ターミナル玄関口時空跳躍ゲート⇒『ソードベアラー』 Copyright © 2009 キュノ・アウローラ, All rights reserved.


ソードベアラー




 1 戦乙女と黒い蜘蛛  
 2 刃のない剣の名誉    
 3 紫のケモノ     
 4 その心をもって盾とならん     
 5 輝けるマーズヴェルタ    
 6 接敵        
 7 青き薔薇の教団      
 8 真実の代償      
 9 女神は舞い降りた







   1 戦乙女と黒い蜘蛛




 辺境の夜空にかかる星は、帝都のものよりも、澄んだ輝きを放つという。

 いつになく星の光のあざやかなこの夜、ツェルマート村の西の端にあたる道のど真ん中に、辺境警備隊の鎧を身に着けた2人の兵士が立ち尽くしていた。

 むろん、都の貴族たちのように、星読みなどという優雅な遊びに興じているわけではない。

 2人とも、兜をかぶった頭をかたむけ、真剣に耳を澄ましている。

 その耳に聞こえているのは、無数の叫び声と、あいうつ剣のひびきだ。

 それは、東の方向から伝わってきていた。

 ツェルマート村は、辺境に数ある開拓村のなかでも、かなり大規模なほうだ。

 村の東側で何が起こっているのか、家々の屋根と壁にさえぎられて、戦士たちの位置からでは、直接確認することはできない。

 ――だが、見上げた東の夜空が、薄赤く染まっている。

 松明の明かり程度では、あんなふうに夜空の色が変わることはない。

 建物が、燃えているのだ。

「やってやがるなあ……くそったれどもが」

 並んで立った兵士のうちのひとりが、唸るように言った。

 大柄な中年の男だ。

 機嫌をそこねた熊のように身体をゆすって、隣に立つもう1人に話しかける。

「隊長、ほんとに来ますかねえ? これで逃げられたら、俺たちゃ大間抜けだ。
 今からでも、こっちから押しかけてって挟撃したほうが――」

「大丈夫」
 
 驚いたことに、答えた声は、まぎれもなく女性のものだった。
 
 その人物は、くすんだ金色の甲冑に身を包み、短い黒いマントをはおっている。

 腰には長剣。

  すらりとした立ち姿は、一見したところでは女性とは見えない。

 だが、その声は確かに女のもの、それも、ようやく少女期を脱したばかりの、若い娘のものだった。

 深く下ろされた兜のまびさしが、その顔を隠している。

「指揮をガルとフェザンに任せてある以上、心配はいらないわ。
 敵は必ず、こっちに追い込まれてくる……。
 バウル、今は、ここはいいわ。新兵たちについててやって」
 
その口調は、威厳があるといってもいいほどの確信に満ちていた。

 大柄な男は、その言葉に頭を下げると、道の脇に建つ家のひとつに姿を消した。

 2人の他には無人と見えた周囲だが、実のところ、辺りの家々には、15名ほどの兵士たちが分散して身を潜めていた。

 うち6名が、新兵だ。

 今回の作戦は、彼らの実戦訓練も兼ねているのだった。

「あいつらも、そう頭は悪くなかった……。でも、それも今夜までね」
 
 隊長と呼ばれた娘は、口のなかで小さく呟いた。
 
 あいつら――

 自称、闇の女神を崇める宗教集団、実質は盗賊の群れであるところの《蜘蛛の瞳》団の人数は、確認されている限りでは、20名前後。
 
 辺境に出没する盗賊団としてはずいぶんと小規模だが、それが工夫なのだ。

 あまり集団を膨れ上がらせては、当然、中央の目も厳しくなり、討伐軍が派遣される危険が大きくなる。

《蜘蛛の瞳》団は、ひとりの首領と、彼に心酔する信者たちから成り、少数精鋭主義で荒稼ぎをしていた。
 
 ……しかし、そこに彼らの油断があった。

《辺境侯》の異名をとるマクセス・レイド将軍の目は、彼らの動きを何一つ見落としていなかったのだ。

 マクセスは独自の情報網を使って彼らの動向を探り、ツェルマート村が次の標的であるという情報をつかんだ。

 彼は「神速」とうたわれる持ち前の行動力ですぐさま討伐軍を編成し、秘密裏のうちにツェルマート村へと派遣、《蜘蛛の瞳》団を待ち受けさせた。

 その討伐軍の若き司令官こそ、フェリスデール・レイド――

 《リューネの戦乙女》と謳われる武人であり、将軍マクセスの実の娘であるフェリスは、その場にじっと佇み、頭のなかに広げたツェルマート村の地図の上で、目まぐるしく戦力の駒を動かしていた。

(あたしの布陣は、完璧なはず……)

 そう、待ち伏せの作戦は、見事に図に当たった。

《蜘蛛の瞳》団の首領は、退路を絶たれ、死に物狂いで戦いながら、必ずここへ――

  あたしたちのところへ、やって来る。
 
 と、静かに考え込んでいた顔をふと上げたフェリスは、

「ちょっと! いつまで、そんなとこに座ってんのっ?」
 
 まったくの無人と見えた横手の路地の暗がりに向かって、いきなりぴしゃりと言い放った。

 それでも動きがないので、声を荒くする。

「グウィン!」

「――そう、慌てることはない」

 言いながらゆらりと立ち上がったのは、ひときわ濃い影のなかに身を沈めるように腰を下ろしていた、長躯痩身の人影だった。

 ゆったりとした仕立ての服も逆立てた短髪も、墨を流したように黒い。

 鋭く切れ上がった金色の目が印象的だ。

「確か、ついさっき、おまえがそんなことを言っていたような気がするが?」

「そういう、つまんない揚げ足取りはやめてよ。
 まったくもう、あんたは、いつでも、緊張感が足りないんだから……」

 嘆く口調のフェリスを、グウィンは金色の目でじっと見据えた。

 その手にある、細く長い金属製の杖は、《帝国魔術学院》で訓練を受けた公認魔術師の証。

 帝国に属する魔術師たちは、そのほとんどが軍属として、各地の要衝で任務に服している。

「何を苛ついている? ……いや、気がはやっているのか。そうだな?  
 無理もない。奴らを叩き潰すのに、今夜を逃せば――間に合わなくなるかもしれん」
 
 フェリスは、まびさし越しに、じろりと相手をにらみつけた。

 いつでもこんなふうに無遠慮に人の心をのぞき込むのは、この男の悪い癖だ。

 だが、グウィンは、別に魔術を用いているわけではない。

 フェリスと彼とは、辺境侯の娘とその目付け役として、幼い頃から、ほとんど兄妹同然に育ってきたのだ。

 グウィンが、若い指揮官が鎧の奥に隠した心をたちどころに見抜くのは、長い時間を共に過ごしてきたからこそである。

「よりにもよって、こんな時期にな」

 ぼそりとグウィンが呟いた言葉に、フェリスは、ぐっと眉を寄せた。

 だが、それを口調にはあらわさず、淡々とした調子で言い返す。

「試合が近いから、なんて理由で、実戦がおろそかにできるわけないでしょ。
 たとえ、それが、どれほど大きな試合でもね」

「だが、敵の首領は『あれ』だという話だ。ここで怪我でもしたら――」

「そんなことを気にして力加減をしてちゃ、『あれ』には勝てな……っ!?」

 フェリスは、不意に口をつぐんだ。

 油断なく視線を投げた長い道の先に、ゆらり、と、黒い影が映る。

 武装した1人の男が、角を曲がって姿を現したのだ。

 ぶら提げた得物は、月の光をぎらりと跳ね返す、大ぶりの手斧。

 その姿を確認した瞬間、間違いない、あいつだっ、とフェリスは胸中で呟いた。

《蜘蛛の瞳》団の首領――

 襲われた村の生存者たちが口にしていた人相と一致している。

 部下たちを見捨てて、逃れてきたのだ。

「きっ……貴様が、首領だなっ!」

 叫びながら、剣を引き抜く。

 グウィンは、横手の路地に潜んだままだ。

 正面に立った首領の目には、フェリス一人の姿しか見えていないはず。

 男は、角を曲がったところで足を止めていた。

 逆光で表情はほとんどわからないが、こちらの様子をうかがっている。

 フェリスの存在に驚き、その意図と正体とをはかりかねているようだ。

「よくも……よくも、村のみんなを! 父さんと、母さんの敵だっ! 覚悟っ!」

 若干低めにつくった声で、適当なことを叫びながら、フェリスはわざと素人じみた構えを見せた。

 その瞬間、相手の迷いが消えたのがわかった。

 こちらが構えると同時に、ものも言わず、早足で向かってくる。

 ――かかった!

 フェリスは、まびさしの下でにやっと笑った。

 まさに狙いどおり。

 男は、彼女のことを、敵討ちのためにどこかの村から飛び出して軍に入隊した少年と勘違いしたのだ。

 わざわざ芝居をした理由はふたつ。

 ひとつは、こちらをとるに足りない相手と思わせ、相手の油断を誘うため。

 そして、もうひとつは、潜んでいる仲間たちの存在を相手に気取られないよう、注意を引き付けるためだ。
 
 無言で迫ってくる相手が、ある一点に差し掛かった瞬間。

「――撃てッ!」

フェリスの口から、気迫に満ちた号令が飛んだ!

 「何……!?」

 その声に男は事態を察したようだったが、時、既に遅し!

 フェリスの号令に応じて、両脇の民家の窓が一斉に開き、矢が放たれた。

 それらのほとんどすべてが、狙い違わず、男の身体に突き刺さる!

 人のものとは思えぬ、軋るような悲鳴をあげ、男はその場にどうっと転倒した。

「や……やった!?」

「油断するなっ!」

 松明と槍とを掲げてまろび出てくる兵士たちに鋭い叱咤の声を投げつつ、フェリスは走った。

 切迫した場面では、自然と口調が男のようになる。

 もしも奴が、本当に『あれ』ならば――本性を現す前に、グウィンの術で一気に畳みかけ、とどめをさすべきところだ。

 だが、それでは新兵たちの訓練にならない。

 フェリスは足取りをゆるめ、油断なく近付いていった。
 
 ――出し抜けに、倒れた男の身体が、ぶるぶると震えはじめた。

「んっ!」
 
 鋭く呻いて、出足を止める。

 断末魔の痙攣、ではない。

 異様な動きだ。

 ぐにゅりとうごめき、ぼこぼこと沸き立つような――
 
 と、その瞬間!

 男の身体の腰の辺りを、内側から次々と突き破って、十数本もの黒い槍のようなモノが飛び出した!

「おおぉっ!?」

 フェリスが跳び下がると同時に、それらはでたらめな長さで折れ曲がり、地面に取り付くと、男の身体を支え、たちまちのうちに空中に持ち上げた。

 男の腰から下がぶくぶくと膨れ上がり、突き刺さっていた矢がばらばらと地面に落ちる。

 ぶるん、と巨体を震わせた『それ』は、夜空を引き裂くような雄叫びをあげた。

「ひ……あ……」
 
 槍を携え、もたもたと窓から飛び出そうとした新兵たちが、その姿を目の当たりにして硬直する。
 
《蜘蛛の瞳》団の首領は、いまや人間ではなく、鱗と毛に覆われた巨大な黒蜘蛛に変貌していた。

 ただし、上半身はほとんどヒトの形を保ったままで、まともな神経の主ならば目撃しただけで頓死しかねないおぞましい姿だ。
 
 無論、例外もいるが。

「やっぱり……《呪われし者》だったわね……」

 喉の奥で唸るように、フェリスは言った。

《黒の呪い》――
 
 500年前の《大戦》以来、この世界の生きとし生ける者たちを苦しめ続けている災厄。

《呪い》に冒された者は、魂を毒され、その肉体は変貌を遂げてゆく。

 辺境地方では、特に《黒の呪い》による被害がすさまじかった。
 
 身内から《呪われし者》が出たことをひた隠しにし、その結果、一家がそろって《黒の呪い》に冒されてしまう例も多い。
 
 ――そう――

 この《呪い》は、伝染性を持っているのだ。

 感染を媒介するものは、血液、唾液などの体液。

「悪いけど……これ以上、《呪い》をばら撒かれるわけにはいかないわ……」
 
 真っ向から剣を突きつけ、フェリスは言い放った。

 その声に、怯えの色はない。

 あるのは嫌悪と、そして、それを上回る闘志だけだ。

 犯罪に手を染める者の中には、自ら望んで《黒の呪い》をその身に受ける者たちがいる。

《呪われし者》となることで手に入る、ヒトを超えた戦闘能力や生命力を、悪事に利用するためだった。

 だが、利用するといっても、しょせんは限界がある。

 いずれ、ヒトらしい精神がすべて崩壊し、凶暴な本能のままに殺戮を繰り返すだけの化け物となりはてるしかないのだ――

「貴様に、もはや、戻る道はない……。あたしの剣で、冥府に送ってやるっ!」

 その叫びの意味が、わかったのかどうか。

 人蜘蛛は、再びぶるりと胴体を揺すり、転瞬、音もなく真横に跳躍した!

 兵士たちが潜んでいた窓のひとつに、長大な脚の一本が叩きこまれる。

 悲鳴があがった。

「おおおおぉっ!」
 
 フェリスは剣を構えると、気合いとともに稲妻のような速さで突っ込んだ。
 
 ためらいもなく全身で人蜘蛛にぶち当たり、手にした剣を半ば近くまで、膨らんだ胴体に突き通す!
 
 蜘蛛は金切り声をあげて脚を振り回したが、鋭いその先端に薙ぎ払われるよりも速く、フェリスは敵の背を蹴りつけて跳びすさった。

 あざやかに体をひねって音もなく地面に降り立つ姿は、まさしく戦乙女の名にふさわしい。
 
 蜘蛛は、傷口からねばつく体液を滴らせながら彼女のほうに向き直り、その身体を串刺しにしようと続けざまに脚を繰り出した。

 だが、フェリスは一歩も退かず、神速の剣技でそれらすべてを斬り飛ばす!

 その動きは激しいと同時に優雅の極地、熟練の舞い手の美しささえ感じさせた。

 数人の兵士が、状況も忘れて彼女の戦いぶりに見入った。

 彼らがフェリスに従うのは、彼女が辺境侯の娘であるから、ではなかった。

 彼女の剣技を1度でも眼にしたことのある者は、その様をこう喩えた。

「まるで一切の音が遠ざかるようだ」あるいは「楽の音が聞こえるような気がする」と――
 
 数本の脚を失って、蜘蛛はよろよろと元来た方角へ引き返そうとした。

 だが、すでに、道になだれ出た兵士たちがその退路をふさいでいる。

 槍を構えた兵士たちが、気圧されたようにじりりと踵を下げるのを見て、フェリスは怒鳴った。

「やれる! 怯むなっ! 突き殺せ!」

「うっおおおおぉ!」
 
 その声にはっと我に返り、槍を構え直した兵士たちは、声を揃えて突っ込んだ。
 
 ぎゅしゅっ、と嫌な音が響き、数本の穂先が一気に人蜘蛛の肉体を貫く。

 人蜘蛛は、へたへたと脚を折り曲げ、小さく地面にわだかまった。
 
 終わったか、と誰もが、フェリスさえもが一瞬思った、その時――

 いきなり、金切り声をあげながら人蜘蛛が跳んだ!

 巨体が、手近の兵士にどっと乗りかかる。

 血しぶきが飛び散り、悲鳴が上がった。

「ガーニィっ!」
 
 兵士の名を叫びながら、フェリスは剣を振りかざして突進した。

 彼女の手強さを恐れたか、人蜘蛛は、すすっと兵士から離れる。

 蜘蛛のそれに変わった口元が血に塗れ、ぐしゅぐしゅと動いているのを目の当たりにして、さしものフェリスも吐き気を催した。

 だが、そんな場合ではなかった。

 ガーニィは《呪われし者》によって傷を負わされたのだ。

 おそらく、傷口から唾液が入っている。

 今すぐに、適切な手当てをしなければ、いずれ、彼もまた――

『非情なる運命よ……』

 出し抜けに、グウィンの呪文が響いた。

『その鉄槌を下せ!』

 彼は、人蜘蛛の周囲に味方がいなくなる瞬間を待っていたのだ。

 グウィンの呪文に、大気がたわんだ。

 同時、人蜘蛛が、巨大な拳に殴りつけられたかのように大きく吹っ飛ぶ!

 グウィンの十八番、敵の間近で、超高圧の空気の塊を炸裂させる技だ。

 これを好機と、フェリスは怒鳴った。

「殺せっ!」
 
 胴を大きく抉られながら、なおも立ち上がろうともがく人蜘蛛を、兵士たちが雄叫びをあげて取り囲み、剣と槍とでめったやたらに突きまくる。

 フェリスは、荒い息をつきながらその様子を見つめた。

《呪われし者》の異様な生命力を初めて目の当たりにした者は、例外なく圧倒される。

 怯えて、立ちすくんでいる間に殺されてしまう者も少なくない。
 
 だが、奴らは、決して不死ではない。

 自分たちの手でとどめをささせることで、勝てるのだという意識を持たせる――

 これが、《呪われし者》に立ち向かう兵士を育てる上で、最も大切な点なのだ。

「バウル、火をかけろ! ――グウィン、《アレッサ・ウォーター》と精油を!」
 
 ばたついていた人蜘蛛の脚が、糸が切れたようにその動きを止めるのを確認して、フェリスは、地面に倒れたガーニィのもとへ駆けつけた。

 既に、その傍らにグウィンが膝をついている。

《呪われし者》と近く接触した者を、《呪い》の発症から救うことができる、ただひとつの有効な方法――

 それが、《アレッサの花》の精油を含む水を摂取するということだった。

 アレッサの花に含まれる成分に、《呪い》を打ち消す薬効があるのである。

 フェリスたちが、やや離れた位置から見守る中、グウィンは、背負っていた荷物の中から取り出した革製の手袋をはめ、分厚い布で口元を覆った。

 さらに、革の前掛けをかける。

 いずれの品にも、貴重なアレッサの花の精油がしみ込ませてある。

「これを飲め!」
 
 グウィンが差し出した小さな水袋から、ガーニィは、むさぼるように《アレッサ・ウォーター》を飲み干した。

 グウィンは手早く肩の傷口を調べ、牙のかけらなどが入っていないことを確認すると、

「痛むぞ、堪えろ!」
 
 アレッサの精油のビンを開け、傷口に直接振り掛けた。

 獣のような絶叫が上がった。

 あまりの苦痛に、ガーニィは激しく身をよじったが、自身も血塗れになりながら手当てを施すグウィンの腕ががっちりとガーニィの首に巻きつき、それ以上の動きを封じている。

「ガーニィ!」
 
 暴れる兵士の腕を、しっかりと握った、もうひとつの腕がある。
 
 フェリスだ。
 
 ガーニィは、今にも泣き出しそうな顔で彼女を見た。

「た、隊長……! 俺……《呪われし者》になっちまうんでしょうか……!?
 嫌だ、そんなの……!」

「――なあぁーに、言ってんのっ!」

 部下のすぐそばに膝をついたフェリスは、並の娘なら貧血を起こしそうな生々しい傷口を一瞥すると、いきなり、相手の無事なほうの肩をばしーんと叩いた。
 
 思わず呻いたガーニィに、にっ、と大きな笑顔を見せる。

「大丈夫、大丈夫! あたしだって、もう何回もあんたみたいな目にあってるもん。
 アレッサ・ウォーターさえ飲んどきゃ、もう大丈夫よ!
 あんたは絶対、《黒の呪い》なんかにかかったりしない! うん、あたしが、保証するっ!」

「で、でも……い、痛い……です、隊長……!」

「痛いのは、精油が効いてる証拠! 絶対に、助かる! 気をしっかり持ちなさい!」

 問答無用の力強さで断言する。

 むろん、彼女とて、揺るぎない確信がある、というわけではない。

 部下の身を案じる心は、おそらく、この場の誰にもひけをとるものではなかっただろう。

 だが、ここでむやみに心配して部下を不安がらせるのは、指揮官として最低の行為だ。

 気休めでも何でも、とにかく力づけ、気力を保たせなくてはならない。

 フェリスはすっくと立ち上がると、燃えている人蜘蛛の死体を剣で指し、周囲に集まってきていた兵士たちに向かって声を張り上げた。

「みんな、よくやってくれたわ!
 首領は倒した。あとは、雑魚どもを始末するだけよ。
《蜘蛛の瞳》のくそったれどもに、二度と朝日を拝ませるんじゃないっ!」
 
 男たちが、彼らの戦乙女の荒々しい言葉に熱狂的な歓声で答える。

 フェリスの鎧と剣は、いまや、人蜘蛛の黒い体液にべっとりと染まり、炎に照らされて恐ろしげに光っていた。

 ツェルマートの長い夜は、まだ始まったばかりだ。  

 
        *       *       *

 
《蜘蛛の瞳》団を徹底的に壊滅させ、辺境警備隊の兵士たちがようやくその任務を終えたのは、夜明け前のことだった。
 
 激闘に疲れ果てた辺境警備隊の兵士たちが、借用した倉庫や納屋の床に、死んだ魚のようにごろごろと転がって仮眠をとっている。

 戦いのあいだ一睡もできず、消火作業に走り回った村の者たちも、それぞれの寝床で久々の安らかな眠りを享受していた。

 アレッサ・ウォーターの効果か、人蜘蛛に食いつかれたガーニィも、今は納屋のひとつで安らかな寝息を立てている。

 起きているのは、先輩たちに歩哨の任務を押しつけられた不運な新兵たちだけである。
 
 ――いや、もう一人いた。

「うう……なんとか、終わったわ……
 よかった……一人も、死なせずに済んで……」
 
 ぶつぶつと呟きながら、無人の道をふらふらと歩いているのは、フェリスである。

 汚れた防具は脱いで、衣服は着替え、もちろん兜もかぶっていない。
 
 辺境の戦士たちを率いて戦う女丈夫、という評判から、人がどんな想像をするにせよ、フェリスは、おそらくはそれを上回って美しい娘であると言えた。

 茶色がかった緑の、大きな目が印象的だ。

 朝日に映える長い金髪は、任務のあいだじゅう、きつく編み上げて兜の中に押し込んでいたために、まだ少しくせがついていた。
 
 そう、任務は、成功に終わった。

 もう少ししたら皆を叩き起こして、急ぎガイガロス砦――彼女たちの帰る家であり、『人間世界の盾』と呼ばれる城塞――に帰還し、将軍であり父でもあるマクセスに報告を済ませ……

 そして、御前試合に出場するために、帝都へ向けて出発するのだ。

 ほとんど折り返しになるその旅程を想像し、彼女はため息をついた。

 御前試合。

 それは、帝都で催される新年祭において、4年ごとに開催される、剣術の競技会だ。

 しかし、ただの競技会ではない。

 そこに集うのは、各地で行われる予選を勝ち抜いた、いずれ劣らぬ名高い使い手。帝国の剣技の最高峰とうたわれる達人たちだ。

 そして、会場には、このリオネス帝国を統べたもう皇帝その人が来駕する。

 武門に生まれ、剣を志す者ならば誰でも、一度は立ってみたいと憧れる晴れの舞台――

 フェリスもまた、幼いころから、この試合に出てみたいと願い続けていた。

 御前試合は、帝国各地で行われる予選を勝ち抜いた者ならば、生まれや身分にかかわらず出場が許されることになっている。

 男女の別も関係ない。

 出場資格はただひとつ――『成年15歳に満ちていること』。

 フェリスは今、花も恥じらう17歳。

 去年、誕生日を迎えたとき、フェリスが父親にねだったのは、香水でも宝石でもドレスでもなく、御前試合の場で身につける鎧だった。

 親愛のキスではなく、「必ず勝つ」という誓いと引き替えに、マクセスは娘に特別あつらえの武装を仕立てた。

 その誓いを守り、フェリスは、みごとに予選を勝ち抜いてみせたのだった。
 
 ――そんな、幼い頃からの夢だった御前試合への出場も、新兵を6名抱えての《呪われし者》討伐という激務を終えた後では、棚に放り上げてベッドに潜り込みたくなってくる。

「くっそー、親父め、非情な命令を……。鬼か? あいつは……」
 
 なおもぶつぶつ言ううちに、フェリスはまさしく昨日立っていた、村の西の端までたどり着いていた。

 呼子を胸にかけ、村の入り口を守るように立っていた歩哨が、彼女の姿を見て慌てて背筋を伸ばし、胸に拳を当てる帝国式の敬礼をした。

「おはようございます、隊長!」

「おはよう! フィロス」
 
 若い歩哨は、あからさまに緊張していた。

 彼女の戦いぶりを目にしたことのある若い兵士は、例外なくこんな反応をする。

 単に、散歩をしていてたまたま足が向いただけなのだが、もしかすると、仕事ぶりを視察に来たと思っているのかもしれない。

 疲れてるのに、悪いことしちゃったな、と少し反省しながら、フェリスはねぎらいの言葉をかけてその場を立ち去ろうとした。

 ――はるかむこうの赤茶色の丘を、朝日を浴びながら下ってくる幌馬車の列が彼女の目にとまったのは、ちょうど、その瞬間のことだった。

「あれ、何かしら?」

「あれは……」

隣で目を細めていた歩哨が、不意に呆気にとられたような顔になって呟く。

「あれは、マッカランじゃないですか?」

「え?」

 そう、先頭の幌馬車から手を振っている男は、確かに、ガイガロス砦で「荷馬車のおっさん」として皆に親しまれているトニー・マッカランに間違いなかった。

 だが、なぜ彼が、このタイミングで幌馬車隊を引き連れてあらわれるのだろうか?
 
 二人がその答えを出せずにいるうちに、幌馬車隊は、すぐそばまで近付いてきていた。

「おーいっ! お嬢さん、皆さーん! どうも、おはようございまーす!」

 みずから手綱をとっているマッカランが、がらごろと景気のいい音を立てて村の入り口に幌馬車を乗りつけ、爽やかに挨拶してくる。

「何だ、何だっ?」

「何事だ?」

「……ありゃ、マッカランのおっさんじゃねえか?」

 騒ぎを聞きつけて、村人や兵士たちが次々と起き出してくる。

「いやあー、どうもどうも! ご苦労さまです。ホイ、これ、ガイガロス砦より愛をこめて。ツェルマートの皆さんにね!」

 集まってきた者たちに、積荷――食糧、毛布、薬品などの援助物資――を問答無用でどかどかと手渡しておいて、マッカランは、年のわりには身軽な動作で、ひょいと馬車から飛び降りた。

 懐から取り出した1通の封書を、ひょいとフェリスに差し出す。

「どうそ、お嬢さん! レイド将軍からことづかってきたもんです」

「……親父から?」

 何が何だかさっぱりわからないままに、フェリスは紋章の入った蝋の封印を開け、手紙の文面を追っていった。



『おはよう! 我が娘よ。元気にしとるか?

 これがそっちに着く頃には、ちょうどいい感じにカタがついてるだろうな?

 おまえが率いる部隊に敗北はありえないと信じて、マッカランを送り出したぞ。

 マッカランには、ツェルマートへの援助物資と一緒に、おまえたちが準備していた帝都行きの旅支度を丸ごと持たせた。

 それを持って、そのまま帝都に向かえ。

 オドネスまでは、マッカランが馬車で送ってくれる。

 部隊の帰還の指揮は、バウルに任せてしまっていい。彼にはもう話をつけてある。――わざわざガイガロスに引き返して出直す手間を省いてやろうという、この親心! ありがたくて涙が出るだろう?
 
 あとは前から言ってた通りだ。オドネスから船で帝都まで行って、試合まではティンドロック卿ガストン・ユーザの屋敷に泊めてもらえ。

 屋敷への道順は、同封の地図を参照。……3年前に訪ねたときの記憶をもとに描いたもんで、ちょっと怪しいか知らんが、そのへんはカンで何とかしろ。
 
 まあ何でもいいから、とにかく元気に行って帰ってこいよ! じゃあな。

                    父より

  追伸1 みやげは《道化》屋のひねり飴! 試合を忘れてもこれは忘れるな!
  追伸2 暴飲暴食は控えること!
  追伸3 優・勝!! ――勝てなかったら帰ってこなくていいぞ。』



「あ……あ……あンの親父はぁ〜……っ!」
 
 読み終えた手紙を力いっぱい握りつぶし、フェリスは唸った。

 その形相を目にした若い兵士たちが、ぎょっとして一歩退く。

「バウル! あんた、このことを知ってたのっ!?」

「はあ……。すんません、隊長。任務遂行にあたってプレッシャーになるといかんというので、将軍にかたーく口止めされてまして……」

「くぅ」

 明らかに嘘くさい。

 こちらが驚くのを想像して面白がっていたに決まっている。

 あのタヌキ親父め、どこまで人をこけにすれば気が済むのか。

「おのれ親父〜ッ、先に一言、言ってくれさえすれば、あれほど、やきもきせずに済んだのにっ!
 ……まあ、いいわ! これで、ゆとりを持って旅ができるわけだし……」

 自分自身を納得させるように呟き、フェリスは幌馬車の荷台によじ登って、荷物の点検をはじめた。

 出場許可証。新品の武装一式。旅費に携帯食料、薬、着替え……

 よし、何もかもそろっている。

「俺の荷物は?」

 そこへ、おもむろにグウィンが顔を出した。

 彼は、フェリスの目付け役兼護衛として、帝都への旅にも、当然のように同行することになっている。

「あるわよ。これでしょ?
 ……でかっ! しかも、重い! 何が入ってるのよ?」
 
 丈夫な布製の背負い袋を持ち上げて、フェリスは顔をしかめた。

 グウィンの荷物は、その簡素な袋がひとつきりだったが、その袋が、漬け物石でも入れているのかと疑いたくなるほど重い。

 荷物の主は、重々しく答えてきた。

「主に書物だ。俺はおまえと違って、ちゃんばら大会などに興味はない。
 帝都では、じっくりと読書に勤しもうと思っている。
 普段はどこかの凶暴な娘の目付けに忙しく、心静かに書物をひもとく暇もないからな……」

「誰が、凶暴な娘よっ!?」

 フェリスは荷台から飛び降り、鞘に収まったままの切っ先をグウィンに突きつけた。

「それに、ちゃんばら大会なんて、失礼なこと言わないでよっ!
 4年に一度の栄えある御前試合を、何だと思ってんの?
 皇帝陛下から優勝者に下賜される《翼持つ女神の剣》は、剣士として最高の名誉の証で――」

 だんだん近づいてくる切っ先を、うるさげにつまんで横へどけ、グウィンはあっさりと言い返した。

「御前試合か何か知らんが、実戦でもないのに、あんな野蛮な鉄の塊を振り回して殴り合うことの意義が理解できんな」

「野蛮ですってっ!? ふざけるなー!
 あんたなんか、100回も素振りしたら腕が上がらなくなっちゃうくせに、御前試合にケチをつけるなんて、1000年早いわっ!」

 フェリスとグウィンの口喧嘩を、若い兵士たちがぽかんとして見守っている。

「まあ、まあ、まあ!」

 言い争う二人のあいだに割って入ったのは、年かさの兵士たちだった。

「とにかく、思う存分暴れて、優勝をかっさらってきて下さいや!」

「そうだぜ。やわな都の剣士どもを、うっかり叩き殺さねえように気をつけろよ!」

 言って、どかどかとフェリスの背中を叩く。

 フェリスの初陣の時から兵士稼業をつとめている彼らにとっては、フェリスは、戴くべき指揮官であると同時に、娘のような存在でもあるのだ。

 若い兵士たちとは、彼女に対する口のきき方も違う。
 
 一方、バウルは、グウィンと向き合っていた。
 
 兵士と魔術師とは、戦い方も物の考え方もまったく異なっている。

 先程の、剣での戦いを蔑視するような発言からもわかる通り、グウィンは、ガイガロスの兵士たちとはあまり反りが合わなかった。

 バウルとグウィンが間近で視線を合わせたことで、周囲にちょっとした緊張が走る。
 
 ややあって、バウルは、ぽんっ、と若い魔術師の肩に手をかけ、言った。

「困難な任務とは思うが、おまえさんを信頼している。隊長の目付けを頼んだぞ」

「ああ。周囲の被害を最小限に食い止めるべく、力を尽くそう」

「――そこっ! 何の話っ!?」

 幌馬車に乗り込もうとしていたフェリスが喚き、兵士たちがどっと笑った。

「くっそー、みんな、何よっ!? あたしを、怪獣か何かだとでも思ってんの?」

「自覚があるなら、自重しろ」

 荷台におさまってぶつぶつ言うフェリスに、グウィンは、柵をひとまたぎにしながらそれだけ言った。

 そのまま、早々に仮眠をとりなおすつもりか、荷物を枕に、ごろりと横になる。

 その頭を拳で打つ真似をしてから、フェリスは御者に合図を出した。

「いいわよ、マッカランさん。出して!」

「頑張って下さい!」
 
 ずらりと並んだ兵士たちは、ごとごとと動きはじめた幌馬車に向かって大きく手を振りながら、思い思いに激励の声を張り上げた。

「絶対に、優勝しろよー!」

「実力を出し切って下さいね!」

「人間は、半殺しまでだぞ!」

「強盗は犯罪だぞー!」

 ――ちょっと違うのも混じっている。

「ひどい言われようだな」

「あんたが言うなっ!」

 薄目を開けて呟いたグウィンの頭を拳で一撃しておいて、フェリスは、荷台の後ろから大きく身を乗り出した。

「行ってきまーすっ!
 ……ぜったい、リューネに《翼持つ女神の剣》を持って帰ってみせるからねっ!
 楽しみに待っててよーっ!」
 
 満面の笑顔で、手を振り返す。

 長い金色の髪が朝日を跳ね返して、本物の黄金のようにきらめいた。




   2 刃のない剣の名誉




 大陸全体でも数箇所しかないと言われる10万都市のひとつ、リオネス市――

 皇帝の居城、美しきマーズヴェルタを擁する帝都は、新年祭のはじまりを半月後に控えていた。

 雲一つない冬晴れの空から陽光が降り注ぎ、美しい街並みを照らし出す。

 どの家の戸口にも、色とりどりの造花と吹き流しが飾られ、厳しい冬の風も、その彩りによって心なしか温度を上げているようだ。  

 ――もちろん、例外もあるが。


『ユーザ剣術道場  
 〜その心をもって盾となり その腕をもって剣とならん〜』
 

 前庭の入り口となる表門のアーチの上に、そんな文言を掲げたその屋敷は、もとは大商人の別邸として使われていたのを、現在の主人が買い取ったものである。

「本来、厳粛に迎えるべき新年祭を、浮かれ騒ぎの口実にするとはけしからん!」  

 という現当主の信念を反映して、伝統にのっとり、冬でも色褪せないヒイラギの葉の束を玄関先に吊るしている他には何の飾り気もない。  

 しかし、彩りに欠けるからといって、その屋敷に寒々しい空気が流れているかというと、まったくそんなことはなかった。  

 むしろ、その逆で、暑苦しいほどである。

「298――299――300! よし! 休憩にしようぜ」  

 師範代のイーサンが叫ぶと、冬枯れの芝生の前庭で一心に模擬剣を振っていた少年たちが、一斉に悲鳴のような音をたてて息を吐いた。  

 痛む腕をぶらぶらと振る者、いきなりその場に寝転がる者、ぜいぜいと息を切らせながらも隣の友人と喋り出す者、色々である。

 ほとんどが10代前半の少年たちで、中には、イーサンをはじめとした数人のように、もっと年かさの者も混じっていた。  

 そこへ、屋敷から出てきた小柄な金髪の女性が、にこやかに声をかける。

「みなさん! 今日も寒いのにお疲れさま。
 今、温かいお茶を淹れましたのよ。焼き菓子もありますの。
 よろしかったら、召し上がってちょうだいね」  

 ジャム入りの紅茶と甘い焼き菓子に、少年たちが蟻のようにわっと群がった。  

 その様子を尻目に、イーサンはぶらぶらと表門のほうへ歩いてゆくと、開きっぱなしの門扉から出て、足元の石段に腰を下ろした。  

 模擬剣をかたわらに横たえ、石段を見つめて溜め息をつく。

 短く刈った黒髪に、ややきつい目付き。荒削りながらも整った顔立ちだ。

 こうして物思いに沈んでいる様はなかなか絵になる、と言えないこともなかったが――

「イーサンっ!」

 そんな雰囲気をぶち壊すように、いきなり彼の首に太い腕が巻き付き、思い切り絞め上げた。

「ぐえ!」  

 顔を真っ赤にして、足をばたつかせる。

 ようやく腕を振りほどいて振り向けば、年かさの連中が、ずらりと勢揃いして彼を見下ろしていた。  

 そのうちの一人――先程首を絞めてきた、こちらも師範代のオルトが、呆れたような表情で鼻息を吹く。

「てめえよお、なーに、一人でシケてんだ?
 御前試合の予選に落ちたことで、まーだ、しつこく落ち込んでんのかよ?
 いい加減にしろ。てめえがそんなんじゃ、下のもんに示しがつかねえ」

 仲間たちも、口々に言った。

「そうだぜ! いつまでもヘコんでたって仕方ねえだろ」

「よく考えろよ。負けたのは、たしかに悔しいだろうけど――
 今の状況を見てみろよ!」

「そうそう。こりゃ、神々のおぼしめしってヤツだぜ。
 負けて、かえって幸運だった――」

「うるせえ!」

 仲間たちの言葉をまるで受け付けない態度で、イーサンは喚いた。  

 彼らの身分は、ばらばらである。

 例えばイーサンは、ほとんど勘当同然とはいえ商家の三男坊だし、オルトは地図職人の息子だ。  

 彼らも、新年祭の御前試合を目指すことができる。

 各地で行なわれる予選を通過しさえすれば、その権利は誰にでも平等に与えられるのだ。

 御前試合に出場し、優れた戦績をおさめれば、上からの『引き』によって騎士身分を得ることも不可能ではない。  

 イーサンは大きな手で頭を抱え込み、がしがしとかきむしった。

「そういうことじゃねえんだ……そういうことじゃ」

「あー……」

 一人の若者が、同情したように呟く。

「おまえ、やっぱその、何だ……。ティアちゃんのことで」

 その瞬間、電光石火の速さで跳ね上がったイーサンの裏拳をがつんと一発小鼻に食らい、その若者は後ろ向きに引っくり返った。

「黙れっつってんだろっ! それ以上ぐだぐだぬかすとぶっ殺すぞ、このハゲッ!」

「ひでぇ。俺、別にハゲてねーのに……」

 顔を押さえながら情けない口調で呻く仲間にはもはや構わず、イーサンは引き続き頭を抱え、後ろ向きな物思いにふけりまくる。

 さすがにこれは放っておくしかないと判断し、仲間たちは目配せをしあって、そろそろと彼から離れ――

「……何だあ? ありゃ」  

 ふと道の先に視線をやった一人が、ぽかんとした口調で呟いた。

 その口調につられて、イーサンも顔を上げ、その方向を見やる。  

 道の向こうから歩いてきているのは、奇妙な二人連れだった。  

 
        *



 その、わずか数分前。

「……ないわね。ティンドロック卿の屋敷……」

 旅装に身を固めたフェリスとグウィンは、帝都の街角で、これ以上ないほどに道に迷いまくっていた。

「親父の地図によると、確かに、このへんのはずなんだけど」

 手にした羊皮紙と、手近の屋敷の門に刻まれた家名とを指差して比べながら、フェリス。

「そんなわけがあるか。ここは貴族街ですらないぞ。そもそもこんなミミズの散歩道のような地図、信用できるか」

「う〜ん……」

 うんざりとした調子のグウィンの言葉に、フェリスは唸るしかなかった。

 無理もない。

 何しろ、朝方に帝都に上陸してこのかた、マクセスに渡された芸術的なまでにわけの分からん地図のせいで、あちらこちらとさまよい歩き、道を訊いた相手をことごとく混乱に落とし入れながら、昼近い今の今まで、ティンドロック卿ガストン・ユーザの屋敷を探し回っているのである。

 このあたりは、富裕な商人たちの邸宅が立ち並ぶ区域だった。

 貴族であり、かつての将軍でもある人物の住まいとしては、あまりに場違いな一角である。

 だが、マクセスの地図によると、たしかにこのあたりのはずなのだ。

「おのれ親父、ぜったい許さん……。
 そもそも、『このへんにわしの友達が住んでるから、行って泊めてもらえ』なーんて、適当すぎると思わない?
 このぶんじゃ、あたしたちが行くって連絡すら、ちゃんと通ってるか怪しいもんよね。先方には手紙を送ってあるから大丈夫だって、言ってはいたけど……」

 同意を求める調子でぶつぶつと愚痴っておいて、ちらりと反応をうかがうが、グウィンはすでにあきらめの境地に入ったか、黙々と歩を進めるのみで答えもしない。

 しかたなく、フェリスはふたたび通りの先に視線を戻した。

 大きな門の前を通るたびに家名を確かめるが、どれも外れだ。

 おかしいわね、と、フェリスは心のなかで呟いた。

 ティンドロック卿の屋敷が見つからない、ということばかりではない。

 もうひとつ、さきほどからずっと気にかかっていることがあるのだ。  

 ――あまりにも、人通りが少なすぎる。  

 マクセスから聞いていた話では、帝都リオネスの人口は10万強。リューネ市の人口の、およそ100倍にも及ぶ。

 ふだんから活気に満ちた辻々は、新年祭の前ともなれば人々でごった返し、道を横切ることすらも不可能なほどににぎわっている――ということだったのに。

「……静かね……」

 港の周辺は、かなり人通りも多くそれなりに賑やかだったのだが、いまや、通りにはフェリスたち以外の人影は見当たらない。

「確かに、静かすぎる」

「何か、あったのかしら?」

「そうかもしれんな」

「何があったんだろ?」

「俺が知るか」  

 と、無意味な会話を続けながら歩いていたとき。

 ふと目を上げたフェリスは、道を行った先の屋敷の表門に、数人の若者たちがたむろしているのを見つけた。

「あ、ちょうどいいわ! あの人たちに道を聞いてみない?」

「あいつらにか? ……何だか、ガラの悪そうな連中だが」

「この際、何でもいいわよ。ちょうど暇そうだし」  

 失礼な会話を交わしておいて、フェリスたちはずんずんとそちらに近付いていった。

「……何だぁ? てめえらは」

 リーダー格とおぼしき黒髪の若者が立ち上がって、押し殺した声音で誰何してくる。  

 幼児が見たら、一発で泣き出しそうな形相だ。

 仲間たちもそろって青筋を立てているところを見ると、どうやらこちらの会話の内容は丸聞こえだったらしい。

 だが、フェリスは気にも留めずに笑顔を作ると、

「あの、すみません。ちょっと、ものをお尋ねしたいんですけど……。
 ティンドロック卿のお屋敷って、どのあたりにあるのか、ご存知ありません?」

「何?」  

 フェリスの口から出たセリフに、イーサンは、目を丸くした。

「……あんたら……うちの師匠に、何か用か?」  

 相手の言葉に、フェリスのほうも、は? と口を開ける。  

 と、後ろに立っていたグウィンが、杖でつんつんと肩を突ついてきた。

 振り向くと、彼は無言で石造りのアーチを指し示している。  

 その上の石に刻まれた文字は――『ユーザ剣術道場』。

「あ! ここっ!?」

「あからさまに書いてある。さっさと気付け」  

 目付け役の皮肉を聞き流し、フェリスはたちまち表情を輝かせた。

 呆気に取られているイーサンの手を、半ば強引に握りしめ、笑顔でぶんぶんと振り回す。

「はじめましてっ! あの、あたし、リューネから参りました、フェリスデール・レイドです。
 こっちはグウィン。
 あなたがたは、ティンドロック卿の門下生の方ですね? ティンドロック卿にお取次ぎを願いたいんですけど……」

「だから、何の用だよ……?」

 困ったように訊いてくるイーサンに、フェリスは、ぴたりと動きを止めた。

 ――ややあって、姿勢はそのまま、首だけでグウィンを振り向いて言う。

「どうしようグウィン……。やっぱり、連絡が来てないみたい。
 板渡りと吊るし首と車裂き、親父を最も効果的に反省させられる方法はどれだと思う?」

「どれも処刑法だと思うのだが……」

 静かに呟いた目付け役から、目の前の若者に視線を戻し、フェリスは、とりあえず愛想笑いを浮かべた。

「えーと……ごめんなさい。てっきり、もう連絡が来てるものとばかり……。
 あの、あたし、今度の御前試合に出場するために帝都に来たんです。
 父がティンドロック卿と懇意にさせていただいているご縁で、帝都に滞在するあいだ、こちらに泊めていただくことに――」

「何だとおおぉぉっ!?」  

 出し抜けに、イーサンが吠えて掴みかかってきた。

「うわ!?」

「む……。急に狂暴化したぞ。気をつけろフェリス、取って食われるかもしれん」

 フェリスは反射的に跳びすさって身構え、グウィンは落ち着いた口調で的外れな注意をする。

 この二人には知る由もないことだが、無論、イーサンを逆上させたのは『御前試合に出場』の一言であった。

 ようやく塞がりかけていた心の傷をざくざくと抉られて、まなじりを吊り上げ、激しく指を突きつけながらイーサンが怒鳴る。

「てめえが……御前試合に出場だと!?
 嘘だ! ふざけるんじゃねえ!
 てめえみてえなのが……女のくせに、予選を勝ち抜けるわけねえんだ!」

「……何ですって?」

 その瞬間、フェリスの瞳の温度がすうっと下がった。

『女のくせに』――

 それだけは、フェリスに向かって決して口にしてはいけない、唯一無二の禁句だった。

 将軍の教育方針で、幼いころからガイガロス砦の兵士たちにまじって訓練を積んできたフェリスだが、12歳のころ、同じ従士見習いをつとめていた男の子たちに馬鹿にされ、大乱闘の末、相手の大将格の額を飼い葉おけでぶん殴って気絶させたという逸話はあまりにも有名だ。

「そんなに、試してみたいわけ? あたしの実力……」

「――やめておけ」

 断固とした調子で両者のあいだに割り込んだのは、グウィンだった。

 彼は、ゆっくりとイーサンに近付くと、ぽん、とその肩に手を置き、

「おまえは、まだ若い……
 命を粗末にするな」

「どーゆー意味よっ!?」

 フェリスが、思わず表情を元に戻して喚く。

「入れよ」

 門柱に立て掛けていた練習用の剣をつかみ、庭のほうへ手を振りながら、押し殺した声でイーサンは言った。

 他の少年たちが驚いてざわめくが、気にも留めない。

「往来でやり合ったんじゃ、警備隊に逮捕されちまう。
 最近、取り締まりが厳しくなってるからな……。
 だが庭でなら、心置きなく戦えるぜ。
 練習試合でケガ人が出ても、どこからも文句は出ねえ」

「おい、イーサン! 師匠の客だぞ!?」

「黙れ」

 黒髪の若者は、本気で頭に来ているようだ。
 仲間を押しのけ、ずかずかと20歩ばかり庭に踏み込んだところで、早くもこちらに向かって剣を構える。

「……性急すぎる男は、女にもてないわよ?」

「うるっせえっ! とっととかかってきやがれっ! 叩っ殺してやる!」

「できるなら、ね」

 さすがに腰の真剣は抜かず、フェリスは、荷物から引っ張り出した模擬剣を手に身構えた。

 瞬間、集まった若者たちから、おおというどよめきが起こる。

 その構えは、明らかに、彼らの誰よりも戦い慣れした戦士のそれだった。

 ただ立っているだけのはずなのに、大地に根を下ろした巨木のような安定感と、威圧感がある。

 イーサンもそのことを感じ取ったか、濃い眉をぐっと寄せ、すぐには仕掛けてこない。

「あれ、どうしたの? ためらうことないわ。思い切って来なさいよ」  

 フェリスはわざと挑発的な言葉を投げかけ、左手を柄から離して、ひらひらと動かした。

 ――思った通り。

「なっ……なめんじゃねえぇっ!」  

 怒り狂って、イーサンが突っ込んだ。

「遅いっ! ――1本!」  

 ばしりっ! と派手な音が響き、ほとんど何をどうされたのかも分からないうちに、イーサンは首筋をしたたかに打たれて危うく目を回しかかった。  

 どうにか踏み止まって顔を上げると、ほとんど元と同じ構えに戻ったフェリスが、余裕ありげに笑っている。

「このっ……でゃああぁぁっ!」  

 イーサンは雄叫びをあげ、腰だめに剣を構えて突っ込んだ。

 フェリスの身体が剣風を避ける羽根のように動いたと思うと、すいっ、と彼の背後に回り込む。  

 あっと思うより先に腰の後ろを軽く蹴られ、イーサンは突進の勢いもそのままに、顔面から芝生に突っ込む羽目となった。

 そのはずみで剣が手からすっぽ抜け、芝生の上を勢いよく滑っていく。

 完全に野次馬と化していた少年たちが、慌てて飛び退いた。

「2本。……武器をなくしたわね。投降する?」  

 地面に這いつくばった若者の首筋にぴたりと模擬剣の切っ先を当てて、フェリス。

「つ、強え!」

「圧倒的だ! ありえねえ!」

「何なんだ、この女……!?」  

 予想を遥かに上回るフェリスの戦いぶりに、動揺しまくって唸る少年たち。

 フェリスは芝居がかった仕草で髪を払いのけると、得意げに笑った。

「ふはははは! このあたしに剣をもって挑もうとは、身の程知らずもはなはだしいわねっ!
 今すぐその場にひざまずいて命乞いをするなら、命だけは助けてあげてもいいわよっ!」

「悪役か……お前は……」

 すっかり役柄に酔っているフェリスに、呆れて呟くグウィン。

 物語に登場する悪の女王――というよりは、邪神といった風情だが。

 と、その瞬間、イーサンの顔が真っ赤に膨れあがる。

「うぉおおおっ!」  

 フェリスの剣を払いのけ、彼は猛然と跳ね起きた。  

 剣を拾いに走るか、という周囲の予想を裏切り、なんと、徒手のままフェリスに殴りかかる。

 ――並大抵の人間ならば、なすすべもなく張り倒されていただろう。

 だが、いかんせん、フェリスは断じて、並の戦士ではなかった。

「むうっ! 武器を失っても戦意を捨てないその心意気、気に入ったわっ!
 あんたも、辺境警備隊に入隊してみないっ?」

「はぁっ?」

 妙なせりふにイーサンが戸惑ったそのとき、フェリスの姿が、ばっと視界から消えた。

「!」

 ――その瞬間、いったい何が起きたのか、イーサン自身にはおそらくわからなかっただろう。

 相手の視界に入らないほど深くかがみ込んだフェリスは、突っ込んできたイーサンの両脚を抱えこみ、そのまま、自分の肩ごしにイーサンを投げ飛ばしたのである。

 うら若い乙女が、自分より確実に体格で上回る男をぶん投げるという常識外れの光景に、外野たちはそろってあんぐりと口を開けた。

 相手の勢いを殺すことなく利用する体術――

 理屈はわかるが、そんじょそこらの人間が実戦で用いられるものではない。  

 イーサンは、空中でほとんど1回転して、背中から芝生に叩き付けられた。

 これはさすがに効いたようで、ううっと唸ったきり、起き上がろうともしない。  

 と、そこへ。

「いやあ……見事、見事!」  

 突然、野太い声と一緒に、ぱちぱちと拍手が響き渡った。  

 全員が、弾かれたようにそちらを見やる。  

 いったい、いつからそこにいたのか。

 頭をつるつるに剃り上げた髭面の巨漢が、満足げな笑みを浮かべてこちらを眺めていた。

 その後ろには、小柄な金髪の女性が、やはりにこにこと微笑んで立っている。

「――あっ!?」 

 その巨漢の右脚が木製の義足なのを見て、フェリスはただちに背筋を伸ばし、拳を胸に当てる帝国式の敬礼をした。

「閣下! お初にお目にかかりますっ!」  

 ティンドロック卿、ガストン・ユーザ。  

 5年前のクラウディオ戦役で右足切断の重傷を負って退役するまでは《不死身》のガストンと恐れられた陸軍の将軍であり、マクセスと並んで《帝国陸軍の双璧》とまで謳われた男である。

 今では、貴族社会との交わりをほとんど絶ち、こうして市井の少年たちに剣術や兵法を教えているという変わり者だ。

「帝国陸軍、リューネ常駐師団所属、フェリスデール・レイド!  
 御前試合に出場するため、同じくリューネ常駐師団所属の公認魔術師、グウィンをともなって参りました!」

「閣下、ってのは、よしてくれ。わしはとっくに引退した身だ」

 フェリスの改まった名乗りに、ガストンは、ぐわっと笑みを大きくした。

「遠いところを、よく来てくれた! マクセスから、話は聞いとるぞ。
 いや、しかし、聞きしに勝る腕前じゃないか。
 実のところ、その歳で、しかも女の子の出場はかなり無謀じゃないかと思っとったが……
 こりゃあ、心配はいらんようだな!」

「あ、あの、師匠?」  

 目いっぱい戸惑った口調で、オルトが声をかける。

「こいつら……じゃ、なくて、あの、この方たちは、いったい……?」

「おっ? おう。そういえば、おまえらにはまだ話しとらんかったな」

 意外とひょうきんな仕草でぽん、と手を打ち、ガストン。

「こちらのフェリスちゃんは、わしの親友のお嬢さんでな。
 今回の御前試合に出場するために、はるばる、リューネからやって来たってわけだ。
 ――おまえらも、聞いたことくらいあるだろう?
 辺境侯マクセス・レイドの秘蔵っ子、《リューネの戦乙女》フェリスデール・レイド……」

「げぇっ!?」  

 ガストンの説明に、悲鳴じみた声をあげ、若者たちがざざっとフェリスから離れた。

 驚き、どころではない。

 その視線ににじみ出ているのは、本物の畏怖だ。

「な、なんか、名前に覚えがあると思ったら……!」

「あの伝説の、リューネの戦乙女かっ!?」

「辺境地区最強の女――《皆殺し》のフェリスデール!?」

「ひいい! すっ、すんません! イーサンには悪気はなかったんです!
 どうか、とどめを刺すのだけは勘弁してやってください!」

「ひでえな、てめぇ! どうして、早くイーサンに教えてやらなかったんだよ!?」

「……なぜ俺が責められるのだ?」

 なぜか詰め寄られて迷惑そうなグウィンと、顔面蒼白の若者たちを見比べ、フェリスは、思わず顔を引きつらせた。

「あ、あのね。あんたたち……」  

 だが、彼女が苦情を申し立てるよりも早く。

「くぉら、てめぇらっ!」  

 ガストンの大喝に、若者たちがびくりと肩を震わせ、口を閉じる。

 引退したとはいえ衰えのない迫力は、さすが《不死身》のガストンというべきか。

「どでかい声を出すんじゃあねえっ! 今の状況を考えろっ!
 ……いいか! 絶対に、外で余計なことを言うんじゃねえぞっ!」

 ん? とフェリスは首を傾げた。

『状況を考えろ』とは、客人に対する非礼を咎める言葉だと思ったのだが――

『外で余計なことを言うな』とは、一体?

