ターミナル玄関口時空跳躍ゲート⇒『オーダーオフィス101』 Copyright © 2009 キュノ・アウローラ, All rights reserved.


オーダーオフィス101





  プロローグ
  第1章   ゴミ箱
  第2章   バディ
  第3章   予兆
  第4章   始動
  第5章   オールト・ビル




     プロローグ




 色とりどりの宝石を深い水の底に沈めたように、街の灯が輝いている。

 オータム・シティの東側を一望のもとに見下ろすオフィスで、二人の男が顔を突き合わせていた。
 彼らの容貌は、まったく異なっているようでいて、どこかしら似通ってもいる。

 ――血族(ファミリー)だ。

「話は聞いたよ。冗談だよね」

 細身のスーツに身を包んだ若者が言った。
 地味ではあるが最高級品の衣服も、洗練された立ち居振る舞いも、内面の荒々しさを完全に覆い隠してはいない。
 うなじでひとつにまとめられた褐色の長髪には丁寧に櫛が入れられていたが、淡い緑の目は獣めいてぎらぎらと光っている。
 その押し殺された激情は今にも爆発しそうだったが、彼と向き合った小柄な老人には、何の感慨も与えていないようだ。

「決定に、変更はない」

 老人が、このオフィスの主だった。
 オフィスの内装のあらゆる部分に、主の趣味が反映されている。
 戸棚のガラスの向こうに隙間なく陳列された大判の書物。黒がかった緋色の絨毯に、どっしりとしたデスク。
 つややかな表面を見せるデスクの材質は紛うかたなきオーク材で、無疵であれば値をつけることさえできない品だ。

 デスクについた老人その人もまた、年輪を重ねた古木のようであった。
 髪と口ひげは、長年の風雨に晒されて色素が抜け落ちたかのように白い。
 だが、色褪せることのない緑の両眼は深沈として、揺らぐことなく若者を見返している。

「理解せよ、クアン。組織のために、そうせねばならないのだ」

「組織だって!?」

 クアンと呼ばれた若者は、突然激昂して両手をデスクに叩きつけた。

「組織のために、血族を切り捨てるって言うのかい!
 治安局のイヌどもが捕まえたのは、他の誰でもない、僕のパパで……あなたの息子だ!
 それなのに何の手も打たずに、みすみす見殺しにするなんて!」

「ダリオの失策は、あまりにも大き過ぎた。庇いようがない。
 取引の現場を直接、101の連中に押さえられたとあってとはな……」

「パパの失敗じゃない。あのくそったれが治安局に情報を流したせいさ、裏切り者のシャムーザがね」

 若者の声は、急速に落ち着きを取り戻していた。
 老人の声音には、もとより何の変化もない。

「彼の裏切りを見抜けなかったことが失策なのだ、クアンよ。
 そのシャムーザも、特急の弾を浴びて死んだ。
 見せしめとして、奴の家族の死を命じておいた」

「……101の奴らには、何の手出しもなしで?」

 老人は、痩せた肩を沈ませて溜め息をついた。

「101に潜らせておる内通者のトップは、始末させる。
 それ以上の報復は、このわしが許さん。
 今度の署長は、狡猾な男だ。あれと正面切って戦をするのは得策ではないぞ、クアンよ」

「でも、それじゃデルトロ・ファミリーが治安局を恐れていると思われる!」

 クアンは再びデスクを叩いた。
 その手を動かさないまま、牙を剥く闘犬のように、食いしばった歯のあいだから軋るような声で唸る。

「このままじゃ、僕らは業界中の笑いものになっちまう。
 101のイヌどもを殺して、僕らに手を出したことの馬鹿さ加減を思い知らせてやるんだ。
 平行して、パパの身柄を奪還する。パパを、イヌどもに捕まえさせたままになんかしておくもんか!」

 怒鳴ったクアンの頬が、ばしりと鳴った。

「愚か者!」

 立ち上がった老人の怒声は驚くほどの声量で、クアンのものを気迫で遥かに上回っている。
 一歩よろめき、きっと老人を見返したクアンの視線は、白い眉の下から睨みつけてくる緑の目に弾き返された。

「治安局とのあいだに、全面戦争を引き起こすつもりか!?
 確かに、百人のオフィサーを血祭りにあげることもできる、だが、それでどうなる?
 奴らも黙ってはおらんぞ。こちらの手下も、大勢殺される。
 治安局との戦争でファミリーが弱体化すれば、わしらの隙を血眼になってうかがっておる他の組織がどう動くか……考えずとも分かるじゃろう!」

 不意に、老人のことばが途切れた。
 痩せた肩が、ふいごのように上下している。老人は小さく震える手を胸に当て、布張りの椅子に崩れるように腰を下ろした。

 やがて、彼は顔を上げぬまま、片手を振って言った。

「――刑務所での待遇は、どうとでもなる。
 戦争は認めん。
 ただ一人のために集団を危険に晒すような者に、人の上に立つ資格はないぞ!」

 クアンは、じっと祖父を睨みつけていた。
 その視線が一瞬デスクの上に流れ、手頃な凶器でも探すように、古い文鎮や時計のあいだをさまよった。

 しばしの後――
 彼は、黙って踵を返した。
 黒檀の扉が音もなく横向きに開き、閉まった時、老人は顔を上げた。
 怒れる若者の姿は、視界から消えていた。

「馬鹿者め……」

 クアンの祖父であり、ファミリーの長――アルフォンソ・デルトロは椅子に深く身体を沈め、呟くように言った。
 その声音は、どこか哀しげでもあった。

 彼は机の下で握りしめていた最新型のレーザー・ガンを置き、手元のコンソールを操作した。
 なめらかなデスクの表面に、四角い線が浮かび上がったかと思うと、その部分がスライドし、一枚のディスプレイが現れた。

 一方、クアンは、誰もいない廊下を荒々しく歩いている。
 敷き詰められた高価な絨毯のせいで、足音で怒りを表現するというわけにはいかなかった。
 ――そんな些細なことすらも、彼の神経を苛立たせる。

「パパ……」

 抑えられた照明が陰影を強調し、整った造作に、凄みを帯びた陰を作り出していた。

「僕が、必ず助けてあげるよ」

 密やかな誓いが、夜の中へと溶け込む。

 クアンは監視システムの存在を知りながら、わざとそれを口にしたのだった。




   第1章    ゴミ箱





     1

 朝である。

「ハイらっしゃっ客さん注文はっ!?」

 屋台『モウマンタイ』は、今朝も大繁盛していた。
 新たに現れた客に、店主がすかさず、人間の限界に挑む早口で問いかける。
 その背後では彼の妻が、コマネズミのようにくるくると立ち働いている。

 オータム・シティで最も活気ある場所の一つ、テンジン・ストリート。
 目覚めを迎えたばかりのダウンタウンの大通りを、まるで大動脈を流れる血流のように無数の人間、自転車、モーターサイクルが行き来する。
 ざわめき、呼び込み、クラクションの音。
 通りの両側には軽食を出す屋台がずらりと並び、その座席やパラソル付きのテーブルが、車道までをも侵食しつつあった。

 オータム・シティの人々の多くは、自炊の習慣を持たない。だから、屋台が生活に欠かせないものとなっている。
 朝食時ともなれば、その混み具合は殺人的だ。
 それをさばき切る手際の良さ、そして味の良さがあって初めて、この屋台激戦区で生き残ることができるのだ。

「えーとな、えーと、ちょっと待てよ。これも美味そうだし、これも……
 あー、迷うぜ!」

 ――だから、こういう客が一番困るのである。
 パラソルの支柱に貼り付けられたメニューを眺めながら、その若者は、嬉しそうにぶつぶつ言っていた。
 見かけない顔だ。
 常連なら、席について一秒もしないうちに注文してくれる。
 あまり気の長くない店主は、カーン! と鍋を打ち鳴らして、優柔不断な客に迫った。

「ご注文はっ!?」

「うお!?
 ……あ、えーとな、それじゃ、肉ラーメンとエビチリと胡麻春巻と、あとマンゴージュース。
 全部Lで!」

 あれだけ迷ったくせに、結局全部食べるらしい。
 しかもLで。
 店主は思わず、若者の顔をじっと見つめてしまった。

「お客さん、よその人かい?」

「あ? ……ああ!
 ヴェロニカ・シティから越してきたばっかなんだ。
 今度、辞令が降りて、こっちで働くことになったんでね」

 言って笑顔を見せ、若者は、だぶだぶの黒い装甲ジャケットを着た肩を小さくすくめた。

 店主は、はて? と内心、首を傾げた。

 この若者――年の頃なら17、8といったところだろうか?
 よりはっきりとした推定が困難なのは、彼の顔の上半分を覆っている、黒いミラーグラスのせいだった。
 つややかな偏光プラステックが、彼の目を完全に隠蔽している。……それでも、厳つい印象を与えないのは、やや小柄な体格のためか。
 どうもわざとやっているらしいばさばさの金髪や、向こう気の強そうな顔立ちとあいまって、どう見ても、そこらのストリートの悪ガキにしか見えない。
 人事異動があるようなまともな職に就いているとはとても思えなかったが、店主は賢明にも、それを口に出すことはしなかった。
 かわりに、魔法のような手際で盛り付けた料理を、どんどんとテーブルに置く。

 若者は、出されたラーメンをものすごい勢いですすりながら、路上に出されたモニターの画像を熱心に見つめはじめた。
 年季が入って画質の荒いモニターの向こうから、若いキャスターが同じニュースを繰り返し伝えている。


『本日、午前一時過ぎ、オータム・シティ036地区の工場跡地にて、大規模な、銃火器の密売組織が摘発されました。
 現場に突入した、治安局の特別急襲部隊と、密売組織の構成員とのあいだで激しい銃撃戦が行われ、組織側に、多数の死傷者が出た模様です。
 銃火器取引法違反などの罪で身柄を拘束された、ダリオ・デルトロ容疑者は、輸送会社ウイングス・インダストリーの代表で、会社ぐるみで密売に関与していた疑いが持たれています』


「036地区っつったら――ここの近所じゃねーか? なかなか物騒だな」

「おおよ! まったく、物騒なんてもんじゃねえ」

 気持ちのいい食べっぷりに気を良くしたのか、若者の独り言に、店主が乗ってきた。
 手つきも鮮やかに鍋をさばきながら、鼻息荒く続ける。

「昨日はマジですごかったんだぜ。寝てたら、いきなりドカーン! だからよ。
 おりゃあ、一瞬、戦争でもおっぱじまったかと思ったね!」

「組織同士の取引の現場に、特急が乗り込んだんだろ?」

「おお。ウイングス・インダストリーと、ゴーストヘッド。
 ゴーストヘッド側の構成員は、頭のシャムーザって奴を筆頭に、全員死んだそうだぜ。
 ウイングスも、あのデルトロって奴の他は誰も助からなかったんじゃねえか?」

 若者は顔をしかめた。

「一人を除いて、皆殺しか……」

「おお、何しろ、すげえ撃ち合いだったからよ。
 それでも、特急には一人の死人も出てねえってんだから、すげえよな。
 ……あ! 見ろよ。あれが、突入した特急の隊長だ」

 店主が玉じゃくしで指したモニターに、真っ黒な人物が写っていた。

 真っ黒な、というのは、比喩でも何でもない。
 全身をくまなく覆う対人制圧用装甲服、通称バトルテックスーツを身に着けているのだ。
 その左胸には、治安局(オーダーオフィス)を表す意匠――『裁きの剣』のエンブレムがはめ込まれている。
 リポーターにマイクを向けられたその人物は、ヘルメットのバイザーも上げないまま、くぐもった声でコメントを述べていた。

『ええ。任務に恐怖を感じたことはありません。
 シティの安全を乱す者は、排除する。それだけです』

「カーッ!」

 感極まったように叫びつつ、かぱんっ! と炒飯を皿に盛り付ける店主。

「聞くたびに痺れるぜ、このセリフ! 
 ――いや、客の中にもいろんなのがいるから、大きな声では言えねえんだけどよ。
 実は俺、ファンなんだよな」

「ファンって……こいつのか?」

「そうそう! いやー、男と生まれて一度は、あんなふうにビシッと決めてみてえもんだ。
 あの隊長、どんな危険な現場にも、直接乗り込んで指揮をとるそうだぜ。
 射撃と格闘技の達人で、犯罪者どもをばったばったとぶち殺しちまうんだと。
 はぁー! カッコイイねえ!」

「――そうかな」

 若者の呟きに、何とはなしに奇妙なものを感じ、店主は思わず動きを止めて、彼をじっと見つめた。
 だが若者は、ジュースのストローをくわえて揺らしながらモニターを見つめているばかりで、特に、先ほどの発言を補足しようともしない。
 ――と。

「きゃああああぁあっ!?」

 出し抜けに、通りの先でとんでもない悲鳴が湧き起こった。
 若い女性の声だ。

 周囲を一瞬にしてざわめきが駆け抜け、人の流れが乱れる。

 混乱する雑踏を強引に引き裂き、数名の少年が猛然と走り抜けてきた。
 続けて、甲高いわめき声が響く。

 「泥棒! 泥棒ーっ!」

 つまりはスリというわけらしい。

「だっ……」

 れか捕まえろ、と怒鳴りかけた店主の目の前で、すっと若者が立ち上がった。
 まるで反射のように素早く、滑らかな動きで。

「――悪いな、おっさん」

 その詫びが何を意味するのか店主が気付く前に、金髪の若者は流れるような動作で空になった皿を振りかぶり――
 突進してきた先頭の少年の顔面に、真正面から叩きつけた。

「うおっ!?」

 チリソースが飛び散り、先頭の少年が思わず足を止める。
 その隙に、若者は、少年たちの進路をふさぐように立ちはだかった。
 くわえたままだったストローを、ふっと吹き飛ばす。

「おい、お前ら。
 スリは犯罪だぜ?」

 言わずもがなの指摘だ。

「こっ、この野郎……!」

 先頭の少年が、唸るように叫んだ。
 チリソースと怒りとで顔面を真っ赤に染め、再び猛然と突っ込んでくる。
 その手に、ちらりと銀色の光がきらめいたのを、何人が視認できたか――?

 どんっ! と少年の身体が、構えたナイフごと若者にぶち当たった。

 周囲が凍りつき、引きつったような息の音がいくつも上がった。

 若者の腹を刺した少年は、にやっと笑った。
 通行人の誰も彼らを止めなかったのは、こういう事態を恐れたからなのだ。
 それに気付かずに正義漢ぶった、このマヌケ野郎が悪いんだ――

「……痛ぇーだろーが、コラァ?」

 その瞬間。
 少年は、自分の正気を疑った。
 腹にナイフを突き刺されたはずの若者が、にやりと唇を吊り上げて、獰猛な笑みを浮かべたからだ。

「な……!?」

 少年は反射的に、ナイフをひねって抜こうとした。
 だが、柔らかい肉に食い込んだはずのナイフが、なぜかびくとも動かない。
 思わず見下ろした少年は、そこにとんでもない光景を見出し、飛び出さんばかりに目を剥いた。

 若者の左手が――素手のまま、ナイフの刃をつかみ止めている!

 このまま勢いよく刃を引けば、指が落ちるはずだ。
 それなのに、ナイフはまるで石にでも突き刺さったかのように、1ミリも動かない。

「往来のド真ん中で――」

 驚愕と、それを上回る恐怖に引きつった少年の目の前で、若者の顔が、鬼のような形相に変わった。

「ヒカリモンぶん回してんじゃねーよ、こンの、ボケナスがぁぁぁっ!」

 風を巻く唸りすら上げ、若者の右拳が少年の頬にクリーンヒットする。
 少年の身体はコマのように回転し、為す術もなく地面にぶっ倒れた。
 それを見た残り三名の少年たちは、最も賢明な選択をした。
 ひっ、と息を飲むが早いか、手近に開いていた路地に我先に突進する。――つまりは逃げ出したのだ。

「逃がすかよ……!」

 怒鳴るより早く、若者はジャケットの懐に手を突っ込む。
 抜き出された手に光る、小型の銃。
 それを目撃した人々が、悲鳴を上げ、一斉にその場にしゃがみ込む。

 そして三度、連続する銃声――

 路地の入り口を目の前にして、少年たちは、折り重なるように倒れ込んだ。

「ひッ……ひ、
 いやああぁぁ!?」

「人殺しだ! 人殺しだぁっ!」

「――うお!?」

 たちまち湧き起こった悲鳴に、若者は、驚いたように片耳をふさいだ。
 先ほどの一瞬に見せた獰猛な表情は、嘘のようにかき消えている。
 彼は慌てて銃を収め、落ちていたナイフを拾うと、困ったように周囲を見回し――

「だあああぁーっ!? うるせーっ!!」

 両手をラッパにして叫んだ。

「ありゃ、ただの衝撃弾だ! 死にゃしねーよ!」

「しょ、衝撃弾だって? あんた、一体……」

 屋台の陰から、店主が恐るおそる問いかけたが、若者の耳には入らなかったようだ。

「うう……」

 そのとき、最初に殴り倒された少年が意識を取り戻し、低い呻き声をあげたのだ。

「おっ」

 若者は、倒れていた少年の胸倉を片手で引っつかむと、その身体を軽々と引き起こした。
 ノックか、西瓜の品定めでもするみたいに、こんこんこんと拳で額を叩く。

「おーい。大丈夫か?」
「くそったれ……」

 あくまでも軽い口調の若者を、少年は腫れ上がった頬の上から、憎悪の眼差しで睨み上げた。

「てめえ……こんな真似して、ただですむと思うなよ……」

「何だ、意外と元気じゃねーか。よかったよかった。
 で、どうなるって?」

「粋がりやがって……俺は、デビルナンバーズのメンバーだ!
 俺の仲間が、てめえをぶっ潰すぜ。
 二度と、このへん歩けねえようにしてやる!」

「……そうかい」

 若者は、呆れたように笑った。

「ご親切にどうも。背中には気をつけるようにするぜ。
 ――おっと。そういや、こっちの名乗りがまだだったな?
 俺は、ヴェロニカ・シティから来た、ギア・ロックってんだ」

 その瞬間、少年の顔から、表情が消えた。

 だが、それはほんとうに一瞬のことだった。

 白紙になった顔に、次第にひとつの色がじわじわとにじみ、広がってゆく。

 恐怖の色が。

「……う……そ」

 若者――ギア・ロックは、その呟きに、言葉では答えなかった。
 右手で相手の胸倉をつかんだまま、左の手のひらを見せつける。

 人差し指から小指までの第二間接内側の皮膚が、一直線に裂けていた。

 いや――

 生身の皮膚としか見えなかったそれは、人工の外装だ。
 その裂け目からのぞいているのは、人間の血肉ではありえない、金属的な輝き。

「りょ……両腕が、サイバーアームの……
 012の狂犬……
 バ……バイオレントオフィサー!」

 まなじりを裂かんばかりに目を見開いた瞬間、少年は、何かに憑かれたように絶叫しはじめた。

「や、やめてくれぇ! こ、こ――殺さないで! お願いだ!
 助けてくれぇぇ!」

「へえ……死にたくないって?」

 若者――ギア・ロックは、鼻がぶつかりそうなほど相手に顔を寄せて囁いた。
 恐怖一色に染まった顔が、ミラーグラスの表面にゆがんで映っている。

「あ、あ、あんたがこの街に来てるなんて、知らなかったんだよ! 本当だ! ――さ、財布なら、ここにある! 今すぐ返す! 返すから……殺さないでくれよぉ! お願いだ……!」

「お前さ、そんなこと言われたことなかったか?」

「……へ……?」

 静かな問いかけの意味が、少年はすぐには理解できなかったようだ。
 ギアは、穏やかな口調を変えることなく続けた。
 薄笑いを浮かべたまま。

「お前、俺を刺すとき、迷わなかったな。前にもやったことがあるんだろ? 
『お願い、助けて、殺さないで』――さて、おまえはどうした……?」

 シャツがくぼむ強さで腹に切っ先を押し付けられ、少年は泣きそうな顔になった。

「やめてくれよぉ……!」

「――泣き言は」

 吊りあがった唇の奥で、ぎりりと奥歯が鳴ったのを、少年は聞いただろうか。

「ムショで刑務官に聞いてもらいな!」

 がっ! と見えない速度のアッパーカットを顎に受け、少年は壊れた人形のように路面に転がった。
 ギアはそちらに銃口を向け、それから、すぐに下ろした。

「ああ、くそ、ムカつく。ムカつくぜ! いっぺん死んであの世から出直してこい、くそったれが!
 こいつら……この場で全員、ドタマぶち抜いてやろうか……!?」

 唸りながら犬歯を剥き出し、指をわななかせる。
 餓狼のような凄味に呑まれ、周囲の人間たちは言葉もない。
 ギアは、猛禽の爪のように曲げた右手を、自分の胸元に押し付けた。

 かすかな金属音があがった。

 銀の鎖で胸元にさげられたロケットペンダントに、指先が触れたのだ。

 その瞬間――
 彼の表情から、鬼気が抜けていった。

 倒れた少年に歩み寄り、その尻ポケットから財布を抜き取ると、身分証の写真をちらりと見て、人ごみの中の一人に軽く放る。

「そのまま持って帰りな。手続き、めんどくせーから」

 驚いた顔をしている若い女性にそれだけ告げると、思い出したように、屋台の店主を振り向く。
 ――いたずらを見つかった悪ガキのような表情で。

「あー、悪い……。
 なんかコレ、微妙に曲がっちまったみてーだけど、今から直すから」

 言いながら拾い上げたのは、エビチリが入っていた皿だ。
 薄い金属製のそれは、混乱の中で誰かが踏み付けたらしく、縁が大きく歪んでいる。
「いよっ!」

 ギアが両手で皿をつかみ、力を込めると、皿はぐにゃりと変形し、極めて前衛的なオブジェに生まれ変わった。

「………………」

「……………………」

 もう、直すのは無理そうだ。

 そこへ、けたたましいサイレンの音が近付いてきた。
 人ごみの向こうに、警告灯の光と、青白ツートンカラーの車体が見え隠れする。

 市民からの通報を受け、治安局の警邏隊が駆けつけてきたのだ。

「おー、ここだぜ! ご苦労さん」

 ばらばらと走ってくるオフィサーたちに、ギアは愛想よく手を振った。
 ついでに、変形した皿をさりげなく後ろ手に隠す。

「あんたら、テンジン・ストリート北詰所だな?
 最初の悲鳴から、5分49秒。ちょっと遅いぜ。
 ま、治安最悪って評判のオータム・シティじゃ、仕事もなかなか大変――」

 振ったその手をギアが友好的に差し出したのと、その手首にがちりと手錠がかかったのが、ほぼ同時だった。

「へっ――?」

 ぽかんとした表情を浮かべたギアの鼻先に、黒光りするいくつもの銃口が突きつけられる。
「傷害。武装規制法違反。治安擾乱。器物破損……」
 警邏隊のリーダーと思しき厳つい中年男がずらりと罪状を陳述し、部下たちに向かって、重々しく告げた。

「連行しろ」

「……器物破損って、まさか皿のことかっ!?」

 現行犯逮捕だった。





     2

 清々しい朝の光が、遥か下方に、精巧なミニチュアのような街並みを照らしている。

 オータム・シティの西側を一望のもとに見下ろすオフィスで、二人の男が顔を突き合わせていた。

「アタシは今までに、数多くの部下たちを見てきたわ……」

 すらりとした長身の、男、だ。

 さほどの年齢にも見えないが、剃髪したのか天然か、頭に毛が一本もない。
 睫毛は長く、鼻が高い。
 一言で言えば――極めて、濃い。

「でも……初出勤当日にうっかり逮捕されるヤツってのは、さすがに見たことがなかったわね」

 オータム・シティの秩序と安寧の守護者、治安局(オーダーオフィス)101分署――

 彼こそが、その総司令官たる男だった。

 つまるところ、ここは署長室なのである。

「いったいどういうコトなのか、説明してもらえるかしら?」

「俺が知りてーよ……」

 振り向いて言ってきたジーズに、ギアは憮然として答えた。
 だぶだぶの装甲ジャケットは、まるで乱闘でもくぐり抜けてきたかのようによれて薄汚れ、頬には擦り傷がついている。
 署長の前だというのに、立ち方がだらしない。
 どこか、わざとやっているようにも見える。

「警邏隊の奴ら、バッジ見せてんのに、しつこく俺のこと疑いやがるんだぜ。屋台のおっさんが証言してくれたってのによ。おかげで、殴り合いのケンカに発展だ。
 はるばるヴェロニカ・シティから転属してきて、なんで、いきなり同僚と殴り合わなきゃなんねーんだよ?」

 もっともな疑問だ。
 だが、もう少し身なりと態度を良くしていれば、自分はオフィサーだという名乗りにも、もっと信憑性があったかもしれない。

「せっかく捕まえた奴らにも、殴り合ってる隙に、危うく逃げられるとこだったしよ……。まあ、手近にあった椅子ぶん投げて、どうにか倒したけどな」

「聞いたわ。スリ集団を現行犯で逮捕したんですって?」

「ああ」

 ギアは、あっさりと頷いた。
 初出勤当日に四人を逮捕というのは、確かに少しばかり珍しいかもしれない。
 だが、相手はたかだかスリである。その程度のことが、この101分署でお手柄扱いされるはずもなかった。

「逮捕、ね……」

 ジーズは、何か思うところがあるように低く呟いた。
 だが、次の瞬間には、さらりと話題を変えてくる。

「そういえばあなた、012では特急にいたんですって?」

 その言葉に、ギアは、微妙に表情を変化させた。
 特急――特別急襲部隊。
 特に規模の大きな分署に配置され、特に危険な現場への突入、武装集団の鎮圧などを主な任務とする。
 治安官の中でもベストの資質を持つ者のみが選ばれる、精鋭集団だ。特殊な装備を保有し、訓練内容も一般の治安官たちとは異なっている。

「012の特急といえば《砂漠の鷹》隊で有名なとこよね。エリートじゃない。
 そのエリートさんが、どうして特急を辞める羽目になったのかしら?」

「……個人記録に書いてあんだろ」

 ジーズは長い人差し指で下唇を二度、叩いた。

「ええ、読んだわ。『精神的惰弱』ですって」

 『精神的惰弱』――

 何度聞いても、吐き気がするほどむかつくフレーズだ。
 ギアは引きつりそうになる唇を、どうにか笑いに見える程度にねじ曲げて、そっけなく肩をすくめてみせた。

「ま、そう書いてあるなら、そうなんだろうよ。
 ……それより、こっちにも聞きたいことがあんだけどな」

「何かしら?」

「この101が、よそで何て呼ばれてるか知ってっか?」

 ジーズは、にっと笑みを浮かべた。

「ええ、もちろんよ。――『ゴミ箱』ですってね」

 101分署は、その管轄下にある地域――つまりシティの治安において、年間各都市比較で常にワーストワンを争っている。
 逆に、常にトップを争うのが、オフィサーの殉職率だ。

 このような状況が何年も続いた結果、いつしか101分署は、各分署のはみだし者、嫌われ者が転属を繰り返した末に行き着く場所として噂されるようになっていた。
 限りなく事実に近い噂、というやつだ。

 そんな101分署にいつしかつけられたあだ名が『もはや必要のないがらくたを放り込む場所』――すなわち『ゴミ箱』というわけだった。

「ストレートに『墓場』とかよりはいいんじゃないかしら? まだ気がきいてて」

 韜晦した口調のジーズを睨みつけ――ミラーグラスのせいで、どうせ通じないだろうが――ギアは、わざと犬歯を見せつけるように口の端を吊り上げた。

「で? そのゴミ箱の署長さんが、『精神的惰弱』のレッテル付き治安官をわざわざ引き抜いてくださった理由ってのは、何なんだい」

 ある出来事が原因で012の特急を辞めたとたんに、101分署署長、つまりジーズの名前で『引き』があったのだ。

 彼を呼び寄せた男は、真意の見通せない不透明な笑みを浮かべたまま、しばし無言でいたが、やがて、デスクの上に載せてあった細長い紙片を手渡してきた。

「辞令よ。……この101分署では、最近ひとつの課を新設したところでね」

 紙片を手に取ったギアは、そこに印刷された単語を見て取り、わずかに目を見開いた。

「凶悪犯罪……対策課――?」

「そうよ」

 もともと細い目を、さらに細めてうなずくジーズ。

「通常の課では手に負えない犯罪行為を行う個人、あるいは組織を相手取る、アタシ直属の特別な課……。
 その立ち上げにあたって、012の狂犬、バイオレントオフィサーと呼ばれたあなたに、ぜひ参加してもらいたいと思ったわけ」

 言われて、ギアはしばらくの間、何の反応も見せずに突っ立っていたが――
 数秒後。

「おっしゃあっ!!」

 いきなり叫ぶと同時、飛び上がらんばかりに大きくガッツポーズを取った。

 さすがにジーズが目を丸くするのにも構わず、

「任せろ、ハゲ坊主!」

 バン! と両手をデスクに叩きつけ、熱っぽく叫ぶ。

「このギア・ロック! 本日只今よりオーダーオフィス101・凶悪犯罪対策課のオフィサーとして、犯罪者どもをギッタギタのぬったぬたのげっちょんげっちょんに――」

「いやちょっとアンタ……落ち着きなさいよ。
 ってか、誰がハゲ坊主だゴラァッ!?」

「へっへっへっ、殴って捻って吊るして抉ってェ……
 ん? 何か?」

 拳を握り締めたまま、ふと気付いたように顔を上げてくるギアに、

「落ち着け、って言ったんだけど」

 青筋を立てつつもそこはかとなく引きながら、ジーズ。

「たった一人じゃ、治安維持活動もクソもないでしょ?」

「は? ……一人?」

「ええ」

 数度、髪をなでつけるような仕草を見せて――
 まあ髪はないが、ジーズは、とりあえず気を落ち着けたようだった。

「凶悪犯罪対策課の設置にあたっては、ほとんどの人員を他分署から招聘したの。
つまり、あんた以外のメンツがまだ到着してないわけ。今日中には、揃うはずなんだけどね」

「……そんじゃ、オレは今から何をしてりゃいいんだ?」

「とりあえずは、待機室で待機」

「待機かよ……。ま、いいか。今朝早かったから、昼寝でもしてるぜ」

「――ギア・ロック」

 適当な敬礼ひとつ残し、早々と身をひるがえしたギアの背中に、ジーズの声がかかる。

「ここは、様々な意味で変則的よ。
 012にいた頃とはだいぶ勝手が違うでしょうけど、よく噛み分けて、柔軟に行動してほしいわ」

「柔軟に?」

 ギアは肩越しにジーズを振り向き、皮肉っぽい笑みを見せた。

「問題ねえよ。なにしろ俺は、ガッチガチの012から弾かれてここに来たんだ。
 ここは、えらく住み心地が良さそうな気がするぜ……」

 ――五分後にはこのセリフを撤回することになることを、このときの彼は、まだ知るよしもなかった。





     3

「なっ……」
 
 五分後。

 十四階の北の端。

「何だ、こりゃあ……」

 言われた通りの部屋を探し当てたギア・ロックは、その入り口に呆然と突っ立って、内部の惨状を見渡していた。

「新手の新人イビリか……? いや、それにしても壮絶すぎるだろコレは」

 室内は、一言で言って、古代の遺跡のような様相を呈していた。

 中央に固められたデスクの上には一世代前のラップトップが鎮座し、床にはこれでもかとばかりに物品や資料が散乱し、それら全てを覆い隠すように、分厚い埃の層が堆積している。

 角部屋のくせに、窓は部屋の右手にひとつきり。
 外はよく晴れた朝だというのに、ほとんど光が射し込んでこないのは、閉まった窓があまりにも汚れすぎているからだ。

 この部屋は、いったい、いつから使われていないのだろう――?

