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現在の二の丸から見た本丸跡と遊撃丸(左)と往時の復元 (左から遊撃丸櫓門、天守、本丸多聞櫓)。

縄張図(拡大に中枢部の詳細)
: 名護屋城は豊臣秀吉の大陸(明)支配の野望のもと朝鮮出兵に備えるための大本営として急遽築かれた。その工事には加藤清正、黒田長政、小西行長を中心にして九州の諸大名を総動員し、日に数万の人数が工事にあたり、わずか半年足らずで主要部が完成するという早さだったといいます。陣城とはいえ本丸、二の丸、三の丸、遊撃丸、山里丸など多数の曲輪を持つ本格的なもので、さらに城の半径3mの範囲に120におよぶ全国の大名の陣屋や屋敷が建ち並び、九州辺境だったこの地は一大城郭都市を出現させた。名護屋城完成後、文禄元年(1592)遠征第1陣が名護屋浦から朝鮮に出兵し文禄の役が始まる。文禄の戦いは当初の快進撃から一転して苦戦に変わり明国との講和に入りますがこの講和交渉は決裂し、慶長2年(1597)に再度10数万の兵が朝鮮に渡ります。しかし翌3年に秀吉が没し朝鮮の役は幕を閉じます。全国の大名も陣屋を引き上げ無用となった名護屋城は徹底的に破却されこの地はもとのひなびた村落にもどります。 : 名護屋城はいい!の一言です。現在の名護屋城跡に立つとこんな辺境な地に大城郭の跡があることに感動しますが、名護屋城の築城意味からすると秀吉の最大の愚挙である朝鮮出兵ですから素直に城跡を楽しめない思いにも駆られます。そんな複雑な思考が交差する珍しい城跡でもあります。真直ぐな大手道、広大な本丸を中心に配置して絢爛たる殿舎と七層の大天守をあげ、山里丸を2箇所配置等、建築道楽の秀吉らしい好みが随所にみられ、破却後にわずかに残っている石垣に天下人の栄光と夢の儚さを感じます。現在も辺境な地ゆえに城跡は市街化の波にもあわず、各曲輪の形態はよく残り往時の有様を容易に思い浮かべることができるのが名護屋城の楽しさです。城跡の周辺に点在する陣屋巡りも多少時間を要しますが興味深いものです。
現在の名護屋城大手口と往時の復元。右奥は東の出丸。

       
大手口北西部の櫓台跡大手口を守る高石垣には多門櫓があがっていたようです。 大手口東南部の櫓台大手門を守る単独の櫓があがっていたのか?上の復元図では櫓門の裾石垣として復元しています。
東出丸からみた大手道まっすぐに延びる大手道は安土城を思わせる堂々さです。直線の大手道ながら右手の三の丸や東出丸から攻撃はできます。 東出丸大手道を正面に迎える東出丸です。右手正面は門跡と櫓台です。突き当り奥(東)に多聞櫓があがっていました。
     
三の丸虎口の櫓台東出丸から三の丸に入る虎口を守る二層の櫓があがっていました。現在は石垣は失われていまが、重量感ある土塁は大型櫓を彷彿とさせます。 三の丸南西の櫓台南の馬場と三の丸の境にある櫓台です。城内の櫓台では最大規模とのこと。 三の丸と本丸大手口正面石垣が本丸石壁で左手に本丸大手口とそれを守る櫓台です。ここから右手に向かうと水手曲輪に下りる道です。左に向かうと馬場です。
   
本丸大手口左が大手口を守る二層櫓があがっていた櫓台です。その右手に大型櫓門があがっていました。仙台城の大手門として移築された伝承がが事実とすると、絵図で見る名護屋城の門はすべて切妻屋根であることや現地の規模からみてもかなりの改変があったように思います。 本丸大手口内側左が大手口と正面に櫓台です。櫓台の右手に雁木がみえます。この大手門をくぐり右手にUターンするかたちで本丸に入ります。
     
