石川家

石川清兼
 石川康正
  石川正数
   石川康長
   石川康勝
 石川家成(本家2代目)
  石川康通(本家藩祖)
  石川忠総(本家3代目)
   石川廉勝
    石川憲之(本家4代目)
   石川総長(下館藩祖)


石川清兼

 石川康正(?〜?):清兼長男。

  石川正数(?〜1593):康正?男。家康筆頭家老。姉川、三方が原、長篠の合戦などで、戦功を上げる。1584年、秀吉との講和使節をつとめ、しだいに秀吉に心をよせ、1585年、出奔し秀吉につき、泉で8万石となる。1590年、信濃松本8万石となる。

   石川康長(?〜1642):正数長男。1593年、父の遺領のうち、信濃松本6万石を継ぐ。1613年、大久保長安の不正事件で連座改易。長安の嫡子藤十郎の妻が康長の娘だったため。

   石川康勝(?〜1615):正数次男。1593年、父の遺領のうち、信濃1.5万石を分与される。1613年、大久保長安の不正事件で兄とともに連座改易。1614年、大阪城に入城。1615年、夏の陣で討ち死に。

   石川康次(?〜?):正数3男。1593年、父の遺領のうち、5000石を分与される。大久保長安の不正事件で兄とともに連座改易。

 石川家成(1534〜1609):清兼次男。本家2代目。徳川家康のいとこ。1560年の丸根砦攻撃では、先鋒をつとめる。1561年、鳥羽根城攻略。1580年、家督を康通に譲る。1607年、康通の死去に伴い、嫡孫忠義が幼少のため、2代藩主となる。

  石川康通(1554〜1607):家成?男。本家藩祖。1573年、武田勝頼と高天神城で戦い、勇名を知られる。1590年、上総2万石となる。関が原の戦いでは清洲城守備。1601年、美濃大垣5万石となる。

  石川忠総(1582〜1650):家成養子。本家3代目。1609年、家成の死に際し、家康の命によって、嫡孫があったが家督を継ぐ。1616年、1万石加増されて、豊後日田へ、1633年、1万石加増されて、下総佐倉、さらに1634年、近江膳所(7万石)へ転封となる。

   石川廉勝(?〜1650):忠総長男。先立つ。

    石川憲之(1634〜1707):廉勝長男。本家4代目。1650年、祖父の遺領のうち、5万石を継ぐ。同年、伊勢亀山に転封。1669年、1万石加増され、山城淀に転封。(この系統は、6代藩主総慶もとき、備中を経て、伊勢亀山城主となる。) 格式一覧73

   石川総長(1605〜1661):忠総次男。常陸下館藩祖。1650年、父の遺領のうち1万石を分与される。1660年、1万石を加増され、伊勢神戸に立藩。(この系統は、3代藩主総茂のとき、分与もあり1.7万石となるが、0.3万石加増、転封され、常陸下館2万石に。) 格式一覧181


その他の石川氏


石川家光

 石川光政(?〜?):家光長男。秀吉の家臣。美濃鏡島城主。

  石川貞政(1575〜1657):光政?男。秀吉の馬廻。上杉攻め従軍し、関が原でも奮戦する。戦後、豊臣秀頼に近侍し5000石を給される。1614年、片桐且元とともに大阪城を離れ、高野山に入り剃髪。大阪の陣開戦とともに家康軍に与す。以後、幕府につかえる。

 石川光重(?〜?):家光次男。

石川一光(?〜1583):賤ヶ谷の戦いで奮戦。七本槍の一人に数えられる。(実際の7人には入っていないけど、実は9人いて、その中の1人。)

石川頼明(?〜1600):兄一光が賤ヶ谷の戦いで死去したため、兄に代わり、1000石と感状を受ける。1598年、6450石。1600年には、1.2万石となる。関が原では西軍に与し、後に自害した。

石川貞清(宗林)(?〜1625):1590年、小田原攻めの後、尾張犬山城で1.2万石。関が原の戦いでは、西軍につき、城を捨て関が原で勇戦する。戦後、改易されたが、死罪を免れる。その後、宗林と号して上京し、京で金融業を営む。

石川貞通(?〜?):1584年、小牧・長久手の戦いに従軍。小田原攻め、朝鮮出兵にも従軍。1599年ごろには山城・丹波で1.2万石。関が原の戦いでは、西軍に属し、戦後改易され、南部利直に預けられ、子孫はその家臣となる。

石川光元(?〜1601):秀吉の馬廻組頭。1577年、播磨竜野1万石。小田原攻め、朝鮮出兵に従軍。1600年、西軍に属し、失領。

 石川光忠(?〜?):光元?男。徳川義直に仕え美濃駒塚城主となる。