飯詰の神社・寺
<太伊山 長円寺> 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)

1667(寛文7)年、弘前市津軽藩主菩提寺長勝寺十四世、聖眼雲祝大和尚の勧請により開山したお寺です。何回かの火災によって歴史的な物が焼失してしまったため、創建年代は定かでないようです。

 むかし、京都から2つの大きな鐘(雄鐘、雌鐘)を積み十三湖経由で岩木川を遡ろうとしたのですが、湖上で暴風に遭って船が転覆してしまったそうです。
2つの鐘とも湖中に沈んでしまったのですが、幸い当時の雄鐘は引き揚げることができたのだそうです。しかし、長勝寺行きの雌鐘はあらゆる手段で捜しても見つからず、湖底に沈んで所在不明となってしまいました・・・
そして、十三湖の主になったと伝えられています。当寺の雄鐘を鳴らすと、今でも雌鐘を慕って余韻が「十三恋し十三恋し」と響くそうで・・・湖底の雌鐘もこれに応えて、「長円寺恋し長円寺恋し」と時折なくことがあるということです。

↑<幸福観音>
(しあわせかんのん)

平成六年に本堂と位牌堂を焼失しま

したが、二年で見事に再建しました。

そのお祝いとして東京に住むご夫婦

から送られたものです。この観音様

は、拝む人々みんなが幸せになって

ほしいという願いで「幸福観音」と名付けられ、遠方からも幸せを祈願する大勢の方々がお参りに来るようにな

りました。

■住所:五所川原市飯詰字福泉224  ■TEL0173-37-2658  ■アクセス:津軽飯詰駅より780


<清凉山 大泉寺> 浄土宗

 

本尊  阿弥陀仏(あみだぶつ)

明暦元(1655)創建 村史によると一番古い寺院となっています。

屋根の頂上に擬宝珠の有る特徴的な本堂が目印で、境内にはとても

立派なフジ棚があり、フジの咲く季節には参拝者を楽しませてくれています。

 現在は、浄土宗清涼山大泉寺となっていますが、初めは修験集大泉院、次が修験念仏宗大泉寺、浄土宗法明山大泉寺、浄土宗妙法山大泉寺、そして現在に至っています。二百数十年前に火事で古い文書を焼いているため詳しいことはわかっていません。

飯詰のほぼ中央にあり、遠く津軽鉄道の線路から飯詰を見渡すとこのかやぶき屋根が見え大変目立ちます。

 

■住所:〒037-0002 五所川原市飯詰字福泉226 ■TEL0173-37-2534 アクセス:津軽飯詰駅より1.1km

 


<光明山 法林寺> 真宗大谷派

本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)

8(1668?)創建 寛永(1628)年光井了誓法師(山城国嵯峨の人)。慶安(1663)年に本願寺

より法林寺の寺号を拝受。現在ります


法林寺というとお寺の裏に「オオイチョウ」と「オオバボダイジュ」があり、県の古木に登録されています。しかし、現在ではオオバボダイジュの大木はすでに無くなっておりその種がこぼれたであろう子供の木が少しずつ大きくなってきています。また本堂右前にあるイチイの木もかなり
古いものです。


境内には飯詰出身の廃人内海草坡の句碑もあります。⇒
「灯り見ず奈り亭音阿類芒可難」 

(あかりみず なりとある ひかりかな)


■住所:〒037-0002 五所川原市飯詰字福泉222  ■TEL0173-37-2536  アクセス:津軽飯詰駅より1.1km



<妙龍寺> 日蓮宗

 

本尊 十界曼茶羅 (じゅっかいまんだら)

天正十六年(1588)、津軽為信に滅ぼされた高楯城主朝日左衛門尉藤原行安が法華経の霊神である未法鎮守七面山鎮守堂を創建しました。

三百数十年以上前の寛文年間に高楯城邸内桜田の地に七間四面の精舎を建立し、法布山行正寺と号しましたが、宝永四年(1707)に小泊村(現中泊町小泊)に移転を余儀なくされたりして、波乱万丈の運命をたどった寺だと伝えられています。また、天明四年(1784)、他教徒の権謀術策、迫害ですべてを焼き払われています。そうした経緯を持ちながらも、歴代上人の努力でかろうじて維持され、七面大明神石碑建立、日蓮聖人像安置、報恩碑奉納、寺庭の造成と寺院再興事業は受け継がれました。昭和16年(1941)に飯詰結社と改め、津軽随明師を担任教師とし、22年に工藤随源師を初代住職として寺号公称に至り、高楯山妙龍寺建立しました。


仏像に七面大明神木造寺宝には開基曼荼羅ある。平成13年(2001)には七面大明神宮殿が五所川原市の有形民俗文化財に指定されています。

 

■住所:〒037-0002 五所川原市飯詰字福泉29  ■TEL0173-37-2654 アクセス:津軽飯詰駅より1.4km

 


<稲荷神社>神社庁のHPより

●由緒●
寶暦十二年勧請。
飯積稲荷宮由来によると高楯城南丸の西の方に祀られる正一位稲荷大明神は、 高楯城の城神である。 古来高楯城の地名は飯塚盛と称し、 また稲城とも称した。正平六年藤原藤房公が伊勢神宮の外宮豊受大明神宮司藤原総宮大夫山城守より守尊符に持参した御神体である。
明治十年十二月存置許可。
本殿・幣殿・拝殿 大正十二年六月十日改築。
本殿・幣殿・拝殿 昭和二十六年六月改築。
幣殿・拝殿 昭和六十一年新築。