 いや、この部屋だけではない。
 何かの因縁でもあるというのか、十四階丸ごとが空きフロアなのである。
 心なしか、空気すらもよどんで黴臭かった。

 やはり、嫌がらせなのだろうか。
 ――少なくとも、そうではないと思わせてくれるような要素は、何一つ見当たらなかった。

「あのハゲ坊主……まさか、他の奴らが着くまでに、ここを一人で片付とけってんじゃねえだろうな……?」

 不穏な口調で呟きながら、とりあえず照明をつけ――奇跡的にも、天井のグローパネルはまだ生きていた――空調のスイッチを入れる。
 その途端、天井から、何かの発作のような物音がきこえてきた。
 ぎょっとして見上げた瞬間――
 真上の換気口から、ぶわっと黒いモノが噴出する。

「ぐおおぉっ!?」

 大量の塵に顔面を襲われ、ギアは慌てて跳び退った。――しかし最初の一瞬、驚きのあまり硬直して見上げてしまったせいで、少し吸ってしまった。

「阿呆! こんな職場で働けっか! 三日で肺病になるわ、ボケ!」

 怒り狂って、デスクの脚を蹴りつける。
 その凶行に抗議するように、古ぼけたデスクはがたんと傾き、積んであった資料の山を崩して埃ごと床に散乱させた。
 空調は、なおも喘ぐような音を発しつつ、怪しい塵を吐き出し続けている。

「………………」

 ミラーグラスの下でこめかみをひくつかせながら、ギアはしばし、黙然とその場に突っ立っていたが、

「落ち着け落ち着け落ち着け……
 よし。そうだ。今、暴れてこのへん一帯を壊滅させるわけにはいかねえ。冷静に、なすべきことを考えろ。
 そう、まずは」

 胸元のペンダントを握りしめてぶつぶつと呟いていたかと思うと、突如、右手でびしっ! と空調を指差す。

「換気だ! 管理部に殴り込んで、即座に空調を直させてやる! 
 そのついでにダストブリンガーを持って来させて、部屋ん中のゴミを全部葬り去って、それからデスクやらラックもいったん放り出して、徹底的に拭き掃除を……
 あ、それよりも、先に天井の埃を掃っといたほうがいいかな……」

 周囲を見回しつつ、指を折りながらそこまで呟き、

「――って、凶悪犯罪対策課に着任早々、部屋の掃除ってのは、どーゆーコトだっ!? ざけんなこの野郎!」

 がん! と再び手加減なしに蹴飛ばされ、罪もないデスクの脚は断末魔の軋みをあげてぼっきりと折れた。

「おっと」

 さすがに折れるとは思っていなかったらしく、一瞬しまったという表情を浮かべてデスクを見下ろすギアである。
 続いて、用心深くきょろきょろと辺りを見回すが、無論、誰も見ていない。

「……まあいいや。元々壊れてたってことで。どうせボロだし」

 大雑把な男だ。

 デスクひとつ破壊して少々冷静さを取り戻したギアは、管理部への殴り込みを一時中止して、手近なところから労働環境の改善にとりかかることにした。
 ジャケットのポケットからストレッチタオルを引っ張り出して鼻と口を覆い、なおも黒い塵を降らせている空調に近付いて、スイッチを切る。
 んごごががッ、と呻いて沈黙した空調をしばし胡乱げに見上げた後、とりあえず、換気のために窓を開けることにした。

 窓は、亡者のむせび泣きのような音を立てながらも、どうにか開いてくれた。
 錆びた窓枠にはまった強化プラステックにはスモーク加工が施されていたが、どこまでがスモークでどこまでが汚れなのか判別しがたいほどに薄汚れている。

 窓の下には低い棚があり、その上に、分厚い埃の層に半分埋もれて、古めかしいホロ再生器が放置されていた。
 投射レンズ部の埃を払い、スイッチを押すと、数人の男たちの顔が浮かび上がった。
 宴会の最中に写されたものだろう、派手な三角帽子をかぶった奴やピエロの鼻をつけた奴、厚塗りにルージュで女装している者までいる。

「………………」

 こいつらが、ここの元の住人だろうか。
 部屋くらい片付けていきやがれと叫んでぶっ飛ばしてやりたいが、仮にも先輩格であるオフィサーたちの集合写真をぶっ飛ばすというのも、少々寝覚めが悪い。
 むかつきながらも、手近のカーテンでごしごしとこすっておいてやる。

「ふっ。俺も人間が丸くなったもんだぜ」

 ひとりで頷きながら、かたりとホロ再生器を棚に戻す。

 瞬間――
 ギアは、ふと表情をこわばらせた。

 それは微かな火花の閃きのような、言葉では説明しがたい予感のようなものだったが、ギアは、自分の感覚を信じた。
 声を立てる暇すらなく、思い切り、横手に身を投げ出す!

 それと同時に銀色のきらめきが、視界の端を切り裂いた。

 背後から近付いていた何者かが、攻撃を空振りして、やはり声をあげずにたたらを踏む――

(ここまで接近していただとっ!? ――冗談じゃねえ!)

 相手の忍びの技への驚嘆と、それを察知できなかった自分への怒り――
 二つの感情が一瞬で混ざり合い、獰猛な戦闘衝動となって爆発した。

 半ば床に倒れ込むような姿勢になりながら、ギアは身体を捻って振り向き、一挙動で抜き放った銃を相手に突きつける。

 同時、顎の下に硬い感触があたった。
 ナイフの刃だ。

 それも、完璧に手入れされた一級品。
 冷たく滑らかに肌に馴染み、たとえその刃が肉にもぐり込んでも、しばらくは気付かないのではないかと感じさせるくらい――

「てめえ……」

 無意識に顎を逸らしつつ、ギアは、低い声で問いかけた。
 圧迫された首筋に、自分自身の鼓動をはっきりと感じる。

「何モンだ?」

 そいつは、男だった。

 若い。ギアと同じか、せいぜい二、三歳上といったところだろう。
 まっすぐな黒髪を長く伸ばし、後ろでひとつに束ねている。  
 そいつの、前髪が垂れかかった色白の顔を見た瞬間、背筋にいいようのない寒気が走った。
 
 抜群の男前だ。

 だが、表情がない。まるで抜け落ちたように。
 動きのない黒い瞳が、ミラーグラス越しにこちらの目を見据えている。
 きっと、この目は、悲鳴を聞いても、血飛沫を浴びても、揺らぐことはないのだろう――

「……あれ?」

 突然、そんな声が聞こえた。

 それが、目の前の男が発した声だと理解するのに、三秒かかった。

 同時、男の顔に表情の色がつく。
 そいつは訝しげに眉を寄せ、きょろきょろと目を動かして、ギアの顔と、自分自身の脇腹に押しつけられている銃を見比べた。
 ガヴインパルス社の《マチルダ》。
 オーダーオフィサーの標準装備だ。

「あのー……」

 こちらが黙って見ていると、やがて、男は、少しばかり困ったような調子で話しかけてきた。

「ひょっとして……
 君、オフィサーなの?」

「――当ったり前だろーがッ、このボケェェェェェッ!」

 瞬時に裏拳でナイフを跳ね飛ばしたギアのパンチが、男の顔面に炸裂した。

「ぬわぁにをスットコな寝言ぬかしてやがんだこのクソタワケがっ!? ここにいんだからオフィサーに決まってんだろーが! いきなりナイフなんか向けやがって驚いたぞこの野郎!? てめーみてーなモヤシ男が俺様を倒そうなんざ、百億年早えんだコラァァァッ!」

 なす術もなく床にぶっ倒れた相手に対して、げしごすどかばき! と容赦のない連撃を加える。
 無抵抗の相手をマチルダのグリップで殴りつけるという凶悪な攻撃ぶりは、さすがバイオレントオフィサーと言うべきか。

「あああああ! 痛い痛い痛い! ちょっと待ってよぉぉぉ!?」

 驚いたことに、男は床をごろんごろんと転がりながら、こちらの攻撃を八割方かわしてのけた。
 しかし、命中した二割は充分堪えたらしく、外見からは想像のつかない、すっとんきょうな声で抗議をしてくる。

「ひどいじゃないか! 同僚に対して、暴力を振るうなんてっ!」

「何?」

 その瞬間、ぴた、とギアは動きを止めた。
 呟くように、繰り返す。

「同……僚?」

「そうだよ」

 ギアが攻撃を止めた隙に、男は素早く立ち上がった。

 まっすぐに立つと、ギアよりも頭一つ分は背が高い。
 彼は、すらりとした長身のあちこちをぱたぱたと叩いて、服に付いた埃を掃い落とした。まあ大して効果はなかったが。

 ポケットから身分証を取り出して掲げ、にっこりと完璧な笑みを向けてくる。

「はじめまして。僕は、カース。――カース・ブレイド。
 今日付けで、ここの凶悪犯罪対策課に配属になったんだ。よろしくね!」

「………………」

 ギアはミラーグラスの下で目を細め、じっと相手を見据えた。

 オフィサーになって、二年と少し経つ。
 これまでに幾つもの修羅場をくぐり、生命の危険を肌で感じたことも一度や二度ではなかったが、ついさっき、目の前の男にナイフを突きつけられた時には、危険を危険と認識する暇さえなかった。
 仮にこいつが殺し屋だったとしたら、自分は今頃、確実に死んでいただろう。あのナイフに、頚動脈を絶ち切られて。

 ――いや。
 死んでいたのは、自分だけではないはずだ。
 あのタイミングなら、首を掻き切られながらも、トリガーを引くだけの時間はあった。  
 相討ちだ。
 
 そう考えて、ギアはようやく、受けた衝撃を少しだけ和らげることができた。

「……まあ、そこ座れ」

 最初の驚きから脱け出した今、彼は落ち着いて、なすべきことに取りかかるつもりだった。
 この優男が、敵ではないことはわかった。

  では、何のつもりで自分を襲ったのか問い質さなくてはならない。
 
 背中にびっしりと噴き出した冷たい汗は、ようやく乾き始めていた。





      4
 
「ねえねえねえ、ところで君の名前は?」「出身はどのへん?」「いつからこの部屋にいたんだい?」「それにしても、きったない部屋だよねえ! 僕たちをこんなとこに押し込めようなんて、上は、いったい何を考えてるんだか――」

「………………」

 うるさい。
 あれから五分後、ギアはうんざりしながら男に背を向け、窓からむしり取ったカーテンで、埃まみれの棚を拭いていた。

 不意の襲撃の件については、最初の一分でカタがついた。
 ギアを襲った男――カース・ブレイドは、すすめられた埃だらけの椅子に腰を下ろそうともせず、事情をまくし立てたのだった。
 聞いてみれば、何のことはない。
 彼は、新たな職場をのぞきこんだ瞬間、ミラーシェードに覆面姿で荒れ果てた部屋を物色している(ように見えた)人物を発見し、

「泥棒かと思って……」

 取り押さえようとしたのだという。

 言われて、ギアは自分の姿を見下ろし、不覚にも一瞬納得してしまった。
 だが、そうと認めるのが何となく面白くなく、とりあえずカースを無視して掃除を続けようとしたのだが――
 この男、全身で不機嫌さを表明しているギアにも怯むことなく、一人でやかましいことこの上ない。

「ねえ名前! 君の名前を教えてよ〜。…………名前ぇぇぇェ」

(ガキか、こいつは……)

 根負けしたギアは、とうとう溜め息をついて振り向いた。

「ギア・ロックだ」

 思い切りイヤそうな顔でそう名乗っておいて、最後にびしと指を突きつけ、念を押す。
「ロック捜査官と呼べ」

「ギア・ロックだって……?」

 しかし、相手は呼び名などよりも、全く別のことが気になったようだった。
 しばらく目を見開いたまま固まっていたかと思うと、やがて、信じられないといった表情でこちらを指差し、言ってくる。

「それじゃ……まさか、君が!?
 君があの、因縁をつけてきたチンピラ八人を全員総入れ歯にしたとか、ストリートギャングの青竜刀を素手で叩き折ったとか、立てこもり誘拐犯を説得するフリをしてタックルで五階から突き落としたとかの覇業で『012分署の狂犬』と恐れられ、その存在は既に『バイオレントオフィサー』の名で都市伝説と化しているという――
 あの男なのかい!?」

「……なぁんか、微妙に納得がいかねぇが……
 まあ、おおむねその通りだ」

「そ、そうだったのか……」

 何やら色々と感じるところがあったらしく、カースはしばし、真面目な顔つきでギアを眺めてきた。
 しかし、次の瞬間にはころりと笑顔になって、

「これからよろしくね。ギ・ア♥」

「おお」

 こちらも笑顔で軽く頷き――
 ギアは、がたん、と椅子を持ち上げた。

「そーかそーか……転属早々、そんなに殉職したいとは職務熱心なこったぜ……」

「な!?」

 先程のことを思い出したか、さっとデスクの陰に隠れるカース。

「うう。噂に違わず、ほんとに凶暴なんだなぁ……」

「世の中にはな、言っちゃならねえ一言ってもんがあるんだ。長生きしたきゃ、知っとけ」

 適当に椅子を放り出し、言い捨てて、黙々とデスクの上を片付ける。
 カースはそろそろとデスクの陰から出てくると、しばし、間を持て余すようにギアの背後をうろうろしていたが、

「あ……」

 不意にぱっと顔を輝かせ、ギアの視界に入るように回り込むと、にっこり笑って自分を指差した。

「そうそう。僕のことは、カースって呼んでくれていいよ♥」

「ああそうかい、ブレイド捜査官」

「…………」

 冷淡極まりない反応に、さすがのカースも少々鼻白んだ様子だったが、すぐに立ち直って笑顔を取り戻す。

 表面的には無視を決め込みながら、よく笑う奴だな……と、ギアはぼんやり考えた。
 これほど整った顔立ちの男に、邪気のない笑顔を向けられれば、どんな女性でもくらっとくるに違いない。男でも、つい警戒を緩めてしまうところだろう。

 だが、ギアはついさっき、こいつの笑顔の裏にどんな側面があるかを目撃したところだ。

 同じ人間の顔とは思えない、ぞっとするような無表情。――あれが、こいつのもう一つの顔なのだ。
 
 同じオフィサーであるとわかった以上、警戒する必要はどこにもないはずだが、首筋に当てられたナイフの感触とあいまって、あの顔は、ギアの心に強烈な印象として刻み付けられていた。

「ねえ。それ、いい加減に外したら?」

 突然、カースがそんなことを言って、顔に手を伸ばしてきた。

 ギアは、目を見開いた。

「触るんじゃねぇ!」

 今までにない激しさで怒鳴り、カースの手を払い除ける。
 左手は、反射的にミラーグラスをかばっていた。

 カースは、驚いたように後退った。
 腹を立てても不思議ではないところだったが、こちらの剣幕に気圧されたらしく、反射のように謝罪してくる。

「あ、ごめん」

「…………いや」

 ギアは、苦い顔で片手を振った。

「こっちこそ、悪かった。ちょっとばかり……驚いちまってな」

 こちらの語調の不自然さから、何やら事情がありそうだと察したのだろう。
 カースは、取り繕うような笑みを浮かべて、

「その……ミラーグラスを取ろうとしたわけじゃないんだよ。
 ただ、覆面くらいは外してもらえないかと思ってさ」

「――おお」

 言われてみれば今の今まで、タオルのマスクをつけっぱなしにしていた。
 あまり意識していなかったのだが、新しい同僚を覆面姿で迎えるというのは、確かにかなりのマナー破りだ。
 ギアは、鼻と口とを覆っていたタオルを無造作に剥ぎ取った。

 その途端――
 カースの目が、真円に近いほど見開かれた。

「……何だよ?」

 呼びかけても、カースは応えなかった。ぽかんとこちらを眺めている。

 さすがに不審に思い、ギアは眉をひそめた。
 じろじろと眺められるのには慣れている。季節も天候も時間帯も関係なくミラーグラスをかけてうろついている以上、多少の注目を集めてしまうのは仕方のないことだ。
 だが、今のカースの目つきは、そういう時の人々の目つきとは違っていた。

そう、それは、まるで――

「君……けっこう、可愛い顔をしてるね」

「は?」

 ギアは一瞬、カースが何と言ったのか聞き取れなかった。
 脳が、理解することを拒否したのかもしれない。

 こちらが口を半開きにして硬直している間に、カースはすっと近寄ってきて、なんと肩に腕を回してきた。
 ついでに手も握る。

「運命の女神も、粋な計らいをしてくれるものだね。転属してきた先で、君みたいに魅力的な相手に出会えるなんて……」

 全身の毛を逆立たせ、石像のように無言になっているギアには構わず、カースは甘い声音で囁いた。
「それにしても、君は素晴らしい反射神経をしているね! 数々の武勇伝の主だけのことはある。僕はこう見えても近接戦闘には自信があるんだけど、君は僕に触れさせもしなかった……。
 君みたいな人は初めてだ。
 もっとよく君のことを知りたい。
 どうだい、今夜、僕と二人で」

 甘い夢を――

「死ねえええええぇっ!」

 ドグァッ!

 ギアは掴まれていない方の手でマチルダを引き抜き、発砲した。
 装填していた弾丸はブルーライン・ジャケット。徹甲炸裂弾よりも炸薬の量を抑え、破壊力をいくらか軽減させてある。
 だが、壁のパネルに大穴を開ける程度の威力は充分にあった。
 無論、神業のような素早さでカースが身をかわしていなければ、穴が開くのは彼の頭になっていたはずだ。

「ちょ……ちょっと、待ってよ!? いくら何でも、撃つなんてっ!?」

「ちっ」

 ギアは、静かに――心から無念そうに呟いた。

「外したか。俺の腕も落ちたもんだぜ」

「い、いやあの……」

「黙れ。そして聞け。
 いいか……俺は、法律に反しねえ限り、他人の思想信条性癖等に関して、とやかく口出しはしねえ主義だ。
 だが……だ・が! そのテのコトは、今後一切、俺とは関係ねえところでやってもらおうか!
 今度、俺に対して妙なマネしやがったら、身の安全は一切保障しねえぜ……」

「そ、そこまで……」

 青黒いオーラを発するギアからじりじりと後退ってデスクの陰に隠れたところで、不意に何かを思いついたように、カースはぽんと手を打った。

「そうだ! じゃあ、まずは君のメールアドレスを教えてよ。メールの交換から、徐々に距離を縮めるってことで……
 だあぁぁぁぁっ!?」

 ドカドカドカドカドカドカ!

 ブルーライン・ジャケットの凶悪な牙がデスクに載っていたもの全てを食い破り、吹き飛ばし、撒き散らしてその向こうにいる者を襲う。

 ドカドカドカドカドカッ! ドカッ!
 ――カチッカチッ

「た、弾切れ!? そっ、それはちょうど良かった! ちょっと落ち着いて僕の話を――
 を、ををををーッ!?」

 椅子が飛んできた。

 がん! ごすどかばきげしぐりっ! ごりごりっ! ぼぐっ!

「ひぁあぁぁ〜っ……!」





      5



『畜生! こりゃひでえ――!』
『動かすんじゃないぞ、今、記録を』
『いや、待て……』

 耳の中に、いくつもの声が無数の泡のように弾けては消える。

 彼は、それが実際の記憶ではないことを知っていた。

 あのとき、自分は、今と同じように横たわっていた。
 そして、まるで誰かがスイッチを切りでもしたかのように、身体のどこも動かすことができず、五感のうち、かろうじて働いていたのはただ視覚だけだった――
 鼓膜はひどく損傷し、焼け爛れた皮膚には感覚がなかった。
 自分がそんな状態にあるということさえ、その時には、判らなかったのだ。

 黒焦げになった天井を背景に、黄色い服を着た数人の救急隊員がこちらに屈み込み、口々に何かを言っている。
 あのときには聞こえなかった声が、記憶の中で捏造され、彼らの口の動きにぴったりとあてられる。

『生きてる!』
『奇跡だ! この子は、まだ生きてるぞ!』

(……生きてる?)

 そう意識した途端、彼は不意に、あることに気付く。
 とっくに知っているはずなのに、彼は、その瞬間を何度も繰り返し体験する。内臓をわしづかみにされるような恐怖が襲いかかる。そうしたくないと思いながら、彼は静かに眼球を動かして、そのことを確かめる。

 ぼろぼろになった自分の身体の上に、何かがおおいかぶさるように乗っていて、それが、自分を致命傷から守ってくれたのだということを……

『守ったんだ』

 ひどく感激したような救急隊員の声が、幾千もの合唱となってこだまする。

『守ったんだ』『彼女は、この子を守った』『自分を犠牲にして』『犠牲にして』『犠牲にして』――

(ア……)

 片方だけになった眼球から、涙がこぼれた。
 そこにはないはずの両腕をあげて、彼は力一杯耳を塞いだ。それでも、まるで頭蓋の内側で反響しているように、救急隊員たちの言葉は消えなかった。

『急いで、搬送を――』
「えーっと……。この人、亡くなってるんですかね?」
「縁起でもないことを……。呼吸している。眠っているだけだろう」

(――何?)

 彼は不意に、違和感にとらわれた。

 何千回も繰り返し、繰り返し再生されてきたはずの会話が、いつもと違う展開を見せているのだ。

「おそらく……同僚だろうな。我々の」

「どうして、こんなとこで寝てるんでしょうね?」

 割り込んできた二つの声――生真面目な声と優しげな声――が、意識の中で、徐々にはっきりとした現実の音声に変わってゆく。

 無数の幻の声は、遠い波の音のようにかすかになって……



 ギアは、両目を開いた。

 最初に視界に入ったのは、ミラーグラスの内側に表示された、AM 09:12という時刻。
 それから、困り果てたような表情でこちらをのぞき込んでいる、金髪の男の上半身。

「……よう」

 まったく見覚えのないその顔に向かい、ギアは、目覚めたことを示すために小さく片手を挙げてみせた。
 驚いたように身を引いた男に笑いかけ、ゆっくりと起き上がる。

 彼は今まで、ソファに横になって眠っていたのだった。

 このソファは、埃まみれの物置と化していたのを、一時間ばかり前に発掘したものだ。
 片方の肘掛けが半分もげ、スプリングは全部いかれているという代物だったが、激しい労働が一段落した三十分前、まともに休めるようなものがこれしか見つからなかったのである。
 
 ――おかげで、悪夢など見る羽目になったのかもしれないが。

「ようやくのお出ましかよ……。なかなか現れねえから、これ以上、誰も来ねーんじゃねーかと心配したぜ。
 このボロ部屋に来たってことは、凶悪犯罪対策課のお仲間だろ? 俺はギア・ロックだ。よろしくな」

「ああ……」

 焦げ跡と穴だらけの壁を眺め回していた金髪の男は、我に返ったように、慌てて手を握り返してきた。

 ギアよりも、数歳年長とおぼしき男である。
 オフィサー募集広報のモデルに選ばれそうな、理想的な体格をしていた。顔立ちについても同様に、かっちりと男らしく整っている。
  だが、容貌とは裏腹に、動作や言葉の端々には、やや神経質さを感じさせるところがあった。その特徴は、表情にもはっきりと表れている。
 短髪をきっちりと撫でつけ、一分の隙もなくスーツを着込んだ姿は、凶悪犯罪課などよりも、経理課あたりに似つかわしく思われた。

「よろしく。私は……ジェイド。ジェイド・フォスター」

「ジェイド……?」

 その響きが微弱に記憶を刺激するのを感じ、ギアは口の中で相手の名乗りを反芻した。

「えーと。俺は、ゼファ・クラフトといいます」

 ギアが記憶の底から何かを引っ張り出すよりも先に、ジェイドの傍らに立っていた優しげな声の持ち主が、天真爛漫に自己紹介をした。

 ジェイドと同年代と見えるが、こちらは、壁が歩いているのかと思うほどの大男だ。
 しかし、体格の割に、さほどの威圧感は感じさせない。それはおそらく、人懐っこい笑顔と、柔らかそうな銀髪のためだろう。

「今日付けで、凶悪犯罪対策課に配属になりました。なんか、すごい部屋ですけど、これから一緒に頑張りましょう。えーと、ちなみに趣味は――」

「ところで」

 にこにこと言うゼファをさえぎって、ジェイドが口を出してきた。
 眉間に皺が寄っている。

「さっきから、気になっていたのだが……
 表のアレは、君が?」

「おう」
 
 部屋の外を控え目に指差してくるのに、ギアは、あっさりと頷いてみせた。
 
 そこは今や、二時間前まではこの部屋の中に収まっていた様々なガラクタの墓場と化していた。

 古い書類の束に、巨大な埃のかたまり。変形したハンガー掛けに古びた棚、脚の折れたデスク、骨董級のラップトップ等々が、何だかよく判らない様々な物品とごたまぜになって積み上げられている。

「とんでもねーだろ? だが、俺が初めてここに来た時は、もっととんでもなかったんだぜ。何しろ、アレが全部この部屋に収まってたんだからな……。
 とりあえず片っ端から放り出したところで、さすがに力尽きた」
 
 結局、生き残ったのはデスクが五つと、例のおんぼろソファだけだ。

「そうか……。それは、大変だったな。
 で……その……」

 妙に歯切れの悪い口調で、ジェイド。

「あそこに転がっている……黒焦げの棒のような物体は、いったい……?」


「ううう……」

 廊下にうずたかく堆積したガラクタの一番上で、ぼろぼろになったカースが呻き声をあげていた。

「ああ、アレか? 気にすんな。ただのバカだ」

「いやあの……」

 さすがに困ったように、ジェイドが食い下がろうとする。
が。

「――あ痛ぁっ!」

 がつん! という音とともにいきなり廊下から響いた悲鳴が、男たちの注意を、否応なしに入り口に引きつけた。

「っつぅーっ……!
 畜生! どこのバカよ、こんな粗大ゴミを廊下に出しっぱなしにした奴はっ!? 邪魔だったらありゃしない!」
 
 腹立たしげな怒鳴り声は、間違いなく女性のものだった。

 続いて、がっしゃんがっしゃんと騒がしい物音が近付いてくる。どうやら、ガラクタを蹴り飛ばしながらこちらに進んできているらしい。  
 そして――

 彼女が入り口に姿を現した瞬間、ギアもジェイドもゼファも、完璧に言葉を失った。

  『出会い頭のパンチ並み』

 そう形容したくなるほど、強烈な女性だった。
 
 背の半ばまで豊かな鳶色の巻き毛を垂らし、派手な色合いのペイズリー柄のスカーフで頭を包んでいる。
 たっぷりと襞をとり、無数の金色のビーズを縫い付けた――信じ難いことに――真っ赤なドレス。
 色合わせのつもりなのか何なのか、金糸を荒編みしたショールを肩に巻きつけている。  
 美女だ。とびきりの、と付けてもいい。ただし、化粧は濃すぎた。総体として見れば、そんなことはほとんど問題ですらないが。

「……あら」
 
 並んでぽかんと口を開けた男三人を見渡して、彼女は言った。
 明るいハシバミ色の虹彩を瞼と長い睫毛で覆い隠すようにして――感銘が一割、面倒くささが九割といった調子で。

「ふうん……そう。それじゃ、あんたらが今度の同僚ってわけね。あたしは、ロッサーナ・ウェルズ。まあ、ロスって呼んでちょうだい」

「ギア・ロックだ」
 
 握手を求めようともせず、ゆっくりと腕を組んで言った彼女に、こちらもだらしなくソファに座ったままで、ギアは応じた。

「ちなみに、表に粗大ゴミを放り出したバカは俺だよ。よろしくな」

「ふうん」

 ダークレッドのルージュをのせた唇を軽く尖らせ、大して興味もなさそうに呟いたロッサーナは、すっと視線を移した。

「で、そっちの坊やは?」

「わ……私はジェイド・フォスター」

 どうやら最初の衝撃が抜け切っていないらしく、『坊や』呼ばわりされても不快そうな素振りすら見せずに、ジェイド。

「えーと、俺は、ゼファ・クラフトです」

「ふうん。で、今のとこ、これで全部なわけ?」

 ロッサーナの問いに、ギアは無言で、ゴミの山の頂上を指差した。
 つられるようにそちらを振り向いたロッサーナは、そのまま、たっぷり十秒ほど固まった。

「…………あの……棒は?」

 十秒後に口にされたそのセリフには、感銘が二割程度は含まれているように聞こえた。

「気にすんな。ただのバカだ」

「ううううううう」

 やはり動かないまま、弱々しく呻いてくるカース。
 これに対してもロッサーナが「ふうん」を言うかどうか、ギアは少々興味があったのだが、それは結局、判らずじまいになった。

「……あー……」

 いきなり一同の背後から、ぼへー、とした、まるで空中分解でも起こしそうな声が聞こえてきたからだ。
 申し合わせたかのように同時に振り向いた一同の目に映ったのは、部屋の入り口に立った、ひとりの若者の姿だった。

 その若者を一目見た瞬間――
 全員が、思わず黙りこくった。

(…………棒人間、か?)

 背丈は普通なのだが、病的なまでに痩せているせいで、実際以上に身長が高く見えた。
 なぜか、白衣を着ている。
 目にかぶさるほど伸び放題になった茶髪には、少なくとも三日は櫛を通した形跡がない。
 背を軽くかがめたような姿勢で、じーっとこちらを見ているのだが、どう考えても、こちらの誰とも視線が合っていなかった。

「………………」

 とりあえず、沈黙したままで、全員が順送りに視線を交わしあい――

「……おい。兄ちゃん」

 数秒後、全員に押し付けられたかたちで仕方なく口を開いたのは、ギアだった。
 眉をしかめて指を立て、

「わりーが、ここは部外者は立ち入り禁止だぜ。この部屋は今日から――」

「……凶悪犯罪、対策課……」

「……あ?」

 呟くように言うと、若者は、ひたり、とギアに視線を据えてきた。
 ――大の男に上目遣いでじーっと凝視されるというのがこれほど不気味なものだと、ギアは、無駄に思い知らされることとなった。

「ボク……イグナシオ・ファウ……今日から……仲間……よろしく……」

 ギアをはじめ、全員が言葉を失っているうちに、彼はつつつ、と室内に踏み込んでくると、ためらいもなく部屋の一番奥まで進んでいき、

「……はぁ……」

 部屋のもっとも奥まった角に三角座りをして、満足げに溜め息をついた。

「――ねえ。何、あれ」

「さあ……」
 
 誰にともなく、ずばりと問いかけたロッサーナに、にこやかに首をかしげるゼファ。

「でも、仲間……って、おっしゃってましたから。多分、この凶悪犯罪対策課に招聘されたメンバーの一人なんじゃないですか?」

(マジかよっ!?)

