着くんだヒゲよ」
「ヒゲじゃない。わたしはロドリーゴ・ゴメス。どうかロドリーゴと呼んでくれたまえ」
何とか手をもぎ放そうとしながら、引きつった笑顔で説得にかかったギアに、あくまでも手は放さないまま、キラリと白い歯を光らせて、ゴメス捜査官。
「きみの名前が知りたいな、わたしの天使」
「………………ギア・ロック」
――このおっさんに面と向かって『わたしの天使』などと言われるよりは、名前で呼ばれたほうが百万倍はマシである。
「ギア。君の魅力は、優美で人馴れない獣のそれだ。何者にも屈することのない誇り高さ、決して飼い馴らされることのない荒々しさ。……だからこそ、わたしはどうしようもなく君に惹かれてしまったんだよ……」
言いながら、感極まったようにひしと抱きつこうとするゴメス捜査官。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待――!」
ギアは慌てた。
普段の彼なら、こんなふざけた男は即座に張り倒して棒にしているところだが、驚きが先に立ち、対応にいつものキレがない。
――と、その瞬間。
ドカァッ!!
ものすごい音が響いた。
同時に、ゴメス捜査官が横向きにぶっ飛んで床に転がり、あまつさえ、転がった先にあった棚のカドで「ごん!」と頭を打つ。
「なっ!?」
ギアを含めた一同が、驚愕の視線で、その人物を凝視した。
彼は――
ゴメス一等官を殴り倒した拳を開かないまま、すっとギアの前に立つ。
「……僕のギアに何をするんだい」
今まで棒になっていたはずの男――カース・ブレイドは、いつになくマジな顔で、渋いセリフを渋く決めた。
*** 第二章 彼はいつでも被害者 ***
1 勝負
……ばったり。
と、音を立ててひっくり返ったのは、ジェイドだった。
自分の部下が、本署からの監査を(――それがいかに変なおっさんであろうとも)殴り倒したという事実に、常識人たる彼の神経が耐え切れなかったらしい。
ぶっ倒れた彼の表情は苦悶に歪み、眉間のシワは、彫刻刀で刻みつけたように深くなっていた。
ちなみに数も増えていた。
……そんな哀れな上司に、イグナシオがおもむろに近づき、風を送ったり濡れタオルを額に置いたりと、かいがいしく看護しはじめる。
そのあいだに、
「痛たたたた……」
派手にぶっ飛んだわりには大したダメージもない様子で、ゴメス捜査官がむっくりと起き上がる。
見た目通りというべきか、タフなおっさんだ。
彼はゆっくりと立ち上がると、自分を殴り倒した男――
ギアを守るように立ち、胡乱げな目つきでじーっとこちらをにらんでいるカースに、視線を向けた。
その瞬間。
「むうっ!?」
ゴメス捜査官の目が、カッと見開かれた。
「ぬっ?」
よもやナゾの光線でも発してくるのでは、と、とっさに警戒の体勢をとったカースだが、ゴメス捜査官は、別に光線は飛ばしてこなかった。
かわりに呟く。
「A++……」
彼は、カースに視線を据えたまま、ぐぐっと眉を寄せ、よく分からないポーズをつけて言った。
「このわたしに並ぶとは……むう。なかなかやるな」
「?」
いまいち話が見えなかったが、カースは、とりあえず不敵に笑った。
「僕のギアに手を出した報いさ」
――話がまったく噛み合っていない。
しかし、そんなことには一切構わず、ゴメス捜査官もまた不敵な口調で言った。
「報い……ね。きみは、自分が何をしたか分かっているのかな? いきなり監査を殴り倒すとは」
「監査だって!?」
と、驚愕の声をあげたカースに、ゴメス捜査官は、人の悪い笑みを浮かべてみせる。
(もう少し骨のある若者かと思ったが……肩書きに弱いタイプか。いささか残念だな)
――しかし、カースの驚愕の内容は、ゴメス捜査官が想像したようなものではなかった。
「なんて卑劣な!」
びしと指を突きつけ、どこか震えてすらいる声音で、カースはゴメス捜査官を糾弾した。
「純真なギアをたぶらかし、肩書きを盾に関係を迫るつもりだなっ!?」
「すごい妄想ね」
「一瞬にして話を作るなあ……」
外野で、ロッサーナとミチルが、思い思いの感想を洩らしている。
「――人聞きの悪いことを言うものだ。そういう君は、彼の何なのかね?」
「ふっ」
ゴメス捜査官の問いに、カースは、胸を張って答えた。
「僕は、ギアの恋――」
「バディだ。」