「分かったかぁっ! 返事はっ!?」

「はいぃっ!」

 内臓を突き抜けて腹の底まで響くような力強い怒鳴り声に、思わずフェリスも一緒になって踵を合わせる。

 それを見たグウィンが、頭が痛いとばかりに、こめかみをこすった。


          *



「イーサンの奴が喧嘩を吹っかけたようで、すまんな」

 応接室の長椅子にどっかりと身を預けながら、ガストンは言った。

 傍らの小さなテーブルでは、あの金髪の女性――ガストンの夫人であるキャッサが、一同のために手ずから茶を淹れていた。

 春の花のように可憐な印象のキャッサは、最近茶の葉合わせに凝っているそうで、遠来の客人に美味な茶を淹れるのだと、たいそう張り切っている。

「性根はいいんだが、どうも短気に過ぎる。
 せっかく剣の筋がいいってのに、あの通りの猪突猛進なもんで、すぐに足元をすくわれちまうんだ。
 御前試合の予選でも、いいとこまで行ったんだが、ちょっと挑発されてカッとなったところを、あっさりやられちまってなぁ……」

「はあ……」  

 ガストンの言葉に、フェリスは、とりあえず相槌を打った。  

 なるほど、自分の名乗りを聞いてイーサンが逆上した理由は、これで何となく分かった。  

 だが、今、一番訊きたいことは他にある。

「閣下。ひとつお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」

 グウィンも同じことを考えていたらしく、彼らしい率直極まりない物言いで、いきなり尋ねた。

「さきほど、閣下は門下生の方に『外で余計なことを言うな』と言っておられたが……
 あれは、一体、どういうことです?」

「おう。あれなぁ……。何だ、その……」  

 グウィンの質問に、豪胆な人柄で知られるガストンが、なぜか歯切れの悪い口調で唸る。

「つまり、あれなんだよ。
 ――フェリスちゃんが、殺されちまうといけないんでな!」

「はぁっ?」

 ガストンの言葉に、珍しくも、フェリスとグウィンの声がぴったりと唱和した。

 もちろん『殺される』という穏やかならぬ単語に驚いたこともある。

 だが、何より、いきなりそんなことを言われても、話の筋道がまったく見えない。

「やはりな。今朝着いたばかりじゃ、知らんだろうと思ったよ」

「……はい……あたしたち、まだ、何も聞いてませんけど……」

「そうか。いや、遠路はるばる出場に来たあんたに、こんなことを言うのは心苦しいんだが……。
 実のところ、ここへきて、御前試合が、かなりきな臭いことになっとってな……」

 ガストンが重い調子で語り始めた内容に、フェリスたちは、目を見合わせた。  

 ――なんと、帝都ではここ最近、御前試合の出場予定者が次々と殺害されるという事件が起きているのだ。  

 半月のあいだに、3人の人間が殺された。

「れ、連続殺人事件……?」

「御前試合の出場者を狙って、ですか?」

「ああ、そうだ」

 殺された者たちは、3人とも、帝都で行なわれた予選を通過した剣士だった。

 今のところ、それ以外には、被害者に共通点は見出されていない。  

 ライバルを抹殺するために、出場者の誰かが暗殺者を雇っただの、いや、そうと見せかけた大掛かりな陰謀の一端だのと、噂は錯綜しているが、はっきりとしたことは、まだ何も分かっていなかった。

「3人とも、かなりの腕利きだったらしいが、ただの一撃で殺られていたそうだ。
 犯人は、相当な使い手だろう。
 そして、変わった武器を使うらしいって話だ。死体には、熊に引っ掻かれたみたいな爪痕がついてたとか……
 棍棒に、釘か、刃を植えつけたものじゃないかと言われてるな」

「爪痕……?」

 ガストンの話に注意深く耳を傾けていたフェリスの顔色が、変わる。

「それって……《呪われし者》の仕業なんじゃないんですか?」

「いや、それはないだろう」

 フェリスのことばに、ガストンは小さくかぶりを振った。

「確かに、よそから来たフェリスちゃんがそう思うのも、判らんではない。
 特に、リューネの辺りは《黒の呪い》の害がすさまじいと聞くからな。
 だが、この帝都リオネスだけは、話が違うのだ。
《アレッサの結界》の話は、聞いたことがあるだろう?」

「――結界、ですか?」

「……教えたぞ……船の中で……」

 きょとん、とした顔のフェリスの隣で、静かに頭を抱えるグウィンである。

 そんな2人の様子を見て、ガストンはわははと豪快に笑った。

「いいか、フェリスちゃん、歴史はしっかりと勉強しておいたほうがいいぞ。
 ――500年前よりも以前、この大陸は、《魔性》たちが支配する恐ろしい世界だった。
 人間種族が、彼らの奴隷、家畜、実験材料として扱われていた、暗黒の時代だ」

「あ……はい。それは、習いました」

「おう。
《魔性》による支配は長く続いたが、500年前、とうとう人間種族が反旗をひるがえし、勢力関係は逆転する。
 これが《大戦》と呼ばれる戦いだ。
《魔性》は、人間種族を返り討ちにせんと、さまざまな兵器を使い――《黒の呪い》は、このときに生み出されたものだ。
 それから100年に及ぶ《大掃討時代》を経て、《魔性》は絶滅した。
 そして、当時の混乱状態の中から、この大陸で最初に復興した都市、それが、このリオネスだ。
 もっとも、当時はまだ、帝国はなかったがな」

「ええっと、確か……人間の王国、レティカが建国されるんですよね?」

「そうだ。その立役者が、大魔術師アレッサ。
 ――この名前も、むろん知ってるだろうな?」

「はい。……《黒の呪い》に対抗する方法を発見した、偉大な魔術師です。
《アレッサの花》っていう呼び名は、その魔術師の名前からとられたものだって……」

「――その通りだ。たまには、俺の講義を聞いていることもあるらしいな」

 重々しく、グウィンが会話に加わった。

「人間世界の復興の拠点として、大魔術師アレッサが、この街のいしずえを築いたのだ。
 アレッサは《黒の呪い》が、ある種の《場》の中では発生しないことをつきとめた。
 そして、その《場》を作り出す《結界》で、この街全体を囲んだのだ。
《結界》の発動以来、435年間――この街の中で、《黒の呪い》を発症した例は、1件も確認されていない」

「……えっ……でも、そんなことができるなら、どこの街でも、それをやればいいじゃない!?」

「そんな大規模な《結界》を設置できるほどの力を持つ魔術師は、もう、この世界にはいないのだ」

 そう呟いたグウィンの表情に、フェリスは、ある種の悔しさを読み取った。

 過去、多くの魔術師たちが生涯をかけて求め、目指して、それでも果たせなかった目標――

 この世界から《黒の呪い》を駆逐すること。

 グウィンもまた、多くの先人たちと同じ道の途上に立っているのだ。

「えーと……
 それじゃ、とにかく、犯人の目星は、今のところ、全くついてないと……」

「……うーむ」

 話を戻したフェリスの問いかけに、ガストンは、がしがしと片手で髭をしごいた。

「それが、そうでもなくてな。
 噂じゃあ、一番人気のドナーソン将軍が、最有力の容疑者ということになっとるんだ。
 だが……わしは現役時代、奴と、ちょっとばかり付き合いがあった。
 わしの知る限りは、そんなことをする人間には思えんのだが……
 ま、あくまでも噂ということだ。
 帝都警備隊からは、犯人については何の公式発表もない。
 決め手になる証拠が、何も出とらんのだ」

「そう……ですか……」

 予想もしていなかった事態が明らかになり、フェリスは、思わず呆然として呟いた。

 くもりひとつなく磨き上げられた模擬剣、光る鎧。

 すぐれた技と、誇り高い心を持った剣士たちが、力のかぎりを尽くして腕を競い合う――

 幼いころ、マクセスにねだって何度も話してもらった御前試合の様子は、フェリスの心に、輝かしいイメージとなって焼きついていた。  

 辺境の戦士たちには、『刃のない剣の名誉』という考え方がある。  

 辺境で生きることは、すなわち、不断の闘争だ。

絶えることのない《呪われし者》どもとの闘争において、きれいごとは通用しない。

 多勢に無勢も、だまし討ちも、平然と行うことができなくては生き延びることはできないのだ。

 中央の騎士たちのなかには、そんな辺境の戦士たちの戦い方を蔑む者もいた――

 誇りを持たず、名誉も知らぬ輩だと。

 だが、そうではない。

「――ひどいわ……」  

 ようやく、そう口にしたとき、フェリスの声は、怒りのあまり震えていた。

「誰の血も流れないからこその、試合じゃないの?
 そりゃ、命のかかった実戦なら、どんな手を使っても勝たなきゃならないわ。
 だけど……試合には、誰の命もかかってないじゃない。
 だからこそ、純粋に技を尽くして、思うぞんぶん競い合い、己の技量を確かめることができる……
 そのために、試合では、卑怯なふるまいは、決してしてはならない。
 そうじゃないの!?」  

 命のやり取りの場では、情けも容赦も我関せず、悪どいまでの策を弄する辺境の戦士たちだが、ひとたび試合の場に立ったときには、馬鹿正直なまでに規定に忠実に、正々堂々の勝負をしようとする。  

 常に生死の境に身を置いて戦う彼らにとって、それが、誰の命も奪うことのない、刃のない剣で戦うときに守るべき名誉なのだ。

「許せないわ。光輝ある御前試合を、血で汚すなんて。
 あたしは、ずっと昔からこの試合に憧れて、楽しみにしてたのに……!
 くそーっ、どこのどいつよ!? ぜったい許さーんっ!」

「――待たんか馬鹿者」  

 ぶつぶつ呟いていたかと思うといきなり猛然と立ち上がり、ずかずかと出ていこうとするフェリスを、グウィンが腕を掴んで引き止める。

「どこへ行く気だ、どこへ?」

「知れたことっ!
 その犯人とかいうやつを探し出して、この手でぶった斬ってやるのよっ!」

 ――大胆というか豪快というか大雑把というか、すでに、発想が常識の範疇ではない。

「さっき、試合に殺しは厳禁だと、自分で言っていなかったか……!?」

「でも、このまま犯人を野放しにしといたんじゃ、もっと選手が減っちゃうかもしれないでしょ!?
 ただでさえ、あたしが戦えたかもしれないライバルが3人もいなくなっちゃったのに、これ以上減ったら、試合が面白くなくなるじゃないのっ!」

 ――それが本音だ。

「閣下!」

 フェリスは、呆気にとられているガストンに向き直り、勢いよく膝を詰めた。

「その犯人について、なにか、少しでも分かってることはないんですか? 
 ――あっ、そうだ! 今までに殺しがあった場所は?
 そこから、犯人の行動範囲を予想して……」

「落ち着け、フェリス!」

 厳しい声が、ばしりとフェリスの耳を打った。

 ガストンのものではない。

 一度は高めた声を、すぐにいつもの調子に戻し、グウィンは言葉を続けた。

「ここは、リューネではない。辺境警備隊の男たちもいない。
 たった一人で犯人を見つけだすつもりか? そんなことは不可能だ。
 ――おまえがここに来た、本来の目的は何だ?  
 御前試合で優勝することだろう。
 ならば、余計なことは考えず、そのことにだけ気持ちを集中しろ」

「でも、今、その試合自体が、めちゃくちゃにされようとしてるんじゃない!
 それを、黙って見てろっていうの?」

「――あのう、少し、よろしいかしら?」  

 激しい言い争いに、出し抜けに割り込んだのは、和やかとしか言いようのない声だった。

 それまで熱心な様子でやりとりに耳をかたむけていたキャッサが、不意に、会話に加わってきたのだ。

「わたくし、お話をうかがっていて、ひとつ、作戦を思いついたのですけれど」

 芳しい湯気をたてる碗をテーブルに並べ、可愛らしく指を立てて言ってくる。

「あのね、こうですの。
 フェリスさんが『私は御前試合に出場します』という看板を首からさげて、街じゅうを練り歩きますのよ。
 そうすれば、きっと犯人が寄ってきますわ。
 そこをすかさず捕まえて、一刀両断に……!
 ね? これって、名案じゃありませんこと?」

「は、はあ……」

 にこにこと見つめてくるキャッサに、さすがに呆気にとられながら、フェリスは曖昧な相槌を打った。

 ――確かに、自分を囮にするという作戦も考えないではなかった。
 だが、それを、こうも堂々と他人から言われてしまうと、どう反応していいか分からない。

「……どうする?」  

 キャッサの思いがけない提案にフェリスが勢いをそがれたのを見澄まして、グウィンが問いかけた。

 むろん、彼は、夫人の提案など本気にしてはいない。

 要するに、犯人探しなどという無謀なことはあきらめて、おとなしく試合を待て、と言いたいのだ。

「…………」  

 かなり不本意な心持ちで、フェリスは歯噛みした。

 だが、冷静になって考えれば、彼女自身の感情はともかく、グウィンの言うことが圧倒的に正しい。

 土地勘もないこの帝都で、誰だか分からない犯人を探し出すなどという試みは、もはや、無謀を通り越して、現実離れしている。

「……そう、よね。ごめん、興奮しちゃって。
 たしかに、グウィンの言う通りだわ。
 試合が始まるまでは、この屋敷でおとなしくしてる……」

「うむ、そうだな、それが一番だろう。
 わしとしても、親友の大事な一人娘に、危ない橋を渡らせるわけにはいかんからな!」  

 フェリスの言葉に、ガストンは、太い腕を組んでうんうんと頷いた。

「そう、気落ちするな」  

 抑えたつもりだったが、表情に悔しさが表れていたのだろう――

 こちらを横目で見ていたグウィンが、不意に、低い声で言った。

「俺は武人ではないが……憧れの試合に泥を塗られて、おまえが悔しがる気持ちは分からんでもない。
 だが、何も、その手で犯人を張り倒す必要性はないだろう。
 おまえ自身が万全の態勢で試合に臨み、正々堂々と優勝しさえすれば、刃のない剣の名誉とやらは守られるのではないか?」

「え……。あ、うん」  

 意外な気持ちで、フェリスは慌てて答えた。

 まさか、この男が、この場面で自分を励ましてくれるなどとは思っていなかったのだ。

「それに、何も、隠居みたいに屋敷に引きこもっていろってわけじゃないからな!」

 茶碗を取り上げながら、こちらも励ますように、ガストンが言う。

「せっかくだから、うちにいるあいだ、暇をみて若いやつらの相手をしてやってくれんか?」

「若いやつらって、あの、お弟子さんたちですか?」

「おう。もっとも、あの様子じゃ、フェリスちゃんにとっては腕慣らしにもならんだろうが……
 やつらにとっては、いい刺激になるだろうし。どうだな?」

「は……はいっ! 喜んで」

 ガストンの申し出に、フェリスは微笑んで答えた。

 御前試合当日まで、あと、15日。

 それまでにイーサンと仲直りできればいいが、と、彼女は思った。


          *



 フェリスの心配に反して、イーサンは意外と潔い男だった。

「あんたには、完全無欠に負けたぜ……!
 女だからって、あなどって悪かった。すまねえ。この通りだっ!」

 昨日は長旅の疲れもあり、早々に寝室に引きとって休んだフェリスは、イーサンたちと顔を合わせることがなかった。

 今日になって、一体どんな顔をして会うべきか……と内心思い悩みながら若者たちが集まっている庭に顔を出したのだが、彼女の顔を見るやいなや、イーサンが猛然と走ってきて、がばと頭を下げたのである。

 すわ反撃か、と身構えていたフェリスは、あまりの潔さに一瞬ぽかんとしてしまったが、イーサンばかりでなく、その場の全員が寄ってきて「姐御様」「姐御様」と伏し拝むので、ぽかんを通りこして大声で叫んだ。

「『姐御』に『様』までつけるなぁぁぁっ! 一体何者なのよ、あたしはっ!?」

 どうやら、道場一番の乱暴者であるイーサンをいともあっさりと下したことで、彼らはすっかりフェリスに心酔してしまったらしい。

 今も、フェリスが事件についてちょっと質問をしたところ、練習そっちのけでぞろぞろと集まってきて、口々に自分の考えを述べている。

「犯人は、何たって、ドナーソンが怪しいですよ!」

「そうそう。前回と前々回の優勝者ですからね!
 ほら、名誉欲ってんですか? 連続優勝の栄誉は、手放したくねえでしょうよ」

「師匠の知り合いだって話っスから、疑いたいわけじゃねえっスが……。
 噂じゃ、かなり横柄なおっさんみたいっスよ。
 自分の評判を守るためなら、やりかねねえ」

「なるほどね……。他に、怪しいっていわれてる人はいないの?」

 本職気取りの重々しい口調で、顎に手などやりつつ、フェリス。

 グウィンが見ていれば、苦笑いのひとつも浮かべただろうが、彼は今、当初の宣言通り、ガストンの書斎を借りて、黙々と読書にいそしんでいる。

「怪しいっつってもなぁ。何しろ、この状況だ。出場者は全員怪しいっつうか……
 あ、悪い」

「ん? ……あ、いいって。気にしないで」  

 フェリスは、軽く手を振り、イーサンのことばを打ち消した。

「それじゃ、質問を変えるけど。
 今のところ、優勝候補って言われてるのは誰なの?」

「優勝候補ですか? そりゃ、もちろん――」

 一人の少年が勢いよく言いかかって、なぜか、急に続きを飲み込んでしまった。

「……なに?」

「いや、えーと……
 やっぱ、ここは自分たちの先輩を押すところだと思ったんですけど……
 それが、ちょっとばかりその、アレで」

「実は、今度の御前試合、この道場の先輩の、ラインス・クレッサさんも出場するんっスよ!  
 今は道場を卒業して、帝都警備隊に入ってらっしゃるんス。
 んで、すっげえ強い人なんっスけど……。
 つまり……イーサンと、ラインス先輩は、何つうか、コレ関係のアレで」  

 小指など立てながら、引きつった笑いを浮かべて、口々によく分からないことを言ってくる。

 イーサンが、彼らをものすごい目付きでにらみつけた。

「てめえら、それ以上一言でも喋ったら張り倒すぞ」

 その瞬間、どかっ! と鈍い音が響き、つんのめったイーサンは危うく地面に口付けをするところだった。

「……ってぇ! このクソ野郎、何しやがる!?」

「阿呆。てめえ、いつまでグダグダやってりゃ気が済むんだ?
 男らしくねえんだよ!」

 びしりと言い放ったのは、オルトだった。  

 背後からイーサンに容赦のない蹴りを入れた彼は、いささか呆気にとられているフェリスのほうに向き直ると、さばさばと言い始めた。

「ま、要するにですね。
 こいつは、ラインス先輩の妹さんの、ティアちゃんに惚れてるんですよ。
 しかし、この通りの性格なもんで、ラインス先輩から、妹に近付くな! って睨まれてましてね……」

「そうそう。しかも、この前の予選では、運悪く、ラインス先輩と対戦が当たっちゃって!
 見事にボロ負けした上に、説教まで食らっちまったという……」

「う、うっるせええぇっ! 黙れてめえら! 好き放題言いやがって!」  

 ずばずばと痛いところを突かれ、イーサンは地団駄を踏まんばかりの剣幕で喚いた。

「なっ、なるほど……それは確かに辛いもんがあるわねー……。
 あ、でも、あんまり気を落とさないで。
 試合で負けても説教されても恋が実らなくても死なないから」

「てめえもうるせえっ!」

「ああ、優勝候補っていやあ、《無冠の貴公子》なんて呼ばれてる、キリエってのもいますよ」  

 わめくイーサンを完全に無視し、オルトたちが、あっさりと話題を戻した。

「あー、そうそう、あの男な!
 いつでも優勝候補だが、いつでも次点っていう。
 実際に優勝したことが一回もねえから《無冠の貴公子》」

「俺はあいつ、気に入らねえな!  
 顔がいいってんで、やたら女に人気があるが、男のくせにちゃらちゃらしやがって、鼻持ちならねえ野郎だ。
 きっと、今度こそ優勝を狙って、ライバルを消してやがるに違いねえ!」

「――そりゃ、単なるおまえのやっかみじゃねえのか?」

「ふーん……」  

 腕組みをして、フェリスは唸った。  

 疑わしいとされる人物は何人もいるようだが、やはり、噂の域を出るものではないようだ。

「まあ、あたしたちは昨日帝都に入ったばっかりだから、いくら何でも、疑われることはないだろうけど……。
 確かに、これは、あんまり、迂闊にうろうろしないほうがいいかもね……」  

 下手にうろついて、近くで次の殺人など起ころうものなら、冗談抜きで容疑者扱いされかねない。

 悔しいが、やはり、ここは自重して、御前試合の本番で、ばっちり優勝を決めるしか――

「……おぉーいっ!!」

 通りの先から、ほとんど転がるような勢いで一人の若者が走ってきたのは、そのときだった。

 恋人に贈る耳飾りを買うのだと言って、市場のほうへ出かけていた、ガストンの門弟の一人である。

「ガリス!? どしたっ!」

「あ、あいつだっ!」  

 怒鳴るように問いかけたイーサンに、唾を飛ばして、若者が喚いた。

「例のやつだ! ――例の犯人が、出やがったってよっ!」

「!」  

 若者たちは、一斉に顔を見合わせた。

 フェリスは、素早く立ち上がっている。  

 ……この時すでに、彼女の脳裏から「自重」の文字は跡形もなく吹っ飛んでいた。

「どこにだっ!」

「どこにって……ええと、ソレン通りを東にずっと行ったほう――」

「よし、行くぞっ! 案内しろっ!」  

 反射的に剣の柄を探って確かめつつ、完全に辺境警備隊の隊長の口調に戻って叫ぶ。

「おおっ、俺も行くぜぇっ!」  

 即座に、イーサンがのってきた。  

 そのまま駆け出す三人の勢いにつられて、

「うおお! 姐御に続け!」

「姐御に続けぇーっ!」  

 若者たち全員が、どどどと土埃を立てながら後に続く。




   3 紫のケモノ




「畜生!」

 彼は、振り上げた平手を、真上から書類の山に叩きつけた。  

 ばぁん! と激しい音が響き渡る。

 その衝撃で書類の山が崩れ、机の端からどさどさと滑り落ちても、彼は気にしなかった。

 それほど、怒り狂っているのだ。

 いつもの彼なら、散らかった場所を、1秒たりともそのままにはしておかない。

「くそっ」  

 もう一度、今度は両手で机を叩く。

 だが、今度の一撃には、最前ほどの力はこもっていなかった。口調からも、勢いが消えている。

 怒っていることに変わりはない。

 ただ、その質が変化したのだ。

 憎き殺人犯への怒りから――

 そいつを捕らえることのできない、無能な己に対する憤りへと。

 彼は、情けなさを噛みしめていた。

 自分たち、帝都警備隊が総力をあげて警戒していながら、またもや死人を出してしまうとは。  

 しかも、今回の被害者は――

「部長」  

 そう声をかけられて振り向いた時には、彼は、すでにいつもの表情――どこか眠たげなしかめっ面に戻っていた。  

 彼の後ろに立っていたのは、痩せぎすの青年だ。

 肩を越すか越さないかという長さの柔らかそうな髪に、優しげな茶色の目をしている。

「葬儀の段取り、決まったそうです」

 言った若者の名は、アルシャ・ベリム。

 帝都警備隊・捜査部、その副長格である。

 まだずいぶんと若いが、犯罪捜査における彼の実力は、警備隊の誰もが認めるところだった。  

 そして、若いといえば、彼自身――

 捜査部の部長であるフィネガン・トロウとて、今年で弱冠27歳だ。

 捜査部に所属する100名近い隊員のうち、ほぼ7割が、彼よりも年上である。

 当然、反発があってもよさそうなものだが、この若き部長は、並外れた統率力を示して部下を掌握していた。

 もちろん、部長への昇進自体、そんな実力を買われてのことだ。

 ……だが、普段は自負する己の実力も、こんな時には疑いたくもなる。  

 そんな思いを押し隠し、フィネガンは、言葉少なに答えた。

「いつからだ」

「明日、朝日が昇るとともに《顔のない女神》の聖堂にて、です」

「そうか」

 いつにも増して無口な部長に、アルシャは何やら言おうとして、やめた。

「――何だ?」

「は?」

「言いたいことがあるなら言え」

「……はい」

 見抜かれてしまった――そんな表情で、アルシャは、小さく頭を下げた。

「あの……こんな時に、こんなことを言うのも、なんなのですが……。
 クレッサさんは、いったいどうして、あんな場所にいたのでしょう?」

 アルシャの言葉に、フィネガンは、顔をしかめた。

 それこそは、彼自身、この時までずっと考えていたが答えが出せない謎だった。  


 今日の朝、新たに殺された一人。  

 帝都警備隊・警邏部・第3班の班長――クリル・クレッサ。  


 死因は、胸の傷からの大量出血だった。

 その傷は、今までに起きた3件の事件と同じく、鉤爪状の武器によってつけられたような形状をしていた。  

 遺体の発見現場は、小規模な酒場や娼館が軒を連ねる、治安が良くないことで有名な界隈だ。

 第一発見者は、街娼だった。

 鉄臭い異臭を嗅ぎつけて、細い路地をのぞき込み、血の海に沈み込むようにして倒れている遺体を発見したのだ。

 彼女の悲鳴で人が集まり、帝都警備隊に通報が来た。
 
 ――だが、今回の事件は、今までのものとは明らかに異質だった。

 クリルは、御前試合への出場者ではないのだ。

 前の3件が、いずれも出場者を狙った犯行であったことから、警備隊も、その線で警備と捜査の方針を固めていたのだが――

「なぜ、クレッサさんが殺されたのか……
 もちろん、その疑問もあります。
 ですが、どうして、彼があんな場所にいたのか。
 そのことが、まず、引っかかるんです。
 クレッサさんの人柄は存じてますが、休みの日に、あんな場所で遊ぶような人じゃない……」

「何か、手掛かりをつかんで、追っていたのかもしれんな」

「たったひとりで、ですか?  
 それに、それならば、武装するはずです。
 今までに3人も殺した奴を追うのに、何の武装もなく、というのは、考えられませんよ!」

「武装できない理由があったのかもしれん」

 フィネガンは、険しい表情で宙を睨みあげ、拳を手のひらに打ちつけ始めた。

 考え事をするときの、いつもの癖だ。

「クリルは、私用で道を歩いていて……偶然、容疑者を発見し……
 見失うことを恐れて、そのまま追った。武装する暇はなかった」

「だとすると、それ以前に、クレッサさんには犯人の目星がついていたということになりますね?」

 フィネガンは、ばしっ、ばしっと、拳を手のひらに打ちつけた。

 アルシャの言う通りだった。

 犯人の目星がついていたならば、その時点で、フィネガンに報告を入れるはずだ。

 部長の決定があれば、捜査部の全員を動員することもできる。

 そうやって、容疑者のこれまでの行動を洗い出し、現在の動向を見張し、決定的な証拠をつかむのだ。

 むろん、中には、功名心にかられて情報を出し渋り、自分だけで事件を解決したがる人間もいる。  

 だが、クリル・クレッサとの付き合いが長いフィネガンには、彼はそんな男ではない、という確信があった。

「分からんな……。
 分からんことは、他にもある。
 今までの殺しは、本職の消し屋の仕事みたいに鮮やかだった。
 3人とも、ろくに抵抗した様子もなく、一撃で殺られていた……。
 だが、今回に限って、激しく争った形跡があった。
 おかしいと思わんか。どうして、犯人はそんなに苦戦したんだ?  
 あれだけの技量の持ち主なら、武装もしていない相手は、一撃で殺れたはず――」

「部長!」  

 激しい音とともに扉が開かれ、フィネガンの言葉を中途で絶ち切った。

 礼もそこそこに入ってきたのは、遺体の発見現場で遺留品の探索にあたっていた隊員である。

「現場の壁と地面から、こんなものが!」

 差し出された小さな白い布包みを開き、フィネガンは眉を寄せた。

「……毛……か?」

 出てきたのは、数本の短い毛だ。

 ほとんどが茶色だが、一本だけ、鮮やかな紫のものが混じっている。

 ――だが、よく観察すると、茶色のものは、付着した血液が乾いてそう見えているだけで、もとはすべてが紫色だったようだ。

「獣の、毛のようですが……」

 アルシャが、一本をとりあげて、ためつすがめつしながら、自信なさそうに言った。  

 自然界に、これほど鮮やかな紫の毛を持つ獣など、存在しない。

 少なくとも、確認はされていない。

「なに、おそらく、染めたものでしょう。
 クレッサさんともみ合った際、犯人が身に着けていたものから抜け落ちたに違いありません。
 これは、有力な手掛かりになりますよ!
 紫の毛皮製品を身に着けた者を見かけなかったか、ただちに、あのあたり一帯で訊き込みを開始します!」

「待て」  

 毛を持ってきた隊員が勢い込んで叫ぶのを、フィネガンは手のひらで制した。

「染めたものには……見えんな……」  

 爪を立てて強くこすってみても、色が剥げない。

 光に透かせば、芯まで、同じ紫色であることが分かる。

 染めたものならば、内側には地の色があるはずだが、それがない。  

 では――

 紫の毛皮をまとう野獣が、この帝都のどこかに潜んでいるということか?  

 そして、次々と人を殺している?  

 そんな馬鹿な。

 自然の獣が、ここまで狡猾に姿を隠し、あんなふうに獲物を選んで人殺しをやってのけるはずがない。  

 それならば――

「獣、ケモノ、か。紫の、ケモノ……
 ……《呪われし者》……?」

「はあっ? ――いえ……それは、まさか……」  

 そんな馬鹿な、と言いたげな口調で、若い隊員は呻いた。  

 無理もない。  

 この都は、建国の当初より、変わることなく帝国の中心であった。

 大魔術師アレッサによる《結界》の存在も、帝都に住む者なら、誰もが知っている。  

 その有効性を今さら疑うなど、非現実的なことだ。 

 現に、辺境地区からは毎年数百件も報告される《呪われし者》による犯罪が、この帝都では、リオネス帝国建国以来の220年間、ただの1度も起きていないではないか――

「ああ。……まさか、な。  
 だが、ともかく、こいつは普通の品じゃない。
 ダンドレアのところに届けて、詳しく分析させるんだ」  

 ダンドレアは、この帝都警備隊の古株だ。

 彼自身も優秀な魔術師であり、《鑑定士》の肩書きを持っている。

「いいか。確かなことが分かるまでは、今の件、絶対に外部に漏らすな。
 もしも、この帝都で《黒の呪い》が発症したなどという噂が広まったら、市民がパニックに陥る。
 そういった事態だけは、絶対に避けねばならん」

「はっ!」  

 隊員が、緊張した口調で返事をする。

 急いで、毛を包み直す手つきは、いまや、どことなくおっかなびっくりだった。  

 部屋を駆け出してゆく隊員を見送ってから、フィネガンはアルシャに視線を戻し、言った。

「アルシャ、総員呼び出し。非番の奴も総動員だ。
 魔術師による犯行の線も視野に入れて、捜査を仕切り直す」  

 一呼吸置いて、表情は変えずに、続けた。

「……ただし、ラインスは、捜査から外す」  

 アルシャは、顔をかげらせた。
 

 ラインス・クレッサ――  

 殺されたクリル・クレッサの息子。

 御前試合への出場を控えた、警備隊の若き星で、今回の試合の優勝候補の一角とも見なされている。  

 2人とも、敢えて口には出さなかったが、彼が出場者であることが、クリルが殺されたことと無関係であるとは思えなかった。  

 今回のことは……あるいは、ラインスに、何らかの警告を与えるために……?


「あいつは、落ち着いているように見えて、激しやすいからな。
 私怨に駆られて暴走しかねん。
 御前試合も近い。無理やりにでも休暇をとらせて、家にいさせろ」

「しかし部長、それは、かえって危険ではありませんか?  
 捜査から外せば、彼は、ひとりで犯人を突き止めようとするでしょう。
 組織のなかに置いたほうが、独走は防げると思いますが?」  

 アルシャの言葉に、フィネガンは首を振った。

「その心配はないだろう。
 奴には、今、放り出すことのできないものがあるはずだ」

「妹さんのことですね……」  

 沈痛な面持ちでアルシャは呟いたが、フィネガンは、これでこの話は終わりだとばかりに背を向けた。

「後で、こっちに何人かよこしてくれ。
 他の街の警備隊から回ってきた資料の中に、似たような事件がなかったか、洗い直させる」

「はい。……あの……あまり、ご無理はなさらないでください」  

 アルシャは、遠慮がちに付け加えた。  

 フィネガンが、一連の事件が始まって以来、誰よりも熱心に動き回り、睡眠もろくにとっていないことを彼は知っている。

「何が無理だ」  

 思った通り、フィネガンは不機嫌そうな声音になった。

 自分が崩した資料の山を、がさがさと荒々しくかき集める。

「俺より、ずっと大変な奴はいくらでもいる……」


       *



「嘘つき!」  

 言葉と共に振り下ろされた拳を、若者は、甘んじて受けた。  

 死者の聖堂。

 人の運命を司るという《顔のない女神》の神殿の半地下に築かれたこの場所に、今、命ある者は、彼ら2人しかいなかった。  

 天界に棲むという様々な生き物が、無数の柱の上にレリーフとなって凍り付き、2人を見下ろしている。

「お兄ちゃんたちが、ちゃんと警備してるから、もう誰も殺させないって……
 大丈夫だって、言ったじゃない!  
 どうして、こんなことになっちゃうのよぉ! 嘘つき!」  

 茶色の髪の娘は、涙を流しながら、目の前の若者の胸を叩き続けた。

 その仕草に、力は、ほとんどこもっていない。

 だがそれは、若者にとって破城鎚の一撃にも等しい痛みをもたらした。

「すまない、ティア……本当に……」  

 若者の容貌は、背は遥かに高く、身体つきはたくましいものの、少女とよく似通った面影を宿している。

 ラインスは声を震わせることのないよう、驚異的な意志の力で自制しながら、静かに言った。

「親父がこんなことになったのは……俺のせいだ。
 俺が……御前試合に、出場しさえしなけりゃ、きっと、こんなことには……」  

 歯を食いしばった呟きは、ティアの耳にはほとんど届いていなかった。

「父さん……父さん……!」

 兄の胸を打ち疲れた彼女は、くずおれるように床にひざをつくと、傍らに安置された棺に取りすがって泣いた。  

 棺の蓋は開かれており、その中に横たわる死者の姿をあきらかにしている。  

 清めの儀式はすでに済み、血に塗れた衣服は純白のそれと取り替えられていた。

 その男は、一見すると、静かに眠っているように見えた。  

 ティアが、父の冷たい手をとり、涙に濡れた頬に押し当てる。

 まるで、自分の温もりを相手に注ぎ込めば、再びその血に熱が戻るのではないかとでもいうように。  

 だが、その大きな手が彼女の肩を抱くことは、もう二度とないのだ。

「父さ……っ」  

 不意に、ティアの嗚咽が止まる。

 それは、すぐに苦しげな呻き声に変わった。

 彼女は棺の縁にすがったまま、胸元をつかむようにしてあえいだ。

「ティア!?」

「だい、じょ……ぶ」

 悲鳴のような兄の呼び声に応えたのは、切れぎれのささやき声だった。

「馬鹿、大丈夫なわけがあるか!
 ――おまえ、また、熱が上がってるじゃないか!
 もうだめだ、戻って寝ろ!」

「嫌……あたし、父さんの側に、いてあげる……」

「だめだ!」

 痩せた両肩をつかんで揺さぶり、ラインスは妹を怒鳴りつけた。

「今すぐに家に戻れ! でないと、怒るぞ!?
 おまえまでいなくなったら――」

 はっとして、彼は口をつぐんだ。

 まるで、口にしたことばが、不吉な運命を呼び寄せることを恐れるかのように。

 妹の肩をつかんだ手から、急速に力が抜けてゆく。

 やがて彼は、ずっと低い位置にある額に、こん、と自分の額をぶつけた。

「……兄ちゃん、一人になっちまったら、淋しいだろうが」

「お兄ちゃん……」  

 涙をこぼして呟いた少女の目が、そのとき、はっと見開かれた。

 それから、彼女は静かに、視線だけを動かした。

 いまだ離していなかった、物言わぬ父とつないだ手のほうへと。  

 一方、ラインスは、ひとりごとのように呟き続けている。

「心配はいらない。おまえは、なんにも、心配することはないからな。
 俺の手で……必ず……」  

 ラインスの両手が、華奢なティアの肩をしっかりと包み込んだ。

 彼の目には、妹を守ろうとする兄の、揺るぎない決意が浮かんでいた。  

 ティアの片手がゆっくりと上がって、兄の指にそっと触れる。  

 ――彼女の、もう片方の手が、何かを密かに握りしめたことに、ラインスは気付かない。  


         *



「ごめんなさい。勝手なことをしちゃって……」

 その場に集まった全員に向かって、フェリスは、神妙な表情で頭を下げた。

 ガストンの屋敷の、居間である。

 さほど広くもないこの部屋に、今、ガストン夫妻をはじめ、戻ってきたフェリスと門下生たち、そしてグウィンが集まっていた。

「まったくだ」

 椅子に腰掛けたグウィンが、苦り切った表情で言う。

 その顔つきは、単に読書の時間を邪魔されたから、というだけではない。

「軽はずみにもほどがある……!
 今、下手に動けば、おまえ自身が怪しまれかねないんだぞ。
 しかも、彼らまで巻き込むとは……」

「うん……ほんとに、考えなしだったわ。ごめんなさい。
 みんなも、ほんとにごめんね」

 フェリスは、素直に頭を下げた。

 普段の彼女ならば、こんなふうにグウィンに説教されれば、そうくどくど言わなくたって分かってるわよっ、などと言い返しているところだ。

 しかし、今は、さすがにそんな気にはなれない。

「まあ、まあ、いいじゃないか!
 時には暴走するくらい元気なほうが、若者らしくていいというもんだ」  

 ガストンがことさらに軽い口調でとりなしたが、その言葉すらも、この場の沈鬱な雰囲気に呑まれて、そらぞらしく響く。

 
『犯人が出た』――

 その言葉を聞いたとき、フェリスはとっさに、犯人が姿を現し、逃げているのだと思い込んだ。

 そこで、イーサンたちと共に、急いで現場に駆けつけたわけだ。

 だが、実際のところは、犯人は姿すら目撃されておらず、ただ、4番目の犠牲者の遺体が発見されただけだったのだ。

 彼女たちが到着したときには、すでに現場付近は捜査のために封鎖され、遺体は運び出された後だった。  

 そして――

 集まっていた野次馬たちから、殺された人物の名を聞いたとき、誰もが、自分の耳を疑った。

「まさか……ラインスの親父さんが、殺されちまうとはなぁ……」  

 一転して沈んだ口調で、ガストンが唸る。

 ラインスが門下生であった関係上、ガストン自身も、クリルとは面識があったのだ。

「これからは、警備隊の巡視もますますきつくなるだろう。
 今までは、出場者しか殺されない、という暗黙の了解があったからな。
 帝都警備隊も、その線に絞って動いていたんだ。
 だが、その暗黙の了解が、今回のことで崩れた。
 もう、誰が殺されてもおかしくないってことになる。
 帝都の誰もが危機にさらされているといっても、過言ではなくなったわけだ」

「それにしても、どうして、クレッサさんが……?
 とても誠実で、立派な方でいらしたのに……」

 両手をしきりに揉み合わせながら、キャッサが呟く。  

 フェリスがそっと横目で様子をうかがうと、イーサンは、蒼ざめた顔でじっと床をにらみつけていた。

 殺されたクリルは、先輩であり好敵手であるラインスと、想い人ティアの父親なのだ。  

 彼は今、どんな気持ちでいるのだろう、とフェリスは考えた。  

 衝撃、怒り……

 ティアを支えたいのに、それができない無力感。

 ラインスに対する、複雑な思い。

 それらが一度に渦巻いて、彼の胸を焼け付かせているのではないだろうか――

「――ねえ。ひょっとして……」  

 イーサンの物思いを中断させるように、フェリスは、ひとつの推理を口にした。

「クレッサさんには、怪しい奴の目星がついてたんじゃないかしら?
 そいつを追ってるうちに、犯行の現場に出くわして――
 犯人は、顔を見られて、口封じのためにクレッサさんを殺したのかもしれない」

「それならば、もうひとり殺されたか、殺されかけた奴がいるということになる。
 そいつは一体、どこにいるんだ?」

 グウィンの指摘は、どこまでも冷静だ。

「あ、そうか……」

 もとより、思い付きで口にした推理である。
 とっさに、それより先へ発展させることができない。

 場が、重苦しい沈黙に支配されたとき。

 まったく唐突にそれを打ち破ったのは、呼び鈴が鳴り響く音だった。

 屋敷の玄関先に、誰かが来ているのだ。

「どなたかしら?」

 不審そうに呟いて、キャッサが席を立とうとする。  

 ガストンが華美な生活を嫌い、戦場においても、最低限の従卒以外は側に置かなかったというのは有名な話だ。

 この小さな屋敷には、使用人はひとりもおらず、キャッサがみずから家事のすべてを切り回している。

 貴族の生活としては異例中の異例だが、キャッサ本人は、そんな暮らしを心から楽しんでいるようだった。

「いや、わしが出よう」

 ガストンが、義足を鳴らして立ち上がった。

 彼が夫人に笑顔を見せながら、腰に差した短剣の柄をさりげなく確かめるのを、フェリスは見逃さなかった。  

 物騒な時期だ。

 この屋敷には、御前試合の出場者であるフェリスもいる。

 招かれざる客、という可能性も、ないわけではないのだ。  

 ガストンが居間を出て行き、戻ってくるまでのしばらくの間、先程とはまた違った、わずかな緊張感を含んだ沈黙が降りた。


          *


 その者は、苛立っていた。

 まったく、余計なことをしでかしてくれたものだ――

 いや、大丈夫。

 この程度のことで狂うような、脆い計画ではない。

 そう、この計画は、完璧だ。

 このたびの事件に関わった人間たちはことごとく、こちらが投げかける糸に絡め取られ、その計画を成就させるための駒として動かざるを得なくなるのだ――

「踊れ、踊れ」

 くふふふふ、と、その者は笑った。

 操り人形たちは踊る。糸を手繰る者の存在も知らず。

 自分たちのすぐ側に、奈落の暗闇が口を開けていることも知らずに、懸命になって。


          *

 
 ――やがて、ガストンが戻ってくる足音が聞こえてきた。

 独特の足音で、すぐに判る。

「……誰かしら?」  

 フェリスは、眉を寄せて小さく呟いた。  

 辺境の戦士として鍛え上げられた彼女の聴覚は、ガストンのものとは違う、もう一人分の足音を聞きとっていたのだ。  

 その足音はずいぶんと軽く、女性か、それとも子どものもののようだったが――

「ティアちゃん!?」  

 戸口に、ガストンと、もうひとりが姿を現した瞬間。

 がたんと椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、イーサンが立ち上がった。

「ティアちゃんじゃねえか! どうして――」  

 道場の若者たちも、驚いた様子で、その娘を見つめている。

「ティアちゃん、って……」

 反射的に腰を浮かせかかった体勢で、思わずフェリスは呟いた。

(そうか。この子が……)  

 茶色の髪を肩まで伸ばした、小柄な娘だ。

 歳は、フェリスと同じくらいか、やや下といった印象である。

 だが、伸びやかな長身に引き締まった体格という、いかにも戦士らしいフェリスの身体つきと比べて、ティアの身体は、あまりにも華奢だった。

 ガストンと並んで立つと、その印象がいっそう強まる。

 走ってでもきたのか、ティアは、はあはあと息を切らしていた。  

 だが、それにしては、妙に顔色が悪い。

 ――悪すぎる。まるで、紙の色だ。

 彼女は、一同に向かって、何かを言おうと口を開き――

 そのまま、ふらっ、と倒れかかった。

「お、おい!?」  

 誰よりも早く、イーサンが、その身体を支えようと駆け寄る。

 だが、彼女はびくっと身をすくませて、同時に駆け寄っていたキャッサのほうにすがった。

 イーサンは、傷ついたように手を引っ込め、そのままゆっくりと引き下がる。  

 ――どうやらこれは、完全にイーサンの片恋のようだ。

 かわいそうだけど、まったく脈がなさそうね……と、深刻な状況を忘れて、フェリスは思わず胸中で祈りの仕草をする。

「まあ、まあ、ティアさん。お疲れなのね。どうぞこちらにお座りになって――
 あら、あら、まあ!」  

 ティアの肩を抱いたキャッサの眉が、ぐっと寄った。

「なんてことでしょう。ひどい熱だわ!」

「何だってっ!?」

 吠えるように声をあげたのは、イーサンだ。

「やべぇ……! それ、発作が出てるんじゃねえか!?」

「発作? ちょっと、発作って、どういうことっ?」  

 間髪を入れずに問いかけたフェリスに、イーサンは、両手を揉みしぼりながら言った。

「ティアちゃん、昔から、体が弱くてよ……!
 ちょっと無理すると、すぐに、すげー熱が出ちまうんだ!
 やべぇよ……前なんか、ほんとに死にそうになっちまったこともあるんだ!」

「そりゃ、いかん! ……ううむ、こりゃ、いかん」

 戦場において、自軍に数倍する敵を前にしても泰然としていたといわれるガストンが、ばたばたと慌てた。

 自身が生来頑健で、病などとは無縁であったがゆえに、こわれもののような少女を、どのように扱えばよいのか分かりかねているのだ。

「閣下、とりあえず毛布です! それから、何か水気のものを!」

「――おお!」

 フェリスの的確な指示に、ガストンは大きく頷いた。

「誰か、予備の寝室から、毛布を取ってこい!」

 ガストンの指示と同時に、イーサンが、大砲から撃ち出されでもしたかのような速さで部屋を飛び出していく。

「キャッサ、お嬢さんを、そっちの長椅子に寝かせてくれんか」

「ええ……」

 夫人が、ひなを翼でつつむ雌鶏のように、いたわりに満ちたしぐさでティアを長椅子へと導く。

 フェリスがすかさずクッションを差し出し、ティアの身体の下に差し入れた。

「フェリスさん、わたくし、水差しなどを用意してまいりますわ。
 そのあいだ、ティアさんを看てさしあげていてくださる?」

「ええ!」

 答えて、つい癖で、ぐっと拳を掲げる敬礼をした。

 年長の女性に対して失礼だったか、と一瞬焦ったが、キャッサは気にしたふうもなくうなずくと、ぱたぱたと部屋を出てゆく。

 ティアは、ぐったりとクッションに身を預け、目を閉じたままで浅い呼吸を繰り返していた。

「ねえ、グウィン、これって……」

 冷静に少女のかたわらに膝をつき、容態をたしかめていたグウィンが、難しい顔をして首を振る。

「たしかにイーサンの言う通り、流行性の病ではなく、体質的なものらしい。
 こちらの勝手な判断で薬を与えることは危険だ。
 かかりつけの医師を呼ぶくらいしか、手のほどこしようがないな……」

「――なあ、おい! どうなってんだよ!?」

 毛布を抱えてばたばたと戻ってきたイーサンが吠えるように叫び、全員に「しーっ!」と制止される。

 彼は、ティアの辛そうな様子を見て、ぐっとことばに詰まった。

 だが、すぐに、抑えた口調で言い募る。

「だってよ……こんなんで、俺らを訪ねてくるなんて無茶だ!
 いったい、なんで――」

「さっき、ちらっと聞いたところでは、何か、わしらに大切な話があるということだったんだが……」

 彼女をここまで案内してきたガストンも、首をひねるばかりである。

「……ん?」  

 そのとき、フェリスは、あることを目に留め、指差して声をあげた。

「ねえ。その手――
 何か、持ってるの?」  

 ティアの右手が、胸の前で、ぎゅっと握りしめられているのだ。  

 と、まるでフェリスの問いかけに反応したように、少女のまぶたがぴくりと震えた。

 やがて、その目が薄く開き、薄茶色の眼差しが、フェリスの顔を見つめる。

「……誰……ですか……?」

「えっ? ――ああ!」  

 一瞬、驚いたものの、フェリスは、すぐに笑顔を浮かべた。

 彼女一流の、相手を安心させるような、満面の明るい笑みだ。

「初めまして。あたしは、フェリス! フェリスデール・レイド。
 あたしの父が、ティンドロック卿――こちらのガストンさんの、親友でね。
 そのご縁で、今、ここに泊めていただいてるの。
 怪しいものじゃないから、安心して!」

 フェリスの発言を裏付けるように、横から、ガストンとイーサンが深くうなずく。

 ティアはそれを見て安心したのか、ほんの少しだけ微笑んだ。

「……これ……」

 握りしめていた手を差し出し、指を開いて、呟く。

「手がかり、です……」

「手がかり?」  

 全員が、異口同音に呟いた。

 一斉に身を乗り出して、少女の手のひらを見る。  

 ――なんだ、何もないじゃない、と、フェリスは一瞬思った。

 だが――

 よく見れば、少女の白い手のひらの真ん中に、一筋の、ごく細いものが載っている。

「えっ、これって……何? 何かの、毛?」

「紫色、に、見えるが……」  

 グウィンが呟く。

「これ……父さんの右手の、小指の……爪のあいだに、挟まってたんです」  

 ティアが言った。

 その声はか細く、ひゅうひゅうという息の音が混じって聞き取りにくい。

「絶対、犯人のものだわ。
 そういう手がかりから、事件が、解決することがよくあるって……
 父さんが、前に教えてくれました……」

「――それは、確かに、有力な手がかりになるかもしれん」  

 ガストンが、少女のことばをさえぎった。

「だがな、ティアちゃん。ひとつ教えてくれんか?
 こんな大事なものを、そんな身体で、どうして、わしらのところに持ってきた?
 ほんとうなら、警備隊に提出しなきゃならんものだろう。
 兄貴に渡しておけば……」

「あたし……警備隊の人たちが、信用できないんです」

 ティアがきっぱりと言い切り、その場の全員が一瞬、押し黙った。

「……ああ……」

 ややあって、再び、ガストンが口を開く。

「たしかに、気持ちは、よくわかる。
 父上のことは、たいへん気の毒だし……
 犯人の逮捕が遅れとるのも、また事実だ。
 だがな、ティアちゃん。兄貴や、警備隊の連中だって、今も必死に――」

「そうじゃ、ないんです」

 苦しげに片手を振り、ティアは、ガストンを見つめた。

「父さんも、お兄ちゃんも、ほとんど寝ないでお仕事してました……
 他の人たちも、みんな、そうだって。
 それなのに……みんなが、そんなにいっしょうけんめい捜査してるのに、犯人が捕まらないなんて、おかしいわ。
 だから、あたし、思ったんです……
 ひょっとしたら……警備隊のなかに、犯人に情報を流してる人が、いるのかもしれないって……」

 一同は、ふたたび顔を見合わせた。  

 警備隊の中に、犯人に内通している者がいる――?

 確かに、ありえないことではない。

 だが――

「そういう……証拠があるの? 何か、見たとか、聞いたとか……」

 フェリスは、疑っていると思われないよう、慎重な口調でたずねた。

 いくら可能性があっても、確たる証拠がなければ、単なる思い込みの域を出ない。

 ティアは顔をしかめて、首を横に振った。

「そういうのは、ありません……
 でも、ここまで犯人が捕まらないんだから、もう、情報が漏れてるとしか思えないわ……
 だから、このことは、警備隊の人たちには、秘密にしておきたいんです」

「では、なぜ、わしらに?」

「お兄ちゃんから……この道場のお話、よく、聞いてたからです」

 熱のために潤んだ目で、ティアは一同を眺めわたした。

 若者たちの何人かが、どぎまぎと目を伏せる。

「道場の門下生は、いい奴らばかりだ……警備隊に入るために、がんばって訓練してる者も、いっぱいいる……
 お兄ちゃん、いつも、そう言ってます。
 だから、お願いです、力を貸してください。
 父さんに、あんなことしたやつを、絶対に、捕まえて――」  

 そこまで言って、急にティアは言葉を途切れさせた。  

 胸を押さえ、激しく咳き込みはじめる。

 喉が傷ついてしまいそうな苦しげな咳に、イーサンが、居ても立ってもいられないという様子で両手をわななかせた。

「おい、魔術師! 何とかしてくれよ!」

「残念ながら、俺は、治癒魔術の使い手ではないのだ……
 薬草の持ち合わせならあるが、先ほども言ったように、素人判断での投薬は危険だ。
 しかし、確かに、このまま放置しておくのも危ない――」  

 辺境警備隊においては衛生兵の役割をつとめていただけに、グウィンの判断は冷静で、迷いがない。  

 グウィンは、ガストンを見た。

 ガストンがうなずき、イーサンのほうを向く。

「おい、イーサン! この子のかかりつけの医者に、心当たりはあるか?
 あるなら、すぐにこの屋敷に呼んでくるんだ!」

「わ……分かりました、師匠!」

「よし。オルト、ガリス、ノースト!」

「はいっ!」

「おまえらは、ひとっ走りして、この子の兄貴――ラインスを呼んでこい! 
 任務中でもかまわん。緊急事態だと言って、引っ張ってこい!」

「分かりました!」  

 若者たちが、どたどたと先を争うようにして部屋から飛び出してゆく。  

 そこへ、入れ替わりに、キャッサが戻ってきた。

 水差しや、体をふくための布など、看病に必要と思われるものを腕いっぱいに抱えている。

 話しぶりや外見だけならば深窓の姫君といった印象のキャッサだが、さすがはガストンの夫人だけあって、いざというときの行動は、本当にてきぱきとしたものだ。

「わたくし、ティアさんの汗を拭ってさしあげたいのです。
 衣服の乱れることもあるでしょうから、殿方はご遠慮いただいてもよろしいかしら?」

「うむ。それなら、おまえがしばらく、ティアちゃんについててやってくれるか?
 何かあったら、すぐに呼んでくれ」

「ええ、分かりましたわ」

 力強くうなずいたキャッサのことばを受けて、ガストン、そしてグウィンが部屋から出ていく。

 フェリスは、一瞬、迷ったが、グウィンに続いて部屋を出ることにした。

 ――どうしても、確かめておきたいことがあったのだ。

 できるだけ静かに扉を閉めると同時、小走りに、グウィンの側に寄る。

「ねえ、グウィン……その毛……」

「ああ」

 どうやら、グウィンもまったく同じことを考えていたらしい。

 彼は、中庭に面した窓に歩み寄り、ティアから預かった毛を日光にかざした。

「この、色は……」

「すごく、あざやかな紫……
 染めたものには、見えないわよね……」

「なんだ、どうした、二人とも?」

 怪訝そうなガストンのことはさておき、グウィンとフェリスは、顔を見合わせる。

 ――獣の爪跡のような傷痕。

 剣術に長じた男たちをも一撃で倒す、高い戦闘能力。

 そして、この、あざやかな紫色の毛……  

 人間に名を知られていない怪物の仕業、とも考えられるが、ここまで狡猾に姿を隠し、4件もの殺人をおかしてのけたとなると、知性を持つ存在の所業であるとしか考えられない。

 だとすると――?

「しかし……もしも、これが《呪われし者》の仕業であるとすれば……」

 さすがに、グウィンの表情もこわばっている。

「《アレッサの結界》の効力が、弱まっているということになる……」

 一瞬、しんとした。

「で、でも!」

 ややあって、フェリスが、さすがに焦った口調で言う。

「《アレッサの結界》って、300年以上、効き続けてたものなんでしょ!?
  虫除けかなんかじゃあるまいし……そう簡単に、効き目が切れちゃうなんてことがあるわけ?」

「確かに……《アレッサの結界》は、地形そのものを利用した、非常に大規模なものだ。
 天変地異で地形が大きく変わりでもしない限り、そう簡単に効果が失われることはないはずなのだが……」

「――おいおいおい、二人とも!」

 さすがに聞き捨てならなかったのか、会話に、ガストンが割り込んでくる。

「さっきから聞いとれば、何を、物騒なことを言っとるんだ?
《アレッサの結界》は、皇帝陛下がじきじきに総長をつとめておられる、央の帝国魔術学院が管理しとるんだぞ。
 その結界が揺らぐなどということが、あるはずがないだろう?」

「でも、閣下。もしかすると、何か、事故でもあったのかもしれませんよ? 
 それで、みんなに知らせるとパニックになっちゃうからって、情報が抑えられてるのかも……」

 フェリスは、不穏極まりない予測を、さらりと口にした。

『恐怖や不安から、いくら目を逸らしても、身を守る役には立たん。
 それが、どれほど不都合なものであろうとも、現実を見据えて、打開策を探るしかない』――

 常にこういう姿勢でなくては、《辺境》暮らしはつとまらない。

 父である将軍、マクセスの教えだ。

 もちろん、フェリス本人の性格によるところも大きいが。

「……ううむ……」

 さしものガストンが、顔をしかめて黙り込んだ。

 無理もない。

 ガストンをはじめ、帝都で生まれ育った人々にとって、《アレッサの結界》の効力は、太陽が東から西に動くのと同じように普遍的なものなのだ。

 だからこそ、それが揺らいでいるかもしれない、という事態を、そう簡単に受け入れることはできないのだろう。

「……確かめればいい」

 不意に、グウィンが、静かに言った。

「はぁ? 確かめる……って――
 できんの? そんなこと……」

 思わず、あからさまに疑いの口調で聞き返すフェリスだ。

「難しいが……できんこともない。
《黒の呪い》に関わったものは、必ず、その痕跡をとどめる。
 ――ごく微細な《光子》の揺れを見極めて、その痕跡を見分けるのだ」

 この世界は、極小の光の粒――《光子》が集まって構成されている、というのが、最新の魔術研究の理論だ。

 そして、魔術師は、極度に集中することにより、《光子》の状態を《視る》ことができるのである。

「だが、本体ならともかく、毛が一本では、さすがに心もとない……
 静かな場所で、《ヒュームの霊薬》の力を借りる必要があるだろう」

「――それなら、この屋敷の地下室を使え」

 ガストンが、ふっきれたような表情で口を開いた。

「こうなったら、とことんまで、事をはっきりさせるしかなさそうだ。
 もしも、本当に《アレッサの結界》が弱まっているのなら、一大事だからな。
 まさかご存じないとも思えんが、万が一のことを考えて、皇帝陛下に御報告申し上げる必要がある。
 ――おい、必要なものはあるか? 何でも用意するぞ」

「いえ、薬は、調合済みのものを持参しておりますので」

 魔術師は、難しい魔術を行う際、より深く、安定した集中を得るために、精神に働きかける薬品の助けを借りることがある。

 開発者の名をとって《ヒュームの霊薬》と呼ばれるその薬品は、数種類の薬草などを混ぜ合わせて作られる。

 そして、すぐれた効果を発揮する薬品の例にもれず、これにも副作用があった。

 深い精神統一を可能とする代わりに、反射神経や五感をいちじるしく鈍らせるのだ。

 それゆえに、戦いの中で用いるには不向きだが、今回のような場合には打ってつけだった。

「でも、大丈夫なわけ? グウィン」

 フェリスは、顔をしかめた。

「あんた、あれ、あんまり体質に合わないんじゃなかった?」

 使用する者によっては、効果が切れた後に吐き気や頭痛に襲われたり、ひどい倦怠感にとらわれることもあった。

 グウィンの場合は、頭痛が来るらしい。

 彼は、何を言っている、と言わんばかりの横目で、ちらりとフェリスを見た。

「そんな瑣末事を気にかけている場合ではないだろう。
 ……事が明らかにならんうちは、おまえも、試合に集中できんだろうしな」

 ことばの後半は、視線を外し、呟くような口調になる。

「――へ?」

 フェリスは思わず、間の抜けた声をあげた。

(それじゃ……グウィンが突然、こんなこと言い出したのって……あたしのために?)

「それじゃあ、善は急げだ。すぐにやってくれるか?」

「ええ」

「よし! 地下室はこっちだ」

 俄然、張り切った様子でガストンが先頭に立ち、グウィンがそれに続く。

 フェリスは、まだちょっと信じられないといった表情で、グウィンの背中を追った。




   4 その心をもって盾とならん

 



 ユーザ家の台所は、その主たるキャッサの人柄をしのばせて、実にきちんと片付けられていた。

 レースのカーテンがかかった明るい窓辺には、冬の花が生けられたコップが並べられている。

 ぴかぴかの調理器具が棚に並び、草花模様を描きこんだタイルがあちこちに飾られていた。

(あたしには……ない感覚だなぁ……)

 見回して、思わず、そんな感想を抱くフェリスだ。

《辺境の戦乙女》と呼ばれ、50人の部下を率いて戦う隊長。

 そんな自分の生き方を、恥じたことなど一度もない。

 でも、こういうのを見ていると――こんな生き方もあるんだ、と、思う。

 フェリスは、ぐっと剣の柄を握りしめた。

「ここだ」

 ガストンが言った。

 塵ひとつなく掃き清められた石敷きの床の真ん中に、分厚い木製の跳ね上げ式扉がある。

 ガストンは、手早く蝋燭を灯し、鉄の輪をぐいと引き上げて扉を開けた。

「食料の貯蔵庫だ。はしごで降りるようになっとる。
 多少、がたつくからな。落ちるなよ?」

「フェリス、おまえが先に行け」

「……なんでよ?」

 命令するようなグウィンの口調には、反射的に反抗するのが癖になっている。

「あんたが、先に入ればいいじゃない」

「尻を見られてもよければ、そうしろ。
 俺は特に嬉しくもないが、後からおまえに騒がれるのはかなわん」

「…………」

 フェリスは憮然として、ガストンの後からはしごを降りていった。

 外気とはまた違う、ひんやりとした空気が頬を撫でる。

 かすかに、香草の匂いが混じっていた。

 ――上から見ていたときは、暗くてよく分からなかったのだが、ユーザ家の地下室は、四方を石壁に囲まれ、太い木の枠で補強された、かなり広い空間だった。

 壁際と、部屋の中央には、天井まで届く木製の棚が置かれている。

 そこに、様々な食材や瓶、壷などが整然と並べられていた。  

 音もなく床に降り立ったグウィンが、周囲を見回し、

「閣下、ここに、結界を張ってもよろしいでしょうか?」

 最も広く床が開いた場所で、杖をとんとんと鳴らした。

「おう、かまわんぞ。
 さすがに、食材や酒が腐るような術は困るが、そうでなければ、何でもどんどん使え!」

「……それでは」

 グウィンの声の調子が、変わる。

『優しき光よ――安息の巣となれ――!』

 床に突かれたグウィンの杖の先端から、白く、細い線が噴出した。

 炎からできているように見えるその線は、床の上をいくつにも枝分かれしながら走り、たちまち、グウィンの立つ位置を中心とした、幾何学的な紋様を作り上げてゆく。

 ガストンとフェリスは、並んで立ち、目を見開いてその光景を見つめていた。

 戦場において、敵を打ち倒す武力としての魔術は見慣れている二人だが、このような繊細な術を目にするのは初めてだ。  

 やがて、紋様は安定し、細いきらめく線だけが床の上に残った。  

 その中心で、グウィンが、例の毛を、慎重に床の上に置く。

「グウィン……これ、どういう技なの……?」

 邪魔をしないほうがいい、と思いながらも、好奇心には勝てないフェリスだ。

「《光子》の流れを和らげる結界だ」

「……はぁ?」  

 説明を聞いても、何のことやらさっぱり分からない。  

 グウィンは顔を上げると、さも「物を知らん奴だ」と言わんばかりの顔で、解説を付け加えてきた。

「いいか。この世界の中では、絶え間ない《光子》の対流が起こっている。
 おまえの目には見えないだろうが――
 今、この瞬間、この地下室の中も、強い《光子》の流れにさらされているのだ」

「そう……なの?」

 言われて思わず、きょろきょろと辺りを見回す。

 だが、フェリスの目には、薄暗い地下室の光景が映るばかりだ。

 光のようなものが見えるわけでもなければ、特別な力の流れを感じることもできなかった。

 世間には、魔術師を必要以上に恐れたり、逆に蔑視したりする輩がいる。

 幼い頃からリューネで育ち、軍属の魔術師たちと接してきたフェリスには、もちろん、そういった意識はない。

 ――だが、やはり、こういう瞬間には、壁を感じる。

 やはり魔術師というのは、普通の人間とは違う、特別な存在なのだ。

「その流れは、微妙な《光子》の揺らぎを見極めるためには、邪魔になる。
 少しでも術の精度を上げるため、こうして結界を張り、流れを緩やかにするのだ」

「へえ……そうなんだ……」

 グウィンの言うことが実感できたわけではなかったが、真剣な彼の様子に、思わずこちらも神妙な調子でうなずくフェリスだ。

「術を始めるときには、照明も消す。
 何によらず、五感への刺激は、できるだけ少ないほうがいい」

「――では、わしらも、そろそろ出るとするかな」

 ガストンが言った。

 彼も、間近で見る魔術の準備には興味津々であるらしく、そう言いながらも、少し残念そうな様子だ。

「少しでも気を散らしてはいかんとなると、わしらがいては、術の妨げになりかねん。
 わしとフェリスちゃんは、上で待っておこう」

「お心遣い感謝いたします、閣下。ぜひ、そのように」

 答えたグウィンの手には、すでに、薬袋から取り出した《ヒュームの霊薬》の瓶が握られている。

「……大丈夫? グウィン」

「何だ、フェリス」

 心配げに問いかけたこちらに対して、返ってきたのは、呆れたような視線と尊大なことばだ。

「リューネで最も優秀な魔術師といわれたこの俺が、術に失敗するとでも思うのか?
 案じる必要はない。いいから、さっさと出ていけ」

「な……!?
 ちょっと、このあたしが珍しく心配してやったつーのに、何よ何よ、その態度はっ!? この――
 うわぁっ!?」

「……では、頼んだぞ」

 さすがは《不死身》と恐れられた武人というべきか、ばたばたと暴れるフェリスを片腕一本であっさりと抱え上げ、地下室のはしごを軽々と上がっていくガストン。

 その様子を、グウィンは、フェリスには決して見せることのない眼差しで見送り――

 やがて、跳ね上げ戸が閉ざされると同時に、彼はガストンが置いていった蝋燭を吹き消し、《ヒュームの霊薬》を一気にあおった。


          *


「……とりあえず、茶でも淹れるか」

 床の跳ね上げ戸をできるだけ静かに閉めたガストンは、言って、おもむろに湯沸かしを取り上げ、水瓶のほうに向かった。

「あ、それなら、あたしが――」

「いや、いいから。フェリスちゃん、そのへんの椅子にでも座っててくれ」

 下男が沸かした湯を使い、召使が用意した葉を使って茶を淹れる貴族ならば、いくらでもいるだろう。

 しかし、当主自ら台所に立ち、かまどに湯沸かしをかけるなど、他の貴族の屋敷では考えられないことだ。

 ガストン・ユーザは、確かに、非凡な男であった。

「ありがとうございます、閣下」

 答えて、しかし、フェリスはその場に立ったまま、じっと壁の一点を見つめていた。

 剣の柄に手をかけ、軽く眉を寄せている。

 ――考え事をするときの、彼女の癖だ。

 グウィンのことが気にかかる、というのも、もちろんある。

 だが、彼は、やるといったことは必ずやってのける男だ。

 彼の魔術が失敗するなどとは、思ってもいない。

 グウィンは成功するだろう。

 ――問題は、その後だ。

 あの毛は、果たして《黒の呪い》に関わるものか、否か?