 イグナシオ、とかいっただろうか?
 彼が、オフィサーとしてものの役に立つとは、到底思えなかった。
 というか、あの体格で、いったいどうやって訓練校時代を生き延びたのか、真剣に疑問だ。
 それ以前に、人間としてまともに付き合えるかどうかも怪しい。――見た感じ、ほとんど妖怪である。

「ところで、課長はまだかしら?」
 
 ロッサーナが長い髪をかきあげ、極めてドライに話題を変えた。

「……そういや、そうだな」

 言われて初めて、気がついた。
 ロッサーナが、今頃何言ってんの、というように目を細めるのが見えたが、敢えて見なかったふりをする。

「えーと、あれじゃないですか? ほら、一番偉い人は、最後に登場するという……」

「……けど、これってもはや遅刻じゃねーか?」

 あくまでも機嫌よさそうに言ってくるゼファに、そう言い返したところで。

「あの……すまないが」
 
 それまで黙っていたジェイドが、唐突に、そして申し訳なさそうに挙手をした。

 「課長は、私だ」
 
 この言葉に――
 ロッサーナは、面倒くさそうな半眼を変えなかった。
 ゼファは相変わらず微笑んでおり、イグナシオは不動――カースに至っては、いまだに伸びている。

「――はぁ!?」
 
 結局、あからさまに驚いたのはギアだけだ。

「お前……いや、あんた……課長って、そんな話、一言も」

「いつ言おうか迷っているうちに、タイミングを逃した……」
 
 ――煮え切らない男である。

「なんだ、そうだったんですか? 水臭いなあ。もっと早く教えてくださいよー」

「で。結局、これで全員なわけ?」
 
 煮え切らない課長に代わって、いきなり、ロッサーナが場を仕切りはじめる。

「あ、ああ……」

「ふうん。六人? ……ってゆうか、え? 入り口で焦げてるアレって、数に入るわよね? それとも死んでるの?」

「生きてるらしいですよ。とすると、デスクがひとつ足りなくて……えーと、物品の申請って、総務課でいいんでしたっけ?」

「これは、物を入れるよりも拭き掃除が先だろう。どこかに、モップか何かないか?」

「……モップ……あった……こっち……」

「……あら。この棒人間、意外と使えるのね」
 
 何やら全員、さらりと状況に順応して、それぞれ作業にかかり始める。

(おい、おい、おいおいおい……)
 
 そんな中、ギアは一人、冷や汗を垂らして立ち尽くしていた。

(冗談じゃねえぞ。
 変態男に、押しの弱い課長。すっとぼけた大男にド派手な女、妖怪棒人間……
 って――阿呆かっ!? 何が、凶悪犯罪対策課だっ!? 
 このメンツ自体、既に犯罪じゃねーかコラァァァッ!?)

「ううううううゥ……」

 ――これが。  
 近い将来、オータム・シティ中のあらゆる犯罪者たちを震え上がらせ、『オーダーオフィス史上最強』と呼ばれることになる人々の――

 非常にろくでもない、出会いの日の光景であった。




   第2章   バディ



 
「坊ちゃん。本当に、やるんですかい?」

 部下の問いかけに、クアンは、馬鹿にするように笑った。  

 ここはデルトロ・ファミリーが本拠を置く巨大ビルディング――ではなく、彼が経営を任されているカジノのひとつだった。

 彼は若いが、秘密の謀議に私室を使うほど愚かではなかった。
 あそこには、ドン・デルトロ――アルフォンソの目と耳が届かないところなどないのだ。

 ここならば、もちろん、話は違う。

 このオータム・シティに何百となく存在する他の店と同じように、表向きは合法のカジノ――
 だが、一歩、裏側に踏み込めば、ありとあらゆる非合法の愉しみが手に入る場所だ。
 無論、金が続くかぎりは、だが。
 
 その、もっとも奥まった一室に、彼らはいる。

「怖いのかい、デレク」

 ぎらつくみどりの目が、対面に座った男を見据えた。

 クアン自身はソファに腰を下ろさず、傲然と腕を組んで、相手を見下ろしている。

「僕は、命令してるんじゃない。君たちに、お願いしてるんだ。 ――この僕のお願いでも、駄目かい?」

 苛烈な目の光とは対照的に、その口調は甘く、口元には笑みが浮かんだままだ。

 クアンの対面に腰を下ろしている男は、二人。
 どちらも、端整な仕立てのスーツに身を包んでいる

 しかし、与える印象は正反対だった。

 一人は、いかにも腕に物を言わせてのし上がってきたと思わせるような、筋骨隆々たる大男。
 節くれ立った指にいくつも嵌められたダイヤの指輪が、装飾品というよりも、ブラスナックルの代用品に見える。

 彼は、逆立てた黒髪に太い指を突っ込んで頭をかくと、ぼそりと答えた。

「ドン・デルトロの決定に、真っ向から逆らうとなりゃあ――正直なところ、二の足を踏まないと言っちゃあ嘘になる」

「はっ!」

 隣に腰かけた男が、あからさまな嘲笑を向けた。

「意外じゃありませんか? 《ディアブロ・ロホス》と呼ばれたデレクが、そんな臆病者だったとは」

 そう言った男は、柔らかそうな金髪を束ねた優男だった。
 大男――デレクとは違い、ほっそりとしたしなやかな指をした、どう見ても荒事向きには見えない男だ。

「私は、やりますよ。坊ちゃんのご決断なら、それだけで、私にとっては命を懸ける価値がある。何なりと仰ってください」

「よく言った、アントン」

 クアンは金髪の男――アントンに微笑んでみせ、

「……おまえはどうするんだ、デレク?」

 組んでいた腕をほどくと、ゆっくりと歩いて部下たちの背後に回りながら、続けた。

「考えろよ。もうすぐ過去の男になる老人と、未来のドン……
 どっちに顔を売っておくのが利巧か、おまえなら、理解できるだろう?」

 かちり、とかすかな音がした。

 何の感触もないはずなのに、デレクの首筋が、わずかにこわばる。

 低出力レーザー照準の赤い点が、デレクの首を這い上がり、後頭部でぴたりと止まった。

「ねえ。答えろよ……」
 
 凄みの効いた問いに――

「この《ディアブロ・ロホス》を、見損なってもらっちゃあ困りますぜ」

 デレクは、振り向いた。

指輪を嵌めた手を伸ばし、至近距離からまともに眉間を向いた銃口を、あっさりと指先で押しのける。

 彼は、にやりとくちびるを曲げた。

「ちょいと、坊ちゃんの決心の程ってやつを確かめさせていただいただけでさあ。
 カジノの用心棒から取り立てていただいて5年――
 俺の命は、坊ちゃんに差し上げたモンだ。好きに使っていただきましょう」
 
 クアンは、牙を剥くようにして笑った。

 銃をおさめ、矢継ぎ早に指示を下す。

「アントン、情報を集めてもらいたい相手がいるんだ。それから、ある場所の『地均し』を頼みたい」

「何なりと」

「デレク、おまえは資材の調達と、使えそうな部下の招集だ」

「お任せを」

 男たちは目の前にグラスを掲げ、きつい酒を一息で飲み下した。

 クアンは、窓のない部屋の壁をじっと見つめた。

「すぐだよ、パパ」

 その目には、暗い情念の炎が燃えているようだった。

「僕が助けてあげる。
 イヌどもとジジイの目の前で、この街を、派手に引っくり返してやるんだ――」

 
        *


 オーダーオフィス101の通信管理センターには、平均して十二秒に一件、市民からの通報が飛び込んでくる。  

 そのうちの3分の1は、対応に急を要するものだ。 
 そんな通報には、通称《制服組》と呼ばれる、警邏部のオフィサーたちが対応する。
 パトロールカーに飛び乗り、彼ら流に言えば『ケツにブースターでもついてるみたいに』現場に急行するのだ。

 無論、殺人的な忙しさに走り回るのは、警邏部のオフィサーたちだけではない。
 所属がどこであろうと、このオータム・シティのオフィサーである限り、その日常は安寧とは無縁だった。

 オフィサーたちの詰所は通称《待機室》と呼ばれているが、実際には、のんびり待機していられるような余裕はほとんどない。
 他の誰かが待機室をのぞいたとしても、ほとんどの場合、無人のデスクと、山積みの事務仕事が主の帰りを待っているだけだ――

「おい、てめえらっ!?」
 
《凶悪犯罪対策課》のプレートだけが真新しい、おんぼろ待機室。
 
 その入り口で、この日2度目の『巡視』から戻ったギア・ロック捜査官がとうとう怒鳴り声をあげたのは、課の設立から丸2日と、10時間目のことだった。

「この2日間、ずっと言おう言おうと思ってたんだが……今、言うぞ!
 てめえら、一体……何をやってやがんだ!?」

 ジェイド、ロッサーナ、ゼファ、イグナシオ。
 ギア自身とカースを除く、凶悪犯罪対策課のメンバー全員が、デスクについている。

 午前10時という時間帯を考えに入れても、課の全員が待機室に揃っているなどという事態は、他の課ならばほとんど有り得ないことだった。
 彼らに、揃ってぽかんとした目を向けられ、ギアの苛立ちはますます募ったが、とりあえずは何も言い返さずに、一人一人を睨み渡す。
 
 ――10秒ほども、そうして睨み合っていただろうか。

「見て、わからない?」

「わかるに決まってんだろ、ンなもん!? わかった上で、敢えて聞いてんだ! てめえは、一体、何をやってんだ!?」
 
 椅子を回してこちらを向き、あからさまに面倒くさそうな調子で答えてきたロッサーナに対し、ずかずかと歩み寄って、全力で指を突きつける。
 
 女優か何かのように毎日変わるロッサーナの衣装は、今日は反射の具合で色合いが変わる光素材を使ったタンクトップと、ローウエストの黒いパンツ、編み上げのブーツというものだった。

 引き締まった腹と、肩から先を惜しげもなく剥き出しにした彼女は、自分の鼻先に突き出された指先をうっとうしそうに見やり、二度、ゆっくりと瞬きをしてから、あっさりと告げた。

「ネイルケア」

 かたちのいい右手を持ち上げ、甲のほうから見せつけてくる。
 タンクトップに合わせて玉虫色に色を変えるネイルエナメルが、中指の分だけきれいに拭き取られて、爪本来の色を見せていた。

「昨日ネイルサロンに行ったとこなのに、さっき見たら、中指の先のとこが剥げてんの。まったく、有り得ないわ」

「有り得ねえのは、てめえの頭だろーが!」

 ギアは、どんとロッサーナのデスクを叩いた。
 ずらりと並んだネイルカラーの小瓶が、衝撃で何本か倒れる。
 さすがに眉を寄せ、苦情を述べようと口を開きかけたロッサーナを、彼の更なる怒鳴り声が遮った。

「一体何なんだ、この状況はっ!? ここへ来てから、丸々3日間――」

 だん! と天板がへこみそうな強さで、再びデスクを叩く。

 「俺たちは、全然、丸っきり、何ひとつ、これっぽっちも仕事をしてねえんだぞっ!?
 その上、何だ! 疑問もなしに、これ幸いとダラダラしやがって……
 仮にもオフィサーが、こんなことでいいとでも思ってんのか!?」  

 署長直属の凶悪犯罪課の設立から、2日と10時間。

 通常ならば通信管理センターからの出動要請と事件の情報を絶え間なく表示し続けるはずのラップトップは、石のように沈黙を守ったままだった。
 
 他の課はどこもフル回転をオーバーしている状態だというのに、自分たちにだけ、全く仕事が回ってこない――

 どう考えても不自然、かつ不経済な状況の中で、ギアの疑問と苛立ちは、とっくに臨界点を超えていた。

「この街で、オフィサーなのに仕事がねえって、有り得ねーだろ! 一体どうなってんだっ!?」
 
 怒り狂うギアを、ロッサーナはしばし冷ややかな半眼で見つめていたが、

「――なあんだ。そんなこと」

 吐き捨てて、馬鹿ばかしい、と言わんばかりの態度で椅子を元に戻した。

「そんなこと、だと……?」

「ふん、何よ」

 犯罪者たちが一瞬で血の気を失う、ギアの底冷えした口調にも、ロッサーナの態度は毛ほども変わらない。

「そうやってイライラしてみたところで、どうせ、あたしたちに仕事なんて来やしないわ。
 それなら、せいぜい有意義に暇を潰したほうがいいでしょう?」

「……何だって?」

 さばさばと口にされた言葉に、ギアは、思わず訊き返した。

 一体なんなのだ、この悟り切った態度は。

『どうせ、あたしたちに仕事なんか来やしない』

 とは――
 一体、どういうことだ?  

 倒れたネイルカラーの小瓶を優雅につまみあげては並べ直していたロッサーナは、その作業を完了すると、戸惑ったように言葉を途切れさせたギアに、じろりとはしばみ色の目を向けた。

「解説されなきゃわからない? 意外とおめでたい頭をしてるのね。この状況がどういうことか、なんて、判り切ったことじゃない。
 ――要するに上は、あたしらを一箇所に集めて、せいぜい邪魔にならないように閉じ込めとくつもりなのよ。
 ま、そのうち、お望み通りに派手な仕事が回ってくるかもね。
 そう、全員でかかって一発であの世行きになっちゃうような、とんでもないヤマがね……」

「何だと?」

「陰謀は常に優雅であるべきよ。これは見え見えすぎるわね。あたしが気に入らないことがあるとすれば、その点だわ」

 ロッサーナの発言に、ギアは混乱していた。

 今、この部屋にいる全員が二人の会話を聞いている。
 それなのに、誰一人として、懐疑や否定の声を上げるものはない。
 
 ならば――

「ふん、やっと理解できた? あたしにとっては、気付くのに三日もかかったってことのほうが驚きだわ。
 このメンツを見た時点で見え見えじゃない。
 だって、見事なまでに全員が札付きなんだもの」

「全員が……札付き、だと? じゃ、まさか」
 
 思わずそのまま繰り返し、ギアは、あんぐりと口を開けた。

「お前らも、全員……そう、なのか?」

 パールルージュの唇がにんまりと歪み、次の瞬間、ロッサーナは愉快そうに笑い出した。

 彼女が声をたてて笑うのを見るのは初めてだったが、そうしていると年上の女の迫力がなりをひそめ、少女のような印象になった。

「あらあら、これも今、やっと判ったのね?
 その通りよ、012の《バイオレントオフィサー》、ギア・ロック捜査官。二つ名に似合わないその罪状は『精神的惰弱』……。
 残念ながらこっちのはつまらないけど、教えてあげるわ。
 あたし、前の分署では同僚と反りが合わなくてね。行きがかり上、その一人と殴り合いの喧嘩になっちゃって」
 
機嫌の良い豹のように目を細めて、続けた。

「相手を、階段のてっぺんから突き落としてやったの。あんなバカ女、適当にあしらっとけば良かったんだけど、こっちもついカッときてね。
 ふふ……ゼファ、あんたも聞かせてやりなさいよ」
「はあ」
 
 それまでの会話に熱心に耳を傾けていたゼファが、促されて、にっこりと人懐こい笑みを浮かべてくる。

「えーと、ですね。
 実は、俺、超小型の移動式カメラを作るのが趣味なんですよね」

「移動式カメラ……?」

「これこれ、これです!」

 言いながら、嬉しそうにゼファが指差してきたものは、デスクの上――

 両手におさまる程度の大きさの、天板が透明になったコレクション・ボックスだった。

 そこには、体長3cm弱のカラフルな羽虫のようにしか見えないモノが、きれいに並べられている。  

「これが……カメラ、か?」

「そうそう、そうなんですよ! こんなに小さくても、ちゃんと操作できるし、映像もクリアに写るんです。
 これ全部、俺が作ったんですよ。凄いでしょう?
 外見をいかに小さく、目立たなくするか。移動をいかに速く、スムーズにするか。操作可能な距離を、いかに長くするか……。
 こういうのを極限まで突き詰めていくのが、何ともいえず面白いんですよね!
 それで、前の分署でも、よく休憩のときなんかに、自作のカメラの試運転をやってたんですけど……
 あるとき、ちょっとばかり、ヤバいものを写してしまいましてねー。ははははは」

「……ヤバいもの、って……」

「聞きたいですか?」

「…………。いや。いい」
 
 今となっては、ゼファの笑顔が、何だか底知れないものに見えてくるギアであった。  

 ロッサーナが、何に同意したつもりなのかは不明だが、とにかく、深々とうなずく。

「棒人間は……ま、見ての通りの棒人間だし。納得がいくわね」

 既に『棒人間』というのが呼び名になっているらしい。
 当のイグナシオは、怒る様子もなく、何やら一人でブツブツ言いながらラップトップに向かっている。

「それじゃ、あいつ……カースは? 何をやらかしたんだ?」

「……あら。そういえばあんた、あいつと一緒じゃなかったの? あいつはどこに行ったのよ」

 問われて、ギアは隠そうともせず、げんありとした表情を浮かべた。


 基本的に、オフィサーは、通常任務中に単独行動を取ることはない。
 常に、二人一組となって動き、互いをフォローしあい、カバーしあう。
 
 彼らは、互いを『バディ』と呼ぶ。
 
 運命共同体――  
 命を預けあう相棒だ。

 
 初日、『カース・ブレイドとバディを組むように』と発表された直後、ギアは猛反発したものの、

(って……他にマシな奴が誰もいねえ――!?)

 という限りなく後ろ向きな理由により、渋々同意したのだった。

 ――そんなわけで、巡視に出たときは確かに連れ立っていたのだが、今、ここにいるのはギア一人だけである。

 ロッサーナが不審そうに問うのへ、一言、

「あんまりうるせえんで、ゴミ捨て場に捨ててきた」

「……そう」
 
 それで本当に納得したのかどうかはわからなかったが、とりあえずロッサーナは頷いて顎に手をやった。

「噂では、上司の一人息子に手を出したのがバレたとか何とか……」

「……最低だな……」

 がっくりと脱力して、呻く。

 ややあって、ギアはのろのろと顔を上げると、最後の一人――
 一番奥のデスクについたジェイドを指差した。

「彼は?」

 ロッサーナは、剥き出しの肩を小さくすくめてみせた。

「そのへんの事情は有名よ。誰だって知ってると思ってたけど。知らないなら、直接聞けば?」

 当のジェイドは、ギアの怒鳴り声に驚いて一度顔を上げて以降、我関せずといった様子で、黙々とラップトップのモニターに向かっている。
 こちらの会話が耳に入っているのかどうかすら、判別が難しい。  

 ここ2日というもの、ギアは、彼がこうしてモニターを睨みつけている以外の様子を見かけたことがなかった。  

 とりあえずロッサーナの言葉に従うつもりで、彼女のデスクを離れると、ぶらぶらとそちらに近付き――

「何してんだ? さっきから」
 
 ひょいと、モニターを真上からのぞき込む。

 ジェイドは表情をこわばらせ、同時に、パネルの上で指を踊らせた。
 モニター上に幾つも重なっていたウインドウが、恐ろしい速さで閉じられてゆく。

 彼の操作には、ただ手慣れているというのではなく専門の訓練を受けたことを感じさせる素早さがあったが、ギアはミラーグラスのディスプレイ・システムの助けを得て、閉じられていったウインドウが自分たちのオフィサーとしての経歴を示すファイルであることを確認していた。
 ギアたちにはアクセス権のない情報だ。

「へえ、戦力の把握ってやつか? だが、いくら俺たちが優秀でも、それを発揮する機会がなくちゃ意味ねえよな」

 言いながら、ギアは再び、あの奇妙な感覚が脳裏をざわめかせるのを感じていた。

 この神経質そうな男の容貌に、以前から見覚えがあったわけではない。
 だが――

(ジェイド・フォスター……ジェイド? 確かに以前、どこかで聞いた名だ。どこかで――)

「俺たちをこんなとこに閉じ込めて腐らせようなんて、上の奴ら、ふざけた真似してくれやがるぜ。
 ……なあ、あんたは、どうしてここに来たんだ? そんな真面目な顔して、一体何をやらかしたんだよ?」

「答える義務はない」
 
 彼は、早口で囁くように答えた。
 こちらと目を合わせようとしない。何に対して緊張しているのか、顔色がほんのわずかに蒼ざめている。

「何だよ。俺たちのデータには好きにアクセスしといて、自分のことは話したくねえってのか?」
「部下のデータを把握するのは上司の義務だ」

(上司、だと? 上司……? ああ、そうか!)

 その瞬間、稲妻が閃いて空と地面とを繋ぐように、ギアの中で、おぼろげな記憶の糸がようやく繋がった。

だが、まだ確認が取れたわけではない。

「部下にだって、上司のことを知る権利はあってもいいと思うぜ」  

 思わず手を打ちそうになるのをどうにかこらえ、何気なさを装って言葉をかける。

「そうじゃないか? ――ノー・ミス・ジェイド」
 
 その瞬間の彼の反応は、予想したよりも遥かに激しかった。
 彼は一瞬、凍りついたように動きを止め、それから目を見開いてギアを見た。

 ギアは大きく頷いた。

「やっぱりそうか! 道理で、名前に聞き覚えがあったはずだ!
 あんたのことは、012分署でも有名だったぜ。皆で、あんたみてえな男の下で働きたいって言い合ったもんだ……」  

 ノー・ミス――《不敗の》ジェイド。

 若干20歳で005分署の組織犯罪課に入って以来、5年間――
 つまらない事務仕事から込み入った事件の捜査まで、何一つ手落ちなくこなし続けたという伝説の男。

 その実力が評価され、異例のスピードで1班を任されるに至った。
 誰一人として、彼の栄光に満ちた将来を疑う者はなかった――

 だが、不敗の記録は、彼が班長となって9ヶ月目に破られることとなった。
 それも、最悪の形で。
 
 ある連続殺人犯を逮捕寸前まで追い詰めておきながら、ジェイドの判断ミスによって逮捕は失敗し――
 犯人との銃撃戦の中で、多くのオフィサーが負傷し、うち2名が命を落とす惨事となったのだ。

 そのことが原因となって、彼は005を離れ、以後は、各地の分署を転々としているという噂だったが――

「たった一度の失敗であんたを手放した005の連中は大バカ野郎だ。
 あんたは、こんなとこでくすぶってていいタマじゃねえ。
 そして、俺たちもな!」  

 ギアは拳を握り、ジェイドに一歩詰め寄った。

「こうなったら、あのハゲ坊主……バンタム署長に直訴するしかねえ!
 あんたがリーダーになってくれりゃ、俺たちがバックアップするぜ。俺たちに、まともな任務を回させてやる!」

 唾が飛ぶほどの勢いで力説したこちらを、ジェイドは無表情に見返した。
 やがて、その視線がデスクに落ちる。

「私を買いかぶるな」
 
 疲れたような口調。

 ギアの拳がわなないた。
 あと5年、若ければ、この瞬間に目の前の男をぶん殴っていたかもしれない。

「……ふん。そうかい」
 
 10秒後、ギアは拳を相手の顔面に叩きつけるかわりに、指を開いて静かにデスクに置いた。
 そのまま、相手の顔を間近からのぞきこむ。

「なるほど。確かに、俺はあんたを買いかぶってたらしいな。
 ――たった一度の失敗をいつまでも引きずってうじうじしてるような腑抜けた野郎には、そりゃ、上司に文句をつける度胸もねぇだろうよ!」

 これは、ぶん殴るよりも効いた。
 
 ジェイドが椅子を蹴倒し、立ち上がる。
 表情はまだ冷静だが、底冷えした青い目と蒼白な顔色が、内心の激昂を物語っていた。
 
 来る――
 そう判断して、ギアはデスクから素早く両手を離し、身構えた。
 ジェイド・フォスターについて聞いていた評判が確かなら、彼は教官も相手をするのを敬遠するほどの捕縛格闘術の名手のはずだ。  

 結局殴り合いだが、別にかまわない。
 男の絆は、拳で語り合うことによって育てられるのだ。
 ギアの信念である。

 もちろん、違う場合もあるが。

「……えーっと。あのう」

「止めるなよ、ゼファ」
 
 ためらいがちに呼びかけてきた同僚のほうは振り向かないまま、ジェイドの目を見据え、にやりと唇の端を吊り上げてみせる。

「いくらあんたでも、俺の腕をへし折るにはちょっとばかり手間がッぐぇっ!?」
 
 ――出し抜けに背後から首を締め上げられ、一瞬、視界が真っ赤になった。

「ギア〜!」
 
 底抜けに明るい声。

 3秒ほど、何が起こったのか理解できなかったが、それはすぐに判明することとなった。

「後ろにカースがいるから気をつけて、って言おうとしたんですけど……」
 
 困ったような調子で、ぽつりと、ゼファ。

「ひどいじゃないかぁ、ギア」
 
 音もなく接近して首に腕を巻き付けてきたカースは、肩越しにこちらの顔に頬摺りして、拗ねるように言ってきた。

「相棒を、掃除用ロッカーの中に閉じ込めるなんて! しかも、ゴミ捨て場に捨てるなんてっ。暗いし狭いしおまけに臭いし、もう最あぶっ!?」

「ダストプレッサーに潰されて死ねっ、てめえはっ!」
 
 容赦ない裏拳をカースの鼻柱に叩き込み、その腕を振りほどいて、ギア。

「状況を読みやがれ、この野郎! こっちは今、てめえに関わってる場合じゃ……」
 
 怒鳴りながらジェイドのほうに向き直ったところで、思わず、言葉を途切れさせる。

 カースに気を取られたわずかな時間のあいだに、彼は元通りの体勢で椅子にかけ、黙々と事務仕事に戻っていた。

 まるで、最前の凄絶な睨み合いなどなかったかのような様子である。

「ううう。ひどい……」

 こちらが沈黙しているあいだに、鼻の頭を押さえつつ、ごそごそとカースが起き上がってきた。

「……よく、出てこられたな」

 色々と納得のいかない点はあるものの、ジェイドとの直接対決を避けることができたという結果は、ある意味では幸運なものだったと言えるかもしれない。
 
情けない顔をしているカースに視線を向けると、ギアは、幾分か語調を緩めてそう言葉をかけてやった。

 その途端に、カースの表情が一変する。
 たちまち弾むような笑顔になって、

「それがさ、聞いてよ! 偶然、壊れたハンガー掛けを捨てに来た人がいたから、助けを求めたんだ。
 ハンガー掛けが壊れるなんて、そうそうあることじゃないよ。このタイミングの良さ! 
 運命の女神が、僕たちの恋に微笑みかけているとしか思えないよね!」

「……こいつを食らってもまだそんなめでたいセリフが吐けるかどうか、試してやろうか?」
 
 ギアはジャケットの懐からマチルダを抜き、カースに見えるようにゆっくりと安全装置を解除した。

 一瞬でも、こいつに感謝した自分が馬鹿だった。やはり、甘い顔など見せるものではない。  

 2日前の恐怖がよみがえったか、慌ててデスクの陰にしゃがみ込む『相棒』の姿に深い溜め息をつくと、ギアは再びロックしたマチルダを懐のホルスターに突っ込み、踵を返して扉に向かった。

「……え? ギア、どこか行くの?」

「巡視だ」

「ええっ、また? あっ、じゃあ、僕も――」

「お前は残れ」
 
 あたふたと腰を浮かしかかったカースは、言下の拒絶に、一瞬目をぱちくりとさせたが――
 やがて、うそっ、というようにその目を見開き、自分の胸を指差しながら言ってくる。

「で、でも……僕は、君のバディだよ?」

「いらん」

 身も蓋もなく言い捨てて身をひるがえし、足音も荒く待機室を後にするギア。

「そんなぁ……ねえ。ちょっと待ってよぉ〜」
 
 その後を、ばたばたとカースが追いかけてゆく。
 
 ジェイドは静かにデスクに両肘を突き、頭を抱えた。

 ロッサーナは、それを見ないふりをして、美しい玉虫色に染まった爪に静かに息を吹きかけた。



        *        



「ねえギア、待ってよ〜」

「来るな! 邪魔だ」

「そんなこと言わないでさぁ」

「ついて来るなと言ってるだろうが! 失せろ! これ以上、俺につきまとうんじゃねえ!」
 
 銃撃戦のごとく言い合いながら、どかどかと階段を駆け下りる。

 普通なら、エレベーターを使うところだ。だが、たとえ一分以内であっても、カースと同じ密室に入るのは我慢ならなかったのだ。

 ノン・ストップで一階まで下り、そのまま競歩のようなスピードで廊下を突っ切ってゆく。

 通行人たちは皆、驚いたように道をあけ、そろって振り向き、通り過ぎた二人をものめずらしそうに見送った。

「おい! なん……いや。いいです。すみません」

「おう」

 肩が触れた拍子に文句をつけてきた男を、ミラーグラス越しのひと睨みで黙らせて、ギアは、ずかずかと101分署本館の建物から踏み出していった。

 勢いに任せて東玄関から出たため、目の前には、広大な屋外訓練場が広がっていた。

 手入れの行き届いた芝生と街路樹のあいだを、完璧に舗装された道が曲がりくねりながら続いている。

 高度な保安センサーを内蔵したフェンスに守られた、都会のオアシス。

 ――だが、そこで日々行われている訓練の厳しさを知る者ならば、おそらく、そんな表現は使うまい。

 その光景を見た途端、不意に、ギアの脳裏に名案がひらめいた。

「……おい」

「え、何?」
 
 急に振り向いたこちらに、いささか虚を突かれた様子で、カースが立ち止まる。

 ギアはその場でたんたんと軽く足踏みをしながら、にやっと笑った。

「ロードワークだ」
 
 いきなりの挑戦状を叩きつける。

「最後まで俺についてこられれば、付き合ってやってもいいぜ」

「ほんとっ!?」

「ついてこられるならな!」

 言い捨てるが早いか、勝手にスタートを切る。

 後ろから「フライングだ!」などと叫ぶ声が聞こえたが、気にも留めない。さっさと並木道を駆け抜け、周回コースに入る。

 オータム・シティの空はよく晴れていた。

 降り注ぐ爽やかな光が、ここ数日のあいだ強まる一方だった苛立ちを溶かし、洗い流してくれるような気がする。

 ギアは、大きく息を吐いた。

 こうしたロードワークはギアの日課であり、ストレス解消法でもあった。

 頬に当たる風や太陽の光を感じながら走っていると、怒りや焦りを、いつの間にか忘れることができる。時間さえ許せば、一日に30キロのメニューでも軽くこなした。

 要するに、持久力には自信があるのだ。――あの優男が、自分についてこられるはずがない。

(体力増進、ストレス解消。ついでにうっとうしい奴も追っ払える。我ながら、完璧な作戦だな……)

「走ってる君の後ろ姿ってセクシーだね!」

「!?」

 気持ちよく走っていたところにいきなりそんな声が聞こえ、ギアは、もう少しで自分の足に蹴躓くところだった。

 足は止めないまま、慌てて振り向けば、なんと真後ろにカースがいる。

 足音も、気配すらも感じなかったというのに、だ。

「てめっ……いつの間にっ!?」

「え? さっきからずっと」
 
 しゃあしゃあと答えたカースは、かなりのハイペースを保ちながらも涼しい顔をしている。

「いい眺めだなぁ〜。しなやかな筋肉のひとつひとつが躍動して、実に――」

「それ以上喋ったら撃ち殺すぞ!」

 怒鳴って、一気にペースアップする。

「あっ、ちょっと、待ってよ!」

(誰が待つか! どこまでもふざけた野郎だ……! こうなったら、俺の本気の走り、見せてやろうじゃねえかっ!)

