本堂

御本尊 文殊菩薩騎獅像 鎌倉時代 (重要文化財)
不動明王坐像      江戸時代
四天王像        江戸時代
弁財天女
弘法大師
興正菩薩 

 

境内

楼門    鎌倉時代 (国宝)
十三重石塔 鎌倉時代 (重要文化財)
笠塔婆   鎌倉時代 (重要文化財)
一切経蔵  鎌倉時代 (重要文化財)


般若経を説いた智恵の菩薩。後醍醐天皇の御願仏として願主文観上人、仏師康俊・康成、施主藤原(伊賀)兼光らによって造顕される。もと経堂の秘仏であったが、現本堂再建と同時に御開帳された。


右手に剣を握り、左手に索を執り、火焔光背を負い、須弥壇に近い形式につくられた瑟々座(しつしつざ)に坐した姿である。  内に慈悲を秘め、外に忿怒の相を示し悪に対する怒りと力強い仏の救いを表現している。


四天王の一で須弥山の第四層の賢上城に住み、東方の守護を司り、他の三州を兼ね守るため持国という。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、刀、宝珠を持つ。


四天王の一つ。須弥山の中腹南方に住し、南方世界を守護する。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、鉾・刀などを持つ。赤の武神。


四天王の一つ。須弥山の中腹西方に住し、西方世界を守護するという。甲冑を着けた忿怒の武将形に表され、筆、巻子あるいは索などをもつ。


毘沙門天の別称。四天王の一つとする場合、多聞天と称する。原語は「広く名の聞こえた」と意される。


真言宗の開祖。平安初期の僧。


真言律宗の宗祖。鎌倉期の僧。興福寺の学侶の子として大和国に生まれる。1217年(建保5年)17歳の時、醍醐寺で出家する。1234年(文暦元)真言密教の行者が多く魔道に堕ちていることに疑問を抱き戒律の復興を志す。1236年(嘉禎2年)に東大寺法華堂で唐招提寺の覚盛らと共に自誓受戒をし比丘となる。戒律の普及に努めるとともに、弱者救済にも尽力した。

 

歴史
 

時代

出来事

飛鳥時代
(629) 

 日本「三論宗」の初祖、高句麗の僧、慧潅法師がこの地に瑞祥を見て「般若台」と号する精舎を開創。

 奈良時代天平18年
(735)

 聖武天皇が平城京の鬼門鎮護のため紺紙金泥の『大般若経』六百巻を地中に納め、卒塔婆をはじめ伽藍を
整え勅願寺としそのとき経題に因み「般若寺」と命名。

平安時代寛平7年
(895)頃 

観賢僧正が学僧千人を集め学問寺の名声を高め、長らく繁栄を誇ったという。(以上『般若寺歴代記』による)

 平安末期の治承4年
(1180)

 平重衡の南都焼き討ちによりこの地は合戦場となり、伽藍は焼亡した。(『平家物語』)鎌倉時代、礎石のみが残る廃墟の中から復興する。

 建長5年
(1253)頃

 現存の十三重石宝塔が東大寺再建事業に来日した宋人、伊行末によって建立される。

 文永4年
(1267)

観良房良慧上人の発願で西大寺の律僧たちの協力を得て金堂や講堂、三面僧房など七堂伽藍が復興される。
また同時に興正菩薩叡尊上人が発願の丈六文殊像を開眼供養す。 

 文永6年
(1269)

 病気と貧困に苦しむ人々を救済するため「無遮の大会」を実行し数千人に布施行を行う
・・・生身文殊供養の始まり(『般若寺文殊縁起』・『感身学正記』・『叡尊願文』)

室町時代文明年間・戦国時代永禄年間に兵火を被り丈六本尊並びに主要伽藍を失う。

慶長大地震により大石塔が上三重目まで墜落す。

江戸時代「御朱印寺」として法灯を保つ

 
興正菩薩叡尊
 
忍性菩薩
 
般若寺中興第一世長老 慈真和尚
 

 寛文7年
(1667)

 本堂再建、秘仏本尊を御開扉

元禄15年
(1702) 

 大石塔再建

同16年
(1703) 

西国三十三所観音石像が山城国北稲八間住人寺島氏により寄進奉納さる(『般若寺文書』) 

嘉永7年
(1654)

地震で再度大石塔損壊、安政7年(1860)修復。

明治1年
(1868)

廃仏毀釈により被害を受ける

宝塔破却の姿を見、群参の人々嘆息す、「言語道断の次第なり」
(『石塔納入文書』)

新政府の上知令により境内地が3万6千坪から2千5百坪に減らされる。

昭和年代
(1964以降)

大石塔・笠塔婆・経蔵・鐘楼・本堂・庫裏を修復再建、旧境内地 を一部買い戻す。