現状と往時の復元 (マウスを画像にドラッグしてください)
 年 表
歴史: 丸亀城は秀吉の四国平定後、播州赤穂から讃岐に六万石で入封した生駒親正が高松城を完成させた後隠居してから築城を開始した城。しかし関ヶ原合戦で生駒親子は東西に分かれ、西軍についた親正は高野山に幽閉され、十七万石の大名として讃岐に戻った子の一正が丸亀城を完成させる。
その後元和元年の一国一城令で丸亀城は一旦は廃城になる。寛永十七年の生駒氏お家騒動での転封後、十八年に肥後富岡より山崎氏が五万三千石で丸亀に入り城の改修が始まる(現在の丸亀城はこの時が始まり)。
山崎氏は3代で改易になり、播州赤穂から京極氏が六万六千石で入封。改修の続いていた城に現在の形の天守や方位を変えた大手門もこの時代に完成した。現在の石垣群はほぼこの時期のもの。以後京極氏は七代続いて明治維新を迎える。
明治に入り、10年に建物は解体され残った天守は昭和18年に国宝に指定される(現在は重要文化財に格下げ)。


丸亀城の魅了はなんといっても石垣ですね。大手門越しに見上げる正面石垣の積み上げには圧倒されます。大手枡形を通り抜け三の丸に向かう坂道あたりから石垣がそそり立つのが目に飛び込んできます。西日本には累々たる石垣を持つ城は多くありますが、簡潔明快に石垣の箱を積み上げたように見える輪郭式段石垣の城はこの丸亀城が代表格でしょうか。三の丸に上がるとらせん状に回らないと本丸に入れない設計になってます。二の丸に入る通路の小坂に門があったと思われる石垣が両脇に立ち、その右手上方に天守が見上げることが出来ます。天守正面に石落が設けられているわけがここに来て解かります。見上げる天守は石垣の規模からみると小振り(東西六間、南北五間)ですが、正面には唐破風を配してなかなか端正で上品な姿を見せてます。本丸からはパノラマの丸亀平野と天守の正面には瀬戸内海が眺望できて気持ちのいい高台です。この城も復元を目指しているらしく本丸、二の丸等の隅櫓跡の発掘進行中らしきブルーシートがあります。

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縄張図(クリックで縮小)
縄張図


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二の丸入口よりの天守見上げ。小振りの天守も逆光越しに見上げると立派。
天守見上げ1
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二の丸下から天守の見上げ。かっては天守手前には連結する多聞櫓が視界を遮っていた。
天守見上げ2
本丸内からみた天守。一階は西面(入口)以外は腰に下見板張。梁行は東西になっているが北側を正面と見せため3層目の屋根の入母屋破風を南北方向に変えて大きくしているのでサイドが薄く横長の正面の姿に最初は違和感を覚える。「見せる天守」の存在感がある。2層目の唐破風3層目の千鳥破風と、小振りながら天守らしい意匠を加えている。