背後から手をラッパにして言ってくるギアに、カースは一瞬、すごく淋しそうな顔をしたが、
「……そう。唯一無二のね」
と、無理矢理まとめて、また胸を張る。
そんなカースに、ゴメス捜査官は自慢のヒゲをひねって、気の毒そうな表情をこしらえてみせた。
「どうやら脈はなさそうじゃないかね、君? 潔くあきらめたらどうだ」
「あなたのよーなヒゲに言われる筋合いはないっ! ……ねっ、ギア。あんなおっさんより、僕のほうが遥かに魅力的だよね♪」
「あ〜、う〜……」
「ちょっと待ちたまえ、君。今の言葉は聞き捨てならないな」
ギアの唸り声にかぶせるように、カースに向かって、ゴメス捜査官。
「00分署のきっての色男と呼ばれるこの私に、魅力勝負を挑もうというのかね?」
「……その二つ名って……あなたが自分で言ってるだけじゃ……? 僕は、ここの前には00分署にいたけれど、そんな評判を聞いたおぼえはないな」
「ふっふっふ。それも当然。私は四ヶ月前に00勤務になったばかりだからね」
「むっ。……ならば、なおのこと、そんな新参者に負けるわけにはいかないな。僕も、かつてはアンドレア・グリッティと共に、00署内の女性の80%を落とした男! その名にかけて、この勝負、決して譲るわけにはいかないっ!」
――何やら、話が盛り上がってきた。
「おい。おまえら……」
嫌な予感にとらわれて、ギアが制止をかけようとするが、
「まあまあいいじゃないの、やらせておけば。何だか面白そうだし?」
ロッサーナが、にやにや笑いながら言う。
「面白いわけがあるかっ! こういうしょーもねえ話になるたびに、一番バカを見んのは俺なんだよっ、いつもいつも!」
「うふふ。まあ、いいじゃないのよ。あたしたちが面白いんだから」
「よくねぇぇぇぇえっ!」
とか騒いでいるあいだに、カースとゴメス捜査官のあいだでは、早くも話がまとまりつつあるようだった。
ゴメス捜査官が、拳をかため、力強く宣言する。
「よしっ! ならば、勝負の方法は『これより24時間のあいだに、いかに多くの女性のハートをモノにできるか』だっ!」
「望むところっ! ――公平を期すため、場所は市街地、服装は私服とするっ!」
「いいだろう!」
真っ向から指を突きつけるカースに、余裕の笑みを見せて、ゴメス捜査官。
「そして、勝者がギアくんを手に入れ、敗者は、潔く身を引く! これに異存はないなっ?」
「異議なぁし!」
「待たんかぁぁぁぁぁっ!!」
やたらまとまっている二人に、思い切りツッコミを入れるギア。
「勝手に人を優勝賞品にするんじゃねえ! 俺の自由意思ってもんはどこに行ったコラ!?」
「……むう」
ギアの力いっぱいの主張に、ゴメス捜査官は、あごに手を当ててダンディなポーズをつけ、真剣に考え込んだ。
ややあって――
彼は突如、晴れやかに笑った。
ぴっと指を立てて、言う。
「そうだな。では、とりあえず1週間ということで」
「――『とりあえず』!?」
「ふふふ。これでギアは1週間、僕の思いのままだねっ♪」
「待て! 人の話を聞けえ〜っ!」
「勝ち誇るのは、実際に勝ってからにすることだね。まあ、わたしが相手では、君に勝ち目はないだろうが……」
「ふっ。この僕が、あなたのよーなヒゲに負けるとでも? ――安心して待っていて、ギア。君はもう僕のものだよっ!」
「待て! 待ちやがれコラ二人ともっ! ……あああああああ! 何か知らんが、またロクでもねえことになっちまったあああ!」
わははははと笑いながら走り去る二人の後ろ姿をなす術もなく見送り、絶望的な叫びをあげるギア。
と、そのときになって。
「……えーと……」
それまで黙っていたゼファが、ふと思い出したように、ぽつりと言った。
「ところで、監査の仕事はどうなるんでしょう?」
「…………」
「………………」
あまりといえばあまりにもっともな、その疑問に、答え得る者はいなかった――
2 失敗
「くぅ〜っ!」
粘り強い捜索の末、生活安全課・第3班の部屋に拉致されていた『マイお茶っ葉』を発見し、無事にその缶を取り戻して意気揚々と戻ってきたジエラは、一同から事の顛末を聞かされ、拳をかためて痛恨のうめきを洩らしたものである。
「このジエラ・ネイルズ、一生の不覚やわ! あのヒゲ、やっぱり早めにスチールクリート詰めにして、どっかに沈めとくべきやった〜!」
「ううう。俺もその意見に賛成だ……」