 ――だが。

「待ってってば〜!」

 ギアの予想に反して、カースとの距離は、10cmほども開かなかった。

 信じられなかった。

 何しろ、訓練校時代はクラス1の俊足を誇り、「貴様は前に立つな! 全体のペースが上がって、オチる者が増える!」と、持久走ではいつも列の最後尾に回されていたギアだ。

 自分の本気の走りに――それも、へらへらと笑いながらついてこられる者がいるなどとは、想像したこともなかったのだ。

(畜生!)

 こうなったら意地の戦いだ。
 
 ギアは、だっと不意に周回コースを外れると、加減なしの全力疾走を始めた。

 芝の上を走り抜け、短距離走用のコースを問答無用で横断し、さらには球技用のコートをも横断し、植え込みを三つ、連続で跳び越え――

 そして。

「てッ……! てめえ……ッ!」

 とうとう完全に息が上がり、ギアは、走るのをやめた。

 さすがに、素人のようにその場に崩れ落ちることはしない。その場で軽く足踏みを続けながら、それでも息を荒らげて、背後で同じように足踏みをしている男をにらみつける。

「ばっ……化けモンかっ……!?」

「失礼だなぁ。人間だよ、人間!」

 言ってくるカースの顔には、ほとんど汗も浮かんでいなかった。

「約束だよ、ギア! 僕と、付き合ってくれるんだよね♥」

「くっ……!? し……仕方ねえ……」

 むやみに嬉しそうな顔を近づけてくるカースから1メートルの距離を保って後退しつつ、ギアは、苦渋に満ちた表情で頷いた。

「約束は約束だからな……。明日から、毎日だ」

「毎日!?」

 驚きと興奮が入り混じった複雑な表情で叫ぶカース。

「午前5時15分から」

「任せてくれ! 僕は、朝は凄いよ。ふっふっ」

「屋外訓練場で」

「外でするのも刺激的だよね……!」

「ジャージ着用な」

「………………」

 事ここに至って、

「……ジャージ?」

 ようやく疑問符を浮かべたカースの腕をぽんぽんと叩き、ギアは、一転して、にやっと笑った。

「喜べよ、明日から毎日付き合ってやるぜ。……ロードワークにな」

「……えええええええぇーっ!?」

「うるせえ」

 子どものように不平の声をあげるカースに、そっけなく言い捨てる。口調に反して、顔はにやついていたが。

「付き合えって言うから、付き合ってやるっつってんじゃねえか。文句あるか?」

「ひどいよ! 詐欺だ! 期待させといて、あんまりだぁぁぁ」

 叫んだかと思うと、その場にしゃがみこんでしくしくと泣き出す。

 そんな同僚の姿を、15秒ほども黙って眺めた後、

「――おい」

 ギアは、相手の背中に向かって静かに声をかけた。

「お前…………一体、何考えて生きてんだ?」

「今は君のことだけ」
 
 一瞬、こちらがぎくりとするほど真剣な声でそう呟いたカースだが、次の瞬間には、大袈裟に身悶えながら声をあげてきた。

 もちろん、顔には涙の跡などカケラもない。

「だからさー、僕と付き合おうよ! 絶対に後悔させないから!」

「……お前と出会っちまったこと自体、俺の人生で最大の痛恨事だが」

「そんなこと言わないでさ。――君は、まったくひどい男だなぁ。そんな可愛い顔をして僕の前に現れておきながら、手も握らせてくれないなんて……う」

 こちらの顔を間近からのぞき込んできた男の鼻先に、マチルダの銃口をぴったりとポイントして、ギアは心の底からうんざりとした息を吐いた。

 何だか、この2日間というもの、こんなことばかりしているような気がする。時間の無駄もはなはだしい。これは本気で、抹殺の方法を考えるべきかもしれない。

 意識して表情を消し、押し殺した声音で告げる。

「いいか、今は抑えに抑えて『黙れ』とだけ言っといてやる。だがな、あんまりガタガタうるせえと、そのうちおまえの口にこいつを突っ込んでトリガーを引いちまうかもしれねえぜ……」

「どうして、君はそんなに冷たいんだい?」

 彼の動きは蛇のように滑らかで素早く、そのために、一瞬だけ反応が遅れた。

「まるで氷だね」

 銃口をあっさりと指先で押しのけて一歩踏み出してきたカースは、その指先をこちらの顎にかけて、わずかに持ち上げるようにしてきた。

 優しげな微笑みを湛えた黒い目に、見下ろされる。

「僕が、溶かしてあげようか――?」

「………………ブッ殺す」

「あああああああぁ」

 ぐわし、とサイバーアームで相手の顔面をわしづかみにし、少しずつ力を込めながら、ギアはふふふと笑った。

「そーかそーか、やっぱり、ドタマに一発ぶち込んで港に沈めとくしかねえらしいな、ええ?
 それとも、工業用硫酸の桶に浸けて下水に流したほうがいいか?
 どっちでも好きなほうを選ばせてやるぜ」

「ああああぁ……」

 少し弱々しくなった呻き声を聞きながら、ギアは胸中で、真剣に決意を固めていた。
 
 この2日間というもの、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたが、さすがに、もはや忍耐の限界だ。

 これからすぐにジェイドに上申して、こいつとのバディを解消してもらおう。あいつが首を縦に振らないなら、ジーズに直接掛け合ってもいい。

 こんなふざけた男と組んでいたのでは、1分1秒が精神衛生上の害だ。

 単に気分が悪いというだけの問題ではない。このままでは、いざ仕事となったときに、任務効率も落ちかねないではないか。

(よし、善は急げだ! 今すぐに、待機室に戻って――!?)
 
 決然と顔を上げたギアは、そのときになって、周囲の状況の変化に気づいた。

 こちらに向かって、黒ずくめの男たちの一団が近づいてくるのだ。

 そいつらが現れた方向を確認して、ギアは思わず、胸中で舌打ちを漏らした。

 カースを振り切るため、方向も確かめずにひたすら突っ走ってきたが、自分たちが、今、いる場所は――

「何だ、てめえら? 何か用か?」

「それはこっちの台詞だよ、坊主」
 
 内心の動揺をまったく表さず、不敵な口調で問いかけたギアに、すぐ目の前まで近づいてきていた男たちの一人――スキンヘッドの巨漢が、こちらも傲岸に腕組みをして答えた。
 
 彼らは皆、揃いの黒い装甲服、バトルテックスーツを身につけている。

 いずれも屈強な体つきをした、捜査官というよりも軍人を思わせる雰囲気の持ち主ばかりだ。

 それも無理はない、というよりも、当然のことだった。

 彼らこそが『特別急襲部隊』――

 事件の捜査ではなく、武力による現場の制圧を任務とする集団だ。

「ここいらは『特急』の領分だぜ。いちゃつくなら余所でやりな」

 確かに、ここは特急のトレーニング施設のすぐ目の前だった。

 冷静な状態だったなら、これほど近づく前に転進していたはずだったのだが。

「あ、そうですか? それなら早速向こうで……げふ!?」

「……おい」

 カースのみぞおちを人差し指で一撃し、悶絶する彼は放置しておいて、ギアは、満面の笑みを浮かべた。

 気の弱い者ならその場で腰を抜かしかねない、獰猛な笑顔だ。

「誰と誰がいちゃついてるって? 目ェ悪いんじゃねえの?
 ……ああ、それとも、悪いのは頭か?
 若いのにあちこち大変だなぁ、ハゲのおっさん」

「だっ……誰がハゲだコラァァ!? こりゃスキンヘッドだ! 天然じゃねーよ!」

「そう怒るなって」
 
 大げさな宥めのジェスチャーを、にやにや笑いが裏切っている。

「結果的にイコールだろうが。状態が」

「何がイコールだコラァァ!? クソガキが、ふざけやがって……!」

「止しな、ルギン」

 言葉と共に、隊員たちの後ろから、茶髪を四角く刈り上げた男が進み出てきた。

(こいつが、アタマだな)

 そう、一目で分かるような男だった。

 012にいたころ、この手合いとは、腐るほど顔を合わせてきたのだ。

 武力によって場を掌握することに長け、なおかつ、それを自負もしているような男。

 何かにつけて『男らしさ』を過度に意識し、常に群れのボスでいたがる。

 男は、わざと角度をつけてギアを見下ろし、仲間たちに向かって大げさに手を振ってみせた。

「まあ、落ち着けよ。ガキ相手にマジギレするなんざ、大人のやるこっちゃねえぜ」
 
 このセリフに、どっと笑い声が起こる。
 
 ギアの額に、くっきりと青筋が浮いた。だが、まだ、声は平静だ。

「……おいコラ、そこの四角いの。誰がガキだって……?」

「貴様だよ、ギア・ロック」

 男は、挑発には乗ってこなかった。

 ギアの全身を値踏みするように見回し、あからさまに鼻息を吹く。

「残念だな。貴様の武勇伝をいくつも聞かされて、相当なマッチョだろうと期待してたんだが……こんなガキだとは、期待外れにも程があるぜ」

「何だと?」

「噂じゃ、012の特急をクビになったそうだな……? 『精神的惰弱』だって? 敵の前でしょんべんでも漏らしたか? ――それとも……」

 ギアの後ろに突っ立っているカースを、意味ありげに見つめて続ける。

「何か『男らしくない』不祥事でも、起こしちまったのかな?」

 男たちが、またもやげらげらと笑った。

 中には、カースとギアを交互に指して、露骨に卑猥なジェスチャーを交わしている者もいる。

「あ……あの」

 明らかな侮辱に言い返しもせず、黙然と突っ立っているギアの背中に向けて、カースが、恐る恐る声をかける。

「ギア……? 大丈夫?」

 その瞬間、

 「――おい、カース」
 
 返ってきた声のあまりの凄みに、カースは思わず背筋を伸ばした。

「は、はい?」

「援護しろ」
 
 そっけなく呟いて――
 
 あっという間に突進したギアは、一番端にいた男の腋下――装甲に守られていない急所に、跳ね上げた肘をまともに打ち込んだ。

 まさかと油断していたのか、そいつは大きく口を開き、しかし悲鳴も上げられないまま、『特急』の猛者とは思えないあっけなさで轟沈する。

「や――野郎!」
 
 男たちの敵意のボルテージが、一瞬で臨界点を突破した。
 
 ほんの数秒で、乱戦になる。

「ギア!? ちょっ……駄目だってば!」
 
 慌てて止めに入ろうとしたカースの首に、太い腕が巻きつく。

「ぐっ……!?」

「はん! ひょろひょろじゃねえかよ、兄ちゃん。『特急』にゃ、お前みてえなヒヨコちゃんはいねゴッ!?」
 
 勝ち誇ったスキンヘッドの言葉は、唐突に悲鳴に化けて途切れた。

 そのまま、切り倒された巨木のように白目を向いて転倒する。

 巨体の下敷きになったカースが、潰れたカエルのような呻き声をあげてばたばたともがいたが、

「へッ! 無駄にデカいばっかで、動きがトロいんだよタコが!」
 
 ルギンの後頭部に容赦ない飛び蹴りを食らわせたギアは、相棒の悲鳴など聞いてもいなかった。
 
 こちらの実力を悟ったか、さすがに出足を止めている『特急』の隊員たち――

 その中で、唯一挑戦的に目を光らせて進み出てきた男を睨み据え、にやりと唇を吊り上げる。

「……オフィサーになって2年とちょっと経つが、てめえみてえなふざけた野郎を地面に這いつくばらせずに見逃したことは、まだ一度もねえ」

 ギアの威嚇に、男――シュライツもまた、薄笑いを深くした。

 勝てるという自信があるのか、それともそう思わせたいだけか、余裕ありげに指で招いてくる。

「凄んでねえでさっさと来いよ、ガキが……。地べたに叩き付けてひいひい泣かせてやるぜ」

「おお……溜まりに溜まったこの鬱憤、てめえのせいじゃねえ分まで晴らさせてもらうが、悪く思うなよ……」
 
 敵意に満ちた言葉を交換しながら、二人の男はじりじりと間合いを詰めた。
 
 あと、3メートル……2メートル……

『――下がれ。シュライツ』

 その瞬間に聞こえた低い声が誰のものか、ギアには、判断する時間は与えられなかった。

 目の前に立ちはだかったシュライツの背後から、何者かが、恐ろしい速度で飛び出してきたのだ。

 そいつは、横向きのV字を描くような動きで、一瞬のうちにシュライツとギアの間に割り込んだ。

(バトルテックスーツ!?)
 
 黒い装甲スーツに身を包み、ヘルメットのバイザーを下ろしている。体格は、ほぼこちらと同程度――

 突然現われたその人物は、右の掌を腰溜めに引いていた。

 ギアは反射的に、両腕を交差させて目の前に掲げた。

 次の瞬間、容赦なく突き出された相手の掌が、両腕の交点に激突する!

 肘の金属骨格が軋みをあげ、異様なまでに重い衝撃が全身を襲った。

(何だ、この力は――!?)
 
 ミラーグラスの背後で目を見開いたときには、ギアの身体は為す術もなく後方に突き倒されている。

 その勢いに逆らわず、彼は猫のように身体を丸めた。肩から滑らかに地面に転がり、そのまま鮮やかに後転する。
 
 一回転して両脚でしゃがみ込む体勢になったとき、目の前に見えたのは、片足を高々と振り上げた黒いバトルテックスーツの姿だった。

(!)
 
 渾身の力を込めて地面を蹴り、立ち上がりざまに後ろに跳び退る。

 一瞬前まで彼がしゃがみ込んでいた位置に、凄まじい勢いでブーツの踵が叩きつけられた。

 そして、こちらが着地する頃には、相手は既にその踵を軸にして華麗に回転し、次の蹴り技を繰り出そうとしている――
 
 ギアは歯を食いしばり、目を見開いたまま、頭を限界まで後ろに逸らした。

 その差、わずかに数ミリ――大型ハンマーのフルスイング級の後ろ回し蹴りが、風を巻き、鼻先をかすめ過ぎる!
 
 外した蹴り足を最小限の動きで引き戻した相手は、そこで、ぴたりと動きを止めた。

 次の攻撃のタイミングを計っているのだろうか?

 ギアは警戒し、必要とあらば即座に全方位に動けるよう、慎重に重心の位置を保った。
 
 だが、予想に反して、相手はそれ以上の攻撃をしかけては来なかった。

『……むう』
 
 小さく、唸ってくる。

 威圧感に満ちた重低音。ヘルメットに内蔵された変声器が働いているのだ。

 だが、口調そのものは、予想していたものよりもはるかに軽かった。

『やるな。私の必殺のキックをかわすとは』

「万が一かわせなきゃ即死してただろーが、ボケェェッ!」
 
 思わず、全力で叫ぶ。
 
 あんな蹴りのクリーンヒットを食らおうものなら、今頃、自分の脳味噌が飛び散った地面にキスするはめになっていただろう。

 今更のように、背中全面に冷や汗が噴き出した。

 だが、当の相手は聞いた様子もなく、平然と続けてくる。

『こちらは次の任務に備えての訓練期間中だ。コンディションに影響する。乱暴はやめてもらおう』

「乱暴はてめぇだ、この野郎! ふざけんな! 異様な動きしやがって……」

『野郎ではない』
 
 ギアの激しい語調に対して、その台詞はほとんど「言っただけ」というような、淡々としたものだったのだが――

「お、い?」

 その声の響きに、あることを感じ取り、ギアは、目を丸くした。

「お前、まさか。……女、か?」

 信じられない、という調子の問いかけに、相手はしばし、無言で突っ立っていたが――

 やがて、答える代わりに片手を挙げ、スーツの首の後ろにあるスイッチを操作した。

 ヘルメットとスーツのジョイント部分を固定していた気密ロックが解除される。

 そして、そいつは、あっさりとヘルメットを脱いだ。

 肩の上で切り揃えられた、まっすぐな茶色の髪がさらりと流れる。

 ヘルメットの下に隠されていたのは、鋭利な雰囲気を持つ、若い女性の顔だった。

 完璧なアーモンド型の目に嵌め込まれた、矢車草のように青い瞳が印象的だ。

「あ」
 
 ギアは、思わず軽く声をあげた。

 顔に見覚えがあった、というわけではない。

 だが、この体格、この存在感は――?

「ひょっとして、あんた、五日前のニュースに出てた……」

「おわぁぁああっ!?」

 ギアの女性への呼びかけは、そこまで中断することとなった。ようやく起き上がってきたカースが、いきなり、すっとんきょう極まりない悲鳴をあげたのだ。

「……うるせえなぁ……」

 何を思ったか、目の前の女性を見つめてがたがたと震えているのに対し、胡乱げな視線とそっけない問いをぶつける。

「何、いきなりバカみてえな大声出してんだ?」

「だ、だって、ギア!」
 
 震える指先を女性に向けて、カース。

「この……人! 知らないの!?」

「知らん。誰だ?」

「誰って……君も、ボールドウィン事件は知ってるだろ!?」
 
 もちろん、聞いたことがあった。
 
 数年前、オーダーオフィス001分署の『特急』がボールドウィン輸送社の倉庫を急襲し、組織の秘密取引の現場を押さえたのだ。

 その際、激しい銃撃戦で多数の死傷者が出た。

 マスコミでも大きく取り上げられた事件だ。

 しかし、その事件が仲間内でも特に有名になったのは、単なる血なまぐささによってではなかった。

 ギアは、目を見開いた。

「それじゃ……こいつが、か?」

「そうだよ! たった一人、しかも素手で30人近いギャングを殺害し、虐殺アスカと呼ばれた、機械化人間(フル・サイバード)の特急隊長……!
 あの事件がきっかけで001にはいられなくなったって聞いたけど、まさか、101に移ってたなんて……」

 多分に畏怖の混じった呻きを聞きながら、ギアは、目の前の女性の顔を興味深げに眺めた。

 整った、静かなその表情は、凶暴性など欠片ほども感じさせない。

 それもそのはずだった。フル・サイバードは、生身の人間のような激しい感情は持たない。

 自律神経系や内分泌系といった組織を失っているのだから、当然のことだ。

 彼女が、その手で30人のギャングを殺したのは、怒りにかられてのことではなく、そうすべきだと判断したからなのだ。

「そうか……あんたが、あの有名な虐殺アスカさんか……」

「そうか。お前があの有名なバイオレントオフィサーか」

 彼女――まだそう呼べるならば――は、ゆっくりと頷きながら、明らかにこちらの言い方を真似て答えてきた。

「ギア・ロック捜査官。そしてカース・ブレイド捜査官。お前たちのデータは所有している」

 その動作はなめらかで、外見は完璧だ。肉体の90パーセント以上が人工物であることなどほとんど感じさせない。

 ガラス球のように静謐な、その瞳を除いては。

「『虐殺アスカ』との呼称は正確ではない。私はアスカ・ブルーシード。現在オーダーオフィス101駐屯特別急襲部隊第1部隊〈ニーズホッグ〉の隊長を務めている。よろしくな」

「すごいな、人間にしか見えない……」

 思わず、といった調子で口にされたカースの呟きを、アスカは鋭敏に聞きとがめたようだった。

「当然だ。私は人間だ」

 そう言う際にも、表情はまったく変化しない。

「あ……申し訳ない! そういう意味じゃなくて、つまり……その、まるで生身の人間みたいだ、って意味で……」
 
 慌てたようなカースの謝罪に、彼女は頷いた。

 だが、その視線は、カースを捉えてはいなかった。彼女は、ギアの腕を見つめていたのだ。

「お前の相棒の腕もなかなか精巧にできている」

 言われて、カースが「えっ?」という顔になる。

 ――ギアの表情が、見る見るうちにこわばった。

 この記憶に、他者が無遠慮に触れてくることが、ギアは何よりも嫌いだった。

 奥底で凶暴な感情がうごめくのを感じる。

 相手が男なら、この瞬間に、間違いなく殴り飛ばしていただろう。

「……本人に断わりもなく、スキャンしたのかよ?」
 
 押し殺した声に――

 アスカは、ゆっくりと数度、まばたきを見せた。

「ギア・ロック捜査官。今の発言で気分を害したのであれば謝罪する。私のボディを作り上げた技術者たちは私が自分を生身の人間だと思い込めるようにという理由だけでわざわざヒューマンモードの視覚システムを搭載してくれるほど親切ではなかったのだ」
 
 ――判りにくい長台詞に一瞬、混乱しそうになったが、相手の言いたいことは何となく理解できた。

 つまり、この機械仕掛けの女性は、普通の人間のようにものを見ることができないのだ。

 おそらくその視界は、ギアがミラーグラスのディスプレイ・システムをオンにしたときに近いのだろう。 

「あんたは……どうしてフル・サイバードになった?」

「復讐のためだ」
 
 口にされた言葉の不穏当さとは裏腹に、その表情はどこまでも静かで、動きがない。

「私はハノーヴァ・シティの議員の娘だった。過激派のテロに巻き込まれて母を失くした。そして自分の肉体も」

「だが、マシンの身体は、莫大な維持費がかかるだろ。どうして再生治療を受けずに――」
 
 そこまで言って、ギアは、目を見開いた。

「そうか。
 ……お前も、か……」

「その通り」

 アスカは、あっさりと頷いてきた。 

「先天性複製不能症候群。――お前と同じだ」

「そんな……」

 カースは、目を見開いている。

 欠損した肉体の部位を、本人の細胞を基として人工的に培養し、移植する――『再生治療』が一般的なものとなって、はや数十年。すでに医療は、拒絶反応という困難を克服していた。
 
 だが、全ての人間が、その恩恵を受けられるというわけではなかった。

 経済的な負担から、治療を断念する例が多い。本人、または家族の宗教的な信条から、治療を固辞する場合もある。

 そして、ごく稀にだが、体質的に再生治療が不可能な者もいるのだ。

 50万人に一人と言われる難病、『先天性複製不能症候群』――

「欠ければ機械になる身体……そうまでして、あんたは、どうしてここにいる?」

「父が私を生かした」

 カースが、ぎょっとしたような表情を浮かべた。

 その言葉を口にする瞬間、アスカが、初めて笑ったのだ。

「父の願いを私は叶える。あらゆる犯罪者に対して――力による復讐を」

 そう言った瞬間の彼女は、まるで小さな子どものように見えた。

「おまえと同じだ。ギア・ロック捜査官」

「……勝手に仲間ヅラしてんじゃねーよ。
 俺は、あんたとは違う。
 もう、違うんだ」
 
 ギアは、アスカの目を見て、静かに告げた。
 
 おそらく無意識にだろう、その手が胸元に上がり、シャツの下のロケットペンダントを軽く押さえる。
 
 場に流れた空気に呑まれてか、しばらく、誰も、何も言わなかったが――
 
 ややあって、その沈黙を破ったのは、ギア本人だった。

「あー、そうだ。ツラといやあ、さっきから気になってたんだが。どうしたんだ、それ?」

 相手の顔面を、遠慮なしに指差す。

 アスカは黒い手袋に包まれた手を上げて、滑らかな頬に触れた。

 色が肌となじんでいるため、ほとんど目立たないが、そこに四角い応急保護パッドが貼り付けられている。

「これか。前回の任務で外装に軽微な損傷を被った。機能には影響がないので応急処置で済ませている。今度の定期診断で換装する予定だ」
 
 彼女は『外装』と言った。

 その脳は、精神は女性であるはずなのに――アスカは、自分の外見、肉体を、自分自身とは切り離して考え始めているのだ。フル・サイバードにしばしば見られる特徴だ。

 女性ならば、誰しも自分自身の外見に関心を持つだろう。自分の肉体的な特徴に陶然としたり、失望したり。

 それを捨てて、犯罪者への復讐に生きるのだと彼女は言った。

 おまえと同じだ、と。

 ――違う。

「あんたは、ここの任務に不満はないのか?」

「ない。――たとえあったとしても今のお前たちにそれを言えば嫌味になるだろう」

 話を変えたギアに、アスカは飄々と答えた。

「ここは悪くない場所だ。他の分署とは違う『イレギュラー』。ここに集まってくる者たちも皆『イレギュラー』だ。他の分署では起こり得ないどんなことでもここでは起こり得る。非常に興味深い場所だ」

「へえ、そうかい? ……今のところ、俺たちには何も起こりそうにないんだがね」

「苛立っているな。ギア・ロック捜査官」

「ああ……」

 獰猛な笑みを浮かべ、アスカの背後で居心地悪そうにしている『特急』の男たちを見やる。

「30人ほどぶっ殺さなきゃ、おさまりそうにねぇな」

「余所でやることだ」

 淡々と言ったアスカに向かって軽くうなずいてみせ、ギアは、例の四角い茶髪男――シュライツに鋭い一瞥を向けた。

「勝負は、てめえんとこの隊長に預けといてやるよ。命拾いしたな。……行くぞ、カース」

 言い捨てて、返事も待たずに身をひるがえす。

 あっけにとられたように固まっていたカースが、その一言で我に返り、慌てて後に従った。

「なるほど。誰よりも鋭い牙を持つ獣……さしもの猛獣使いが手を焼くはずだ」
 
 去っていくギアの後ろ姿を見送り、アスカはひとりごちた。

 その後ろにばたばたとくっ付いている長身の男を見やり、首を傾げる。

「カース・ブレイド。掴みどころのない男だな。とても『00の切り裂き魔』と恐れられた男には見えん。偽装か? ――まあすぐに判ることだが」

 確信を込めて、大きく頷いた。

「この街は――あいつらをいつまでも眠らせておけるほどに平和なところではない」





     3 予兆




「ご苦労だったね、アントン」

 部下の報告を聞き終え、クアンは、満足げに微笑した。

 彼は、古風な天蓋つきのベッドの上に、シルクのナイトガウンを羽織っただけのしどけない姿で寝そべっていた。

 サイドテーブルの上にいくつも並べられたキャンドルからは、エキゾチックな香りが漂っている。
 虫を誘い込む花の香りには、催淫効果のある成分が含まれていた。

 この豪奢な部屋を含む邸宅と、家具のすべては、クアンが愛人に与えたものだ。

 彼女は今、クアンに命令されたとおりに、シャワーを浴びにいっている。
 おそらく、これからの行為で彼を充分に楽しませようと、念入りに体を磨き上げているに違いない。

 彼女は、クアンが自分に夢中になっていると思っている。
 馬鹿な女だ。
 クアンにとって、女性は一時の気晴らしの道具、単なる欲望の捌け口に過ぎない。  

 今夜、ここを訪れたのも、彼女に逢うためではなかった。

 現在進行中の計画を、アルフォンソに勘付かせないためのポーズだ。

 大きな秘密を抱えた人間は、それを隠しておこうとするあまり、無意識に普段とは違う行動を取りがちになる。

 警戒心から奇妙に慎重になり、いつもしていることを取りやめたり、内心の不安を覆い隠そうと、むやみに大胆に振舞ったりするのだ。

 自然だと思っているのは当人だけで、そいつが何かを隠しているということは、顔に書いてあるのと同様にはっきりと読み取れる。

 ――自分は、そんな間抜けな真似はしない。

 クアンは薄い笑みを浮かべながら、アントンに渡された銀色のパネルを見つめた。

 そこに写し出されているのは、ひとりの女性の姿だ。

 上品な身なりをしている。

 背景はデパートの玄関口で、どうやら、買い物を終えたところらしい。

「タイラー検察官夫人、ターニャ・タイラー……きれいな奥さんだよね。もうすぐ、本物に会える」  

 呟いたクアンの目が、ぎらりと不吉な輝きを放った。

「アントン、例の口の軽いハウスキーパーから聞き出した日付と時間は、間違いないだろうね」

「ええ、ターニャ夫人は3日後の午後2時に、《ブリジンガーメン》に予約を入れています。店のほうにも確認を取ってあります」

「君がそのことを調べたという証拠は、ちゃんと消してあるよね?」

「《ブリジンガーメン》は新しい従業員をひとり補充する必要がありますね」

 涼しい顔で答えたアントンに、クアンはにやりとした。

 古い従業員がどうなったのかは、聞くだけ野暮というものだ。

「なら、行動開始は3日後の正午だ。
 君のように有能な部下を持って僕は幸せだよ、アントン。
 この作戦が上首尾に終わったら、僕から、ファミリー内での君の序列を上げるように、パパに口添えしてやるよ」

「いえ、そのような。私はただ坊ちゃんのために働けるだけで光栄です」  

 アントンは、深々と頭を下げた。

 だが、ことばとは裏腹に、声音には喜びと期待がにじみ出ている。  

 クアンは内心でほくそ笑んだ。

 そう、犯罪者にただで忠誠心や誠実さを求めるのは馬鹿のすることだ。
 彼らを統率するコツは、犬を訓練するときと同じ。
 意にかなう行動には褒美を与える。
 ボスに従えば見返りが得られることを、徹底的に教え込むのだ。

「あとは、デレクが間に合うかどうかだ。
 3日後の正午に間に合わなければ彼もおしまいだね。
 僕は、仕事が遅いやつが一番嫌いなんだ」

 クアンは、わざとデレクのことを話題に出した。

 褒美を与えるだけでは足りない。
 常に鞭を振るう用意があることを見せ付けておくことも必要だ。

 欲望と恐怖。これらこそが、人間を動かす最も大きな力になる。

「《ディアブロ・ロホス》とまで言われた男です。必ず間に合わせるでしょう」  

 従順に目を伏せて、アントンが答えた。  

 だが、それが底意からのことばではないことを、クアンは知っている。  

 最も重用する部下は常に2人置け、という父ダリオの教えを、彼は忠実に守っていた。

 ただの1人に全てを任せるのは危険すぎる。裏切りの危険は、常に忘れてはならないのだ。

 腹心を2人置けば、そのリスクを分散することができる。

 そして、互いにライバル意識を持たせ、競い合わせることで、よりよい成果を上げさせることもできる。

「ああ、そうだね。僕もそう思うよ」  

 クアンは、ぬけぬけとそう言った。

 競争心の火花を、爆発はしない程度に、適度に煽ってやる。その加減をうまくつけるのが、部下を操縦するセンスというものだ。  

 ノックの音が聞こえた。

「クアン、入ってもいいかしら?」  

 クアンはにやりと笑った。

「帰るかい、アントン? それとも、一緒に楽しんでいくかい?」

 アントンはおどけて肩をすくめた。

「――坊ちゃんのお望みのままに」



            *  



 ヴァイブ・モードにセットしたコムリンクが、サイドテーブルの上で鈍い震動音を上げている。

 濡れた髪をタオルで押さえながら、ロッサーナは部屋中にちらばった衣服や化粧品、雑貨類を踏みつけないように、猫のような足取りでそちらに歩み寄った。

 彼女の動きにつれて、フローラル・アルデハイドの芳香が部屋にたちこめる。

 彼女は高価な香水と、もっと高価なランジェリーしか身につけていなかった。

 男たちが見れば悶絶しかねない大胆な艶姿だ。

 ――まあ、顔に貼り付けられたパックシートと、この部屋の乱雑さを目にしては、100年の恋も一気に冷めてしまいそうだが。

 部屋そのものは何の変哲もない、オーダーオフィス101分署の敷地内にある女子寮の一室である。

 ここが彼女の私室となったのはつい2日ばかり前のことなのだが、とてもそうとは思えない散らかり具合だ。

 コムリンクを取り上げ、そこに表示された番号を見て、ロッサーナは顔をしかめた。

 覚えのない番号だ。

 通話ボタンを押さないまま、しばらく待ったが、コールが止む気配はなかった。

 いくつかの可能性が彼女の頭をよぎった。

 彼女の色香に迷って正気を失った男からしつこく通話がかかってきたことは、これまでに何度かある。

 単なるコール間違いという可能性もある。  

 そして――どういうわけだか彼女のコムナンバーを知っている何者かが、何だか知らないが急いで彼女につなぎをつけたがっている、という可能性もあった。  

 ロッサーナは、心を決めた。

 通話ボタンを押し、威嚇のつもりで、なるたけ不機嫌な声を出す。

「……はい? ――はぁっ!?」

 彼女の表情が大きく動いた。

 もう少しでパックが顔から落ちそうになり、慌てて片手で押さえる。

「ちょっとあんた、どうして……はぁ? ……あたしに? 何故? ……ええ。……ふん。なるほどね……ふん……」

 当初は見開かれていた目が、すうっと細められる。

 ロッサーナはベッドに腰を下ろして、通話相手のことばに注意深く耳を傾けた。

 やがて、大きくひとつ頷く。

「……分かったわ。ええ。……ええ。それじゃ」

 ボタンを押し、ロッサーナはしばらくのあいだ、ぼんやりと壁を見つめていた。

 やがて、その肩が、小さく震え始める。

 泣いているのだろうか?

