徳島城の復元された鷲の門と往時の復元 (右手は月見櫓、後方は城山の曲輪)です。 

縄張図・クリックしてください縄張図 (拡大図に詳細名) 
  徳島城は、天正10年(1582)に長宗我部元親が阿波を平定して後、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐により蜂須賀家政(正勝の子)が阿波に入封して現在の地に築城されたものです。築城にあたっては、秀吉の命により伊予の小早川隆景や土佐の長宗我部元親、比叡山の僧侶が協力したと伝えられます。 徳島城は標高61mの城山と北に助任川、南に寺島川(現在はJR線)に囲まれた自然の地形を巧みに利用した城です。山上には本丸・東二の丸・西二の丸・西三の丸を配し、南麓に御殿、西麓には藩主の隠居御殿のある西の丸からなる典型的な平山城です。天守は創建当時のものは元和年間に取り壊されたといい、東二の丸に代用の御三階櫓が建てられました。 大手口正面には月見櫓と天守のような外観の大型の太鼓櫓(どちらも最上階は外廻縁高欄を持つ)が大手門を挟んで建ち徳島城の堂々たる構えを見せていました。蜂須賀氏は徳島藩25万石として明治まで存続しますが、明治8年(1875)に鷲の門を除く城内の建物全てが撤去され、最後まで残った鷲の門も徳島大空襲で焼失しました。平成元年(1989)に鷲の門が復元され、本丸御殿を模した徳島博物館が開館しています。現在の徳島城は城山の曲輪石垣と南麓曲輪石垣が辛うじて残っていますが、大手口を抜けると広大な南麓御殿跡が広がり、後方にほどよい高さの城山が控え、分かり易い平山城の姿をみることができます。惜しいのは西方の堀として機能していた寺島川が埋め立てで消滅していることです。この川が現存していれば助任川とで城地が挟まれた天然の構えを実感できたのですが。。石垣類は近くでみると実に粗雑な組み上げですが、このあたりに築城に1年余りの緊急工事であったというのが分かります。城跡を歩いてみると都市部の城跡公園によくあるどこか雑然とした感じがありますが、じっくり見ると緑色片石の石垣・東二の丸に天守跡・元寺島川沿いの長大な屏風塀跡石垣など特徴的な見所の多い城です。
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左から太鼓櫓・大手門・多聞・月見櫓が建ち並ぶ光景は壮観だったろうと思われます。
月見櫓跡と堀川 正面石垣隅に月見櫓が幕末まで残っていました。 大手門跡 下乗橋(現在は石橋)を渡ると一の門の高麗門から内枡形を左に曲がり櫓門の黒門がありました。 大手口正面 大手口には大手門の左に大型の太鼓櫓、右手に月見櫓が建ち並び、徳島城の正面を堅固な守りとし、かつ堂々たる姿をみせていました。
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[上] 太鼓櫓の北(写真手前)には多聞櫓が続いていたので明治初期の建物破却の際に多聞櫓の石垣も撤去されたようです。 [下] 大手門(写真手前)から続く多聞櫓の先に太鼓櫓台です。
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太鼓櫓台の南西部(かっての三木曲輪)に残っている寺島川の名残です。左手は埋められているので池のような状態ですが往時は寺島川の流れがあったのですね。石垣の中央屈折部は多聞櫓跡のようです。この多聞櫓から北に長大な屏風塀が続いていました。。
大手門裏手 正面石垣上に大型の櫓門形式の黒門がかかっていました。左手が広大な南麓御殿跡です。
太鼓櫓台 右図のような大型三層の櫓があがっていました。
往時の太鼓櫓 (復元)
三木曲輪の西端石垣 大手口前の外枡形であった三木曲輪の西端に寺島川の名残があります。
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城跡で石垣と堀とが一番美しく映える場所だと思います。
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[上] 数寄屋橋を渡り左に曲がったところです。右の石垣の奥が本丸御殿跡です。 [下] 逆の方向から。 右石段と石垣は屏風櫓跡です。
桑折氏は伊達家の重臣で、元は伊達氏からであり伊達一族といえます。小説「樅木は残った」の原田宗輔も桑折一族です。
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岩山に接着剤で貼ったかのような石垣の貼り付き具合が見事です。珍しく石垣工事の様子が思われた場所です。
南麓曲輪の北東部 内堀の北から南です。石垣隅に隅櫓、橋向かいの石垣上に旗櫓がありました。
数寄屋橋と旗櫓跡 旗櫓の下に不明門がありました。詳細は拡大図にあります。
南麓曲輪の通路 南麓曲輪の外周石垣と本丸御殿を囲う石垣の間の通路です。
岩山に張り付く石垣 緑色片岩からなる岩山に石垣で補強している様子がみれます。
山の平らなところが三の丸になります。その右半分ほどのより森の深いあたりが二の丸と本丸になります。
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古墳の上に城というのもありますが、貝塚跡があるとは。。当然のことですが、どの場所にも古代は潜んでいるんですね。
弁天池 城山の麓に本丸の奥御殿の弁天池が残っています。
徳島城博物館 御殿風外観でが本丸御殿跡に建てられています。右は城山です。
貝塚跡 城山の麓に縄文時代の貝塚があります。城跡には珍しい遺跡ですね。

