ばかげた筆順の強制人と民宣帝と儒者漢字質問箱漢字家族

1999年3月16日早朝 走り書き

※出勤前の数分間で書きなぐった文章なので、支離滅裂で恥ずかしいのですが、教育現場では、同じようなことが繰り返されるので、そのままアップします。つまらないことを、いかにも大切なことのように飾り立て、尊大に構えて、罪もない人々を煙に巻くのが教育界の悪い癖です。

 昨日「古代において、子どもを献上した例はありますか?」という質問を受けた。仕事の途中突然に質問されたので、こういう質問をされるまでのいきさつを知らなかったのだが、これが「子供」という表記についての詮索であるとは思いもよらなかった。

 教育現場では以前から、「子供」と「子ども」の表記については、「子ども」を使用するようにいわれてきた。このことについては、私は次のように理解していた。

 およそ報告書や資料をつくるときには、書式や用語の統一が必要となる。1と(1)と@の関係や、別の資料から文章を引用するときの約束、漢字を使うか、ひらがなを使うか、など。そうしないと、各人各様に文章を書いていたのでは、全体の報告書や資料集ができあがったときに不揃いで見栄えが悪い。そこで、「子供」と「子ども」についても、その書式統一の一環として、教育委員会関係の資料作成のおりには、「『子ども』の方を採用しよう」ということになったのだと理解していた。以前から文章を書くたびに、そういう要請があるため私のワーブロは「こども」と入力すると、まず「子ども」と変換されることになっている。「子ども」という表記方法の要請は、私の−「無意味に漢字を濫用しない」−という考えにも合致するので、すんなりと受け容れてきた。たんなる書式統一の必要性からの要請であると思ってきたからである。

 ところが、昨日の話によると「子供」の「供」という字が語源的に好ましくないから使用しないのだという。おそらく何かの聞き間違いであろうが、もしそういう理由で「子ども」という表記を強制し、「子供」を許可しなかったということなら、とんでもないことだ。「供」と「ども」、こんなことはどっちでもよろしい。ただ、同じ文章の中に表記方法の違う言葉がたくさん使用されていたら不揃いで見栄えがしないし、時によっては読者が読みづらくなるので、同じ文章の中や資料集の中では、できるだけ統一した方がいいというだけの話である。私的な文章であれば自分の好みで、公的な文章であれば編集者の判断やそれまでの編集方法にしたがって書けばよい。ただそれだけのことだ。

 およそ他者の自由権を制限するときには合理的な理由が必要だ。わけもなく最も基本的な人権を侵害されてはたまらない。私は「『子ども』を使用しなさい」という要請は「こういう編集方法でいきます」というほどの意味だと思って、これに従ってきた。ところが、「子ども」が正しくて、「子供」は間違いだということになると、話は全く変わってくる。「子供」は間違いであるという根拠はないのだ。普遍的な真理と、一時的な取り決め・恣意的な規定とを混同してはならない。

 「こども」ということばは「こ」+「ども」という組み合わせでできている。「ども」は複数を表す接尾辞で「子ら」の「ら」や「子たち」の「たち」と同じ意味である。文章表記する際、それに「共」「供」という漢字をあてた。「共」「供」はともに「とも」と訓ずるからである。さしたる意味はない。ここで「共」や「供」の語源を詮索する必要はない。たんなる当て字だからである。ただし、「当て字はいやだからひらがなでいこう」というのならそれでいい。

 学問というものは知識の習得だけが目的ではない。無目的に知識だけをつめこむと、害を及ぼすことすらある。必要もないのにナイフや拳銃を所持することと似ているような気もする。語源を学ぶということもそうで、何か目的があって系統的にやらないと変な結果を生むこともある。たまたま一つの文字について漢和字典を調べてみて、「この字は気にくわぬ」と思ったからといって、その人がそう思うのは勝手だが、「この字は気にくわんから、これから使わないようにしよう」と言って他者にそれを強制されてはたまらない。語源研究というものは、そんなことをするためのものではないはずだ。  たとえば「日本人は公共物を大切にしない」という定義があったとする。事実、過去にこのようなことがいわれたことがあった。私にはこの定義が真であるか偽であるかを判断することはできないが、もし一般的にこのように思われているとしたら、それを探ることができる。ここに「おおやけ」という言葉がある。現在、英語の「public」、あるいは漢語の「公」にあたる言葉として使用されている。(※注1) 英語のpublicは「人々のもの」という意味を含み、漢語の「公」が、独り占めにしているものを開いてみんなに分配するという意味を含んでいるのに対して、「おおやけ」は

