月が出ている。

 細く、白い三日月。

 上空の冷たい強い風が、薄い雲を押し流していく。

 その雲を切り裂いてしまいそうに、鋭い月。


 ガイガロス砦の、物見の塔。

 何本もの柱のように立ち並ぶ、石造りのその塔には、眠ることも、瞬きさえもしない目のように、一晩中煌々と炎が灯されている。

 ひとつひとつの炎が灯るところには、不眠不休でそれを守り、また、たゆまず見張りを務める戦士たちがいる。

 その《目》たちが見据えているのは、東に、目路の限りに広がる荒野――

《辺境》の大地。

 アーケリオンの長城のかなめにあたり、《人間世界の盾》とも呼ばれるリューネ市は、怪物や《呪われし者》が跳梁する《辺境》の脅威と、いつも向かい合ってきた。

 ガイガロス砦は、その心臓部。

 あたしたちが、命を懸けて守る、大切な場所――


 夜風が、耳元を唸り過ぎていく。

 ごうごうと唸り、身体に巻きつけたマントごと、身体を攫っていきそうな強い風。

 頂上にあたる部分が半ば崩れ、今は使われていない、大きな物見塔。

 木の枝1本でも石ころ1個でも、使えるものなら何でも使うのがリューネ市民の心意気だ。  

 普通なら、傷んだ建物はさっさと取り壊して、城壁の補修にでも使っちゃうんだけど。

 この塔には、100年以上前の《大攻勢》のとき、火竜の体当たりの直撃に耐えたっていう武勇伝がある。  

 そのために、不撓不屈のリューネ根性の象徴として、今でも大切に残されてるんだ。
   

 ――そして、あたしは今、その頂上に立っている。  


 足を踏ん張り、手摺りの残っている部分をしっかりとつかんで、地上を見下ろした。

 背後の手摺りと床は、半ばから崩れてなくなっている。

 だから、危ないといえばものすごく危ないし、現に、下の入り口には『危険! 立入禁止』の札がかけられてるんだけど。

 ここに立つと、不思議と、心が休まる。

 小さい頃からの、あたしだけの秘密の場所。

「デュケイオン……アバディン……キャディラ……」

 あたしが今、見ているのは、南の方向。  

 闇に沈んだ大地に、ぽつん、ぽつんと、橙色の光の点が見える。

 その点は、不規則な点線のように、間延びしながら、それでも決して途切れることなく、地平線にいたるまで続いている。

 あれは、出城の灯。

「ルージン……フェンディン……リエザ……」

 そのひとつひとつを指差して、名前を呼ぶ。

 ひとつ、名前を呼ぶごとに、心の奥底から、勇気が湧いてくるような気がする。

 ――あそこにいるのは、あたしと志を同じくする人たち。

 アーケリオンの長城を守る、眠らない戦士たちの牙城だ。


 そう……

 あそこにいる戦士なら、きっと、今のあたしの気持ちを、分かってくれるはず……


「うあー! もう! 何か、すっきりしないっ!」

 心を穏やかにするいつもの儀式も効かず、あたしは思わず、どすんとその場に座り込んで足をばたばたさせた。

 崩れかけた塔のてっぺんで、こんなふうに暴れているところを見られたら、ちょっとした騒ぎが発生しちゃうかもしれない。

 でも、大丈夫。

 この塔はかなり高くて、他の物見塔からもなかなか様子が見えないし、第一、100年近くも「崩れかけ」のこの姿のままで建ち続けているんだ。

 今さら、ちょっと揺れたくらいじゃびくともしない。  

「はー……」

 あたしは子どもみたいに膝を立てて座り、マントにくるまった。  


『人殺しぃ!』   

 びゅうびゅうとマントを吹きちぎりそうな強風も、心の奥底からよみがえってくる声は消せない。

『あんたを憎む! 一生、ずっと、憎み続けてやる!』


 あたしは、今日、ひとつの命を殺した。  

 彼は――まだ10歳の、男の子。  

 でも、もう、人間じゃなかった。

《黒の呪い》――  

 この大地に生きる、全ての民にとっての脅威。  

《黒の呪い》は、流行り病と同じように、犠牲者から犠牲者へと感染する。  

 普通の病と違うのは――その《呪い》に冒されたものは、怪物のような姿に変わり、次々と人を襲って仲間を増やすということ。  

 血液や体液によって感染するといわれていて、それが体内に入った直後なら、アレッサの花の精油で《呪い》の発症を抑えることもできる。  

 でも、一度、発症してしまったら、もう、救う手立てはない。

 そして、最もたちが悪いのは、完全に怪物と化してしまった後でも知能は残り、人間だったころの姿や行動を偽装して周囲を欺くということだった。

『母さん、母さん! 助けて!』

 あいつは――元は人間の男の子だった、今はその姿を被った怪物は、あたしたちの部隊に包囲されたとき、そう言って泣き叫んだ。

 ――リューネに住む者なら、分かってたはずだ。

《黒の呪い》を発症した者は、もう、決して助からないってことくらい。 

 でも、その場にいた母親は、騎士たちの手を振り払って、子どもに駆け寄ろうとした。

 あたしは、部下たちに命令を下した。

 迷いは、なかった。

 この上、母親まで《黒の呪い》の犠牲者にするわけには、いかなかったから。

 何十本もの矢が一斉に空を裂いて、男の子の身体に突き刺さった。

 母親が悲鳴をあげる中、戦闘が始まった。

 もう皮一枚になっていた男の子の肉体を突き破って、ぶよぶよと肥った巨大な毛虫のようなおぞましい本性をあらわす怪物。

 ただ、その頭部にあたる部分にだけ、男の子の顔が残っていて。

『やめて、やめて、やめて!』

 悲痛な声で、そんなふうに叫んでいた。

 あたしたちは雄叫びを上げ、剣を構えて突っ込んだ。

 ――騙されてたまるか。

 もう、人間の心なんて残ってないんだ。

 騙されるな。

 あれは、あたしたちの心を揺らがせ惑わせようとする、敵の策略だ!