 いや――

「く……く、く……」

 魅力的な唇がにいっと吊り上がり、宝石のようにきらめく長い爪が、内心の昂揚を表すようにシーツの上で激しく踊った。

「やっとだわ」

 歯車が動き始める。

 明日からは、忙しくなりそうだった。



           *

 

 オータム・シティのダウンタウン。

 この街の住人でない者なら、その呼び名は「地獄」と同義語であると考えるに違いない。

 そして、実際にそこに住んでいる者たちも、それとほぼ同じ見解を持っていた。

 辻ごとに、がりがりに痩せて顔色の悪い客引きの女たちが立ち並び、薬代だか飲んだくれのヒモの酒代だかを稼ぎ出そうと、飢えたハイエナのような目をして客を待っている。  

 ぼろぼろのコピー革のジャケットを着た、合成ドラッグの密売人が、自分の商品に毒された身体をずるずると引きずりながら路地の奥へと消えていく。  

 清掃車など一度も通ったことがなさそうな街路には、煙草の吸殻と、酔っ払いの反吐と、そのほか何だか考えたくもないようなものがこびりつき、うずたかく積まれたゴミの山と同様、永遠に消えない異臭を漂わせている。

 『ヴァーゴ』と呼ばれるそのバーは、この最低な街の最低な側面を全部合わせてぶち込んだような店だった。  

 クアンが経営するカジノと同じ、人間のありとあらゆる欲望の吹き溜まりだ。

 だが、そんな場所にも、貴賎というものがある。

 ここでは何もかもが下劣で、騒々しかった。

 それが、常連たちにとってはたまらない魅力なのだ。

「触らないで! 放してよぉ!」

 半地下の店内のそこここに据えられた汚いテーブルの上には、ありとあらゆる禁制品、銃、賭博の掛け金が積みあがっている。

 真っ昼間だというのに、店内は薄暗く、ドラッグ煙草や、毒性の強いコピー煙草の煙がスモッグのように天井を覆い、頼りない照明をぼやけさせていた。

『ヴァーゴ』はいつも大勢のくずどもで盛況だったが、今夜の店内は、一種異様なまでの熱狂に支配されていた。

 奥のビリヤード台を、揃いの赤いジャケットを着た男たちの一団が取り囲んでいる。

 この辺りを――今のところ――仕切っているギャング団、レッド・ウォリアーズのメンバーたちだ。

「ふざけんじゃないよ! あんたら、こんな真似して、ただで済むと――」

 叫んでいるのは、1人の若い娘だった。  

 服装から見て、商売女だ。

 うっかり仲間たちから離れたところを、無理やりに連れ込まれたというところだろう。

 彼女はまるでステージの上にいるように、男たちに取り囲まれてビリヤード台に乗っていた。

 それが、彼女の自由意志による行動ではないことは明白だった。むき出しの太ももとその奥を、男たちの視線が這い回っている。  

 彼女の目には、この界隈を生き抜いてきた人間特有の鋭い殺気が宿っていた。だが、そんなものは、レッド・ウォリアーズの男たち相手には、脅しにもならない。

「どうなるってんだ、ええ、お嬢さん?」  

 ビリヤード台を取り巻いた男のひとりが、にやにやしながら言った。

 男は片手に、女物のコムリンクをつかんでぶら下げ、見せびらかすように軽く振った。

「お前のヒモがここに駆けつけて、俺らを蹴散らしてお前を救い出してくれるとでも言うのかよ?
 今ここで、お前の名前を出してコールしてやろうか?
 賭けてもいいが、そいつは、俺たちの名前を聞いた途端に、そんな女は知らねえって言うだろうよ」

「あたしの持ち物に触るんじゃないよ!」  

 娘は金切り声をあげてコムリンクを取り戻そうとしたが、飢えた獣みたいに衣服に爪をかけて引き裂こうとする男たちの群れに阻まれて後ずさった。

「返してやってもいいが……まあそう焦ることもねえだろ? お楽しみはこれからだ」  

 コムリンクを仲間の一人に押し付け、男は、自分もひらりとビリヤード台に飛び乗った。

 街のチンピラにしてはなかなかの身ごなしだ。周囲の男たちから、野蛮な歓声とはやし声が起こった。

「ナマ・ファック・ショーといこうじゃねえか、ええ?」  

 にじり寄ってくる男に、かろうじて保っていた虚勢が崩れ、娘の目に本物の恐怖があらわれた。  

 逃げ場を求めて視線が振れるが、周囲は興奮して拳を振り回す男たちに埋め尽くされている。  

 男の手が、ゆっくりと伸ばされ――  

 出し抜けに、その顔面で、パシャン! と透明な液体が弾けた。

「!?」  

 不意打ちをくらい、男は慌てふためいて顔をこすった。

 液体は周囲の男たちにも降りかかり、何人かが悪態をつきながら両手を振り回す。  

 2秒後、全員の視線が、その液体が飛んできた方向に集中した。

「――無理強いは、みっともないよ♥」  

 いったい、いつの間にそこにいたのか?  

 黒髪を伸ばした、すらりとした長身の若者が、空になったミネラルウォーターのボトルを手に、にこにこしながらレッド・ウォリアーズの男たちを見つめている。

「おいおい、カース」  

 そのかたわらから顔を出したのは、ミラーグラスをかけた金髪の若者だ。

 黒い装甲ジャケットのポケットに両手を突っ込み、にやつきながら言う。

「ここは仮にもバーだぜ。店内への飲み物のお持ち込みは、ちょっとまずいんじゃねえか?」

「仕方ないじゃないか。だって、たとえ砂漠で行き倒れ寸前になってたって、こんな店で出されたものを飲もうって気にはならないからね」

 いまや、ビリヤード台の周囲だけでなく、『ヴァーゴ』の店内全体が、恐ろしいほどに静まり返っていた。

 顔面からミネラルウォーターを滴らせた男が、無言のまま、ゆっくりと女性から離れ、床に飛び降りる。

 すでに形相が変わっていた。怒りのあまりに顔色が赤黒くなり、目が血走っている。

 仲間たちがさっと脇へよけ、彼を通した。

 その隙をつき、包囲されていた娘が、まるで逃げるウサギのような素早さで店内をすり抜け、入り口から飛び出していく。

 だが、男たちは、そんなことには気づきもしないようだった。

 徐々に間が詰まる男とカースの睨み合いに、静まり返っていた周囲から囃し声が起こる。

「ぶっ殺せ! ぶっ殺せ! ぶっ殺せ!」

 しかしカースは動じず、笑みに少々危険なものを混ぜて、悠然と男を指で招いた。

「できるならね。遠慮はいらないよ。かかっておいで――」

 と。  

 男が背後に向かってうなずき――

 それに応えて、レッド・ウォリアーズのメンバーたちが、手近のテーブルの下から一斉に武器を取り出した。

 定番の銃やナイフから、鉛のパイプ、鉄釘を埋め込んだバットまで――

「ええっ!?」

 一瞬で凶器の見本市に変わった店内に、焦ったのはカースだ。

「ち、ちょっと待てっ! 飛び道具まで!? しかも、一人に大勢でかかるっていうのは、どう考えても卑怯――」  

 正論だ。

 しかし、そんな言葉を聞くような連中なら、こんな店にたむろしていたりはするまい。

「ぶっ殺せ!」

 狂喜にも似た男の号令が響き、殺戮ショーが始まる――

 と、その瞬間だ。

「馬鹿野郎座りやがれてめぇらっっ!」

 金髪の若者が、いきなり、内臓を突き抜けて腹の底まで響くような怒声とともに拳を振り下ろす!

 問答無用の一撃を受けた手近のテーブルは、冗談のように爆砕した。

「……………………」  

 一瞬にして、奇跡のように再び静まり返る店内。  

 血まみれのショーに加わろうと店のあちこちで立ち上がりかけた男たちはもちろん、レッド・ウォリアーズの面々でさえも、思わず、きちんと椅子に座りなおしている。

「――よーし。よかろ。そのまま聞け」  

 その静寂をあっさりと破って、にこにこと、ギア。  

 彼がポケットから抜き出した手――

 そこに握られたバッジを目にして、男たちの表情が面白いように変わった。

「俺はギア・ロック捜査官。こいつは、カース・ブレイド捜査官だ。
 俺たち、今度101に来たオフィサーでよ。これから、このへん一帯の面倒を見ることになったわけなんだなぁ」  

 むやみに友好的な笑顔が、異様に怖かった。

「ギ――ギア・ロックだと!?」  

 男たちのあいだを、引きつったようなささやきが飛び交う。

「《012の狂犬》か!?」

「や、やべぇ! 皆殺しにされる……!」

「助けてくれ、俺はまだ死にたくねえ――!!」  

 見苦しいまでの狼狽ぶりに、ギアの額にくっきりと青筋が浮き上がった。

「人が黙って聞いてりゃあ……ごちゃごちゃうるせぇんだよ、てめぇら!
 そのくそったれた安モンの武器をとっとと仕舞いやがれ!
 1秒でもぐずぐずしやがる野郎は、頭から混合燃料ぶっかけて火ィ着けるぞっ!!」

 叫びながら、目の前の男たちを撫で斬りにするように右腕を振る。

 笑顔のままなのに、その動作には、ただの冗談や脅しとは思わせない鬼気があった。

 薄紙一枚を隔てて、かろうじて狂気のような怒りが封じ込められている。そう感じさせるような言葉、動きだった。

 逆らうことなど、誰も、思いも寄らなかった。

「ああ……それでいいんだよ……。このへんで楽しく酒を飲みてぇなら、俺たちの機嫌を損ねないほうがいいからな」 

「……新しいオフィサーさんか……」  

 そのときになって、ぼそぼそと口を開いたのは、冴えない顔のマスターだ。  

 これまでは、店内の騒ぎも我関せず、カウンター内で黙々とグラスを磨いていた人物である。

「着任を祝して、一杯おごらせてもらおうか……」

「――へえ?」

「……え? ちょっと、ギア?」  

 マスターの言葉を聞いてカウンターに歩み寄るギアに、思わず胡乱げな視線を向けて、カースが呟く。

 この状況で杯を受ければ、収賄罪に問われても文句は言えない。

 実際はかなりのオフィサーがやっていることだが、ギアには似つかわしくないように思えた。  

 カースの戸惑いなどは意に介さずに、ギアは高いスツールに腰を下ろした。  

 カウンターについていた男たちが、びくりと肩をこわばらせる。

 できれば逃げ出したいが、急な動きを見せてギアを刺激することを恐れているのだ。

 ギアの前に、ことりとグラスが置かれる。  

 だが――そのグラスに入っているのは酒ではなく、――高額クレジット硬貨。

「へえ……」  

 にや、と笑みを浮かべて、ギアは言った。

「随分と変わったレシピだな?」

「なかなか口当たりのいいやつでね。こいつを飲めばたちどころに、余計な事はすっと忘れられる……」

「なるほどな」

「え!?」  

 ひょいと硬貨を取り上げたギアに、カースがまたもや声をあげるが、それも無視して、ギアはにこやかに言った。

「そういうことなら、今日のところは珍しいカクテルに免じて、皆殺しは勘弁しといてやるよ……」  

 すたすたと出口へと向かうギアを、一同、あっけにとられたような面持ちで見送る。

 彼がこれほどあっさりと引き下がるとは、誰も思っていなかったのだ。

 ギアの通り道の近くに座っていた連中が、テーブルの上いっぱいに広がっているヤバい品物をばたばたと隠す。  

 ――と。

「おお。そうだ」  

 思い出した、というようにポンと手を打って、ドアのところに立ったギアは、くるりと振り向いた。

「帰る前に、これだけは言っとかなきゃな。
 ――俺の方針の話だから真面目に聞けよ。いいか?
 俺は、てめぇらが博打を打とうがそれで儲けようが首をくくろうが、そりゃてめぇらの勝手だから、ちっとも構わねぇ。
 だからこれから先、妙な気兼ねするこたぁねえぜ」  

 このセリフに、一同は、またもやあっけにとられた。

 評判と違って、ずいぶん物分かりのいいオフィサーだ。

「ただし……」  

 その瞬間、男たちは例外なく、背筋に本物の寒気を感じた。

 にやぁっ、と笑ったギアの表情に、悪魔のような凄味があったからだ。

「嫌がる女に手ェ出すのは、金輪際よすんだな――今日みてぇなことが、今度あってみな。その時は、俺がこの店を根こそぎ潰す。主も客も一緒にだ……。
 嫌がる人間を無理やり犯すなんて連中は、人間のクズだ。俺は、クズには容赦しねえぜ」  

 くるり、と一同に背を向け、  

「今言ったこと、俺は絶対に忘れねぇ。
 てめぇらも、よく覚えとくんだな」  

 それだけを言い残して、すたすたと店から出ていくギア。  

 ――その肩越しにクレジット硬貨が飛んで、側のグラスに勢いよく沈んだ。



      *        *         *  



『あなたのせいじゃ、ない』

 脳裏に、泡のように弾けたその言葉。

 瞬間、視界が真っ赤に染まった。

「!?」

 ガタン、と響いたのは、自分の膝がテーブルの天板にぶつかった音だ。

 その衝撃で、悪夢に囚われていた意識が完全に覚醒する。

 ラップトップのモニター画面に映し出されたスクリーンセイバーの中で、骨だけの魚のような図形がにょろにょろと動き回っていた。

 喉の奥に胆汁の味を感じながら、ジェイド・フォスターはセンサーフィールドで指を振ってスクリーンセイバーを消そうとし、自分の指先が細かく震えていることに気がついた。

 オーダーオフィス101、凶悪犯罪対策課の待機室――  

 今、ここにいるのは彼と、イグナシオ、そしてゼファの3人だけだった。  

 ギア・ロックとカース・ブレイドは、今日も連れ立って巡視に出ている。  

 そしてロッサーナ・ウェルズは、なんと無断欠勤をしたまま、完全に行方をくらましていた。

 何度もコムリンクにコールしてみたが、そのたびに『該当ナンバーのコムリンクは、現在、電源が入っていない状態です。おそれいりますが、後ほどおかけ直し下さい』という事務的なアナウンスを聞かされただけだ。

「……大丈夫ですか?」

 可変倍率ゴーグルをはめて席につき、机の上いっぱいに細かい部品を並べたゼファが、心配そうにこちらを向いてくる。

任務がないことを気にかける様子もなく、移動式小型カメラのメンテナンスの真っ最中らしい。

 ジェイドは、蒼い顔で小さく頷いた。

「ああ……大丈夫、だ」

『あなたのせいじゃ、ない』――  

 不意に、ぬるりとした感触を手のひらに感じ、はっとして視線を落とす。  

 両の手のひらが、真っ赤に染まっていた。あの時と同じように。  

 愕然として見下ろした足元の床に、忘れようにも忘れられない、血溜まりに横たわった部下の顔があった。

 顔面の半分を失った虚ろな顔が彼を見つめ、半ばで途切れた唇をぱくぱくと動かした。  

 アナタノセイジャ、ナイ――

「……っあっ、あ、あああああぁっ!?」  

 どがしゃん! という音とともに凄まじい衝撃が襲い掛かり、ジェイド・フォスターは、今度こそ本当に目を覚ました。

「わあぁっ!? 大丈夫ですか、課長!?」  

 心底驚いた、という調子の叫び声は、ゼファ・クラフトのものだ。

「だ……っ、大丈夫だ……!」  

 一瞬、何が起きたのか自分でも理解できなかったが、かっきり90度回転した視界が、その答えを教えてくれた。

 どうやら、悪夢にうなされて身体を跳ねさせた拍子に、椅子ごと床に引っくり返ったらしい。   

可変倍率ゴーグルを上げ、慌ててやってきたゼファが、こちらに手を差し出してくる。

 その手をつかみ、口の中で礼を呟きながら、ジェイドは立ち上がった。  

 夢でそうだったように、額には、びっしりと嫌な汗がはりついている。

 また、どこかからびっくり箱の飛び出し人形のように過去の幻影が現れるのではないかという不安に襲われて、ジェイドは用心深く周囲を見回した。

 部下の目があることは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。

「えーと……コーヒーでも、淹れますか? それがいいですよね」  

 ジェイドの返答を待たず、ゼファはにこにこと自分でうなずき、部屋の隅へと歩いていった。

 そこに置いてあるコーヒーメイカーは、ゼファが持ち込んだ私物で、だからというわけでもないだろうが、初日からなんとなく彼が凶悪犯罪対策課のコーヒー係ということになってしまっている。

 本人がいたって楽しそうにその役をつとめているため、誰も、何も言わなかった。

「えーと、イグナシオさんも、コーヒーでいいですか?」

「…………ホットミルク…………」

「あ、分かりました。じゃ、ちょっと待っててくださいね」  

 機嫌よさそうに言って、新たに据え付けられた小型の冷蔵庫のほうへと歩いていくゼファ。

 ホットミルクを注文した風変わりな白衣の若者、イグナシオ・ファウはといえば、わき目もふらずにラップトップにかじりつき、痙攣かと思うような動きでセンサーフィールドの指先を振り続けていた。

 上司が突然椅子ごとぶっ倒れるという事態にも、まるで動揺していない様子だ。

 時折キイを打つ様子は、彼自体がマシンの延長かと思わせるほどに速く滑らかだった。

 ――ようやく鼓動が平常のリズムを取り戻してきたのを感じ、ジェイドは、深いため息をついた。

 現在、待機室には、彼とゼファ、そしてイグナシオしかいない。

 ギア・ロックとカース・ブレイド、そしてロッサーナ・ウェルズがここにいないのは、夢ではなく、現実だった。

ギアとカースは、巡視に出ている。

 彼ら2人は、バディを組んでからというもの、ほとんど待機室に戻ってくることがない。

 彼ら2人が昨日、特別急襲部隊の隊員たちと揉め事を起こしたらしいと人づてに聞いたときには、思わず血の気が引いた。

 相手の第1部隊は、よりにもよって、あの悪名高い《虐殺アスカ》の隊だったからだ。

 慌てて謝罪のコールを入れたジェイドに対し、しかし、アスカ・ブルーシード隊長は『こちらこそ部下が失礼した』と淡々とした調子で詫びてきた。

《虐殺アスカ》とまで呼ばれた人物である。相当、苛烈な性格の主なのだろうと思っていた。

 一体何を言われるかと内心冷や冷やしていたのだが、彼女の受け答えは、いっそ平板と呼べそうなほどに理性的で、激昂の気配など微塵もなかった。

『お2人にもよろしくお伝え願いたい』と丁寧に締めくくられ、いささか拍子抜けしながら通話を切った。

 前評判だけでは、人物の見極めはつかないものだ。

 そして――こちらのほうが結果的にはより深刻なのだが、ロッサーナと連絡がつかなくなっているのも、また現実だ。

 女子寮の管理人にも連絡して、部屋を確かめてもらったのだが、恐ろしく乱雑なその部屋に、主の姿はなかった。

 コムリンクへのコールも繋がらず、完全に行方不明の状態だ。

 ロッサーナが急に姿を消した理由については、まったく分からなかった。――しかし、理由がどうあれ、自分には部下の管理責任というものがあるのだ。

 ジェイドは、胃のあたりを手で押さえた。

 課長として着任して以来、みぞおちの辺りから、吐き気のような嫌な感覚が消えない。食欲も無論なかった。

 栄養剤でかろうじて持たせているが、どこまで続くか、という状態だ。

 これではいけない、と分かっている。

 いかなる場合にもベストのコンディションを保つことができる、それが、プロフェッショナルの条件だ。

 特に、他者の命が懸かった任務につく、自分たちのような職業の者にとっては。

(私は……もはや、上に立つ者としてだけではなく、オフィサーとしても、失格なのかも知れない……)  

 そのときだ。

 急に、ラップトップの画面に『着信あり』のサインが現れた。  

 ジェイドは一瞬、我が目を疑った。  

 発信元は『イグナシオ・ファウ』。

 メッセージが送信された時間は、0,3秒前――

『課長 顔色悪い
 大丈夫か 心配
 無理しないで
                   イグナシオ・ファウ』

 ばっとそちらを見ると、イグナシオは、何事もないような様子でラップトップに向き合っている。

 内容もそうだが、ジェイドは、このメッセージが送られてきたこと自体が信じられなかった。

 イグナシオは、まだ、このラップトップのアドレスを知らないはずだ。  

 半信半疑のまま、返信してみる。

『君なのか?
 お気遣いありがとう
 しかし、なぜ、このアドレスを知っている?
                   ジェイド・フォスター』

 すると、間髪を入れずに返信があった。

『ボク こういうの 得意
 簡単にわかるよ  
                  イグナシオ・ファウ』                   

「だが、セキュリティ・プログラムが……」

 ジェイドがそう声に出したのは、思わず、ということもあるが、それ以上に、このやりとりの痕跡を残すことを恐れたからだった。

 オフィスのセキュリティ・プログラムを破ることは、あらゆるネット犯罪者たちにとっての勲章だ。

 彼らは日々、新しいプログラムを開発しては、セキュリティを打ち破ろうと、あるいはごまかしてすり抜けようとする。

 これらの挑戦に対して、オフィスに所属する専門のプログラマーたちが、日夜、全力で対抗し続けているのだ。

 それを――彼は、破ったというのか?  

 イグナシオは、視線を合わせてはこなかった。独り言を呟くような調子で、静かに言った。

「……ボクに……破れないプログラムは……ないよ」

「えーと、お待たせしました! コーヒー、入りましたよ」  

 お盆に3人分のマグカップを載せて、ゼファが部屋の隅から戻ってきた。  

「はいどうぞ。今回は、カフェオレにしてみました」

「あ、ああ……」

 まだ呆気に取られながらも、反射的に礼を言って受け取り――

(カフェオレ?)

 ふと、気付く。

 ゼファが、こちらの体調を気遣って、ブラックを避けてくれたのだということに。

 いつの間にか、みぞおちの嫌な気配は薄らいでいた。

 何の操作もしていないのに、ジェイドの目の前でメッセージボックスが点滅し、最前のイグナシオとのやりとりが、最後の文字から、あっという間に消えていった。

 自分の仕事ぶりに満足した職人のように、イグナシオはラップトップの前で両手をこすり合わせ、ゼファに渡されたホットミルクをすすった。



      *        *         *



 ぎりぎりと、金属の軋む音がする。

 渾身の力で握りしめている拳の、指の金属骨格が悲鳴をあげているのだ。

 医師からは、金属疲労の原因になるので避けるようにと言われている。

 だが、そうせずにはいられないのだ。

 そうでなければ、俺はまた、この手で、あいつらを――

「ギア……」

《ヴァーゴ》を出て30歩と行かないうちに、背後から、感無量といった調子でカースが唸ってくるのが聞こえた。

「カッコよかったよ……! オフィサーもののドラマでだって、あんなにばっちり決まったシーンは見られないだろうな。君に惚れ直したよ♥」

「……さっきの言葉、半分以上、てめぇに向かって言ってたんだが……」

「え!? 嘘!?」

「本当だ」

 その薄汚い通りには、今、彼ら以外の人間は影も形もなかった。

 裏の世界の情報伝達能力は、時に、光ラインをも上回る。《ヴァーゴ》を制圧した2人組のオフィサーの噂は、すでにこの地域一帯に広まっているらしい。

「――つーか、お前……何だ、さっきのザマは? ものすごく情けなかったぞ」

「ううう。だって、いきなりあんな大勢で武器を持ち出すなんて反則だよう……」

「……畜生……いったい何の因果で、こんなへらへらした野郎とバディ組まされなきゃならねぇんだ……!?」

 拳の角でごりごりと額をこすりながら、苛々と呻く。

「いいか……金輪際、特に俺の隣では、犯罪者どもの前であんなへらへらした態度を見せるんじゃねえ。
 奴らは、獣と同じだ。自分よりも弱いと思った相手には嵩にかかるが、自分よりも強いと思った相手には逆らわねえ。最初に、格の違いってやつを見せ付けとかなきゃならねえんだよ」

「分かった、気をつけるよ」

 ギアは、足を止めた。

「……本当に、分かってんのかよ?」

 自分でも分かるほど、語調がきつくなった。

 いけない、と自覚する。これでは単に、自分の苛立ちを相手にぶつけているだけだ。

 それでも、止められなかった。

「俺たちの仕事は、常に、ぶっ殺される危険と隣り合わせだ。命がかかってんだよ。――どうも、お前を見てると、そこのところが分かってねえような気がするんだがな」 

「僕は……」

「分かってるなら、そんな態度は取れないはずだ」

 その言葉を聞いた瞬間、カースの表情に、奇妙な揺らぎがあらわれた。

 黒い目が平板になり、底知れない淵のようになった。

「……分かってないのは……君のほうだよ、ギア」

「何――?」

 どん、と、不意に伸びてきたカースの腕がギアの胸の真ん中を突いた。

 完全な不意打ちに、体勢が崩れる。

 後ろ向きに倒れこみながら、ギアは、路地の曲がり角から赤いジャケットを着た男たちが飛び出してくるのを見た。

 全員が、もはや間に合わせの武器ではなく、銃を手にしている。

 一瞬前にこちらの頭があった場所を、弾丸が飛びすぎていった。

(あのクソ野郎ども、尾行してきやがったか……!)