大きな家 − 親分の家 − 皇居 − 天皇家 − 支配者・統治者

というふうに変化してきたという説がある。(大野晋氏の説)

 ここから、日本人は公共物に対して古代からの「おおやけ」という言葉の古い意味を意識の根底にひきずっていて、「おおやけ」と聞いた場合「自分たちのもの」という気があまりしない。自分たちのものではないから大切にしようという気持ちが生じにくい。ということを読みとることができる。このように語源をたどるということは、その言葉を使用している我々の意識をたどることにある。我々が何を考えているのか、何をどのように認識しているのかを確認しようとする場合、言葉を厳密に分析する必要性が生じる。けっして言葉の善し悪しを判定するために語源をたどるわけではない。

 みなさんには、以前「民」という字の語源を示した資料を提示させていただいた。数度にわたって配布させていただいたので、ご記憶の方もおられるだろうと思うが、「民」という字は語源的にいえば恐るべき字である。では、語源的にとんでもない字だからといって、「今日から『民』という字はいっさい使用しないことにします」と言えるだろうか。とんでもないことである。民主主義、人民、国民主権などという言葉を今さら抹殺することはできない。
  ※「人と民 -- 漢字家族」

 知識の習得は、智慧の鍛錬をともなわなければならない。智慧とは真実を見通す力である。智慧を磨くにはある程度知識の集積が必要となるかもしれないが、知識を集積した結果として智慧が磨かれるのではない。知識が多ければ多いほど、それが体系的なつながりをもって意味づけされていなければ、かえって智慧を阻害することになる。日本の詰め込み教育は、ひたすら智慧を曇らせる教育になるおそれを十分に含んでいる。理屈抜きの強制、過程抜きの結果の重視、理解を抜きにした暗記の強制がこれに拍車をかけている。そう考えるなら、「子ども」はいいが「子供」はダメであるというような不毛の議論に惑わされないよう、教育委員会が率先して啓発を進める必要がある。



(※注1) もどる

※漢字が輸入されてから「公」という字に、なぜか「おおやけ」という訓をあてた。訓をあてるということは日本語に翻訳するということである。「山(サン)」を「やま」と訓ずるということは「山」を「やま」と翻訳することである。これはいうまでもないことだ。意図的であったのか、そうでなかったのかはわからないが、我が国の古代の知識人は「公」(みんなに分け与える)を「おおやけ」(=お上)と翻訳したのである。 もどる  (※注2)「子供」は「子を供える」とは読まない!




添付資料

【共】kiu(ng) →kio(ng)
左右の腕を両側から曲げて出し、その間にものを捧げ持つ姿を示す会意文字。
拱の原字。
両手が平均して働くから、のち共同の共の意を派生する。
「両手で」という意味から、しだいに「ともに」という意味に傾いていった。
本来は |_ _| 型にささえるその曲がった構えをkiu?という。

【拱】kiu(ng) →kio(ng)
両手を |_ _| 型に曲げ、右手を内に、左手を外に合わせる作法。こまねく。

【供】kiu(ng) →kio(ng)
両手で捧げ持つ意から、ていねいに物品をそなえる意を派生した。

※ 同系語  曲・区・句・局・隅・共

                    基本義 (まがる・こまかく入りくんだ)

(学燈社漢字語源辞典より)

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 「子供」は当て字だから、これを漢文式に「子がそなえる」と読んだとしても、何の意味もない。たとえこじつけてそう読んだとしても、それを悪い意味にとれるであろうか?私にはこの字がいけないといわれる理由が見あたらない。たとえこじつけの論であったとしても。

1999年3月16日早朝
走り書き 渾 沌



【追記】

※「子供」を「子を供える」とは絶対に読まない。漢文訓読の基本中の基本である。
「書を読む」は「読書」、「山に登る」は「登山」
「書読」とか「山登」とは書かない。 ※漢文の基本構造
※「子どもを付属物扱いにしている」という主張
これも、こじつけにしてもお粗末。 本来の漢語ではなく日本語としての特別の意味として「身分の高い人に付き従うこと。また、その人。」があるが、それにしても、「子供・・・子は供なり」と訓読するにはあまりにも無理がある。 もどる

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