本丸の改変前の旧石垣名護屋城は築城後に何らかの理由で大規模な改造が行われていたらしいです。本丸の南と西の拡張によって埋められた築城当時の石垣です。 本丸の新石垣櫓台本丸拡張後の新しい櫓跡です。土台石の上に材木を横に置き、その上に柱を立てて建物を組み上げていたようです。復元整備の状態です。 本丸南西隅櫓跡と多門櫓跡隅櫓は南北約10m、東西約10mの規模です。多聞櫓は全長約55m、幅約8m規模の長大なものです。それぞれが廃城で解体された後盛り土されていたのを整備復元保存されたのが赤い舗装部分です。礎石跡は疑似礎石を置いて柱位置を整備展示されています。  
   
本丸南面と遊撃丸跡右手が本丸南多聞櫓跡と天守台跡、その左手奥が遊撃丸跡です。天守台はほとんど石垣は失われていますが、この角度から見ると末広がりの美しい勾配を持っていたのがよく解ります。天守台下の遊撃丸の虎口に櫓門がありました。 南西からみた本丸跡左の写真を右に振った構図で、左奥が天守台。本丸では現在も本丸御殿の発掘調査が進んでいます。発掘作業中の名古屋城博物館学芸員の方に話を伺ったところ、名護屋城と大坂城の本丸御殿の配置が極似しており、急建造であった名護屋城では大坂城のプランをそのまま使用した可能性が高いということでした。
  本丸御殿発掘説明板/クリックしてください
   
本丸南下馬場の櫓台本丸南側の馬場は二の丸と三の丸をつなぐ重要な通路になり、そこを守る櫓跡です。上部の石垣は失われていますが明解な保存整備です。 本丸御殿の発掘調査説明。現地の本丸御殿の調査説明パネルです。クリック拡大してください。 本丸御殿発掘現場本丸御殿東部分の発掘調査が行われていました。名古屋城博物館学芸員の方によると、今年中には保存整備の後展示公開する予定とか。 天守台跡。穴蔵と二か所の出入り口が発見されています。礎石は中央に心柱用の4個と周辺に南北7個、東西5個、が置かれていました。壮麗な天守だったでしょう。
   
搦手口跡守りを固めるために通路を屈折させた典型的な喰違い虎口の形状です。右の櫓台下側で瓦敷排水溝跡が発見されています(現在は埋戻し保護されています)。左手に大型の櫓門があったようです。 船手口跡本丸搦手口からいったん城外に出二の丸に入る船手口です。右手の石垣が二の丸を構成する石垣で、左が遊撃丸のものです。遊撃丸石垣の根本にはどういうわけか民間のお墓があります。
     
二の丸跡左の虎口が船手口です。正面の石垣が遊撃丸、右手が天守台と本丸になります。 本丸より見下ろした二の丸二の丸の発掘調査で掘立柱式の建物が2基発見されています。写真の左上がそれです。 二の丸の合坂二の丸の西側石垣(延長110m)には3箇所の合坂があります。徹底的に破却されていたのを発掘調査して美しく修理旧状保存されています。
   
遊撃丸跡文禄2年に明国の遊撃将軍が講和使節として滞在したのにちなんだ名前といわれる曲輪で、石段や門礎石が発見されています。右手坂をあがった左手に櫓門があったようです。このあたりの石垣と右手の天守台は「打込みはぎ」石積がはっきりとみられます。解体修理され破却時の状態で整備保存されています。 遊撃丸内部左正面が天守台です。右の石垣が並行している所が櫓門跡です。

名護屋城 その2

 
 年表
天正19年 1591 ○秀吉の命で九州諸大名 築城開始
安土 文禄元年 1592 ○文禄の役始まる
桃山
慶長元年 1596 ○明との講和決裂。慶長の役始まる
慶長3年 1598 ○秀吉没。朝鮮出兵終結。廃城。
慶長7年 1602 ○寺沢広高 唐津城の築城に解体材を使用
江戸 寛永15年 1638 ○島原の乱以降に反乱軍の使用を恐れ徹底的に 破却
住所 : 佐賀県東松原郡鎮西町名護屋
(電車)JR筑肥線唐津駅より徒歩5分の唐津大手口から昭和バス波戸岬、または名護屋玄海発電所経由値賀行きで45分、名護屋城博物館入口下車、徒歩5分  

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さんぽな城

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