 たとえ相手が名高いバイオレントオフィサーといえども、恥をかかされてそのまま引き下がっては、レッド・ウォリアーズの名が廃るというわけか。

 それだけのことをコンマ数秒のうちに悟って、ギアは身体を丸めた。

 アスカと戦ったときのように、肩口から鮮やかに後転を決める。ビルの壁際にうずたかく積み上げられたゴミの山の陰に身を隠したときには、すでにその手に《マチルダ》が握られていた。

「カース、衝撃弾だ! 撃ちまくれ!」

 反対側のゴミの山に身を隠したカースにそれだけ叫んでおいて、ギアは、弾丸が飛んでくる方に向かって撃ちまくった。

 命中するたびに、小規模な光の花が咲き、赤いジャケットの男たちがばたばたと倒れる。

 だが、次の瞬間、ギアは目を見開いた。

 衝撃弾の命中を食らって倒れた男たちが、次々と胸から血を噴き出してのたうち、糸が切れたように動きを止めていくのだ。

「――お前っ、何を……!?」

 言葉は、間に合わなかった。

 カースが使っているのはホワイトジャケット、通常弾だ。貫通力は高いが、殺傷力は低く、急所に命中しなければ死ぬことはない。

 だが、カースの技量は、ホワイトジャケットの弾丸を確実な死の一撃に変えていた。

 心臓、肝臓、脳――まるで糸に引かれるようにまっすぐに、人体の急所を貫く弾丸。

 カースの表情は、平静だ。

 まるで何も映していないかのような静謐な眼差しで、死にゆく男たちを見据えている――

「カース!」

 もはや、生きて立っているレッド・ウォリアーズはただの2人だけになっていた。

 そのうちの1人を、ギアが放った衝撃弾が打ち倒す。

 最後の1人が構えた銃と、カースが構えたマチルダの弾道が、完全に交差し――

「くそぉっ!」

 裏返った声で悪態をついたのは、男のほうだった。――弾切れだ。

 そして、カースもまた。

 男は、ベルトの後ろからナイフを引き抜いた。

 カースは、黙ってマチルダを放り捨て、素手のままで男の方へ突進した。

 止める間もなかった。

 ギアは、マチルダで男を狙った。相手は、武器を持っているのだ。

 だが、ギアの射撃よりも速く、獲物に襲いかかる肉食獣の動作でカースが飛びかかっていった。

 あっという間もなく若者の首に彼の腕が巻き付き、2人は激しい音をたてて諸共に路面に転倒した。

『大丈夫か』――そう言おうとして開きかけた口が、言葉を吐き出す前に、凍りつく。

 もつれ合うようにして若者とカースが倒れた路面に、急速に真っ赤な染みが広がりはじめていたのだ。

 見慣れた、だが何度見ても慣れるということのない色――

 ガーネットよりも、ルビーよりも遥かに明るく、鮮やかな赤。  

 動脈からとめどなく噴き出す、血液の色だ。  

 急に、目の前が暗くなったような錯覚に襲われた。

「カース!?」

 駆け寄って、傍らに膝をつく。

「おいっ! どこをやられ……ッ!?」

 両肩をつかんで慎重に抱き起こしたギアは、思わず硬直した。

 ぐったりしていると見えたカースが、いきなり、怪我人とは思えない仕草でひょいと首を起こすと、至福1000年といった微笑みを浮かべてきたからである。

 こちらが固まっている間に、彼は熱い吐息をついて、頬に手をかけてきた。

「あぁ、ギア……そんな大胆な……」

「――死ね!」

 一瞬前とは正反対の雄叫びをあげて、ギアはカースの頭を路面に叩きつけた。

 ぎゃあ、という悲鳴にももはや耳を貸さず、男の様子を確かめる。

 商売柄、死体にはとっくの昔に慣れ切っていた。

 だが、それでも目を剥いて見つめてしまったほど、凄惨な傷だった。

 ナイフを握りしめた男の、顎の真下を耳から耳まで――三日月状の傷が、恐ろしいほど深く、綺麗に口を開けている。

「……お前……」

 振り向いた先で、カースは、静かに立ち上がっていた。

 その手に、いつの間にか、大振りなナイフが握られている。

 初めて会ったとき、ギアの首筋を狙ったものだ。

 抜いた瞬間は見えなかった。それまで、どこに収めていたのかすらも、ギアには分からなかった。

 カースは、無言でナイフを一振りし、血糊を払った。

 特殊なコーティングが施された刃は、ただの一振りで汚れを跳ね飛ばし、冴え冴えとした輝きを取り戻す。

「……見られちゃったね……」

 彼は呟いた。

 ギアは、背筋を寒気が這い上がるのを感じた。

 地面の上の血溜まりを見つめるカースの口元には、淡い笑みが浮かんでいた。

「君には、見られたくなかったな。これをやると、皆、怖がって避けるんだもん。――でも、仕方ないよね。

 君を、傷つけさせるわけにはいかない」

「な……」

 カースの物言いに、かっと頭に血が昇った。

「ふざけるな! この俺を、守ろうってか? お前、俺を馬鹿にしてんのか……!? こんなクズどもに、むざむざとやられる俺じゃねえ!
 だいたい、てめえ、何のつもりだ! 俺が衝撃弾で無力化した相手に、止めをさしたな……? 殺す必要は――」

「分かってないのは、君のほうだよ」

 先ほどと、まったく同じ言葉を繰り返して、カースは、こちらに向き直ってくる。

 その瞳に、底知れぬ闇を見たような気がした。

 ――いや、違う。 

 この闇は――かつて、そして今も、自分の奥底に眠っているものと同じ――

「僕たちの仕事は、常に、殺される危険と隣り合わせだ。
 だから、殺さなきゃならない。敵を生かせば、必ず、後に禍根を残す。
 災いの芽は、早いうちに摘み取っておかなきゃならないんだ。
 ――ねえ、そうだろう? バイオレントオフィサー」  

 ぎりり、と、拳が鳴った。

 今と同じようなやりとりが、昔にもあった。



『なぜ、殺した? そんな必要は、なかったはずだ――』

『必要だって? あるさ! どうせ、更正する可能性もねえクソどもだ。税金で飯を食わせてやるだけ無駄さ。あんた、ゴキブリが出たらどうする? 虫かごに入れて餌をやるのか? 馬鹿馬鹿しい! 害虫は駆除するもんなんだよ! 犯罪者どもは皆、ぶっ殺しちまえばいいんだ――!』



 そうだ、殺せ。

 目に付いた犯罪者どもは、ことごとく叩き潰すんだ。

 それが、一番手っ取り早い――



『ギア、それは違う』



 我知らず、胸元に手があがって、服ごしにロケットを押さえる。

「……それは……違う……」

「違わないよ。
 ――どうして、君は、そんなふうに無理をするんだい?」

 カースは、さらりと言った。いつも通りの彼の声で。

 彼があまりにも当然のようにそう言ったので、ギアは一瞬、面食らい、無言で相棒の黒い目を見返した。

 その間に、カースは続けた。

「きみは……犯罪者を憎んでるよ。僕よりも。君の目の中に、それが見えるんだ。君は、彼らの首を自分の手で締め上げて、へし折ってやりたいって思ってる……」

 カースの視線は、バイザーに覆われたギアの目をまっすぐにとらえていた。

 まるで、色つきの強化プラストグラスと二つの眼球を貫き通し、その奥にある精神を読み取ろうとしているようだ。

 ギアは視線を逸らしたい衝動に駆られたが、できなかった。

 カースの言葉は、真実だったからだ。

「君は、犯罪者を憎んでるんだ。そうだろ?
 毛嫌いしてるとか、そういうレベルじゃない。心の底から、憎悪してる。
 でも、君はいつも、最後の瞬間に手を止めているんだ。
 なぜ? どうして、そんなふうに無理をするんだい」



『何故だ? いったいどうしてしまったのかね、ギア・ロック捜査官』

『敵を殺すこともできない男は、我ら012の特急には必要ない』



「宗教的な理由、ってやつ?」

「……そうじゃねえ……」

 ギアは呟いた。

「俺には……わからねえんだ」



      *        *         *



『お誕生日、おめでとう!』

 にぎやかなかけ声とともに、少年は、きらきらと輝く蝋燭を一気に吹き消した。

 部屋は一瞬にして真っ暗闇になり、歓声と、拍手が湧き起こった。

 照明が点灯し、主賓席に座った少年の得意げな顔と、彼を囲んでテーブルについた親しい友人たちの笑顔――そして、テーブルに載った、大きなチョコレートケーキを照らし出す。

『すっげー! 超うまそう!』

 ころころと太った少年が思わず手を伸ばし、

『こら、デニー! まだ食うなよっ!』

 友人のひとりが、その手をバシンとはたき落とす。

 もちろん、冗談だ。

 デニーは、自分で自分の食い意地をネタにして、みんなから笑いをとるのがうまい。

 今夜も、みんながげらげらと笑った。

『え〜? だって、僕、もう腹へって死にそうなんだよな〜』

『あれだけ料理のおかわりしといて、まだ食えるのかよ!?』

 ここで、また笑いが起こる。

 つっこみを入れた少年――キムは、オホンと咳払いをし、もったいぶった調子で、上座に座った少年を示した。

『何てったって、今日の主役は、ギアなんだからな! ギアが最初に食べるのがスジってもんだろ。このケーキだって、ギアのお母さんが作ってくれたもんだし』

『いいよなー、ギア! 母さんが優しくて、料理が上手でよ』

『お母さん、料理人さんなんですよね? うらやましいです。やっぱり、ご飯が美味しいというのは、重要なポイントです』

『ウチなんか、メシを手作りしてもらったコトねーよ! オレも、この家の子どもに生まれたかったなー』

『……あらあら、みんなまだ小さいのに、お世辞が上手いね!』

 取り皿と包丁を運んできた女性が、少年たちのことばに、笑顔で応じた。

 ジーナ・ロック。  

 オーダーオフィス003分署のオフィサー、フェイド・ロックの妻。

 ギアの母親だ。

 着ているものは飾り気のないTシャツにジーンズで、まっすぐな金髪を後ろでひっつめにしている。化粧っ気もほとんどない。

 だが、ぱっと華やかな顔立ちや、晴れた空のように青い眼が、まるで太陽のように明るい雰囲気を放っている。

『ギア、あんたもみんなを見習って、ちょっとは母さんの料理を誉めてくれたらどうなのさ?』

『えぇ……!?』

 ギアは、みどりの目を困ったようにまたたかせた。

 9歳の少年にとって、友人たちの前で母親にこんなふうに言われるというのは、何ともいえず恥ずかしく、複雑な心境だ。

『だってよー、別に、普通だもん。味』

『はぁ、これだもんねぇ! いいよいいよ、そんなこと言うんだったら、せっかく作ったこのケーキ、あたしが全部1人で食べるよ』

『あああ、お母さん、それはダメ〜! ――そ、そんなことしたら、太りますよ! 美人が台無しですよ!』

 わざとらしくつんとしてケーキの大皿に手をかけたジーナに、デニーが必死にしがみつき、

『お前は、自分が食べたいだけだろっ!?』

 キムが、バシバシと彼の背中を叩く。

 また、どっと笑いが起こった。

『そういうことなら、仕方ないねぇ。ほら、ギア、自分で切り分けな』

『うん』

 ギアは友人たちの頭数を数え、慣れない手つきでケーキを切り分けていった。

『僕らが五人、あと、お母さん……あれ、ギア、一個多くない?』

 目ざとく指摘するデニーの後頭部を、またもキムがばしんと叩く。

『アホ! ギアの父さんの分、取っとかなきゃならないだろーがっ!』

 その瞬間、部屋の空気が、微妙に変化した。

 ギアの表情が、目に見えて硬くなる。

 2ヶ月前に招かれたキムの誕生会には、キムの父親と母親、祖父母、親戚一同までもが集まっていた。

 その前の、オーランドの誕生会のときは、アウトドア用品店をやっている父親が屋上でバーベキュー・パーティを企画してくれた。

 ――だが、今夜、この部屋に、ギアの父親の姿はない。

 子どもは、大人以上に空気の変化を敏感に察知する。

 あ、しまった、という表情をキムが浮かべたのと、ジーナが明るい声をあげたのはほぼ同時だった。

『そうなの! この子の父さんも、今日は、帰ってこられるはずだったんだけど――ちょっと、大事なお仕事が入っちゃってね』

『あ、ギアくんのお父さんって、オフィサーなんですよね!? カッコいいなあ! 憧れます』

 誰よりも空気を読むオーランドが、大きな声で言う。

 それを皮切りに、何とか主賓の気持ちを引き立てようと、少年たちは口々に言った。 

『危ない仕事なのに、勇気あるよなぁ』

『ホント、ホント! オレは絶対、無理。強盗とかとバトルすんの怖いもん』

『なあ、ギアも、大人になったらオフィサーになんのか?』

『えー? ……多分、ならねえと思うよ』

 ギアは、そっけなく言ったが、友人たちの努力の甲斐あって、その表情には柔らかさが戻りつつある。

『俺は、どっちかっつうと、レーサーとかの方がいいな!』

『そうですか? オフィサーも、レーサーと同じくらい、カッコいいと思いますよ!』

『そうかな? オフィサーなんて、忙しいし……あんまり、家族といられないしさ』

『――さあ、さあ!』

 ぱん、と手を叩き、ジーナが明るい声を張り上げた。

『ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと食べようよ! それとも、あたしが全部食べちゃってもいいっての?』

『あああ、お母さん! それだけは!』

『落ち着け、デニー! 食欲丸出しは見苦しいっての!』

 デニーとキムの漫才が、硬い雰囲気を完全に吹き飛ばす。

 少年たちは、年齢相応の旺盛な食欲で、ジーナが腕をふるったパーティメニューとは別腹にケーキを詰め込んだ。

 子どものお祝い用のノンアルコール・シャンパンが開けられ、ボトルの口から泡が噴出して大騒ぎになり、選りによってデニーのケーキがびしょ濡れになって彼が男泣きに泣き、ジーナが自分の分を彼に分けてやるという一幕もあった。

 とうとう全員の取り皿が空になり、さすがのデニーも『もうこれ以上何も入らない』と呻くころになって、お待ちかねのプレゼント交換の時間がやってきた。

『ギアくん、おめでとう!』

『おめでとう、ギア』

『おめでとう!』

 色も形も様々の、きれいにラッピングされたプレゼントがギアの前に集まった。

『ありがとう! 開けてみていいか?』

『ぼ、僕のは最後にして! つまんないから』

『ギア、止めろ〜! それは俺の奴だから、最後にしろって、あああ〜!』

 なぜか開封の段になって大騒ぎする少年たちである。

 赤い包みをびりびりと豪快に破ったギアの顔が、ぱあっと輝いた。

『――うおっ、すげー! 《タイドライン》のヒップバッグじゃねーか!』

『伯父さんの店で売ってるやつ! 親戚だとけっこう割引にしてもらえるからさ』

『サンキュー! 明日から使うよ。――こっちは何だ?』

『あああ! それ僕の! 最後にして、最後に〜! むしろ見ないで!』

 不意に、インターホンのブザーが鳴り、モニターを覗いたジーナが『あ、届け物だ』と呟いて玄関に向かった。

 ――やがて、戻ってきたジーナの手には、丁寧に包装された平たい箱があった。 

『ギア!』

 彼女はにこやかに叫んだ。

『父さんから、プレゼントが届いたよ!』

『え、マジ!?』

『すげ〜! ナイスタイミング!』

 その瞬間、ギアよりも、まわりの友人たちのほうがどっと盛り上がる。

『中に、ホロのメッセージカードが入ってるって、宅配会社の人が言ってたよ。開けてみたら?』

『そうそう、開けてみろよ!』

『……後で、開けるよ』

 ギアは言った。

 平静を装っているが、実は相当嬉しいのだろうということが、付き合いの長い友人たちにははっきりと分かった。

 彼らは心得たように目を見交わし、それ以上、開封を迫ることはなかった。

 ギアは、それからパーティが終わるまでのあいだ、ずっとその箱を側に置いて、目を離したすきにどこかに消え去るのではないかと疑うように、ときどきそちらを見て確認していた。

 ジーナは、その様子を微笑ましく思うと同時に、息子のことが少し気の毒でもあった。

 オーダーオフィサー。社会の秩序と、市民の安全のために奉職する者たち――

 自分は、選んで彼を愛した。だが、息子は、父親の職業を選ぶことはできない。

 職を持つ父親ならば、忙しいのはどこの家庭も同じだろうが、勤務時間が不規則で、残業も当たり前のフェイドは、ギアと共に過ごす時間が極端に少なかった。

 せめて息子の誕生日には、と、フェイドは毎回、何日も前から時間を空けようと努力していたが、ひとたび事件が起これば、個人的な予定など吹っ飛んでしまうのがオーダーオフィサーというものだ。

 これまでならば、そういうときは、何日も遅れて帰宅してから『遅れてすまなかったな』という言葉とともに、息子にプレゼントを手渡すのがならわしだったが――

(今回は、嬉しい驚きを仕掛けたってわけね)

 手渡すことができない代わりに、ホロのメッセージカードを同封するというあたりが、家族想いのフェイドらしかった。

(あたしのほうは、欲しがってたベルト買ってやったけど――それは、後回しでいいね)

 任務の合間に、ばたばたとメッセージを吹き込み、配送の手続きを済ませるフェイドの姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。

 やがて友人たちの保護者が迎えに来て、パーティもお開きとなり、クラッカーの紙テープやプレゼントの包み紙が散らかったリビングで、母と息子は、父親からのプレゼントをテーブルの上に載せた。

『……母さん、何が入ってると思う?』

『さあ? 全然、分かんないねぇ』

『この大きさってことは――フロンテック社のMZ‐55かな!?』

『何、それ』

『モデルガン! 前に、買ってって言ったけど、ダメって言われたんだよな』

『とりあえず、開けてみなよ』

『うん!』

 友人のプレゼントのときよりもずっと丁寧に包装紙をはがすと、有名な玩具店のロゴが入った箱が出てきた。

『――メッセージカードってどこかな?』

 いまや隠そうともせずに顔を輝かせて見上げるギアに、ジーナも微笑み返す。

『箱の中に入ってるんだよ、きっと』

『うわー、何かな! 父さん、きっと――』

 蓋に指をかけ、ぐっと持ち上げた瞬間、箱の中で何かがカチリと鳴った。



 ――そして――



       *        *         *



「あらゆる犯罪者に対して、力による復讐を……」

 アスカ・ブルーシードが口にしていた言葉を繰り返す。

 だが、内容とは裏腹に、声音は静かだ。

「そうだ。俺も、それが正しいと信じてた。

 俺のおふくろは、犯罪者に殺された。俺の誕生日に、親父の名前を騙って送りつけられた小包爆弾のせいで――」

  カースが、目を見開いてきた。

「……じゃあ……まさか、君の腕……」

「ご丁寧に、二段構えで爆発するように仕込んであってよ……最初の爆発で、俺の両腕はキレイに吹っ飛んだ。
 そのときに意識を失ったせいで、二度目の強烈な爆発の熱風を吸い込まずに済んだんだが――おふくろが、俺を守ってくれなきゃ、まともに爆風を食らって死んでただろうよ」

「お母さんが……?」

 意識とは関わりなく指がわななき、ギアは、再び渾身の力を込めて拳を握りしめた。

「ああ、勇敢な人だったぜ。自分は黒焦げになりながら、一人息子の命を守ったんだ。
 思い出すよ。いまだに夢に見る。
 目を開けると、消し炭になった天井が見えて、救急隊員たちが俺を取り囲んでる。俺の上に、おふくろがおおいかぶさって――
 その顔だけは、不思議とキレイなままで……」

「……いいよ、ギア、もう、無理に話さなくても……」

「いいから、聞け!」

 強い語調でさえぎったが、腹を立てているわけではなかった。

 ただ、こいつに説明しておきたい、と思った。

 通じないかもしれないが――言葉にして、伝えておきたかった。

 このことを他人に話すのは、初めての経験だった。なぜ今、こいつに、話そうと思ったのか、自分でも分からない。

 ただ、最後まで、言葉に変えて言い切りたいと思った。

「結局、実行犯も、指示した奴も捕まらなかった。親父は、麻薬取締課にいたから、ひょっとすると、そっち関係の組織の連中の仕業だったのかも知れない――
 俺は、オフィサーを目指した。骨格の成長が安定するのを待ってサイバーアームの装着手術を受けて、腕立てだの、機器の操作だの、射撃だの、鬼みてえに特訓してな。おふくろをやった奴らに、復讐するためだ。

 だが、親父は言った。
『そんな気持ちでオフィサーを目指すな。復讐は虚しいものだ』――

 俺は、怒り狂ったね。家族を殺されて、よくもそんな口が叩けるもんだって。親父を憎んだよ。仕事ばかりで、家にも滅多に帰ってこなかったあんただから、そんなふうに言えるんだろうってな。  
 俺はオフィサーになった。何十人もの犯罪者をぶっ殺したよ。命乞いをされても関係なかった。おふくろや、俺のような目に遭う人間を少しでも減らすために、犯罪者を絶滅させることが俺の使命だと信じてた。必要がないときにも喜んで撃ったよ――そう、お前と、同じだった」

 そこまで一気に喋って、大きく息を吐いた。

 無意識に手が挙がって、胸元のロケットの感触を確かめる。

「……ある時、親父が死んだ。
 捜査活動中、犯罪者に、撃ち殺されたんだ。
 その頃には、もう何年も親父に会ってなかった。俺は、葬式に行った。指差して思い切り笑ってやろうと思ったよ。
 ほら見やがれ、甘いこと言ってるからこんな目に遭うんだ、ってな。
 そしたらよ。葬式に……めちゃくちゃ大勢、来てんだよ。
 もちろん、親父の職場の連中は正装で整列してたさ。
 でも、オフィスの関係者でも何でもねえ、よく分かんねえ連中がいっぱい集まって、めちゃくちゃ泣いてんだ。
 何モンかと思ってたら、そのうちの一人が俺に気が付いてよ。ごっつい男が、鼻水流しながら、俺の手を握りしめて言うんだよ。
『坊ちゃん、あんたの親父さんは、凄い人だったんだ』
 ってな」

「凄い……人……?」

「今でも忘れられねーよ、あのオッサンのセリフ。
『坊ちゃん、あんたの親父さんは、凄い人だったんだ。あの人がいなけりゃ、俺は今頃、どっかの溝ン中でゴミみてえに死んでただろう。
 あんたの親父さんは、凄い人だった。ものすごい人だった。俺が立ち直ることを、信じてくれたんだ。こんな俺なんかを、信じて……』
 後は、ドデカい図体して、子どもみてーに大泣きしてやがんの。他の連中も寄ってきて、慰めてんだか、一緒に泣いてんだが――
 そいつら、みんな、親父が逮捕した連中だったのさ」  

 ギアは、肩をすくめた。

「俺は、分からなくなったよ。  
 それまでは、自分の考え方が間違ってるはずがねえと思ってた。犯罪者は社会のゴミで、生きるに値しねえ連中だ。他人の迷惑になる前にさっさと始末するのが、一番効率がいい方法だってな。
 だが――それは――
 気に入らねえ連中や、都合の悪い相手をぶっ殺して物事を解決するってのは――
 俺が復讐しようとした相手と、まったく、同じなんじゃねえのか……?」

「ギア……」

「そいつらと会ってから、俺は、犯罪者はとにかく処刑するってやり方を、変えたんだ。
 ひとりの人間をぶっ殺すってのは――そいつの人生の可能性丸ごとを、消去するってことだ。それが、どういうことか、ちょっとだけ、分かったような気がして――
 怒りはある。復讐心も捨て切っちゃいねえ。
だが、俺は、殺すことをためらうようになった。
 それを『精神的惰弱』って呼ぶなら、そうなんだろう。012の連中の言うことも、お前の言うことも分かるさ。昔の俺が今の俺を見たら、人を撃つ重さを背負う度胸もねえ臆病者だって、笑っただろうからな。
 だが、昔の俺は――その重さってのが、どれほどのものか、本当には、分かっちゃいなかったんだ――」

 最後は呟くように言ったギアを、カースは、じっと見つめていた。

 何かを言おうか、それとも言うまいか、迷っているというように。

「……でも」

 やがて、彼は静かに言った。

「君の父さんは、殺されたんだね」

 ギアは、ちらりと口の端を上げた。

 目の前の、へらへらした色男の中に、鋼のように強靭で刃のように鋭い何かが潜んでいる手応えをはっきりと感じた。

 かつての自分と同じ――あるいは、それを上回るほどの、強固で揺るぎのないひとつの信条が。

 それが、今の自分の考えとは相容れないものであっても――こいつは、バディとして不足のない、男だ。

 初めて、心の底から、そう感じた。

「でもさ、ギア!」

 不意に、ぱっとスイッチを切り替えたように笑顔になって、カース。

「何だよ?」

 通報のためにコムリンクを操作しながら、ギアは問い返す。

 カースは満面の笑顔で、自分とギアとを交互に指差しながら、

「あ、ほらほら! 僕たち、さっきから、これまでになく会話が弾んでるよねっ? 
 ギアって呼んでも、こんなに近づいても怒らないしさ!
 もう、僕たちは一心同体だね――☆」

「……ああ……」

 大きく頷き、ギアは《マチルダ》をまっすぐにカースの眉間に向けた。

「自己申告とは潔いな。その潔さに免じて一発で決めてやるから、安らかに眠れよ……」

「わわわわわ! ちょっ……待ってよっ!? 君、軽々しく人を撃つことはしないって、ついさっき――」

「更正する見込みのねえ色ボケ野郎は例外だ。覚悟しやがれ!」

「ひゃああぁぁあ〜!?」

 銃撃の音と、激しい足音が風のように路地を駆け抜けていく。

 

 ――結局、その日、ロッサーナは101分署に戻ってくることはなかった。




   第4章    始動





     1


《ブリジンガーメン》は、アトランティックビルの50階ワンフロアを丸ごと店舗空間として営業する一流のヘアサロンである。

 客は女性ばかり。それも、富裕層の女性ばかりだった。贅を尽くした内装と、完璧に行き届いたスタッフの対応、そしてカットやカラーリングの高い技術は、贅沢に慣れた女性たちの厳しい目をも充分に満足させ得るものだ。

 かっちりとしたスーツを着込んだ女社長が、スタッフの最敬礼に送られながら、秘書を従えて颯爽と店の奥から出てくる。

 構築的なデザインの黒いスーツは、地味だが最高級のものだ。

 彼女の短い黒髪には、硬質な雰囲気によく似合う絶妙なカットがほどこされていた。この髪形を保つために、彼女は半月に1度、大金をかけてこの店にやってくるのだ。

 同時、エントランスから、身体の曲線をあますところなく見せつけるような大胆な服装の美女が姿をあらわし、見事なスーパーロングのストレートヘアを揺らしながら歩いてきた。

 猫のような足取りに、挑戦的な眼差し。夜の世界に生きる女性――それもとびきりの高嶺の花だと、いくら女を見る目のない男でも気付くだろう。

 すれ違いざま、ふたりの女性のあいだに、小さな火花が散る。

 視線すら合わさることはないが、確かに、それは敵愾心の火花。

 誰よりも美しくありたい、誰よりも高級な女でありたい。

 それは、どんな女性の心の中にも眠る、最も原始的な本能だ。

 金のある女たちは、その本能を充分に満たすために、この《ブリジンガーメン》にやってくる。

「女もなかなか大変だね」

 華やかなエントランスとは反対側、スタッフ専用の高速エレベータ――

 無機質な直方体の空間に、白と黒の制服を身につけた6人の男たちが、銀色のカートを囲んで立っていた。

「僕たちの添え物にふさわしい見栄えを保たなきゃならない」

 撫で付けた褐色の髪の下で、凶暴な光をたたえたみどりの目がぎらついている。

 クアン・デルトロは、腰に下げたホルダーを指先で撫でた。

 そこに納まっているのは鋏やコームではなく、殺傷能力の高いハンドガンだ。白いクロスをかけられたカートに載っているのは、サブマシンガン。

「馬鹿な奴だよ、タイラー検察官……大人しく僕の言うことを聞いて、さっさと不起訴の決定をしていれば、奥さんがまずいことにならずに済んだのにさ」

「タイラー検察官は、これまではファミリーとの取り引きに応じてきました」

 独り言のように呟いたクアンに返答したのは、アントンだ。後ろの4人は皆、彼の部下だった。

 デレクと彼の部下は、下で待機している。

「そうさ、アントン。あいつの奥さんがこんな馬鹿みたいに高級なサロンに通えるのも、僕たちとの取り引きのおかげなんだ」

「正確にはドン・デルトロとの取り引きですが……」

 制服の胸に散ったわずかな血痕を気にしながら、アントンは言った。

 ここに来るまでに、3人の警備員を始末してきている。死体は隠したが、あまり時間をかけてはいられない。

「ああ、そうだね……あいつが今回、僕よりもクソジジイの機嫌を取るほうを選んだのも無理はないよ。――だけどね。もう、これからはそうじゃいけないってことを、教えておいてやる必要がある」

 扉の上のパネルが「50」を表示し、6人の男たちを乗せたエレベータはほとんど反動もなく静止した。

 クアンは、背筋を静かな興奮が這い上がるのを感じた。

 そして、扉が開く――

 それよりも一瞬早く、つやのあるドアパネルの素材に、すっと影が流れた。

 クアンの横手から伸ばされた女のようにほっそりとした指が、クローズ・ボタンに触れる。

 振り向きざま、クアンの右手がホルダーに走ったが、グリップを掴むよりも先に手首を捕らえられる。

 しなやかで華奢に見えても、アントンの手はとても力強かった。  

 クアンの口元が吊りあがり、猛禽のような笑みになった。

「……何の真似だい、アントン」

「ここまでです、坊ちゃん」

 彼の声がくぐもり、手首を掴んだ手がかすかに震えている。

「ドンの命令に背くことはできません」

 クアンの目に本物の殺意が燃えた。

「……そう言うように命令されたのかい? それとも、自分からクソジジイの機嫌を取る犬に成り下がったのかい?」

「私は最初からあの方の忠実な猟犬ですよ、最初からね。――ドンは、あなたを試せと仰せになりました。あなたが自ら思い留まるならばよし……そうでないときは、おまえが止めるようにと」

「お前たち、何してるんだ」

 クアンは振り向かないまま、後ろに控える4人の男たちに命じた。表情にはまだ笑みが残っている。口調は、いっそそっけないと呼べそうなほどに平静だ。

「さっさとこいつを撃ち殺せよ」

 男たちが、一斉に銃口を掲げる。どの銃も、背中から心臓を狙う位置を正確にポイントしていた――クアンの心臓を。

「……そう……それが、お前たちの答えかい……」

 気配からそれを察したクアンの表情から、笑みが消える。

 彼は振り向かないまま、静かに呟いた。

「ねえ、今なら許してやるよ。考え直せよ」

「ファミリーのためなのです。ご一緒においでください」

 耳元でささやくアントンの声には、複雑な感情が入り混じっているようだった。クアンへの親愛、ドン・デルトロへの畏怖。興奮、緊張。権力への渇望――

 醜悪。

「嫌だ、と言ったら?」

「どんな手段を使っても連れ帰るように、と、ドンのご命令です。……しかし、私はあなたのことが好きですよ、坊ちゃん。あなたを殺したくはない。大人しくおいでください」

 クアンは笑った。

「嫌だね」

 クアンが倒れ込むように床に伏せると同時、凄まじい轟音が響き、エレベータのドアが外から乱射される弾丸によってずたずたに撃ち抜かれた。

 4人の男たちが壊れた操り人形のように血を噴き出して倒れ、アントンもまた、腹に一発を受けてエレベータの内壁に叩きつけられる。

 身を起こしたクアンが拳でボタンを叩くと、ドアが開き、マシンガンを構えた巨漢と彼の部下たちの姿が現れた。巨漢がトリガーにかけた人差し指には、ひときわ巨大なダイヤが嵌まった指輪がきらめいている。

「これぞ《ディアブロ・ロホス》の仕事だよね。――行け、デレク」

 デレクは頷き、部下を引き連れて通路を駆け抜けていった。

 一瞬にしてスローター・ハウスと化したエレベータ内を振り返って、クアンは銃を抜いた。

「分かるかい、アントン?」

 アントンは、腹に急速に広がっていく血の染みを両手で押さえ、クアンを見上げていた。

「クソジジイが僕を泳がせたように、僕もまた、お前を泳がせていたのさ……おまえが思い留まるならそれでよし、もしも、そうでないなら――」

「……いつからです……?」

 自分に向けられた銃口の奥の闇を見つめるアントンの目には、奇妙に魅入られたような光があった。

「最初からさ。僕がパパに教わったことは2つあった。最も重用する部下は、常に2人置け。
 そして――腹心といえども、決して、信用はするな」

 発射音はほとんどなく、頭蓋骨の欠片と脳漿が壁面に飛び散る湿った音が響いた。

「お別れだ、アントン。僕も、おまえのことは嫌いじゃなかったよ」

 通路の奥から派手な銃撃の音が響くのを耳にして、クアンはにやりとくちびるを吊り上げた。

 賽は投げられた。もはや、時計を止めることはできない。



     2


 タイラー検察官夫人ターニャ・タイラーは、豪華な個室で、髪のカラーリングを受けているところだった。

《ブリジンガーメン》では、客を退屈させないことを接客の基本としている。

 客は、カラーリングが定着するのを待つあいだ、客は、巨大な画面で動画を鑑賞したり、ネットサーフィンを楽しむこともできた。

 数センチ四方のセンサーフィールドで指先を動かすだけで済むから、クロスをかぶったままでも、あらゆる情報に手を伸ばすことができる。

「ママ、まあだ?」

 背後から聴こえた、いくぶん舌足らずの幼い声に、ターニャは、それまで熱心に読んでいたアンチエイジングの美容法から視線を上げた。

 年齢よりも遥かに若々しく美しい顔で、微笑んでみせる。

 頭を動かすことはできなかったが、目の前の鏡に、さっぱりとした子ども用のドレスを着た、彼女の娘の姿が映り込んでいるのが見えるのだ。

 彼女は、トリートメントコースの施術を受けた髪をふわふわにカールさせてもらい、まるで天使のような愛らしさだった。

 だが、頬をぷっと膨らませ、眉をへの字に曲げて、いかにもご機嫌ななめといった様子だ。

「そんな顔しちゃだめよ、フアナ。せっかくの美人が台無しよ?」

「だって、ママ遅いんだもん!」

「もうちょっとだから。そっちで、もう少し待ってなさい」

「お嬢さん、これをお使いになりますか?」

 スタッフが素早く子ども用のラップトップを差し出すが、フアナは気難しげに小さな手を振ってそれを退ける。

「いらない! ママと、早くお買い物に行きたいんだもん」

「では、お菓子と飲み物を用意……」

「いらないもん! ママとお買い物に行って、アダムス・カフェで、スフレを食べるんだもん」

 フアナは、ぱたぱたと地団駄を踏んだ。

 ――さしもの《ブリジンガーメン》のサービススタッフにとっても、幼い子どもを30分以上退屈させないという芸当は、困難を極めるらしい。

「フアナ、おとなしく待ってなさい。ね、もう少しだから」

「やだ! もう行く。わたし、先に行っちゃうもん」

 小さな暴君は、軽い体重が許す限りの足音を立てて個室の出入り口へと向かった。

 スタッフが、慌てて追いかける。出入り口はセンサー式の自動ドアになっているから、もしも本気で出ていかれて、迷子にでもなられたら大変だ。

「フアナ、こら! 駄目よ」

 フアナは、いらいらしていたが、同時に小さな勝利感も覚えていた。

 大人なんて、動かすのは簡単。ちょっと泣いてみせるか、すごく怒ったふりをすればいいだけだわ。そうすれば、みんな、お砂糖みたいに甘くなっちゃうんだから。

「いいもん。わたし、1人で、お買い物に行っちゃうもん!」

 フアナが母親のほうを振り向き、勝利宣言のように叫んだとき、扉が開いた。

 そちらに目を戻したフアナは、凍りついた。

 まるで、鉄の壁のような、大人の男――

 黒ずくめの巨大な男が、巨大な銃を持って、そこに立っていた。

 その後ろにも何人かいたが、フアナの目には、ほとんど、先頭の1人の姿しか入らなかった。

 その太い指には、イミテーションにしか見えないほど大きなダイヤモンドがきらめいていた。

 室内に向けられた銃口が続けざまに火を噴き、フアナは金切り声を上げた。母親の悲鳴よりもきっかり1オクターブ高い、絹を裂くような声だった。

 部屋の中にいた3人のスタッフが、身体中から血を噴き出しながら、独楽のようにくるくると回って倒れ込む。人間から肉塊に変わったそれは弾みもせず、床にへばりつくように倒れ伏した。

 フアナは、そんなとんでもない現実そのものを打ち消そうとするかのように、叫び続けていた。

 銃撃が止み、駆け込んできた男たちが母親を席から引きずり出すときになって初めて、その叫びに意味が生じた。

「ママー!」

 母親の側に駆け戻ろうとしたフアナの襟首を、男の大きな手が掴み、子猫でも捕まえるようにぶら下げた。

「や、やめて! 離して! フアナだけは!」

「――坊ちゃん」

 なおも喚きながら必死に暴れるフアナを捕らえたまま、《ディアブロ・ロホス》はこともなげに通路を振り向き、言った。

「ガキはどうします。始末しますか?」

「……へえ?」

 その人物が姿を現した瞬間、フアナは、ぴたりと叫ぶのをやめた。

 幼い本能が、察知したのだ。生命の危険を。

 血まみれのスーツを着た、男。

 まだ若いけれども、フアナにとっては、大人の男。

 その酷薄なみどりの目にじっと見据えられ、フアナは、金縛りに遭ったように身動きができなくなった。

 それは、人間の子どもを見る目ではなかった。

 まるで、トランプの札でも見るような目つきだった。

 大してよくもない手札を、捨てようかどうしようか迷っているときの目だ。

「ああ、お願い、お金ならあるの、どうか、子どもだけは……」

「連れていけ」

 すすり泣き混じりのターニャ夫人のことばなど、まるで意に介した気配もなく、クアンは笑った。

「人質は多いほうが好都合さ。……1人殺せば、2人目の価値が上がるってものだよ」

 哀れな母子の口をダクトテープで塞ぎ、男たちは、職員用の通路を駆け抜けていった。

「急げ!」

 壁面に埋め込まれたエレベータのボタンを殴りつけておいて、非常階段の扉をこじ開け、飛び込む。

 警備員は買収済みで、しばらくは通報される心配がないとはいえ、念には念を入れておくべきだ。万が一、途中でエレベータを止められたりしては、籠の鳥も同然になってしまうではないか?

