徳川時代と豊臣時代の大坂城本丸正面 (マウスを画像にドラッグしてください)
 
 年 表
大坂城の前身は石山本願寺。石山本願寺は明応5年(1496)に本願寺八世蓮如がこの地に坊舎を建てたことから始まった。戦国時代には隆盛を極め、本願寺に指揮された一向一揆は戦国大名には驚異になり、天下統一を目指す信長と激突することになる。元亀元年(1570)に始まった石山合戦は10年にもおよんだが難攻不落の城ともいえる本願寺は信長にしても陥落しなかった。天正8年(1580)の正親天皇の仲介により和議が成立し、蓮如から三代目の顕如は大坂を出てここに大坂は信長の手に入った。が、本能寺の変でその信長も討ち死にし、後継者になった秀吉が大坂築城という信長の夢を継ぐことになる。秀吉が築城した大坂城は当時としては全国最大の規模を誇り、天守は黒漆を施した下見板の壁面と金箔をふんだんに使用した桃山様式の絢爛豪華なものだったよう。後に造り替えられた徳川大坂城の櫓や石垣の規模にはかなわないものの、凝縮された建築美と豪華さは豊臣大坂城のほうが遙かに上。大坂夏の陣後築城技術は飛躍的に向上したが、建築的な面白さはこの大坂城と共に滅んでいったのかも知れない。

豊臣時代の本丸は内堀の入り込みで本丸がくびれ表と奥に分かれていた(その内堀の入り込みを埋めると現在の本丸になる)。本丸奥は一二三段で構成され東西面は二つの帯曲輪が取りまわっていた。天守は現在位置と反対の本丸の北西隅ににあり、下見板張りに黒漆の壁と金箔瓦をふんだんに使った華麗な桃山式の天守があがっていた。。本丸の北側は秀吉の城には必須の山里曲輪があり極楽橋で二の丸へ通じる。本丸表も東西でくびれて東は公式の表御殿があり、西側に本丸正門の桜門があった。現在の完成された枡形を持つ桜門と比べると豊臣時代の桜門は土橋の突端に横向きに櫓門が配置されているだけで土橋が枡形の役目をも受け持っていた。

徳川時代の本丸は豊臣時代の内堀の入り込みを埋め桜門を中心軸に移動した形で、形としてはは豊臣時代を継承している。普請に関しては比較にならないほど徳川時代は質量で豊臣時代を凌駕する。高知城の天守クラスの三層櫓を本丸に11基建て、それぞれを多聞櫓ですべて繋ぎ鉄壁の構えの本丸だった。全国一堅固な本丸だったといわれる。天守は当時最新の層塔型の白漆喰総塗籠で豊臣時代の2倍ほどの規模のものが上った。徳川大坂城は天守、櫓とも白漆喰総塗籠で豊臣時代の黒い大坂城から白い城に大変身している。
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櫓、門の現存と当時のものの位置です。

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現存の大手門と千貫櫓。
大手門と千貫櫓。(クリックで拡大)
文化の日にあわせ内部の特別一般公開がありました。
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白壁に突上戸の組み合わせが新鮮に映りました。
大手多聞櫓
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大手枡形多聞櫓の入口。長大な多聞櫓が美しいです。
多聞櫓入口
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大手櫓門の天井組です。
大手櫓門の内部
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戦災で消失した伏見櫓(二の丸では唯一の三層櫓でした)立派で美しい櫓です。惜しまれます。右手の斜面石垣が京橋口になります。
伏見櫓跡(拡大すると幕末期の写真を元にした復元です)
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櫓門の千貫櫓につながる入口。塀の控え柱はコンクリート製!;;
櫓門の千貫櫓側入口
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櫓門から千貫櫓。この距離の千貫櫓はさらに迫力。
千貫櫓
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一階は田組割りの部屋と廊下。
二階は未公開でした。
千貫櫓内部


 
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逆光越しの格子窓と狭間はちょっと歴史を感じませんか。
千貫櫓窓と狭間
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千貫櫓の窓から見た大手門と二の門です。
千貫櫓窓から大手。
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塀下部の石垣狭間から西の丸を覗いてみました。
石垣狭間