 もしも、あれが《呪われし者》の遺物だったとしたら……

 いったい、どうすればいい?

 帝都警備隊に連絡するか? 

 ――いや、下手をすれば、情報が漏れて、帝都じゅうがパニックに陥ってしまう恐れもある。

 帝国全土を揺るがしかねない一大事だ。

 知らせるならば、もっと上……

 できるならば、直接、皇帝陛下ご自身のお耳に入れることが望ましい。

 だが、どうすれば、そんなことができるだろう?

 ティンドロック卿ならば、今は引退したとはいえ、宮廷に人脈もあるだろう。

 それを利用していただければ、あるいは――?

 そして、もしも隠密裏に討伐隊が組織されるなら、あたしも、そこに加えていただくのだ。

 リューネであろうと、帝都であろうと、人々の安息を《呪われし者》が脅かすならば、絶対に許すことはできない――

「ほい」  

 不意に、目の前に大きなカップが差し出されて、フェリスは、はっと物思いから覚めた。  

 甘い香りが、鼻先をくすぐる。  

 花の芳香を移した、高価な茶の香りだ。

「ずいぶんと、落ち着いた男だな」

「……えっ?」

「下にいる魔術師だよ」

 一瞬、何のことだか分からず、きょとんとしたフェリスに、ガストンはいたずらっぽく片目をつむってみせた。

「フェリスちゃんは、あれと付き合っとるのかな? 
 マクセスの奴には言わんから、な! 正直なところ、どうなんだ?」

「つ……ッ!?」

 渡されたカップの中身をふーふー吹いて冷ましていたフェリスは、危うく、中身を全部床に引っくり返すところだった。

「なっ……そっ……
 そんなわけ、ないじゃないですか!!」

 こんかぎりの大声で、否定する。

 ――と、下で魔術に没頭しているはずのグウィンのことを思い出し、何とか声量だけは抑えて、ばたばたと激しく片手を振る。

「違いますっ。グウィンは、ただの目付け役で――
 副官、みたいなもんです!
 なんにもないですよ? ほんとに、なんにも!」

「そうなのか?」

 なぜか残念そうに、ガストン。

「それは勿体ない……。実に似合いだと思うがなぁ」

「どこがですかっ!?
 ……いくらティンドロック卿でも、さすがに、怒りますよっ!」

「フェリスちゃん」

 こちらもカップ片手に――彼の手にあると、フェリスが持っているものと同じ大きさであるにも関わらず、ふたまわりは小さく見える――ぽん、とこちらの肩に手を置き、重々しく、ガストン。

「女は、恋をしてこそ、美しき花と咲く……」

「何のお話ですか!?」

「もっと、肩の力を抜け、ということだ」

 ガストンは、穏やかに笑って言った。

 そう言われて、初めてフェリスは、自分がひどく気負いこみ、肩をいからせて話していたことに気付いた。

「まだ、何も、はっきりしてはおらんのだ。
 今のうちから、そう緊張しておったのでは、あとが続かん。そうだろう?」

 ――それは、フェリス自身が、戦いを前にした新兵たちに、何度となくかけてきたことばだ。

「こういうときは、茶でも飲んで、気持ちをゆるめることだ」

「……はい……」

(さすがは、兵を率いて40数年の眼力……完全に、見抜かれちゃってる)

 多少、気恥ずかしい思いで苦笑しながら、フェリスはようやく椅子に腰を下ろし、改めて、カップに口をつけようとする。

 そのときだ。

「師匠!」

 遠慮のない大声とともに、ばたん! と荒々しい音が玄関のほうから響き、ガストンとフェリスは、ほとんど同時に腰を浮かせた。

「先生を、連れてきたぜ――!」

「……馬鹿者っ! どでかい声を出すなあっ!」

 こちらも負けていない大声で怒鳴り返すガストンだ。

 それに応えるように、ばたばたと足音が近づいてきたと思うと、台所の入り口に、まずイーサンが顔を出した。

 続いて、小太りの初老の男が、汗まみれの顔をハンカチで拭きながら姿をあらわす。

 太い指には、医師組合に加盟していることを示す、紋章入りの指輪がはまっていた。

「かっ、患者は……!? ティア・クレッサさんはっ、どこですっ?」

 どう見ても運動向きの体格ではない医師は、イーサンに凄い剣幕で急き立てられ、この屋敷まで全力疾走してきたらしい。

 ぜいぜいと息を荒らげ、自分のほうが今にも倒れてしまいそうだった。

「こっちだ、先生! 早く――」

「イーサン、おまえは、ここにいろ」

 勢い込んで言ったイーサンを、ガストンが、有無を言わせぬ口調で制止した。

「わしが、ご案内する」

「どうしてですっ!」

「ティアちゃんが、今、どんな状態でおるか分からん。
 若い男が、むやみに近づくものではない」

 噛み付くような調子で食ってかかったイーサンだが、ガストンの冷静な返答に、うっと言葉に詰まった。

「――いいから、待っとれ。大丈夫だ」

 弟子の腕を、励ますように軽く叩いておいて、ガストンは医師を促し、二階へと向かっていった。  

 イーサンは、その場に立ち尽くしたまま、肩を激しく上下させている。

 彼の顔にも、大粒の汗が光っていた。

 医師を探して、心当たりの場所じゅうを走り回ったのだろう。

「……ん」

 フェリスは、ポットに残っていた茶を手近のカップに注ぐと、彼に向かって突き出した。

「あぁ?」

「お茶。ティンドロック卿が淹れてくださったの」

「……おお」

 唸るように言って、カップは受け取ったものの、口をつけようともせずに、イーサンは天井を睨みつけている。

 彼の心は、視線の先――ティアがいるはずの、二階の部屋へと飛んでいるのだろう。

 やがて、彼は視線を下げると、小さく首を振って、カップに口をつけ――あぢっ、と小さく呻いた。

 茶が、思ったよりも熱かったらしい。

「……ねえ」

 再び沈黙が戻る前に、フェリスは、思わず口を開いていた。

「どうして、ティアちゃんのこと、そんなに好きになったの?」

「……はあ!?」

「いや、ほら」

 あんた何言ってんだ、という表情を隠そうともせずに振り向いてきたイーサンに対し、慌てて付け足す。

「だって、あんたの態度見てると、ほんとに一途、って感じがするんだもん。
 それだけ人を好きになれるって、凄いことだなぁと思って。
 何か、きっかけでもあったわけ?」

「きっかけ……なんて、別にねえよ」

 イーサンは、むすっとした顔つきで、吐き捨てるように言った。

 そのまま、しんとなる。

 居心地の悪い沈黙のなかで、

(これは、まずい話題を振っちゃったかな……)

 と、フェリスが内心、後悔しはじめたときだ。

「……あの子が、兄貴の練習を見にきてたんだ」

 ぼそぼそと、イーサンは口を開いた。

「2年くらい前――ラインスの野郎が、警備隊に入る前のことだ。
 あいつも、この道場で一緒に練習してたからよ」

 仮にも年上の相手を「野郎」呼ばわりもないものだが、想い人の兄という存在は、彼にとって、手強い敵以外の何者でもないのだろう。

「その日、俺、ちょっとむしゃくしゃしててよ……
 練習試合んとき、ついカッとなって、相手にちょっと蹴りを入れちまって……
 そしたら、審判についてたラインスの野郎が、いきなり、俺のこと反則負けだとか言い出しやがって!」

「ああ……」

 フェリスは、思わず顔を引きつらせた。

 それからの展開は、予測の通り。

 イーサンとラインスの口論が、つかみ合いに発展し、しまいには殴り合いの喧嘩にまでなったところで、ティアが姿を現したのだという。

「さ、最悪のタイミングね……」  

 道理で、先ほどイーサンを見たとき、ティアがあんなふうに怯えたわけだ。  

 ティアのなかでは、イーサンはあくまでも『兄に暴力を振るった乱暴者』という認識でしかないらしい。

「俺は、ティアちゃんを見た瞬間……
 何つうか、もう、一目惚れしちまってよ……
 それからは、努力もしたんだぜ!
 誰かにムカついても、キレるのは、2回に1回くらいに抑えるようにしたし――」

「いや、せめて、4回に1回くらいまでがんばったほうがいいんじゃ……」

「何だと!?」

「あ、ほら。それそれ」

 すかさず指を向けられ、うっ、と黙るイーサンだ。

 フェリスは、うんうんと頷いた。

「そうかぁ……
 なるほど、そういうことだったのね。
 はぁ、そうかぁ……」

「……何なんだよ? 気味わりーな……」

 こいつ大丈夫か、という目を向けてくるイーサンに、フェリスは、感慨深げな眼差しを返した。

(それは……いつか、気持ちが通じるといいよね……)

 自分の生き方を変えようと思うほどの、誰かとの出会い。

 それが、幸せな結果になればいい、と思う。

 フェリスは、にっこりと笑った。

「大丈夫だよ。きっと――」

「――失礼する!」

 出し抜けに、フェリスのことばを断ち切ったのは、そんな怒鳴り声。

 そして、玄関の扉が叩き開けられる、だんっ!! という物音だった――

 
        *


 フェリスは、素早く立ち上がった。

 聞いたことのない、若い男の声だ。

 だが、このタイミング、この現れ方ならば、正体の予測はつく。

「はい、はい! 今、行きますから。大声を出さないで!」

 言いながら、台所を出る。

 ――その瞬間、

「どわぁっ!?」

 フェリスは、玄関から走りこんできた背の高い男と、真正面からぶつかった。

 普通の娘ならば、その場に尻餅をついて泣き出しかねない衝撃だ。

「い……痛ったあ〜!」

 激突の直前、後ろに飛び退って勢いを殺したのは、戦士の反射のなせるわざ。

 それでも、思わず涙目になって鼻の頭と口を押さえるフェリスだった。

 無理もない。それだけの勢いで激突したのである。

「き、君は?」  

 見上げた先、間近に、茶色の髪の若者の顔があった。  

 こちらも反射的に、フェリスを抱きとめるように両肩に手をかけている。

 はしばみ色の目が、驚きに見開かれていた。

「あ、あたしは、フェリスデール・レイド……
 ティンドロック卿に泊めていただいてる者です……」

「し、失礼。お怪我は……」  

 呟きかけたところで、はっと何かを思い出したように、フェリスの肩をつかむ若者の手に、ぐっと力がこもった。  

 思わず声を上げそうになるほどの力で、指が食い込む。

「あの、それより、妹は!? ティアが、こちらにお邪魔していると――」  

 言い募ろうとした若者のことばが、そこで不意に途切れた。  

 フェリスの肩から、手が離れる。  

 若者の視線を追ってフェリスが振り向くと、台所の入り口から、イーサンがゆっくりと姿をあらわしたところだった。

「……どうして、お前がここにいる」

 若者の視線が氷のようになり、口調も別人のように冷え切った。

「道場に俺がいて、悪いかよ」

 イーサンが、ふてぶてしい口調で言い返す。

 一瞬にして、火花の散る男二人のあいだに挟まれてしまったフェリスは、動くに動けず、きょろきょろと視線を動かすばかりだ。

 見ると、若者の後ろに、ようやく追いついてきたらしいオルトたちの姿が見えたが――

 彼らもやはり、割って入る度胸はないようだった。

 フェリスは仕方なく、若者のほうを観察することにした。

 ラインス・クレッサ――

 状況から考えて、彼に間違いない。

 ティアの兄。

 そして、殺されたクリル・クレッサの息子――  

 父を失った衝撃から立ち直りきれていないのだろう、目の下に、くっきりと隈が浮いている。

 ほんの今朝方の悲劇だ。無理もない。

 ――それでも、職務を放棄する気はないらしく、警備隊の紋章が入った革鎧に身をかため、帯剣していた。

(この人――)

 その立ち姿を見て、フェリスは、即座に判断を下した。

(かなりの使い手だ)

 重心の取り方が、素人ではない。

 こういうことは、無意識の動作にこそ、はっきりとあらわれる。

「妹は?」

「上だ」

 ラインスとイーサンが、押し殺したことばを交わす。

 短いやりとりの中にも、無数の敵意の糸が張り詰めている。  

 さあ、どうなるか、と、フェリスは油断なく身構えた。

 万が一、この場で殴り合いでも始まったら、身を挺して制止するつもりだ。

 むろん、自分が壁になって、などというつもりはさらさらない。

 二人とも殴り倒して止めよう、と思っている。

 ややあって――

 ラインスは、さっと踵を返した。

 階段に向かうつもりだ。  

 オルトやガリスたちが、慌てて廊下の脇に飛びのき、先輩のために道を開ける。

「待てよ!」

 イーサンの荒い声が響き、ラインスの足がぴたりと止まった。

「てめえ……何やってんだ? 俺が、医者を呼びに行ったんだぞ。
 こんなときに……ティアちゃんを、放ったらかしにしやがって……」

「――何だと?」

 振り向いたラインスの眼光のすさまじさに、さしものフェリスが、息を呑んだ。

「貴様……もう一度、言ってみろ」

「何だ、おい? それで、俺がびびるとでも思ってんのか?」

 よせ、とオルトたちが必死で手信号を送っているが、目にも入らないのか、それとも、無視しているのか。

 イーサンは、牙を剥くように、ラインスに食ってかかった。

「何度でも言ってやるぜ。……てめえ、何してやがんだ!?
 親父さんが死んだのに、ティアちゃんを放って、警備隊の仕事か!?
 てめえ……それでも、兄貴かよ!」

 ラインスの目の色が変わった。

「黙れ! 貴様に、何が分かる――!?」

 繰り出された拳は、見えぬほどの速さ。

 イーサンもまた、だんと踏み出し、加減のない蹴りを放って――

「!!」

 オルトたちが、息を呑んだ。

 驚きのあまり、声を出すことすらできなかったのだ。

「……ばっか野郎……!」  

 歯を食いしばった、唸るような声。

 ラインスの、疾風のような拳を。

 そして、イーサンの、雷光のような蹴りを――

 男たちのあいだに飛び込んだフェリスが、腕一本ずつで、食い止めてのけたのだ。

 煮固めた革の手甲をつけているとはいえ、衝撃は並大抵のものではないはずだ。

 その証拠に、表情は苦痛をこらえて大きく歪んでいる。

 だが、

「こんなところで争って、どうなる! ――ガキか、貴様らはっ!?
 こんな情けない姿を、あの子に見せられるのか……!?」

 どすのきいた声には、髪ひと筋ほどの揺るぎもない。

 口調が、完全に男のものになっていた。

 底光りするみどりの目が、ぎろり、と二人を射抜く。

 刃物のような、凄絶な眼光。

 辺境警備隊の隊長――《皆殺しのフェリスデール》と恐れられる娘の顔。   

 イーサンとラインスも、これにはさすがに気圧されたらしく、完全に動きが止まっている。

 そのときだ。

「……どわっ!?」

 出し抜けに、イーサンの悲鳴が上がった。

 同時、彼の大柄な体が吹っ飛び、真横の壁に激突する。

 鈍い音とともに、苦鳴があがった。

 何だ、とフェリスが目を見張った瞬間――

 その鼻先を、銀光がかすめ過ぎた。

「!」

 細い銀色の杖が、真っ向から、ラインスの喉元に突きつけられている。

「……下がれ。……こいつに、手を出すことは……俺が、許さん」

「グ」

 信じられない、といった調子で、フェリスは叫んだ。

「グウィン!?」

「フェリス。結果が、出たぞ。これは……」

 そこまで言って――

 黒衣の魔術師は、不意に体をよろめかせた。

 杖にすがったが、支えきれずに、がくりとその場に膝を折る。

 改めて見れば、グウィンの顔面は蒼白だった。

 額には、脂汗がにじんでいる。

 高度な魔術は、大きな恩恵をもたらすかわりに、代償として、術者の体力を容赦なく削り取るのだ。

「ちょっ……!? グウィン!? 大丈夫っ!?」

「ああ……少し、眩暈がするだけだ――」

「あ、そう? じゃあ良かった! ねっ、それで、結果は!?」

「…………」

 薄情と言おうか切り替えが早いと言おうか、勢い込んで尋ねたフェリスに、思わずぐったりと脱力するグウィンだ。

「あの、これは……いったい、どういう」

 ラインスは、状況が飲み込めていない。

 イーサンはといえば、グウィンに吹き飛ばされた――おそらく、小規模な衝撃波によって――際に、したたかに頭をぶつけたらしく、いまだ床にうずくまったままだ。

 そこへ、

「おいっ、何の騒ぎだっ!?」

 特徴的な足音と共に、ガストンが駆け下りてくる。

 フェリスは、ようやく、ほうっと息を吐いた。

         *


「結論から言おう。
 この毛からは《黒の呪い》に特有の《光子》のぶれは、感じられなかった」

「じゃあ……」

 フェリスは、隣に立ったガストンと目を見合わせた。

 場所は、いまだ廊下だ。

 だが、二階に所を移している。

 グウィンとフェリス、そしてガストンが集まっているのは、ティアがいる部屋の入り口のすぐ前だった。

 今、部屋の中には、ティアとキャッサ、医師、そしてラインスがいる。

 ――壁に頭をぶつけて呻いていたイーサンはといえば、
 
 「わしの親友の一人娘に蹴りを入れるとは何事だ!?」
 
 と、ガストンの鉄拳を脳天に食らって沈没したところを、とりあえずオルトたちに預けてきた。

 気の毒といえば気の毒だが、病人のそばで、またもや揉め事を起こされたのではかなわない。

「要するに、これは《呪われし者》の遺物ではない、ということだ」

 こめかみを押さえながら、グウィンが言った。

 さりげなく片手を壁につき、体を支えているところを見ると、まだ、眩暈がおさまりきらないらしい。

「確か、なんだよね?」

「無論、確かだ。今回は、特に、念入りに調べたのだからな。
 《呪われし者》を見極める俺の実力は、おまえが、一番よく知っているはずだ」

「そうだね……」

 辺境警備隊の任務では、グウィンの魔術によって、何度も《呪われし者》の擬態を見破ってきたのだ。

「そう……。そう、なんだ。
 とりあえず、良かったよ、うん」

「おお。わしも、胸を撫で下ろしたぞ」

 ガストンが、実際に厚い胸板を撫でてつぶやく。

 殺人事件の全貌そのものは、いまだ不明だが、とりあえず、帝国全土がひっくり返るような一大事にだけは発展せずに済みそうだ。

「いったぁー……
 ここんとこ、絶対、腫れちゃってるよぉ」

 ほっと緊張が緩んだせいか、急に、腕がずきずきと痛みはじめる。

 革の手甲ごしに手首のあたりを撫でながら、フェリスはぼやいた。 

「手加減なかったもんね!
 さすがのあたしも、もうちょっと気が抜けてたら、ブッ飛んでたかも」

「すまん、フェリスちゃん……あの馬鹿者は、後で、もう一発殴っておく」

「い、いえ、閣下! あたしは、大丈夫ですから」

 まさしく岩のような量感をもった拳を固めるガストンに、慌てて、ばたばたと手を振る。

 それに――

 どちらかといえば、イーサンの蹴りよりも、ラインスの拳の打撃のほうが重かったのだ。

(イーサンは、命中の直前、力を抜いてた……
 でも、ラインスさんは、全力で拳を振り切ってきた)

 自制も効かないほどに、怒り狂っていたということか。

 それだけ、彼は、ティアのことを大切に思っているのだ。

(兄、妹……きょうだい、か……)

 一人娘として育ったフェリスには、想像するしかない感覚だ。

 そのとき、ぎいと扉の開く音がした。

 小太りの医師が、にこにこしながら出てくる。

 相変わらず、汗びっしょりだった。

 どうやら、もともと汗をかきやすいたちらしい。

「安心してください! 薬が効きましたよ。
 ティア・クレッサさんの容態は、すっかり落ち着きました!」

「ほんとっ?」

 フェリスは、思わず顔を輝かせた。

「ええ。早く知らせていただいたおかげで、大事に至らずに済んだのです。
 あの若い方に、お礼を言わなくては……」

「ふむ、これは、げんこつは引っ込めておくしかなさそうだな」

 満足げなガストンの呟きの意味が、分かったのかどうか。

 医師はにこやかに頭を下げると、汗をふきふき、立ち去っていった。

 ――そこへ、またもや扉が開き、今度は、ラインスが出てくる。

 彼の顔つきの変化に、フェリスは驚いた。

 怒りと焦燥に気も狂わんばかりになっていた先ほどの様子が嘘のように、今のラインスは、穏やかな表情を浮かべている。

 彼は、まっすぐにフェリスに歩み寄ると、

「先ほどは、本当に、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げた。

「お詫びのしようもない。かっとなって、女性に殴りかかってしまうなど――
 警備隊員として、完全に失格です」

「いやいや、いいんですよ!」

 フェリスは笑顔で、ラインスの拳を受けたほうの手を大きく振ってみせた。

「平気です、このくらい!
 もっとひどい有様になったことだって、何度もありますから。あはははは!」

「ああ。こいつは崖から転げ落ちても、吹っ飛ばされて板塀を突き破っても、全身血まみれになるほどの手傷を負っても、平然と戦い続ける奴だからな――」

「うるさい!」

 げん! とグウィンを蹴飛ばすフェリスを、ラインスは、戸惑うように見つめた。

 普段、触れたら壊れそうにはかなげなティアを見慣れているためか、フェリスの強靭さを理解しかねるといったふうだ。

 ――もっとも、フェリスの場合、他のどんな娘と比べたとしても、断じて「普通」であるとは言われまい。

「昔からです。妹のこととなると、すぐ、頭に血が昇ってしまって」

 ラインスは呟くように言い、今しがた自分が出てきた部屋の扉を振り返った。

「馬鹿だな、あいつ……出歩けるような状態じゃないのに」

 その眼差しと口調は、あまりにも優しく――フェリスは、漠然としたあこがれを感じた。

 誰かのことを大切に思い、案じる心。

 もちろん、父であるマクセスや、グウィン、辺境警備隊の仲間たちのことは、家族同然に思っている。彼らも、きっとそうだろう。

 だが、それをこんなふうには表現しないのが、リューネ市民の気風だ。

 肉体と精神の強さを尊ぶリューネの人々にとって、誰かをあからさまに心配するということは、その者の強さを疑うということに他ならないのだ。

 そういうときは、わざと気にもかけないふりをしたり、憎まれ口を叩いたりするのが、半ば礼儀のようになっている。

 さきほどのグウィンのことばが、いい例だ。

(でも……こういうのも、たまには、悪くはないかもね……) 

「――そうだ」

 不意に、ラインスが表情を改めた。

「そもそも、妹は何をしに、この道場まで?」

 フェリスとグウィン、そしてガストンは、思わず顔を見合わせた。

 彼に、どこまで話すべきだろうか?

 ガストンは、大きな肩をすくめてきた。

 そちらに任せる、という意味だろう。

 フェリスとグウィンのあいだを、素早く視線が交錯する。

 これまで、長い時間を共に過ごしてきた二人だ。

 ことばなどなくとも、充分に意図は通じた。

 グウィンが、ふところから、布の包みを取り出す。

 魔術師の指がそれを広げると同時、ラインスの目が、ゆっくりと見開かれていった。

「……これは……!」

「ご存知か?」

 グウィンが、ラインスに鋭い視線を向ける。

 ラインスは、信じられないという顔つきだ。

「ええ。先ほど、警備隊本部で、部長に見せられたものと同じです。
 父が殺された現場から発見された、遺留品だそうです――」

「あ、何だ」

 やや拍子抜けしたような調子で、フェリス。

「じゃあ、警備隊の人たちも、もう、この毛のことはつかんでるんですね?」

「はあ……
 いえ、しかし、なぜ、警備隊の者しか存在を知らないはずのこれを、あなた方が?」

 いまや、ラインスの表情から最初の驚きは消え去り、不審と、警戒の色が見え隠れしている。

 無理もない。

 古来から、犯罪にかかわる秘密を握るのは、警備隊か、さもなくば犯人と相場が決まっているのだ。

(……この人、あたしたちを疑ってるんだ)

 フェリスは、慌てて、これまでの経緯をかいつまんで説明した。

 話が進むにつれ、ラインスの表情から、疑いが拭い去られてゆく。

「そうですか……父の、仇を……」

 そう呟き、うつむいた彼の表情は、フェリスの場所からはうかがい知ることができなかった。

 これまで、幾人もの部下の死に様をみとってきた彼女だ。

 人の死がもたらす痛み、巨大な喪失感。

 そして、いつかそれを乗り越えてゆく、残された者の強さ――

 それらは、よく知っている。

 だが、肉親を喪った者の心は、フェリスには、想像することしかできなかった。

 母を知らない彼女にとって、唯一の肉親は、父であるマクセス・レイドだ。   

 マクセスが、死んだとしたら……

 殺されたとしたら、自分は、何を思い、そして、どうするのだろう。

 ――考えられなかった。

「申し訳ありません、師匠」

 顔を上げてきたラインスの目の端に、光るものがある。

 彼は、それをぐいとこすり、ガストンを真っ向から見つめた。

「妹が言ったことは、お忘れください。
 こんな危険なヤマに、民間の方を巻き込むわけにはいきません」

「民間か。いっちょまえの口をきくようになったじゃないか」

 つい五年前まで現役の将軍だったガストンは、教え子の言葉に腹を立てることもなく、逆に、ぐわっと嬉しそうな笑みを浮かべる。

 大きな手でどんとラインスの背中を叩き、力づけるように言った。

「口さがない奴らは、警備隊は無能だなどと言っとるようだが、わしらは、おまえたちが必死で捜査してることを知ってる。
 ラインス、外野の言うことなど気にせず、任務に邁進して、親父さんの敵を討て!」

「――俺は、捜査から外されました」

 ぼそりと口にされたラインスのことばに、えっ、とフェリスが口を開ける。

「ティアを置いて家を出ていたのは、緊急の総員呼び出しがあったからです。
 そこで、部長から、しばらく、休暇をとって家にいろと……」

 ことばを途切れさせ、ラインスは、再びうつむいた。

 こみ上げる怒りを押さえ込むためか、固めた拳が、かすかに震えている。

「もちろん……できるなら、やった奴を、この手で殺してやりたいですよ。
 でも、今は、あいつの側にいてやらなきゃ……
 父が死んで、あいつを守ってやれるのは、もう、俺しかいないですから……」

 妹を守る。

 その、兄としての使命感が、今の彼を支えているのかもしれない。

 仲間たちとともに下にいるはずのイーサンのことを思い、フェリスは、複雑な心境になった。

 ――ティアの身を案じている者は、ラインスひとりだけではないのだ。

 ガストンが、もう一度、かつての弟子の肩を叩く。

「わかっているとは思うが……おまえ自身も、重々気をつけろよ」

「ええ、ティアのいる家に、薄汚い犯人を、一歩たりとも入れさせるものですか。
 もしも、俺たちの家を狙ってきたら、あの世で後悔させてやるまでです!」

 ――そうだ。

 犯人は、いまだ、その正体すら明らかになっていない。

 今度はティアが、そして、ラインス本人が狙われる可能性だって、ないとは言えないのだ。

 フェリスは、真剣に考えをめぐらせた。 

 どうすればいいのだろう? どうすれば……

「あの」  

 ややあって、フェリスは、真顔で手を挙げた。

「あたし……やっぱり、囮やります!」

          *

「フェリス!」

 グウィンが素早くたしなめたが、フェリスは彼を片手で制し、そのまま続けた。

「実は、あたしも、御前試合に出場するんです。
 ――この情報をわざと流して、あたしが囮になれば、犯人を捕まえられるかもしれませんよ!」

 いきなりの申し出を受け、ラインスは、何を言われたのか理解できなかったらしい。

 しばらくは表情も変えないまま、フェリスを見返して硬直する。

「……あの……」

 たっぷり、三呼吸間は見つめ合ってから――

 彼は、目いっぱい戸惑った口調で尋ねてきた。

「あの……失礼ですが、あなたは、いったい……?」

「あたし、本業は《辺境警備隊》の兵士なんです」

 ラインスの目に、はっきりと驚きの色が浮かぶ。

 帝国において、女性の兵士は、皆無というわけではないが、やはり珍しい存在だ。

 しかも、《辺境警備隊》といえば、日々、怪物や《呪われし者》との激しい戦闘を繰り広げる、精強の猛者たちの集団である。

 実際、ガイガロス砦に、女性の兵士は、フェリスの他、数名しかいない。

 だが、ラインスは、信じたようだった。

 フェリスが彼の拳を受け止めた、あの瞬間の出来事を思い出したのだろう。

「あたしは、御前試合に出場するために帝都に来て、このお屋敷に泊めていただいてたんです。
《辺境》生まれの《辺境》育ちですから、切った張ったには慣れてます。
 少々の襲撃なら、乗り越える自信があります!」

「フェリス! 何を考えている!?
 わざわざ敵を招くような真似をしては、閣下のご迷惑に――」

「わかってる」

 言葉少なにグウィンに答え、フェリスは、呆気にとられているガストンを見上げた。

「もちろん、閣下や、お弟子さんたちに迷惑をかけるわけにはいきません。
 しばらくは、どこかの宿屋にでも泊まることにします」

「いや……わしらのほうは、まったく構わんのだが……いやはや……」

 ガストンは、信じられん、と言いたげな表情で首を振った。

「本当に、勇猛果敢というか、猪突猛進というか……
 なるほど、こりゃあ、マクセスの奴がぼやくはずだわい」

 どうやら独り言のつもりらしいが、全部丸聞こえだ。

 ――なぜ、今日知り合ったばかりの他人のために、そこまでする必要がある?

 しかも、ラインス・クレッサは、御前試合のライバルなのだ。

 その彼を、なぜ、手助けする必要がある?

 フェリスの脳裏には、そんな疑問は、存在すらしていなかった。

 誰かを守り、そのために戦うことは、フェリスにとって、すでに習い性になっているのだ。 

 ラインスは、なおもしばらく、ぽかんとしていたが――

 ややあって、その顔に苦笑じみた表情が浮かぶ。

「……フェリスさん。あなたの勇敢なお申し出には、感謝します。
 しかし、民間の方を囮にするなどという方法をとることはできません。
 あまりにも、危険が大きすぎる」

 言って、彼は、不意に真剣な表情で首を振った。

「だめだ……各地から集まってきている出場者の方たちを、完全に把握することさえできていないんだから、警備隊は無能だと言われても仕方がない。
 あなたのことは、上に報告しておきます。
 そちらでも充分な対策をとっておられるようですが、それとなく、この辺りの巡視も行なわせるように手配しておきますから」

 しまった、これじゃ、かえって相手の負担を増やしてるじゃないっ、とフェリスは内心、自分をののしった。

「すまん、ラインス。何も隠し事をしようというんじゃなかったんだが、下手にこのことが漏れると、かえってややこしいと判断したんでな」

 バノットが、微妙にフォローになり切っていないことを言って軽く頭を下げたので、フェリスは、ますます身の置き所がない。

 だが、ラインスは、申し訳なさそうに小さくなっているフェリスに視線を向けると、再び笑顔を作って、

「しかし、まさか、こんなところにライバルがいるとは思ってませんでしたよ。しかも、こんなきれいな女の方だとは。
 ――お互い、試合の前に、妙なかたちで顔を合わせてしまいましたね。本番では、早いうちに会わずに済むように祈りましょう……
 ただし、ぶつかった時は、手加減なしですよ!」

「あ……はいっ!」

 試合は試合、と割り切ったラインスの言葉に、フェリスは思わず笑顔になって、勢いよく頷いた。

「刃のない剣の名誉にかけて! ――お互い、いい試合をしましょう!」

 その言葉の意味が分かったかどうかは定かでないが、とにかく、彼はフェリスの目をしっかりと見返しながら頷き返す。

 そこへちょうど、キャッサ夫人がティアをともなって出てきた。

 ティアは、無言で兄の腕にすがった。ラインスの手が上がり、その手にそっと触れる。

 一同は、それ以上は何も言わず、そろって玄関口まで出た。

 心配ですからお家まで付き添いますわ、というキャッサ夫人の言葉を丁重に辞退し、兄と妹はそろって頭を下げると、ティアの歩調に合わせ、ゆっくりとユーザ邸を去ってゆく。

「……フェリス……」

  二人の姿が完全に見えなくなると同時、グウィンが、頭痛でもするように片手で額を押さえて呻いた。

「おまえは、一度ならず、二度までも……
 いや。もう、いい」

「ごめんね、グウィン」

 本気で頭を抱えている目付け役に、普段の彼女にはありえない素直さで、フェリスは謝った。

 それは、ティアを気遣うラインスの態度が、無意識に、自分に対するグウィンのそれに重なり合ったせいかもしれない。

「あんたには、心配かけてばっかりで、悪いと思ってる。
 ――でも、やっぱり、この状況を放っておくことには、納得できないの」

 いつもの癖で、ぐっと剣の柄を握りしめる。

「どうしても、犯人が許せないのよ。ティアちゃんやラインスさんみたいに苦しんでる人がいるのに、今も、そいつがどこかで笑ってると思うと……
 どうしようもなくムカッ腹が立って、この手でぶった斬ってやりたくなるのっ!」

「フェリス。おまえは、無事に試合に出て、戦って、優勝することだけを考えていればいい。
 それが、おまえの夢なんだろう?」

「それは、そうだけどっ!」

「いやぁ……」

 ぼりぼりと後ろ頭を掻きながら、独り言の続き、といった調子で、ガストンが唸る。

「いきなり、屋敷を出ていくなどと言い出すから、わしも、本気で焦ったぞ。
 もう、二日もないというのに……」

「――へっ?」

 思わず、ぴたりと動きを止めるフェリス。

 もう、二日もない?

 御前試合の当日まで、あと十数日はあるはずだ。

「あの、閣下、二日って……?」

「あ」

 しまった、という表情を隠そうともせずに、ガストンは、口に手を当てた。 

「うっかり、口が滑った……!
  本当は、なるべく直前まで知らせるなと言われとったんだがな……」

 言って、懐をごそごそと探り、取り出してきたのは、一通の封筒だ。

「マクセスのやつから、おまえさんへの伝言を預かっとる」

「――親父からの、伝言!?」

 予想だにしなかったものの登場に、フェリスは一瞬、呆気にとられたが、すぐに我に返ると、慌てて封筒を受け取った。

 封印を破り、中の紙――植物の繊維と糊を混ぜて漉いたもので、貴族でなければ使えない贅沢品だ――に書かれた文面を、食い入るように追っていく。


『やっほう、娘よ。元気かあ?

 帝都の暮らしはどうだ? 田舎暮らしに慣れてるおまえにとっては、何もかもが珍しくて、退屈することなんかないだろう。

 そんなおまえに、父さんから、さらに珍しいプレゼントがあるぞう。

 じゃんじゃかじゃ〜ん!

 実は、マーズヴェルタで開かれる、新年祭の仮面舞踏会への招待状を用意しておいた!

 マーズヴェルタでの舞踏会だぞ? 帝国の娘なら、誰もが一度は憧れる華麗な舞台! おまえにはもったいないよーな華やかな場だ。

 試合を控えて緊張するなどとゆー繊細な神経をおまえが持ち合わせているとは到底思えんが、気分転換にはぴったりだぞ!

 どうだ、嬉しいかな?

 ――おおっと、そう慌てることはない。衣装も、ちゃんと見たててそっちに送ってある。ガストンが受け取ってるはずだ。

 おまえには、直前まで言うなと言ってある……おまえをびっくりさせようと思ってな!

 ま、そーゆーことだ。一夜の夢を楽しんできたまえ!

 素敵な男を何人か引っ掛けてみてもいいぞ? できるならな。  

                      父より、愛をこめて

  追伸  おっと、言うまでもないが……会場では、喋るな走るな暴れるな。
       この三つを守って微笑んでさえいれば、おまえも立派な姫君だ!』




「――ぬおおおおお!」

 ぶるぶると手を震わせて手紙の内容を読み終えたフェリスは、とうとう雄叫びをあげると、高価な紙を、バリィッ! と真っ二つに引き裂いた。

「あンの、ちゃらんぽらんのクソ親父、謀りやがったな!?
  おのれぇ、一度ならず、二度までも……ッ! 許さん! 燃やすッ!」

「燃やすのか!?」

 床に落ちた封筒から、美しい金の箔押しがほどこされた招待状を拾い上げながら、さすがに思わずつっこむグウィンだ。

 フェリスが、紙ではなく、マクセスのことを言っているのだと、付き合いの長い彼にはわかる。

 フェリスは、子どものようにだんだんと地団駄を踏んだ。

 マクセスのあまりにも軽すぎる物言いと、現状の深刻さとのギャップが怒りを増幅している。

 もちろん、マクセスがこの状況を知るはずもないから、悪気がないということは理解できるのだが、それでも、やはり腹が立った。

「こんなときに、舞踏会? 男を引っ掛けろ?
  ……ふざけるなぁっ! 誰が行くかぁぁあー!」

「何!? 行かんのか?」

「行きませんよ!」

 驚いたように問うてくるガストンに、激しく言い返すフェリス。

 しかし、ガストンは、信じられないというように言い足してきた。

「だが……この夜には、招待客に対して、皇帝陛下が直々に《翼ある女神の剣》のお披露目をなさるんだぞ?」

「…………え?」

 地団駄を踏む動作を、思わず、途中でぴたりと止めるフェリスだ。

「それが、仮面舞踏会の恒例だ。
《翼持つ女神の剣》は、ふだんは、マーズヴェルタの宝物庫に厳重に保管されとる。
 直接おがむことができるチャンスは、御前試合に優勝するか、さもなければ、この仮面舞踏会に出るかしかない」

「……それ、じゃ……」

 フェリスは、思わず呟いた。

(それじゃ、あのふざけた手紙の内容は、親父の冗談で――
 本当は、《翼持つ女神の剣》を見て、御前試合に向けて気持ちを高めろってこと……?)

「それにな、おそらく会場には、試合のライバルたちが大勢やってくるはずだぞ」

「えっ?」

「当然だろう? ラインスのような例もあるとはいえ、御前試合の出場者は、その半分以上を貴族が占めているからな。
 皇帝陛下主催の舞踏会だ。彼らも、ほとんどが登城してくる」

 敵を打ち負かしたければ、まず、敵について知れ。

 昔、マクセスに言われたことばが、耳の奥によみがえった。

(そうか……試合相手の、戦力調査……)

 マクセスの真意がわかってくるとともに、フェリスは、先ほどの自分の激昂ぶりを恥ずかしく思った。

 おどけたことばの裏に、巧みな策略をひそませる。

 実に、マクセスらしいやり方だった。

 常に韜晦し、他人を惑わせ、容易には本心を読ませない。

「申し訳ありません、閣下。見苦しいところを、お目にかけてしまって」

 フェリスは、ガストンに小さく頭を下げた。

「あたし、登城します。ライバルの様子を、この目で確かめたいし――」

 そのとき、心に浮かんだことを、フェリスは、あえて口には出さなかった。

 出場者が集う、仮面舞踏会。

 もしかすると、犯人も、そこに来るのではないか?

 そう、あの、もっとも怪しいと目されているという将軍――ドナーソンも、姿を現すだろう。

 直接、人物を見極めるいい機会だ。

 と、そこへ、

「……俺は、同行できないのか?」

 それまで黙っていたグウィンが、不意に声をあげてきた。

「え? ――そりゃ、そーでしょ。だって、招待状、一枚しかないもん」

「……フェリス……」

 あっさりと言い放ったフェリスに、グウィンは、凄みを感じるほど真剣な眼差しを向けてきた。

「な、何?」

 金色の視線にまっすぐ見つめられ、フェリスは、妙に動揺している自分を感じた。

 グウィンは、フェリスの肩にそっと両手を置くと、ぐっと顔を近づけ――

「いいか。頼むから、何も問題を起こすんじゃないぞ……!?
  珍しい料理を食い散らかしたり貴族どもを投げ飛ばしたり、あまつさえ、皇帝陛下に喧嘩を吹っ掛けたりするなよ……!?
 ――ああ、おまえを行かせたくない。俺がついてさえいれば、最悪、術で吹き飛ばしてでも止められるというのに――」

「あ……あんたねえ……ッ!
  あたしを、いったい、何だと思ってるのよおおおっ!?」

 苦悩に浸る様子の魔術師の胸倉をひっつかみ、がくがくと揺さぶりながら、思わず絶叫するフェリスだ。

「いや、行けることは行けるぞ?」

 何をやっとるんだ、と言いたげな調子で、ガストンが、分厚い手のひらを二人のあいだに差し込む。

「フェリスちゃんの衣装と一緒に、従者のお仕着せが入っとったからな。
 さすがマクセス、気が利いとるわい。
 貴族の女は、どこへ行くにもお供を連れて歩くのが普通だから、お仕着せを着ていれば、怪しまれることはない。
 ――さすがに、皇帝のおわします《青の広間》までは行けんが、その手前の控えの間までなら、従者たちも自由に出入りができる。
 まあ、言い方は悪いが、手荷物か附属品みたいな扱いだ」

「よかった……寿命が縮まる思いをしたぞ……」

「あー、もー! いいわよいいわよ。くそーっ! 何よ、まったく……」

 グウィンは胸を撫で下ろし、フェリスは壁を蹴飛ばしてふて腐れる。

 一方、ガストンは、横にいたキャッサとにこやかに目を見合わせ、うん、と頷いた。

「では、さっそく、衣装合わせだな!」

「――えっ?」

「そうですわ。本当は、直前に、急いで合わせるつもりでいたのですけれど……
 今から取り掛かれば、ゆっくりと寸法を調整することができますもの!」

 キャッサは、新しい着せ替え人形を前にした少女のように、にっこりと表情をほころばせている。 

「あ……あの……」

 反対に、フェリスの表情は、徐々にひきつってきていた。

 とてつもなく、嫌な予感がする。

 何しろ、他でもない、あの親父が用意したしろものなのだ。

「キャッサさん、その衣装って、どういう……」

「それはもう、素晴らしいものですの!」

 キャッサは、感動を抑えきれないというように、重ねた両手を胸に押し当てた。

「愛らしくて若い貴婦人にふさわしい、美しいドレス――
 もちろん、最新の型ですのよ。
 お父さまの愛情を感じますわね!」

 きっかり1呼吸の後、フェリスの悲鳴が、ユーザ邸をゆるがした。





   5 輝けるマーズヴェルタ





「……まあ、不幸中の幸いだったな」

 下方から、絶え間なく鈍い震動が伝わってくる。

 彼らが乗り込んでいるのは、黒光りする塗りも美しい、箱型の四輪馬車である。

 座席に柔らかいクッションが貼ってあるため、乗客の尻に伝わる震動は最小限に抑えられていた。

 石やくぼみだらけの荒野を荷馬車で行くのに比べれば、まるで天国のような乗り心地だ。

「その、びらびらした裾のおかげで、隠し持った武器も目立たんし」

 天井からは、小型のカンテラまで吊り下げられている。

 さしずめ、移動式の小部屋といったところだ。

 ここでなら、あまり穏当ではない会話も、他人に聞かれる気遣いは無用だった。

「それに、万が一、おまえの顔を知る者が会場内にいたとしても、おそらく、気づかれる心配はあるまい。何しろ、その変貌ぶりではな……」

「――だあぁあああーっ!? うるっさああぁぁあい!」

 足をばたばたさせ、こんかぎりの大声でわめいたフェリスに、となりに座っていたガストンが肩をすくめて両手で耳をふさいだ。

 とはいえ、今のフェリスを見て、それが彼女であると気が付くものは、付き合いの長い《辺境警備隊》の男たちの中にも、ほとんどいないに違いない。

 ふんだんに真珠をちりばめた、艶やかなばら色のドレスに、同色のリボンを使って高く結い上げた金の髪。

 ドレスの袖口や胸元、裾からは、ひとつひとつが花をかたどった繊細なレース飾りがこぼれている。

 胸元には、ごく小粒の真珠を連ねたものを何連もより合わせ、しずく型の深い赤の宝石をあしらった見事な首飾りがさがっている。

 高価な白粉を薄くのせ、透明感のある白さを出した肌に、ほのかにさされた頬紅が初々しい。

 くちびるにも桃色の紅がひかれ、丁寧に重ねられたオイルが濡れたようなつやを与えている。

「だいたい、グウィン! 何、さっきから窓のほうばっか向いて肩を震わせてんのよっ!?
 絶対笑ってるだろ、この野郎! こっち見ろ、コラァァァッ!!」

 ――装いを凝らしたフェリスの外見と内面のギャップは、もはや冗談の領域に達していた。

「まあ、いけませんわ、フェリスさんったら」

 グウィンの隣、フェリスの斜め向かいに座ったキャッサが、手袋をはめた手のほっそりとした指を立てて、言ってくる。  

「貴婦人たるもの、殿方に対して、こっち見ろコラァァァ、などと申し上げるものではありませんわ。
 こちらをご覧になって、と仰らなくては」

「…………こちらをご覧になって、グウィン。ぴくっとでも笑ったらブッ殺す」

「フェリスさん、そういうときは、少しでも笑顔をお見せになると命がございませんわよ、と申し上げるのです」

 ――このキャッサという女性も、どこまで本気なのだかよく分からない。

 彼女は、夕暮れから夜に変わる寸前の空のような、深みのある色合いのドレスをまとっていた。
 
 仕立てはあっさりとしたものだが、相当に上質な布地であろうということは容易に想像できる。

 夫であるガストンも、見事な盛装に身を包んでいた。

 普段のユーザ夫妻の生活ぶりを知る者なら、このような服装は彼らには似つかわしくない、と考えるかもしれない。

 だが、格式ある場所には、それにふさわしい服装で赴くのが由緒正しい貴族というものである。

 新年祭を迎えるにあたっての仮面舞踏会は、決していかがわしい催しなどではなく、建国当時から行われてきた伝統ある儀式のひとつなのだ。

「ああもう、泣きそう……!
 こぉんなこっ恥ずかしい格好してうろついてるとこなんて、リューネのみんなには、とても見せられないよ。
 そんなことになったら、あたし、間違いなく塔から飛び降りちゃう。
 こんなの、どう考えても嫌がらせだよぉぉぉ」

 どん、と背もたれに寄りかかり、嘆かわしげに天井を仰いだと思うと、

「閣下! 閣下からも、うちの親父に何とか言ってやってください!」

 がばっと起き上がり、ガストンに詰め寄るフェリスだ。  

 ガストンは、困ったように首を傾げた。

「うーむ……しかし、非常に似合っとると思うがなぁ……?
 フェリスちゃんが、その格好のどこに不満なのか、わしにはさっぱり分からんよ」

「どっ……どこって、全部ですよ、全部!
 だって、変でしょう!? グウィンだって笑ってるし、イーサンたちだって爆笑してたじゃないですか!」

 その後は、笑った者全員、抜き身の剣を持ったフェリスに追い掛け回されて大変な目に遭ったのだが。

 ガストンは、何を思ったか、太い指を立てると、ちっちっち、と振ってきた。

「フェリスちゃん。まだまだ、男心というものが分かっておらんな」

「はぁっ!? いったい、何の――」

「閣下」

 不意に、笑みのかけらもない表情で、グウィンがこちらを振り向く。

「ところで、確かなのでしょうか? ドナーソン将軍も、この仮面舞踏会のために登城してくるというのは」

「あっ、ちょっと、そこ! 何、話を変えようとしちゃってるわけ!?」

 フェリスが噛み付くが、グウィンは何も聞こえていないかのような顔で続けた。

「最も優勝に近いと言われているドナーソン将軍こそ、最も怪しいというのが、もっぱらの噂……
 無論、当人も、噂のことは知っているはずです。それでも、このような場に姿を現すでしょうか?」

「ああ、間違いない」

 ガストンは、重々しく頷いた。

「あいつは昔から、頑固というか、意固地というか、頭が固いというか……
 とにかく、自分がこうと思ったら、絶対にそれを曲げたりしない男だ。
 由緒ある家柄の貴族ならば、この仮面舞踏会には、必ず顔を出すものだからな。
 それに、ここで引っ込んだりしたら、かえって、周囲にいらぬ詮索をされるのがオチだろうが?」

「――確かに」

 風聞を嫌って、ということにしたとしても、やはり、怪しいことに変わりはない。

「あの、閣下」

 横から、フェリスが口を挟んだ。

 すでに、最前までの苛立ちは忘れたような表情だ。状況を冷静に分析する、戦士の顔になっている。

「何だ?」

「古いご友人のことで、あたしがこんなことを訊いても、お気を悪くなさらないでください。
 ――閣下の目からご覧になって、ドナーソン将軍は、ライバルを殺さなければ優勝が危ないような状態なのでしょうか?」

 あまりにも直截的な物言いに、グウィンが眉を吊り上げた。下手をすれば、相手が激怒しても不思議ではない質問だ。

 だが、ガストンは、腹を立てたりはしなかった。

「……前の御前試合から、4年が過ぎておる。奴はわしと同い年、もう50の半ばだ。
 いかに《鉄の男》と呼ばれた人物でも、寄る年波には抗えまい」

「…………それじゃ、閣下は」

「だが、な」

 ガストンの目が、フェリスの目を真っ向から見据える。

「わしは、奴を信じている。――信じたいのだ。
 奴は、昔から、卑怯な真似が誰よりも嫌いだった。自分の優勝のために、他人を謀殺するような男じゃない」

「ええ、分かります」  

 フェリスは、それだけ言った。もちろん、胸中では、疑いを捨て去ったわけではなかったが。

「あら、もうすぐですわ」

 窓の外をのぞいていたキャッサが、不意に呟く。

 フェリスは、身をかがめて窓の外を見た。

 揺れる視界に、松明と魔法の明かりで煌々と照らされた皇帝の居城、《輝けるマーズヴェルタ》の威容が飛び込んでくる。

 反射的に剣の柄をさぐり――そこに何もないことに軽く舌打ちして、爪先で、足首に仕込んだ短剣の存在を確かめた。

「いよいよだな」

 眼の部分だけを切り抜いた黒い布を顔の上半分に巻きつけながら、グウィン。

 いつもの黒いローブから従者のお仕着せに着替え、覆面をしただけなのに、いつもの彼とはまるで別人のように見える。

「ええ」

 戦場に向かう指揮官の口調で呟き、フェリスは、膝の上に乗せていた、羽根と宝石で飾られた華麗な仮面を持ち上げた。

              *


《輝けるマーズヴェルタ》は、このアレスティア大陸全土でもっとも美しい城であると言われている。

 築城されたのは、今から400年前。リオネス帝国の前身であったレティカ王国の建国と同時に、王の居城として建てられたものだ。

 真っ白な石を、かみそりの刃一枚通さぬ精密さで組み上げた外壁は、美しいだけではなく、堅固な守りの役割も果たしていた。
 
 いかに忍びの技に長けた侵入者といえども、このような外壁を登って城内に侵入することは不可能だ。

 無論、魔術を用いるという方法もある。

 ――だが、マーズヴェルタ城内には常に500人の魔術師が詰め、城壁の上、庭園、廊下、各部屋で目を光らせていた。魔術による暗殺を企むやからを、貴顕たちに近づけないためだ。

 魔術師は独特の《光子》の波動をその身にまとうから、見るものが見れば、そうでないふりをしていても、すぐに分かる。

「失礼ですが、少々、お待ちを」

 ――あ、やっぱり。

 馬車を降り、緋色の絨毯の敷かれた道を歩き、招待状をかざしてマーズヴェルタの壮麗な門をくぐろうとしたところで――

 背後から、そんな声が聞こえて、フェリスは立ち止まった。

 振り向くと、黒地に金のラインが入った制服――マーズヴェルタ城を守備する魔術師団の制服だ――を身につけた若者が、グウィンの腕に手をかけて引き止めているところだ。

「何事です?」

 ドレスの裾をさばき、仮面をきらめかせて、フェリスは堂々と言った。

 知人たちが見たら、あっと驚くような貴婦人ぶりだ。

 幼い頃から「おまえも、一応仮にも何の間違いか侯爵の娘だからな! 礼儀のなっとらん娘のせいで、いらん恥をかきたくはない」という理由で、マクセスから徹底的に礼儀作法を教え込まれた成果である。

「恐れながら、姫君のお付きは魔術の才をお持ちのようですね」

 若者の口調は慇懃だが、眼差しは鋭い。

 扉の反対側に立っているもう一人の魔術師も、油断のない視線を送ってきている。

 ふん、なかなかのもんじゃない、とフェリスは、声には出さずに呟いた。

 彼らは、単なる見掛け倒しなどでは決してない。全員が、帝国魔術学院《星の剣》で戦闘訓練を受けた猛者のはずだ。

 フェリスたちの傍らを、幾人もの着飾った貴族たちが、笑いさざめきながら通り過ぎてゆく。

 入り口で立ち止まっていても、他の人々の通行の妨げになることはなかった。この、マーズヴェルタ城の玄関口は、馬車が6台、横に並んで通れるほど巨大なのである。

「この男の身柄については、わしが保証人になろう」

 横手から、重々しくガストンが言った。

「これは、ティンドロック卿」

 さすがに彼の顔と名は知れ渡っているらしく、若者が恭しく頭を下げる。

「こちらの姫君は、わしの友人の娘御だ。親父が、最近物騒だというんで、そりゃあもう、心配してなぁ。こうして、魔術の使える男を護衛につけておるというわけなのだよ」

 フェリスが《辺境侯》マクセス・レイドの娘であるという情報は、故意に伏せている。

 今夜、この会場に、犯人が来ている可能性もあるのだ。万が一にも、フェリスが出場者であるということがばれては、厄介なことになる。

「さようでございますか」

 最前と比べれば、いくぶん応対が丁重になったものの、依然として、若者の視線からは警戒の色が抜けていない。

「それでは、公認魔術師の証のメダルをお見せいただけますか」

 そう言われた瞬間、グウィンの表情がこわばった。

(――え?)

 フェリスでさえも不審に思ったほどの、明らかな動揺。

 当然、魔術師の若者の視線も厳しくなった。

「何か、不都合なことでも?」

「いや……不都合、というわけでは、ないが……」

 露骨に気の進まない表情ながら、グウィンは、きっちりと詰めた襟元から指を差し入れた。

 胸元から引き出されたのは、鎖に下げられた、小さな丸いメダルだ。

 帝国魔術学院を修了した者に、公認魔術師の証として与えられる、杖とメダル。

 杖は単なる象徴としてのアイテムらしいが、このメダルは、その者の公認魔術師としての身分を表す重要な品物だった。

 若者が、注意深くメダルを手に取り、裏側に刻まれた文字を読み上げる。

「大陸暦577年《星の剣》修了、グウィン……グウィン・ホーク――!?」

 その瞬間、これまでは落ち着き払っていた男の顔が、一転してすさまじく引きつった。

「そ、それでは……貴方が!?」

「さあ、何の話かな――」

 グウィンは早々に話を切り上げようとしたが、若者は信じられない、という表情で、そのまま続けてきた。

「貴方が、あの……《荒くれグウィン》の二つ名で教官たちにさえ恐れられ、その通り道には草すら生えなかったという、伝説の先輩でいらっしゃいましたかっ!?」

 ずごっ!!

 場所も立場も状況も忘れ、フェリスは、盛大にその場にずっこけた。

 慌てて手を貸してくれたガストンにすがって立ち上がりながら、唖然としてグウィンを見つめる。

(あ、あ、あ……荒くれグウィン――!?)