 しかし、数十階分を階段で降りるというのは、時間的にも効率が悪すぎる。

「暴れるなよ、真っ逆さまに落っこちて首の骨を折りたくなけりゃな!」

 ハーネスを手すりに固定し、強靭なアラミド二層繊維のロープを吹き抜けに投げ下ろす。

 男たちは、現場に突入する特別急襲部隊のように、次々とロープを滑降しはじめた。

 人質を抱えていても、その動きに鈍さはない。

 と、その時だ。

「――動くんじゃないよ!」

 出し抜けに、鋭い警告の叫びが響き渡った。

 それは、男たちの、遥か頭上から聞こえてきたのだった。

「落ちるな、てめえら!」  

 最後尾を滑降していたデレクが、片手だけでサブマシンガンの銃口を真上に向け、フルオートの掃射を始めた。

 一歩間違えれば自分たちが跳弾を受けかねない危険な銃撃だったが、効果はあった。

 非常階段の遥か上で、何者かがさっと身を隠す。

「てめえら、先に降りてろ! 行け、行け、行け!」

  ったく、何モンだ、とデレクは内心で舌打ちをしていた。

 こちらの位置は既に掴まれている。だが、狭い非常階段の中という状況はこちらに有利にも働いた。相手の位置も特定できるからだ。

 何者だかは知らないが、こうなれば、弾数で相手を圧倒し、物陰に釘付けにしておくしかない。

 デレクが撃ちまくっている隙に、クアンたちはほとんど地上階に達しようとしていた。

「早く来い、デレク!」

 サブマシンガンを乱射しながら滑降し、デレクはクアンたちに合流する。

 扉の電子ロックを撃ち抜き、彼らは外に飛び出した。そこに、バレット・カーが待機しているのだ。

 ――一方、その頃、非常階段の上では。

「あンのクソドハゲ……なぁぁぁにが『相手は秘密裏に動くはず』よ!? ド派手にやってくれやがって! 危うく、全身穴だらけになるとこだったじゃないのっ!」

 毒づきながら立ち上がったのは、ロッサーナだ。

「危険手当は出るんでしょうねぇ……?」

 ぶつぶつ言いながら、サロンのロゴ入りのクロスをマントのようにひるがえし、コムリンクを取り出す。

 着信履歴に山のような記録が残っているが、それらには一切構わず、

「こちら《死神》よ!」

 相手が出たと見るや、怒鳴った。

「《蛇》は箱から出た。《トンボ》を飛ばしなさい!」



     3


「あぁ?」

 不意にけたたましく響き始めた着信音に、ギアは、手にしていた《マチルダ》の銃口を下げた。

《マチルダ》をホルスターに突っ込んで、コムリンクを取る。

 その表示の内容を確かめると同時、眉がぎゅっと寄った。

「通信司令部――?」

 ここからの着信とくれば、十中八九は事件に関わるもの――それも、緊急出動を要するような案件と決まっている。

 コムリンクを耳に押し当てるギアの表情には、わずかな緊張と同時に、現状が動こうとしていることへの期待感が表れていた。

「ううう……た、助かった……」

 ギアに胸倉を掴まれて壁に押し付けられ、絶体絶命の状態だったカースが、だーと涙を流しながら呟く。

 だが、彼はすぐに、それがぬか喜びであったと悟る羽目になった。

「……何だと!?」

「ぐえッ!?」

 コムリンクの向こうから伝えられた情報に、ギアの語調が跳ね上がった。

 胸倉を掴む手にも、我知らず力がこもる。

 首を締め上げられたカースがばたばたともがいたが、気にも留めない。

「ああ……ああ、分かった……了解だ! 直ちに、急行するぜ!」

 通話を打ち切ると同時、

「おい、カース! 仕事だ!」

 コムリンクを掴んだ手で、どんと勢いよくカースの肩を叩く。

「うぅ〜……」

「コラ、てめぇ! 何をフラフラしてやがんだ!?  しっかりしやがれ! この件がうまく片付いたら、飯でも酒でも、付き合ってやるからよ!」

「ホントかい!?」

 途端に、がばっ! と復活するカースだ。

 現金な奴である。――演技なのか、それとも、本気なのだろうか。

「ああ」

 ギアは、そんなことは気にもしていなかった。《マチルダ》の弾丸を手早くブルーライン・ジャケットに入れ替える。

「アトランティックビル内《ブリジンガーメン》にて人質誘拐事件発生。犯人は複数。数台のバレット・カーに分乗し逃走。サジタリウス・ラインを、こちらに向かって北進中……」

「アトランティックビルから、サジタリウス・ラインを北進……?」

「そうだ」

 ギアの視界、ミラーグラスの内側には、いくつもの映像が立て続けに映し出されていた。

 オータム・シティの立体的な地図に、バレット・カーによる移動が可能な街路の路線図が重なり、アトランティックビルが赤、サジタリウス・ラインが黄色に明滅する。

「俺たちの方に、向かってきてやがるのさ」

 ミラーグラスと接続されたHUDシステムは、さらに、リアルタイムの映像も受信していた。

 上空から撮影された、黒いバレット・カーの映像だ。

 ギアは、眉をひそめた。

(犯人は、複数の車輌に分乗して逃走中のはずだ……。なぜ、この一台だけをクローズアップしてる……? 主犯が乗っているのか? それとも、人質が? どうして、それが分かる……?)

 だが、その疑問は即座に意識の淵に沈め、ギアは、目の前の問題に集中することにした。

 映像の中で、サジタリウス・ラインに流れ込む毛細血管のように、無数の通りが増殖してゆく。

 やがて、その一本が激しく明滅を始めた。

「ここからなら――ペイモン・ストリートに入れば近い。A−6ゲートで追いつける」

「でも、僕たちに車はない。間に合わないよ」

「車か」

 映像を消し、ギアは呟いた。

 その声は妙に静かで、くちびるには笑みが浮かんでいた。

「……大丈夫だぜ。俺のダチに貸してもらえる」

「そんな人に心当たりが?」

「ねえよ。これから探すんだ」



     4


 オータム・シティのダウンタウンは、地元の人間にとってさえ安全とは言いがたい場所だが、よそ者にとっては危険以外の何者でもなかった。

 表通りは、比較的安全であると言ってもいい。だが、言葉巧みに誘われて、あるいは猫をも殺す好奇心に誘われて、不用意に裏通りへと踏み込んだ者は、5分と行かないうちに素っ裸にされてしまう。

 服も、財布も、臓器も、シチズン・カードの情報も何もかもだ。

 だが、裏通りには――『危険』には、と言い換えてもいい――抑えがたく人々を惹き付ける何かがあるらしい。

 これだけその危険性が喧伝されているにも関わらず、裏通りに踏み込んでは行方不明になる者が、後を絶たないのだ。

 おそらくはそのうちの全員が、あの根拠のない確信――「自分だけは大丈夫」という、あの恐るべき思い込みに支配されていたのだろうが。

 そして今、ここにも、そんな犠牲者候補の1人がいた。

「ねぇ旦那、サービスするよお」

「ハンサムさん、遊ぼうよ、安くするよ」

 次々と差し出される売春婦たちの手を、ゴリラとブロック塀とをかけ合わせたような外見の用心棒が、ほとんど蹴散らすような剣幕で払いのける。

 この忠実な護衛――フランケン、という名前は名付け親のちょっとしたユーモアのあらわれだろう――に守られて、でっぷりと突き出た腹を揺すりながら、ゴール・モーガン氏は満足しきったよちよち歩きで《クラブ・マチェーテ》から自分の車へと向かった。

 《ヴァーゴ》と同じ、裏通りの汚らしい店だ。

 だが、こちらは酒場ではなくダンス・ホールだった。トップレスの、あるいは遥かに刺激的な格好をした娘たちが耳を聾する大音響に乗って踊りまくる、この街の裏通りにふさわしいホットなスポットだ。

 もちろん、相応の金を支払えば、ダンスを見る以上のお楽しみにもありつける。

 街の中心部の高層階に住むような上流の人間が、お上品な娯楽には飽き足らなくなり、より大きなスリルと快感を求めて裏通りに繰り出してくるのは珍しいことではない。

 彼らエグゼクティブは、危険な地域に出入りすることが、自分がタフな人間であることの証明だと思っているのだ。

 薄汚いビルの陰にうずくまるハイエナたちがそれを聞けば、馬鹿にしてせせら笑うに違いない。

 図体ばかりでかくて鈍いゴリラに守られた、丸々太った仔豚ちゃんだ。

 踏んづけてキーキー悲鳴をあげさせるのもよし、それに飽きれば、ぺろりと平らげてやるだけのこと――

「出せ、フランケン!」

 バレット・カーに乗り込んだモーガン氏は、かんしゃくを起こす寸前の子どものような声で喚いた。追いすがってきた女たちの、垢だらけの手で車のボディを触られたくなかったのだ。

「……しかし……」

 いかにも血の巡りの悪そうな用心棒は、運転席におさまって、困ったように呻いた。

 いまや、女たちは車体の前にも群がり、ボンネットをステージにしてショーを始めつつあった。薄いスカートをひらつかせたり、窓に舌を押し付けて舐め上げる。

「出せ!」

 エアコンから吹き出してくる風にすら、彼女らの安香水と饐えたような体臭が混じっているような気がして、モーガン氏は、もはや我慢ならないといった声で叫んだ。

「構わん! 発車しろ。淫売どもを振り落とせ!」

 バレット・カーが動き出すと、女たちは一斉に罵り声を上げて跳び退いた。ボンネットから転がり降りた拍子に、ヒールが折れて転倒した者もいる。

 先ほどまで甘ったるい媚を売っていた唇が、背後で聞くに耐えないような悪罵を連発したが、バレット・カーの後部座席にゆったりとおさまったモーガン氏の耳には届かなかった。

 さあ、これからオフィスに戻って、取引先との打ち合わせだ。それにしても、今日の踊り子はなかなか良かった。あれは、何という名前だったかな――

「……うおっ!?」

 フランケンが、喉の奥で唸るような悲鳴をあげたのと、凄まじい爆発音が轟いたのが同時だった。

 反射的にブレーキを踏み込んだフランケンの身体が、大きく前にのめる。

 セーフティ・ベルトを締め忘れていたモーガン氏のほうは、ぷきゅ!? と本物の仔豚のような悲鳴をあげて、運転席のヘッドレストにまともにキスをする羽目になった。

「な……何だ、何だ!」

 爆発したのは、バレット・カーのほんの数メートル前方の路面だった。

 爆弾か、と思ったが、違う。

 通りのずっと先――30メートルほど離れた地点に、ひとつの人影があった。

 黒いジャケットを着て、黒いミラーグラスをかけた、金髪の少年――

 彼がこちらに向けてまっすぐに銃を構えているのを見た瞬間、モーガン氏は完全に裏返った声で叫んでいた。

「バ、バックだ! バックしろ――!」

 コンコン、と、ノックの音。

 真横を見たフランケンの眼前に、黒い銃口があった。

「あのー……すみません、ここ、開けてもらってもいいですか?」

 黒髪の男が、にっこりと微笑んで言った。

 このバレット・カーの窓は防弾仕様になっているが、路面を爆裂させるほどの威力を持った弾丸――おそらくは撤甲炸裂弾を、これほどの至近距離で放たれては、防ぎきれるはずもない。

 フランケンは、魅入られたようにドアのロックを解除した。

「ありがとう」

 蕩けるような笑みを見せて、黒髪の男が銃を振る。

「悪いんだけど、ちょっとこの車を貸してもらいたいんだよね」

「な、な、何者だ、お前たちは……っ!?」

「ああ、申し遅れました」

 黒髪の男は、こともなげに、左手をジャケットの内側に差し入れた。

「僕たちは――」

 その瞬間だ。

 出し抜けに、フランケンが拳を繰り出した。

 やわな頭蓋骨程度ならば粉々に粉砕してしまいそうな一撃だ。その拳は、黒髪の男の顔面のど真ん中にめり込み――

 それが残像に過ぎないことにフランケンが気付くよりも先に、突き出した腕に蛇のように巻きついたものがある。

 フランケンの肘を一瞬でがっちりと拉いだそれは、素早く身を沈めた黒髪の男の手だった。

 ぶん! と世界が回転し、運転席からすっ飛んで路面に叩きつけられるその瞬間まで、フランケンは、自分の身に何が起きたのか理解できなかった。

「ひっ、ひ……」

 用心棒の巨体が華麗な1本背負いで吹っ飛ぶのを目撃し、モーガン氏の顔は凄まじいまでに引きつった。  

「ま、待て、待ってくれ! か、金なら払う! 車も――」

「……おっ、貸してくれるのか!?」

 反対側の窓に駆け寄ってきた金髪の男の剣幕に、モーガン氏はまたまた情けない悲鳴をあげた。

「ゆ、誘拐業者かぁ……っ!? 頼む、お願いだ、命だけは――」

「あの、すみません。僕たち、オーダーオフィス101の者です……」

 改めて懐からバッジを取り出し、申し訳なさそうに呟く黒髪の若者――カース。

 そのカースをどかんと押しのけて、ギアは景気よく言った。

「話が早くて助かるぜ、おっさん! ――おうカース、そっちのごっついのを後部座席に放り込むぞ! ……いいか、おっさん。あんたは、ただ大人しくしててくれりゃいいんだ。さもねえと、命の保障はできねえぜ?」

 発言が、ほとんど強盗である。

「運転はどっちが?」

「俺が運転する。お前は助手席に乗れ!」

 哀れなフランケンをモーガン氏とともに後部座席に詰め込んでおいて、ギアとカースは、それぞれの座席に飛び乗った。

「さあ、パーティの始まりだ――」

 ハンドルの上で指を踊らせ、ギアは叫んだ。

「セーフティベルトを締めな、てめぇら! ド派手にぶっ飛ばすぜっ!」



     5


「坊ちゃん、オフィスが動き出しましたぜ!」

 運転席で治安局の通信を傍受していたデレクが叫んだ。

 急遽、ヘッドセットからスピーカー出力に切り替えられた通信機器が、オフィスの動向を逐一伝えてくる。

『……車輌は現在、サジタリウス・ラインを北進中。現場近くの捜査官は、直ちに急行せよ――』

 クアンは手の中の銃を弄り回しながら、みどりの目を凶暴にぎらつかせた。

(なぜだ……こんなに早く……!)

 現在、クアンたちの車に同行しているのは、部下が乗った1台のみだ。後尾にぴったりと続き、背後の守りを固めている。

 まだ、その向こうに治安局の車輌は見えないが、ここまではっきりと場所を特定されている以上、彼らが追いついてくるのは時間の問題だ。

(部下の誰かが裏切ったのか? アントンのように? ……いや、そんなはずはない、全員、試験済みなんだ……。だとしたら……)

 縛られ、猿轡をされたまま、クアンの隣で声もなくすすり泣いていたターニャ夫人とフアナは、クアンの視線に射すくめられて、びくりと身をすくませた。

「……あんたたちの仕業かい?」

 妙に優しげな声が、不吉な予感をかきたてる。

 母子の怯えきった眼差しを、クアンは凍りつくような目で見返した。

 ――考えられるのは、この2人のどちらか、あるいは両方が、発信器を所持しているということだ。

 車に連れ込む前に、私物は全て取り上げて破壊し、衣類を調べ上げた。そのときは、何も出なかったのだ。

 だとすれば……

「教えろよ」

 ターニャ夫人の口からダクトテープを剥ぎ取り、彼女の顎を掴みあげて、息がかかるほど近くに顔を寄せる。

 高価な香水に混じって、恐怖のにおいまでも嗅ぎ取れるほどの距離。

「発信器をどこに持ってるんだい?」

「な、何のことです――」

 震える声は、途中で悲鳴に変わった。クアンが、彼女の頬を思い切り張り飛ばしたのだ。

 窓際に押し込められていたフアナが猿轡の奥で必死に唸り、母親を守ろうとするかのように、クアンとターニャのあいだに身体を割り込ませようとする。

 だが、クアンは気にも留めなかった。

「とぼけるんじゃねえよ! そうでもなきゃ、治安局のクソイヌどもが、これほど早く俺たちの動きを嗅ぎつけられるはずがないだろうが、ああ……? 正直に言う気がねえなら、可愛いお嬢ちゃんの腹掻っ捌いて確かめてやったっていいんだぜ……!」

「や、やめて、やめて! 本当に知らない!」

 ターニャは気も狂わんばかりに身をもがき、絶叫する。

「発信器なんて持ってないわ、本当、本当よぉ……!」

「クソアマが」

 静かな声で呟き、クアンはナイフを抜き、逆手に握った。

「あんたの内臓から確認してみようか?」

 フアナが泣きながら母親にすがりつく。ターニャ夫人の目は、死に魅入られた獣のように、ナイフの刃に吸い寄せられた。

 そのときだ。

 凍りついたようなバレット・カーの車内に、遠く、微かな音が響いた。


 
     *   *   *



「ギア、危ない! 危ない危ない危ないぎゃああああっ!?」

「た、助けてくれぇぇぇ! 私はまだ死にたくないぃぃぃぃ!」

「おらおら、てめぇら邪魔だ、どけえええっ!! 俺たちの前を、塞ぐんじゃねーよっ!」

 サジタリウス・ラインとの合流地点であるA−6ゲートを目指してペイモン・ストリートを驀進するバレット・カー。

 その狭い車内は、今、三者三様の叫び声でけたたましい有様となっていた。

「警告灯、持って来とけばよかったな……」

 前を行く車を2台まとめてぶっちぎりながら、ぼそりと呟くギアだ。

 市民から徴発したバレット・カーである。もちろん、治安局仕様の装備など一切ない。

 警告灯もなければ、スピーカーもないのだ。

 いくら車内で叫んでも、周囲のドライバーに伝わるはずもなく、このままでは、単なる暴走車と間違えられて通報されそうな勢いだった。  

 ちなみにフランケン氏はとっくの昔に後部座席から床に転がり落ち、前後の席の隙間にみっしりと詰まった状態になっている。

 当初は左右にGがかかるたびに情けない悲鳴をあげていたモーガン氏だが、今や恐怖が一線を突き抜けてしまったらしく、天を仰いでぶつぶつと支離滅裂な祈りの文句を唱えている。

「……ギア、あの人、最初に下ろしてあげたほうがよかったんじゃないの?」

「何言ってんだ」

 そちらを見ようともせず、忙しくハンドルを切りながら、ギア。

 前方にA−6ゲートが見えてきた。リアルタイムで中継される映像が、逃走車輌が間近であることを告げている。

「こんな食いごたえのありそうな肉の塊、あんなとこで放り出したら、あっという間に獣どもに襲われちまうだろうが?」

「なるほど、さすが、僕のギア! 一応、他人のこととか考えてるんだねっ!」

「一応ってのが気になるが、まあそうだ。――いやがった!」

 A−6ゲートを通り抜けた瞬間、まるでこちらの鼻先をかすめるように、漆黒のバレット・カーが凄まじい速度で通過していった。

 ミラーグラスの奥で、目の色が変わる。

「逃がすかよ、犯罪者どもが……!」 

 床を踏み抜かんばかりの勢いでアクセルを踏み込む。

 モーガン氏の甲高い絶叫が、カーチェイスの始まりの合図だった。


 
     *   *   *



 3台のバレット・カーが3つの黒い流星のように、極限のスピードを競い合う。

 サジタリウス・ラインを流れる他の車は、まるで止まっているかのようだ。

「覆面か……? それにしては警告灯も出しやがらねえが――」

 ドアミラーを覗き、デレクが怒鳴る。 

「スタンレー、てめぇら、ケツ振って連中を足留めしろ!」

 上司からの通信を受けて、それまでは後尾にぴったりとついていた部下の車が、蛇行運転をしながら徐々にスピードを落としていく。

 逆に、デレクは一気にエンジンの回転数を上げた。この隙に、追っ手を一気に振り切るつもりだ。

 目の前に立ちはだかった車に、ギアも当然、その意図を悟った。

「あっ、このヤロ……! 主犯を逃がす気だな!? 邪魔だ邪魔ぁぁぁ! ブッ殺すぞ!」

 右へ左へと目まぐるしくバレット・カーを操りながら、口汚く敵を罵る。

 こちらからの報告を伝えるためにマイクを作動させてしているから、この怒鳴り声は通信司令部にも丸聞こえなのだが、まるで気にした様子もない。

「ギア……君、ハンドル握ると性格が変わるタイプ……?」

 助手席から、やや震え気味の声で、カース。

 いまや彼も通信司令部からの情報を受けるため、方耳にイヤーカフスを装着し、HUDシステム搭載のゴーグルをかけていた。そのゴーグルの下でもはっきりと分かるほどに、顔色が蒼褪めている。

「あ? 何のこと――って、邪魔だっつってんだろこのクソッタレが! ケツに一発ぶちかまされてぇのかコラァァァァ!?」

「わあああ! 待って待って待って!」

 全速力で追突をかけようとするギアを、必死に制止するカースだ。

 治安局仕様にボディを強化されたものならともかく、民間人から徴発したマシンでは、そんな衝撃には耐えられまい。

 下手をするとこちらの車体が爆発・炎上、ということにもなりかねなかった。

「ここは、僕に任せて。――ギア、君は、車体を安定させることに専念してくれ」

《マチルダ》を抜き、窓を開けながら、カースはそう告げた。

「おい、カース、どうする気だ?」

「バレット・カーのバックを襲う趣味はなくてね。――あ、でも、君のバックならいつでも……」

「蹴り出すぞ」

「冗談だよ。――車輪を狙って発砲し、動きを止める」

「できるか?」

「できるさ、君となら。回避行動はしっかり頼むよ」

「……しくじったら蹴り出すぜ。しっかりやれ!」

 カースは窓から身を乗り出し、ぴたりと狙いを定める。横顔は、先ほどまでとは別人のように平静だ。

 その視線が《マチルダ》のリアサイトからフロントサイト、そして相手の車体のホイールまでをまっすぐに貫いた、その瞬間、彼は迷いもなくトリガーを絞った。

 ホワイトジャケットの弾丸は狙い過たず強化ゴムに突き刺さり、バウッ! と激しい爆発音が響く。

 転瞬、相手の車体はコントロールを失い、激しくよれて側壁に激突した。

 1トン近い金属の塊が激しくスピンしながら、巨大な凶器となってギアの運転するバレット・カーに襲い掛かる。

「こん……のぉぉぉぉぉっ!!」

 神業のようなハンドルさばきで車体を限界まで左に振ったギアの鼻先すれすれを、クアンの部下のバレット・カーが掠めてすっ飛んでゆく。

「ぎゃあぁぁぁっ!?」

 カースの悲鳴とともに火花が飛び散り、焦げ臭い異臭が立ち込めた。

 大きく回避した拍子に、車体の助手席側の面を、少しばかり側壁で擦ってしまったのだ。

 もちろん、クアンの部下たちの車はその程度では済まなかったようで、背後で派手な爆発音が轟き、もうもうと煙が上がっている。

「……悪ぃ、悪ぃ。まだ頭はついてるか?」

「ひどいよ! もうちょっとで、顔面すり下ろされるところだったじゃないかっ!」

 際どい一瞬に何とか上半身を引っ込めたカースが、助手席にへたり込みながら叫ぶ。ちょっと涙目になっているようだった。

「わざとじゃねぇんだ。許せ」

 そっけなく――若干、口元が笑っていたが――告げて、ギアはアクセルを限界まで踏み込んだ。

 一方、クアンたちの車では。

「野郎、スタンレーをやりやがった……!」

 ドアミラー越しに背後を確認し、獣のように歯を剥き出してデレクは唸った。

「マーカリスター、奴らを片付けろ!」

「了解でさ!」

 助手席でうずうずしていたデレクの直属の部下が、グレネード・ランチャーを持ち上げた。

「こいつをぶちかましても?」

「ああ、遠慮はいらねえ。丸焦げにして地獄へ送ってやれ! ――坊ちゃん、申し訳ないが少々揺れますぜ」

「構わないよ。奴らをぶっ殺せ!」

 クアンの叫びを受けて、セーフティ・ベルトを外したマーカリスターが助手席に逆向きに膝立ちになり、上半身を窓から出してグレネード・ランチャーを構える。

「おっと、やべぇ……」

 ギアが引き攣った声音で呟くと同時、ランチャーが火を噴いた。

 激しい爆発が車を飲み込み、悲鳴さえも炎と爆音の中に消え去る。

「やったか……!?」

 マーカリスターが呟いた、そのときだ。

「――だあぁらっしゃあああああぁ!」

 シャフトが軋む異音をあげながら、炎と黒煙とを突っ切り、バレット・カーが飛び出してくる!