ジェイドが倒れているソファの隅っこに腰を下ろし、げんなりと、ギア。
両膝にそれぞれ肘をつき、組み合わせた手の甲に額を押し当てている。
しばし、そのままのポーズで苦悩に浸っていたかと思うと、不意にがばっと顔を上げて、
「――てゆーか、誰が『美しい少年』なんだよっ!? 失礼なおっさんだぜっ!」
「え〜? 仕方ないで〜。だって、ギア、可愛らしいんやもん♪」
「……今のセリフ、ジエラだから許されるんだよね」
ミチルが、苦笑しながら呟いた。
彼は、水を張ったタライを抱えている。そのなかには白いタオルが一枚、ふよんと漂っていた。ジェイドの看護用だ。
「あのおっさんなら、言った瞬間に滅却されてるわね。確実に」
と、ロッサーナ。
こちらは何を思ったか、三角巾を手にしていた。何に使うつもりなのかは謎だが。
「ううう。是非ともそうしたいところだが。
しかし、あのおっさん、どーも苦手っつうか、調子狂うんだよなぁ。
カースなら、瞬時にしばき倒すことができるんだが、……あいつ、絶対、すぐ復活しやがるし。
ああ〜、勝利の女神よ。できればどっちにも微笑まないでくれ。頼むぅ〜!」
「大丈夫や!」
げんなりするギアを、ジエラがにこやかに励ます。
片足をソファにかけ、片手をギアの肩に置き、さらにもう一方の手でどことも知れぬ上のほうを指差して、
「どっちが勝っても、ウチが即座に沈めたる」
――言い切った。
しかし、幸いにもというか何というか、彼女のこの宣誓が果たされることはなかったのである。
24時間が経過して、戻ってきたカースとゴメス一等官は、
「――しまったあッ!」
自分たちの大失敗に気付いた。
即ち。
「立ち合い人を忘れた……」
のである。
コムリンクに登録した番号など、いくらでもごまかしがきく。
自己申告の数値では、公正な判定を下すことなどできはしない。
――というか、いったいどうすれば『女性のハートをモノにした』ことになるのか、そのへんの線引きから既に定かでない。
「ふはははは! これじゃ、勝負自体が成り立たねえな。ということは無論、勝者もなしだ! よって、俺の身の安全は確保された!」
と、ギアは勝ち誇った。
しかし、二人の男たちは、まだあきらめてはいなかった。
「むうっ。どうする。立ち合い人を募って、もう一度やるか?」
「ふっ。僕はかまわないよ」
……丸々24時間の徒労にもめげないタフさだけは、とにかく大したものであった。
「アホか〜! そんなナゾの勝負に敢えて立ち合いたいと思うよーな酔狂な人間、おらんわっ!」
ジエラのもっともな言葉に、二人は「う〜ん」と考え込んだが、やがて、
「はっ!」
と、カースが何かを思いつき、ゴメス捜査官をちょいちょいと手招く。
胡散臭そうな目つきで見つめる一同を尻目に、部屋の隅っこで、二人はひそひそと語り合うのだった。
「……つまり! 誰の目にも明らかに、目に見える形で勝敗を決することが大切なわけだ」
「その通りだな。何かいい方法でもあるのかね?」
ゴメス捜査官の問いに、カースは、にやりと笑ってみせた。
「ある」
「ほう……?」
こうして、なおもしばらく、二人のひそひそは続く。
見守る人々の心のなかで、一部は不安、一部は好奇心が、徐々に大きくなっていった。
そして――
「……よし!」
話し合いの決着を告げる、ゴメス捜査官の高らかな声が響きわたった。
「その勝負、受けたっ!」
「待てええええっ! まだ続くのかっ!? ――てゆーか、何なんだよその勝負って!?」
慌てて叫ぶギアだが、やっぱり二人は聞いていない。
「待っていたまえ、わたしの天使……わたしは、必ず勝利をおさめてみせる!」
「いや、勝つな! 負けろ! 頼む!」
「ああ、ギア! そんなにも僕のことを応援してくれるなんて♪」
「てめえもだぁぁぁぁっ!」
「……ねえ。思ったんだけどさ」
全力で怒鳴るギアの姿を眺めていたロッサーナが、となりに立ったミチルに向かって、ぼそりと言った。
「ギアって、ひょっとしたら、すごく幸せ者なのかもね」
ミチルは、一瞬遠い目をして、それから、こちらもぽつりと言った。
「…………そうかな?」
確実なのは、『いずれにしてもすごく迷惑である』というありがたくもない事実――それのみであった。
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