 グウィンは、妙ににこやかな表情でメダルを引ったくり、静かに言った。

「それはきっと同姓同名の別人でしょう……もう、行ってもよろしいですか?」

 完全に気圧された様子で、こくこくと頷く若者。

 一同は、再び歩きはじめた。

「ちょっと。グウィン……」

 そ知らぬ顔で歩みを進める目付け役に、さっそく食い下がるフェリスだ。

「いったい何なのよ!? さっきの、聞き捨てならないやりとりはっ……? 《荒くれグウィン》? 何それ、海賊!?」

「さあ、何のことやら俺にはさっぱり」

 言いながらも、いつになく視線が泳いでいるグウィンだ。こめかみには、うっすらと汗が浮かんでいる。

「そんな露骨に言い逃れようったってダメー! ちゃんと説明してよね。でないと、さっきのお兄さんを問い詰めて、洗いざらい喋ってもらっちゃうんだから!」

「む……」

 とうとう観念したように、苦々しい口調で、グウィン。

「……何だ、つまり……若気の至りというか……人生には、過ちが付き物だ、ということだ……」

「はぁ?」

「まあ、つまり……俺も、昔は、アレだった……ということだ……」

「アレ……?」

「要するに……少しばかり、人格に丸みが足りなかったというか――」

「……早い話が……グウィンって、相当な乱暴者だったんだぁ〜?」

 言いながら、この上なく嬉しそうに、にやにやと笑っているフェリスだ。

「し、失礼なことを言うな! ただ、少し――常人よりも、感情の沸点が低かったというだけのことだ」

「それってつまりキレやすかったってことでしょ?」

 的確極まるフェリスの要約に、うっとことばに詰まるグウィン。

「へえ〜っ……そうだったんだぁ。グウィンがねえ! いつもあたしに、暴走するなとか、喧嘩はするなとかうるさいグウィンが。ふう〜ん。ほお〜っ」

 仮面をつけた顔に、満面の笑みを浮かべるフェリス。

 お目付け役の弱みを握って大満足、といった様子だ。

「あの野郎……後で覚えておけ……」

 ぼそりと呟き、罪もない後輩魔術師に対する怨念を燃え立たせるグウィンであった。

             *

 彼女が来る。

 彼女の訪れを、長いこと――この半月のあいだ、待っていた。

 彼女の出現が、果たして救いとなるのか、それとも……

 事の行く末は、神々だけがご存知だ。

             *

 彼女が来る。

 彼女の訪れを、長いこと――この17年のあいだ、待っていた。

 彼女の出現が、もつれた糸を断ち切ることとなるのか、それとも……

 事の行く末を、我はこの目で見届けよう。

             *
 
 彼女が来る。

 彼女の訪れを、長いこと――この500年のあいだ、待っていた。

 彼女の出現が、この堅固なる封印を解くこととなるのか、それとも……

 事の行く末は、世界の命運を左右する。

             *


「あのう、閣下?」

 広げた扇の陰で声をひそめ、ほんの少し背伸びをするようにして、フェリスは、ガストンに呼びかけた。

 貴婦人たちが魚のひれのようにゆらゆらと動かす扇は、仮面と同じく、本心を隠すためのついたて代わりだ。

 混み合った場所でも、口元を隠していれば、唇の動きを読まれることがない。

「うん?」

 ガストンが、ぐっと身をかがめてくる。

「いや……別に、大したことじゃないんですけど。
 マーズヴェルタ城って、皇帝陛下の家にしては、意外と地味な場所なんですね……」

 今、彼女たちがいるのは《臙脂の間》と名づけられた細長い部屋だ。

 突き当たりには、巨大な黒檀の扉があって、その向こうには、仮面舞踏会の会場――5000人が収容可能といわれる大陸最大級の大広間、《青の広間》が広がっているはずだった。

 いまだ、その扉は、しっかりと閉ざされたままだ。

 扉の前には、大仰な装飾のほどこされた槍斧を交差させた、二人の衛兵が立っている。

 招待客たちは、いわば、ここで足止めを食っている状態だった。

 ――もちろん、会場の準備が整っていないなどというわけではなく、客たちの期待感を高めるための演出なのだろう。

 ここに来るまでに、いくつもの回廊を通り、いくつもの部屋を抜けてきた。

 通り過ぎるたびにガストンが教えてくれたところによると、部屋には、全て色の名前がつけられているらしい。

《薄暮の間》《紫の間》《紅の間》などがあり、それぞれの名にふさわしい色合いに調度類が統一されていた。

 だが、皇帝の家と聞いてフェリスが想像していたようなきらびやかさはそこにはなく、抑えられた照明の下で、むしろ重厚な雰囲気すら漂っていた。

「照明も暗いし……もしかして、あんまりたくさんの場所を照らさなきゃならないから、蝋燭代をケチって、本数を抑えてらっしゃるとか?」

「いや、さすがに、それはないと思うが」

 こちらも声を低くして、ガストン。

「しかし……確かに、ルーシャ・ウィル・リオネス陛下は奢侈を嫌うお方だ。古き良き帝国貴族の鑑のようなお方よ」

 そこまで言うと、急に不愉快そうな顔をして、

「ここに集まった者は皆、陛下の姿勢を見習うべきだな」

 唸るように呟いたガストンに、フェリスも小さくうなずきを返した。

 今、フェリスたちの周囲は、まるで色彩と布地の見本表のようだった。

 どの女性たちも、どう考えても着付けに一刻以上はかかりそうな絢爛豪華な衣装をまとい、ふんだんに付け毛を入れた髪を複雑怪奇なかたちに結い上げている。

 男性のほうも、衣装の色彩の鮮やかさという点では女性たちに遠く及ばぬぶん、仕立ての細かい部分に凝ったり、袖口から覗かせるレース飾りの繊細さを競って見せつけていた。

「まったく、嘆かわしいことだ! 建国以来、質実剛健を美徳としてきた帝国貴族の男が、袖口にレースをひらつかせて喜ぶまでに落ちぶれるとは。
 しかも、あの馬鹿者どもときたら、毎年、よりレースの多い衣装を新調しさえするのだ。
 力の入れどころを間違っておる! 池の魚じゃあるまいし!」

「って、閣下! しーっ、しーっ! お声が高いですよっ!」

 だんだん大きくなってくるガストンの声にフェリスが冷や冷やしていると、

「まあ、まあ、あなた」

 穏やかに割って入ったのは、それまで、にこにこしながら周囲の貴顕たちを眺めていたキャッサだ。

「一年に一度の行事なのですから、皆さんが浮かれるのも無理はありませんわ」

「一年に一度しかない行事のためにわざわざ衣装を新調するなど、勿体ないではないか!
 レースの衣装などあつらえる暇があったら、有事に備えて武具でも仕立て、鍛錬に励まんか!」

 あくまでもレースを目の敵にするガストンに、キャッサは上品な苦笑を浮かべる。

「若い方にとっては、衣装の流行を追いかけるのも楽しいものですわ」

「流行! ああ、陛下がこのような言葉を聞かれたら、何と思われることか。
 いいか、キャッサ、軽佻浮薄な世間の風潮に流されてはいかんぞ。
 我々は常に帝国貴族、つまり、一朝事あらば国土防衛の最前線に立つ者としての心構えをだな……」

「あ、あのう!」

 だんだん演説めいた名調子がついてきたガストンのことばをさえぎるように、フェリスは、強引に新しい話題を切り出した。

「閣下は、何度も、皇帝陛下にお会いしたことがあるんですよね?」

 現皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスは女性である。 

 才知に優れ、また権謀術数にも長けた人物であるというのが、マクセスの評だった。

 陸軍・海軍の最高司令官であると同時に、自身が優れた魔術師であり、央の帝国魔術学院《青き薔薇》の総長をつとめている。

「ああ。素晴らしいお方だ。外交などにかけては老獪な手腕を発揮されるが、見た目には、本当にお優しそうな美人でなあ。
 しかも、まるで年をとられん。至高の座に就かれて10年におなりだが、いまだに、戴冠式のときの美しさをそのままにとどめておられる」

「へえ……」

「断じて失礼のないようにな」

 さりげなく背後から釘を刺すグウィンだ。

「う、うるさい! 荒くれグウィンは黙っててよねっ。
 どうせ、従者役のあんたは、ここまでしか入れないんだから。あたしは閣下やキャッサさんと楽しんでくるから、あんたはこのへんで地味にお酒でも飲んでなさい」

「…………」

 当分、この調子で反撃されるかと思うと、思わず頭が痛くなってくるグウィンだ。

「ねえ、フェリスさん。フェリスさんは、殿方が衣装の流行を追うことについて、どう思われて?」

 不意に、キャッサがにこやかにフェリスに話を振った。

「えぇっ!?」

 終わったと思っていた話題をいきなり蒸し返されて、フェリスは慌てた。

 だが、キャッサは、何も本気でフェリスに議論をしかけているわけではない。

 こうした議論ごっこは、貴族の遊びだ。
 
 議題はどんなくだらないことでもいいし、答えの出ないようなものでも構わない。
 
 やりとりの中で飛び出す、奇抜な論理展開や、機知に富んだ言い回しを楽しむ遊戯である。

「えーっと……あたしは、どっちかというと閣下よりの意見ですね。
 ここにいる人たち全員の下着分の代金を集めただけでも、新しい砦がひとつくらいは建てられそうですし……」

 もちろん、フェリスは、遊びだとは気づいていない。真剣に答えている。

「――おい、魔術師」

 憮然としているグウィンに、横手から、ガストンがそっと声をかけた。

「なかなか大変だな、おまえも」

「……慣れておりますので」

「心配か? フェリスちゃんのことが」

 この問いに、グウィンは、すぐには答えなかった。

 彼は、フェリスの横顔を見つめている。

 金色の目には、不思議な表情が宿っていた。娘を見る父のような、妹を見る兄のような、そして――

「《辺境の戦乙女》と呼ばれた娘です。たいていの危機ならば、自力で乗り越えるでしょう」

 ややあって、答えたことばは、視線とは裏腹にそっけないものだった。

「ふむ」

 何を納得したものか、にやっと笑って、大きくうなずくガストン。

 そのとき――

 突如として、奥の扉が開け放たれた。

          *

 フェリスの目には、黒い扉が突然、光の塊に変わったかのように見えた。

「ん……!?」

 目が薄闇に慣れていたため、一瞬、あまりの眩しさにまぶたを下ろす。

「よし、行こう!」

 一斉に動き出した人の流れに乗って、ガストンに手を引かれるまま、フェリスは《青の広間》に足を踏み入れた。

 そして――その威容に、思わず、ことばを失った。

 まばゆい光の源は、水晶で飾られた黄金のシャンデリアに灯された、何千本もの蝋燭のきらめきだ。

 中央に行くにしたがって高くなる天井は、蒼穹を思わせる青。
 
 まるで、この空間だけが、天空に太陽が浮かぶ真昼になったような錯覚を起こさせる。

 陽の沈むことなき帝国、リオネス―― 

 光り輝くような純白の床が、まるで白い湖面のように、どこまでも広がっている。

 壁も同じく白に統一されており、壁面からは、金色の燭台が等間隔に突き出している。
 
 そこからは、金で縁取りされた、天井と同じ青色の飾り布が下がっていた。

 音楽が、流れている。たゆとう水のように耳に心地よい旋律は、広間の奥に設けられた壇上で演奏する楽師たちによって奏でられているものだ。

 彼らがいる場所のさらに奥には、青い緞帳で仕切られた空間があり、やはり白い石で造られた、広間と同じ幅の壮麗な大階段がそびえている。

 その頂上には、緋色の地に《紫眼の黒竜》――リオネス帝国の紋章が織り出された国旗を背景に、巨大な玉座が置かれていた。

 皇帝その人は、まだ、そこに姿を現してはいない。

「す、すごい……!」

 思わず知らずに拳をかため、目を輝かせてフェリスは叫んだ。

「すごい、すごい! こんなすごい部屋が、この世にあるなんて――!」

 今までの部屋がわざと暗く保たれていたのは、この対比を、客たちに鮮烈に印象付けるためだったのだ。

「生の花が、こんなに――」

 フェリスがすっぽりと隠れてしまえそうなほど巨大な花瓶に、見たこともない大輪の花々があふれんばかりに活けられている。しかも、それが壁際に無数に並べられているのだ。

「驚いたかな、フェリスちゃん? これが名高き《青の広間》だ」

「なるほど……! こうして、国内外に、皇帝陛下の御威光を知らしめるわけですね!」

 心から感動しつつも、どうしても戦略的な方向に思考が向いてしまうあたりが、フェリスのフェリスたるゆえんだった。

「……おっ! この曲は」

 突然、音楽が軽快なものに変わり、ガストンが顔を輝かせた。

 フェリスも聞き知っている、有名な舞曲だ。周囲の男女が、心得たというようにうなずきを交わし、手に手をとって広間の中央に進み出てゆく。

「閣下、この曲がお好きなんですか?」

「ああ、若い頃を思い出す。わしの、青春の思い出の曲なのだ」

「わたくしたちが初めて出会った舞踏会で、この曲が流れていましたの」

 キャッサが、仮面の下でもはっきりと分かるほどに頬を染めて、そう言った。

「曲の初めに、初めてお互いに顔を合わせて――曲が終わるころには、すっかり恋に落ちていましたわ」

「お、おい! 止さんか、こっ恥ずかしい」  

 ガストンの顔が、ゆでダコのように見事に真っ赤になった。  

 フェリスは、思わず笑ってしまった。
 
 こんなふうなら、結婚というものも悪くはないんだろうな、と思う。

「閣下、キャッサさん、どうぞ踊ってきてください」

「む? い、いや、しかし――」

「あたしなら、大丈夫です」

 ぐっと親指を立てかけて、おっと、とその手を引っ込め、しなを作ってホホホと笑った。

「わたくしのことなら、ご心配なさらないでください。間違っても、暴れたりいたしませんから」

「そ……そうか? あ! あと、絶対に、名前は名乗るなよ」

「了解いたし――じゃなかった、分かりましたわ」

 びしりと敬礼しかけた手で、とっさに髪をかきあげてごまかすフェリスに、一瞬、この上なく不安そうな顔をしたガストンだが、やはり、思い出の曲の誘惑には抵抗しきれなかったらしい。

「では、後でな、フェリスちゃん」

「はい!」

 やはりうら若き貴婦人にしては元気のよすぎる返事とともに、フェリスは壁際に下がった。 

 今、彼女の目の前には、絢爛たる絵画のような光景が広がっていた。

 きらびやかな衣装に身を包んだ何百人もの男女が、音楽に合わせて軽やかにステップを踏み、くるくると巧みに位置を入れ替える。

 貴婦人たちの仮面の羽飾りがゆらゆらと揺れ、まるで幻影のように目を惑わす。

 誰もが仮面をつけているせいで、容易には個人の区別がつかない。
 
 まるで人形たちの舞踏会だ。

(さあてと……)

 フェリスはみどりの目をきらめかせ、目的の人物の姿を求めて、周囲を見回した。




   6 接敵




(見張られている……)

《臙脂の間》の壁際にたたずみ、グウィンはひとりごちた。

 先ほどから――辺境警備隊としての任務で鍛え抜かれた感覚が、何者かの視線を察知しているのだ。

 どこからだろうか、と精神を研ぎ澄まし、気配を探った。

 だが今、グウィンの目の前には、仮面で素顔を覆った無数の男女がくるりくるりと入れ替わる、影絵のような世界が展開している。

 確かに、意思を持った何者かの視線を感じるのだが、その源を特定することはできなかった。

(素人ではないな)

 自分は、目立たぬ従者のお仕着せを身につけている。

 その自分を特定して、注意を向けてくるというのは――

(魔術師団の連中か? ……それとも……) 

 敵、だろうか。

 だが、なぜ、この俺を?

 フェリスと一緒にいるところを見られていたのか?

 ――だが、フェリスの身分を知る者は、この城内には、フェリス本人と自分を除けば、ユーザ夫妻しかいないはず……

(身分が割れる可能性があるとすれば、招待状を提示したときだが……
 
 今夜は仮面舞踏会だ。その内容が、周囲に知れ渡ることはない……)  

 通常、貴族たちが集まる席では、部屋の入り口に専任の係官が立ち、入室者の姓名と身分を大声で呼ばわるのが慣わしになっている。

 だが、今夜は、人々が素顔を隠す仮面舞踏会。

 そのような席で客たちの正体を暴き立てるのは無粋ということで、今夜だけは、係官も休業だ。

(だとすると、やはり、魔術師団の連中なのか?)

 在学中に幾多の武勇伝を生み出した《荒くれグウィン》の姿を一目拝んでおこうという、物見高い人間がいたとしても不思議ではない。

 あるいは、貴顕居並ぶこの会場で厄介ごとを起こされてはかなわないと、わざわざこちらの動向を監視しているという可能性もある。

 それならば、構わないのだが――

(万が一、敵の手の者ならば……おそらく、フェリスのほうにも……)

 グウィンは、従者のお仕着せを身につけている自分を歯痒く思った。

 この服装をしている限り、奥の《青の広間》に足を踏み入れることはできない。

(くそ、俺が、念話の術を使えればな……
 いっそのこと、裏に回って《青の広間》付きの給仕を襲い、制服を奪うか?) 

 不可能と知りつつ、つい、そんな考えも頭に浮かぶ。

 フェリス本人の戦士としての実力、そしてガストンがついていることを考えれば、多少の危険はものともせずに乗り越えるだろう。

 だが、それでも、気がかりだった。

 せめて、自分を監視している相手の位置だけでも見定めようと、グウィンは鋭い視線を周囲に走らせ――

「まあ、金の瞳! ……素敵。まるで、鷹のようですわ!」

 頭をめぐらせた途端、満面の笑みをたたえて立っていた貴婦人と、まともに視線がぶつかった。

 グウィンは、特に女性を苦手と感じたことはなかったが、それでも反射的に顔が引きつったほど、強烈な相手だった。

 薔薇の花を模した布飾りをふんだんに縫い付けた深紅のドレスは、スカートの裾野があまりにも広がりすぎて、彼女と握手しようと思えば爪先立ちで手を伸ばさねばならないのではないかと思われた。

 何がどうなっているのか分からないほど複雑に結われた髪は、銀粉を散らした漆黒で、ドレスの赤とけばけばしい対照をなしている。

 宝石をちりばめた金の仮面の向こうから、きらきら光る青い目でじっとグウィンを見つめ、貴婦人は、真っ赤なくちびるでにっこりと微笑んだ。

「ねえ、あなたの御主人様はどなた? 今の境遇に満足していて?
 わたくし、あなたが気に入ってしまったの。
 よろしければわたくしのお家にいらっしゃいな。今より、もっといい暮らしをさせて差し上げてよ?」

 貴婦人の背後には、取り巻きと思しき男たちが数人、表情をうかがわせない顔つきで突っ立っている。

(……あ、愛人の勧誘か?)

 下品なまでに派手ではあるが、衣装にこれだけの金をかけていることからも、これだけの取り巻きを引き連れていることからも、この貴婦人が相当に有力な家の人間であることは間違いない。

 こういった世界では、金と暇を持て余した女性が、退屈しのぎに若い愛人を何人も囲うのは珍しいことではないのだ。

「……私は、さる侯爵家にお仕えいたしております。
 このようなお声掛けをいただき、この身に過ぎる光栄と思いますが、私は、今の立場に心より満足いたしておりますゆえ」

「まああ、残念だわ。でも、御主人様があちらで愉しんでらっしゃるあいだに、少し休憩するくらいのことは構わないでしょう?
 ちょっとそこまで、一緒においでなさいな。夜のお散歩をいたしましょう?」

 何なんだ、この臆面もないしつこさは、と辟易して顔を背けながら、グウィンは慌てて周囲の気配を探った。

 ――先ほどまで確かに感じていた、あの視線は、消え失せていた。

「ねえ、あなた! お名前は何と言うのかしら?」

「いえ……私ごときの者、名乗るまでも……」

「いいから、教えてちょうだいな! ねえ、良いでしょう?」

 ここがリューネの酒場で、相手がしつこい客引きの女なら、魔術の力をちらつかせて少し凄んでやれば事は解決する。

 だが、ここは貴人居並ぶ皇帝の城で、相手は相当な権勢を持つ名家の女性だ。

(くそ! 上手く理由をつけて、とっととこの場を離れなければ――)

 ひきつった笑みを浮かべながら、グウィンは、内心で大きく天を仰いだ。



          *



「美しい姫君よ、私と踊っていただけませんか?」

「残念ですけれど、あいにくわたくし、足を痛めておりますの」

 にっこりと笑って誘いをいなし、ドレスの裾をさばいて、颯爽とその場を歩き去る。

 取り残されてぽかんとする男には目もくれず、フェリスは、ただ求める人物の姿のみを探して進んでいた。

『へーっ、親父でも舞踏会なんかに出ること、あるんだ?』

 数年前、マーズヴェルタ城での仮面舞踏会について、マクセスから話してもらったとき。

 フェリスは、目を丸くして、そう言ったものだった。

『ダンスなんて、嫌いだと思ってたけど』

『ああ、大嫌いだぞ? 好きでもない人間とべたべたくっ付かなきゃならんなんて、ほとんど拷問だからなぁ』

 長椅子に寝そべり、気に入りのパイプをのんびりとくゆらせながら、マクセスは言った。

『だがな、面白いこともあるのだ。舞踏会の夜、広間の中央は、踊る男女の列でいっぱいになる。
 ――だが、本当に面白いのは、壁際だよ』

『壁際?』

『ああ、そうだ。そこでは、ありとあらゆる秘密の会話が交わされている。
 人物評、社会情勢の展望……誰と誰が付き合ったの別れたの、というような話もな』

『……それの、何が面白いのぉ?』

『分からんか? お前も、まだまだ子どもだなぁ』

『うるさい!』

 ――そうだ……あの頃は、まさか他ならぬ自分自身が、その仮面舞踏会に出席することになるなんて、思ったこともなかった。

 そして、今ならば分かる。

 父が『面白い』 と言った、その意味が。

「まあ、本当ですの?」

「ああ、まず間違いなかろう。西の三国の動きが、ここのところ急に活発になってきて……」

 歩みを進める、そのたびに、いくつもできた人の輪から、忍びやかな会話が漏れ聞こえてくる。

「今度の御前試合では、ウォリスタ伯爵が優勝をおさめられるに違いない」

「いや、貴公はそう仰るが、私はノーバートのウォーラン殿も穴馬と見ておるぞ」

「あの女が、アランデル公の1番新しい愛人か? ゼイネ界隈の娼婦あがりだという話ではないか」

「元娼婦だから何だ? 女に変わりはないさ。
 見ろよ、あの胸元と腰つき……アランデル公は果報者だと言わねばなるまい」

(舞踏会の壁際は、情報の宝庫――)

 平然と歩みを進めながらも、フェリスは二つの耳に全神経を集中して、求める情報を聞き分けようとした。

「まあ、その衣装! 裾の飾りが異国風で、とても素敵だわ」

「わたくしの甥が、今度の御前試合に出ますのよ。もう、毎日、心配で心配で――」

「おお、フェッセン殿! その節は、大変お世話になりましたな」

「塩の密売ルートを洗い出すのは大仕事だったが、密偵から連絡が――」

「アボロスの奥方は、若い従者と、夜の散歩と洒落込まれたようだぞ」

「――あら嫌だ。来ているわよ、あの男」

「まったく! 黒い疑惑に取り巻かれた身でありながら、このような晴れやかな場に、臆面もなく姿を見せるとは!」

(……これかっ!?)

 フェリスはさりげなく立ち止まり、ちょうど通りかかった給仕から、酒のグラスを受け取る。

 高価な酒を味わうふりをしながら、全身を耳にしてその会話に聞き入った。

「噂によると、あやしげな術を使って殺し屋を操り、目ぼしい敵に送りつけているとか」

「まあ、恐ろしい! そこまでして勝利を得たいだなんて、殿方の戦好きには、とてもついていけませんわ」

「今、皇帝陛下の手の者が、秘密裏に彼の身辺を探っておるとか。
 帝国陸軍の誉れとうたわれた《鉄の男》も、汚辱に塗れて終わるということか……」

「それにしても、見ろ! あの平然とした面を。まったく、彼は、羞恥心というものを持ち合わせぬのか?」

 1人の男が憤然と指差した先を、フェリスは視線で追った。

(……彼が、3連続優勝の記録保持者……ドナーソン将軍……)

 その男は――1人で立っていた。

 話しかける者もなく、近づく者もなく、ただ1人で。

 髪にも、口髭やあごひげにも、白いものが多く混じっている。

 だが、濃い緑を基調とした衣装に包まれたその長躯は、がっしりと引き締まり、年齢を一切感じさせない。  

 盛り上がった肩は、その腕によって振られる剣の威力を想像させる。
 
 隙のない立ち姿は、立ち合いの巧みさを思わせる。  

 そして、その目つき。

(あの人、まるで――たった1人で、戦場に、立っているみたい――)  

 フェリスは、思わず息を呑んだ。  

 ドナーソン将軍の周囲だけは、空気が違っていた。

 高価な香水や楽の音ではなく――まるで、そこにだけ、土埃の立つ、熱く乾いた風が吹いているような。

 限界まで鍛え上げられ、研ぎ澄まされた、一振りの刃。

 フェリスは、そこに立つ男から、そんな印象を受けた。

 誰よりも鋭く、触れるもの全てを切り裂き――それゆえに恐れられ、人は寄り付かぬ。 

 この男が、黒幕なのか? それとも……  

 そして、この男と、あたしは戦うのか。

「フーッ……」

 自然と、呼気が漏れた。

 身の内が、かっと熱くなる。

 高価な酒のためばかりではない、それは、純粋な興奮だった。

 今、自分の目の前にいるのは、本物の強敵だ。

 巌のようなドナーソンの顔が、ぴくりと動いた。

 視線が、ゆっくりと巡らされる。

 青い目が、ぴたりとフェリスの顔を見据えた。  

 その瞬間、背筋をぴりぴりと走り抜けた震えは、恐怖ではなく、武者震いだ。

 フェリスは、臆さず見返した。  

 その場にぴんと張り詰めた、一本の強靭な糸のごとき緊張に、居合わせた者たちもさすがに気付いたらしい。  

 壁際の貴顕たちが振り向き、見たこともない姫君と、疑惑の将軍が微動だにせず睨み合う様を目の当たりにしてざわめく。  

 楽の音が、遠ざかる。香水の匂いが、かき消える。  

 2人のあいだに吹き交わされたのは、戦場の――血と、土のにおいを含んだ風。

 フェリス自身、気づいてはいなかったが、彼女のくちびるには、淡い笑みが浮かんでいた。

 みどりの目が底光りしている。

 全力を賭して立ち合い、打ち負かすべき、敵だ。

 負けてなるか。

(あなたに、勝つ……!)

 ――その、瞬間だった。

《青の広間》じゅうの照明が、一斉に消えた。



          *




「!?」

 それまで輝くばかりの光に満たされていた《青の広間》が、一転して闇に閉ざされた瞬間、《臙脂の間》の照明もまた、それに連動するように消え去った。

 女性たちの金切り声、男たちのどよめきが、一瞬にして場内を満たす。

(魔術だ……!) 

 グウィンは反射的に、《青の広間》への扉があるはずの辺りに向かって駆け出した。

 視界はまったく利かないが、だいたいの位置関係は把握できている。

 周囲が闇に閉ざされる寸前、《光子》の流れの乱れを感じた。

 暗闇を生み出す魔術が、ここと、そして《青の広間》で同時に用いられたのだ。
 
 これは、尋常の事態ではない。

 一刻も早く、フェリスのもとに駆けつけなくては。

 その肘を、誰かがぐっと捕まえた。

「お待ちなさい!」  

 ぼうっと浮かび上がったのは、例の貴婦人の顔だった。

 取り巻きのひとりが、相変わらずの無表情で、凝った細工の携帯用手燭を差し出している。

「放せ!」

 もはや、相手の身分などに構ってはいられない。

 彼女の手を荒々しく振り払うと、混乱する人々のあいだを縫って、再び走り出そうとする。

 そんな彼の足に、突然、何かが絡みついた。

「うっ!?」

 まともに、足を取られる。

 床に転倒したグウィンを、何本もの手が押さえつけた。

 慌てて首をひねり、見上げれば、貴婦人の取り巻きたちだ。

「貴様らぁ……っ!」

 では、こいつらが敵の回し者か?

 グウィンの目に殺気が走り、その衣服が風を孕んだようにはためいた。

 急激に呼び集められた《光子》の流れが、大気の動きとなって具現化しているのだ。

 こんな場で魔術を使えば、極刑もまぬかれない。

 だが、そんなことは、グウィンの脳裏をかすめさえしなかった。

 フェリスを、守らなければ――!

「あなた、落ち着きなさい!」

 熱くなった思考に冷水を浴びせるように、ぴしりと、貴婦人が言い放つのが聞こえた。

「これは、演出に過ぎないのですよ!」

 ――数秒のあいだ、何を言われたのか、理解できなかった。

「な……に?」

 グウィンが思わずそう呟くころには、周囲の人々のざわめきは、微妙に調子を変えつつあった。

 それは、もはや、恐怖と混乱ではなく――

「ほら、ご覧なさい」

《臙脂の間》のあちこちで、蝋燭が灯されている。

 かそけき灯りが、貴顕たちの顔を照らし出す。

 それを手にしているのは、ぼろぼろの服を身につけた人々だった。

 だが、本物の浮浪者が、それも、これほどに大勢、《輝けるマーズヴェルタ》に入り込んでくるはずがない。

 役者たちだ。

 彼らは、蝋燭を手に、声もなく見つめる人々のあいだを縫ってよろよろと《青の広間》へと入っていく。

 そして、その後から姿を現したのは、漆黒の衣装を身につけた役者たちだ。

 彼らは皆、鎌や、とげのついた棍棒といった恐ろしげな武器を手にしていた。

 顔は、まるで死人のように蒼白く塗られている。衣装にも、角が生えていたり、蝙蝠のような翼があったりと、不気味な趣向が凝らされていた。

 書物などで幾度も見たことがあるその姿に、グウィンは、思わず口に出す。

「これは……《魔性》の、扮装……
 それでは……これは、500年前の《大戦》の……?」

「芝居は静かに愉しむものです」

 貴婦人が小さくうなずくと、取り巻きたちは忠実な猟犬のように、グウィンを押さえつけていた手を一斉にどけて引き下がった。

「あなたは、あの少女を本当に大切に思っているのですね。
 けれど、無茶はなりませんよ。その姿で《青の広間》に踏み込めば、斬り殺されても文句は言えません。
 あの部屋には、皇帝の配下の精鋭たちが何人も変装して紛れ込んでいるのですから」

 貴婦人の口調が、変わっている。

 金と権力はあるけれども頭の軽い、若い男にうつつを抜かす女の印象は、嘘のように掻き消えていた。

「あなた、さまは……」

「扉のところまでならば、来てもかまわないのですよ、魔術師」

《魔性》に扮した役者たちは、ぼろを来た人々を追って《青の広間》へと入っていく。

 さらにその後を追うように、ゆったりと歩き出しながら、貴婦人はいたずらっぽくグウィンに微笑みかけた。

「わたくしの演出を、できるだけ多くの人に見てもらいたいですからね」



          *


       
「何だ!?」

 灯りが消えた瞬間、人々のあいだから悲鳴が湧き起こった。

 その場にしゃがみこむ者、やみくもに走り出し、しゃがみこんだ者につまずき倒れる者。

 自分の位置を見失ってあたふたし、壁をもとめて手を振り回す者――

 その瞬間、真っ先にフェリスがしたことは、踵の高い靴を交互に踏みつけるようにして脱ぎ捨て、左腰を手で探ることだった。

 だが、そこに慣れ親しんだ感触はない。指先が、虚しく空を切っただけだ。

(しまった! そうだ、ここに剣はない……!)

 ドレス姿で、足首に仕込んだ短剣を手にするのは、騎乗装備の甲冑を身につけて最敬礼をするのと同じくらい難しかった。

 スカートをふんわりと見せるためのパニエをばきばき言わせながら、どうにか短剣をつかみ、引き抜き、身構える。

(どこから来る、どこから――!?)

 神経を研ぎ澄ましながら、思考には、冷静な部分を確保している。

 この《輝けるマーズヴェルタ》の照明を一斉に落とすとは、いったい何者が、どういう技を使ったのか?

 ドナーソン将軍の仕業なのか。
 
 だが、直前まで、彼は何の動きも見せていなかった。

 あるいは、彼の配下がどこかに潜んでいたのか?  

 それにしても、どうやって?

 あれほど大量の蝋燭を、それも、天井から吊られたシャンデリアに灯されているものを、一斉にかき消すことなどは普通は不可能だ。

 だとすれば――

(魔術!?)

 敵には、魔術の使い手がいるのか。

 それならば、絶対に、グウィンの助けが必要だ――

「………………あれ?」

 不意に、奇妙な雰囲気の変化を感じて、フェリスは目をぱちぱちと瞬かせた。

 混乱状態だった人々の騒ぎが、すうっと、波が引くように収まっていったのだ。

 そして――

 広間のあちこちに、ぽつり、ぽつりと、蝋燭の光が灯りはじめた。

 中央付近にいた人々がざわめき、道を開けるように、左右に動く。

 そこに姿を現したのは――

 ぼろぼろの衣装を身につけた人々と、真っ黒な衣装を身につけ、作り物の武器を掲げた人々。

「……な……」

 呆気に取られ、思わず口に出して呟く。

「お、お芝居……?」

 伝統的な様式に従った特徴ある動作があらわすのは、苦痛、嘆き、そして支配、嘲笑――

 役者たちは、一切、口を開かない。
 
 無言劇だ。

 だが、それが、どんな物語をあらわすものであるのか、フェリスにもわかった。

 今より、500年の昔に起きた出来事。

 人間種族と、《魔性》との戦い――

《大戦》と呼ばれる、古の戦いの物語だ。

 《魔性》に虐げられた人々を救おうと、何人もの人間が挑むが、敵の力はあまりにも強大であった。

 挑んだ者のことごとくが返り討ちにされ、無残な死を遂げていく。

 無言のままに演じられる苦悶、絶望。

 そして、全ての希望が潰えたか、と思われた、そのとき――



 その剣は、出現した。  

 

 おお……と、5000のため息が、ひとつになる。

 不意にいずこからともなく姿を現した、ひとりの人物。

 純白のローブに身を包んだその人物が、一振りの抜き身の剣を掲げ、《魔性》たちのほうへと歩み寄っていく。

 その刃は、まるで透き通る水晶でできているかのように見えた。

 そこには、今の人間には読むことのかなわない古代の文字が彫り込まれている。

 護拳は、銀色に輝く翼を持った女神の姿を模して――


 白いローブの人物が立ち止まり、その剣を高々と差し上げる。

 それと同時に、どこからともなく、厳かな合唱の声が響き始めた。



   空が  闇に覆われて  世界が暗くなったときに

   希望  全て砕かれて  最後の光が消えたときに

   救いは現れた

   炎のように 

   輝いて  人々の心を
 
   照らし導いてくれた

   恐れる心に  勇気を

   哀しむ心に  悦びを

   そして 暗闇に光を

   希望という名の 光を――



(あれが……《翼持つ女神の剣》……)

 大戦を終結させたのは、翼を持つ乙女の姿をして地上に降り立った女神だった、と伝説は語る。

 女神は、自ら剣を振るい、《魔性》の首領を討ち果たし――

 大戦が終結した後は、剣を残して、いずこへともなく去ったという。

 その剣は、レティカ王国の宝物庫に秘蔵され、レティカが倒れて後は、リオネス帝国の皇帝家に受け継がれたのだと――


 それでは、あの剣が、そうなのか。

 御前試合の優勝者に授けられる、《翼持つ女神の剣》。 

 授けられる、といっても、あくまでも形式的に所有者となるだけで、実際に保管されるのは《輝けるマーズヴェルタ》の宝物庫なのだが――それは、剣士にとって、何者にも代えがたい、栄光の証……


 ――やがて、《魔性》に扮した役者たちがすべて床に倒れ伏し、合唱の余韻も消えて、広間に沈黙がしみとおる。

 白いローブの人物は、蝋燭の光に照らされながら、静かに剣を下ろした。

 そして、言った。

「今、この部屋を照らすのは、わずか数本の蝋燭……」

 女性の声だ。

 それを耳にした途端、貴族たちが、目に見えない巨大な刷毛で撫でられたかのように、一斉に身体を揺らした。

 フェリスは、目を見開いた。

 白いローブの女性を中心として、まるで草が風に吹き倒されるように、全員がその場に膝をついたのだ。

 女性は、芝居の続きを思わせる、抑揚のついた声で語った。

 ひそやかに、けれど、広間の1番隅にいる一人にまで届くように、力強く。

「そう、小さな灯り。
 ――しかし、暗闇を覚えている者にとって、この小さな灯りの、なんと頼もしいことでしょう。
 戦乱の時代は遠い昔に過ぎ去り、今、わたくしたちは平和を謳歌することを許されています。
 平和は富を生み、そして……驕慢を呼びます。
 千の蝋燭を灯したシャンデリアに慣れれば、ほんの数本の蝋燭の灯りなど、人は、無いも同然と思ってしまいます。
 ――しかし、今、この小さな灯りのおかげで、あなたがたは、わたくしの姿を見ることができる。
 そして、わたくしは、あなたがたの姿を」  

 白いローブの女性は、目の前にひざまずいた者たちすべてを包むように、大きく両腕を広げた。

「この仮面舞踏会のはじまりを、皆さんはご存知のはずです。
『仮面をつけるとき、人は、その者ではなくなる――』
 新しい一年を迎えるにあたり、古い自分を捨て、心を新たにする。
 その決意をあらわすための、これは、儀式だったのです」  

 贅を尽くした衣装できらびやかに着飾った貴顕たちが、恥じ入るように顔を伏せた。  

 と、その空気を読み取ったのか、白いローブの女性は、急に口調を柔らかなものにして、

「もちろん、愉しいお祭り騒ぎは、わたくしも大好き。ですから、みなさん、大いに楽しんで構わないのです。
 ――けれど、わたくしたち皆、心の片隅には、いつも留めておくことにいたしましょう。
 かつて、大いなる暗闇があったことを。
 それに立ち向かう、人間の勇気があったことを。
 今、わたくしたちが当たり前のように享受している平安は、かつての人々の決死の戦いによって勝ち取られた、この上なく貴重で、尊いものであることを……」

 思わず周囲に合わせてひざまずいたフェリスだが、このときにはさすがに、白いローブの女性の正体に気付いていた。

 そして、自分が、いつの間にか涙を流していることにも。

 思わず、頬を拭おうと手を挙げ――自分が短剣を握ったままだったことに気付いて、必死でごそごそと足首の鞘に戻す。

 脱ぎ捨てていた靴も慌てて履き直したが、幸いなことに、周囲の人々は食い入るように白いローブの女性を見つめており、フェリスの動きに注意を払う者はいなかったようだ。  

 これだけの人間の心を、これほどまでに、動かす。  

 それは、巧みな演出、流麗な弁舌――

 それ以上に、その人物の人間性が持つ、圧倒的な力によるものだった。

(そうなんだ……この方が……)

 白いローブの女性は、大きくうなずいた。

「そのことさえ忘れなければ、後はよろしいの。――さあ! 音楽を!」

 急に、眩いばかりの光と音楽が復活し、《青の広間》を埋め尽くした。

 一同はあっと声をあげ、目を片手でかばった。

「光の世界!」

 大きく手を広げて叫んだ白いローブの女性の、そのローブを、控えていた侍従たちがさっと左右に引いた。

「おおっ……!」

 人々が一斉にどよめく。

 純白のローブの下から現れたのは、黒い鬘と、とことんけばけばしい装飾が施された真っ赤なドレスだ。

「平和で、贅沢な世界!」

 くるくると回り、滑稽な身振りで叫ぶその貴婦人に、貴族たちのあいだから、笑い声と賛嘆の拍手が湧き起こった。

 その貴婦人――

 リオネス帝国皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスは、高らかに宣言した。

「わたくしたちの世界! ――さあ、皆さん、立つのです。今宵は仮面舞踏会、わたくしの演説は胸の片隅にしまっていただいて、共に、心行くまで踊り明かしましょう!」

「――皇帝陛下、万歳!」

「ルーシャ・ウィル・リオネス陛下に、神々の祝福を!」

 立ち上がった人々が、口々に歓呼の声をあげる。

(す……凄い……)

 たちまち興奮のるつぼと化した大広間の片隅で、フェリスは、感動のあまり立ち尽くしていた。

 常に備えよ。質実剛健であれ――

 そんな父祖の教えを、彼女は、暗闇を用いた演出と、芝居という方法を用いて、人々の心の奥底に鋭く射込んだ。

 そして、せっかくの宴席が白けてしまうことのないよう、跳ね上がるような反動の演出によって、場の空気を一気に陽気なものとしたのだ。

 人の心を意のままに動かす、鮮やかな手腕。

(これが、皇帝陛下の……ルーシャさまの、力なんだ。親父が言ってた通りだわ。ほんとに、凄い人……)

 侍従たちを従えて白い階を上り、玉座についたルーシャの姿を仰いで、フェリスは、心からの尊敬の念に打たれていた。

 彼女は、《翼持つ女神の剣》を、錫のように床についている。

 (……あ!? そうだっ、ドナーソン将軍は!?)

 あの芝居が始まって以来、完全に失念していた。

 まったくもーっ、リューネの戦士にあるまじき失態っ、と内心くちびるを噛んで、きょろきょろと周囲を見回す。

 ――と、そこへ。

「美しき戦女神よ、一曲、ダンスをお相手いただけますかな?」

 低く、ひどく魅力的な声が、フェリスの真後ろからかけられた。



           *



 うわお。

 フェリスは、思わずそんな形に口を開けた。

 ここまで現実離れした美形って、本当にいるんだ。

 夜のような漆黒のケープ。つややかな仮面も黒。

 ほとんど何の装飾もない、まるで舞台の黒子のような衣装だが、飾り立てる必要すらない美貌というものがあるのだと、感動にも似た心境でフェリスは悟っていた。

 仮面で上半分が隠されてはいるが――いや、それゆえにこそ――女心をそそらずにはおかない、端整な顔立ち。

(素敵な人……)

 ちらりとそう思い、慌てて、胸中でぶんぶんとかぶりを振る。

(待て待て! 油断しちゃだめ。
 今、この人……あたしのこと、戦女神、って呼んだ……)

 美形に見惚れる少女の心と、油断を捨てぬ戦士の心。

 フェリスの中には、幼いころから、常にそのふたつが同居していた。

 もっと幼い頃には、激しくぶつかり合い、軋み合ったこともある。

 今はもう、乗り越えた。

 ――少なくとも、そのつもりでいる。

「まあ……」

 フェリスは、つんとした口調で言った。

 そうしながら、視線だけは素早く周囲を探り、人混みの中からドナーソン将軍の姿を見つけ出そうとしている。

 だが、将軍の姿は、踊る人々の波間にかき消えたように、もはやどこにも見当たらなかった。

 あきらめて、目の前の男に、改めて注意を戻す。

「なぜ、わたくしを戦女神と?」

「あの、暗闇の中で」

 仮面の向こうから、明るい鳶色の目がフェリスを見下ろし、笑いかける。  

「蝋燭のわずかな明かりに照らされた、あなたの姿に目を奪われました。
 ……慌てふためく人々の中にあって、あなたは微動だにせず、短剣を手に身構えておられましたね」

(しまった、見られた――!?)

 笑みを絶やさないまま、フェリスは内心で冷や汗を流した。

 誰の目にも留まらなかったつもりだったが、目撃者がいたとは。

 短剣を所持していたこと。

 ――これは、大した問題ではない。
 
 《輝けるマーズヴェルタ》の場内において武装は禁じられているが、貴族であれば、秘密裏に護身用の短剣を持ち歩くことは、半ば黙認されているのだ。

 問題は、それを抜いてしまったということだった。

 皇帝のおわします部屋で、許しを得ずに刃を抜く――
 
 これは、明らかになれば、極刑もまぬかれないほどの大罪なのだ。

「まあ……」

 こうなっては、あくまでもそらっとぼけるしかない。

「それでは、あの瞬間、本当に《翼持つ女神》が降臨なさったのかもしれませんわね」

 にっこりと、微笑んでやる。

 短剣を収めているのは足首だ。こうしていれば、確かめようがあるまい。

 この男、どういうつもりなのだかいまいち読めないが、まさか、公衆の面前で婦人のドレスをめくってみせろなどと言い出すつもりもないだろう……

 フェリスは、男の鳶色の目をじっと見据えた。

 男もまた、フェリスの瞳をまっすぐに覗き込んでくる。

 視線が、絡み合う。

 一瞬、冷えた胸が、再びどきどきと打ち始めた。  

 男の目には、奇妙に真剣な光があった。
 
 まるで、こちらの底意を探り、見抜こうとするかのような――

「……ああ、そうかも知れませんね」

 だが、にっこりと微笑んできたときには、その光は嘘のようにかき消えている。

「私としたことが」

 彼は、自分の胸に手を当てた。優雅な仕草だ。

「何と無作法な真似をしているのでしょう? 名乗りもせずに、このように気安く若い女性に話しかけるとは。
 ――失礼をお許し下さい、姫君。私は、ウォリスタ伯、キリエ・フラウスと申します」

「キリエ……」

 あれ? どこかで聞いた名だな。

 フェリスは一瞬、そういぶかしみ――

 ついで、あっと目を見開いた。  

 キリエ・フラウス。《無冠の貴公子》。  

 イーサンたちが噂をしていた、御前試合の出場者だ。

(この人……こいつ……も、容疑者か……)

 フェリスの目つきが鋭くなった。

 もはや、ときめきは地平の彼方に消え失せている。

 整った容貌も、女心を蕩かすような声音も、フェリスの身体の中心を貫いて通る、強靭な一本の芯をぐらつかせることはない。

 それは、辺境の戦士の本能。

 ――敵か、それとも、味方か?

「翼持つ女神よ、あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」  

 キリエの問いかけに、フェリスは、うっと言葉に詰まった。

 断じて、ここで名乗るわけにはいかない。

 フェリスデール・レイド――

 マクセス・レイド将軍の娘。

『あの《冷血》の娘か――!?』

『辺境の怪物どもを相手に剣をぶん回す、野蛮な姫だそうだぞ!』

『あの父にして、あの娘ありということか』

『血は争えぬものですわねえ、ほほほほほ』

(う……うっわああああ! 駄目だ、絶対言えないッ!)

 そして、名乗れない理由は他にもある。

(女の出場者は珍しい……。まだ、帝都まで、評判は届いてないようだけど……フェリスデール・レイドが御前試合に出場するってことを、もしも、こいつが、噂か何かで知っているとしたら……)

 油断はできない。

 今、目の前にいるこいつが、連続殺人事件の犯人である、という可能性もあるのだ。

 ためらいが居心地の悪い沈黙にとってかわる、その寸前の、絶妙なタイミングで。

 キリエは、不意ににっこりと微笑んだ。

「ああ、これは無粋なことを。『仮面をつけるとき、人は、その者ではなくなる』――
 今宵は、あなたを、翼持つ女神とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「畏れ多いことですわ」

「……今宵は月が美しい。庭園に出てみませんか?」

 こいつ、どういうつもりだろう、とフェリスは思った。

 まあ、着飾った自分の見てくれには、多少の自負はある。

 ドレスは上物で、化粧だってしているし、物心ついた頃から剣を握り続けたためにごつごつと節くれだった手も、上等な手袋がかろうじて隠してくれている。

 こんなふうに――自分を《辺境の戦乙女》や《遊撃隊長》としてではなく、ひとりの女性として見てくれる――男性と話すチャンスなんて、めったにないのだ。

 あたしは、まだ、たったの17歳。

 同じ年頃の娘たちと同じように、男の人と散歩をしたり、お喋りを楽しむことがあったっていいはずだ……。  

 だが、相手が、同じ出場者であるという事実が、フェリスに拭えない警戒心を抱かせていた。

「三の庭の大噴水は、月光を受けると水晶のように輝く。流れ落ちる水は、さながら月の神の御髪のようです。
 もっとも、あなたの金の髪のきらめきには及ばぬかもしれませんが……」

「噴水?」

 思わず呟いて、慌てて口をつぐむ。

 マーズヴェルタに招かれるような名門の貴婦人で、噴水を珍しがる者などいるはずがない。
 
 めったなことを口にして、育ちがばれたら大変だ。  

 だが、大噴水というのは、非常に気になった。  

 フェリスが生まれ育ったガイガロス砦には、そんな優雅な代物はない。
 
 兵士たちの生命線となっている城内の水汲み場は、灰色の石を組んだだけという、質実剛健の極みたいな造りだ。

『こんなもの、水圧を利用したただの飾り物だ。何を騒いでいる?』

 帝都の街の広場で、初めて噴水というものを見たときは、あまり感動しすぎて、グウィンに馬鹿にされたものだ。

 ここの噴水は、あれよりもすごいのだろうか。

「いかが?」

 キリエがすくい上げるように腕を差し出し、穏やかに微笑みかける。

「ええ……そうですわね……でも」

 乾いた下くちびるを舐め、慣れない口紅の味わいに顔をしかめそうになりながら、フェリス。

「わたくし、連れがおりますの」

「ティンドロック卿ガストン・ユーザ殿ですね? 今しがた、あちらで奥方とともにお見かけしました。
 ドナーソン将軍と、何やら話し込んでおられたようですが……」

(ドナーソン将軍と!?)

 取り逃がしたと思ったら、ティンドロック卿が捕まえてくれていたとは。

 ティンドロック卿のことだから、おそらく、あの歯に衣着せぬ物言いで、ドナーソン将軍を問い質してくれているだろう。

 ならば。 

 フェリスはにっこりと笑い、できるかぎり典雅な仕草でキリエの腕をとった。

「喜んで、ご一緒させていただきますわ」

 2番人気の《無冠の貴公子》――あたしは、こっちを探ってやろう。

(そのついでに、噴水も見物する、と。一石二鳥だね!)

 皇帝の城の噴水だ。さぞかし素晴らしいものなのだろう。

 後で思いっきりグウィンに自慢してやろう、と考えて、フェリスは満足そうに微笑んだ。



           *



「……ああ、グウィンさん!」

「夫人……」

 人混みを塗って《臙脂の間》に戻ってきたキャッサの表情を目にして、グウィンの胸中に、嫌な予感が広がった。

 表向きは平静を装ったが、表情に気遣わしげな色が滲み出ることまでは抑えられない。

「フェリスは、どこに?」

「それが……姿が見えなくて。心配になって、今、ぐるりと探してみたのですけれど、どこにも見当たりませんのよ」

 キャッサは、手袋をはめた手を揉み絞っている。

「だから、もしかしたら、こちらに戻っていらしたのではないかと思って……」

「いえ、こちらでも、姿を見てはおりません」

 まったく、あの馬鹿者がっ、と、グウィンは思わず内心で毒づいた。

 出場者たちが顔を揃えるマーズヴェルタに登城するのは、敵地に乗り込むようなものだ。

 決して軽はずみな行動は取らず、単独行動も控えるように――と、昨夜から、あれほどしつこく念を押しておいたのに。

「ティンドロック卿は?」

「それが……ドナーソン将軍とばったり顔を合わせてしまって……今も、すっかり話し込んでいますの」

 ならば、ドナーソン将軍が直接仕掛けてくるという可能性はないということか。

 唯一の救いだ。

 グウィンは、目まぐるしく思考を巡らせた。

 たとえ何者かの不意討ちを受けたとしても、むざむざとやられるフェリスではない。
 
 必ず、一矢報いようとするだろう。

 それならば、何らかの騒ぎが起こっているはずだ。

 一瞬で気絶させられるなどして拉致されたという可能性もあるが、周囲にこれだけの人目がある場所で、誰にも気付かれずに人ひとりを攫うなど、そうそうできることではない。

 ましてや、先ほどの――畏れ多くも――リオネス帝国皇帝ルーシャ陛下の言葉を信じるならば、《青の広間》には、彼女の配下たちが大勢潜んでいるはずだ。

 彼ら全ての目をごまかすなどという芸当は、おそらく不可能。

 ならば――

「どうしましょう、わたくしたちがフェリスさんから目を離したせいだわ……
 単なる行き違いなら、よろしいのですけれど……」

「落ち着いてください、夫人。――《青の広間》から、この扉を通らずに外に出る方法はありますか?」

「それは……」

 手袋をはめた指を頬に当てて天井を見上げ、《青の広間》のほうを振り返って、あっと口を開けるキャッサ。

「奥に、通路がありますわ」

「どこに続いているのですか?」

「確か……お庭のほうに出られたと思うのですけれど……」

 皆まで聞かず、グウィンは身をひるがえす。

「グウィンさん!?」

「あの馬鹿者のことですから」

 一瞬だけ足を止めて、振り返らないまま、グウィンは呟いた。

「舞踏会に嫌気がさして、庭に逃げ出したとしても、驚くにはあたりませんな。
 ――ティンドロック卿に、お伝え願います」

 そして彼は、一陣の黒い風のように去る。

「ああ……どうしましょう」

 おろおろと呟く、キャッサ。

 そこへ――

「いかがなさいましたの?」

 ひょい、と。

 キャッサの顔を、横手から覗き込んだ者がある。

 一瞬、キャッサは、それが誰であるのか分からなかった。

 その人の姿は、つい先ほどまでとは、まったく違っていたからだ。

 青灰色のきらめくネットをかけた、まっすぐな銀色の髪。
 
 虹色の泡のような紋様を巧みに織り出した、群青のドレス。

 ただひとつだけ、変わらぬものは、底知れぬ深みを思わせる青い眼差し――

「……あ……」

「あの少女を、探しているのですか?」

 言葉を失ったキャッサの前で、ルーシャ・ウィル・リオネスは、にっこりと微笑んだ。



           *



 三の庭の大噴水は、フェリスが想像していたよりも、遥かに壮麗な代物だった。

 どうどうと滝のような水音を立てて、噴き上げられた膨大な水が落ちてくる。

 噴出孔の角度に工夫があるのか、水は、まるでそれ自体がひとつの巨大な芸術作品のように、複雑に組み合わさるいくつもの弧を描いて、下の池に落ち込んでいた。

 月光が幾千万ものガラスの欠片のように砕け、跳ね飛ぶ水滴のひとつひとつを、金剛石のごとくきらめかせている。

「すごい……」

 吸い寄せられるように、石造りの手すりのほとりまで近付き、霧となったしぶきを肌に感じながら、フェリスは呟いた。

 貴族の娘なら、こんなふうにせっかくのドレスを濡らすような真似は決してするまい。

 だが、フェリスにとっては、どんな宝石よりも、この壮大な光景そのもののほうが美しく思えた。

「お気に召しましたか?」

「もちろん!」

 思わずいつもの調子で答えてから、おっと、と思い直し、いくぶん淑やかな口調で言い直す。

「こちらの噴水を拝見するのは初めてですの。本当に、素晴らしいものですわね!」

 ちょうど水が落ちてくる場所の何ヶ所かには、漆黒の石で彫り上げられた、堂々たる神々の像が据えられていた。

(あれは《水瓶持つ神》さま……あれが《花冠戴く女神》さま……そして、こっちが……)

 フェリスの視線は、自然と、一体の像に惹き付けられていった。

 翼持つ女神。

 天空に掲げた剣で落ちてくる水を切り裂き、自ら生み出した飛沫の中にすっくと佇んでいる。

 500年前に地上に降り立ち、この世界を《魔性》の脅威から救った、偉大な女神――

(そして……あの剣の、最初の所有者……)

 つい先ほど、《青の広間》で一瞬だけ目にした、剣の様子を脳裏に思い描く。

 水晶でできているかのように透き通った刃、そこに彫り込まれた古代の文字。銀色に輝く護拳。

 もちろん、あの剣が本当に500年前から伝わってきたものなのかどうかは分からない。

 長い歴史の中で、王族、皇族の権威を高めるために製作されたものなのかもしれない。

 だが、そんな疑念も、あの剣に込められた勝利への思い――これまでの御前試合で繰り広げられてきた、幾多の戦いの物語を色褪せさせるものではない。

「翼持つ女神の像を、ご覧になっているのですか」

「ええ」

 いつのまにか、キリエがすぐ傍らに来ていた。

 優勝への揺るぎない決意に燃える瞳を、慌てて笑みのかたちに細め、フェリスはそちらを見上げる。

 そう、わざわざ、こんなところまで出てきたのだ。

 そろそろ、仕掛けてみるとするか。

「ウォリスタ伯?」

「どうぞ、キリエと」

「では……キリエさま」

 他意のないふりをして、探りを入れてやる。

 もしも、こいつが犯人なら……いくつかかまをかけてやれば、尻尾を出すかもしれない。

「あなたもまた、あの剣を求めて戦われるのでしょう?」

「ええ」

「出場なさる方々のうちでは、2番人気でいらっしゃるとか。……わたくし、怖いですわ」

「ほう?」

 フェリスのことばに、キリエの眉が上がった。

「何が、です?」

「もちろん、殺人事件のことです」

 わざと、怯えたように身震いをしてみせる。

「あなたは、これまで何度も準優勝をなさっておいでですもの。
 それだけの強豪なら、狙われる資格がじゅうぶんにおありだわ」

 何度も準優勝、の部分を、心持ち強調してやる。

 無冠の貴公子。

 ――優勝を求める心は、ドナーソン将軍に勝るとも劣らぬはずだ。

「嬉しいですね」

 それまで両手で軽く手すりに触れていたキリエは、全身でフェリスのほうに向き直ってきた。

「わたくしのことを、心配してくださるのですか」

(……ふん、悪びれないわね)

 本当にやましいところがないのか、それとも、そらっとぼけているだけか。

 後者だとすれば、マクセスにも匹敵する役者だ、とフェリスは思った。

「街では、犯人は《呪われし者》だという噂も流れているようですけれど……どう思われます?」

「《呪われし者》ですって?」

 キリエは一瞬、ぽかんとした顔になった。

 そうしていると、まるで少年のように見える。

「まさか。そんなはずはありません。この帝都は《アレッサの結界》に守られているのです。
 《呪われし者》が跳梁するなど、ありえないことです」

「でも、遺体には、爪痕のようなものがついていたとか……」

「おそらくは、人間の仕業でしょう」

 こともなげに、キリエは言った。

「どこの誰だか知らないが……自分の正体を隠すために、怪物の仕業に見せかけているのだと思いますね」

「まあ……恐ろしいことですわ」

 実際には、怒りに燃えこそすれ、恐ろしいなどとはまったく思わない。
 
 歯の浮くようなセリフに、自分でもむず痒くなってきた。

「そこまでして、勝ちたいと思うものですかしら?」

「私は、勝ちたい」

 何の迷いもなく口にされた一言に、フェリスは、軽く目を見開いた。

 彼女のみどりの目を、鳶色の視線が貫く。

「武門の男子と生まれたからには、いつか、最強の称号を得たいと願うのは、自然なことではないでしょうか?」

 視線の真剣さとは裏腹に、口調は、あくまでも優しく、穏やかだ。

「あなたもご存知でしょう? 私が《無冠の貴公子》と呼ばれていることを。
 ……そのような二つ名に、いつまでも甘んじているつもりはありません。
 卑怯な妨害などには惑わされず、正々堂々と戦い、今度こそは、栄冠を勝ち取るつもりでいます」

「ええ、そのお気持ち、分かりますわ!」

 その言葉は、思わず口をついて出た。

 あまりにも力強い賛同に、キリエの表情に困惑したような色が浮かぶ。

(し、しまった! つい……)

「つ、つまり」

 ほほほ、と笑って、言い足す。

「わたくしも男に生まれていたら、きっと、そんなふうに考えると思いますの」

 キリエは、しばらく真面目な顔つきでフェリスを見下ろしていたが、

「――あなたは、不思議な方だ」

 やがて、そのくちびるがふっとほころぶ。

「あなたとお話ししていると、まるで……気の置けない男の友人とでもいるような気分になります」

 うっ、と、フェリスは思わず胸中で呻いた。

 そりゃあ、自分が女らしくないという自覚はある。

 だが、こんなふうに女性らしく装い、できるかぎり淑やかに振舞おうとしているときにさえ、こんなふうに言われてしまうというのは――

《辺境の戦女神》、《皆殺しのフェリスデール》という二つ名が知れ渡っているリューネでなら、分かるのだ。

 だが、貴婦人ぶっている姿しか知らないはずの、今夜が初対面の相手にまでこんなふうに思われるというのは、相当な重症だ。

(やっぱ、あたしって、男みたいでしかいられないんだよね……)

「だが、それだけではない」

 不意にそう呟いて、キリエが、手袋に包まれたフェリスの両手を握った。

「へっ? ……あの」

 貴婦人らしからぬ声をあげ、反射的に身を引こうとするが、キリエの手がしっかりとフェリスの手を包み込み、それを許さなかった。

 何だ、この状況は?

「……ええと」

 口調が、完全に元に戻っている。

 もはやそんなことも気に留めず、フェリスは、引きつった笑いを浮かべた。

 ぐい、と、貴婦人にあるまじき腕力で、相手の手をもぎ離す。

「失礼ですが、初対面の若い男女が、こんなふうに身体を近付けすぎるのは、あまり適切なこととは言えないのではないかと……」

「こ、これは、失礼を……。ご不快でしたか?」

「い、いえ……はい? いえ、その」

 こらっ、いったい何をしどろもどろになってるのよ!? と自分を叱咤する。こんなのは、自分らしくない。

 フェリスの動きが止まった、その隙に、そっとキリエの両手が伸びてきた。

 今度は、両肩を掴まれる。

 キリエは、そっと顔を近づけてきた。

「私は、快かった」

 まずい……これは……非常にまずい。

 フェリスは焦り、忙しく眼球を動かした。

 いっそ、こいつのみぞおちに拳を叩き込んで素早く逃走しようか?