「ははは! やるな、おっさん! 防弾仕様の車でドライブとはイカすぜ!」

 ハイテンションで叫ぶギア、

「ひいいぃぃぃぃぃぃ〜!」

 ひたすらに悲鳴をあげるモーガン氏、

「い、今、ちょっと窓閉めるの遅かったら相当ヤバかったよね……!?」

 ますます蒼褪めてぶつぶつ呟くカース。

「――くそっ!」

 リアウインドウからその様子を確認したクアンは、毒づきながら銃のグリップをドアに叩きつけた。

「今度はしくじりませんぜ。もう1発、喰らわせてやりまさぁ!」

「いや……待て」

 意気込むマーカリスターを手で制したクアンの目に、暗い色が宿っている。

「どうせ、もう、こっちの動きはバレているんだ。――こうなったら……」

 ぎろりと視線を向けられて、母子が息を呑み、身を固くする。

 クアンは、片手を懐に突っ込んだ。

 ――ややあって。

「ちっ、往生際の悪い連中だぜ! 一体、どこへ向かう気だ……!?」

 不機嫌そうに唸った瞬間、

『あ、あー、あー』

 不意に耳元で妙な声が聞こえ、ギアは、思わずハンドル操作を誤りそうになった。

『はぁ〜い、2人とも。聴こえてるかしら?』

 その声には、はっきりと聞き覚えがあった。

「は……ハゲ坊主かっ!?」

「バンタム署長!?」

 治安局101分署署長、ジーズ・バンタムからの通信だ。

『てめぇらァ! 誰がハゲだ、このドチクショウが!』

「てめえだ、てめえっ! 何の用だコラァ! こっちは今、史上最強に忙しいんだよコラァァァ!」

 ――これが署長と捜査官のやりとりだなどとは、聞いても誰も信じるまい。

『くそったれが、戻ったら覚えてろ……!』

 ぎりぎりと歯のなる音の後、すーはーっ、と深呼吸らしい息をひとつ挟んで、

『――あんたたちに、指令を下すわ』

 不意に改まった口調で告げたジーズに、ギアとカースは、ぴたりと口を閉じた。

 そもそも、一介の捜査官に、署長が直接指令を下す、という状況そのものが尋常ではない。

 それだけ、事態が重大だということだ。

『引きな』

「……あぁぁぁぁ!?」

 ただ一言、告げたジーズに、ギアは思い切り唇をひん曲げた。

「ざけんな、このドハゲがぁ! 俺らのここまでの苦労はどうしてくれんだ! カースなんてなぁ、もうちょっとで顔面すり下ろされるとこだったんだぜ!」

「いや、それはギアのせい――」

 カースが控えめに呟くが、誰の耳にも入っていない。

「そうまでして、俺たちに仕事をさせねぇつもりなのか!? たいがいふざけたコトぬかしてやがると、眉毛引っこ抜いて頭に植え付けるぞゴラァァァ!」

『阿呆かー! 誰が、ンな下らねぇ嫌がらせでこんな指令出すかああああ! ぐじゃぐじゃぬかしやがると、鼻毛引っこ抜いて耳の穴に詰め込むぞゴラァァァ!』

 ひとしきり言い争った後、

『――犯人から、こっちに通信が入ってんだよっ! てめーらを引かせなきゃ、人質を片方殺すってなっ!』

「……何だと!?」

 ジーズの言葉に、ギアとカースは、同時に目を見開いた。

『向こうには2人の人質がいる! 主犯格の男は、やりかねねぇ野郎だ。ここは、大人しく引きな!』

「おいハゲ! 何言ってんだ、ここで引くわけにはいかねぇ! あっちは既に、オフィスに勘付かれたことに気付いてんだ! 下手に引きゃあ、奴ら、邪魔な人質を始末して、車を乗り捨てて雲隠れするぞ!」

『その可能性については――だぁぁっ! いちいちこの場で説明してられっか、ボケェッ! とにかく大丈夫だから引けっつーの! でねぇとマジで、ただの警告のために一人殺されることになる!』

「……チッ……」

 顔を歪め、舌打ちを漏らす。

「……了解したぜ、ハゲ」

「えっ!?」

 驚いたのはカースだ。

 ギアの性格から考えて、たとえ署長の指示であっても、ここで大人しく引き下がるとはとても思えない。

「カース、タグ、持ってるか?」

「タグ……」

 その瞬間、カースは、ギアの意図を理解する。

「いや、持ってない。君は?」

「はん、バカが。心構えがなってねぇな! 俺のジャケットの内側にあるから取れ」

「わ、分かった……!」

「……妙な場所触りやがったら殺すからな」

「う……。わ、分かった!」

 ギアのジャケットの内側を探ったカースの指が、銀被甲の弾丸をつまみ上げる。

 ドッグタグ、通称「タグ」――小型の発信器を内臓しており、命中した対象の位置を追跡することができる。

 手早く弾丸を入れ替えたカースが、再び窓から身を乗り出し、発砲する。

 それは神業のような素早さで、隣にいたギアでさえも、ほとんどその動きが認識できないくらいだった。

「逃走車輌にドッグタグを撃ち込みました! そっちでもモニターしてください!」

『よくやったァ! 追跡はタグに任せて、戻りな!』

「――了解!」

 まるで粘りつく水飴の中に沈むように、法定速度に戻っていく。

 彼我の距離があっという間に開き、敵の黒いバレット・カーはあっという間に見えなくなった。


 
     *   *   *



 署長室の周辺は、慌ただしい足音と指示、確認の声が入り乱れていた。

 そしてジーズ・バンタム署長その人は、幾つものモニターとスピーカーに囲まれた執務机に就き、情報のシャワーを浴びていた。

「逃走車輌、停止。344地区オールト・ビル。犯人は、人質と共にビルに入りました」

「今のところ、犯人からの通信はありません。引き続き、待機します。――いえ――今、広報部より連絡が入りました! 犯人から、マスコミに対し、直接、犯行声明が入った模様です」

「マスコミ各社から問い合わせが殺到しています。至急、会見の準備を」

「組織犯罪課、スタンバイ完了しています。ウーゼル・アミンジャーが、署長の指示を伺いたいと。1番モニターに回線を繋いであります」

「『特急』もスタンバってます。ギリアム大隊長は、第1部隊〈ニーズホッグ〉を動かすと決定しました。――第1部隊隊長のアスカ・ブルーシードより、指示伺いの通信が入ってます。2番モニターに回線が繋がっています」

「……分かったわ」

 静かな声で、そう呟いて、

「あと3分。――3分だけ、待ちなさい」

 ジーズは、ぶつりと全てのモニター、スピーカーの回線を切断した。

 彼は手元に幾つも並んだコムリンクのひとつを取り上げると、迷いもなく、ひとつの番号をプッシュした。

「…………。あら、どうも」

 しばしの呼び出し音の後、相手が出たようだ。

「アタシよ。ジーズ・バンタム。久し振りね。ニュースは観たでしょうね? ――どうなってんの、コレ?」

 口調は、まるで親しい友人とでも話しているかのように穏やかで、友好的だ。

 だが、そのことばの裏には、永久凍土のごとき冷たさと凄まじいプレッシャーが潜んでいる。

「ああ、そう。……そうなの。坊やの独走……? ああ、そう。じゃあ、始末は? ……ええ、ええ。そう。判ったわ。……詳しくは、この件が片付き次第、ゆっくり話をしましょう。じゃあね」

 通話を切ったジーズは、目を閉じ、気に入りの赤い椅子に深々と身体を沈めた。

 彼のまぶたの裏側では、精密な法則に従って宇宙を周回する恒星や惑星や衛星のように、様々な駆け引きと計略が複雑に絡み合って動いていた。

 そして、その1分後。

 彼はおもむろに、双方向通信の回線を繋いだ。

 ふたつのモニターに、光が灯る。

 その向こうに立っているのは、組織犯罪課の隊長であるウーゼル・アミンジャーと、特急の隊長、アスカ・ブルーシードだ。

 アスカは直立不動の姿勢で立ち、かつて炎の洗礼を生き延びた大脳の前頭前野を働かせて、ジーズの思考の内容を推し量っていた。

 一方、組犯の隊長は落ちつかなげに身動きし、この火急の事態にも関わらず上司が泰然としている理由が理解できずに、気を揉んでいた。

 やがて、ジーズ・バンタムは静かに告げた。

「――組犯も特急も、そのまま待機してちょうだい。必要とあれば、動いてもらうかもしれないから、気を抜かないで」

「はあっ?」

 組犯の隊長は間の抜けた声を上げたが、アスカは表情ひとつ変えずに頷いた。

「了解した。……それでは、ようやく『彼ら』を使うつもりなのだな?」

 ジーズはにやっと笑った。

 彼女はいつも、人間の女性が時折発揮するような素晴らしい洞察力を見せてくれる。だかそれは直観によるものではなく、幾つもの状況証拠を論理という糸で編み合わせた結果だ。

 まあ、どちらでもいい。彼は、話が早い相手が好きだった。

 いまだ合点がいかない様子の組犯の隊長は無視して、アスカに満足げな頷きを返す。

「そう……。獣を、鎖から解き放つときがきたのよ」

 ずっと待っていた機会が、ようやく到来したのだ。

 後は、彼らの手並みをじっくりと拝見するとしよう。




   第5章    オールト・ビル





     1


「主犯はクアン・デルトロ。先日、036地区の工場跡地で逮捕されたダリオ・デルトロの、実の息子だ」

 ジェイド・フォスターが指差したモニターの一角を、彼らは黙って覗き込んだ。

 画面上には、ドラゴンフライ――カメラを搭載した小型の無人飛行機――によって上空から撮影され、拡大されたバレット・カーの静止画像が映し出されている。

 車のウィンドウ越しに捉えられた、やや浅黒い肌にみどりの目の男の容貌は、遥かに若く、また、それによって荒々しい印象を与えはするものの、ダリオ・デルトロのそれと非常によく似通っていた。

「奴は、既に、マスコミに対して犯行声明を出している。要求は、父親の身柄の解放。……当初は、秘密裏にターニャ夫人とフアナを誘拐し、裁判をダリオに有利に進めるよう、タイラー検察官を脅迫するつもりだったらしい。だが、オフィスのドラゴンフライが上空から彼らの犯行を撮影、追跡し、計画は大きく狂った」

「そういう話だったのか……」

 妙に納得したように、カースが頷く。

 ここは、クアンたちが立てこもったオールト・ビルの、真向かいのビルの1階だった。

 本来はファストフード店だが、その敷地は治安局によって一時接収され、クアン・デルトロ事件の仮設捜査本部へと変貌を遂げている。

 ギアとカースが、ジーズの指示によってこのビルに到着したとき、すでに仮設捜査本部の立ち上げは完了していた。

 そこでギアたちを出迎えたのは、意外な面々だった。

 ジェイドとゼファ、イグナシオが、彼らよりも先に到着していたのである。

 組織犯罪課の鉄腕とうたわれるウーゼル・アミンジャー指揮下の捜査官たちがばたばたと走り回り、時折ちらりと胡乱げな視線を向けてくる中、こちらもジーズの命令によって出向いてきたという3人は、狐につままれたような表情ながらも、隅のほうのテーブルに陣取ってラップトップを囲み、現状の確認を行っていた。

 といっても、真面目にそのモニターを見ているのはジェイドとギアとカースだけで、イグナシオは私物のラップトップを開いてぶつぶつ言いながら何だか分からんプログラムを打ち込み続けているし、ゼファに至っては、店のエスプレッソマシンを勝手に借りて鼻歌交じりにコーヒーを淹れている。

「バレてるって気付いた時点で、大人しく諦めてくれればよかったのにねぇ」

 カースのこの呟きには、誰一人として答える者はなかった。――起きなかった可能性について云々したところで、現状は何ら好転しない。

「しかし、妙だな」

 続いて口を開いたのは、ギアだ。

「犯行現場の上空を、そんないいタイミングで、署のドラゴンフライが飛んでるなんてことがあるか? ――カーチェイスの途中にも、ずっと気になってたんだ。ドラゴンフライは、主犯と人質が乗った車をずっと追跡していた。どうして、そんなことが分かったんだ? ことのはじめから撮影していたんでもなきゃ、そんな芸当は不可能なはずだぜ」

 ギアの言葉に、ジェイドは、ぐっと眉根を寄せた。

「その辺りの事情は不明だ。――ともかく、現在、彼らはターニャ夫人とフアナを人質に、ダリオ・デルトロの解放を要求している。オフィスが妙な動きを見せたり、3時間が経過してもダリオの身柄が解放されない場合は、人質を片方殺すと言ってる」

「それを、先に、マスコミに宣言しちゃったってわけですか。……巧いな」

 ぼそりと、カース。

 脅迫に屈して犯罪者に対して譲歩するなど、治安局としては有り得ない選択肢だ。

 だが、世論が何よりも重視するのは、人質の生命の安全。

 特に、その人質が女性と、年端も行かぬ少女であることを考えればなおさらだ。 

 治安局が強硬な姿勢を貫けば、犯人たちは、自分たちが本気であることを見せ付けるために、ためらいなく人質の1人を殺害するだろう。

 そうなったとき、世論の矛先は、犯人よりもむしろ、治安局に向けられることになる――

「はっ! 要するに、こそこそやろうとしてたのが失敗して、開き直ったってだけじゃねえか。……クソガキが、こんな中途半端な失敗するくらいなら、始めからやるんじゃねえ」

 画像の中の若者を睨みつけ、ぎりぎりと拳を固めながらギアは唸った。

 その怒りの半分以上は、後部座席の窓から助けを求めるようにわずかに覗いた、悲痛に歪んだ少女の顔のためだ。

「……で、俺たちは一体、これから何をすりゃいいんだ?」

「分からん……」

 答えるジェイドの表情にも、戸惑いの色が濃い。

 組織犯罪課が捜査本部を立ち上げた以上、この場に、自分たちの出る幕はない。

「分からん、じゃねぇだろうが! こんなとこまでバレット・カーを飛ばしてきた挙句に、捕り物の見物かよ? ガキの使いじゃねえんだぜ」

「いや、私たちも、署長からの命令を受け、取るものもとりあえず駆けつけてきたという状態で……」

 と、そのときだ。

 表の自動ドアが開く音が聞こえ、それと同時に、ざわっと室内の空気が変わった。

 かつかつとヒールが地面を打つ音が聞こえてくる。

 顔を上げ、その足音の主の姿を見た瞬間、ギアたち一同は一瞬、状況を忘れ、かくんと顎を落とした。

「……な……何? その格好……」

「見て判らない?」

 絶句してしまったギアに代わり、ようやく問いかけたカースに答えたロッサーナの口調は、最後に会ったときと全く変わりがなかった。

 だが、その姿は、変わりがないどころではない。  

 彼女の長い髪は、今や、一筋も残さず髪巻き用のカーラーで巻かれ、しかも正体不明の液体を塗られててかてかに光っていた。まるで、伝説の蛇女だ。

 マントのように肩に引っ掛けた、ヘアサロンのロゴ入りのクロスを邪魔げに払いのけながら、彼女は至極あっさりと言ってきた。

 その手には、一体何が入っているのか、楽器を収めるような、巨大な黒いケースが提げられている。

「ふん、冗談じゃないわね。スタイリングの真っ最中に、いきなりドンパチだもの。まったく、いい加減にしてもらいたいわ」

「ふ……」

 あまりといえばあまりの発言に、一瞬、何と言っていいかすら思いつかなかったが――

 1秒後には、ギアは置かれたラップトップが飛びあがるほどの勢いでテーブルに左手を叩きつけていた。

「ふざけんな! てめえは、一体、無断欠勤して何をやってやがんだ!?」

「うるさいわね」

 鼻先で蚊の羽音がしたほどにも感じない様子で、長い睫毛をゆっくりと瞬かせ、ロッサーナ。

「連中を見失わないように、ドラゴンフライを呼び出したのが誰だと思ってるのさ?」

「――何だと?」

「あたしはね、ここ2、3日、署長命令で極秘任務に就いてたってわけ。ターニャ夫人に張り付いて、その動向を逐一、報告するってのが、任務の内容」

「いや……しかし……そのようなこと、私は、全く――」

「だから、極秘任務だったんだってば」

 慌てたように呟くジェイドに、あっさりと、ロッサーナ。

「あれこれ気を揉ませたことについては、悪かったと思ってるわ。けど、こうして大急ぎで仕事道具持って駆けつけてきたんだから、こっちの誠意も酌んでもらいたいね」

「何が誠意だ!? おい、どういうことだよ。ターニャ夫人に張り付いて――ってことは、ハゲ坊主は、この事態を予期してたってことか!?」

 平然としているロッサーナに詰め寄るギアだが、

「あー、もう、嫌になっちゃうわ。とっとと指揮官が来ないかしら?」

 彼女はくるりと向きを変え、『仕事道具』――そう呼んだ、黒いケースをつま先で突ついて、気だるそうに呟いた。

 床に横たえられたそれは、何を収めるためのものか、小型の黒い棺を思わせる。

 彼女は直前までのギアとの論争などなかったような顔で遠くへ視線をやると、頭に軽く手を触れる真似をした。

「どういうわけでこんなとこに召集されたんだか、意味が分かんないんだけど。こんなの、明らかに組犯の管轄じゃないの。――特に用がないなら、あたしはとっとと帰って、新しいヘアスタイルを完成させたいんだけどね」

「てめぇなっ……!」

 飽くまでも真剣味を欠いたロッサーナの発言に、とうとうギアの堪忍袋の緒が千切れ飛びかけた、まさにその瞬間――

『あ〜ら、どうもご苦労様、凶悪犯罪課の皆さん。まずは、順調な滑り出しといったところかしら?』

 テーブルの端に置かれていたラップトップのスピーカーが、突如として言葉を吐き出し始めた。

 その場の全ての視線が弾かれたように画面に集中したときには、そこに浮かんでいたオーダーオフィスの徽章――『裁きの剣』はかき消え、代わりに、どこか事故実験人形に似た男の顔が結像している。

「あ! てめえっ、ハゲ坊主!」

『誰がハゲだゴラァッ!? てめえに用はねぇんだクソガキ! 課長を呼びなっ!』

 どうもこの署長は、ギアと関わると我知らず言葉遣いが悪化する傾向にあるらしい。

 青筋を立てて怒鳴りつけたジーズだが、慌ててやってきたジェイドが画面の前に立つと、すっと表情を元に戻した。

『……フォスター捜査官。捜査本部に、あなたの部下たちは集合を完了しているわね?』

「はっ」

 ジェイドは、背筋を伸ばして敬礼した。

 本来は、これが正しいのである。ギアが不謹慎過ぎるだけだ。

「これからの我々の行動に関して、ご指示を願います。現場の指揮権は、ウーゼル・アミンジャー捜査官に――?」

『いいえ』

 ジェイドの言葉に、ジーズはゆっくりとかぶりを振り、にっこりと、まるで鼠を目の前にした猫のような笑みを浮かべた。

『現場の指揮は、あなたが執るのよ。ジェイド・フォスター捜査官』


 
     *   *   *



 仮設捜査本部の空気が、一瞬にして、沈黙の中に凍りついた。

 ジーズからの通信は、組織犯罪課のラップトップでも受信されている。組犯の男たちは一様に硬直し、ついで、突き刺さるような視線を向けてきた。

 だが、ジェイドは、そのことにすら気がつく余裕はないようだった。

「い……今、何と……」

『あなたが、指揮を執るの』

 震える声で問いかけたジェイドに、ジーズは落ち着き払って繰り返してきた。口調は変わらず穏やかで、まるで子どもに言い聞かせるように、幾分かゆっくりとした話しぶりだった。

「…………です」

『何? 聞こえないわ』

「無理です!」

 ジェイドの声が跳ね上がる。彼は、両手をテーブルに叩き付けた。

 命令を受けて、こんなふうにそれを拒否するなど、オフィサーである以上は許されることではなかった。処罰の対象になるばかりか、オフィサーとしての適性そのものを疑われかねない。

『聞こえない』

 静かな声だった。

 逆らうことはおろか、疑問を差し挟むことすらも許さないような、冷静で、断定的な口調。

『これは、署長命令よ。本件に関わる捜査・制圧活動は、凶悪犯罪対策課に一任します。だとすれば、その指揮官は、あなたしかいないんじゃなくて?』

 言葉を失ったジェイドに向けて、淡々と、ジースは告げた。

『アタシにあなたたちの存在意義と……可能性を見せてちょうだい。期待しているわ。以上、通信終了』

 画面が暗くなった。

 ジェイドは、動かない。

 テーブルについた両手を動かしもせず、その場に根が生えたように立ち尽くしている。

 ジェイドは、凄まじい吐き気と眩暈に耐えていた。暗転したモニターのように、今にも目の前が真っ暗になりそうだった。何度も生唾を飲み込み、こみ上げる嘔吐感を押し殺そうとする。

 鉄臭いにおいがした。

 顔面の半分が吹っ飛んだ部下たちの顔が目の前にちらついた。

 それとも、噛み締めた唇が切れて血が流れたのだろうか?

 一方、組織犯罪課の男たちは、そんなジェイドの様子を目の当たりにし、露骨に眉を顰めている。

 武装した複数の犯人が、複数の人質を取り、ビル内に立てこもっている。オフィスにはダリオ・デルトロ解放の要求が突きつけられ、3時間というタイムリミットが設定されている。

 この状況を捌き切ることができるのは、どんなぎりぎりの局面でも冷静さを失わない鉄の神経と、どれほどのプレッシャーをかけられても鈍ることのない高度な判断能力を兼ね備えた人物だけだ。

 ノー・ミス・ジェイド。その名は知っている。だが、今の彼を見ろ、タフさの欠片もないじゃないか。

 この任務は、彼には荷が重過ぎる――

「おい」

 ジェイドの肩に、背後から手がかけられ、強く握りしめられる。

 彼が振り向いた、その瞬間だった。

 その顔面に、拳が叩きつけられた。

「あら」

 ロッサーナが呟き、ゼファがコーヒーを取り落とし、イグナシオがラップトップから顔を上げ、カースがあんぐりと口を開ける――

「腑抜けてんじゃねぇぞ、コラァ!」

 上官の胸倉を掴み上げ、ギアは怒鳴った。

 ジェイドのほうが、体格も、身長も上回っている。だが、彼は、ただ呆然とギアを見返すだけだった。口元を押さえた手の、指の隙間から血が滲んでいる。唇を切ったのだ。

 ジェイドの胸倉を掴んだギアの手は、怒りに震えていた。事故を避けるため、不随意運動をできる限り抑制する構造になっているサイバーアームがわなないている。

 ギアの全身から放たれる凄まじい怒気が、その場の全員を釘付けにしていた。

 仲間たちも、組織犯罪課の男たちも、誰一人として、割って入ることができなかった。

「ふざけるなよ。てめえが昔、何をしでかしたんだか知らねえがなぁ……今、あのビルに犯罪者どもがいて、2人の人質が、助けを待ってんだよっ! てめえが自分の殻に閉じこもんのは勝手だが、そうやってグジャグジャやってる間に、手遅れになっちまったら、責任とれんのか、てめえ!?」

 ひとつひとつの言葉を肺腑に叩き付けるように、渾身の力で怒鳴りながら、ジェイドを揺さぶる。

「毎日毎日、シケた面してデータ睨んでたのは何のためだ!? こーゆー時のためじゃねぇのか! 今、オレらを一番効果的に動かせるのは、てめえなんだよ! てめえしかいねえんだ! ――俺たちは、てめえを信じて、命を託す! 躊躇いはねえ!」

 ギアの叫びに、それまで泳いでいたジェイドの目が、はっと見開かれた。

 ミラーグラス越しに、ふたつの視線がぶつかる。

 噛み合う。

 心の奥底で止まっていた時間が動き出す、スイッチが入る――

「黙るな! 命令を出せ! ビシッと決めろ! ……指揮を執れ、ジェイド・フォスター捜査官!」

 そこまで、叫んで。

「お……っ、う、おうわぁあぁぁぁっ!?」

 ギアは絶叫し、慌てふためいてばたばたと2メートルも後ずさった。

 うっと一声呻くやいなや、ジェイドの顔色が劇的に急変し、次の瞬間、その場に胃の中身を全部ぶちまけてしまったのである。

 あと一瞬、下がるのが遅ければ、もろに顔面に浴びる羽目になっていたところだ。

 どうやら、ストレスが胃にきていたところをギアに思いっ切り揺さぶられ、吐き気が一線を超えてしまったらしい――

「す……すまねー……! いや、つーか、大丈夫か……?」

 うずくまったジェイドに、恐る恐る声をかけるギアだ。

 他の面々も、この状況にどう介入していいものか全く分からないといった様子で突っ立っている。

 仮設捜査本部に、先ほどとは全く違った種類の、何ともいえない沈黙がわだかまった。

 一瞬だけ。

「……ふ……」

 不意に、その沈黙を破る声があった。

「ふ……ふふ、ふふふふふふふふふふふ」

 笑い声、だ。

「お、おい――?」

 さすがにやや腰の引けた様子で、ギアは、その男に声をかけた。

 うずくまったままで、ぶるぶると肩を震わせているジェイドにだ。

「マジで大丈夫か、課長……? ちょっと、アレか? 活を入れすぎて、アレになったか?」

「そうか……」

 ふらり、と。

 呟くように言いながら、ジェイドが、その場に立ち上がってくる。

 その表情を見た瞬間、一同のあいだに流れる空気が変わった。

 チーム・リーダー。

 この男になら、命を預けても後悔はない。

 そう思わせる何かが、彼の表情に、立ち姿に戻っていた。

「よくぞ言ってくれた、ギア。そこまでお望みとあらば、応えなくてはな――。

 ああ、いいだろう! リクエスト通り、ビシバシゴスボキグチャメリッ! と! 徹底的に仕切りまくってやろうじゃないか! 覚悟しろ貴様ら――!」

「ふ、復活した……!?」

「つか、何の音なんだ今の!?」

「黙れ!」

 交互に呻いたカースとギアの台詞を、一言のもとに切り捨てて、ジェイドは、ずっとラップトップに張り付いたままだった部下の名前を呼んだ。

「イグナシオ!」

 返事こそしないものの、長い髪を揺らして頭を傾け、イグナシオが指示を求める。

 ジェイドは彼の側に歩み寄り、その肩に手を置いた。

「あのビルのセキュリティ・システムにアクセスできるか? オールト・ビル内の全てのセンサー、警報装置、侵入者迎撃システムについて知りたい」

「簡単……」

 ただそれだけ呟き、ラップトップに覆い被さるイグナシオ。

「おお……」

 組犯の猛者たちも思わずぞろぞろと集まり、その手捌きに見惚れた。

 イグナシオの手が凄まじい速度でセンサーフィールドを行き来し、モニターにいくつもの画像が立ち上がる。目まぐるしく現れ、重なり、あるいは消えるウインドウは、まるで奇術師が客の目の前で次々に入れ替えるカードのようだ。

 やがて、不意に壁に突き当たったように、イグナシオの動きが止まった。

「……閉鎖ネットワークだ……」

「何?」

 イグナシオは爪を噛みながら、かたかたと貧乏ゆすりをした。

「外部からの不正なアクセスを防ぐためには有効な手段……完全独立型の、有線ネットワーク……」

 その口調は、一同に向けて説明しているというよりも、独り言を呟いているかのようだ。

「メインコンピュータを中心に、ビル内でネットワークが完結している。アクセスするためのゲートウェイが存在しない……。つまり、ネットワーク経由の侵入は、事実上不可能……」

「100%か?」

 ジェイドの問いかけに、イグナシオがちらりと彼を見上げる。

「いや……方法はある……。物理的に、ネットワークに介入すればいいんだ」

「というと?」

 再び魔法のようにイグナシオの指先が踊り、オレンジ色の光の線で構成されたビルの構造図が浮かび上がった。

「……たとえ、ビル内のセキュリティ・システムは独立させても……ネットワーク上で、すべてを秘密にしておくことなんてできないんだ……ビルを建造した業者と、配線を担当した業者のコンピュータにアクセスしたよ……。ここだ」

 ビルの構造図の中を、無数の血管のように赤いラインが走り、その一点をイグナシオが指差す。

「ビルの外壁と配線の最近接ポイント……。ここならできる。大昔のスパイたちみたいに、コードを繋いで、回線に直接割り込むんだ……」

「できるか、イグナシオ?」

「もちろん……機材さえ取ってくればね……」

「――よし、それなら、俺たちに任せろ!」

 不意に、背後からそんな声が上がった。

 声の主は、ブルドッグのような顔をした大柄な男――組織犯罪課を率いる、ウーゼル・アミンジャーだ。

 今にも噛み付きそうな顔つきを近づけられても、イグナシオは微動だにしなかった。

「今回、俺たちはサポート役だそうだ。――いいだろう、あんたらに手を貸してやる。車で送ってやろう。壁をぶっ壊すなら、部下に手伝わせても構わん」

「……ご協力、感謝いたします」

 横手から言ったジェイドに、ウーゼルは頷いた。

 声を潜めて――もともとの声が大きいため、全く意味はなかったが――続ける。

「大きな声では言えんが、俺たち組織犯罪課は、逆に、組織絡みの大捕り物では動きにくい面がある。分かるだろう?」

 ジェイドは頷く。

 組織犯罪課の捜査官たちの中には、時に癒着と呼ばれかねないほどの深いつながりを組織の人間と結ぶ者もいる。

 そうやって個人的な関係を持ち、互いの「顔を立てる」ことによって、ある程度の勢力均衡を保つのだ。

 それゆえに、正面切っての戦争は、できる限り避けたいところなのである。

 ――ジーズ・バンタムの思惑も、あるいは、その辺りにあったのだろうか?

「ありがとうございます、ウーゼル・アミンジャー捜査官。――イグナシオ、彼の部下と共に行け!」

「了解……」

 ラップトップを抱え、イグナシオが仮設捜査本部を出て行く。

 続けて、ジェイドはもう1人の部下を呼んだ。

「ゼファ!」

「はいっ」

 手回しよく掃除用具のロッカーからモップを持ち出して床を拭いていたゼファが、元気よく敬礼をする。

「イグナシオがネットワークを切り崩すまでのあいだ、ぼんやり待っているには及ばない。――お前の『趣味』が役に立ちそうだ。例のもの、持ってきているか?」

「え?」

 一瞬、目を丸くしたゼファだが、何事かを悟ったらしく、すぐに笑顔になった。

「ああ、はい、もちろん! コレクションは、いつでもどこでも、肌身離さずに持ち歩いていますから」

 言って、荷物の中から、移動式小型カメラを収めたコレクション・ボックスと、コントローラーまでをも取り出してくる。

 ――勤務中に趣味の物品を持ち歩くのもどうなのかと思うが、今ここには、そんな指摘をする者は誰もいなかった。

 それどころか、ジェイドは満足げに頷き、ゼファの腕に手を置く。

「今、それが人命救助に役立つときだ」

 そして彼は、早口で作戦の詳細を説明した。

 ゼファはにこにこしながら耳を傾けていたが、ジェイドの説明が終わるやいなや、

「了解しました。では、早速始めますね!」

 言って、ジェイドの手にモップを押し付け、コレクション・ボックスとコントローラーを手に隅のテーブルに引っ込んで、何やらごそごそと準備を始める。

「……彼の趣味の、移動式小型カメラです。換気用のダクトを利用して移動し、ビルの内部の様子を探ることができる。あれで、人質の正確な位置を確認させます」

「なるほど」

 さりげなくモップの柄を手近の壁に立てかけ、静かに言ったジェイドに、ウーゼルは深々と頷いた。

 当初は、若造どもの手並みを見せてもらおうじゃないかという空気をありありと漂わせていたウーゼルだが、徐々にジェイドのやり方に引き込まれてきたようである。

「ビルに近付くなら、我々でカバーしよう」

「ありがとうございます。――ロッサーナ!」

 気迫のこもった声で名を呼ばれて、彼女はにっと笑みを浮かべた。

「仕事道具を持ってきたと言ったな?」

「ええ」

 頬杖をつき、つま先で、足元に置かれた大きな箱をつつく。――クロスをかぶったまま、髪はくるくる巻きなので、全く様になってはいなかったが。

「ハイオール・シティ大会で優勝の栄誉に輝いたという君の技術を、披露してもらうことになるかもしれない。スタンバイを頼む」

「あら、あれは個人的に出た大会よ。よく調べたのね」

「君たちのことなら何だって知っている。……それが仕事だ」

「やるじゃないの、坊や。――いえ、課長、ね」

 しなやかな動作で立ち上がり、大きな箱を持ち上げて、ロッサーナ。

「いいでしょう、見せてあげるわ、伝説と言われたあたしの技《キス・オブ・デス》をね。期待していいわ。――ああ、護衛は要らない。この仕事は、1人でするもんなのよ」

 言って、マントのようにクロスをなびかせ、颯爽と立ち去る。

「……いい尻だな」

 あながち間違いでもない感想をしみじみと漏らすウーゼルに、ジェイドは生真面目な表情を向けた。

「彼女は、狙撃手です。それも、神の指先と賞賛されるほどの、超一流のスナイパー……」

「……嘘……」

「マジかよ!?」

 言ったのはウーゼルではなく、カースとギアだったが、ジェイドには動じた様子もない。

「彼女が放つ銃弾は《死神のキス》と呼ばれ、1キロ先からでも確実に標的を倒すことで知られている。その業界では、相当な有名人だ」

「その業界……」

「どの業界だよ。暗殺関係か?」

 茶化すように交互に呟く2人だが、それは、高まる緊張感を逃がすためのちょっとしたジョークだった。

 ジェイドの視線が、ぴたりと自分たちを見据えたとき、ギアとカースは表情を引き締め、姿勢を正した。

「さて、ギア、カース。お前たちの仕事は、最も危険で、かつ困難だ」

「・・・・・・そんなことだろうと思いました……」

「何でもいいぜ。言えよ」

 半ば諦めたようなカースと、今にも牙を剥きそうなギア。

 ジェイドは頷き、ギアの両肩に手を乗せると、重々しく言った。

「アスカ隊長を、脱がせてこい」

「――はあっ!?」







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