小浜城本丸西面石垣 (右手奥が天守台)と往時の復元です。 [復元図] 本丸基盤の上に本丸本段の石垣がのっています。天守は当初計画の五層から三層に変えたため立寸の大きい巨大な三層天守です 

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縄張図 赤線部分が現存の本丸と天守台(拡大図に詳細)
 
  小浜城は、関ヶ原の戦いの後に若狭に入封した京極高次が後瀬山城(当時若狭最大級の山城で、山麓に常住の守護館があった))に入った後の慶長6年(1601)から築城に始めます。小浜港は北陸と山陰の中間点に位置して古くから日本海交通の拠点で、中世以降は北前船の出入りで賑わいました。この小浜港の向かいに北川、南川の二つの川が海に流れ込む三角州があり、高次はこの二つの川を天然の堀とした城造りを考えたようです。重要な港も抑えられ城としては格好の場所ですが海浜の低地は城郭全体の基盤整備などで工事は困難を極めます。慶長14年(1609)に高次が没し、後を継いだ忠高は寛永11年(1634)松江に移封となり、新たに転封してきた酒井忠勝が工事を受け継いで寛永15年(1638)にようやく完成します。その後正保2年(1645)頃までに城郭・城下が整えられました。酒井家は忠勝から14代存続し、明治を迎えます。明治4年に小浜県庁が城内に設置され、同年12月大阪鎮台第1分営設置改修工事の失火で旧城郭の大方の建物が焼失します。焼け残った天守も明治7年に解体され、本丸内に忠勝を祀る小浜神社が創祇されて現在に至っています。  城は縄張図をみると本丸を中心に東に三の丸(大手側)、南に二の丸、西に西の丸、北に北の丸(搦手側)がリングになった典型的な環郭式(輪郭式)です。海と二つの川に囲まれた小浜城は水に浮かぶ見事な海城でした。海に面した西の丸の櫓群(浪洗櫓・船見櫓・遠見櫓)の名称からも海城らしさが伺えます。櫓の名称では小浜城には興味深い名称が多いです(拡大縄張図参照)。現在の小浜城跡はかなり淋しい状況となっています。本丸以外はすべて埋められて道路や住宅地に変わり、川の拡幅工事でかっての大手口跡や搦手口跡は川の中です。埋められた内堀跡にまで住宅が建ち並び、天守台の真横まで住宅が迫っている城郭は他にあまり記憶がありません。近年では小浜城天守再建計画もあるようですがその前に内堀の復元計画とか城郭としての景観整備がが先ではないかと思われます。それでも、かろうじて残っている本丸石垣と天守台は旧態をよく残し往時の雄姿を伝えてくれています。11年大河ドラマ「江」で登場するお初はこの地で主人である京極高次と暮らし、高次亡き後江戸京極屋敷で亡くなった常光院(お初)は小浜に運ばれ市内の常光寺に葬られています。。
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本丸跡は東部分が道路や住宅に変わっているので全体像は分かりにくいですが、この西部分は北・西・南とコ型に石垣がの残っているのでかろうじて当時の姿を思い浮かべることはできます。。
城絵図 小浜城が海浜に浮いた海城であるのがよく分かります。北は左で上の縄張図とは左に90度回転です。 本丸表門跡 現存する本丸石垣の南面です。手前の石垣が本丸表門跡あたりで、正面奥が天守台です。 本丸跡 左石垣が本丸表門あたり。右手が本丸跡で本丸の西半分が残っています。写真の右奥が酒井忠勝を祀る小浜神社でかって本丸御殿があったあたりです。
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左奥から天守東多聞櫓跡・天守台・天守南多聞跡・埋門跡です。城内で唯一、往時の雄姿を感じられる石垣の列です。
[左] 多聞櫓跡を天守台からみたものです。左奥の多聞入口から右に折れて天守へ向かいます。 [右] 多聞跡石垣下の内堀跡現状です。内堀跡にも住宅が建っています!
太鼓櫓台の南西部(かっての三木曲輪)に残っている寺島川の名残です。左手は埋められているので池のような状態ですが往時は寺島川の流れがあったのですね。石垣の中央屈折部は多聞櫓跡のようです。この多聞櫓から北に長大な屏風塀が続いていました。。
天守脇東多聞跡 天守の東側にあった多聞櫓跡です。多聞内に入ると天守台への石段があります。
天守台から北と東に延びる本丸の石垣群です 
小浜城で唯一残る本丸石垣ですが、往時の雄姿を伺えます。
天守台北面多聞入口 天守に北側で接続していた多聞跡です。小天守跡ともいわれます。。
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天守台から見下ろすと多聞櫓跡入口や埋門跡、さらに先に延びる多聞跡の様子がよく分かります。。
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本丸西面の内堀跡からみた天守台です。左手の石垣が屈曲しているところに埋門がありました。
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住宅が写真のように石垣に迫っていて遠くから全体を撮影するのは現在では無理な状況です。
桑折氏は伊達家の重臣で、元は伊達氏からであり伊達一族といえます。小説「樅木は残った」の原田宗輔も桑折一族です。岩山に接着剤で貼ったかのような石垣の貼り付き具合が見事です。珍しく石垣工事の様子が思われた場所です。
本丸西面の石垣 手前の天守につながる多聞跡の先に埋門の石垣の切間がみえます。
埋門跡から天守台 撮影ポイントはかっての内堀跡です。
天守台みあげ 美しい裾広がりをもった天守台です。

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長大な多聞櫓や隅櫓が内堀に映えていた様子がみえます。この石垣の右手に本丸と西の丸をつなぐ橋が架かっていました。。
 
古墳の上に城というのもありますが、貝塚跡があるとは。。当然のことですが、どの場所にも古代は潜んでいるんですね。
本丸西面石垣 手前は埋め立てられた内堀跡です。
埋門跡 本丸西面の虎口。西の丸につながっていました。

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美しい勾配をもった石垣に石段。
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かろうじて残る本丸北面石垣も住宅や生活の浪で埋もれてしまっています。
[上] 西二の丸門を守る帳櫓(二層)跡(右手)と内枡形です。[下] 西三の丸からみた帳櫓と西二の丸門の石段です。
 
搦手門跡 右写真の左手石垣の城内側です。
本丸北面石垣 正面石垣の左手に本丸搦手門があったようです。右奥は陰櫓跡でしょか。
旧順造館正門 小浜藩藩校の正門として天保5年(1834)に建てられ、現在若狭高等学校に移築されている。
現在の南川と往時の小浜城大手正面復元です (古写真でも有名なアングルです)  [復元図] 左から太鼓櫓・大手門・多聞櫓・五方櫓・多田見櫓・三つ目櫓・菱櫓。

 年表
安土
桃山
慶長6年 1601 ○京極高次 築城開始
寛永11年 1634 ○京極氏松江に転封。酒井忠勝入封、工事を引
き継ぐ。
江戸 寛永12年 1635 ○天守完成
寛永19年 1641 ○城郭と城下の完成
 
 
明治 明治12年 1879 〇不審火で城郭の大部分を焼失。天守はその3年後に解体。
住所 :福井県小浜市城内1丁目 
(電車)JR小浜線小浜駅から徒歩約28分

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