 ――いや、だめだ! そんな噂でも広まろうものなら、自分を同伴したティンドロック卿の面子に、とんでもない傷をつけることになってしまう。

 だが、そんな理屈ではなく、身体が動かない。
 
 まるで、金縛りにでもかかったみたいに。

「い、いけません……」

 ようやく出た声はか細く、擦れていて、自分の声とも思えなかった。

「すでに、誓いを交わされた方がおられるのですか?」

「えっ?」

 その瞬間、ふと、脳裏に浮かんだ面影があった。

 偉そうで、無愛想なくせに口うるさい、あの男。

 なぜだろう? 今の今まで、思い出しもしなかったのに――

「……い、え……」

「では、私は幸運な男というわけですね」

 フェリスの肩をそっと締め付ける手に、力が籠もる。

「恐れることはありません。どうか……口付けだけ……」

 キリエの顔が、そっと降りてきた。

 フェリスは、彼が目を閉じるのを見た。

 フェリスも、本当なら、目を閉じるものだったかもしれない。

 けれど、まるで自分のものではないかのように、身体のどこも動かすことができない。

 目を見開いたまま、彼のくちづけを受ける――

 その、寸前。

 フェリスの背筋が、ざわめいた。

 それは、背後の茂みで起こった、ほんのわずかな葉ずれの音。
 
 そして、息を吐く、ひゅっという音。

 彼女でなければ、聞き落としただろう。

 ――だが、フェリスは、騎士の助けを待つだけの無力な姫君ではない。

 彼女は戦士。

 それも《リューネの戦乙女》と謳われる、超一流の戦士だった。

「危ない!」

 異変を察知した瞬間、頭ではなく身体が先に反応する。

 ばねのように膝を曲げるが早いか、目の前のキリエに、肩から渾身の体当たりをかけた!

 フェリスとキリエは、もろともに、石畳の上に転倒した。

 フェリスが、まともにキリエの上に乗っかるかたちになる。

 ぐえっ、と、貴公子らしからぬ悲鳴がきこえた。
 
 だが、それを気に留めている余裕はない。

(くっそおっ! やっぱ、こんな服、着てくるんじゃなかった!)

 フェリスは内心で激しく毒づいた。
 
 スカートの下のパニエのせいで、いつものように素早く立ち上がることができない。

 それでも、いざとなれば人間、けっこうな離れ業でもどうにかこなせるものだ。
 
 手すりにすがり、ほとんど腕の力だけで身体を引き上げ、強引に立ち上がる。

 フェリスは振り向いた。

 ――そこに、怪物が、いた。



           *



 時間が止まったかのようなその一瞬、フェリスは、敵の姿をはっきりと見た。

 それは、狼に似ていた。

 けれど狼なら、大男並みの体格に、直立が可能な二本足など備えてはいない。
 
 それに、月明かりにその輪郭を浮かび上がらせる、妖しいまでに鮮やかな紫の毛皮など。

 前脚の先に、金属製の熊手のような、凶悪な爪が光っている。
 間違いない。

 3人の出場者を殺し、ティアの父親を殺した奴――  

 でも、なぜ、この城に!?

 フェリスがそんな思いを抱いたのは、まさに一刹那のあいだだけだった。

「……こいつは……!?」

 地面に転がったままのキリエの口から、驚きの叫びがほとばしる。
 
 衝撃のためだろう、完全に、動きが止まっていた。

 キリエが立ち上がることを思いつくよりも早く、フェリスは動いた。

「下がって!」

 叫びながら、手近に飾ってあった植木鉢を引っつかみ、キリエを怪物から守るように立ちはだかる。

 悠長にかがみこんで、足首の短剣を抜いている余裕はない。
 
 有り合わせのものを武器として使うしかなかった。

「伯爵! 退いて、早く助けを!」

 呆然としているキリエに、フェリスは鋭く指示を飛ばした。

「早く! ――くそっ、警備兵、何をしてるっ!? 出合え! 侵入者だっ!」

 軍人ばりの口調で怒鳴る貴婦人の背中を、キリエは呆気にとられた表情で見つめていたが、

「……し……」

 あまりのことに短絡していた回路がようやく繋がったか、ようやく立ち上がりながら、裏返った声で叫んでくる。

「しかしっ、あなたを残していくわけにはっ!」

 「武器もない者は足手まといだ、無駄死にしたいのかっ!?
  それよりも、全力で走って助けを呼べっ!」

 時と場合をわきまえない騎士道精神を発揮するキリエを、身も蓋もないセリフで退けて、フェリス。

 手の中にある重い鉢は、おそらくは磁器製だろう。
 
 砕けば、鋭い刃として使える。中の土は、目つぶしとして使うこともできる。

「やめたまえ、危険……」

「うるさい!」

 その瞬間、怪物が、跳びかかってきた。

 ぐうんと突き出された腕、その先に、4人の命を奪った鉤爪が光る。

 この間合いだ。もしもこいつが、四足の野獣そのものの運動能力を備えていたなら、いかにフェリスといえど、反応する間もなく引き裂かれていただろう。

 けれど、この怪物は2本の足で直立していた。
 
 攻撃の動作は、確かに速いが、人間に近かったのだ。

 怪物が身をたわめるのと同時に、フェリスもまた、動いていた。

 駆け出しざまに靴を脱ぎ捨て、唸りを上げる爪をかいくぐって左前方に飛び出す。

 怪物の、真横を駆け抜けた。
 
 刹那、フェリスは迷った。

 このまま走って逃げ、助けを呼ぼうか? 

 ――いや、駄目だ! それでは、残ったキリエが殺される。

 身をひるがえした。

 同時に、怪物も振り向いてくる。

 真っ向から視線が合う。

 月の光が、怪物の顔を照らし出す。

 紫の毛皮におおわれた、狼のような顔――
 
 その目を見たとたん、フェリスは悪寒が背筋を走り抜けるのを感じた。

 底なしの闇のような目だ。

 その中心には、鬼火のような輝きが灯っている。

「やはり……《呪われし者》かっ!?」

 フェリスは、鋭い叫びを放った。

 間違いない。こいつは、ただの怪物ではない。
 
 ただの怪物が、こんな目をしているはずがない。

 光っているのに暗い。

 輝いているのに、禍々しい。

 怨嗟、渇望、そして絶望――
 
 それらすべてが混ざり合い、煉獄の炎に焼かれているような目だ。

 並の娘なら悪くて卒倒かヒステリー、よくても、身体がすくんで声すら上げられまい。

「来いっ、怪物!」

 フェリスは、紫のケモノに、真っ向から指を突きつけた。

「このあたしが、相手になってやる!
  ……どうした! 闇討ちはできても、真っ向勝負の度胸はないのか!? かかってこい!」

 無茶だ、と自分でも思う。

 満足な武装もないのに《呪われし者》にけんかを売るとは、正気の沙汰ではない。  

 だが、そうしなければならないのだ。

 目の前でキリエを殺させるわけにはいかなかった。

 こちらが紫のケモノを引きつけているあいだに、なんとか彼が逃げて、応援を呼んでくれれば――

「お前の相手はこっちだ!」

 キリエの声が響いた。

 グウッと低い唸りを漏らして、怪物が背後を振り返る。
 
 もちろん、フェリスからも注意を離したわけではない。

「ばっか野郎……!」

 フェリスは、思わず呻いた。さすがに声に余裕がない。

 どこかに隠し持っていたのだろう、キリエもまた、短剣を抜いていた。

 ぴたりと身構えたその姿は、さすが御前試合で準優勝してきただけあって様にはなっているものの、武器は、いかにも護身用といった造りの華奢なものだ。

 それを言うなら、フェリスだって、手にしているのは植木鉢なのだが。 

「伯爵! 早く、退いてください!」

「馬鹿、女性を見殺しになどできるか!」

 キリエの激しい口調に、フェリスは、言いかけていた言葉を飲み込んだ。

 守られる、感覚――

 心地好いと、感じてもいいはずだった。

 だが、なぜだろう、そんな思いはまったく湧いてこない。

 嫌だ、と、思った。あたしだって。

 いいや。

 ――このあたしが、戦うのだ。

「化け物! おまえの狙いは私だろう……! 来い!」

 キリエが怒鳴った瞬間、それまで迷うように動きを止めていた怪物が、ばぁんと石畳を蹴った。

 紫の旋風のように、キリエに襲い掛かる。

「ぐうっ!?」

 鋭い爪が、キリエの腕をかすめる。
 
 高価な布地が裂けて、数滴の血が飛び散る。

「伯爵!」

 もう一撃。もう一撃で、キリエは間違いなく殺される。

 目の前で、5人目の犠牲者が出るのだ。

 フェリスは、迷わなかった。

 手にした鉢を振りかぶり、怪物に向かって投げつけた。

 どっ! と、怪物の紫色の背中に、重い鉢がぶち当たる。

 怪物が、ぐわっと振り向いてきた。

 フェリスは鉢を投げ放つと同時、ぐんと姿勢を沈め、足首の短剣に手を伸ばし――

 どてん、と、横ざまに転んだ。

「へっ?」

 間抜けな声が、喉から漏れる。

 一歩、足を踏み出した拍子に、ドレスの裾を踏みつけたのだ。

 怪物が、ばぁんと跳躍し、自分に向かって飛びかかってくる。

 怪物の姿、空の星、何事か叫んでいるキリエの顔、そして翼持つ女神の像――
 
 何もかもが同時に、くっきりと見えた。

 全てが、焼きついたように、止まって見えた。

 嘘だ。こんなところで。

 こんな――

『優美なる鎌よ、赤き血に染まれ!』

 その叫びは、沈黙を引き裂く刃のように響いた。

 空中に放たれた見えざる力が、紫のケモノの肩口で炸裂する。

 金属板を引っかくような、甲高い悲鳴が上がった。

 どす黒い血が飛び散り、フェリスの顔にも跳ねかかる。

 紫のケモノは空中で身をひねり、伏せるように地面に降り立ったかと思うと、風のようにその場を駆け出し、間近の築山に飛び込んだ。

「な、何だ、今のはっ!?」

「嘘だ、化け物……!?」

 いくつもの叫び声と同時、紫のケモノを追うように、ひゅんひゅんと無数の矢が飛んだ。
 
 あるいは、重なり合う葉に阻まれて落ち、あるいは幹や枝に突き刺さる。

「馬鹿者っ、撃つな! フェリスちゃんたちに当たる!」

 ああ、あの声は――

「閣下!?」 

 どうにか上体を起こし、身体をひねって振り向いた瞬間、ぱん、と頬を張られた。

 思わず、目を見張った先に、黒髪の魔術師の顔があった。

 ぱん。

 もう一度、今度は、反対の頬を張られる。

 だが、今度のは、最前ほどの強さではなかった。

「な……」

「馬鹿者」

 グウィンの表情に、いつもの皮肉げな影はなかった。

「おまえは、何を――」

「ぬわにを、してくれんのよおぉぉぉっ!?」

 次の瞬間、こんかぎりの大声で怒鳴ったフェリスの張り手が、グウィンの横っ面を、思い切り張り飛ばす!

「不意打ちとはずいぶんな真似してくれるじゃないの、えっ!?
  何なわけ!? 無断で広間から消えたから!?
 そりゃ確かに悪かったかもしんないけど、文句があるなら、真正面から来いっつーの!
 あああ、どんな喧嘩だろうと、こんなきれいに顔面にもらったことなんて、ここ数年なかったのに! 屈辱だわっ!」

「すまん!」

 石畳に張り倒されたグウィンと入れ替わるように、フェリスの目の前に膝をついたのは、ガストンだ。

 言いながら、手を貸してくれる。

 ガストンの大きな手にすがって、フェリスはようやく立ち上がることができた。

「わしらが話し込んでいる間に、まさか、こんなことになっとったとは……!
  放ったらかしにしてしまって、本当にすまん!」

「……大丈夫なのか」

 不意にきこえた低い声に、えっ、とそちらを見ると、なんと、ガストンの真後ろに、ドナーソン将軍が立っている。

 どうやら、共に駆けつけてきたらしい。

(じゃあ……今の今まで、ドナーソン将軍は、ティンドロック卿と一緒にいた……!?)

 だとすると、紫のケモノは、少なくとも、ドナーソン将軍本人ではないということか。

「各城門に、伝令を走らせろ!」

「決して逃がすなっ! 何としても捕らえるのだ!」

 鋭い指示の声が交錯する。

 そのときになってようやく、フェリスは、駆けつけてきた兵士たちの存在に気が付いた。

 軽装の鎧を身につけている者がいたり、貴族のような衣装に身を包んでいる者がいたりと、服装がばらばらだ。

 彼らの幾人かは、紫のケモノを追跡するために散り、残った者たちは、キリエに駆け寄る。

「伯爵、ご無事ですか」

「ひどく出血しています。お気を確かに……!」

 あの程度のかすり傷で『お気を確かに』もないもんよね、と、フェリスは呆れて思った。

 あんな言い方をされたのでは、本人も気分を出して、そのままぶっ倒れてしまいかねない。

 交戦中の辺境警備隊ならば間違いなく、背中といわず頭といわずどかどかと叩きまくられた挙句に『大丈夫だ、よし行けっ!』と突き飛ばされているところだ。

「く……馬鹿力め」

 よろよろと、グウィンが起き上がってくる。
 
 頬に、くっきりとフェリスの手形がついていた。
 
 おそらくは、こちらも似たような有様だろうが。

「ふんっ! いきなりぶん殴ってくれたお返しだもんね。
 2発のところを1発ですましてあげたんだから、感謝しなさいよっ」

「なぜ、こんな勝手な行動をした?」

「そりゃ……まあ、こっちにも、色々あったのよっ」

 言いながら、ちらりとキリエのほうをうかがう。彼は、こちらの会話には気付いていないようだ。

「……2番人気の《無冠の貴公子》よ。探りを入れてみれば、何か、ボロが出るんじゃないかと思って」

「で、怪物に襲われて、無様にひっくり返っていたというわけか」

「うるっさい! このスカートのせいだもん。
 あたし、もう二度と、絶対、こんなスカートなんかはかないからね!」

「心配したぞ」

 ぼそり、と彼は呟いた。

 その言葉がフェリスの心に染み透るまでに、数瞬の時間がかかった。

「……へ?」

 間抜けな声で、聞き返す。

 グウィンは、何も答えてはこなかった。

 かわりに、周囲から、ひそひそと囁き声が聞こえてくる。

「あの若いご婦人は、一体……!?」

「ずいぶんと伝法な言葉を使われるが……どこの家の姫君なのか……」

(あ! やばい……!) 

 フェリスが表情を引きつらせると同時、キリエが、フェリスのほうに向かって腕を振った。

「あの方は、ご婦人の身でありながら、この上もなく勇敢でした……!
 怪物に立ち向かって一歩も退かず、私の命を救ってくださったのです。
 あの方の働きがなければ、私は今頃、あの化け物に殺されていたでしょう……!」 

 おお、と場がどよめく。

 ドナーソン将軍に、あからさまな疑惑の眼差しを向ける者もいた。

 だが、その場の大部分――兵士たちばかりではなく、物見高い貴族たちも、この頃にはぞろぞろと集まってきていた――の視線は、フェリスに注がれている。

「なんと、あの化け物と、互角に渡り合われたとは――!?」

「美しくも雄々しき姫君……!」

「どうか、お名前を!」

「そうです、どうか!」

(も、もう……こうなったら、仕方がないわね……)

 フェリスは、引きつった表情を苦労して引き締めると、ガストンと、グウィンを見た。

 ガストンは、肩をすくめる。

 グウィンは、ため息をついた。

 フェリスは、好奇心に満ちた人々の顔を、順々に見渡した。

 そして。

「あたしの名は、フェリスデール・レイド」

 騎士が名乗りを上げるように、堂々と、声を張り上げた。

「《辺境侯》マクセス・レイドの娘! 帝国陸軍第3師団に所属する戦士。
 このたび、リューネ市での予選を勝ち抜き、栄えある御前試合に出場すべく、この帝都にまかり越しました!」

 きっかり3呼吸のあいだ、完璧な沈黙が落ちた。

 3呼吸のあいだ、だけ。

「な、何とお……ッ!?」

 次の瞬間、その場に、嵐のようなどよめきが巻き起こる。

「れ、《冷血》マクセスの娘御かぁっ!?」

「このような若い姫君が、並み居る男たちを抑えて、御前試合に!?」

「《辺境の戦乙女》……! あの噂は、本当であったのか――!」
 
「なんと、恐ろしい……!」

「あ、あたし、一体、どんな奴だと思われてるのよっ……!?」

 蒼然として騒ぐ人々に、思わず、一筋の汗を垂らすフェリスである。

 噂の内容がとんでもなく気になるが、敢えて聞かないほうがいいような気もした。

 ――と。

「フェリスさん!」

 ああ、あれは、キャッサさんの声だ。

 決して速いとはいえない足取りながらも、息せき切って駆けつけてきたキャッサが、ひしとフェリスの手を握る。

「ああ、良かった、ご無事で……! わたくし、それはもう心配いたしましたのよ!」

「ええ、その通りですわね」

 不意にきこえたその声に、その場の全員が、一斉に反応した。

 今度は、フェリスも遅れなかった。

 キャッサとともに、その場に膝をつき、頭を垂れる。

「わたくしの家で死者を出さずに済んだこと、嬉しく思いますよ。
 わたくしが送った兵士たちは、もう少しで間に合わぬところでした。
 ウォリスタ伯、フェリスデール嬢……
 自らの身を守り抜いたあなたがたの働き、たいへん立派なものであったと思います」

 皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスは、青い目を細め、謎めいた表情でフェリスとキリエを交互に見つめた。

「ふたりとも、こちらへ。――あれを、その目でしかと見たのは、あなたがたふたりだけです。
 わたくしたちの捜査に、協力していただけますわね?」




   6 青き薔薇の教団




 使い込まれたかまどにかけられたやかんが、しゅんしゅんと湯気を噴き出している。

 年季の入った光沢を放つ、どっしりとしたテーブル。陶器のカップに活けられた、ハーブや野花。

 あてがわれた椅子の上で、フェリスは、居心地悪く尻を動かしていた。

 服装はそのままだが、仮面は外している。

 ――ここは、いまだ《輝けるマーズヴェルタ》の城内だ。

 まるで、田舎の一軒家の居間のようにしつらえられたこの場所は《黒檀の間》。

 五の庭の一隅に建てられた、皇帝のためのあずまやだった。

 牧歌的な雰囲気が漂っているのはこの室内だけで、あずまやの周囲には、護衛の兵士たちが十重二十重に展開している。

 皇帝の警護のためとしては、当然の規模だ。まして、あのような騒ぎの直後である。

「さあ、これでも召し上がっていらして。今、お茶を淹れますからね」

 テーブルに焼き菓子の入った器を置いて、ルーシャ・ウィル・リオネスは、にっこりと微笑んだ。

 今度は金に変わった髪――今となっては、それらはすべて鬘であったことが分かる――をスカーフで包み、枯草色の質素なドレスを身に着けている。

 ご丁寧に、農家の女性の日に焼けた肌色を表現するための化粧までほどこしていた。

「……あのう」

 とりあえず出された菓子をひとつ取って、フェリスは、隣の椅子にかけたキリエに話しかけた。

 今さら猫をかぶっても仕方がないので、口調もいつもの通りだ。

「皇帝陛下って、いつも、こういう……?」

「ええ」

 頷いたキリエは、くつろいだ様子で椅子に身を預け、肘掛に頬杖をついていた。
 
 彼もまた、仮面を外し、男らしく引き締まった素顔をさらしている。

 傷を負った腕には、真新しい包帯が巻かれていた。

 彼の口調に、予想したようなよそよそしさがなかったことに、フェリスは少しだけほっとした。

「陛下の早変わりには、我ら一同、いつも驚かされていますよ。
 あるときなど、馬番の姿で厩舎におられたこともあったくらいで」

「馬番……」

 どうやら、このような仮装――というよりも変装が、彼女の道楽であるらしい。

「どうぞ」

 慣れた手つきで茶を出すルーシャに、フェリスは背筋を伸ばし、いくらか引きつった表情で会釈をした。

 本人の望みとはいえ、帝国の主に手ずから茶を淹れさせているという状況では、さすがのフェリスもくつろぐ気持ちにはなれない。

 単に権力の座にあぐらをかいているだけの相手なら、たとえ脅されたとしても、こんなふうに恐れ入るフェリスではなかった。

 ましてや、間近で見ると、ルーシャはフェリスよりも小柄で、痩せていた。

 フェリスを緊張させるのは、ルーシャが発散する、一種独特の雰囲気だ。

 その青い目は穏やかで優しげなのに、どこか、人を不安にさせるようなところがあった。
 
 あまりにも鋭く、心の奥底にまで突き刺さり、全てを見通してしまうような視線だ。

 ここにグウィンか、せめてティンドロック卿やキャッサさんがいてくれればよかったのに、とフェリスは思った。

 彼らは、別室で待機している。

 ルーシャが、フェリスとキリエ、2人とだけ話したいと希望したからだ。

「さあ、どうぞ、お茶を」

 勧められるままに、カップに口をつける。

「……ん!? 美味しい!」

「まあ、ありがとう」

 思わず呟いた言葉に、ルーシャが笑顔になる。

「す、すみません、つい!」

 ――ああ、もうっ、悪い癖だ、とフェリスは内心で頭を抱えた。

 考えるより先に口が動く。

 これだから、身分の高い人と同席するのは苦手なのだ。

「よろしいのよ」

 キリエが椅子を引こうと腰を浮かしかけたが、ルーシャはそれを手で制し、自分で腰を下ろした。

 テーブルに肘をつき、組み合わせた両手の甲に顎を乗せる。

「これが、わたくしの趣味なのよ。自分とは違う誰かさんのふりをするのが。
 わたくし、料理もできるしお茶だって淹れられるわ。歌も踊りもできる。
 決闘の真似事だってできますのよ」

「それは……凄いですね」

 フェリスは、ずっとつまんだままだった菓子を口に入れて、噛み砕きながら言った。

 道楽の変装も、そこまで行けば大したものだ。

 だが、フェリスは何となく、皇帝陛下が本当に仰りたいのは、こんなことじゃない、と感じた。

 物柔らかな口調に巧みに包み込まれているけれど、ルーシャの言葉には、刃のように鋭く、硬質な芯が含まれている。

「――でも、そんなものはみんな、ままごとに過ぎませんわね。
 わたくしは、ずっと皇帝の仮面をかぶったまま。他には何もできない。
 わたくしの仕事は、この大きな家の中で、この大きな国を守ることだけ」

 青い瞳が、フェリスを見つめる。

「だから、ね」  

 それは、この上もなく真剣な、苛烈とさえ言える眼差しだった。

「あなた方の力を借りたい。
 ――この世界を、《魔性》の再来から守るために」



           *



 一瞬、空白の時間が流れた。

 キリエのほうは、この会話が始まったときから、何ら反応らしきものを見せず、泰然と椅子におさまったままだ。

「……《魔性》の……再来!?」

 フェリスは、かすれた声で問い返した。

 その声には、信じられないという響きがある。

 無理もなかった。

「いや、でも《魔性》って……確か、500年も前に絶滅したはずじゃ……?」

「フェリスさんは、あの者たちについて、どれほどのことをご存知かしら?」

「どれほど、と言われましても……」

 吟遊詩人が語る物語にある程度のことしか知らない。

 もっとグウィンからしっかり教わっとけばよかったな、と内心後悔しながら、フェリスはいくぶんたどたどしく、おせじにも多いとは言えない知識を披露し始めた。

「ええと……《魔性》とは、500年前に《大戦》が始まるまで、この世界を支配していた種族の呼び名である。
 彼らの姿かたちは、人間に酷似していたといわれるが、凄まじい魔力を持ち、性質は残虐、冷酷であったという。
 500年前、彼らに対する人間たちの一大反乱である《大戦》が起こり、12の神々が降臨して、人々に力を貸してくださった。
《大戦》と、それに続く《大掃討時代》を経て、《魔性》はこの世界から滅び去った。
 しかし、彼らが残した《黒の呪い》は、いまだ猛威を振るい、人々を苦しめ続けている――」

「……そう」

 突然、頷いたのはキリエだ。

「それが、広く世間で信じられている通説ですね」

「通説?」

 どういうことだ。

 この言い伝えには、何か、隠された真実があるとでも?

 フェリスは、我知らず身を震わせた。

 自分の予想を、人々の常識を、遥かに超えた規模で事態が動き出そうとしている――そんな予感がして。

 そうだ、それよりも――

「ウォリスタ伯……いえ、キリエ? あなたは、一体……?」

 今の口ぶりは、まるで、皇帝が語ろうとしていることを、前もって知っているかのようではなかったか?

「フェリスさん」

 彼女の問いかけに答えたのは、キリエではなく、ルーシャだった。

「これより先は、世界中でも、ほんのわずかな限られた者しか知らぬこと。
 聞けば、もはや、後戻りはできません。それでも、よろしいかしら?」

「……はい」 

 不安はある。
 
 だが、迷いはなかった。  

 全てを知ろうとして、ここまで来たのだ。

 今さら、全てをなかったことにするつもりなんて、毛頭ない。

 フェリスは、力強く頷いた。

「どんなことだろうと、知る覚悟はできてます。
 そして、ここで知ったことは、陛下のお許しがない限り、どんな事情があろうと、他人には漏らしません。
 我が血と、我が肉親の血にかけて、誓います!」

 それは、最も重大な、決して違えぬ契約を交わすときに使われる言葉だった。

 ルーシャはキリエと目を見交わし、やがて、フェリスの目を見て大きくうなずいた。

「それでは、話しましょう。
 ……ここにいるウォリスタ伯は、わたくしたちの同志のひとりなのです」

「同志?」

「わたくしたち――《青き薔薇の教団》のね」

 そしてルーシャは、世界の秘密を語り始めた。



――既に、この世から滅び去ったと言われる《魔性》。

《大戦》と《大掃討時代》を経て、彼らは完全に死に絶えたと思われている。

 だが、それは事実ではなかった。

 数を圧倒的に減じはしたものの、まだ、生き残りがいるのだ。

 そいつらは、密かに人間たちのあいだに交じり、再興の時を待っている。

《呪われし者》とは異なり、彼らは《結界》によって力を弱められることもなく、《呪われし者》よりも遥かに巧みに、人間であるかのように偽装して振る舞う。

 人間を圧倒的に凌駕するという彼らの力をもってすれば、派手な争乱を巻き起こし、再び世界の覇権を握ろうとしても不思議はないところだ。
 
 ……だが、それを阻む者たちがいる。

 かつて《大戦》のおり、人間たちを守るために戦い、戦争が終わった後は《黒の呪い》との戦いに生涯を捧げたという大魔術師アレッサ。

 その偉大な魔術師が、《魔性》の生き残りを殲滅するために同志を募り、秘密結社を創立した。


 それが《青き薔薇の教団》。


 皇帝ルーシャその人が、この秘密結社の当代の総帥をつとめている。

 帝国の重鎮の中にも、キリエを含めた、数人のメンバーがいるという。

 教団の者たちは世界中に散り、《魔性》に関わりがあると思われる事件に目を光らせ、正体の知れた《魔性》は秘密裏に抹殺してきた。

 そして今、帝都で《魔性》によるものと思しき殺人事件が続発している。

《青き薔薇の教団》は、総力を挙げて、この事件の解決にあたることとなった――



「……そんな……」

 フェリスの目は、真円に近いほど大きく見開かれている。

「じゃあ……さっきの奴は《呪われし者》じゃなくて……
 あいつの正体こそが《魔性》……!?」

 だが、その瞳に浮かんでいるのは、恐怖ではなく、驚きと、真の敵の正体を知った興奮だ。

 ルーシャは微笑んだ。
 
 自分の人選が間違っていなかったことを喜ぶように。

「でも、皇帝陛下」

 言うフェリスの顔つきは、すでに、冷静に作戦を練る隊長のそれになっている。

「どうして、このことを世界中に公表なさらないんです? 相手の数は、圧倒的に少ないんでしょう?
 民間の協力も得て、一気に敵を叩いたほうがいいのでは?」

「いいえ、それはできません。《魔性》の存在を公表することは、教団の掟によって禁じられているのです」

「――どうしてです!?」

 フェリスの声が、ほぼ半オクターブ高くなる。

 秘密結社と呼ばれるような集団が様々の掟を持つことはフェリスとしても承知だが、今は、掟がどうのと悠長なことを言っている場合ではないのではないか。

 だが、ルーシャの眼差しは揺るがない。

「フェリスさん、あなたも、歴史を学べば分かるはず」

 青い目が、まっすぐにフェリスを見返した。

「《魔性》は、見た目からは、人間とほとんど見分けがつかないのです。
 それだけではない、彼らは《光子》の流れを偽装することさえもするの。
 きわめて優れた魔術師の腕をもってしても、彼らを見分けることは容易ではない。
《大掃討時代》、どれほど多くの罪もない人間たちが、《魔性》狩りの嵐に巻き込まれて命を落としたことか……。
 この過ちを2度と繰り返さないために、我々は、常に秘密裏に行動し、《魔性》の存在を外へは漏らさないことを決めたのです」

 ルーシャのことばに、傍らのキリエが、沈痛な表情で頷いた。

 フェリスは、熱くなった自分を恥じた。

 故郷のリューネにも、表立ってではないにせよ、《黒の呪い》に冒された疑いがある者を避ける、あるいは白い目で見る風潮がある。

 ましてや、帝都の人々には、恐怖に対する耐性が備わっていない。

 もはや時の遺物と思われていた《魔性》が今も存在し、隣人のふりをして潜んでいるかもしれないとなれば、たちまちパニックが巻き起こるだろう。

「分かりました……だから、今度の件も、秘密裏に調査を?」

「そうです。わたくしたちは、これまでずっと密かに内偵を進めてきました」

「もう、怪しい人物は絞り込まれているんですか? ……つまり……」

 一瞬、ためらったが、結局言った。

「ドナーソン将軍とか?」

 驚いたことに、ルーシャは、即座に首を横に振った。

 そして、もっと驚いたことに、こう言ったのだ。

「彼もまた、わたくしたちの同志。《青き薔薇の教団》の一員なのです」



          *



 夜更けの帝都は、ただならぬ気配に満ちみちていた。

 甲高い呼子の音が鳴り響き、武装した兵士たちが石畳の上を駆け抜ける足音と、荒い息遣いが響く。

 いつもは物見高い帝都の市民たちも、さすがに通りに出てこようとはしない。

 息を殺し、わずかに開けた鎧戸の隙間から不安げに道を見下ろしている。

「畜生っ! どっちへ行った!?」

「あっちだ! 曲がるのが見えたぞ……っ」

「いかん、行き止まりだ、引き返せ、そっちだ!」

「くそ! 見失ってしまうぞ!」

 紫のケモノを追い、《輝けるマーズヴェルタ》から出動してきた兵士たちは路地街に入り込み、その複雑さに翻弄されていた。

 魔術師たちがいれば、空から追跡することもできたのだが、彼らは城の守りを固めるため、皇帝の側に残ったままだった。

「ええい、これで敵を取り逃がしたなど、隊の恥! 陛下に申し訳が立たぬわ!」

 息を切らせて足を止め、隊長が、手近の民家の壁に拳を叩きつける。

 そんな彼らの目の前――

 路地の闇の中から、ぬっといくつもの人影が現れた。

「!」

 反射的に剣の柄に手をかける男たちだが、

「……いや、お待ちを」

 先頭に立った影が、ゆっくりと片手を上げた。

 月明かりの中に踏み出してきたその姿は、くたびれた革鎧に身を包んだ、眠そうなしかめっ面の男だった。

 それほどの歳でもなさそうだが、その表情には疲労の色が濃く、ずいぶんと老けて見える。

「俺たちは帝都警備隊、捜査部の者だ。俺は部長のフィネガン・トロウ。
 そちらは、城詰めの方々とお見受けするが?」

「その通りだ」

 隊長は、意識せずに肩をそびやかした。

 帝都警備隊は、市民たちによって組織された集団だが、城の守備兵たちは、そのほとんどが貴族の出身だ。

 任務の上では、あまり関わり合うこともない両者だが、酒場などで出くわすと、いつでもろくなことにならない間柄である。

「《紫のケモノ》を追っているのか?」

「き、貴様、なぜそれを……」

「俺たちだって、仕事はしてるんだ」

 驚く隊長に、フィネガンは不機嫌な声音で吐き捨てた。

「この騒ぎだ。俺の部下たちを街に出させてもらった。……聞こえるだろう」

 言われて耳を澄ませば、城詰めの兵士たちのものとは違う、いくぶんか掠れた呼子の音がいくつも耳に届く。

「市街地の地理には、俺たちのほうが遥かに詳しい。協力させてもらっても構わないだろうな?
 ――こっちも、仲間をやられているんだ。奴とは落とし前を着けなきゃならん」

 下手に出ているようで、その実、有無を言わせないフィネガンの言葉に、隊長は一瞬、言葉に詰まった。

 ここであっさりと帝都警備隊の助けを受け入れてしまっては、まるで、こちらが無能のようである。

 だが、そのような面子にこだわって敵を取り逃がせば、後々、責任問題にもなりかねない。

「……いいだろう」

 迷いは一瞬だった。

 精一杯の威厳を込めて、隊長は頷く。

「帝都を守る志は同じだ。あんたたちの協力、ありがたく受けよう」

「どうも。……アルシャ!」

「はいっ」

 ほとんど怒鳴りつけるようなフィネガンの呼びかけに、ひょろりとした身体つきの青年が進み出る。

「あの笛が分かるな。奴は北へ向かってる」

「北……!? 城のほうへ戻ってるのか!?」

「あるいは、目的地は貴族街か」

 慌てたような隊長の言葉に、フィネガンの唸り声が被さる。

 城の周囲には、貴族たちの屋敷が立ち並ぶ一角があるのだ。

「――アルシャ、奴を目的地にたどり着かせるな!
 お前は第3班、第4班の連中と一緒に、カリアの果物屋の角からジョーセット通りのほうへ進め! 
 俺は、他の連中と一緒に、青の噴水広場のほうから回る。奴を囲み込むんだ!」

「了解しました!」

 叫ぶや否や、ごつい男たちを引き連れ、飛ぶような勢いで駆けていくアルシャ。

「こっちも急ぐぞ!」

「お、おう。出発だ!」

 フィネガンが先頭に立ち、その後に隊長、その部下たち、そして帝都警備隊の面々が続く。

「……こっちだ!」

 時折、呼子の音色の独特な抑揚に耳を澄ましては、複雑な路地を迷わず駆け抜けていくフィネガン。

 入り組んだ路地で犯罪者を取り逃がすことのないよう、帝都警備隊では、呼子の音の抑揚だけで情報のやりとりをする暗号が発達していた。

 やがて、あちこちから、呼子の音が近付いてくる。

 いくつにも分かれた部隊が、順調に、一方向に向けて敵を追い詰めつつあるのだ。

「もう少しだ!」

 そして――

「……あ、部長!?」

 フィネガンたちが到着したとき、一足先にたどり着いていたアルシャたちが、一軒の屋敷を見上げ、固い表情で立ち尽くしていた。

「《紫のケモノ》は、この屋敷の中に姿を消しました……。どう、しますか?」

「ここは……」

             *

 とき流した髪を、夜風が穏やかになぶっていく。

「あー……」

 フェリスは大きく首を回し、ゆったりとした夜着に包まれた肩をごきごきと鳴らした。

 慣れない服装に身をつつみ、堅苦しい動作をしていたせいで、身体中がひどくだるい。

 訓練で汗を流した後や、激しい戦闘の後にも、疲れることは疲れる。

 だが、そういうときの疲れ方のほうが、後がすっきりしていい、とフェリスは思った。

 今夜は、あまりにもたくさんの出来事がありすぎて、なかなか頭の整理がつかない。

(だって、いきなり《魔性》だの《青き薔薇の教団》だのって……
 いくら何でも、話が壮大すぎるってば……)

 髪の先を、くるくると指先でもてあそぶ。

(しかも、ドナーソン将軍も、《無冠の貴公子》キリエも、皇帝陛下に認められた《青き薔薇の教団》のメンバー……
その上、ケモノが出現したとき、キリエはあたしの隣に、ドナーソン将軍は、ティンドロック卿の隣にいた……
 じゃあ、真犯人は、いったい誰なのよ!?)

「――さあ、どうぞ」

「あ、ありがと」

 背後から聞こえた声に、思わずそう答えて、

「あ! ……ごめんなさい」

「いいえ」

 慌てて謝罪したフェリスに酒が入ったグラスを手渡し、キリエは、穏やかに微笑みかけた。

 ここは、ティンドロック卿ガストン・ユーザの屋敷……では、なかった。

《輝けるマーズヴェルタ》の一角――

 最も高貴な客を泊めるための建物のひとつだ。  

 部屋、ではない。建物まるごとが、ひとりの客のために用意される。

 これは、単なる贅沢のためではなく、警備上の工夫でもあった。

 フェリスたちは今、2階のテラスにいるのだが、そこからは完全に闇に沈んでいるように見える庭園のそこここに、眠ることのない弓兵たちが潜み、警戒の目を光らせているはずだ。

 ――あの、あずまやでの会談の後、ルーシャ皇帝は、

『フェリスさん。試合までは、わたくしの家に泊まっておいでなさいな』

 と告げた。

 物柔らかではあるが、提案ではない、命令の口調だった。

『あなたがたは敵の姿を見、そして生き延びた。再び狙われる確立は高いわ。
 ……あなたがたの実力を疑うわけではないけれど、《魔性》は結界によって力を殺がれることもないし、次に狙われたら、生き延びられないかもしれません。
 たとえ、あなたがたが自身の身を守り切ることができたとしても、今度は、あなたがたに近しい人々に、危害が及ぶことも考えられます』

(確かに……)

 上官としての命令でもない限り、他人から頭ごなしに指図されることが大嫌いなフェリスだが、ルーシャの言葉には、首を縦に振らざるを得なかった。

 ティンドロック卿やキャッサ夫人、そして、屋敷にやってくるイーサンたちをも危険に巻き込むことだけは、絶対に避けたい。

 現に、出場者であるラインスの父、クリルが殺されたという前例もあるのだ。

(でも……グウィンにくらいは、居てもらいたかったなぁ……)

 フェリスは、思わず眉をひそめた。

 彼もまた、今ごろは、ガストンやキャッサとともに、屋敷に戻っているはずだ。

 ここの警備が万全であることは判っている。

 それでも、彼が自分の背後を守っている、という感覚がないと、何だか落ち着かなかった。

(あの会談の後、結局、ティンドロック卿たちにも、グウィンにも会わせてもらえなかった……
 この留め置き措置って、もしかして……あたしの身を守る、っていうのと同時に、事件が解決するまでは、あたしが外部の人間と接触しないようにして、秘密が漏れることを防ぐ、っていう意味もあるんじゃないの?)

 渡された酒をひと口含み、顔をしかめる。

(この建物のまわりの見張りだって……確かに、侵入者を防ぐ、って意味もあるんだろうけど、同時に、あたしを外に出さないため、とも考えられるわ……)

「ずいぶんと、難しいお顔をなさっていますね」

 思わず唸ったフェリスに、キリエが、苦笑交じりに声をかける。

「蒸留酒と果汁を混ぜたものですが……私の作った飲み物は、お口に合いませんでしたか?」

「えっ? ……いえ、違うんです。このお酒、とっても美味しいわ。ただ、ちょっと、考え事をしてて……」

「ああ、それなら、良かった」

 キリエは、本当にほっとしたように笑った。

 彼は、フェリスがここに案内されてすぐに、彼女を訪ねてきたのだった。

 特に断る理由もなかったし、さらに詳しい話も聞きたかったので、上がってもらったのだが――

(ちょっと、落ち着かないわね……)

 鳶色の目でじっと見つめられると、何とも言えず居心地が悪かった。

 しかも、よく考えてみると、さっきはもう少しで彼にキスされるところだったのだ。

 そんな相手を、あっさりと部屋に入れるなど、少し無分別だったかもしれない――

「いや、でも、ほんとにびっくりしましたよ!」

 これ以上、沈黙が続いて居心地が悪くなる前にと、フェリスはいきなり、ことさら明るい声でそう言った。

 貴婦人ぶった口調は、とうの昔に払い捨てている。

 いまや、キリエは彼女にとって、御前試合で戦うライバルであると同時に、共に《魔性》の脅威と戦う同志でもあるのだ。

「まさか《魔性》なんてものが出てくるなんて、思ってもみなかったですから!
 いやぁ、想像以上の大ごとになっちゃって、ほんと、びっくりです。ははははは」

「フェリスさん……怖くはないのですか?」

「――怖い?」

 何が、と言わんばかりの表情で繰り返したフェリスに、彼は、苦笑をいっそう深くした。

「なるほど……皇帝陛下が見込まれたのも当然ですね。
 やはり、あなたは、ずば抜けた胆力の持ち主だ。
 普通の貴族の娘ならば、あのような話を聞かされ、近しい人間と引き離されては、とても平静ではいられない。
 よくても不安に苛まれ、悪ければヒステリーを起こして泣き喚くところです」

「まあ……そんなことしたって、疲れるだけで、何の解決にもなりませんしね」

 フェリスは、あっさりと言った。

「でも、平静ってわけじゃないですよ。かなり戸惑ってる、っていうのが正直なところです。
 だって《魔性》なんて、古い物語の中に出てくるだけの存在だと思ってたし……
 まさか、昔の英雄たちみたいに、そいつらと実際に戦うことになるなんて……」

「私も、初めて聞いたときには、ひどく驚いたものです。その晩は、一睡もできなかった」

「じゃあ、あなたも、ルーシャさまから直接、この話を?」

「いいえ」

 キリエは、ゆっくりとかぶりを振った。

 鳶色の目が、じっとフェリスを見つめる。

「私を含め、《青き薔薇の教団》のメンバーのほとんどは、世襲なのです。
 メンバーたちは代々、自分の子の中で見込みがあると思うものにだけ、その秘密を伝えてきた。
 ――私たちは皆、大魔術師アレッサと、その仲間たちの直系の子孫なのですよ」

 フェリスは思わず、まじまじと目の前の若者を見返してしまった。

 500年ものあいだ、血脈とともに秘密を伝え、《魔性》と戦い続けてきた一族の末裔――

 吟遊詩人が語る物語などには、ありがちな設定だ。

 だが、まさか、自分が実際にそんな人物と出会い、ことばを交わすことがあるなどとは、今日の今日まで、想像すらしたことがなかった。

「それは……凄いですね……」

「もちろん、メンバーとして正式に迎え入れられるかどうかは、最終的には、総帥である皇帝陛下の判断にかかっています。
 皇帝陛下のお許しを得て初めて、正式なメンバーの証である《薔薇の紋章》を頂ける。
 先ほど、あなたもご覧になったでしょう?」

 フェリスは、小さく頷いた。



『いまや、わたくしたちの同志は、世界中に散らばっています。
 御覧なさい、フェリスさん。これが、わたくしたちの同志を見分ける印……』

 ルーシャが、すっと腕を上げて手の甲をかざすと、キリエが恭しく近付き、同じように手の甲をかざした。

 すると、2人の手の甲に、青く輝く《薔薇の紋章》がくっきりと浮かび上がったのだ。

『この紋章は、非常に複雑な《光子》の配列から成っており、同じものと出会えば反応し、呼び合うようになっています。
 これを授けることができる者は、ただ1人……《青き薔薇の教団》の総帥だけ――』



「排他的だと思われますか、フェリスさん? ……だが、これは必要なことなのだと、私は思います。
 私たちは皆、世界を揺るがしかねない秘密を、その胸にしまっているのですから」

 言ったキリエの口調には、その一員に選ばれた者としての誇りが滲み出ているようだった。

「同じ紋章を持つ同志のあいだでしか、このような話はしないし、たとえ同志が相手であっても、外部の人間がそばにいるときには、秘密にかかわるような話は、一切してはならないと定められています」

「それじゃあ、あたしは?」

 フェリスは、思わず自分自身を指差した。

「あたしは紋章を持ってないのに、こんな話をしちゃって、大丈夫なんですか?」

「あなたの場合は特例です。皇帝陛下が、自ら秘密をお話しになったのですから」

「…………」

 フェリスは、またも複雑な表情で黙り込む。

(――さっきは、別に何も言われなかったけど……
 これって、事件が一段落したら『ここまで関わったんだし』とか何とか言われて、同志に勧誘されちゃったりするんじゃあ……?)

 他者の知らぬ秘密を、自分だけが知った。

 自分だけが選ばれた――ということで、優越感をくすぐられる者もいるかもしれない。

 だが、フェリスにとっては、そんなものは重荷以外の何者でもなかった。

 もちろんこれまでにも、軍事上の作戦など、ぺらぺら喋ることのできない秘密を抱えたことは何度でもある。

 だが、そんなときはいつも、父や、辺境警備隊の仲間たち、そしてグウィンといった、秘密を分かち合う人々が近くにいてくれた。

(そりゃ、世襲なら、親か子が同じ秘密を共有してるわけだから、いいだろうけど……)

 フェリスの場合は、誰にも話すことができないのだ。

 本当に親しい相手にも話してはならない秘密を持つというのは、思った以上に嫌なものだった。

(せめて、グウィンだけでも、いてくれたらよかったのにな……)

「フェリスさん」

 再び穏やかに呼びかけられ、顔を上げる。

「何を、考えておられるのですか?」

「……何を、って……」

 訊かれて、妙にどぎまぎした。

(グウィン、か……)

 出会ってからこれまで、ほとんどいつでも一緒にいた。

 最近では、うっとうしいと感じることさえもないほど、常に行動を共にするのが当たり前になっていた。

(あいつ……きっと今頃、あたしのこと、あれこれ心配してるんだろうな……)

 その顔を思い浮かべた瞬間、なぜか、急に、心臓の辺りがきゅうっとなった。

(な、何!?)

 ――側にいてほしい。

 話を聞いてほしい。

 会いたい。

(あ……あたし……)

 フェリスは、愕然とした。

 今まで考えもしなかった、自分の中に眠っていた気持ちに、だしぬけに気付いてしまったから。

(嘘……あたし……グウィンのこと……)

 黙り込んだフェリスを、キリエは、静かに見つめていたが、

「――どうやら、私は、早まってしまったようですね」

 やがて、そう呟き、少し寂しげな笑みを浮かべた。

「な、何がですか?」

「あなたの心には、もう、別の男性が住んでいるようだ」

「え」

 一瞬、意表を突かれて。

 次の瞬間、フェリスは、見事に真っ赤になった。

「ち、違う違う、違います! グウィンは、そういうんじゃ……」

 慌てるあまり、語るに落ちている。

「あの魔術師の方は、グウィンさんと仰るのですね」

「だから違いますって〜! ……ん? いや、グウィンていう名前なのはその通りなんですけど、でも、恋人だとかそういうのは、全然……」

「どうか、それ以上は仰らないでください」

 こちらに手のひらを向けて、キリエは呟くように言った。

「あるいは、と、はかない望みを抱いてしまいますから……」 

 フェリスは、何も言えなくなった。

 こんなふうに扱われることには、慣れていなかった。

 彼女が経験豊富な貴婦人であれば、決定的なことばは決して与えることなく、あるいは男をやきもきさせ、あるいはその期待をあおるような気の利いたせりふで、恋の遊戯を楽しむこともできたかもしれない。

 だが、彼女はリューネの娘。

 戦場で敵を陥れることには躊躇しないが、向き合って話すときには、信義を重んじる。

(何て、言えばいいの)

 ごめんなさい、とでも?

 だけど、それじゃ、何だか偉そうだ。

 それ以前に、彼は、果たして本気なのだろうか?

「あー……ええと」

 駄目だ、何を言っても、余計にどつぼに嵌まりそうな予感がする。

 そうだ、話を変えよう。

 ――敵の話をしよう。

「キリエ」

「はい?」

「あなたはこれまでに、実際に《魔性》と戦ったことがありますか?」

「……は?」

 まったく脈絡のない会話の展開に、さすがに意表を突かれたのだろう。キリエが、すっとんきょうな声をあげる。

「いいえ……私自身は、まだ……
 陛下は幾度か、御自ら《魔性》を打ち果たされたことがあると聞いておりますが。
 ――しかし、なぜです?」

「いや……実は、さっきから、ずっと引っかかってることがあるんです。何か、変だなーって」

「変、とは?」

「つまり」

 ひたりとキリエの目を見据え、フェリスは、はっきりと言い放った。

「あいつが、本物の《魔性》なら……あんなに、弱いはずがないんです」

 ――キリエは、今度こそ、度肝を抜かれたようだった。

「弱い……!?」

「だって《魔性》は、人間を遥かに上回る力を持っているはずでしょ? 
《大戦》の時代にたった1人で湖を干上がらせ、街を滅ぼし、森を腐らせた《魔性》の伝説を、いくつも聞いたことがあるわ。
 それなのに、あいつは何? たった2人を殺し損なって、尻尾を巻いて逃げ帰るなんて、考えられない!
 《呪われし者》だって、戦うとなったら、もうちょっと根性を見せるわ……」

 思わず、グウィンと話すときのような口調になって、フェリスは言った。

 そう、いつも、あの黒衣の魔術師と話していると、もつれた糸がほぐれるように、自分の中で、考えがすっきりとまとまってくる。

「あいつ……紫のケモノは、本当に《魔性》なのかしら……?」

「で、では、何だと?」

 キリエは、いまやすっかりフェリスの話に引き込まれているようだ。

 フェリスは、人差し指を立てた。

「……魔術師、ってことは考えられない? 魔術を使って、ケモノの姿に変装していた、とか」

「しかし、庭の警備にあたっていた者たちの中には、魔術の使い手も交じっていたのですよ。
 もしも紫のケモノが魔術師であったとすれば、彼らが、独特の《光子》の流れでそうと見破るはずです」

「そうか……」

 立てた人差し指で、ぽりぽりと頬を掻く。 

「じゃあ……訓練された野獣……? いや、でも、あの目……」

 煉獄の炎を思わせる、禍々しい輝き。

 あの光は、単なる野獣の持ち得るものではなかった。

「――っていうか、そもそも、あいつ、何者なんだろ!?
 《魔性》は偽装が得意……ってことは、普段は人間の姿をしてるの? じゃあ、それは誰?」

 キリエに話しかけるというよりは、口に出して自問自答しているようなものだ。

 いつもなら、グウィンが絶妙な相槌や反駁を差し挟んでくれるのだけれど。

「あー……全然、分からなくなっちゃった。
 あたし、正直言って、今夜までは、ドナーソン将軍か、あなたを疑ってたんです」

「私をですか?」

「だって《無冠の貴公子》なんて……誰よりも優勝に執念を燃やしそうだと思いません?」

「確かに。――ですが、優勝を狙うなら、自分の実力で狙いますよ」

「あたしも、です」

 フェリスが、キリエの目を見据えて言った、そのとき。

「……ウォリスタ伯、フェリスデール嬢!」

 突然、数人の男たちが屋敷の前に駆けてきて、フェリスたちがいるテラスを見上げ、叫んできた。

「皇帝陛下のお召しです。すぐに参上を!」

「え! 今から!?」

「何か、あったのか?」

「――ドナーソン将軍が、逮捕されました!」

 問うたフェリスたちに、男のひとりが答える。

「あやしげな術を用いて獣を操り、出場者を殺めた罪によって、です!
 《紫のケモノ》を追って、城詰めの者たちが、帝都警備隊とともに将軍の屋敷に踏み込んだのです。《ケモノ》は死骸で発見されました。巨大なやつです。
 将軍の屋敷からは、あやしげな魔術に関する書物も発見されました。将軍が黒幕だったことは、おそらく間違いないものと思われます!」

 フェリスとキリエは、顔を見合わせた。



          *



 戦いのときにも、平和のときにも――

 人の営みに関わりなく、朝はやってくる。

 グウィンは、顔を上げた。

「……おう」

 のっそりと書斎の入り口に姿を現し、片手を上げてきたのはガストンだった。

「もう起きとったか、魔術師。……それとも、わしと同じかな?」

 言ったガストンの目の下には、うっすらと隈が浮いていた。

 昨晩、《輝けるマーズヴェルタ》から屋敷に戻って以来、一睡もしていないのだろう。

《紫のケモノ》出現により、一時的に厳戒態勢となり、一切の出入りが禁じられたマーズヴェルタ城だが、その厳戒態勢は、予想よりも早く解かれることとなった。

 その直後に、《紫のケモノ》が死骸となって見つかり、それを操っていた容疑で、ドナーソン将軍が逮捕されたためである。

 城内に留め置かれていた、登城した貴族たちは、早々にそれぞれの屋敷へと帰るように命じられた。

 それはおそらく、皇帝の情報戦略でもあったに違いない。

 ――1番人気の《鉄の男》が逮捕された!

 ――帝都警備隊と、城詰めの兵士たちが協力し、巨悪を暴いた……

 ――ドナーソンは屋敷に化け物を飼い、魔術で操って、ライバルを殺させていた……

 ――《紫のケモノ》の死骸とともに、獣を操る魔術について記した本が、屋敷内で発見され、押収されたそうだ……

 ――もう、外出のたびに怯えることもない! 安心して、新年を祝うことができる……!

