飯 詰 の 歴 史
高楯城址
(現在は資料館「あすなろの家」)
高楯城についての説明がありますが
文字が消えて読みづらい状態です
高楯城が実際にあった場所は
現在のあすなろの家のもっと上です

<飯詰の名前の由来>
飯詰村史によると以下の二つの説があるそうです

1.飯詰は見晴らしが良いところという意味のアイヌ語「イズミ」を名づけた。
  飯詰は高台地で東は中山連峰、西は津軽平野を一望に見渡すことができる景勝地である。

2.飯詰は元「飯積」と書いていた。
  飯積は読んで字のごとく飯を積むと饅頭型即ち古墳の形態となり、飯積とは古墳の義で、この古墳を表現して
  飯積とした。(尚貞享4年初めて田畑の水張を作った際に飯積を飯詰と書き改めたものである)
  


<飯詰の主なできごと・歴史を振り返る>
 飯詰は津軽では最も古くから栄えた村の一つでした。
私たちの先祖は一生懸命働き、時には戦い、今を築きあげました。
飯詰の歩んだ歴史を少しだけ振り返つてみましょう。

古代

大昔の飯詰 縄文時代前期〜

 

馬神山や摩の岳(坪毛山)のふもとで狩りや木の実をとり、タテ穴式住居に住む

 

 

平安時代

玄武砦(高楯城の前の名)築城

 

玄武というのは北方を守る神で、砦のある飯塚盛りは古墳だと言われる

 

 

室町時代

飯積の地名

 

大昔は「泉」といわれた。アイヌ語で景色のいい所を言う意味。

 

泉→飯積→飯詰となる。 岩村→岩崎

 

 

安土桃山時代

高楯城落城

1588年

250年間続いたが大浦為信(後の津軽為信)との戦いに敗れ落城した。

 

 

江戸時代

神社・寺院を建てる

 

建てられた年代がはっきりしていないものが多い。村史によると1652年白旗八幡宮建立とあるのが一番古い

 

 

江戸時代

代官所・大場(市場)できる

1664年

近隣では一番栄えていた飯積に御代官役所は設けられる。市場は弘前、黒石、飯積、板柳、浅虫の5ヶ所

 

 

江戸時代

天明の大飢饉

1782年〜

何年も冷害が続いた。飯詰でも残った家は5,6軒しかなかったという                                                               

 

 

明治時

飯詰小学校創立

1875年

それまで寺子屋だったが、国に役立つ国民を育てるため新しい制度ができた。
最初の校舎は八幡宮と先生(松野伝)の家だった。

 

 

明治17年

役場、駐在所、郵便局できる

1884年

明治20年駐在所、明治22年飯詰役場、明治40年郵便局開設

 

 

大正13年

飯詰浄水場完成

1924年

券かで二番目にできた五所川原初の施設。市民の大切な水源となる

 

 

昭和5年

津軽鉄道開通

 

それまでは営林署の森林鉄道を利用したりしていた。津軽鉄道の開通は沿線住民に喜ばれお祭り騒ぎであった。

 

 

昭和22年

飯詰中学校創立

1947年

戦後新しい日本国憲法が公布になり学校教育法、教育基本法は示され、申請中学校が開校された。

 

 

昭和29年

飯詰、五所川原市となる

1554年

飯詰村など1町6か村が合併して五所川原市ができた。

 

 

昭和48年

飯詰ダム竣工と不動公園

1973年

五所川原市上水道給水とかんがいの多目的ダム。周辺は不動公園になっている。」

 

 

昭和年51年

高楯城資料館「あすなろの家」できる

 

昭和42年「高楯城址史蹟保存会」が結成され高楯城を再現し、史蹟として後世にまで語り伝えたいという願いがかなった。

 

>>戻る