年末1231日一時〜行われる裸参りが有名で、毎年全国各地から有志が集まる。
 

住 所:五所川原市飯詰字狐野16912
 
御祭神:倉稲魂命
 例祭日:旧六月九日


<神明宮>神社庁のHPより

 

●由緒●

 勧請年月不詳。 延宝三年再建。
安政四年諸神社明細並別当由緒書によると《延宝三年行人長学建立》とあるが、 延宝九年堂宮神主山伏行人之覚に《旧地門家村有之、 文禄三年初開之寺也、寛永十九年に当弘前に引越、 則御国中行人之支配仕候、 但初開之年より延宝八年迄九十八年也、 当住僧迄数八代》とある。 連光山大円寺の支配で、 同書に《飯詰村行屋舗当住僧宝海行迄五代他》とある。該書は藩に於て初めて調査せる最も有力な縁起であるから、 此の五代説は動かない。 これを通例の一代平均二十年として計算すると元亀・天正頃迄逆上ぼる古い社堂である。
明治五年八幡宮へ合祀。
昭和二十八年復社。

 
住 所:五所川原市飯詰字福泉230
 
御祭神:天照大神
 例祭日:旧六月十五日
 

 

 

 


<八幡宮>

 

 



八幡宮では「なごみ塾」で地元の子供たちに勉強の指導、
舞姫の指導も積極的にやっています。


飯詰鎮座八幡宮はその縁起によると1288年(正応元年)飯詰村の近郊にあった飯詰村の支村である大坊村の館主樺沢団右衛門が勧進したと言われております。1344年に飯詰村に高楯城が築城されると歴代城主の祈願所として約250年に亘り崇敬されました。
しかし、1588年
(天正16年)にこの高楯城が、津軽藩主津軽為信の攻略に遭い、城主真理小路藤原行安を始め主従らは城を枕に討ち死にし村民は支離四散。大坊村は無人と化し祭主なく60余年の間荒廃したままでした。その後、津軽為信が復興に取り掛かり、承応元年(1652年)に大坊村中にて、飯詰村鎮守社として再興されたものと伝えられています。

寛保年中に大坊村村民は残らず飯詰へ引移れるようになったことにより神社遠隔となり、一七〇五年(宝永二年)現在地である飯詰村愛宕宮へ遷座しました。その後、1751年(宝暦元年)に愛宕宮の境内に新築再建したものが現在の八幡宮本殿であります。

1774年(安永3年)には、飯詰組27ヶ村の鳴弦祈祷祈願所に指定され、以後飯詰組守護の為公費を以て毎年六月二十四日祭祀を奉仕。

明治4年に愛宕宮を合殿とし八幡宮と改称。
 明治5年、飯詰村別社神明宮を合祀。
 明治6年、石田坂村白山姫神社を合祀し、明治6年に郷社に列せられました。

以後、本殿・幣殿・拝殿は昭和23年9月改築。さらに幣殿・拝殿は、昭和52年改築。平成6年1月11日、県教育委員会の独自の調査により、青森県重要文化財として指定されました。宝永ニ年及び宝暦元年の棟札写しが社蔵記録として保管されており、構造形式や細部の様式などからみても、18世紀半ばの建立とみることができるものであります。

角柱の向拝柱(こうはいばしら)に粽(ちまき)がつけられているのが珍しく、虹梁(こうりょう)や木鼻(きばな)の彫刻をはじめ、各所の絵様には優れた彫刻手法が示されおり、県内の一間社流造本殿としても、貴重な遺構とされております。

 

住所:〒037-0002  五所川原市飯詰字福泉148-1 ■TEL0173-37-2547 アクセス:津軽飯詰駅より970


<大日如来>
 

坂上田村麻呂の像がある

坂上田村麻呂とは
中央
で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。

 大日堂社

宝暦2(1752)年。大日尊軆を大泉寺が引き受けて建立しました 大日如来をまつります

行基などが、日本の神々は天竺(インド)の仏が我が国に跡を垂れたとする 跡説がります、たとえば八幡大菩薩や岩木三大権現などの呼び名があります

照大~は大日如来と結びつけられてます大日如来は大日覚王如来といい 金剛界大日と胎臓界大日の総称で、仏達の相取締役格の仏様


■住所:〒
037-0002  五所川原市詰影日沢  アクセス:津軽飯詰駅より1.5km


<愛宕神社>神社庁のHPより

●由緒●

創立年月日不詳

寛永の頃、 藤右エ門なる者、 金神林に於ける大木の根元にて奇異の三石を発見し、 霊夢に依り三宝荒神と崇め奉る。
明治四年愛宕神社と改める。
明治六年四月毘沙門鹿島神社へ合祭。
明治八年二月復社。
明治九年十二月村社に列せられる。
明治四十二年八月二十七日指定神社に列格せられる。 


住所:五所川原市下岩崎字戸草元712
御祭神:軻遇突智命 
例祭日:旧六月二十八日

 

 

 

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