 この喜ばしい噂は、貴族たち、その屋敷に勤める使用人たち、そして帝都警備隊の面々の口から速やかに伝わり、朝日も射し初めぬ早朝から、帝都中を駆け巡っていた。

 賑やかな市場の喧騒が、朝の微風に乗って、この屋敷まで届いてくる。

 昨日までは、これほどの賑やかさはなかった。

 皇帝の戦略は、見事に図に当たったと言えるだろう。

 グウィンは、肩をすくめ、小さく頷いた。

「閣下も?」

「ああ……」

 赤い目をしてどっかりと長椅子に腰を下ろし、ガストンは、ごしごしとこめかみを擦った。

「わしには、どうしても信じられんのだ。ドナーソンが、あんな真似をするなど……」

「閣下は、今回の事件が起きたとき、ずっとドナーソン将軍と一緒におられたのでしょう?」

「ああ、そうだ。怪しい振る舞いなど、ひとつもなかったわ。
 わしは、正面切ってあいつを問い質した。今回の事件との関わりの有無をな。
 奴は、ただ『俺をそんな卑怯者と思うのか』とだけ言いおった。
 そしてな……わしは、あいつがそんな男だとは、どうしても思えんのだ!」

「しかし、死骸と、魔術の痕跡が出たとか」

「そんなものは、誰かの陰謀に違いない!」

 どっしりとした低いテーブルを、岩のような拳で叩いて、ガストンは唾を飛ばした。

「確かに、あいつが怪しまれていたことは事実だ。そこに付け込んで、何者かが、あいつを陥れようとしたに違いない!」

「……では……」

 グウィンの鋭い視線が、ガストンを射抜く。

「閣下は……真犯人は他にいると?」

「うむ」

 ガストンもまた、揺らぐことのない真剣な表情でグウィンを見返す。

「魔術師、油断するな。この事件は終わってはおらんぞ。必ず裏がある。
 フェリスちゃんの身も、まだ安全とは言えん……」

 その名を出したとき、ガストンは、お、と声には出さずに目を見開いた。 

 そのとき、苛烈とさえ言えるほどだったグウィンの目の光に、ふっと柔らかさが戻ったような気がしたからだ。

「……そのことについては、心配はしておりません。あいつの身柄は今、陛下の庇護の下にある」

 口から出るのは、そっけなく吐き捨てるような言葉ばかり。

「それに、あいつは、1人で留め置かれたところで、心細いなどと思うようなタマではありませんから」

「だが……行ってやりたいんだろう?」

 ガストンの畳み掛けに、応えはなかった。

 グウィンは視線を外し、厚いカーテンを開いてあった窓の外を見つめる。

 窓の外、彼の視線の先では、フェリスがいるはずの《輝けるマーズヴェルタ》が、朝日の輝きに、その純白の威容を浮かび上がらせていた――

 

         *



 帝都警備隊本部では、ここ1ヶ月で初めて、静かな朝を迎えていた。

 捜査部の詰所からは、せわしなく駆け回る足音も、怒鳴りあう声も聞こえない。

 その代わりに聞こえてくるのは、寝言といびき、そして歯軋りの音だ。

 散らかった空の酒瓶、つまみ、こぼれた酒の跡が、昨夜のどんちゃん騒ぎの様子を物語っている。

 ほとんどの隊員たちが床にぶっ倒れて幸せそうな寝顔を見せ、中には、酒瓶を抱えたままずるずると壁にもたれた姿勢で、そのまま豪快にいびきをかいている者もいた。

 無理もない。

 ここのところ、全員、連日の捜査で眠る間もなかったのだ。  

 だが、昨晩、とうとう《紫のケモノ》が死骸となって発見され、それを操っていたドナーソン将軍が、城詰めの兵士たちに逮捕された。

 ここにいる者たちの大多数が、昨日の突入のメンバーだ。

 通常ならば、貴族の屋敷の敷地内に、帝都警備隊が踏み込むことなどありえないと言っていい。

 しかし、昨夜は城詰めの兵士たちが一緒で、敵が敵だけに、少しでも頭数が多いほうが心強い……というので、異例の共同突入となったのである。

 最初の殺人が起こって以来の帝都警備隊の奮闘も、こうして、ようやく終結のときを迎えたというわけだ。

「……うぅ……」

 茶色の目をだるそうに細め、柔らかそうな髪に指を差し入れてくしゃくしゃとかき回しながら、アルシャ・ベリムはふらふらと起き上がった。

 頭ががんがんする。

 窓の外からは、小鳥の声が聞こえた。

 まだ、日も射し初めぬ明け方だ。
 
 ――と、いうことは、飲み始めてから、それほどの時間は経っていない。

 それなのに、ここまで見事に全員が潰れてしまうとは。

 大勢の隊員たちが、仮眠室から持ち込んだ毛布にくるまり、まるで猫のようにあちこちに固まってぶっ倒れている。

「ひどいもんだなぁ」

 死屍累々、という言葉がぴったりと当てはまりそうなその光景を目にして、アルシャはため息をついた。

 倒れている者の中には、普段、酒豪で鳴らしている面子も交じっていた。
 
 要するに、それだけ皆、疲労が溜まっていたということだ。

「そうだ……水……」

 不意に猛烈な喉の渇きを感じ、アルシャは手近のゴブレットを持ち上げると、倒れている仲間たちを踏まないよう、並んだ机に手をついて身体を支えながら、慎重に歩いていった。 

 部屋の隅にはいつも、水売りから買う、飲料水を入れた壷が据えてあるのだが――

「あっ、くそ」

 蓋を取ってみると、中身はすでに飲み尽くされた後だった。

「……そうだ、部長の部屋……」  

 なぜか代々、部長の執務室には専用の水壷が置かれる慣わしになっていた。

 フィネガンの副官として用を務め、普段から執務室に出入りすることも多いアルシャは、ためらうことなくそちらに足を向ける。

 だが、その入り口を1歩、入ったところで、アルシャの足はぴたりと止まった。

 ――眠っていない者が、もう1人いたのだ。

 この部屋の主である、帝都警備隊捜査部部長、フィネガン・トロウ。

 彼は椅子に深く身体を沈めて宙を睨み、ばしっ、ばしっと音を立てて、拳を手のひらに打ちつけていた。

 完璧に整頓された机の上には、ほとんど減っていない酒を入れたゴブレットが置かれたままになっている。

 アルシャが、その一種異様な気迫に圧され、何も言えずにいるうちに、フィネガンはじろりと視線を向けてきた。

「……他の連中は?」

「皆、幸せな夢の中です」

 言いながら、フィネガンが視線だけで促してくるのに応え、小さく頭を下げて水を汲み、一気に飲み干す。

 酒に焼けた喉を潤してくれる水は、いつになく甘く感じた。
 
 酒そのものよりも、この瞬間の水のほうが美味いと、いつも思う。

「部長は、お飲みにならなかったんですね」

「……気分が乗らん」

「何か、気になる点でも?」

 問うと、フィネガンは、アルシャをじっと見つめてきた。

 相手の酔い具合が、果たして自分の思考についてこられる程度のものかを、慎重に見極めようとするかのように。

「……見ろ」

 やがてフィネガンは小さく手を振り、アルシャは、机の上に置かれているものを見た。

 ゴブレットで押さえられた紙の上に、毛が数本、載っている。

 ――紫色の毛が。

「これは……?」 

「昨晩、城の連中が死骸を持っていく前に切り取ったものだ」

 フィネガンの言葉を聞きながら、アルシャはその1本を手に取り、しげしげと眺めた。

 その、根元のほうだけが、黒かった。

 爪を立て、強く擦る。

 細かいかすのような粉を出して、紫の毛は、半分だけ黒い毛に変わった。

「染めてある……!」

 アルシャは、信じられない、というようにフィネガンを見た。

「では……これは……偽物、ですか!? まさか――」

「これまでは神出鬼没だったケモノが、今回に限って、人間の前に姿を見せた……」

 拳で手のひらを打ちながら、フィネガンは唸るように言った。

「ドナーソン将軍は、最も怪しい1人だと言われていた。
 ケモノが、城にその姿を現し、ドナーソン将軍の屋敷に姿を消し……
 そこで、ケモノの死骸と、魔術の書物が発見される……。
 これまでのやり口の巧みさとは、似ても似つかん失策だ。
 ――気に入らんな! どう考えても、話が出来すぎている」

「では……」

 もはや酔いなど、どこかに吹っ飛んでいる。

 アルシャは慎重に毛を置き、真剣な表情でフィネガンを見つめた。

「部長は、ドナーソンはシロだと?
 ――真の黒幕は別にいて、そいつが、ドナーソン将軍に罪を着せたというのですか?」

 フィネガンは、はっきりと頷いた。

「アルシャ、考えてもみろ。
 誰かが、勝つためにライバルを消して回る。そして優勝する。
 ――さあ、最も怪しいのは誰だ?」

「ゆ、優勝者です……」

「その通りだ。これまでの犯行から見て、犯人は相当に慎重で、抜け目のない奴のはずだ。
 そいつが、そんな間抜けな成り行きを許すと思うか?」

「なるほど! だからこそ真犯人は、試合前のこの時期に、ドナーソン将軍が黒幕だったのだ、という演出をして、自分から疑いの目を逸らそうと……!?」

 そこまで言ったアルシャの目が、限界まで見開かれる。 

「――それでは、危険な犯人が、まだこの帝都に野放しになっているということじゃないですか!?
 こうしてはいられません! すぐに、皆を起こして……!」 

 勢い込んで叫んだアルシャを、素早く上がったフィネガンの手のひらが制する。

「な……」

 アルシャは、口をぱくぱくさせた。

「なぜです、部長! こんな――」

「事件は、もう終わった。……そういうことになったんだ」

 フィネガンは、静かに言った。

「皇帝のお膝元、帝都を揺るがす連続殺人事件……
 早く犯人を挙げなければ、国内外に対して示しがつかん。お偉方は、相当に焦っていたはずだ。
 そこへ、今回の逮捕劇。完璧な筋書きだよ。
 お偉方は、1も2もなくその筋書きに乗った。
 俺たちの手元にある物証は、数本の毛だけ。あとは全て、推測に過ぎん。
 こんな脆弱な証拠で、このうまい筋書きの流れをひっくり返すことなどできん。
 ドナーソン将軍は、数日中に、貴族審問院で裁かれる。
 おそらく、将軍が犯人だったということで事態は決着するだろう。それで、終わりだ」

「そんな!」

 アルシャは思わず、ばんと執務机に両手をついてフィネガンに詰め寄る。

「部長は、それでもいいんですか? 
 無実の者が捕まって、真犯人は野放しのままだなんて!
 出場者が3人殺され、僕たちの仲間も殺されたのに!
 このままでは、クリル・クレッサさんも浮かばれませんよ!
 それに、残されたラインスさんと、ティアさんの気持ちだって……!」

「だから、このことは、誰にも言うな!」

 急に跳ね上がったフィネガンの声量に気圧され、アルシャは口をつぐむ。

 フィネガンは額を押さえ、いっそう深く椅子に身体を沈めると、今度は呟くように言った。

「――アルシャ。これ以上、俺たちには、手が出せん。
 俺たちの仕事は、もう終わったんだ」

 彼は、それきり、もうアルシャの方を見なかった。

「……家に帰れ。久しぶりに、ベッドで眠ってこい」

 それ以上、何と言うこともできず、アルシャは執務室を出た。

 そのまま、隊員たちがぶっ倒れている部屋を突っ切り、がらんとした廊下を通り、本部の建物から出る。

 日の昇った空は、雲ひとつなく青く澄み渡り、久しぶりに戻ってきた平穏を祝うかのように、市場からは賑やかな喧騒が伝わってくる。

 ――この平穏は、偽者なのだ。

 腹の底に感じる勝利の美酒の余韻は、いまやとてつもなく重く、苦いものでしかなかった。

「くそっ!」

 玄関の柱に、拳を叩きつける。

 見上げた空には、朝日に照らされた《輝けるマーズヴェルタ》が、白々と佇んでいた。



         *



「こいつじゃない……!」

 開口一番、フェリスが叫んだ言葉に、周囲からどよめきが沸き起こった。

 ここは、貴族審問院の敷地内に設けられた、遺体安置所だ。

 貴族が関わる事件は、貴族審問院が裁く。

 いわゆる、裁判所である。

 遺体安置所は、殺人などがあった場合、被害者の遺体を証拠として保管するために用いられるが――

 今、フェリスと、そしてキリエの目の前の床に置かれているのは、《紫のケモノ》の死骸だった。

 たった2人、《紫のケモノ》の姿をはっきりと見、そして生き残ったフェリスたちは、死骸の検分のために召喚されたのだった。

 がっと剥き出された牙、凶悪な爪。

 そして、薄暗い蝋燭の明かりにもはっきりと浮かび上がる、紫色の毛皮――

 フェリスは、激しくかぶりを振った。

「あたしが戦った相手は、絶対、こいつじゃありません。確かです!
 そうでしょ、キリエ!?」

 審問官たちのどよめきを意にも介さず、傍らに立ったキリエを見上げる。

 キリエもまた、まじまじと死骸を見ていたが、やがて、審問官たちに向かって、はっきりと首を横に振った。

「ええ、確かに、フェリスさんの仰る通りです。もっと、狼のような姿をした奴でした。
 こいつは、どう見ても違う……」

「そう! それに、目の光が異様だったわ。普通の動物じゃなかった。
 これは、ただの熊じゃないですか!」

 帝都の人間には、馴染みのない獣だろう。

 だが、辺境育ちのフェリスは、幼い頃から何度も熊を見たことがあった。

「……よおっく、ご覧になってくだされよ……?」

 金の筋が三本入った純白のローブ――審問長官の制服をまとった老人が進み出て、なだめるように言った。

「これが、あなた方を襲ったケモノであることは、疑いのないところじゃて。ほれ、爪に、血の跡が」

「そんなの、芝居の化粧と同じよ。塗っておけばすむわ!」

「ほれ、それに、この紫の毛皮……」

「……な……何、これ。染めてある!
 あたし、帝都警備隊の人に、本物のケモノの毛を見せてもらったわ。あれは、染めたものじゃなかった!」

「ほう、そんな報告は、受けておりませんがのう」

 しわの奥に埋もれた審問長官の目が、ぎろりと光った。

「しかし、他の証拠が、これこそ帝都を騒がせた《紫のケモノ》であることを示しておりますぞ。
 ドナーソン将軍の屋敷からは、獣を操り、意のままに動かすための魔術について記した書物が発見されたのです。
 そのための、特殊な道具もですぞ。
 これぞ、決定的な証拠ではありませんかな?」

「でも、こいつじゃない」

 フェリスは、頑強に言った。

 証拠がどうのというようなことなど、フェリスには関係なかった。

 ひとかどの戦士は、己自身の目に頼るもの。

 権威ある者の言葉などで、その確信は揺らがない。

「こいつじゃないんです!
 ――ねえ、本当に、これが屋敷で発見された死骸なんですか?」

「ぶ、無礼な!」

「何ということを!」

 周囲に集まっていた審問官たちが色めき立ち、長官が、しわだらけの拳を振り回して叫んだ。

「言葉を慎まれよ!
 フェリスデール・レイド殿、あなたは、貴族審問院を侮辱なさるおつもりか!?」

「でもっ、どう考えても、おかしいです!
 ――こんなの……」

「フェリスさん!」

 この瞬間、キリエが素早く制止しなければ、フェリスは決定的な一言を発してしまっていただろう。

 こんなの、偽者じゃないですか! という一言を。

 キリエはフェリスの肩を押さえ、耳元に口を寄せて、鋭く囁いてきた。

「堪えて! これ以上、この場でうかつな発言をしては、ドナーソン将軍を庇っていると見なされる。
 あなたまで、逮捕されてしまいますよ!」

「でもっ、こんなの……!」

 フェリスがなおも言い募ろうとしたとき、その目の前に、ずいと灰色の衣に包まれた腕が突き出された。

「――そこまでになさい、フェリスデール・レイド。
 貴族審問院への侮辱は、わたくしが許しません」

「……陛下……!」

 薄い灰色のヴェールの下から、ルーシャの青い目が、斬りつけるような視線でフェリスを一瞥する。

 それだけで、フェリスは口をつぐんだ。

 ルーシャ――皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスは、一転して柔らかな微笑を浮かべると、恭しく頭を下げた審問長官たちにことばをかける。

「ドナーソン将軍の屋敷の者たちへの調べは、進んでいますか?」

「は、もちろんでございます。程なく、将軍の事件への関与を示す証言が出て参りますでしょう」

「次の報告を待っていますよ。
 ――さ、おいでなさい。フェリスデール・レイド、キリエ・フラウス」

 さっと裾をさばき、踵を返したルーシャに、まったく納得のいっていない表情のフェリスと、戸惑ったような顔つきのキリエが続く。

 その後からぞろぞろと、舞踏会の会場にもいた、表情をうかがわせない従僕の男たちが続いた。

 自分よりも少し小柄なルーシャの背をまじまじと見つめて歩きながら、フェリスは、その真意をはかりがたい思いだった。

 ドナーソン将軍は《青き薔薇の教団》の一員――

 すなわち、ルーシャとキリエの同志なのだ。

(そんな人が、濡れ衣を着せられそうになってるのに……
 陛下は、どうして、そんなに落ち着いていらっしゃるんですか!?)

 一同は無言のままに、広い広い庭を通り――

 やがて、行く手に小川と小さな林、そして、その陰に隠れるようにして建った小さな小屋が見えてきた。

(……あ! あそこは……)

《黒檀の間》。

 暗かったときとは、ずいぶんと様子が違って見えるが、あそこは確かに、昨夜、フェリスたちが招き入れられたあずまやに違いなかった。

 ルーシャに付き従ってきた男たちは、何を命じられるまでもなく、あずまやの周囲に展開して歩哨に立つ。

「お入りなさい」

「……失礼します」

 ルーシャにうながされ、フェリスとキリエは、再び《黒檀の間》に足を踏み入れた。

 すすめられるままに、椅子に腰を下ろす。

 ルーシャもまた、自ら椅子を引いて座り、被っていたヴェールを外し――

「ああ、まったく!」

 素顔を見せた、その瞬間、まったく出し抜けにルーシャが叫んだので、2人は思わずびくっとして飛び上がった。

 ルーシャはすんなりとした眉をしかめ、額を押さえて、首を振る。

「困りましたわ……! まさか、このような事態になろうとは。
 あの者たちは、すっかりドナーソン将軍を有罪にする気でいますわね。
 さて、どうしたものかしら?」

 ああ――やっぱり!

 フェリスは、思わず満面の笑みを浮かべそうになって、慌てて表情を引き締めた。

(ルーシャさまは、やっぱり、あたしが思ってた通りの人だった!
 仲間が冤罪で逮捕されたってときに、それを見捨ててのうのうとしてるような人じゃないって、信じてたんだよね!)

「あれは、完全な濡れ衣ですよ!」

 思わず、力のこもった口調で言うフェリス。

「あの死骸は、真っ赤な偽物でした。
 きっと、屋敷で発見されたっていう魔術の本も、死骸と一緒に用意されたものだわ。
 あの人たちか、警備隊か……でなきゃ、他の誰かの陰謀ですよ!
 小細工で、ドナーソン将軍に罪をなすりつけたんです!」

「ええ、そうですわね。……おそらくは、真犯人の仕業でしょう」

 ヴェールを机の上に置き、厳しい表情で、ルーシャ。

 フェリスの隣で、キリエが、ずいと膝を進めた。

「陛下、ドナーソン将軍は、我らの同志です。
 陛下のお力で、彼を救うわけにはいかないのでしょうか?」

 キリエの言葉に、ルーシャは、小さくかぶりを振った。

「貴族審問院は、ドナーソン将軍を起訴する意向を固めています。
 状況は、限りなく彼に不利であると言えるでしょう。
 そして《青き薔薇の教団》の存在を公表することができない以上、この状況で、わたくしが表立って彼を庇護することもできない……」

「でも、あたしたちは、ケモノの姿をはっきりと見てます!
 あたしたちが、審問の場で証言すれば……!」 

「フェリスさん」

 勢い込んで叫ぶフェリスを制し、ルーシャは、静かな口調で続ける。

「貴族審問院の側には『ケモノの死骸』に『魔術の書物』という物的証拠があるのに対して、あなたがたのは、目撃証言だけです。
 月明かりがあるとはいえ、庭園はかなり暗かったわ。
 先ほどのように、見間違いとされて、黙殺されるのが関の山でしょうね」

「そんな!」

「――それに、おそらく、あなたがたは、審問に召喚されることはないでしょう」

 ルーシャの言葉に、フェリスとキリエは、えっ、と同時に顔を見合わせた。

「ど……どうしてです!? あたしたち2人だけが、ケモノを間近ではっきり見たのに!」

「だから、です」

 ルーシャの表情は相変わらず厳しく、その声は、決して激昂することなどないかのように静かだ。

「あなたがたは先ほど、彼らの大事な『証拠品』に疑念を述べ立てました。
 貴族審問院は、早く事件を終わらせたい――
 ドナーソン将軍を有罪にしたくてたまらないのです。
 そのための審問に、自分たちに不利になる証言をする証人を召喚すると思いますか?」

「そんなっ……!」

 あまりにも理不尽な状況に、フェリスは思わず言葉を空回りさせ、口をぱくぱく開け閉めした。

 それでは、裁判などではなく、単なる茶番劇ではないか。

「だっ……だいたい、他にも、おかしいことはたくさんあります!
 これまでは、誰も姿を見たことがなかったケモノが、どうして、昨日に限って、人目も多いし、警備も厳重な城に姿をあらわしたんでしょう?
 ただ単にキリエを殺すつもりなら、屋敷にいるときか、城に向かう途中で襲ったほうが確実だったはずです。
 それなのに、あいつは、わざわざ城に姿を現した。まるで、人々に、その姿を見せ付けるみたいに。
 これだって、どう考えても、不自然ですよ! 芝居がかってる。
 そう、あたしたちは、その芝居に、まんまと乗せられちゃったんだわ!」

 フェリスの推理は、奇しくも帝都警備隊本部でフィネガンとアルシャが交わした会話の完璧な再現であったが、無論、彼女たちには知るよしもない。

 キリエが、大きく頷く。

「私も、フェリスさんの仰るとおりだと思います。
 大勢の人間が、ケモノを目撃しました。あの状況下で、ケモノがドナーソン将軍の屋敷に逃げ込み、そこで魔術の痕跡が発見されれば、誰だって、将軍が犯人だったのだと思うでしょう……。
 それこそが、真犯人の狙いだったのでは?」

「本物の《紫のケモノ》は、まだ捕まってない……
 事件は、まだ終わっていないわ!
 それなのに、勝手に事実を捻じ曲げて話を作っちゃって、自分たちに都合のいい嘘の証拠で、人を有罪にしようなんて……!
 こんなの、絶対おかしい! 陛下、リオネス帝国は、法治国家じゃなかったんですか!?」

 思わず叫んだフェリスを、ルーシャは、その底知れない青い目で見据えた。

「フェリスさん。――だからこそ、彼らに対抗することは難しい」

 ルーシャの静かな顔の前で、フェリスの表情は、目まぐるしく変わった。

 驚き、落胆……そして怒りへと。

 だが、その怒りが言葉となって噴き出す前に、ルーシャは、突然、にっこりと微笑んだ。

「そう、完全な、決定的な証拠……
 動かぬ証拠を、彼らの目の前に、はっきりと突きつけない限りはね」

「……証拠……?」

「そうよ。――確かに、昨夜の逮捕劇はすべて、真犯人が書いた筋書き通りに運びました。
 でも、ただひとつだけ、真犯人にとっての誤算があった。
 ……あなたたちが、生き延びたことです」

「!?」

 再び、目を見合わせるフェリスたち。

 ルーシャは、ほほと笑って、人差し指を立てた。

「考えても御覧なさい。もしも犯人が、大会での優勝を狙っているのならば……
 当日、その者は、必ず、試合の会場に現れる。
 そして、それよりも前に……
 あるいは、試合の会場で、目撃者であるあなたがたを、どうにかして亡き者にしようとするはず……」

「なるほど!」

 ルーシャの言わんとしていることを悟り、フェリスは、目を輝かせて手を打った。

「その時こそが、真犯人をとっ捕まえるチャンス……!
 御前試合の会場が、決戦の場というわけですね!」

「その通りです。
 試合の当日までは、わたくしがルーシャ・ウィル・リオネスの名にかけて、あなたがたの身柄を守り切ります。
 もちろん、要り様のものなど、何でも不自由のないように届けさせましょう。
 ――そして、貴族審問院に掛け合い、判決の日を、御前試合の日以降に延ばさせておきます。
 フェリスさん、ウォリスタ伯。後は、あなたがたが頼りですよ。
 万全の体調で御前試合に臨み、人々の目前で、真実を明らかにするのです!」

「よおぉぉぉぉっし……!」

 ぐんっ! と両の拳を固め、気合いを入れる手付きをして、フェリスは叫んだ。

「燃えてきたぁ!」

 そう、彼女は《辺境の戦乙女》。

 魅力的な男性の前であろうと、皇帝その人の前であろうと、大きな戦いを前にしたときの高揚感を押し殺すことなど、とてもできはしない。

 固めた拳をそのままに、右拳を胸に当てる、帝国陸軍の敬礼をする。

「お任せ下さい、陛下! そいつの優勝は、あたしが阻止します!
《魔性》だか何だか知らないけど、自分が優勝するために、何人も殺したり、他人を陥れようとするなんて、絶対に許せない!
 そんな奴の手に《翼持つ女神の剣》は渡せないわ。
 陛下、あたしは、何があろうと、真っ向から戦ってあの剣を勝ちとってみせます!」

「フェリスさん」

 傍らから、そんな声とともに、フェリスの肩にそっと置かれた手がある。

「私の存在を忘れていただいては困りますね」

 キリエはにっこりと微笑み、その直後に、ぐっと表情を引き締めてきた。

「――無論、私も、同じ心です! あの剣を、余人の手に渡しはしません。
 たとえ《魔性》が相手であろうとも……そして、あなたが相手であろうとも、です!」

「上等……!」

 フェリスは、にいっと笑った。

「そう……」

 そんな2人を見つめ、まるで全てを見通す予言者のように、ルーシャ・ウィル・リオネスは、静かに呟いた。

「全ては、御前試合の場で明らかになることでしょう」



          *



 水面下でうごめく人々の思惑とは何ら関係なく、暦は進み――

 ついに、大晦日の夜がやってきた。

「本当に良かったですねえ、安心してこの夜が迎えられて、本当にまあ……」

「ええ、本当に! 一時はどうなることかと思ったけれどねぇ」

「……母ちゃーん、まだぁ?」

「もうちょっとだろうよ、まあ、おとなしくお待ち……!」

 帝都のあらゆる家々で、窓の鎧戸が開けられ、扉も開け放されている。  

 どの窓、そして扉からも、そこに住む人々が顔を出していた。

 そのわりに、一帯は妙に静かだったが、人々の表情は、不安に息をひそめているという様子ではない。

 むしろ、何かを待ち受けるような、わくわくするような雰囲気が漂っている。

 そんな人々の頭上、軒先を飾るのは、色とりどりの旗、吹流し、蝋を塗りつけた紙の花だ。

「あれ、あたちが作ったの! ねえ、お父ちゃん、あれ! あたちが作ったの!」

「そうかそうか、上手になったなぁ」

 独創的な色合いの花を指差して、必死にぴょんぴょん飛び跳ねている幼い娘の頭を、父親が大きな手で撫でる。

 これらの飾り物は、この夜に備えて、子どもたちが手作りするのが慣わしになっているのだった。

 誉められてすっかりご機嫌になった少女が、父親の手をぐいぐいと引っ張る。

「こっちもよ! こっちのも、あたちが作っ――」

 その時、出し抜けに、鐘の音が響き渡った。

《顔の無い女神》の神殿の大鐘楼で鳴り響く鐘――

 普段から、帝都の人々に時を知らせているものだ。

 俗に「死を司る」といわれる《顔の無い女神》だが、それは、ひとつの側面に過ぎない。

 かの女神は、人がこの世に生を受けてから身罷るまで刻んでゆく「時間」をも象徴しているのだ。

 そして、その鐘の音が響きわたった瞬間。

 帝都の空に、大輪の光の華が弾けた。

「――マーズヴェルタの花火だ!」

 爆発のような歓声が通りに満ちた。

「新しい年に!」

「おめでとう! 新しい年に!」

「おめでとう!」

「新しい年に! 今年もよろしく!」

 唐突に、賑やかな音楽が流れ始める。

 毎年この時期には、隣近所の楽器を持っている者たちが集まり、にわか音楽団を結成するのだ。

 人々がどっと通りに繰り出し、踊り始める。

 この辺りではリッカーチェと呼ばれる、素早いステップを踏みながら2人組でぐるぐると回る踊りである。

 次々に相手が入れ替わり、いつの間にか顔も見たことのない相手と踊っていたということもざらだ。

 祝祭の雰囲気の中では、そんなことも全く気になりはしない。

 深紅、黄金、緑、青。

 人々の頭上では、途切れることなく花火が揚がり続けている。

 幾万もの星が砕けて降り注ぐような、輝く蝶が羽ばたきながら舞い降りるような見事な花火は、マーズヴェルタの城内の、広大な庭園の一角から打ち上げられていた。

《炉を守る女神》に仕える神官たちの、年に一度の晴れ舞台だ。

 踊り疲れた者や、幼い子ども、老人たちは、軒下や窓辺や屋根の上からそれを眺めていた。

 下町の露店では、職人によって調合された光花が売られ、硬貨を握りしめた子どもたちがひっきりなしに買いにきては、踊る人々の足元にぱちぱちと小さな光の花を咲かせている。

 下町よりは気取った風情の、大物商人や貴族の屋敷が並ぶ地区も、例外なく祭りの雰囲気に飲み込まれていた。

 どの門構えにも、工夫をこらした装飾がなされ、どの屋敷の窓にも、宴会の明かりが明々と輝いている――

「……まったくもって、度し難い! リオネス帝国貴族ともあろうものが、神々への挨拶も済ませず、宴にうつつを抜かしておるとはっ」

「まあ、まあ、あなた? せっかく皆さん、楽しんでいらっしゃるのですから……」

 寒さも吹き飛ばしそうな熱弁をふるいつつずかずかと進む巨漢を、傍らを歩く、たおやかな花のような美女が、穏やかにたしなめた。

「……うう、寒ぃ!」

「しーっ! 師匠に聞かれたら、拳骨だぜっ!」

「我慢しろよな。この後、キャッサさんのシチューが食べられるんだからよっ!」

 2人の背後には、ごつい体格の若者たち、たくましい少年たちがぞろぞろと続く。

 一種異様な一団に、道で踊る人々は皆、ぎょっとしたように場所を譲った。

 だが、中にはこちらの顔を見知っている者もおり、次々に挨拶を送ってくる。

「こんばんは、ティンドロック卿! 新しい年に!」

「おお、新しい年に! ……懐かしいだろう、ラインス?」

 ティンドロック卿ガストン・ユーザは、にっと笑って、斜め後ろを歩いていた若者に声をかけた。

「ユーザ剣術道場恒例の、《翼持つ女神》の神殿への初参詣……
 寒い道中の後には、温かいキャッサのシチューが待っている、というわけだ」

「ええ、思い出しますよ」

 ラインスは、小さく笑い返した。

「この前、最後に同行させていただいたのは……確か、俺が警備隊に入る、ひと月前のことでしたね」

「だから、いつも言っとるだろうが! この初参詣はな、効き目があるんだよ。
 ――もちろん、本人に実力がともなっとる場合は、だがな」

 ガストンは、ラインスの肩を強く叩いた。

「明後日の試合、がんばってこい。全力を尽くせよ」

「もちろんです」

 答えたラインスの腕に、そっと絡められた手がある。

 見下ろしたラインスに、ティアがにっこりと笑いかけた。

 暖かい裏打ちをつけたマントをはおり、ティアもまた、この初参詣に同行していたのだ。

 父親を亡くしてから沈みがちであるというティアの気持ちを引き立てよう、という狙いもあったが、もうひとつ、万が一にも、ラインスの目が離れた隙に、ティアが何者かに襲われることがあってはならない、という理由もあった。

 もちろん、どちらの理由も、ティア本人には伏せられてている。

 兄の必勝祈願に、一緒にどうか、というガストンの誘いに、普段、家にこもっていることの多いティアは、大喜びでついてきたのだった。

「ねえ、無理しないでね、お兄ちゃん……」

「心配するな、ティア。必ず、勝って帰ってくる」

「あのね。あたし、フェリスさんにも勝ってほしいけど……正直言うと、やっぱり、お兄ちゃんに優勝してほしいな!」

「大丈夫だ。……お前が、羽をくれたからな」

 ラインスは微笑んで、胸の辺りを叩く。

 今、彼の胸の隠しには、白い羽が何枚も入っていた。

《翼持つ女神》――

 戦闘、勇気、勝利を司るといわれ、1月の守護神でもあるかの女神の神殿では、お守りとして、女神の翼を思わせる純白の羽が売られているのだ。

 神官たちが祈りを込めたものだが、マジックアイテムというよりは、身も蓋もない言い方をすれば、気休めのようなものである。

 だが、親しい者、愛する者から渡された白い羽は、これまでに多くの戦士を勇気付け、その心を奮い立たせてきた――

「……ふん」

 その光景を横目に見て、面白くなさそうに鼻息を吹いたのはイーサンである。

 ティアがラインスを見る眼差しは、彼にはまだ一度も向けられたことのないものだった。

 出場するラインスを、心から応援してやることは、今の彼にはできなかった。

 そんな自分が、ひどく狭量な人間に思えて、ますます腹が立ってくる――

「ラインス! お前は、明日には登城して、試合が終わるまで、あっちに籠もりきりになるんだろう?」

 ガストンの大声が、イーサンの意識を現実に引き戻す。

「ええ、明日の昼には、登城します」

「そのあいだ、ティアちゃんは留守番か?」

「はい」

 そう答えたのは、ティアだ。

「あたし……興奮すると、発作が出やすいから……
 ほんとは、お兄ちゃんの試合、応援しに行きたいんですけど……」

「そうか、そうか」

 ガストンは、大きく頷いた。

「……どうだ、ラインス。お前が城に行っとるあいだ、ティアちゃんのことが心配なら、誰か、見張りをつけてもいいぞ?
 屋敷にかくまってあげてもいいんだが、わしらは当日、お前とフェリスちゃんの応援をしに会場に行くんで、屋敷は空になるからなぁ……」

「ああ、大丈夫です」

 ティアと手を取り合って、ラインスは、はっきりと言った。

「さすがに、ティアを1人で家に残すわけにはいかないので、近所の方の家に泊めてもらえるように、頼んであるんです」

「ベルナおばさんっていう方で……あたしたちに、とても良くしてくださるんです」

「……もちろん、何者かに襲撃される可能性も、ないとは言えません」

 ラインスの表情が、目に見えて引き締まる。

「そこは、部長に無理をお願いして、手を回していただいてます。
 隣の空き家に、警備隊の仲間が見張りについてくれることになっているんです」

「そうか、うむ、よし! それで安心だな。
 さすがだ、ラインス。そういうところにも、ちゃんと気が回るようになったか」

「まあ、貴方、失礼ですわよ? ラインスさんは、もう立派な帝都警備隊の一員なんですもの」

「む? ……おお! そうだったな。すまん、すまん!」

 キャッサの指摘を受けて、わははははは、と豪快に笑うガストンだ。

 イーサンは、ますます、いたたまれないような気持ちになった。

 ラインスの野郎は、まっとうな職に就いて、親父さんが亡くなってからも、ティアが不自由することのないように、暮らしをしっかりと支えている。

 ――それに比べて、俺はどうなんだ?

 実家の店を飛び出してから、その日その日の請け負い仕事をしては、好きな剣術に打ち込んできたが……

 その剣術でも、ラインスやフェリスには敵わないではないか。

 好き勝手のその日暮らしで、家だって、ガストンの屋敷に居候しているような有様だ。

(こりゃ……ラインスの野郎に馬鹿にされるのも、当然かも知れねぇな……)

 こんなふうに自分を振り返るのは、イーサンにとって、初めての経験だった。

 冬風が、妙に身体に沁みるような気がして、彼はずずっと鼻をすすり――

 ごん、と突然、後頭部に重い衝撃を受けて、イーサンはもうちょっとで顔面から石畳に突っ伏すところだった。

「ってぇッ!? ――てめっ……! 殺すぞ!」

「すまんな」

 青筋立てたイーサンに胸倉をつかまれても、グウィンは、平然とした顔つきだ。

 この物静かな魔術師もまた、初参詣の仲間に加わっていたのだが、ほとんど喋らないため、イーサンは、今の今まで彼の存在をほとんど忘れていた。

「お前が何やら不景気な面をしているから、励まそうと思ったのだが」

「ざけんな! 励まそうと思って、後頭部殴るヤツがあるか!」

「リューネではこれは普通だ」

「嘘つけ! 打撃が重かったぞコラ!」

 怒鳴りつつも、飄々としたグウィンの態度に気勢を殺がれ、イーサンはぶつぶつ言いながら相手の胸倉から手を放す。

「……ったく……この場にティアちゃんがいなけりゃ、ギッタギタにしてやってるとこだぜ!」

「できるかな?」

 鋭い金色の目にじろりと見下ろされ、イーサンは、気圧されるのを感じた。

 熟練した魔術師は、声もなく、動作もなく、ただの一瞬で魔術を使う。

 目の前にいる男は、おそらく、その領域に達しているはずだ。

 息詰まる時間が流れる。

 と――

 不意に、グウィンの目つきが和らいだ。

「……女を手に入れたければ、それだけの実力を示すことだ」

「う、うるっせえっ! 俺だってなぁ……!」

 叫び、しかし、その後が続かなかった。

「……俺、だって……」

 何があるのだ? 自分には、何が?

 うつむき、黙り込んだイーサンを気にするでもなく、グウィンは黙々と歩みを進めていたが、

「健闘を祈る」

 やがて、前を向いたまま、ぼそりと呟いた。

 イーサンはちらりとその表情をうかがったが、本気で励ましてくれたのか、それともそうでないのかは、全く判断がつかなかった。

「……ちっ。偉そうに言いやがって」

 勢いをつけるように吐き捨てて、イーサンはいきなり、どかっ! と裏拳でグウィンの二の腕を叩く。

 今度こそ本気で腹を立てたような目つきで振り返ってきたグウィンに、両手を挙げ、にいっと笑ってみせた。

「おっと、怖ぇ顔すんなよ。俺もな、気合い入れてやったんだよ、気合い!
 ……あいつは、そこらの女とは比べ物になんねぇくらい手強いぜ。根性出していけよ!」

「……何の話だ?」

「またまた」

 無表情な魔術師を肘で小突き、囁く。

「その羽。……あいつにだろ?」

 グウィンは何も言わず、視線を下げた。

 ローブのふところから、ほんのわずかに覗いていた白い羽の先を、無言のまま、指先でそっと押し込む。

「やっぱりな。……おい? だけど、どうすんだよ。当日、試合が終わるまで、あいつには会えねえだろ?」

 試合の直前になって妨害工作などの不正が行われることを防ぐために、いったん登城した出場者は、外部の人間とは一切接触してはならないという規則があるのだ。

「……ああ」

「いや……ああ、じゃねーだろ? そういうのは、試合前に渡さなきゃ、意味ねぇだろうが!」

「そうだな」

 呟き、グウィンは、光の華に彩られた白亜の城を見上げる。

 その口の端には、あるかなしかの、微かな笑いが浮かんでいるようだった。



          *



「離れろおっ!」

 シュシュシュシュシュッ……と、導火線が燃える音がする。

 ごつい革のグローブをはめ、濃茶色のローブを着た男たちが、一斉にだだっと下がって地面にしゃがみ込み、耳を押さえた。

 フェリスも一緒に走って離れ、両手で耳を押さえる。

 ズウン! と地面が揺れ、全員が一斉に空を見上げた。

 白い煙が漂い、星々の光も、定かには見えない。

 息詰まる数瞬。

 そして――

 軽やかな破裂音とともに、暗い夜空に大輪の光の花が咲いた。

「おおおおおぉ〜っ!!」

 中央は濃い深紅、縁に近いあたりは淡いピンク、そして最外周は、混じりけのない金。

 見事な色調の移り変わりに、フェリスは子どものように歓声をあげて拍手を送った。

「いやあ、今年はいいね、風もなくてさ!」

 黒光りする――絶えず火を扱う職場にいるからだろう――顔に笑顔を浮かべて、《炉を守る女神》に仕える神官のひとりが言う。

 戦士顔負けの厚い胸板をした彼が、この打ち上げを仕切る神官長だった。

「お嬢ちゃん、怖くないかね?」

「ええ、ちっともです!」

「はっは! 勇気あるなあ!」

 彼は、フェリスのことがすっかり気に入ったようだった。

 今、大勢の貴族たちが、マーズヴェルタのテラスに集まって、この打ち上げを見物している。

 だが、彼らが見惚れるのは夜空に咲く絢爛豪華な光の花にであって、その真下――《五の庭》で奮闘する神官たちの仕事ぶりにではない。

 花火の玉を詰めた筒を運び、地面にしっかりと立てては火を着けて離れる神官たちの動きは、訓練された兵士の一団のように見事なものだった。

 フェリスは目を輝かせて、彼らの素早い動きと、彼らが生み出す光の芸術に見入った。

「凄いですね、これ! どうして、光に色が着くんですか? 魔法?」

「はっは、それはなぁ……っと、いかんいかん! こりゃ、神殿の秘密だった!」

「ええ〜? 教えてくださいよ!」

「うん? ……はっは、そうだなぁ、詳しくは言えんが、魔法じゃないぞ。俺たちの秘伝の技だよ。その昔は、北方のドワーフたちから伝来した技術なんだがな!」

「へえ……!」

 フェリスは、頷きながら、空気に漂う独特のにおいを嗅ぎ分けていた。

(昔、1度だけ爆発を見た、爆裂弾と同じにおいがする……。これって、火薬……? )

 このアレスティア大陸においては「燃える粉」――火薬の扱いは、ドワーフたちの専売特許だ。

 その原料となる岩石の産出地が、彼らの支配圏にしか発見されていないからである。

 ドワーフたちは元来閉鎖的な気質であり、自分たちの権益を貪欲なまでに守ろうとするといわれている。

 また、彼らは人間社会で流通する貨幣にはほとんど関心を持たず、稀少な鉱物や宝石の原石そのもの、または高度な技術で製造された細工物を貴ぶという。

 だがら、人間との交易も盛んではなく、ドワーフたちの技術や生産物が広く流通することはないのだ。

 もしも仮に、火薬をはじめとしたドワーフたちの技術が大陸全土に広まることがあれば、この大陸の勢力図は一気に書き換えられることとなるだろう――

(……っと! いけないいけない。こんなこと、ぼーっと考えてる場合じゃなかった)

 美しい光の芸術が花開く真下にいても、つい、戦略的なことに思考が向いてしまうフェリスだ。

「ありがとう、神官長さま! わがまま言って見学させていただいちゃって……
 すごく勉強になりました。でも、あたし、そろそろ行かなくちゃ」

「おー? そうか、まだまだ、本番はこれからだ。
 こいつは、離れて見るのもいいもんだからな! 俺たちが見られないぶん、しっかり堪能してきてくれ」

「はい!」

 反射的に、拳を胸に当てる敬礼を返したフェリスに、顔を煤で黒く汚した神官たちが、どっと笑った。

「また来年来いよぉ!」

「次の次、特にでかいの行くからな。急いで、いい場所取れよ!」

「はい!」

 ――みんな、いい人ばっかりだな。

 ゆっくりとその場を離れながら、思わず知らずに、顔がにこにこしてしまう。

 彼らを見ていると、リューネで待っている、辺境警備隊の面々を思い出した。

 全員でひとつの大きな家族のようなあたたかい雰囲気と、ひとつの目的に向かって進む者たち特有の団結力が同じなのだ。

(明後日……いや、もう、明日か!
 明日の試合が終わったら……みんなが待ってるリューネに《翼持つ女神の剣》を持って帰るんだ!)

 ――すでに、自分が優勝することが前提になっている。

 ぐっと握りしめた剣の柄が、いつもどおり、自信と落ち着きを与えてくれた。

 そう、今のフェリスはもはや、窮屈なドレス姿ではない。

 城に留め置かれている彼女のために、ルーシャ皇帝が、ティンドロック卿の屋敷に使者を送って、普段身につけている衣服や装備一式を取り寄せてくれたのである。

(いや、ほんと、ありがたいねっ! あーんな格好してうろうろしてたんじゃ、試合までにくたびれ果てちゃうもん。
 陛下には、ほんとに感謝……したい、ところ、なんだけど……)

 ずんずん進んでいた足取りが、ぴたりと止まった。

(これだけが、どうしても、気に入らないんだよねぇ……!)

「あのー」

 歩くうちに、ちょっとした林の中の小路にさしかかっている。

 暗がりの中で、フェリスは恐れ気もなく、前方の闇に向かって呼びかけた。

「任務、お疲れ様です。……でも、あたし、どうも、こういうのに慣れてないっていうか……
 正直言って、すっごく、居心地が悪いんですけど?」

 数瞬の、沈黙。

 そして――

 がさりと音を立てて、茂みの中から、ふたつの人影が姿を現した。

 フェリスは、目を細めてその姿を見極めようとした。

 影に溶けるような黒い衣服を身につけた彼らは、似たような風貌に似たような表情のせいで、くるっと入れ替わったら、どちらがどちらか分からなくなってしまいそうだ。

 ――彼らは、ルーシャの配下のうちの2人であり、フェリスの護衛として、彼女の行く先へはどこへでも音もなくついてくるのだった。

「自分のケツは自分で拭け――じゃなくて、オホン。
 自分の面倒は自分で見ろ、ってのが、リューネの流儀でね。
 あたし、自分の身の安全くらい、自分で守れますよ?」

 腰に手を当て、2人にびしっと指を向けて、フェリス。

 転んだ子どもは自分で立つまで放っておけ、泣いている奴は自分で泣き止むまでそっとしておけ、というのが、リューネ市民の気風だ。

 そんな風潮の中で育ったフェリスにとって、こんなふうに守られるというのは、ありがたいというよりも、むしろ、ありがた迷惑という感覚のほうが強い。

 見分けのつかない男たちは、顔を見合わせ、ついで、おもむろにかぶりを振った。

「……陛下の御命令です」

「……再び襲撃があったとき、御身を危険に晒すわけには参りません」

 彼らの冷静な指摘に、

「う……」

 自分がドレスの裾を踏んですっ転び、あわやという事態になったことを思い出して、思わず苦虫を噛み潰したような顔になるフェリスだ。

「あ、あのときは、ちょっと動きにくい格好だったから……!
 今は、慣れた服を着てるし、ちゃんと武器もあるし!」

「陛下の御命令です」

「御身を危険に晒すわけには参りません」

「……うー……」

 四角四面というか杓子定規というか、判で捺したような回答をする男たちに、フェリスは、むうっと頬を膨らませた。

(何よっ、このあたしが、大丈夫だって言ってるのにっ!)

 持ち前の負けん気が、むらむらと頭をもたげてくる。

 そう、それは、奇妙に懐かしい――

(……ん?)

 ふと心をよぎった奇妙な感覚に、フェリスが首を傾げた、その瞬間。

 木立を揺らし、ひときわ大きな発射音が響き渡った。

「…………!」

 3人は、思わずそちらを振り向き、重なり合う木々のこずえの間から夜空を見上げた。

 乾いた破裂音と同時に、漆黒のベルベットにダイヤモンドをぶちまけたように、銀色のきらめきが空いっぱいに散らばる。

 ひとつひとつがきらきらと輝きながら舞い落ちるその様子は、さながら星が降るようで――

「!」

 夢のような数瞬の後、地上に視線を戻した男たちは、思わず硬直した。

 ほんの数秒のあいだに、彼らの前から、フェリスの姿が消えていたのだ。

 2人は、ものも言わずに駆け出した。

 さすがは皇帝直属の部下、その動きは、常人とは比較にならぬ速度をもっている。

 ざっ、と木立が切れ、2人の目の前に、壮麗な水の塔が現れた。

 大樹のように幾筋にも分かれて降り注ぐ水が、どうどうと滝のような音を響かせている。

《三の庭》の大噴水だ。

「………………」

 男たちは鋭い視線で周囲を見回しながら、ゆっくりと庭の奥のほうへと進んでいった。

 ――彼らの姿が、完全に見えなくなって、さらに十数秒……

「……ふふーん! やったねっ!」

 ガッツポーズなど取りながら、その場に姿を現したのは、言わずと知れたフェリスだった。

 ざばざばと、膝上まである水を分けながら、降り注ぐ水をかぶらないように慎重に、幾重にも重なった水の幕のあいだから身体を滑り出させる。

 彼女は、男たちをまくために、噴水の中に身を隠していたのだった。

「ふっふっ。このあたしに、鬼ごっこだのかくれんぼだので勝とうなんて、100年早……っくしょん! さ、寒ッ!?」

 勢いで噴水の中に潜んだものの、今は、真冬である。しかも深夜だ。

「痛たたたたたた……!」

 水の冷たさで、膝から下が痺れるようになっている。

 フェリスは慌てて噴水の縁を越え、ばたばたとその辺りを走り回った。

 他人に見られたら、正気を疑われかねない行動だ。

 さらに、これで風邪でも引いたら、完全無欠の馬鹿である。

(か……隠れるためなら後先考えないとこって、昔から、全然変わってないかもっ)

 ガイガロス砦でかくれんぼをしていて、巨大な貯水甕の中から出られなくなったり、塔の窓から出て外壁に張り付き、登るも降りるもできなくなって大騒ぎになったりと、数々の武勇伝――というか、迷惑な伝説を残してきたフェリスだった。

(まあ、それは、ずっと小さい頃の話……って、あれ? ……そうでもないか……)

 貯水甕にはまり込んでしまったのは、5、6歳の頃。

 だが、塔の外壁で立ち往生したのは――?

(……あ!)

 不意に、フェリスは先ほどの奇妙な感覚の正体に気付いていた。

『あっち行ってよ! あたしには、守り役なんて要らない!』

『――黙れ。これが俺の任務だ』

(そっか……グウィン、か……)

『何よ、あんたなんか、この砦の中で、あたしについてこられもしないくせに!』

『言ったな。勝負するか? 負けたら大人しくしろよ』

『あんたこそ、負けたら帰ってもらうから!
 かくれんぼで勝負よ。100数えたら、あたしを見つけてごらん! 魔術は反則だからね!』

(ああ……)

 ほろ苦いような、あたたかいような不思議な感覚が、胸に広がった。

(そうだった。それで、塔の窓の外にぶら下がる、なんて無茶苦茶なことをやったんだっけ……)

 しばらくは外壁に取り付いていたものの、未熟な筋力では自分の体重を支えきれず、だんだん指が痺れてきて――

 あわや墜落しそうになったところを、魔術で飛んできたグウィンに、間一髪で救われた。

(でも確かあたし、お礼も言わなかったんだよね……!
 逆に『魔術を使ったから反則だ』とか何とか文句つけて、しばらくゴタゴタやってたっけ……)

 そうだ、あの頃は、彼がどこへでもついてくるのが嫌で嫌で仕方がなかった。

 ――いつからだろう?

 まるで空気のように、この腰にある剣のように、グウィンが側にいるのが当たり前で、いないときには、何だか物足りないと感じられるようになったのは……

(……会いたいなぁ……)

 素直に、そう思った。

 あれこれ喋ったり、特別なことは必要ない。

 いつものように、ただ、そこにいてくれるだけでいい――

(……まっ、試合が終われば、普通に会えるかぁ!)

 フェリスは、手のひらにばしっと拳を叩きつけた。

 この気持ちの切り替えの早さが、フェリスのフェリスたる所以だ。

(よぉーし、そのためにも絶対、優勝しなくちゃ!
 でないと、グウィンにも、ティンドロック卿たちにも、合わせる顔がないもんねっ)

 再び、噴水を見上げる。

 降り注ぐ水を切り裂いて、まっすぐに剣を掲げ、飛沫の中にすっくと立つ《翼持つ女神》――

(どうか……)

 手を組み、目を閉じて、フェリスは祈った。

(どうか、あたしに、あなたの恩寵をお与え下さい。
 揺らがぬ心と、迷いなき剣を。手足には力を、瞳には敵を貫く光を――)

 勝利のために。

 ……一心に祈るフェリスは、まだ、気付いていない。

 彼女を背後から見つめる、一対の視線に。

 じりじりと音もなく近付く、その足取りに。

 そいつは少しずつ、少しずつ、フェリスの背中に迫り――

「!」

 目にも留まらぬ速度で、銀光がひらめいた。

 ギィン!

 振り下ろされた武器を、フェリスの剣が抜き打ちに受け止める。

 闇に小さな光の花が咲いた。

「はッ!」

 相手の攻撃を跳ね除け、フェリスは素早く両手で剣を構え直し、目を細めて相手を睨みつけた。

 紫のケモノ――

 では、ない。

(人間……!?)

 黒いローブのような衣服。無表情な、青白い顔。

 そして、頭の両横に突き出た、ねじくれた2本の角――

(魔性!?)

 そいつは、手にした銀色の杖で再び打ちかかってきた。

「フッ!」

 驚くよりも、考えるよりも先に身体が反応している。

 フェリスは、相手の攻撃のことごとくを受け、払い、かわしてのけた。

 だが――

(殺意が、ない……!?)

 打ち合いながら、フェリスは目を見開いた。

 獰猛な感情がもたらす、かっと体温が上がるような感覚がない。

 代わりに、その場に流れるのは、まるで演武のように、美しく張り詰めた空気――

 ぎゃりんっ! と金属同士が擦れる耳障りな音をたて、2つの武器が再び噛み合う。

 同時、空に、大きな金色の華が弾けた。

 間近に照らし出された敵の顔は、動きのない、青白い――仮面。

 その中から、ふたつの金色の目が、じっとこちらを見つめている。

 フェリスは、あんぐりと口を開けた。

 その隙だらけの一瞬にも、敵は、それ以上打ち込んでくることはなかった。

「グ……グウィン……!?」

 信じられない、というように後ずさって、フェリスは呻いた。

 光の華はすでに散り、辺りには再び暗闇が戻っている。

 だが、間違いない。

 一瞬だけ照らし出された、金色の眼差し。

 そして、見慣れた、まっすぐな銀の杖。

「グウィン……だよね?」

 問いかけても、答えはなかった。

 ただ、静かにこちらを見つめてくるだけ。

「なんで、ここにいるの……!? 禁止されてるはず……」

 それに応えるように、黒いゆるやかな袖に包まれた手が上がって、ローブの懐に差し込まれる。

 フェリスは、反射的に身構えた。

 魔性は、自在に姿を変える。
 
 こいつが、本当にグウィンであるという保証はないのだ。

 もしも、そこに仕込み武器か何かがあるとしたら――

「あ……」

 黒い衣装のひだから、ゆっくりと取り出されたもの。

 それは、真っ白な羽だった。

《翼持つ女神》の神殿で授けられる、戦士の勝利のシンボル――

 無言のまま、すっと差し出されたそれを、フェリスは、夢の中にいるような気持ちで受け取った。

 指先が、ほんのわずかに触れ合う。

 青白い仮面の奥で、金色の目が、細められたような気がした――

「……殿! フェリスデール・レイド殿!」

 近付いてくる声に、弾かれたようにそちらを見たのは、2人、同時。

「行け! 見つかる!」

 フェリスの鋭い声よりも早く、黒いローブ姿は一陣の風とともに舞い上がり、あっという間に夜空に消えていった。

「――あー、ここよーっ! ここ、ここ!」

 剣を収めたフェリスが叫ぶのとほとんど同時に、黒服の男たちが駆けつけてきた。

(ふ……増えてる!?)

 さっきまでは2人だったのに、いつの間にか6人になっていた。

 どうやら、最初の2人が、フェリスを見失って、援軍を呼んだらしい。

 そして、6人に増えても、あいかわらず見分けはつかなかった。

「フェリスデール・レイド殿……陛下の家で無体な振る舞いをしていただいては、困ります」

「あ、あははははは。ごめんなさい!」

 ずい、と真顔で迫られ、笑ってごまかすフェリスである。

 男の視線が、ふと、フェリスの手元に落ちた。

「あ……これ……」

 真っ白な羽――

 危険を顧みず届けられた、自分のためだけの、贈り物。

 フェリスは、それをぎゅっと胸元に押し当てて、にっこりと笑った。

「女神さまが、下さったの」

 勝利への祈り。

 勝利への渇望。

 勝利への執念。

「あたしは、勝つよ、グウィン……」

 全ての者の心を飲み込み、時は刻まれる。



 そして、その日はやってきた。







   8 真実の代償





 リオネス帝国の建国以来、御前試合が行われる場所は、ただ1ヵ所と決まっていた。

 帝都郊外に築かれた、壮麗な白亜の闘技場。

 この巨大な建築物の基部は、歴史家たちによれば《大戦》以前からこの地に存在するもので、今はもう失われた建材や工法が用いられているという。

 だからこそ、最大で6万人という桁外れの人数を収容することができ、興奮した群集の地鳴りのような拍手と足踏みにも揺らぐことさえないのだ。  

 中央に、ほぼ円形をした試合場があり、その周囲を、段々になった観客席がぐるりと取り巻いている。  

 今、そのほとんどが、御前試合を見物につめかけた人々の姿で埋め尽くされていた。  

 この日を心待ちにしていた帝都の市民たちはもちろん、近隣の都市の住民たち、さらには、試合を見物するためだけに、遠方から旅をしてきた者たちもいる。

 民衆のための席とは区切られた貴賓席に居並ぶのは、いずれ劣らぬ帝国の重鎮たち。

 その側には、招待を受けた他国の大使たちも顔を揃えていた。

 貴賓席の一部には、まるで切り取られたように、ぽっかりと無人の区画がある。  

 重武装の兵士たち、魔術師たちに周囲を固められた、その区画の中心には、リオネス帝国の主たる皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスが座を占めていた。  

 今日、ルーシャがまとっているのは、遠目にもあでやかな金襴のドレスだ。

 彼女は、臣下たちにかしずかれ、ゆったりと微笑みをたたえたまま、試合の開催を告げる刻限を待っている。

 観客たちのうち、無言を貫いているのは皇帝その人のみではないかと思われるほど、人々の興奮したざわめきはいよいよ高まり、ついには最高潮に達しようとしていた。

 その内容のほとんどは、出場者たちの下馬評である。

 今にもそこらじゅうで賭けが始まりそうな勢いだが――現に、今頃、非合法の賭博場は大盛況だろう――この会場内では、そういった光景は一切見られなかった。

 通路に、武装した兵士たちが等間隔に立ち並び、周囲に目を光らせている。

 この会場において、御前試合を賭けの対象とすることを、ルーシャは厳重に取り締まらせていた。  

 御前試合は、単なる娯楽のための見世物などではない。

 500年前にこの世界を救った《翼持つ女神》に、最高の剣士たちによる闘いを捧げるための、聖なる儀式なのだ。

「ああ……あなた、どうしましょう」  

 観客席の一角――貴賓席ではなく、市民たちと同じ一角で石段に腰掛け、しきりに首を振りながら言ったのはキャッサだ。

「もうすぐ、始まりますわね。
 ああ、わたくし、今からもう胸がどきどきして、居ても立ってもいられませんわ。
 ティアさんではないけれど、試合が始まったら、倒れてしまいそう。
 ラインスさんのことはもちろんですけれど、わたくしは女ですから、フェリスさんのこと、どうしても心配で――」  

 いつもおっとりとにこやかなキャッサが、こんなことを言い出すのは珍しい。  

 それも無理はなかった。  

 周囲の人々のあいだから漏れ聞こえてくる会話に、しょっちゅう、フェリスの話題が登場するのである。

 リオネス帝国の歴史上、御前試合に女性が出場した例は、皆無ではない。

 だが、それはやはり稀有な事例であり、物珍しさから人々の口の端に上るのも当然のことと言えよう。

「前回、女が出たのは……いつだっけか?  
 えーっと、確か、雪の降らなかった年だから……」

「おう、そうそう、親父が言ってた!  
 そのときも確か、どっかの貴族の娘だったよなぁ」

「そんときゃ、1回戦で負けちまったって。
 まあ、仕方がないやね」

「そりゃ、そうだ! そもそも女が、剣ぶん回して男に勝とうなんてのが無理な話だ。
 今回だって、きっと――いでぇっ!?」  

 ごっ、と重い音がして、一瞬にして涙目になった男が、きっと振り返る。

「おい、殺すぞ!? 何しやが――」

「………………」

「……………………」  

 もともと厳つい顔を限界まで厳つくして睨み下ろすガストンと目が合ってしまった男は、文句の続きを口の中に引っ込め、肩をすぼめて、こそこそと前を向いた。

 「……ふんっ。戦場のにおいを嗅いだこともない若造が、百年早いわ」  

 固めていた岩のような拳を解き、吐き捨てたガストンは、心配そうなキャッサの肩をそっと抱く。

「キャッサ、心配することはない。あの子の強さは、本物だ」

「でも……」  

 ガストンの力強い保証に、寄せていた眉をいくぶんゆるめて、しかし、まだ心配そうに、キャッサ。

「フェリスさんは、確かに、戦場での経験は豊富でしょう。
 けれど、これほど大勢の人に囲まれて試合をするのは、初めてなのではありませんか?
 きっと、とても緊張するでしょうし、実力を出し切ることができるかどうか……」

「そのご心配には及びません」  

 不意にそう言い放ったのは、それまでは無言でガストンの隣に座っていた、グウィンだった。  

 同時に注目してくるガストンとキャッサを、表情を窺わせない金色の目で見返し、彼は静かに続けた。

「……この大観衆が、あいつの味方になるでしょう」  

 夫妻が、顔を見合わせる。  

 ガストンが何事か聞き返そうとして、そのまま口を噤んだ。  

 彼だけではない。

 あれこれとやかましく取り沙汰をしていた周囲の人々全てが、干潟が潮に呑まれるように、次々と言葉を切った。  

 皇帝が、片手を上げている。  

 布告もなく、ただそれだけの動作によって、数万の人間の視線を惹き付け、沈黙させる。  

 ルーシャは微笑み、立ち上がった。

 いよいよ、時が来た。

 彼女は、ずっと、この時を待っていたのだ。



          *



「――おっ?」  

 薄暗い中、一心に型の動作を繰り返していたフェリスは、不意に声を漏らしてきょろきょろした。

 ここに入ってからずっと、途切れることなく伝わってきていた地鳴りのようなどよめきが、波が引くように静まっていくのだ。

 同時、

『フェリスデール・レイド殿!』  

 壁に埋め込まれた伝声管から、係官の声がくっきりと響いた。

「はい!」  

 と、この声が聞こえるたびに思わず返事をしてしまうのだが、相手にそれが聞こえているのかどうかはよく分からない。  

 今フェリスがいる《控えの間》は、石造りの小部屋だった。  

 小部屋といっても、一辺がゆったり十数歩はある。  

 全ての出場者が、今、これとまったく同じ部屋にいるはずだ。

 出入り口は、廊下から入ってくるときに使った小さな扉――今は、しきたりに則って、外からも内からも施錠してある――と、試合場に出て行くための大きな扉のふたつ。

 窓はなく、外の様子は見えない。

 ただ、天井近くにあけられた細い横長の明かり取りのため、薄暗いながらも、不自由はない程度の明るさはあった。

 ここは、出場者本人の他には何人たりとも足を踏み入れることが許されない聖域とされているため、外からの指示は、すべて、伝声管を通して行われる。

『只今、皇帝陛下が、御前試合の開催を宣言されました。
 程なく、入場となります。ご準備を!』

「了っ解っ……!」  

 ついに、来た。  

 フェリスは湧き上がる感情を抑えられずに、兜の下で笑みを浮かべると、手にした剣を勢いよく振るった。

 静謐な空気を刃が切り裂き、ぶんっ、と音を立てる。  

 迷いの欠片もない太刀筋は、いかなる防御をも打ち破る気魄に満ちていたが、今、フェリスが手にしている剣は、真剣ではない。

 リューネ一の腕前とうたわれる鍛冶屋のグラース親方が、マクセスからの依頼を受け、手ずから鍛えてくれた模擬剣だ。  

 フェリスが普段使っている剣と、重さも、重心の位置も寸分違わぬように拵えられている。

 振るっているうちに、思わず、刃を潰した模擬剣であることを忘れてしまうほどの出来映えだ。  

 御前試合には、真剣ではなく模擬剣を用いなければならない――

 このきまりは、第一回目の試合から、ずっと守られてきたものだ。  

 皇帝の御前で真剣を抜くことは許されないからだとか、新年を祝う祭を血で穢すことは不吉だからとか、《翼持つ女神》そのひとが戦場以外での流血を好まないからだとか、色々な説があるが、本当のいわれははっきりしていない。

(でも、とにかく、それがいいよ。うん)  

 ぎゅっと模擬剣の柄を握り、目の前に高々と掲げて、フェリスはひとりごちた。

(このきまりがあったから、あたしは、御前試合に出たいと思ったんだ。
 だって、誰も死ぬことなしに、思いっきり戦うことができるなんて、最高じゃない――!?
 ようし、もう、思いっきり戦って、必ず優勝してやるわ!
 絶対に誰も、あたしを止めることはできない!)

 今の圧倒的な自信を支えるのは、これまでの自分。  

 この日を迎えるまで、毎朝、毎晩、この武装をまとい、この模擬剣を握って、素振りや型の動作を延々と繰り返してきた。

 任務の合間を縫っては、何百回もの練習試合も戦ってきた。

 そんな日々の証として、模擬剣の柄に巻かれた革は擦り切れ、てのひらの形にへこんでいる。  

 ちょうど、本物の愛剣と同じように。

 体調は万全。

 闘志も充分。

 身になじんだ兜に鎧、己の腕の延長のように振るうことのできる剣。

 そして――

『……フェリスデール・レイド殿! 時間です。
 扉が開きます! 御武運を!』

「はいっ!」  

 フェリスは模擬剣を鞘に収め、鎧に覆われた胸の辺りを軽く押さえた。  

 そこには、グウィンから貰った、白い羽がある――

 次の瞬間、ガン、と巨大な掛け金が上げられる音がして、試合場に面する扉が開き始めた。  

 まばゆい光の筋がまっすぐに射し込んできて、フェリスの顔に当たった。

(翼持つ女神さま――)  

 フェリスには、それが、女神からの激励のように感じられた。  

 息を吸うと、全身に白い炎が満ちるような気がした。

(よしっ!)  

 大股に、踏み出していく。  

 怒涛の歓声が耳に届いた。

「うわぁ……!」  

 フェリスの目が輝いた。  

 広大な観客席を埋め尽くす、人、人、人。  

 これほど大勢の人間たちが自分を見下ろしている光景を、フェリスは、今までに見たことがなかった。  

 それは、初出場の者全員がそうであったろう。  

 この状況を可能にする構造を持った建造物は、他に、どこにもないのだから。

(何これ、何これ……! すごいっ! 出陣のときの、真逆みたい!)  