東坂口から東二の丸です。右写真の左手が東二の丸門跡です。石段は本丸に向かいます。
武者返し石垣上から水手門付近を見降ろしています。
 
東二の丸の天守復元です。
武者返し石垣上から水手門付近を見降ろしています。
徳島城の天守は本丸ではなく東二の丸に幕末まで残っていました。ただ江戸時代初期の天守は本丸にあったようで、なんらかの理由で正保年間(1644~1648)に東二の丸に建て替えられたといわれています。この城山で展望が最もいいのは東方は東二の丸、西方は本丸西の弓櫓ということです。弓櫓が本丸の中でも最大級の面積を持つのもそういった理由かもしれません。左上の正保城絵図の右手に天守の姿が描かれていますが、屋根は一階が入母屋で東西に向唐破風が付き、二階屋根は寄棟、三階屋根は入母屋で東西に棟が通っていたのが分かります。この天守図を参考に天守を復元してみました。復元してみると天守と太鼓櫓の外観は共通しており、太鼓櫓の高欄を取って寄棟の屋根を付ければ二層目から上がほぼ天守と同じ意匠になります。


   
本丸跡 本丸東口からみた本丸跡です。建物はすべて失われています。
本丸東面 左手が本丸東門跡です。門に石段が直面しています。
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平櫓跡にしてはとにかく広い!です。姿を想像するに櫓というより社に近い感じではなかったでしょうか。右手に本丸西門が連結していたようです。。
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[上] 手前石段は本丸西門からのものです。この段を越えると西二の丸になります。[下] 逆の方向から。右手の石垣が弓櫓台です。
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[上] 西二の丸門を守る帳櫓(二層)跡(右手)と内枡形です。[下] 西三の丸からみた帳櫓と西二の丸門の石段です。
 
弓櫓跡 山上建築物で最大面積の平櫓でした。右手が本丸西門跡です。
本丸西門より西に下る 本丸西門を抜けて西二の丸に向かう石段です。
帳櫓と西二の丸門跡 左の石垣台が帳櫓台、その右手が西二の丸門跡です。
西三の丸跡 西三の丸の一段先は入れません。
   
西二の丸の石塁 徳島城の特徴である緑色片岩を用いた石垣ですが、このあたりは特に石が薄く積木細工のような積み方です。
西三の丸門跡 内枡形をもつ西三の丸門跡です。石段は南麓曲輪の西坂口にでます。
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左端が神鳴門跡と思われます。ここから多聞跡石垣の列が太鼓櫓まで長く続いていました(下の復元図参照)が、南半分の石垣は撤去されています。残念なことです。
 
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南麓曲輪の西面に長大と続いていた多聞櫓跡石垣 大手口脇の太鼓櫓から塩蔵門前まで続いていた多聞櫓台の長大な石垣です。
屏風塀跡石垣 屏風塀前の寺島川は埋められ小川のようになっています。塩蔵門のあった辺りです。
寺島川跡 かってはこのJRの線路と同じラインで寺島川が流れ堀として機能していました。
 
西側 (寺島川跡) からみた徳島城城跡と往時の復元 です。
復元は右から太鼓櫓、多聞櫓、二重櫓、玉櫓。左後方は本丸建物。手前の屏風塀は全国的にも珍しい折れ曲がり塀です。
この塀は石垣の中ほどに塀の束を載せる舌石があり、その上に束を立て突き出た塀の部分を支えたものです。
 


 年表
安土
桃山 天正13年 1585 ○蜂須賀家政 阿波17万石に入封
天正14年 1586 ○築城完成
元和元年 1615 ○淡路8万石加増で25万石になり至鎮が藩主に
江戸
 
 
明治 明治8年 1875 〇鷲の門を残し城内建物すべて破却
住所 :徳島県徳島市 
(電車)JR高徳線徳島駅から徒歩約5分

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