 そして――

 怪物が完全に動かなくなるまでずたずたに切り刻み、死骸に火をかけて、あたしたちの任務は終わった。

 そう、何ひとつ、恥じることはない。

 あたしたちは、ベストを尽くしたんだ。  

 そして、あたしが、剣を納めたとき。  

 途中から虚脱したようになっていた母親が、顔を上げて、あたしをにらみつけた。

 凄まじい、憎悪の視線で。

『人殺しぃ!』

 もしも、古の偉大な魔術師たちみたいに、あのひとの視線に力があったなら、あたしは今ごろ、その憎しみの力に胸を貫かれて倒れてただろう。

『あんたを憎む! 一生、ずっと、憎み続けてやる!』

 ――分かってる。

 息子を失った哀しみが、彼女をそうさせたんだってこと。

 分かってる。

 あの場では、あれ以外の行動は、とりようがなかったってこと。 

 分かってるんだ。  

 あたしは、正しいことを、したんだってこと……。    

 それなのに、なぜだろう。  

 あの女性の声が、何度も何度も耳の奥によみがえって、離れようとしない。

 どうしても眠れなかったから、ここに来た。  


 ――分かってる。

 今はこうでも、明日になれば、痛みは薄れる。

 5日も経てば、ほとんど感じられなくなり、10日経てば、いくつもの過去の場面のうちのひとつに過ぎなくなる。

 今までずっと、そうやって乗り越えてきた。  

 だから。

 今夜も、あたしは、1人で超えてみせる。

 あたしには、その力があるはずだから……。


「……いたな」

「おぉっ!?」

 いきなり、後ろからきこえた声に、あたしは危なく足元の穴にずり落ちそうになった。

 跳ね起きて振り向くと、あたしがもたれていた手摺りの上に、月明かりを背負った真っ黒な姿が立っていた。

 真っ直ぐな銀色の杖だけが、月光を跳ね返して光っている。

「グ、グウィン!?」

 相手の正体が分かって、あたしの驚きは、少しだけ軽くなった。

 彼は、魔術師。

 2本の足で階段を昇ってこなくても、鳥のように飛んで、塔のてっぺんに降り立つことができる。

 でも――

「な、なんで、あんたがここに来てんの!?」  

 この場所のことは、グウィンには一言も言ったことがない。

 秘密の場所に踏み込まれた……そんな気持ちのせいで、あたしの口調は、少しとげとげしたものになってたかもしれない。

「なんで、だと? ふん、ずいぶんと上等な挨拶だな」

 今まで働いていた魔力の最後の残りか、ふわりと羽が落ちるように音もなくあたしの隣に飛び降りて、彼は言った。

「俺はお前の副官だぞ。こんなときにお前が行きそうな場所くらい、分からんでどうする」

「こんなとき、って――」

「大食いのおまえが、今日の晩飯は人並みにしか食っていなかったからな」

「……じゃあ、ここのこと」

「知らんとでも思ったか?」  

 あたしの顔つきが明らかにむっとしたものになったことに気付いたのか、それとも、気付かなかったのか。

「……名にし負う辺境警備隊の隊長が、砦の屋根に墜落したなどというニュースで街を騒がせるわけにはいかんからな」

「はぁ?」

 呟くように言ったグウィンの言葉が、あたしの負けん気をがりがり引っかいた。

「何、それ!? あたしが飛び降りでもするって? なめてんの!? このあたしが、そんなヤワな根性してるとでも――!?」

 思わず立ち上がって、怒鳴った途端。

 轟ッ! と、殴りつけるような風が吹いた。

「――っ!?」

 手放していたマントが、風を孕む。

 横手からの不意打ちに、たたらを踏んだ。   

 足が滑る。

 ぱら、と、唸る風の音の中でもはっきりと、底知れない闇の中に零れ落ちていく砂粒の音が聞こえた。


「……あ……」

 思わず伸ばした、腕を。

 グウィンの手が、がっちりと掴んで引き止めていた。   


「あ……あ、ありが、と」

「風読みのジェイキスが、これから天候が荒れると言っていた」

 さっさと手を放し、そっけないとさえ言える口調で、グウィン。

「阿呆な死に様を晒さずにすんで良かったな」

「…………。ん」

「何だ、やけに大人しいな」 

「――びっくりしたら、お腹すいた」

 ふっと、グウィンの口元が緩む。 

「だが、もう厨房は閉まっているのではないか?」

「ううん」

 あたしは手摺りから身を乗り出して、砦の敷地の一角を指差した。

「ほら見て、あそこ。灯りがついてる」

「この闇の中でも、厨房の位置は把握できるのか……」  

 呆れたように呟くグウィン。  

 その口調に、なんとなく釈然としないものを感じたあたしだけど、

「――うえっ!?」

「暴れるなよ、落ちる」

 骨ばった力強い腕が、あたしの身体を抱え込む。

 あっと思う間もなく、手摺りを越えて倒れ込む。

 心臓が一拍、鼓動を飛ばす。

 そして――


 眼下に、眠らない街の灯り。

 降り注ぐ、月の光。 

 耳元で唸りを上げる風と、間近に感じる体温が、心の奥底から響く声をかき消してゆく――


「グウィン」

「何だ」

「――――ゆっくり、落ちて」

 彼は、笑ったようだった。

「せめて飛んでと言え」



 夢の中のような時間。

 

 これで、あたしは、明日も戦える。





 ありがとう、グウィン。





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