 出場者は《大戦》のおりに降臨した神々にちなみ、12人。  

 皇帝の座所を要として開かれた扇の骨の延長線上にあたる場所に、それぞれの出場者に与えられた《控えの間》があり、今や、そこから――ドナーソン将軍を除いた――すべての出場者が姿を現していた。  

 恒例の12人でないことを不吉とする声も無いではなかったが、これまでにも急な病気や怪我で欠場した例はあったし、《黒の呪い》と関わりを持った者の席を無理に穴埋めするというのも逆に縁起が悪かろうということで、今回は11人の出場者が《翼持つ女神の剣》をかけて戦うこととなったのである。

(そして……この中の誰かが、今回の事件の、真犯人である可能性が高い……)  

 フェリスは鋭い眼差しで、他の出場者たちを見回した。  

 ラインスやキリエの、よく知った顔もある。  

 仮面舞踏会の夜に、ちらりと見かけたような気がする顔もある。  

 そして、今、初めて見る顔もある。

(……そう、そうだよね。今、ごちゃごちゃ考えたって仕方がないわ。  
 今は、余計なことは考えないで――
 ただ、戦って、勝てばいい!)  

 フェリスが、模擬剣の柄をぐっと握り締めたと同時、

『今、ここに集い、戦いを捧げる者の名を《翼持つ女神》に奏し奉る!』  

 誰が発しているのか分からない、豊かな声が響いた。  

 どこからの声なのかも判別がつかないが、これだけの人間が集まった空間の隅々にまで、反響しながら朗々と響き渡っている。

 おそらくは、皇帝の布告官のうち最も良い声をした者と、《拡声》を使うことができる魔術師が組んでの仕事であろう。

『力優れたる戦士、その名は、ガイアス!』  

 名を呼ばれた出場者は拳で胸を叩く仕草をし、観衆は熱狂的な叫びでこれに応えた。  

 出身地も、身分も、家の名も述べずに、ただ戦士の実力を讃え、その者が与えられた名のみで呼ばわるのも、御前試合の伝統だ。  

 同じように、次々と出場者の名が呼ばれていく。  

 順番の決め方は、非常に分かりやすかった。

 年長の者から順に呼ばれるのだ。

 特に人気の高い出場者のときは、続く歓声もいっそう大きなものになった。

 出場者本人の反応は様々で、ルーシャに対して敬礼する者もあれば、観客席に向かって手を振る者、手にした盾をがんがんと叩いて気合いを入れる者、空を仰ぐ者、そのまま微動だにしない者もいる。

『力優れたる戦士、その名は、キリエ!』  

 無冠の貴公子の名が呼ばれた途端、女たちの黄色い声が、男たちの歓声を圧倒しかけた。  

 キリエは優雅に一礼し、ちらりとフェリスのほうを見たようだったが、フェリスは気付かなかった。

(あ、キリエのほうが、ラインスさんより年上なんだ……)  

 そんな、まったくどうでもいいことを心の片隅で思いながら、フェリスは、何度も深呼吸を繰り返していた。  

 頭に血が昇るような、逆に血の気が引いていくような、この感覚。  

 一呼吸ごとに深く、身震いがこみ上げてくる。

 この感覚には、覚えがあった。  

 ガイガロス砦の中庭に面した張り出しで、マクセスの傍らに立ち、初めて、整列した兵士たちの姿を眼下に見下ろした時のこと。  

 全ての兵士たちの眼が、自分に注がれる。  

 自分の一挙手一投足、服装、表情の細部に至るまで、全てが見られているのを感じた。  

 その者の足元からのびる道が、勝利へと続く道か、それともそうではないのかを、一瞬にして見極める厳格な眼差しだ。  

 ――ラインスの名が呼ばれ、湧き上がる歓声に彼が敬礼で応えたことに、フェリスは、ほとんど気付いてもいなかった。  

 目と耳には入っていたのかもしれないが、意識には届いていなかった。

『力優れたる戦士、その名は――』  

 彼女は、全神経を集中し、その瞬間のみを待っていた。  

 最年少にして、この試合で唯一の、女性の出場者。  

 その名が呼ばれた瞬間、一瞬の、全き静寂が訪れることをフェリスは予期していた。  

 そう、初めてあの場所に立った時と、同じように――

『フェリスデール!』  

 フェリスは、顔を上げた。  

 すうっ、と、右手を上げる。  

 その、奇妙にゆったりとした動きを、観客たち全員の視線が吸い寄せられるように追った――  

 ぐん、と伸ばされたその拳は、力強く握られていた。

 観客たちがどよめいた。

 突き上げた拳を、フェリスは、降ろさなかった。

 それは、勝者の仕草。  

 ――勝利宣言。  

 拍手が、波のうねりのように湧き起こって会場中を満たし、やがてそこに歓声と足踏みとが加わって、凄まじいとどろきになった。

「……これは……」  

 周囲にまじって手を叩きながら、感心を通り越して呆れ返ったというように呟いたのはガストンだ。  

 彼の前では、先程フェリスをこき下ろしていた男が、やられた、というように頷きながら、惜しみない拍手を送っている。  

 背後のガストンを気にしてのことではない。  

 フェリスの態度と、彼女が作り出した試合場の空気に、彼もまた呑まれたのだ。

「とんでもないな。あれほどの、クソ度胸……。
 あっという間に、観衆の心を惹き付けてしまいおった……」

「昔からです」  

 グウィンの唇に、かすかな笑みがある。

「あいつには……あいつが必ず勝つのだと、人々に信じさせる力がある。
 力を失いかけた兵士たちが、あいつの言葉で武器を掴み、立ち上がる姿を何度も見ました。
 あいつはいつも、人の心を動かす……」

「まるで皇帝陛下のようだな」  

 思わずそう呟いてから、ガストンは慌てて口を押さえた。  

 場合によっては、不敬罪と糾弾されかねない発言だ。  

 だが幸いなことに、周囲の観客たちは残らず熱狂的な雰囲気に酔いしれており、彼の言葉を聞きとがめた者はいなかったようだった。

「……心置きなく戦え、フェリス」  

 嵐のごとき大歓声の中、誰に聞かれることもない言葉を、グウィンは、静かに口にした。

「ずっとお前が夢見ていた戦いだ。
 お前は、必ず勝つだろう――」



          *



 対戦の組み合わせは、皇帝その人が神意をうかがう意味で籤をひき、その場で決定される。

 ルーシャの白い手が、出場者の名を刻んだメダルを革袋から取り出すたびに、観客のあいだからどよめきが起こった。

「ようし!」

 と、ひいきの戦士が有利と見て喜ぶ者や、

「ちっ、何だよ……初っ端から、やべえなぁ……」

 逆に、応援する相手が強そうな敵とぶつかってしまい、顔を引きつらせる者もいる。

 ――無論、観客たちが皇帝のすぐ側まで寄り、その手元を覗きこんでいる、などというわけではない。

 観客席の一角、ちょうど貴賓席の真正面にあたる場所に、巨大な一枚岩の断面を磨き抜いた、真っ黒な石板が据えられている。

 大人の男が5人、限界まで腕を伸ばして手をつないだら端から端まで届くだろうというほど巨大なものだ。

 今、その巨大な石板の表面に、ルーシャの手元の様子が、めいっぱいに拡大されて映し出されているのだった。

「ねえねえ、お父ちゃん!」

 生まれて初めて御前試合を観にきた幼い少女は、目を丸くして石板を指さし、父親の袖をぐいぐい引っ張った。

 本当に、何の身分もないただの市民であっても、この会場に入ることができるのだ。

 ただし、皇帝からの招待を受ける貴族たちとは違い、市民たちの場合は、収容人数を超えることがないよう、抽選によって入場の可否が決められることになっていた。

 今日、ここに座っている彼女たちは、幸運な人々というわけだ。

「お父ちゃん! あれ、どうやってるの? ねえ。あれ、どうやってあんなふうに映ってるの?」

「あれか? うん、あれはな、魔術だ」

「まじゅつ?」

「そうだ。央の魔術学院の魔術師の人たちが、魔術を使って映してるんだよ。
 皇帝陛下のきれいなお手が映ってるな。
 ……おっ、見てごらん。今度は、別のところが映った。あれは、審判官だ」

 大写しになったのは、試合場の中央に立つ、黄と緑の旗を手にした男だ。

 彼が、御前試合の主席審判官である。

「しんぱん……? しんぱんかんって何?」

「どっちが勝ったか負けたか、よおく見て、教えてくれる人のことだ。
 ほら、見てごらん、旗を持ってるだろう。黄色と、緑と。
 あの旗が上がったほうの戦士が勝ちだ」

「やっつけたら勝ち?」

「そうだよ」

 と、父親はしごく大ざっぱに言ったのだが、実際の勝敗の判定にあたっては、いくつもの細かい規定があるのだった。

 かいつまんで言えば――

 どちらかの戦士が「真剣であったならば致命傷となっていた」と判断される攻撃を相手に加えた場合は、その戦士の一本勝ちとなる。

 また「真剣であったならば相手に手傷を負わせていた」と判断される攻撃を加えれば「有効打」と見なされ、それが幾度か――つまり、真剣同士の戦いであったならば、相手が戦闘不能になるであろうという段階まで――積み重なれば、その戦士の判定勝ちとなる。

 どこまでが「有効打」でどこからが「無効」なのかについても、事細かに決められているのだが、その辺りは、素人目にはほとんど分からないくらいの微妙な条件の差であった。  

 つまり、御前試合の勝敗は、一瞬ごとに移り変わる攻防のさなかで交わされる打撃の軽重、打ち込みの浅さ深さを見極める審判官たちの、目の確かさ、公正さにこそ委ねられていると言ってよい。  

 それゆえに、審判官たちも、この日に備え、出場者たちに負けず劣らずの厳しい鍛錬を積んできている。

 帝国の剣技の最高峰とうたわれる試合だ。

 出場者たちは皆、己の強さに対し、強い誇りを持っている。

 下手な審判を下せば、まず出場者たち自身が黙っていないし、観客たちも石板の映像を通してはっきりと勝負を見ているから、おかしな判定があれば、すぐさま騒ぎ出す。

 つまりこの場は、審判官たちにとっても、一世一代の大勝負の舞台なのである。

「緑、フェリスデール! 黄、リグヴィッツ! 前へ!」

 緑と黄の旗を手にした主席審判官が、勢い込んで叫んだ。

 途端に、観客席から歓声が上がる。

 それぞれの控え室から踏み出してきた戦士が、主席審判官の位置から、それぞれ大股に5歩ほどを隔てて向かい合った。

 その姿が、石板に大きく映し出される。

 くすんだ黄金色の鎧に身を包み、兜をかぶった少女と、黒光りする鎧を着込み、頭に板金をあてた鉢巻を巻いた大柄な戦士と。

 少女の腕には、緑色の布が巻かれている。

 大柄な戦士の腕には、黄色の布が。

 どちらも、盾は持っていない。

 フェリスはただ一振りの剣だけを手にしているのに対し、相手は片手剣と、短剣をそれぞれの手にしていた。

 ふたりは揃ってルーシャのほうを向き、定められた作法の通りに皇帝への最敬礼をする。

(……さあ)

 顔を上げ、武器を構えて相手と向かい合ったとき、フェリスのみどりの目には、火花のような光が宿っていた。

(いよいよ、勝負の始まりよ。
 刃のない剣の名誉にかけて――
《魔性》だろうが、そうじゃなかろうが、あたしが、みんなブッ倒してやる!)

「はじめっ!」

 緑と黄の旗が水平に振られ、審判官の鋭い声が響いた。

「……驚いたな!」

 速攻で片をつけようと飛び出しかけたフェリスは、相手がいきなりそんなふうに話しかけてきたので、もう少しでつんのめるところだった。

 ――いや、それは気持ちの上でだけで、実際には、隙らしいものはほとんど見せていない。

 ほんのわずかに膝を沈めた、それだけだ。

「あんたみたいな若い娘が、俺の相手とはな」

 向き合った戦士――リグヴィッツ?――は、大きな傷痕のある顔に笑顔さえ浮かべて、フェリスを見ている。

 年のころは、30の半ばといったところだろうか。

 見た目だけで言えば、年齢的には、フェリスの父親と言っても通るくらいだ。

「きれいな顔してるなあ。あんた、本当に兵隊なのか?
 噂では、辺境のほうでずいぶんと暴れ回ってるらしいが、とてもそうは見えねえ……」

 リグヴィッツは片手剣をかつぐように構え、短剣は逆手に握り、背中に隠すようにして構えている。

 じりじりとすり足で間合いを詰めてくる動作には緊張が漲っていたが、その口調は、まるで、茶飲み話でもしているかのような呑気さだ。

(え……何、これ)

 フェリスは、戸惑った。

(これが……御前試合?
 まさかね。だって、もしもそうなら、こんな、ちんたらお喋りなんかしてるはず――)

 フェリスが混乱しているあいだにも、リグヴィッツの言葉は続いた。

 あんたみたいな若い娘を、こんな大勢の観客が見ている前でやっつけるのは気の毒だ。

 せめて、あんたがもうちょっと不器量だったら、こんなことも言わないんだが。

 そのきれいな顔に、俺と同じような傷なんか付けちまったら、きっと後々まで寝覚めが悪い……云々。

 ――彼の言葉を聞いているフェリスの眉が、だんだんと、寄ってくる。

 何だろう、これは。

 この時間は、いったい、何なのだろう?

 彼女はそれでも、しばらく、喋り続ける目の前の相手を眺めていた。

 せめてこのあいだに、目の前の相手が真犯人であることを示す証拠でも見つけられないかと、目を皿のようにする。

 だが、見た目や物腰のどこからも、そんな気配は感じられなかった。

 フェリスが微動だにせず見返すあいだに、リグヴィッツの様子が変わり始める。

 すり足で近付くのをやめ、彼は言葉を止めて、フェリスの反応をうかがうように見つめたが、フェリスが何の言葉も返さず、動きも見せないので、居心地悪そうな顔つきになった。

 再びぺらぺらと喋り出す様子は、どことなく、焦っているようにも見える。

 ややあって、

「……あの」

 湧き上がる疑問にとうとう我慢しきれなくなり、フェリスは、唐突に口を開いた。

 視線は外さないまま、審判の方に向かってちょっと首を傾げ、質問する。

「すみません。……この試合って、いつ始まるんですか?」

 前代未聞の問いかけだった。

 主席審判官は、その役目に相応しく、常に冷静さを失わない男であったが、これにはさすがに、二度見するほど驚いた。

 彼はあまりにもびっくりしたために、かえってあっさりと「えっ。さっき」と告げ――

 次の瞬間、再び、度肝を抜かれることとなる。

「え!? ――なんだ!」

 心外そうな声だけが、その場に取り残された、ように思えた。

 ぎぃん! とただ一度、鋼の鳴る音が響いたときには、二人の出場者の身体は、ほぼ密着していた。

 それっきり、どちらも、動かない。  

 いや――

 正確に言えば、そのうちの一人は、もはや、一歩も動くことができなかった。

 鋼でできた模擬剣の切っ先が、鎧にも兜にも覆われていなかった顎の真下を貫く直前、皮膚をぐっとくぼませた状態で、ぴたりと静止していたからだ。

「なんだ!」の一言と、ほぼ同時――

 フェリスは、相手が慌てて振り下ろしてきた切っ先を容易くかわし、凶悪なまでに正確な刺突を繰り出したのである。

 疾風のような動き。

 観客たちに――それどころか、相手にさえ――何が起きたのか悟る暇さえ与えぬほどの、早業だった。

「しょ、勝者! フェリスデール!」

 今、自分の口から出ている言葉が信じられない、という口調で宣言しつつ、主席審判官が、緑の旗を掲げる。

「ありがとうございました!」

 がん、という音がリグヴィッツの鼓膜を打ち、呆然としていた彼は、はっと我に返った。

 自分の手甲を胸甲にぶつけてリグヴィッツに敬礼した少女は、今度はくるりと向きを変え、作法どおりに皇帝に最敬礼をする。

 その動きに慌てて倣いながら、リグヴィッツは、信じられないという目で少女のほうを見ずにはいられなかった。

 向き合った瞬間から、分かってはいた。

 感じられたのだ。

 目の前の少女は、その見た目とは違い、毒蛇のように危険極まりない敵だと。

 ここに立っている以上、リグヴィッツとて凡庸の戦士ではない。

 幾多の戦線を渡り歩き、100人斬りのリグとさえ呼ばれた傭兵だ。

 その彼をして射竦めてしまうほどに、少女が発する気魄、その構えの隙の無さは、尋常ではなかった。

 これは、負ける可能性がある――

 そう感じ取った彼は、せめて、剣を交える前に、その牙から毒を抜いてやろうと試みた。

 こんな小娘に、万が一にも負けるなどということがあったら、傭兵としての名声は地に落ちる。

 彼女くらいの年頃の少女ならば、少し甘い言葉をかければ、心をほだされずにはいないだろう。

 情をかき立て、相手を動き辛くしておいて、油断に乗じ、一気に倒すのだ。

 卑怯だとは、思わなかった。

 頭の固い騎士どもとは違う、これが、傭兵の戦い方だ――

 ……だが、何の効果もなかった。

 恐ろしい速さで肉薄してきた少女に向かって咄嗟に振り下ろした剣は、達人が子どもの一撃をあしらうようにあっさりと、避けられた。

 痺れたようになっていた手を上げ、顎の下に触れてみると、そこには傷はなく、痛みすらもなかった。

 獣が仔を甘噛みするように、少女は彼に、100人斬りと呼ばれた男に対して、手加減をしさえしたのだ。

 それも、絶妙な。

 もしも、あの一撃が全力で加えられていたら、模擬剣といえども、柔らかい皮膚は貫かれ、顎は砕かれていただろう。

 そして、もしも、彼女の武器が真剣であったとしたら。

 彼は間違いなく、先程の一撃で、死んでいた――

(何なんだ……この、ガキは……)

 屈辱より、怒りより、リグヴィッツの足元から起こり、今さらのように全身を震わせる感情があった。

 それは、恐れ。

 ――畏怖。

(動きが速すぎる……! 負けた……完敗だ……!)

 彼は、がっくりと膝をついた。

 事態に全くついていけない様子で沈黙していた観衆が、このときになって、ようやく騒ぎ始めた。

 激しいどよめき。

 やがて、波のうねりが高まるように、幾万もの声が合わさり、繰り返されるひとつの名に変わる。

 ――フェリスデール! フェリスデール! フェリスデール!

 歓呼の爆発の中、フェリスは先程のようにゆっくりと拳を突き上げ、周囲にぐるりと見せつけた。

(……違う……)

 だが、その顔に、勝利の笑みはなかった。

(やっぱり、こいつじゃなかった。こいつがあの《紫のケモノ》なら、こんなに弱いはず、ないもん)

 そして、彼女の表情を曇らせているのは、そのことだけではない。

(これが、ほんとに、御前試合? 帝国の剣技の最高峰……?
 こんなの、リューネの道端で練習試合をするのと、ほとんど変わらないじゃない……
 いや、むしろ、リューネのみんなのほうが強いくらいだよ……)

 せめて、次はもう少し、骨のある奴に当たると良いのだが。

 そう、きっと今のは、10人のうち、一番弱い相手と当たっちゃったんだ。

 次こそは、きっと――

 そんな考えで自分の気を引き立て、フェリスは改めて笑顔を作ると、いまだ大歓声を惜しまない人々に向かって大きく手を振り、控え室へと戻っていった。



          *



「ああ、なんて、素晴らしいのでしょう……!
 ねえ、あなた、今の、ご覧になりまして?
 わたくし、まだ、自分の目が信じられませんわ!
 なんて素早い動き……まるで風のようでしたわね!」

 「……うぅむ……」  

 周囲の観客たちと一緒に立ち上がり、興奮し切った様子で肩を揺さぶってくるキャッサに、ガストンは席に座り込んだまま、唸り声で応えた。  

 目の前で展開された、ほんの一瞬の攻防は、ただその一瞬で《不死身》と謳われた将軍を圧倒した。  

 みぞおちを強く打たれたように、すぐには、立ち上がることができなかった。

(まさか……これほどのものとは……)

 フェリスの戦いぶりを実際に目にする機会は、これまでにも、幾度かあった。

 まずは、初日に、フェリスがイーサンを下した試合。

 そして、門下生たちを相手にした、剣術道場での練習試合だ。

 そのいずれにおいても安定した強さを見せつけていたフェリスだったが、そこで発揮されていた力は、彼女の真の実力の十分の一にも満たなかったのだと、さしものガストンが、今日、このときになるまで気付かなかった。

 道場でのフェリスは、あくまでも「相手が自分の力量を悟ることができるように」「相手が上達するための助けとなるように」試合をしていたのであって、相手を打ち負かそうなどとは、これっぽっちも考えていなかったのだ。

 その彼女が、万全の装備で、相手を倒すことのみを考えて戦うとき、どれほど強くなるのかを、ガストンは初めて知った。

「やれやれ。あの程度の相手では……」

 呆れたような呟きに、ガストンが思わずそちらを見やると、やはり腰を下ろしたまま、呆れたように呟くグウィンの姿があった。

「腕慣らしにもならない。
 そこそこの腕前はあったのでしょうに、観客の目を気にするあまりに――敗れることを恐れるあまりに、出足が鈍ったのですな。
 馬鹿な奴だ。他のことに気を取られて、勝てる相手ではないのに」

「だが」

 ガストンは、思わず反駁せずにはいられなかった。

「これだけの観客に囲まれて試合をせねばならんという条件は、フェリスちゃんも同じだったではないか。
 それなのに、彼女の動き――あの、技の冴えは――」

「あいつは、場慣れしていますから」

「場慣れだと?」

 グウィンがあっさりと口にした言葉に、目を丸くして言い返す。

「フェリスちゃんは、今年が初出場だろうが? 
 それに、帝都に来たのも、今回が初めてで、こんな場所で戦った経験は、一度もないはず――」

「ええ、確かに、そうです。
 だが、あいつは、幼い頃から、見られながら戦うことに慣れている」

 自分の思い違いだろうか、と、ガストンは注意深く耳を傾けた。

 常にどこか傲慢でそっけない態度をとる若い魔術師の声に、どこか、誇らしげな響きがあるように思えたのだ。

「……いえ、慣れているというよりも、それが当然と思っているのでしょう。
 あいつは、初めて戦場に出たときから、ずっと『隊長』という立場だった。
 レイド将軍が、そのように采配なさったのです。
 隊長というのは、常に部下たちから見られる立場だ。
 その言動、表情、あらゆる挙動が注視され……評価される。
 隊長の実力、判断力が、直接的に部隊の士気に関わり、隊長の威厳のあるなしが、そのまま、部隊の規律に反映される。
 ――無論、閣下には、申し上げるまでもないことですが」

「ああ……」

 ガストンは、深い実感を込めて同意した。

 どのような職場にも、上司と部下の関係はある。

 だが、命を預け合う戦場において上官に向けられる兵士たちの目ほど厳格な批評眼は、他にあまりあるまい。  

 へぼな上官の下に配属されれば、自分の命に関わるのだから、それも当然だ。

 単に腕っ節が強いだけとか、戦術・戦略に通じているというだけでは、兵士たちの心を掴むことはできない。

 規則を重んじて、あるいは懲罰を恐れて上辺だけは従ってみせる兵士たちも、いざ命懸けの場面に出くわせば、後足で砂を掛けて逃げ出すか、そうでなければ、やけを起こしてこちらに剣を向けるに決まっているのだ。

 隊長たる者には「この人に従おう、そうすれば生き延びられる、勝利を得ることができる」と、兵士たちに確信させるだけの実力と、カリスマ性とが求められる。

「あいつは幼い頃から、一部隊を預かる隊長として、そのことを叩き込まれて育ちました。
 あいつは戦うとき、本能的に、自分がどう見られるか――いや、「どう見られるべきか」を、計算して動くのです。
 それも無理にではなく、まるで呼吸をするように自然に。
 もともと、それだけの資質があったということでしょう。
 あいつは今では《リューネの戦乙女》《翼持つ女神の再来》とまで讃えられるようになった。
 ひとたび人々の心を掴み、英雄の誉れを勝ち取れば、それがどれほど大きな力になるかを、あいつはよく知っている……」

「将たる器、か……」

 ガストンは、感じ入ったというように頷いた。

「マクセスの教えの賜物だな。
 娘ができたと聞いたときには、奴に人の親などつとまるかどうか、と仲間内で言い合ったものだが……
 存外、やりおるわい。
 もしもわしらに娘があったとしても、とても、フェリスちゃんのようには育てられなんだろう……」

 思わずといった様子でそこまでを口にして、ガストンは、はっと口を噤み、キャッサのほうを見た。

 だが、彼女はすっかり興奮した様子で、隣にいた誰とも知らぬ女性と、今しがたの戦いについて熱く話し合っている。

 ガストンがほっとした表情を浮かべるのを、グウィンは冷静に観察していた。

 ガストンとキャッサには、子どもがいない。

 望まなかったのではなく、できなかったのだと、ユーザ邸で過ごすあいだのちょっとしたやり取りの端々から、グウィンは感じ取っていた。

 あるいは、だからこそ彼らは、剣術道場を開き、幼い子どもたち、若者たちを導き育てることにしたのかもしれない。

 望んでも得られなかった、我が子のかわりに――

「あなた!」

 キャッサ夫人の声が、それぞれの理由で黙り込んでいたガストンとグウィンの意識を、現実に引き戻す。

「ラインスさんが出てきましたわ!」

「何っ! ……おお! よし、行け、ラインス!」

 緑色の布をきりりと腕に巻き、対戦相手と向かい合った教え子に、ガストンは、勢いよく立ち上がって声援を送った。

「そんな野郎はぶんのめし、尻を月まで蹴飛ばしてやれ!
 胸を張ってティアちゃんに報告できるような試合をせんと、承知せんぞっ!?」

 一方、グウィンはその場に腰を下ろしたまま、鋭い目つきで、石板に大写しになった若者の姿を見つめていた。

 あの男は、手強い。

 次の試合、あるいはその次の試合で、フェリスとぶつかる事になるかもしれない。

 奇妙な胸騒ぎがするのを、グウィンは感じていた。

 相手を睨み据えるラインスの目に、たとえ相手を叩き殺すことになったとしても勝つ、と言いたげな覚悟の光がはっきりと見て取れたからだ。

 フェリスが実力で劣るなどとは、考えたこともない。

 ――だが、ティアの一件がある。

 ラインスがどれほど深く妹を愛しているか、そして、あの病弱な少女がどれほど深く兄の勝利を願っているかを、ほんの短いあいだとはいえ、フェリスはその目で見たのだ。

 情に流されて太刀行きを鈍らせるフェリスではない、と、知っている。

 だが、それは戦場に臨んだ場合のこと。

 この試合の場で、彼女が、何を感じ、どう動くのか。

 さしものグウィンにも、読み切ることができなかった。

(勝てよ、フェリス)

 彼の右手は、我知らずローブの懐深くに差し込まれ、そこに収められたものに触れた。

 勝利の祈りを込めた白い羽。

 フェリスに渡した羽の、対となる一枚。

(勝てよ、フェリス……)



          *



 ラインスは、鎧の下、胸のあたりに、温かさを感じたような気がした。

 そこに、ティアが贈ってくれた白い羽があるのだ。

 初めて試合場に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がった光景には、さすがに驚愕した。

 今も、周囲のぐるりを取り巻く階段状の観客席に、人々が隙間なく立ち並び、声を張り上げている。

 今にも将棋倒しに崩れ落ちてきて、こちらを押し潰してしまいそうだ。

 だが、ラインスの心は冷静で、試合場をどよもす大歓声にも、圧倒されることはなかった。

 観客たちの目――この中のどこかにいるはずの、師匠であるガストンの目さえ、ラインスにとっては、重圧とはならなかった。

 彼にとって、意識する相手は、ただひとり。

 この場にはいない、妹ティアだけだ。

 そう、妹がいなければ、ラインスはおそらく、御前試合の場に立つなどということは考えもしないまま、人生を送っていただろう。

 この夢――彼のだけではない、兄妹の夢は、ずっと昔、まだ、子どもだった頃に始まった。

『おにいちゃん……ねえ、おはなしして……』

 幼い頃からベッドで寝つくことが多かったティアは、ラインスが側にいると、いつもそう言ってせがんだ。

 近所の子どもたちと遊んだことや、どこそこに行ったなどという話をすると、ベッドから動くことのできないティアが羨ましがって可哀想だから、神殿で習った《大戦》時代の英雄譚や、名高い姫君たちの物語を話してやることにしていた。

 だが、それもとうとう種切れになると――何しろ、ティアは起き上がれる日のほうが少なく、ほとんどいつでもベッドにいたのだから――ラインスは、自分で作ったおはなしをきかせてやることにした。

『むかしむかし、ラインスという名前の男の子がいました。
 ラインスには、妹がひとりいて、その子はティアという名前でした。
 ティアは、ちょっと体の調子が悪かったけど、とても優しい女の子でした……』

 食い入るように先を待っている妹の前で、ラインスは、ちょっと考えた。

 先をどう続けたらいいか、迷ったのだ。

 昔の英雄たちのように、怪物退治にでも行こうか?

 それとも、辺境の戦士たちのように《呪われし者》と戦うとか?

 でも、それでは、ティアは家で待っているだけの話になってしまう。

 何と言っても、これはおはなしなのだから、最後は「めでたしめでたし」で終わらなければならない。

 もちろん、自分だけじゃなく、妹も――

 そう考えたとき、ふと、心に思い浮かんだのが、ちょうどその年に開催された御前試合のことだった。

 ラインスは大きく頷いて、続きを、一気に語りきった。

『ラインスは、剣の練習をたくさんして、ものすごく強くなりました。
 そして、御前試合に出ることになりました。
 御前試合には、強い相手がたくさんいたけど、ラインスは相手をみんなやっつけて、優勝しました。
 皇帝陛下が、優勝したごほうびに《剣》をくださるとおっしゃると、ラインスは言いました。
 ――ぼく、剣はいりません。そのかわり、妹の病気を治してください。
 皇帝陛下は、いちばん腕のいい魔術師たちを呼んで、ティアの病気を調べて、治してくださいました。
 ティアは元気になって、お兄ちゃんと一緒に、いつまでも幸せに暮らしました。
 めでたし、めでたし!』

『おにいちゃん……それ、ほんと?』

 熱のために潤んだ目で、ティアは兄を見つめた。

『お医者さんは、なおらないって言ってたよ……
 ティアは、こういう体に生まれたから、一生なおらないって』

『絶対に、治る』

 妹の細い細い手を握って、ラインスは言った。

『薬では治らないような病気も、魔術なら、きっと治る。  
 皇帝陛下は、帝国魔術学院っていう、すごい魔術師の人たちが集まって研究する学校を、5つも持っていらっしゃるんだ。  
 だから、きっとその中に、ティアの病気を治せる人がいる』

『ほんと?』

『ほんとだ。兄ちゃん、がんばって練習するから、見てろって。
 あと、4年……いや、8年たったら、きっと――』

 それがどれほど困難なことか、当時のラインスには、漠然としか分かっていなかった。

 その日のうちから、ラインスは、どうやって本格的な剣術を身に付ければいいのか、真剣に考え始めた。

 神殿の学校では、男子には、木剣を使った剣術の基礎を教えてくれる。

 ラインスも、そんな教室のひとつに通っていて、教室の中では最も筋がいいと言われていた。

 だが、神殿で教えてくれるのは、あくまでも子どもの体を鍛え、根性や礼儀作法を身に付けるための「けいこごと」としての剣術だ。

 本気で御前試合を目指すのならば、そんなところに留まっていては駄目だと、ラインスは思った。

 御前試合に出場するのは、ほとんどが貴族の子弟だという。

 彼らは幼い頃から家庭教師に剣術の基礎を習い、たびたび競技会を開いて腕前を競い合い、格式の高い家なら、当代の高名な剣術家を招いて、直接指導を受けたりもするという。

 そんな奴らと渡り合おうとするなら、もっと、みっちりと稽古をしなくては駄目だ――

 我流でやるにも限界がある。

 もっと優れた師匠について、教わるしかない。

 だが、師匠につくということは、金を払って師匠を雇うということであり、また、稽古に使う武具や防具も、自弁が当たり前だった。

 クレッサ家には、そんな金はない。  

 帝都警備隊につとめている父、クリルの給金は、あっという間に、ティアの薬代に消えていく。

 毎月、生活をまかなうのがやっとの額しか残らない中で、剣術の師匠に払う月謝など、出せるはずもなかった。  

 ラインスも、ある程度大きくなると、働いて家計を助けるようになった。

 伝令ギルドの下請けとして手紙の配達をしたり、運河脇の積み下ろし場で荷運びをしたり……

 なるべく持久力や筋力を鍛えることにつながるような仕事を選んだのも、剣術を学んで御前試合に出るという夢に、少しでも近付くためだった。

 だが、日々の仕事はきつく、一日が終われば、疲れ果てて稽古どころではないのが現実だった。

 無理に稽古に時間をあてれば、翌日に疲れが抜けず、仕事でへまをやって、どやされることになるからだ。

(……やはり、軍隊に入るか、警備隊に入るしかないのか……)

 そうすれば、仕事の一部として、必然的に剣術の訓練が組み込まれることになる。

 だが、軍隊に入ることは避けたかった。

 家庭を持たない若者は、真っ先に、遠方の任務に回されるに決まっているからだ。

 国境の砦への勤務などが決まったら、長く家に戻れない。

 そのあいだにティアの身に何かあったら、と思うと、たまらなかった。

 ――そして、帝都警備隊。

 父クリルの職場だったが、当時のラインスにとっては、ある意味では、最も遠い職場だった。

 帝都警備隊の人員の水準は非常に高く、入隊者の選抜試験は、軍隊のそれとは比較にならないほど難しかった。

 入隊するには、筆記試験で一定以上の成績をとらねばならず、そして、これが何よりも問題だったが、剣術、あるいは徒手格闘術のいずれかを修めていることが、入隊の条件だった。

 構成員の多くは、あるていど裕福な商家や職人の次男坊、三男坊たちだ。

 ラインスにとっては、まさしく、負の循環だった!

 貧しい者は、望む場所に向かうための最初の扉の手前で閉め出されてしまう。

 金こそが、扉を開く鍵だった。

 その金がないために、まともな剣術を習うことができず、それゆえに、最後の望みの綱である警備隊への入隊もかなわないのだ。

 どうしようもない現実を前に、焦りだけが募り、自暴自棄になり、荒れかけた時期もあった。

 そんな時だ。

《不死身》と謳われた将軍ガストン・ユーザが退役し、帝都の一角で、子どもたち相手の剣術道場を開くという噂が流れたのは。

 並み居る貴族たちから『ぜひ息子の剣術指南役に』と引く手あまたであったにも関わらず、それらの誘いを全て断り、何の縁故もない市井の子どもたちに門戸を開くというのだ。

 しかも驚いたことに、月謝はとらず、練習のための武具や防具も全て貸し与えるという。

 ラインスは、これこそが神の導きだと思った。

 この千載一遇のチャンスに、自分の全てを懸ける覚悟で、ガストンのもとに赴いた。

 高名なガストン・ユーザ将軍の剣術道場が開かれると聞いて、その日、ユーザ邸の玄関先には入門希望者が殺到していたが、長らく空家であった元富豪の邸宅の、錆びてがたつく門扉に手をかけ、にこやかにガストンが発した最初の言葉は、

『おお、これだけの人数が集まれば、わしらの家の掃除も、あっという間に終わりそうだな!』

 だった。

 蜘蛛の巣払い、家具の運び出し、カーテンの取り替えにタイル磨きが始まった。

 奥方であるキャッサの指示のもと、庭の草花の植え替えや剪定、かまどの灰の掻き出しにあたることになった連中もいた。

 なぜか掃除の合間に突然『駆け足!』というガストンの号令がかかり、屋敷の周りを30周近くも走ったかと思うと、次には鎧戸の拭き掃除、壁紙の張り替えが待っている。

 食事は3度、パンと、チーズか干し肉、野菜スープが、量だけはたっぷり。

 夜は、希望する者は家に戻ってもよいが、翌日の日の出前には、ユーザ邸の庭に集合しておかなくてはならなかった。

 最初の5日間で、入門希望者の半数が、次の5日間で、さらに半数が姿を消した。

 そして、さらに5日が過ぎた朝――

 ぴかぴかになった居間にずらりと並んだ少年たちに、ガストンは言った。

『ここは、わしらの家だ。
 わしはこの場所で、君らに、わしの持てる全てを教えよう』

 ラインスは、自分の目の前で、運命の扉が音を立てて開くのを聞いた。

 食らいつくような向上心でガストンの稽古を受け、ラインスはめきめきと実力を伸ばし、やがて、念願の帝都警備隊に入隊を果たした。

 物静かな父は、報せを聞いて、ただ何度も頷いていたが、ティアはベッドの上で飛び上がるほど喜び、そのせいで発作が出て、しばらくは息もつけなくなってしまったほどだった。

『言っただろ、ティア、ほんとだって』

 ベッドの横で、ラインスは何度も言った。

『兄ちゃんは、これからも練習をがんばる。
 師匠の道場はやめるんだ……
 次の奴に場所を空けてやらなきゃいけないし、警備隊に入ったら、忙しくて通う暇がなくなるから。
 でも、師匠は、迷ったり困ることがあったら、いつでも相談しにきていいって言ってくれてる。
 警備隊には、いろんな流派で戦う奴が集まってるんだ。そこで訓練すれば、今よりも強くなれる。
 俺は、そこで誰よりも強くなって、きっと――』

 妹に、何度も語ってきかせた、夢の舞台。

 そこに今、彼は立っている。

 父の死という、あまりにも大きな代償を支払うことになった。

 それでも、彼は、今日ここに立っていることを、後悔してはいなかった。

 剣を抜き、向き合ったとき、逸る闘争心のあらわれか、相手の顔は激しく引きつり、切っ先は細かく震えていた。

(お前は、何のためにここに立っている?)

 微動だにせず対峙しながら、ラインスは心の中で、構えた盾の向こうに見える対戦相手に問い掛けた。

 その表情は冷ややかに厳しく、まるで神殿の壁の浮き彫りのように揺るぎないものになっていった。

(功名心か? 単に箔をつけたいためか?
 5日ももたずに、師匠の家から消えた奴らのように?
 それなら、俺が、お前に負けるはずはない。
 そんなこと、俺が許さない。
 勝つべきは、お前じゃなく、この俺だ。
 俺は、あいつのために――ティアのために、勝たなくちゃならないんだ――)

 観客たちの声も聞こえなくなり、一切の雑音が遠ざかった空間に審判の声だけが響きわたった瞬間、身体中に爆発的な力が漲った。

 数合の、凄まじい打ち合い。

 やがて甲高い金属音とともに跳ね飛んだ剣が地面に突き刺さり、同時に、緑の旗が高々と掲げられた。



          *



「勝者……ラインス!」

 審判の宣言と同時に、キィンと硬質の音が響いた。

 皇帝が引いた2枚のメダル――対戦する2人の戦士の名が刻まれている――を、試合のあいだじゅう頭上に掲げていた係官が、敗者のメダルを床に落としたのだ。

 その小さな金属音は、すぐ近くの人々の耳にしか聞こえなかっただろうが、その光景は巨大な石板に映し出され、会場中の人々の目に届くようになっている。

 係官は、勝者ラインスの名が刻まれたメダルを皇帝の前に差し出し、確認を求める。

 ルーシャ・ウィル・リオネスが大きく頷いてみせると、彼は進み出て、皇帝の手元の袋に恭しくメダルを戻した。

 何気ない一連の動作だが、これらは全て、第1回の御前試合のときから繰り返されてきた作法に従ってのことだ。

 ルーシャは玉座に深々と身を沈めると、華麗な装飾をほどこされた扇をゆったりと広げた。そして、わずかに首を傾けてみせた。

 視線すらも伴わない、ただそれだけの動作で、侍女のひとりが素早く近付き、皇帝の指示を仰ごうと深く身をかがめる。

 皇帝の侍女たちは皆、黒い服を身につけ、髪を一筋も残さず結い上げて布で覆い、顔には厚く白粉をほどこしていた。

 自前の眉を塗り消し、同じ美しい弧を描く眉化粧をして、唇に同じ色の紅をさした彼女たちの姿は、身長や体格の差をのぞけば、皆同じ人間のように見える。

 その背後に、やはりこちらも見分けのつかない護衛の男たちが控えている様子は、一種異世界的な雰囲気で、見るものを圧倒する。

 折り目正しく控えた侍女に対し、やはりそちらに視線を向けぬまま、ルーシャは、扇で優雅に口元を隠して囁いた。

 その声は、間近に寄った侍女ひとりにしか聞こえぬ程度の、ほんの微かなものだった。

 ――そうでなければ、帝国全土を混乱に陥れるであろう、奇妙極まりない言葉であった。

「お姉様……」

 確かに、そう、彼女は言った。

「宜しいのですか。このまま、計画通りに試合を進めさせても、本当に?」

 只ならぬ発言である。

 リオネス帝国の法は、長子継承を定めている。

 即ち、皇帝に、存命の『姉』が存在することは、あり得ない。

 長子が重い病などで、皇帝の責と権力を担うことに耐えられぬと判断された場合は、その限りではないのだが――

「構いません」

 返答は、すぐにあった。

 玉座についた皇帝ルーシャに、そう許可を与えたのは、あろうことか、彼女の足元に深く身を屈めている侍女であった。

「けれど、お姉様……もしも、あれが、ここで正体を現すようなことがあったら」

「これまで500年を待ったのです。
 状況も整わぬのに、ここで僅かな時を惜しむほど、あれは愚かではない。
 今日はお披露目だけの心算で、失敗すれば早々に切り捨てるわ」

「大使たちはよほど冷や汗をかくでしょうね」

「それで良いのです。試合の流れは、計画通りに。
 あの子が人間世界の英雄となるためには、必要なことですよ」

「そう、ですわね……。そのために、ドナーソン将軍にも……」

「ええ」

 侍女のお仕着せを身に着けたその女性は、顔を上げることなく、静かに言った。

「もう、後戻りはできません。計画は動き出したのです。あとは、事の行く末を見届けるだけよ」



          *



「……分かってますよね?」

 微動だにせず剣を構えながら、フェリスは不敵に言い放った。

 彼女にとっては、これが、3回戦目になる。

 重い鎧を身につけ、刃を潰してあるとはいえ本物と同じ重量を持つ剣で打ち合う試合は、木剣での練習試合などとは違い、体力の消耗が著しい。

 一試合ごとに、剣を振るい、相手の打撃を受けとめる腕にも、体重を支え激しく踏み込み、踏ん張る脚にも、ぬぐえない疲労が蓄積してくる。

 稀に、疲労を感じる神経自体がないのかと疑いたくなるような力押しの戦いぶりを見せ続ける者もいるが、フェリスの戦い方は、ある意味ではその対極にあると言ってよかった。

 とにかく、無駄がないのである。

 1回戦を、ほとんど打ち合いもなしの速攻で勝ち進んだフェリスが、2回戦で当たったのは近衛騎士団の騎士だった。

 近衛騎士団は、皇帝の側近くで警護を担当するエリート戦士の集まりである。

 貴族の中でも家柄がよく、見目もよく、何よりも実力を備えた者だけが入団を許される組織だ。

 1回戦目に当たったのであれば、フェリスが女であるというだけで切っ先が鈍ったかもしれないが、彼女がリグヴィッツを一瞬で倒したという情報は、既に他の全ての出場者に伝わっていた。

 敗れれば名誉に関わる。ゆえに、油断はない。

 その証拠に、盾を持たないフェリスに対して、彼は目の下から腿の半ばまでを守る盾を装備し、会場の御婦人方からの不評をものともせずにそれを押し立て、攻めて攻めて攻めまくるという戦法をとったのである。

 ――それでも。

『勝者、フェリスデール!』

 10合、打ち合ったところで、勝負はついた。

『うーん、悪くはないんだけど……』

 いつもの癖を出して、いきなり講評を入れ始めたフェリスに、相手はあんぐりと口を開け、ものも言えぬ様子だった。

『太刀筋がきれいすぎるんだよね! ……あ、すみません、きれいすぎます。
 近衛騎士団の人って、だいたいエルベリオン流を使うんですよね。あなたは、それがきっちりしすぎてて、次にどう来るかが全部分かっちゃう』

 続けざまに打ち込まれる打撃を流しながら下がったフェリスは、相手が次の型に移ろうとする一瞬の間隙に、急に身を沈めて相手の死角――つまり、突き出された盾の陰に回り込んだ。

 相手が慌てて盾を除け、フェリスの姿を探した時には、時すでに遅し。

 フェリスは彼の足元に絡み付くように背後に回り込み、首を守る鎧と兜との隙間に切っ先を突き立てる姿勢で静止していたのだ。

 脊椎を切断されれば、無論、致命傷である。

 その瞬間に、旗が揚がった。

(……オヤジの言うことも、ほんと、たま〜には役に立つんだよねぇ……)

 フェリスが『御前試合に出たい』と口にし始めてからというもの、ガイガロス砦に新たな顔ぶれがやってくるたび、マクセスは『あいつと練習試合をさせてもらえ』とすすめたものだ。

『敵を打ち負かしたければ、まず、敵について知れと言うだろう?
 色々な流派の型を学べ。その通りにするためじゃない、それを打ち破る技を編み出すためにだ……』

「――あなたも、エルベリオン流かな? それともアーケリオン流? 意表を突いてラクリアン流とか?」

 自分が、そんなふうに喋っていることに、フェリスは驚いていた。

 ああ、そうかと、1回戦目に戦った男――リグヴィッツのことを思い出す。

 思わず口を開いてしまうのは、心の揺れを押し隠すためだ。

 なんという偶然だろう。いや、必然か。

 それもそうだ。相手も、自分も勝ち進めば、どこかの時点で必ず当たることになる。

 こうなることは、最初から分かっていたはずだ。

 それでも、くじに刻まれた名が読み上げられたとき、今までになく、心臓が騒ぎ始めた。

 その感覚は、まだ鎮まってはいない。

「……どれにしたって、あたしを倒すのは難しいですよ。
 本気にならなきゃ、ね!」

「無論です」

 そう答えたのは、目の前の戦士だ。

 今までの対戦相手と比べると細身に見えるのは、鋭利な印象の打ち出し細工をほどこした真っ黒な鎧をまとっているためだろう。

 腕を肩の上に引き上げるようにしてまっすぐに剣を引く構えは、突きを中心とした攻撃の組み立てを予想させる。

 左手にあるのは、盾の代わりに、やや小ぶりの剣。

 何匹もの蛇が絡みつき、鎌首をもたげているような複雑な形状の護拳は、敵の切っ先をそこで受け、絡め取るためだ。

「どうせなら、あなたとは決勝戦でぶつかりたいと思っていましたが――
 これが、神の御意思であるのならば、致し方ありません……」

 黒い鎧の騎士――キリエの言葉に、フェリスは、すうっと息を吸い込んだ。

 2人のやりとりが聞こえているわけもないが、雰囲気から何かを察しているのだろう、観客たちが大きくざわめく。

 もともと根強い人気を誇る《無冠の貴公子》と、彗星のごとく現れて2つの勝ち星を掴み取った《リューネの戦乙女》の戦いだ。

 観客たちの盛り上がりは留まるところを知らず、応援するほうの名を叫ぶ声も交互にきっちり唱和して、会場中が一体となったような熱狂ぶりである。

「フェリスさん。あなたに《翼持つ女神の剣》は渡しません。
 勝つのは、この私です!」

「……ははっ!」

 キリエの宣言に、フェリスは、笑った。

 せせら笑ったのでも、緊張のあまり発作的に笑いが出たのでもない。

(これだよ、これっ!
 あたしはずっと、こういうのが、やりたかったんだよね……!)

 心のどこかに小さく引っかかっていた、遠慮の気持ちが吹き飛んでいく。

「上等ォ……!」

 容易には感情をあらわさない主席審判官が、ぎょっとしたような顔をする。

 フェリスの声は、17歳の娘のものには聞こえなかった。

 狩に臨む獣の、唸り声のように聞こえた。

 次の瞬間、フェリスは躍り掛かった。

 切っ先が、光の弧を描く。キリエの右肩から斜めに斬り下げる軌跡だ。

 澄んだ金属音が上がった。

 キリエの左手の剣が、フェリスの剣をまともに受け止めたのだ。

 同時、キリエの右の突きが、フェリスの脇腹目掛けて繰り出される!

 おおっ! と観客たちが声をあげた。

 突き出されたキリエの切っ先にわずかに鎧を削られながら、フェリスは大きく身を捻って痛打を避けたのだ。

 審判官たちの旗が、ぴくりと揺れた。

 それだけだ。振られても、揚げられてもいない。致命打にはもちろん、有効打にも及ばぬという判断だ。

 偶然に、ではない。フェリスは、そのぎりぎりのところを見切ってかわしたのである。

 キリエの護拳と噛み合ったままだった剣を、彼女はあっという間に引き抜いた。

 縮められたバネが一気に弾けるように、その切っ先がキリエの顔面目掛けて飛ぶ!

 キリエは右の剣でその一撃を受けた。

 手首の返しだけで刀身の位置を入れ替え、同時に踏み込んで、フェリスの攻撃の軌跡を遡るように斜め上から突き込む!

 心臓を狙った「突き返し」だ。

 フェリスは、退がらなかった。

 再び大きく半身を開き、胸の鎧の表面で攻撃を滑らせ、ぶうんと翻した剣で左下からキリエの刀身を跳ね除ける。

 火花が散った。

「ハッ!」

 裂帛の気合いとともに、手元に引き戻した剣をキリエの喉元に突きつける。

 キリエの左手の剣が魔術のような素早さでフェリスの切っ先を阻み、両者は互いに跳び退って距離をとった。

 ――ここでようやく、御婦人方の悲鳴が上がる。

 2人の攻防のあまりの速さに、反応が追いつかなかったのだ。

 他の観客たちも、思い出したように、一斉に息をつく。

 これまでになく白熱する戦いに、多くの者が、呼吸さえ忘れていた。

(さっすが、常に準優勝……なかなかのもんだね!
 これで準優勝なら、ドナーソン将軍って、どんな――)

 呼吸を整えながら、フェリスは頬の内側を軽く噛んで、自分に言い聞かせた。

(いや、余計なことなんか、考えてる場合じゃなかった。
 多分、これって、キリエの実力の全部じゃない……)

 フェリスがそう考えるには、根拠がある。

(だって……こっちだって、まだまだ、小手調べ。
 全部を出し切ってるわけじゃないもんね!)



          *



「あなた、あなた、あなた……どうなりましたの、フェリスさんは?」

「どうも何も、自分の目で、確かめればいいだろうが」

 二の腕にしがみ付き、顔を埋めるようにして問い掛けてくるキャッサに、ガストンはやや閉口したような表情で答えた。

「ひとかどの軍人なら、戦況は、自分の目で確かめるものだぞ」

 と、わざわざ付け足すあたりが彼らしい。

「けれど……わたくし、もう心臓が破れそうで、とても、見ていられませんもの。
 でも、審判の方の声が聞こえませんわ。ということは、まだ大丈夫ですのね?」

 そろそろと顔を上げ、フェリスが油断なく剣を構えてキリエと向き合っているのを見たキャッサがほうと息を漏らすのには構わず、ガストンは、隣に座っていたはずのグウィンを見た。

 興奮で総立ちになった観客たちに合わせるように、今や、彼ら全員が立ち上がっている。

 グウィンはそれだけでは飽き足らず、少しずつ前に出て、いまや自分の段からつんのめって落ちそうなところまで行っていた。

「おい、魔術師」

「はい」

 返事はするが、視線は眼下のフェリスから少しも離さない。

 ガストンは苦笑し、さらに問い掛けた。

「どうだ、副官の目から見て、フェリスちゃんの戦いぶりは。
 キリエが出てきてから、一段と動きが冴えとるじゃないか!」

「いえ、あんなものでは……」

「……何?」

 ぼそりと口にされた、その言葉を、ガストンはもう少しで自分の聞き違いかと思うところだった。

 グウィンは眉を寄せたまま、小さく首を捻る。

「あんなものではない。何故、出し惜しみを……?
 まさか、あの男に手心を……? いや、まさか」

「……おい」

 難しい顔でぶつぶつ呟くグウィンに、さしものガストンが、やや気味悪そうな顔つきになった。

「大丈夫か、魔術師?
 キャッサではないが、お前のほうが、緊張でおかしな具合になっとりゃせんか?」

 ガストンの言葉に、グウィンは答えない。



          *



(そろそろ、いいよね。これが準決勝なわけだし)

 フェリスは、ちらちらと観客たちの様子をうかがった。

 もちろん、視線を目の前のキリエから外すような真似はしない。

 歓声の具合に耳を澄まし、雰囲気を肌で感じ取っている。

 観客席の――皇帝その人が座っているために動けない貴族たちを除いては――ほとんど全員が立ち上がっている。

 その興奮は、これまでで最高潮に達しつつあった。

『いいか、フェリス。力は、じわじわと出すんだ。出し惜しめ』

 御前試合にあたって、マクセスが唯一くれたまともな助言を、フェリスは思い出していた。

『はぁ? 可能な限りの力を一時、一点に集中し、全力をもって一気に敵を征圧するのが戦の常道でしょ?
 どうして、わざわざ力を分散させなくちゃなんないのよ』

『御前試合は、見せるための戦いだからに決まっとるだろうが』

 思い切り口をひん曲げて反論したフェリスに、マクセスは、気に入りのパイプをくゆらせながら、のんびりと答えたものだ。

『フェリス。熊とねずみがまともに戦ったら、どうなると思う』

『へっ? ……それって、なぞなぞ?』

『違う。普通に考えろ』

『普通に……って、そりゃ、熊が勝つでしょ? 決まってるじゃない』

『そんな戦い、見てて面白いか?』

『……面白くない』

 マクセスの言いたいことに気付き、フェリスは顔をしかめた。

『あのね。あたしが、熊だっての? 相手はねずみ?
 天下の御前試合でしょ? そんなヘボい相手ばっかり、集まってくるわけないじゃない』

『ああ、そうだ。フェリス……お前が普段、相手にしとるのは、人間じゃないだろう』

 マクセスの言葉に、フェリスは、ふと気付いた。

『まあ、うん。確かに……もう人間じゃなくなっちゃった相手ばっかりっていうか。
《呪われし者》相手の戦いが多いよね……』

『だからだ。お前は、多分自分では気付いていないと思うが、他の人間とは違う水準で戦っとる。
 その力を一気に出していったら、分かるな?
 強すぎる。勝負が見えてしまう。観客は白ける。
 それでは、御前試合で勝ったということにはならんのだ。
 御前試合で勝つということは、人々の心を掴むということだ。
 このガイガロス砦で隊長をつとめてきたお前なら、その大切さは、分かるな』

『……うん』

 フェリスは、珍しく筋の通った父親の言葉に、これも珍しく、素直に大きく頷いた。

『分かった。
 でも、ものすごく強い相手と当たったら、あたし、最初から飛ばしていくから!』

(1回戦目と、2回戦目は、相手があんまり弱すぎて、本気を出し切る暇もなかったけど……
 この人が相手ならっ!)

 ぐっと気合いをこめて、目の前のキリエを睨みつける。

 本気の試合。

 それこそが、フェリスが憧れてやまなかったことだった。

 本気の戦いとは、違う。

 戦いでは、人が死ぬ。

《呪われし者》は、もとはヒトだ。

 自らすすんでその身に呪いを受ける者たちもいるにはいるが、多くの場合は、望まずに《呪い》に侵されてしまった者たちだ。

 残される人たちがいる。友人、家族たちがいる。

 人々を守るためにと、これ以上の被害を出さないためにと、そんな相手を倒して、

『人殺し!』

 と、罵られたこともあった。

《皆殺し》のフェリスデールとは、《黒の呪い》に侵された者は全て殲滅する、その容赦ない戦いぶりからついた渾名だ。

 勝利を重ねるたびに部下たちは心酔し、ついて来てくれても、どこか、心が痛む――

 だから、何の曇りもない、栄光と名誉だけに輝く、試合での勝利に憧れた。

(キリエ――あなたとなら、そんな勝負ができる気がする。
 ……行くよ!)

 あ、と、審判官たちが息を飲んだ。

 すう、と流れるように斜め下を向いた切っ先を、地面に引き摺るばかりにして、フェリスの身体が一陣の疾風と化す!

「何っ……!?」

 思わず漏れた声は、審判官の誰かのものであったのか、それともキリエのものであったのか。

 残像すら引く速度での連撃がキリエを襲った。

 切っ先は、確かに楕円の軌跡を描いている。突くのではなく振り回しているのに、恐ろしく速い。

 キリエは、得意の突きで対抗しようとした。

 突き出した右の剣の切っ先は、一瞬前までフェリスがいた空間を貫いただけだった。

 風を巻き、横薙ぎに迫る剣に、反応しただけでも大したものだったと言うべきか。

 キリエはほとんど反射的に、歯を食い縛って左手の剣を掲げた。

 その手首、護拳にも守られていない、そして篭手の繋ぎ目にあたる最も弱い部分に、真横からフェリスの剣がぶち当たる!

 骨の砕ける音がして、キリエの顔が大きく歪んだ。

 審判官たちの旗が機械仕掛けのような正確さで、有効打を示す真横に振られ――

「ぅンッ!」

 旋風のごとく一回転して、もう一撃!

 動きの止まったキリエの首を跳ね飛ばす直前で、フェリスの剣は、止まっていた。

「勝者! フェリスデール!」

 静まり返った試合会場に、主席審判官の声が響き渡り――

 フェリスは、ゆっくりと姿勢を戻し、顔を上げた。

 人々は、石と化したように、口を開け、手をだらりと下ろしたまま、見下ろしてきていた。

(嘘……やり、すぎた……?)

 一瞬の昂揚感が、嘘のように冷えていく。

 ――そのときだ。

 不意に、奇妙な物音が、フェリスの耳に届いた。

 ぱた、ぱた、というような、小さく、規則的な音。

 キリエだ。

 キリエが、手を叩いていた。

 フェリスの一撃を受けた左手首の関節は、完全に砕けているだろう。

 その腕を胸の前に引き寄せ、面頬越しにもわかるほど苦痛に顔を歪めながら、彼は、剣を落とすことなく、鞘に収めていた。

 そして、左手の甲を、右の手で叩き、フェリスに拍手を贈っていたのだ。

 貴賓席がざわめいた。

 皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスが、金襴の裾を払って立ち上がったのだ。

 彼女は、手にしていた扇を侍女に手渡した。

 そして、にっこりと目を細め、手を叩き始めた。

 降り始めた雨の音が、はじめはまばらに大地を叩き、やがて大海原の波音のように絶え間ないものとなるように、会場中が、拍手の音に満たされていく。

 万感の思いで、それを浴びていたフェリスの前に、キリエが歩み寄った。

 フェリスは、近付いてくるその姿を、じっと見ていた。

 手を貸すべきところだったかもしれないが、彼女は、どこまでもリューネの戦士だった。

 キリエは敗れたが、まだ、自分の力で歩いている。

 そんな相手に手を貸すことこそ、侮辱だというのが、リューネの考え方だ。

「……フェリスさん……」

 キリエは、右手だけで兜を脱ぐと、堪えきれなくなったようにその場に片膝をついた。

 さすがに一歩、前に出て、フェリスは慌てて剣を収め、兜を取る。

 キリエは乱れた髪を顔から除けようともせず、首を振って呟いた。

「いいえ……翼持つ女神よ。
 あなたと剣を交えることができたことを、私は、光栄に思います」

 そして彼は、ゆっくりと右手を伸ばしてフェリスの手を取り、篭手に覆われた、その手の甲に口付けた。

 いくつも上がった息を呑む音は、彼を崇拝する女性たちのものだったろう。

 フェリスは、まっすぐに彼を見下ろした。

 そして、大きく頷いた。

 その目には、恋する少女の表情も、同情の色も、謝罪の気配もなかった。

 将の目だ。

 尊敬の念をもって、倒れた敵に対する、将の目だった。

「本当にありがとう、キリエ。……あたしは、必ず勝つわ」

 そして彼女は、身を翻す。

 キリエはいつまでもその背を見つめていたが、フェリスがそちらを振り返ることは、もうなかった。



          *



「まずいな……」

 肩まで伸びた髪を両手でくしゃくしゃとかき回して、青年は呟いた。

「あんな女の子なのに……信じられない。なんて強さだ……」

「おい、アルシャ!」

 隣から、両手をわななかせて叫んできたのは、彼――アルシャ・ベリムと所属を同じくする、帝都警備隊・捜査部の仲間たちだった。

「やべぇぞ、あの娘っ子! あの《無冠の貴公子》を、手もなくあしらうなんざ……
 次、あいつが、ラインスと当たるんだろ!?」

「ちくしょう、噂には聞いてたが、辺境の女戦士ってのは、本気で人間離れしてやがる……
 ラインスの野郎、相当、気合い入れて行かなきゃ、ブッ倒されちまうぞ!?」

「くそっ! まずいな。せっかく、ここまで勝ち上がってきたのに……」

「そうですね……」

 動揺を隠し切れない様子の仲間たちと同じく、アルシャもまた、不安に眉を寄せずにはいられなかった。

 だが、すぐにぽんと手を打つと、彼は、できるだけ明るい声で言う。

「あ! でも、ほら! ラインスさんのほうが、有利じゃないですか!
 だって、ラインスさんは、これまでに2試合しかしていないでしょう?
 あっちは今ので3試合目だ。当然、疲れもたまってきてるはずです。
 そこに乗じて一気に畳み掛ければ、勝機はじゅうぶんですよ!」

 ドナーソン将軍の名が消えて、当初予定されていた12人から11人に出場者が減ったことで、勝ち抜き戦の対戦表には、大きな変化がもたらされた。

 つまり、優勝するまでに3度戦うことになる者と、4度戦わねばならない者との差が生まれたのである。

 一度の戦いが肉体に及ぼす疲労度を考えれば、あまりにも大きな差と言わざるを得ないが、こればかりはどうしようもない。

 出場者の組み合わせは、くじによって決まるのだから、全員、運を天に任せるしかなかった。

 先ほどまで勝ち残っていたのは、キリエ、フェリスデール、そしてラインスの3名。

 その3名のうち、キリエとフェリスデールが対戦することとなったため、ラインスは、いわば1戦分、不戦勝をあげることができたわけだ。

「……そ、そうだよな! さすが副長、いいこと言った!」

「ラインスの野郎、毎日、毎日、誰よりも熱心に訓練してたもんな。
 もう、鬼気迫る、って感じの真剣さでよ。
 ありゃあ、そこらの人間に真似のできる境地じゃねえ……!」

「ティアちゃんのためなんだ。勝たせてやりてえよなぁ」

 ラインスが、妹ティアを力づけるためにこの御前試合を目指したことを、全員が知っている。

 だからこそ、普段は隊員たちの私生活にまったく干渉しようとしないフィネガン・トロウ部長が「非番の者は、俺の代理として、ラインスの応援に行ってやれ」と明言しさえしたのだ。

 その言葉どおりに、今日が非番の者全員が昨夜から徹夜で開門待ちの列に並び、入場の抽選を幸運にも突破して、今、この場に顔を揃えている。

「大丈夫だ! ここまで、貴族どもをこてんぱんにやっつけて勝ち上がってきたんじゃねえか。
 実力と、気合が違うんだよ、気合が!」

「あの娘っ子も、確かになかなかのもんだが、ラインスとは、背負ってるもんが違う。
 愛する者のために戦うとき、男は、どこまでも強くなれるもんなんだよ……」

「おお! 詩人だなっ!」

 がははは、と肩を叩きあって盛り上がる仲間たちを、アルシャは、複雑な表情で見つめていた。

 みな、空元気を出して騒いではいるが、その表情の端々には、拭えない不安感が漂っている。

 辺境の砦からやってきた少女の戦いぶりは、彼らにとっては、そのまま、友人の勝利の危機に他ならないのだ。

 その凄まじさは、彼らの予想を、遥かに超えていた。

 ――そして。

 アルシャの表情を曇らせている原因は、仲間たちと共通するものの他に、あとひとつあった。

(部長が仰っていたように……あのとき、ドナーソン将軍の屋敷で見つかった《紫のケモノ》の死骸が偽物で、全てが、仕組まれた陰謀であったとしたら……
 まだ、真犯人の正体さえ、わかっていないんだ。
 ……まさか……あの少女が?)

 控え室へと引き上げていく少女――フェリスデールの姿を、アルシャはじっと見つめた。

 キリエと相対したときに彼女が兜を取ったため、石板に映し出されたその表情がはっきりと見える。

 激闘の末に勝利をおさめた剣闘士が見せるような、爆発的な興奮を、彼女は欠片ほどもあらわさなかった。

 金の髪がきっちりと編みこまれ、頭のまわりに巻きつけられている。

 その下に見える表情の静謐さに、アルシャは、神殿の壁に彫刻されている女神の顔つきを漠然と思い出した。

(あんなふうに相手を打ちのめして、顔色ひとつ変えないなんて、いったい、どんな人間なんだ?
 犯罪者にありがちな、後ろめたさの影はないが……何らかの信念に燃える理想犯ということも考えられる……
 ――いや、落ち着け。
 あの少女が犯人だということを示す証拠は、何もない。思い込みは禁物だ)

 アルシャは、さらに視線をめぐらせた。

 貴賓席の中央の玉座に座る、この国で最も貴い女性と、その周囲を囲む厳重な守りとを確かめて、眉をしかめる。

(そうだ。ここには、皇帝の兵や、お抱え魔術師たちがいる……
 彼らが目を光らせている状況では、何者であっても、妙な動きはできないとは思うが……
 何か、胸騒ぎがする。
 この試合が、本当に、何事もなく終わればいいんだが……)

 そのときだ。

「――おっ」

 アルシャの肩を、隣にいた仲間が強く掴んだ。

 その指があまりに強く肩に食い込んだので、アルシャは反射的に文句を言おうとしたのだが、声に出す前に、何を言おうとしていたのかさえ、忘れてしまった。

 皇帝が、再び立ち上がっている。

 数万の人々の視線が、その姿に集中した。

 次に起きることを、誰もが知っている。

 知って、待ちわびている。

 恭しく差し出された皮袋に、白い手が差し込まれ、最後まで残った2枚のメダルが取り出された。

「神々が、この戦いを嘉し給う!」

 皇帝の肉声が朗々と響き、会場の隅々にまで反響して広がった。

 アルシャが息を呑む。

 ガストンとキャッサが、顔を見合わせる。

 グウィンは、拳を固めた。

「緑、フェリスデール! 黄、ラインス!
 皇帝、ルーシャ・ウィル・リオネスの名の下に――
 この戦いの勝者を《翼持つ女神の剣》の次なる担い手と定めん!」



          *



(いよいよ、来た)

 フェリスは、胸中で呟いた。

 いや、正確に言うならば、意識的に呟いてみた。

 御前試合の決勝戦。

 勝てば、帝国最高の剣士の称号を――《翼持つ女神の剣》の担い手たる栄誉を得ることができる。

 もっと興奮するものだろうと思っていたのに、恐ろしいほどに意識が澄んで、平静だ。

(勝てる)

 最後の試合の相手がラインスであることは、明かり取りの窓から控え室に流れ込んでくる歓声が教えてくれた。

(ラインスさん……あたしと同じ、初出場で……
 そうか、そんなに強かったんだ……)

 彼と剣を交えたことは、まだ一度もない。

(それでも、あたしが、勝つんだ)

 名が呼ばれ、控え室の扉が大きく開け放たれる。

 剣の柄を強く握り、万雷のごとき人々の声の中に踏み出しながら、フェリスは、一歩ごとに、その確信が強固になっていくのを感じた。

 一度、言葉を交わした相手だ。

 ティアのことも、知っている。

 だが、フェリスに迷いはなかった。

 日々、命を懸けた戦いに臨む者だからこそ知る、試合というものの神聖さ。

(刃のない剣の名誉にかけて――あたしは――!)

 がしゃり、と音を立てて立ち止まる。

 十歩ほどを隔てた場所に、こちらと向かい合って、ラインスが立っていた。

 ラインスの武装を、フェリスは、初めて見た。

 出場者は一戦ごとに控え室に戻され、扉は固く閉ざされる。

 だから、どちらもこれまでの試合すべてに勝ち進んできたとはいえ、この会場で互いの姿を目にしたことはなかった。

 ラインスは、フェリスと同じように、盾を持たず、ただ一振りの長剣のみを帯びていた。

 その身を包むのは、傷とへこみの目立つ銀色の鎧兜だ。

 本格的な武装一式は非常に高価なものであり、一介の若い帝都警備隊員が購えるようなものではない。

 ラインスが入隊試験に通ったとき、彼の夢を知るガストンが用立て、祝いとして贈ったのだと聞いている。

 面頬に隠されて、ラインスの表情をうかがうことはできなかった。

 素人ならば、それだけで気圧されてしまうだろう。

 だが、フェリスは平然としていた。

 ヒトの姿に非人間的な峻厳さを与え、敵を威圧することこそ、武装の大目的のひとつであると、彼女には、わかりすぎるほどに分かっていたからだ。

 硬い金属の殻の内側にあるのは、自分と同じように疲労し汗を流し、傷つけば血を流す肉体だと――

 その内側にあるのは、自分と同じように迷い、驚き、怯えることもある生身の心だと、物心ついた頃から、知っていた。

 そういうフェリスは、兜の面頬を下ろしていない。

 視界が狭められるのを嫌ってのことだが、もうひとつの理由もあった。

 相対する敵が、自分の視線を恐れることに、フェリスは、これまでの多くの経験から気付いていた。

 戦いのさなかに鏡を見るわけにはいかないから自分では分からないのだが、見ていた者たちの話によると、みどりの目が刺すように冷たくきらめいて、ひどく恐ろしいらしい。

 それを気にするでもなく、ならば隠すより見せたほうが効果的ではないかと考えるのが、フェリスのフェリスたる所以である。

 あるいは、そういった思考の流れは、リューネという街に住む者全体の特性であるのかもしれない。

 そうだ。

 剣を振るい戦う男たちの街、盾持ち守る女たちの街、故郷リューネを出て、とうとう、ここまで来た――

(みんな……待っててね。
 あたし、《翼持つ女神の剣》を手に入れて、もうすぐ帰るから……)

 再度、朗々と読み上げられる自分たちの名を、フェリスは遠い世界の出来事のように聞いていた。

 もう4度目になる、皇帝への礼。

 その、ほんのわずかの間に、リューネで自分を待っているはずのガルやフェザン、部隊の仲間たち、街の人々の顔が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。

 にやりと笑って親指を立てる、父の姿。

 この会場のどこかで見守ってくれているはずのティンドロック卿と、キャッサの笑顔。

 そして、グウィンの仏頂面――

「はじめッ!」

 という声が響いた瞬間、ラインスは既に目の前にいた。

「!?」

 一瞬、思考が停止する。

 あまりにも速い。

 だが、フェリスの肉体は自身の思考すら遥か後方に置き去って、電光石火の反応を見せていた。

 斜め上から振り下ろされた刃を、かざした刀身の平に左手を添え、辛うじて受ける。

 骨に響く衝撃。ずざ、と、踵が滑った。

 その時になって、ようやく、驚愕が心を襲う。

(つっ、強い――!)

 腕の肉と肩の関節が、みしりと軋んだような気がした。

 それだけ、打撃が重かったのだ。

 声を漏らしそうになるのを堪えて跳ね除け、続けざまに打ち込むが、やや精細を欠いたそれらの打撃は、全て、ラインスの剣に打ち払われる。

 フェリスの剣が次にどこに来るか、全て予測しているかのような鉄壁の守りだ。

(攻撃が通らない……! 全部、見切られてる! くそ!)

 これまでに対戦してきた男たちが感じたのとまったく同じ動揺を、フェリスは、この試合の場で初めて感じた。

 ……見切られている?

 いや、違う。

 フェリスの剣術は、誰かに教えられたものではなかった。

 土台となっているのは、マクセスが彼女に伝授したアーケリオン流。

 だが、《呪われし者》との戦いでは、人間相手を想定した剣術のみに頼っていては勝てない。

 ヒトを超える膂力と速度を備えたモノたちとの戦いの中で、フェリスは、独特の太刀筋を編み出してきた。

 それは今日に至るまで、おそらくは誰にも、読まれたことがなかった。

 それなのに――

(そうか! この人、反応が速い、ものすごく速いんだ……!
 だから、打ち込んでも、全部受けられちゃう――)

 ならば。

 流れるように、フェリスの構えが変わった。

 フェリスの打ち込みが一瞬途切れた、それを契機として、戦いの流れが変わる。

 防戦に回っているかに見えたラインスが、突如として牙を向く獣のように猛攻を仕掛けてきたのだ。

 続けざまにぶつかり合う、二つの刃。

 冬の陽に照らされた刃があざやかな残像を残し、火花を散らして舞う。

 そう、それは凄まじい速度を持った激しい攻防でありながら、見る者に舞のような美しさを感じさせる戦いだった。

 一切の無駄のない、極限まで研ぎ澄まされた的確な攻撃と防御。

 眼下に繰り広げられる試合に、誰もが、言葉を忘れて見入った。

 まるで、一切の音が遠ざかるようだ。

 いや、どこからか、楽の音が聴こえるような気がする――

「シッ!」

 鋭い息とともに気を吐いて、フェリスは剣を振るった。

 真っ向から叩き付けられたラインスの剣が、右に逸れた、と見えて跳ね上がるように戻ってきた。

 それを、再び弾く。

 並の者なら一瞬で三度は倒されていたであろう、続けざまの打ち込みを、フェリスはことごとく受け、流してみせた。

 相手の反応速度を超えることが難しいならば、まずは、防御に徹する。

 それが、フェリスが選んだ戦い方だった。

 ラインスの実力は予想外だったが、圧倒的というほどではない、とフェリスは感じ取っていた。

 力は、五分五分。望むところだ。

 まずは打たせてやる。万が一、有効打を貰っても、その程度は構わない。

 相手の力を、最大限まで引き出して、相手が消耗し始めたところで一気に反撃に転じるのだ。

「……なぜ……」

 何度目かに、がっきと鍔元近くが噛み合ったとき、フェリスの耳に、そんな声が飛び込んできた。

 いや、聴こえたような気がしただけかもしれない。

 フェリスは、全身全霊を傾けて勝負に集中していた。

 相手の動きのひとつひとつが、いつもよりもはっきりと見える気さえする。

 こんなことは、人間相手では、本当に久しぶりだ――

 そして、再び、がきりと鍔元が噛み合ったとき。

「負けて、下さい」

 今度は、はっきりと、ラインスがそう言うのが聞こえた。

 フェリスは一瞬、分からなかった。

 何を、言われたのか。

「……え?」

 そう言ったつもりだったが、実際には、声になっていなかった。

 ただ、軽く口と目を開いただけだ。

(負けて下さい、って)

 どういう意味だろう。

 呪っているつもりだろうか?

 言葉で動揺を誘い、こちらの隙を生み出そうというつもりか。

「……俺は……」

 兜の面頬の奥から響いてくるラインスの言葉は、奇妙に平板だった。

 まるで、独り言を呟いているように――あるいは、何かを、極限まで押し殺しているかのように。

「俺は……絶対に、負けるわけにはいかないんだ。ティアのために」

「……そんな」

 今度は、はっきりと、声が出た。

 どちらも、渾身の力で剣を押し込んでいる。

 ふたつの刃が噛み合った鍔元からは、金属が擦れ合うぎりぎりという音が絶え間なく生じている。

 並の人間ならば、いや、一流と呼ばれるような戦士であっても、均衡を保つだけで精一杯の状況だ。

 しかし、フェリスは、それでも言葉を継がずにはいられなかった。

「ラインスさん? ……何、言ってるんです?
 そんな……わざと、負けてくれ、なんて……
 どうして? あなたなら、正々堂々の勝負でだって、あたしに勝つ自信あるでしょう!」

「あなたに、勝てる気がしない」

 ギッ! と火花を散らして互いに跳び退り、フェリスとラインスは再び剣を構えて向き合う。

 ラインスは、正眼に。フェリスは、上段に構えている。

「お願いです。フェリスさん。退いてください。
 俺は、ティアのために、絶対に、負けるわけにはいかないんだ……」

「……悪いけど」

 いつでも打ち込める姿勢で、じりじりとわずかずつ位置を変えながら、フェリスは、きっぱりと言った。

「あたしには、できない」

 その言葉には、寸毫の迷いもない。

 この場に立つ前に――

 いや、もっとずっと前から、決めていた。

「試合で、わざと負けるなんて……そういうの、一番嫌いです!
 どんな事情があったって、剣を持って向かい合ったら、勝負には関係ない!
 試合っていうのは、正々堂々、全力の真っ向勝負じゃなきゃ、何の意味もないのに!
 ――どうしてです、ラインスさん!?」

 だんだんと声が跳ね上がって、激しく詰る調子になった。

「今まで、ほんとにいい試合だったのに、どうして急にそんなこと……!?
 いい試合をしようって、あの時、言ってくれたのに!
 忘れたんですか!? 刃のない剣の、名誉にかけて――」

「名誉が、何だというんだっ!!」

 突然、ラインスが叫んだ。

 その剣幕のあまりの凄まじさに、フェリスは反射的に口を噤んだ。

 怯えたわけではない。

 リューネの戦士は、この程度のことで怯えたりはしない。

 驚いたのだ。あまりにも。

 かつて会ったときの穏やかな態度が嘘のように、ラインスは、まるで子どもが喚き散らすように、地団駄を踏まんばかりの絶叫を放った。

「何が名誉だ! 名誉なんてもののために、この勝ちを奪われてたまるか!
 あのままでは、ティアは、死んでしまうんだぞ! 俺の妹が!
 命がかかっているんだ!  
 名誉なんて……命もかかっていない、ただのくだらない意地で戦っているあんたに、この勝ちを奪われてたまるか!」

「――はああぁっ!?」

 それまで呆気にとられて見守っていた審判官たちの首が、一斉に反対方向を向いた。

 ラインスの絶叫を受け、立ち尽くしているかに見えたフェリスが、こちらもこんかぎりの大声で怒鳴り返したからだ。

「何!? 何を言ってるの!?
 分かんない。全然、分かんないよ!」

 予想を超えたなりゆきに、観客たちは唖然としている。

 フェリスは構わず、速射弩のように相手に言葉を叩きつけた。

「ラインスさん、どうしちゃったんですか!? こんなの、おかしいですよ!
 だって! あなたが優勝することと、ティアちゃんの病気とは、全然、何の関係もないじゃ――」

 そこまで、怒鳴って。

 フェリスは、はっと、言葉を詰まらせた。

「あ……お金……? ティアちゃんの、治療のため……」

 御前試合の優勝者には、皇帝からの褒賞金が与えられる。  

 勝利による名誉のほうがより重んじられるべきであるという考えから、さほどの額ではない。

 名門の貴族にとっては、だ。

 普通に暮らしている市民にとっては、一生目の当たりにすることのないような金額――

 ラインスは、答えない。

 身動きもしない。

 フェリスの表情は、目まぐるしく移り変わっていった。

 ふと浮かんだ、言うにいわれず哀しげな、さびしげな顔から――

 一転して、決意。そして、笑顔へと。

「……大丈夫。
 約束します。たとえ、あたしが勝っても、褒賞金は、全部あなたに譲る……」

 笑顔が、だんだんと引きつって、必死の表情になった。

 フェリスが、これまで、他人に見せたことがないような表情だ。

「ラインスさん……だから、お願い! 心配しないで、ちゃんと戦って!
 だって……あたし、こんな――」

 だん! と地面を蹴りつけて、フェリスは、とうとう喚いた。

「あたし、こんな試合のために、ここまで来たんじゃないよ!」

「黙れ!」

 ラインスの怒りは、ますます激しさを増している。

 その声には、もはや憎悪とさえ呼べる響きがあった。

 だが、それが何に対しての感情なのかが、フェリスには理解できない。

 ラインスは、激昂のあまりにか、激しく震える切っ先をフェリスに突きつけた。

「何が、試合だ……!
 お前には分からない! 絶対に、分からない!
 生まれながらに、恵まれたお前には!」

「――恵まれた?」

 ぽつり、と。

 フェリスの唇から漏れたその言葉は、不意に別人が話したかのように、冷え切り、乾いていた。

(何て、言ったの。今、何て?
 ……恵まれた……? この、あたしが……?)

 貴族の娘、将軍の娘だ。

 日々の食べ物にも、身につける衣服にも困ったことはない。

 御前試合に出たいと言えば、父親が新品の武装を仕立てさせて贈ってくれる。

 彼女の愛剣は、最高の鋼を、当代一と讃えられる職人が鍛え上げたものだ。

 ……それは、何のためか。

 11歳から戦場に出て、人を斬り、《呪われし者》を斬ってきた。

 泥水にまみれて塹壕を這い、炎と煙の中を駆け抜け、仲間たち、部下たちの死を目の当たりにしながら、戦い抜いてきた。

 リューネの戦乙女、皆殺しのフェリスデールと呼ばれて敵に恐れられ、その姿が後に続く部下たちの心を奮い立たせる、暗闇の中で輝く光のような指揮官であり続けてきた。

 何のために?

 ……守るために。

 共に戦う仲間たち、ガイガロス砦のみんな、リューネの街の人々――

 そして、その背後に広がる広大な帝国の版図と、そこに暮らす人々を《黒の呪い》から守るために。

 この生き様を、後悔したことは一度もない。

 だが、楽な道ではなかった。

 苦しみがあった。

 哀しみがあり、痛みがあった。  

 それを押し殺して涙を堪え、これまで、胸を張って、顔を上げてきた。

 人殺しと罵られても、誇りを捨てずに、戦い続けてきたのだ。

 そんなあたしを――

 それでも、あたしを、恵まれていると言うのか、この人は。

「……もういい」

 そう呟いたとき、フェリスの目は、底光りする怒りにきらめいていた。

 その凄まじい殺気は、命のやりとりの場面と決して無縁ではない帝都警備隊の男の足すら、竦ませずにはおかなかったろう。

「もういいよ。
 これ以上、ぐだぐだ言ったって意味ない。
 ここは、試合の場……戦って、けりを着けるだけよ!」

「やめろ!」

 ラインスは、大きくかぶりを振った。

「退けと言っている!
 俺は、どうしても勝たなきゃならないんだ――!」

「ふざけるな!」

 とうとう、フェリスの怒りが頂点に達した。

「勝ちたきゃ、自力で勝てばいい!
 勝負ってものを、いったい、何だと思ってるのよっ!!」  

 怒鳴ると同時、疾風のように襲い掛かる!

 奔騰する怒りを、ただ一太刀に込めた、渾身の一撃だった。

 フェリスが真っ向から振り下ろした剣に、ラインスの防御は間に合わず――

 がぎっ! と鈍い音が上がった。

「……そうか……」

 ラインスの剣は、彼の右手に握られて、だらりと垂れたままだ。

 フェリスは、目の前の光景が信じられなかった。

 裂帛の気合を込めた、岩すらも断ち割るのではないかと思われた一撃は、ラインスがかざした左手に、掴み止められていた。

「俺は」

 その手がぶるぶると震えているのが、刀身を通じて伝わってくる。

 単なる、痛みや興奮によるものではない、異様な痙攣――

「俺の優勝を邪魔するなら……あんたも……」

 ぐにゃりと、フェリスの剣が曲がった。

 いくら刃が潰されているからとはいえ、左手で握り締めただけで鋼の剣を飴細工のように曲げてしまうなど、あり得ない。

 人間の、握力では。

 その瞬間、フェリスは、柄を手放して跳び退った。

 ラインスが真横に振り抜いた剣が、フェリスが一瞬前まで立っていた空間を水平に両断する。

 驚きに立ち尽くしたままだったなら、今頃、フェリスの胴は真っ二つに千切れていただろう。

 それほどの威力を持つ一撃だった証拠に、剣はラインスの手からすっぽ抜けて、遥か遠く離れた場所まで飛んでいった。

「ラインスさん……」

 フェリスは、落ち着いていた。

 自分の冷静さが哀しくなるほどに、心が静かだ。

 こういう場面には、もう、何度も出会ってきたから。

 剣を捨てたラインスの手が――いや、身体全体が、武装と衣服の下で何かが暴れ回っているかのように蠢き、ぐうっと膨らむ。

 服の布地と、鎧の各部分を繋ぎ止めていた革帯が裂けて弾けとび、その内側から、ヒトのものとは違う肉体が現れる。

 湾曲した鉤爪を備え、鮮やかな紫の毛皮に覆われた、狼にも似た姿――

「あなたが、…………いや……」

 フェリスの眼差しが凍て付き、声が変わる。

 辺境警備隊の隊長、皆殺しのフェリスデールと呼ばれた戦士の声に。

「おまえが《紫のケモノ》か。
 ――グウィン!」

 怒鳴りつけるような声と同時、大きく手を振る。

 刹那、風を切る音と共に、凄まじい速度で飛来した何かがフェリスの足元に突き刺さった。

 風の魔術の余波をまとったままの愛剣を、フェリスは迷わず掴み取り、構える。

 ケモノが咆哮した。

 その視線は、はっきりとフェリスにのみ向けられている。

「下がれ、グウィン!」

 背後に生じた、ふわりと空気が押し退けられる感覚。

 そこに降り立った副官の魔術師に、フェリスは振り向きもせずに言い放った。

「あたしが、やる! 手を出すな!」



          *



 その怪物が姿を現した瞬間、観客席は、恐慌状態に陥った。

 つい先日まで帝都全体を恐怖のどん底に陥れ、そして死んだはずの《紫のケモノ》が、いきなり、自分たちの目の前に姿を現したのだ。

《アレッサの結界》に守られた帝都に住む者で、このような状況を目の当たりにしたことがある者は誰一人としていない。

 恐怖が冷静な判断能力を奪い、人々は、一斉に手近の出口に押し寄せようとした。

 年寄りが足を踏み外す。子どもが転ぶ。あちこちで、悲鳴と、泣き叫ぶ声があがる。

 数万の人間たちが、塚を崩された蟻のように、なだれをうって逃げ惑おうとしていた。

『――裁きの時、来たれり!』

 雷鳴のように轟いたその声は、恐慌をきたした人々の群れを、奇跡のごとく貫いた。

 皇帝だ。

 ケモノの出現と同時、侍女たちと魔術師たち、そして護衛の騎士たちが、皇帝の周囲を十重二十重に囲み、厚い人間の壁となっている。

 その中心にあって、ルーシャの声は、圧倒的な響きで轟きわたった。

『魔術師たちよ!』

 その一言で、黒い衣をまとった《星の剣》の魔術師たちが、飛んだ。

 跳躍ではない、飛翔だ。

 彼らは皇帝のもとを一斉に飛び立ち、見事な放物線を描いて、観客席と試合場とを隔てる塀の上に、正確に等間隔に降り立った。

 彼らは手にした杖を、一斉に中央――《紫のケモノ》へと向ける。

 恐ろしく正確な動きだ。

 観客たちの足は、完全に止まっている。

 誰も見たことのない事態が、これから、ここで起こるのだと、誰もが予感したから。

 ――そこへ。

「あたしが、やる!」

 気魄のこもった声が響いた。

「手を出すな!」

 人々の視線が、ただ、その一点へ惹き付けられる。

 魔術師の若者を背後に従え、剣を構えて怪物と向き合う、ただひとりの少女の姿に。

 ルーシャは微笑んだ。

 まるで、こうなることが、あらかじめ分かっていたかのように。

『フェリスデール!』

 皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスは、手にした扇を鋭く振った。

『我が名において、そなたに命ずる!
 討て! 悪しき魔術の使い手を!』  



          *



「フェリス!」

 すぐ後ろから聞こえるグウィンの声に、フェリスは、返事をしなかった。

(悪しき、魔術の使い手……?)

 皇帝の言葉が、フェリスの脳裏に反響している。

(魔術ですって? 違う、これは、明らかに《呪われし者》の姿……
 やっぱり《アレッサの結界》の効果が薄らいでいた……?
 いや、そんなはずはない。
 だとすれば、やはり、こいつが伝説の《魔性》――?)

 いずれにしても、ヒトではあり得ない。

 姿を変える魔術というものもあるが、それは幻術の領域だと、軍属の魔術師たちとの付き合いが長かったフェリスは知っている。

 他人の目から見て、姿が変貌したように見えるというだけで、本当に肉体が変質するわけではない。

(そうか……陛下は、人々を恐慌状態から救うために、わざと、魔術のしわざだって)

 冷静そのものの分析は、感情を切り離しておくための手段だ。

「大丈夫よ、グウィン」

 時間にすれば、まさに一瞬。

 フェリスは、グウィンを振り返らないまま、頷いてみせた。

「あたしがやるわ」

《紫のケモノ》が、再び咆哮する。

 それは地を蹴って、フェリスに飛び掛ってきた。

 城に出たときとは違う、四つ足を地面についての突進だ。

「おおおおおォ!」

 振り下ろされる鉤爪を、まともに食らう軌跡に自ら駆け込みながら、フェリスは雄叫びをあげて剣を振るった。

 刃を潰した剣ではない。事が起きたときに備えて、グウィンに持ち歩いて貰っていた真剣だ。

 刀身が肉に食い込む、嫌な感触が伝わってきた。だがそれは一瞬で消え去り、代わりに、噴き出した血が髪を、頬を、赤く濡らす。

「ガアアァアアァ」

 悲鳴は既にヒトのものではない。

 だが、流れる血は、フェリスと同じ、赤い血だ。

(通じる!)

 剣による攻撃が有効だと知り、フェリスは胸中で拳を握った。

 だが、なぜだ。これが《魔性》か?

 そんなはずはない。

 この程度が《魔性》の力だというなら、なぜ、500年前に、人間世界は滅びの危機にまで晒されたのか。

 疑問なら、いくらでもある。だが、今、ゆっくりと思索にふける時間は、彼女たちには与えられていなかった。

「なぜだ!」

 腕の一本を失ってもがき苦しむケモノに、フェリスは剣を突きつけ、問い掛ける。

「おまえがやったのか! 3人の出場者たちも……
 そして、父親さえも、その手で殺したのか!? 何のために!」

 答えは、返らない。

 ただ、真っ黒な洞のような、そのくせ燃えるようにぎらつく、2つの目がフェリスを睨みつける。

「んッ!?」

 フェリスの目が見開かれる。

 ケモノの、切り落とされた腕の切り口――剥き出しになった赤い肉が、沸き立つようにうごめいていた。

 その傷口から、ぶちぶちと内側から肉を食い破るように生え出てきた、5本の尖ったものがある。

 牙だろうか? いや、違う。

 爪だ。

 切断された傷口から、湾曲した爪が、指が、腕が……

 ずるり、とそれ自体が奇怪な生き物のように生え出て、たちまち、元の形を取り戻す。

「再生……だと!? まさか、そんな例は……」

 グウィンの呟きに、さすがに狼狽の響きがある。

 これまでフェリスとともに幾多の戦闘をくぐり抜けてきたグウィンだが、こんな敵と出会ったのは初めてだった。

「落ち着け」

 逆に、フェリスの声は、なぜそんな風にいられると問い質したくなるほどに冷静だ。

 事態が悪くなればなるほど、彼女は不気味なほどに落ち着き払っていく。

「グウィン、再生する敵を倒すには、どうすればいい?」

「再生する敵……」

 これまでに、直接戦ったことはない。だが、知識としては知っていた。

「……多頭蛇なら、切り落としても生えてくる首は、みな、囮だ。
 その中に、ただひとつ、本物の首がまじっている。
 それを落とせば多頭蛇は死ぬ」

「首……」

 フェリスは鋭い目でケモノを見据えた。

 敵の首はひとつ。だが、どんな相手だろうと、まさか不死身ということはあるまい。

 多頭蛇の首のように、どこかに、弱点があるはずだ――

「フェリス!」

 グウィンの警告と同時、ケモノが再び跳びかかってきた。

 腕を切り落とされたばかりとは到底思えぬ速度――痛みがあるのかもしれないが、まったくそれを感じさせない動きだ。

 一度地面につき、ばねのようにぱぁんと跳ね上がった前脚の爪が、危うく仰け反ったフェリスの顔面を抉りそうになる。

 ぎゃりっと嫌な音がして、兜の面頬がもぎ取られた。

 ――いや、片方の金具が破壊されただけだ。

 留め金を失い、目の前に落ちてきた面頬が、フェリスの視界を塞ぐ。

「邪魔だ!」

 フェリスは怒鳴って、勢いよく脚を蹴り上げた。

「グォオッ!?」

 ケモノが、苦鳴をあげて顔面をかきむしる。

 直接、蹴りを入れたわけではない。フェリスは、試合場の足元すべてに敷き詰められた砂を蹴って、敵の眼にぶつけたのだ。

 いや、単に蹴り上げただけなら、そこまで都合よく敵の眼に砂が飛び込んだりはしない。

 フェリスが砂を蹴った、その刹那に、ゴウッと風が吹き、ケモノの顔に砂粒を叩きつけたのである。

 グウィンの魔術だ。

「余計な真似を!」

 怒鳴りながら、フェリスは顎の下の留め金を外し、むしり取るように兜を脱ぎ捨てた。

「礼は要らんぞ。存分にやれ、フェリス!」

「――ぃやぁッ!」

 ケモノが立ち直るまでの、ほんのわずかな時を突き、フェリスの剣が一閃する!

 その攻撃は、ケモノの肩口から脇腹までを、ざっくりと切り裂いた。

「アオオオオオオオォ!」

 しゅうしゅうと噴水のように血が噴き上がり、裂けた毛皮のあいだから肉と骨が見えるような深手を負ってなお、ケモノは両腕を振り回し、フェリスを引き裂こうとする。

 フェリスは、竜巻のような鉤爪の攻撃を、ことごとくかいくぐった。

 兜を捨て、頭に一撃でも喰らおうものなら即死と分かっていてなお、フェリスは挑みかかる。

 自分が、目の前の敵を倒すのだと、疑いもしていないように。

「……ナゼダ……」

 ケモノの口から、初めて、ヒトの言葉が漏れた。

 狼に似た形に変じたために聞き取りにくい声で、ケモノは呻いた。

「コノ、チカラ、手ニ入レタ……必ズ、勝テルハズ……ナノニ、ナゼ……」

 ばっくりと口を開けていた傷が、端から、徐々に閉じて塞がってゆく。

 それほどの恐るべき治癒能力を見せつけながら、ケモノの言葉には、隠し切れないひとつの感情が滲んでいた。

 恐怖。――畏怖が。

「ナゼダ……ナゼ、オマエハ、倒レナイ!」

「馬鹿野郎!」

 フェリスの怒声は、それ自体が刃のように、空を裂いて突き立った。

「そんな力に頼ったって、勝てるか!
 一瞬は、無敵になったように思えたって、絶対に、いつか駄目になる!
 あたしが何人、そんな奴らを見てきたと思ってるんだ!?」

 フェリスが思い浮かべていたのは、《黒の呪い》を望んでその身に受け、怪物に変じていった敵たちの姿だ。

 この時には既に、フェリスは、目の前の敵を《魔性》だと考えてはいなかった。

《アレッサの結界》があるのに、なぜ存在できるのか?

 グウィンが毛を鑑定したときに《黒の呪い》の反応が出なかったのはなぜか?

 いくつもの疑問はあったが、決定的な一言が、フェリスの迷いを打ち消した。

 こいつは《魔性》などではない。《呪われし者》だ。

《魔性》はヒトとは違う種族であり、生まれながらに強靭な生命力を持ち、強大な魔術を操るという。

 だが、目の前の敵は、確かに、もとはヒトだ。

 そうでなければ「この力を手に入れて」という一言が出るはずはない――

「最初は使いこなせると思ったって、どんどん支配されるだけだ!
 どんどん、ヒトの心が無くなっていって、最後には、何も分からなくなって――
 ただ、殺すだけの存在に成り果てるしかないんだ!
 大切な相手を殺しちゃっても、自分では、もう、それに気がつくこともできないんだよっ!」

 その言葉に、ケモノの身体が、突風を受けたように揺らいだ。

(……反応した?)

 心の片隅の冷静な部分で、フェリスは、意外ななりゆきに驚いていた。

 普通、姿かたちが変化するほどまでに《黒の呪い》に冒された者は、もはや思考や感情すらも完全に呪いに支配されており、こんな言葉に動揺することはないのだ。

 どういうことなのかは、分からない。

 ――だが、どうすべきかは、分かった。

「思い出せ! 父親のことを!
 父親を殺すことが、おまえが望んだことだったのか!
 そうじゃ、ないはずだ!」

「……父サ、ン……」

 フェリスが立て続けに叩き付けた言葉に、ケモノの動きが、止まった。

「違ウ……」

「何が、違う!?」

「俺ハ……俺ハ、ソンナツモリジャ……
 仕方ガナカッタ……! 父サンニ、見ラレタカラ、仕方ガナカッタ……!」

「殺したかったのか!?」

「違ウ!!」

 ケモノの、黒い洞のような両眼から、赤黒い液体がどろりと溢れ出した。

 泣いている、ように見えた。

「仕方ガナカッタ! 俺ハ、勝タナクチャナラナカッタ……!
 ティア……ティアノタメ……コノ、チカラ……
 ――オマエガァッ!」

 両眼に溶岩のごとき光が宿り、ケモノは、がちがちと牙を鳴らしてフェリスを睨みつける。

「やめろぉっ!」

 観客席と、試合場とを隔てる柵の手前で、魔術師たちに制止されながら叫んだのはキリエだ。

 ――フェリスは、動かない。

 キリエの声が届いたのかどうかすら、確かめようがなかった。

 フェリスはただ、まっすぐに立ち、ケモノの怨嗟に耳を傾けている。

「オマエサエ……オマエサエ、イナケレバ! 俺ノ勝利……! 俺ノ!
 ティアノ命……ティアノ人生……
 俺ハ……アイツヲ、幸セニシテヤラナキャナラナインダ……!」

「ラインスさん」

 フェリスは、苦笑いのような表情を浮かべて、首を振った。

 その頬を、ただ一筋、涙が伝った。

「大好きなお兄ちゃんの、そんな姿、ティアちゃんには見せられないよ」

 剣を構える。

 流れるように切っ先を引きずり、フェリスは走った。

 ケモノは両腕を振りかぶり、跳躍した。

 全体重を乗せた、捨て身の攻撃。

 鉤爪で引き裂き、腕で、身体全体で叩き潰すつもりだ――

 遠くで、キリエが叫ぶ。

 グウィンはその場に留まったまま、杖の先端をケモノの頭部に向けた。

 選んだ技は彼の十八番、超高密度の空気の塊を炸裂させる術。

 動いている対象の、狙った場所に命中させるのは難しい。だが――

『裁きを!』

 まるで全てを見澄ましたように、皇帝の声が響き――

 フェリスが渾身の力を込めて突き出した、その一撃は、ケモノの胸の真ん中を深々と貫き通した。

 グウィンの魔術は、放たれることはなく。

 鉤爪を備えた腕が振り下ろされることも、また、なかった。

 フェリスは剣を手放し、信じられないというように後ずさった。

 ケモノは、彼女を攻撃できなかったのではない。

 攻撃、しなかったのだ。

「イヤダ……マダ……」

 植物が枯れる様子を見ているように、ケモノの腕が、顔が、その鮮やかな紫色の毛皮が色褪せ、黒く萎び、しゅうしゅうと悪臭を発しながら縮んでゆく。

 泣くような声が、徐々に、か細くなってゆく。

「マダダ……俺ハ……マダ、ティア、ヲ」

 幸せに――

 どっ、とフェリスの剣が落ち、地面に突き立った。

 ケモノの肉体は、塵になって粉々に飛び散った。

 骨のひとかけらさえも、残らなかった。

 フェリスが、初めて、ゆっくりとグウィンを振り返る。

 その瞬間の彼女の表情を形容する言葉を、グウィンは持たなかった。

『《翼持つ女神の剣》の担い手よ!』

 皇帝の声が響き、魂を奪われたようになっていた観客たちが、はっと身じろぎをした。

 この瞬間、御前試合の優勝者――

 新しい《翼持つ女神の剣》の担い手が決定したのである。

 爆発的な歓声があがった。

 そのとき、確かに声だけで石造りの競技場が揺れた、本当に揺れたのだと、その場にいた者たち皆が後に何度も周囲に語って聞かせるほどの、これまでで最大級の喝采が湧き起こる。

 グウィンが見ている前で、フェリスの表情が、塗り替えたように変わっていった。

 フェリスは、地面に突き立っていた愛剣を引き抜き、それを天に突き上げ、満面の笑みで人々の喝采に応えた。

 皇帝のいる方向に向かって深々と礼をし、ぐるりと周囲の全てに向き直りながら、ひとつひとつ大きく頷き、何度も剣を突き上げてみせた。

 フェリスデール! フェリスデール! フェリスデール!

 果てを知らぬように繰り返される、耳を弄さんばかりの歓呼の中、フェリスは小さく唇を動かしていた。

 彼女が何と言っているか分かったのは、何万もの人々の中で、すぐ側にいたグウィンだけだった。

「……ごめんね……」

 フェリスは観客席の人々を見上げ、輝くような笑顔を見せながら、とめどなく涙を流し続けていた。

「ティアちゃん……あたし、あなたのお兄ちゃんを殺しちゃった……
 やりたくなかったけど、仕方がなかった。本当だよ。
 ごめん。ごめんね、ごめんなさい……」



          *



 歴史的な御前試合の終幕から3日後の朝、帝都の町並みは、しのつく雨に包まれていた。

 その一角に、きつく、焦げ臭いにおいが立ち込めている。

 前日から降り続いた雨によって、幾分かはましになったが、今なお、一区画先からでも分かるほどの異臭が漂っていた。

 火事だ。

 それも、小火程度ではない。

 2階建ての建物が、石壁を残して全焼し、両隣と裏の家の屋根が焼け落ちた。

 この程度の被害で済んだのは、人口過密のこの帝都で幾度となく大火災を食い止めてきた、帝都警備隊・防火部の尽力あってこそだ。

 特別に配備された、水を操る術に長じた魔術師たちの活躍がなければ、少なくとも1区画が丸ごと消失することになっていただろう。

「――なあ、アルシャ」

 焼けて跡形もなくなった1階の玄関扉の前に突っ立っている若者に、同僚たちが、遠慮がちに声をかける。

「おい……もう、行こうぜ」

「ああ。いつまでも、こんなとこにいたって、どうしようもねえ……」

 そう声をかけられても、アルシャ・ベリムは身動きもしなかった。

 脂を塗りこんだ薄皮の雨具をかぶり、黙ってその場に突っ立っているだけだ。

 やわらかそうな茶色の前髪が、雨に濡れて顔にはりついているのを、除けようともしなかった。

 この現場での捜査は、昨日までで、既に切り上げられていた。

 最初に現場に入ったのは、防火部の隊員たちだ。

 その直後に、マーズヴェルタ城から送り出された皇帝の魔術師たちが、大挙して現場を占拠し、ほとんど一寸刻みの執拗さで《光子》の調査をして、魔術の痕跡を探した。

 その調査も終わり、張り巡らされていた立ち入り禁止の縄が外され、見張りの姿もなく、現場は、まるで打ち捨てられた廃墟のように、ただ雨に打たれている。

 ――アルシャたちが所属する捜査部は、この現場の調査に、関わることすらできなかった。

「おい」

 何の反応も見せないアルシャに、さすがに苛立った様子で、仲間のひとりが強く肩を掴む。

「もう、奴のことは忘れろ! 俺たちの眼が、節穴だったってことだ。
 揃いも揃って、犯人の一番近くにいたってのに、気付きもしなかったんだからな……」

「ああ」

 悄然と頷いたのは、アルシャではなく、後ろのほうにいた隊員たちだ。

「防火部の連中に、馬鹿にされるのも無理ねえよ……
 俺たち、仲間殺し、父親殺しの極悪人と、肩を並べて仕事してたんだぜ……」

「躍起になって逮捕しようとしていた、当の相手が、ラインスの奴だったとはな……」

 燃え落ちた建物の1階には、クレッサ家が入居していた。

 ラインスとティアの家だ。

 幸いにして、出火時には1階、2階ともに住人が不在だったため、この家から死者は出なかったが、居住者たちの持ち物すべてが猛火に呑まれ、跡形もなく消え去った。

「これだって、はっきり言っちまえば、仕方がねえんだよ……
 ラインスの野郎、あんな真似、やらかしちまったんだからよ!」

 警備隊員のひとりが吐き捨てるように言った瞬間、それまで微動だにしなかったアルシャが、急に振り返った。

「おっ……」

「――仕方がない、ですって?」

 仲間の胸倉を掴み上げたまま、アルシャは、奇妙に静かな調子で言った。

 目を見開いた、その表情が大きく歪んで、あっという間に声量が跳ね上がる。

「何が、仕方ないんです……!?
 何も、ここまで! 家まで焼くことはない!
 ここをやった連中は、妹さんまで焼き殺す気だったんだ!
 たまたま、よそに泊まりに行っていなかったら、あの子も、一緒に焼かれてしまっていた!
 それでも……もしも、そうなっていても、仕方がないと言えるんですか、あなたは!?」

「ああ、仕方がねえよ!」

 詰め寄られた隊員もまた、アルシャの手首を掴んで怒鳴り返す。

「天下の帝都警備隊の隊員が、連続殺人犯で、親殺しでよ!
 どういうことなんだよ!? どういうことだって、なるだろ、普通!?
 どうもこうもねえよ! 責任、取れねえんだよ!
 その、取れねぇ責任引っ被って、あの人は、辞めていったんじゃねぇか……!」

 はっと、アルシャの身体がこわばった。

 その隙に、仲間たちが、彼と同僚とを引き離す。

 ――あの人。

 帝都警備隊・捜査部の部長であったフィネガン・トロウは、御前試合最終日の翌日に、その職を自ら退いた。

 マーズヴェルタ城の魔術師たちによる、隊員たちひとりひとりの《光子》の入念な検査――ラインスと同じように《汚染》されている者がいないかどうかを確かめるためだ――が終了した、直後のことだった。

 ラインスの事件の、全責任を負っての辞任だ。

 皇帝ルーシャ・ウィル・リオネスからは、

『あれは非常に特殊、かつ巧妙な魔術によるもので、周囲の者が正体を看破することはほとんど不可能であった。
 よって、帝都警備隊の責を問うことはしない』

 との声明が発表されたが、世論がそれで納得するはずがないことは、フィネガンをはじめとして、帝都警備隊の全員が承知していた。

「……そりゃあ、俺たちだって、おめぇと同じように悔しいさ……!
 けど、今、俺たちがモノ言って、誰が聴いてくれんだよ!?
 この、どうしようもねぇ状況を作ったのは、あの馬鹿野郎だ!
 ラインスの野郎は、それだけのことをしちまったんだよ!」

「おい、もう、いい。落ち着け……」

「そうだぜ。人が集まると厄介だ……」

 興奮の収まらない同僚を口々に宥めた隊員たちは、遠慮がちにアルシャを見やり、

「じゃあ……俺たちは、一応、巡視を続けるから」

「お前も、早く来いよ……
 もう、前とは違うんだからな」

「そうだぜ。余計なこと考えるのは、やめろよ。
 あんまり余計なことしてると、睨まれちまうぜ……」

 口々にそう声をかけると、連れ立って、雨の街に消えてゆく。

 その様子はまるで、しのつく雨の帳に身を隠してゆくようで、数日前までの、威勢よく肩で風を切って歩く、誇りに満ちた捜査部の隊員たちの姿はどこにもなかった。

 そうだ、こうなったのも、全て、ラインスのせいだ――

(そう、思えたら)

 いっそ、そう思い込めれば楽になれるのに、と、ここのところ満足に眠れぬ頭で、アルシャは考えていた。

 だが、できなかった。

 なぜ、気付いてやれなかったのだろう?

 父親を手にかけてまで、勝利を得ようとしたラインス。

 それが、ラインス自身の欲のためにではなく、生まれつきの病を抱えた妹ティアのためにだったと、アルシャには分かっていた。

 ……そこまで、分かっていながら。

 ラインスの胸の内に渦巻く、焼け付くような思いを、汲み取ることができなかった。

 正義を標榜する帝都警備隊の一員でありながら、一人の仲間が誤った道に迷い込んでゆくのを、気付くこともできず、止めてやることもできなかった。

 ……そうだ、仲間だ。

 同じ捜査部の、仲間だった。

 その仲間を、あんなふうにして、死なせてしまった……

 雨の音がざあざあと意識を侵蝕し、内側からこみ上げてくる無力感とともに、己自身の輪郭さえもぼやかしていくような気がする。

 ラインスは死に、部長は去った。

(……俺も……辞めてしまおうか……)

 ふと、そんな考えに、心が揺らいだ。

 その時だ。

「アルシャ」

「はい」

 反射的に、アルシャは答えて振り向いた。

 この響き、この調子に、そう反応するように身体が覚えている。

 振り返る、ほんの何分の一秒かのあいだに、ラインスの心の中では、2つの考えがせめぎ合った。

 ――この声は。
 ああ、この声を、もう一度聞くことができるとは……

 ――まさか、そんな。
 聞き違いだ。あの人が、ここに現れるはずがない……

「部長!」

 振り向いたアルシャが発した叫びに、フィネガン・トロウは、目深にかぶった雨具のフードをちらりと上げ、視線を向けてきた。

 アルシャはその一瞬で全てを了解し、口をつぐむ。

 まだ信じられないという顔をしているアルシャに、フィネガンは軽く頷き、ゆっくりと隣に立った。

「……部長は、よせ。今はもう民間人だ」

「いいえ」

 アルシャの声には、自分でも驚くほど、覇気が戻っていた。

「帝都警備隊の男として、全てのことを、あなたに教わりました。
 僕にとっては、いつまでも、部長は部長です」

 フィネガンは、軽く肩を竦めただけで、それ以上は何も言わなかった。

「……部長は、これまで、どこにいらっしゃったのですか?」

「さすがに、この状況で、素顔を晒して街中を歩き回る気はしなかったからな。
 なじみの店に転がり込んでいた」

 帝都警備隊の、特に捜査部での勤務が長いと、誰でも、そういうねぐらのような場所をいくつか持つようになる。

 だが、このような状況でも受け入れてくれたというのは、並大抵のことではない。

 それも、かねてからのフィネガンの人望あってのことだったのだろうと思うと、アルシャは、自分のことのように誇らしい気持ちになった。

「……それにしても、ひどい有様だな」

「ええ。試合があった、その日のうちに」

 表情を引き締め、簡潔に報告する。

 フィネガンが既に部長職を退いていることを考えると、これは違反どころか違法にもなりかねない行為だったが、アルシャは、迷わず、彼に情報を伝えることを決断した。

「放火です。燃え方から見て、何者かが一階に大量の油を撒き、火を点けたと見て間違いないだろうというのが、防火部の見解です。
 ですが、犯人に繋がる手がかりは、今のところ、まったく出ていません」

「……お前は、どう考えている」

「ここが焼かれたのは、マーズヴェルタ城からの正式な発表がなされる前です」

 アルシャは、きびきびと答えた。

 先ほどまでは、水に浸されてぶよぶよにふやけた海綿並みに鈍かった思考が、フィネガンと言葉を交わすうちに研ぎ澄まされ、いくつもの情報の断片が歯車のように噛み合って動き出すような気がする。

 ――マーズヴェルタからの正式な発表。

 それは『ラインス・クレッサの《紫のケモノ》化は、ほとんど知られていない特殊な魔術によるものであり、決して《黒の呪い》によるものではない』ということだった。

 確かに、あれから知り合いの魔術師たち――もちろん、国家の公認を受けていない裏の魔術師たちも含む――にことごとく当たってみたが、《アレッサの結界》の異変を示すような《光子》の乱れを感知した者は、誰ひとりとしていなかった。

「あの日、その発表がなされる前に、『ラインス・クレッサは《黒の呪い》に冒されていた』という噂が、このあたり一帯で、急激に広まったそうです。
 それで《呪い》の感染を恐れて、一時、付近の住民が逃げ出す騒ぎが起きたと……。
 その混乱の中で、この家は放火されたのです。
 ほどなく、マーズヴェルタ城からの発表があり、事態は一応、沈静化しました。
 僕個人としては、パニックに陥った住民の一部が《黒の呪い》を恐れ、浄化と称して、火をかけた疑いが強いと見ているのですが……
 今のところは、目撃証言もなく……捜査は、完全に手詰まりです。
 新しい部長は、そもそも、本気で捜査をする気もないようですし……」

 最後の一言は、思わず漏れた本音だった。

 いまや、ラインス・クレッサの名は、捜査部にとって忌まわしい汚点だ。

 もはや本人を罰することもかなわぬ今、このまま時が過ぎ、人々の記憶からその名が薄れ、消え去るのを待つしかない――というのが、新たな上司の考えだった。

 フィネガンは、アルシャの言葉にも反応らしい反応を見せず、先ほどからずっと、ばしっ、ばしっとてのひらに拳を叩きつけている。

 考え事をするときの、いつもの癖だ。

 やがて、不意に彼は言った。

「……妹は、どうしている?」

「カナヴァ通り8番2階のベルナ・ウェリアのもとに匿われていたところを、一時、イーサン・ホークと名乗る若者に保護され、その後、皇帝の魔術師たちによって、マーズヴェルタ城に連行されたそうです。
 おそらく、今もマーズヴェルタ城で、兄との関わりについて、取り調べを受けているのではないかと……」

 アルシャは手帳を取り出し、指先で押さえながら、判明していることを次々と報告する。

「魔術師たちとの間で、小競り合いとなったため、イーサン・ホークも一時、身柄を拘束されたのですが、ティンドロック卿が身元引受人として名乗り出、特に不審な点も見られなかったため、現在では釈放されています。
 イーサン・ホークは、剣術道場の門下生の一人だそうで」

「では……ラインスと同窓か」

「はい。このイーサン・ホークは、偶然、街中に出ていたところ、あの試合の噂を聞き、ティアさんの身が危ないと考えて、おおよその位置を聞き知っていたベルナ・ウェリア宅方面へ急行し、ティアさんの身柄を確保したとのことです。
 ベルナ・ウェリアについては、40代の未亡人で、クレッサさんの知り合いだった縁で、数日、ティアさんの面倒を見るように頼まれただけであり、今回のことと自分とは、何の関わりもなかったと主張しています。
 こちらでも洗いましたが、本人の主張どおり、怪しい点は何も見当たりませんでした」

 そこまで一気に言って、アルシャは不意に言葉を切った。

 ややあって、悔しげに呟く。

「イーサン・ホークの素早い動きがなかったら、ティアさんは、群集のリンチに遭っていたかもしれません……。
 本来なら、我々こそ、一番にたどり着いていなければならなかったのですが」

 ラインスが、妹の居所について詳しい報告を上げていなかったため、初動で遅れをとったのだ。

 だが、フィネガンは、またしても反応らしい反応を見せずに、ふと、別のことを口にした。

「そういえば、以前に、お前と、この家に招かれたことがあったな?」

「えっ? ……ああ、はい。そうでした。
 あれは……ティアさんの誕生祝いでしたね」

 とっさに相槌を打ちながらも、アルシャは、戸惑いを隠すことができなかった。

 部長は、突然、何を言い出したのだろうか?

 もちろんアルシャとて、無残に焼け焦げて消し炭と煤にまみれ、消火活動のために水浸しになった部屋の無残な有様を見て、かつての、質素ながらも気持ちよく整えられたクレッサ家の光景を思い出さなかったといえば嘘になる。

 だが、今は、そんな懐旧の情に浸っている場合ではないのではないか――?

「あれは、確か、本棚だった。違うか」

 フィネガンは、元は居間だった空間の片隅に、両側の板が辛うじて倒れずに残っている家具の残骸を指さした。

「……ええ、そう、確か、そうでした。
 クレッサさんが集めた、詩集や、物語の本……
 ティアさんが寝台で退屈しないように、集めているんだと……」

「本はどこだ」

 フィネガンが口にした、その言葉の意味がアルシャの意識に浸透するまで、数呼吸の時間を要した。

(本だって? 今、本のことなんて……。
 ――本?)

 無い。

 本棚であったはずの場所に、本が、その燃えかすすら、存在していない……

 稲妻に撃たれたように硬直したアルシャをおいて、フィネガンは床一面をおおう湿った炭をざくざくと踏み付け、一直線に本棚へと歩み寄った。

「ここには、端から端まで、本がぎっしり詰まっていた。
 そうだ、ティアはいつも家で休んでいるから、それだけ買ってもすぐに読み尽くしてしまうと、クレッサが話していたな。
 確かに、端から端まで、本が詰まっていた。そうだったな、アルシャ?」

「そう、です……」

「密着して重なり合った本というものは、四方は焦げても、そう簡単に燃え尽きるものではない。
 なのに、跡形もなく……本はどこへ行った?」

「……あっ、あの! もしかすると、マーズヴェルタ城の魔術師たちが、調査のために持ち帰ったのかも……」

「馬鹿者、見ろ、この棚板を。
 火事の後に、本が押収されたなら、本があった部分の燃え方は、露出していた部分とは違うはずだ。
 見ろ。どこも均一に焼けている。
 ここが焼けたときには、既に、本は無くなっていた――」

 矢継ぎ早に喋りながら、フィネガンは獲物の臭跡を嗅ぎ当てた猟犬のように、他の家具の残骸へと突進した。

「……空だ! どの棚も……中身がない!」

「それは、妙です……!」

 この瞬間、ようやくアルシャの思考は、フィネガンのそれに追いついた。

「おかしいですよ……《黒の呪い》の穢れを恐れ、浄化のために燃やしたというなら、室内のものに、手など触れるはずがありません!
 それなのに、これは――」

 ゆっくりと言ったアルシャの表情が、見る間に、険しくなった。

「それでは……これは……
《呪われし者》狩りに見せかけた物盗りが、その証拠を隠すために、火を……?」

 口調は穏やかなものだったが、声の端々に、卑劣な犯罪に対する憤怒がにじみ出ている。

「違う」

 フィネガンは、断定した。

「これは、家捜しだ」

 普通の物盗りならば、金目のものだけを選んで持ち出す。

 わざわざ、本や、その他のかさばる品を持ち出す理由は何もない。

 ――そうだ、一人の人間に持ち出せる量ではなかったはずだ。

 複数犯。……組織的な犯行だ。

 その者たちには、どうしても探し出したい『何か』があった――

「……そいつらは、ラインスが死んだ後、この辺りで《黒の呪い》の噂を流し……
 意図的にパニックを引き起こして、近隣の住民たちが逃げ出すように仕向けた……」

「そして……周辺が無人になった隙に、この家で、何かを探し……
 その痕跡を隠すため、火を放ち、《呪われし者》狩りに偽装した……!」

「誰が、何のために?」

 畳み掛けるようなフィネガンの問いに、アルシャは、今度は即座に答える。

「おそらくは、一連の事件の黒幕……
 ラインスさん自身は、魔術の使い手ではなかった。
 彼に、あの術を施した者がいるはずです!
 そいつは、ラインスさんと自分とのつながりが発覚することを恐れ、すべてを、闇に葬ろうとした……」

「ラインスが、この家に、事の真相を示す何かを残しているのではないかと恐れたのだな」

 フィネガンがその可能性を示した瞬間、アルシャは、彼ならばきっとやっている、という確信を抱いた。

 たった一人の妹を守るために、法にも、人の道にも背いてしまったラインス。

 だが、彼は、この仕事に誇りを持っていた。

 彼なら、帝都警備隊の男としての最後の義務感だけは、きっと、捨てることはなかったはずだ――

 長い沈黙の後、フィネガンは再び口を開いた。

「そいつらは、目的のものを見つけたと思うか?」

 アルシャの口の端が、ほんのわずかにだが曲がって、笑みの形になる。

「家捜しの経験豊富な捜査部の男は、ちょっとやそっとの捜索で発見されるような場所に、やばいものを隠したりはしません」

「……おまえが奴なら、どこに隠す?」

「部長なら、どこに隠されますか?」

 きっかり一息の後、男たちは顔を見合わせた。

 互いに、まったく同じ場所に思い至ったことが、表情から確信できた。

 フィネガンは言った。

「アルシャ、お前がやれ。
 他の誰も信用するな。お前にしかできん。
 ――帝都警備隊本部を、徹底的に捜索しろ!」


                  【続】






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