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搦手門土橋より見た現在の日出城天守台と往時の復元。左下は東の内堀。
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ました。
縄張図(拡大に中枢部の詳細)
: 日出城は関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に木下延俊(豊臣秀吉の甥)が3万石を与えられ入部したのに始まります。青柳村と呼ばれた人家まばらな寒村であったこの地に延俊は3万石とは思えない壮大な城を築きます。それには延俊の妻の兄にあたる豊前中津城主細川忠興の財政的援助が大きかったといわれています。城は別府湾に面した海岸の崖上の要地を選び、台地の南端に本丸を設け、それを囲むように東北西面に二の丸、さらに東面に三の丸を縄張りしています。本丸南面が海という天然の要塞をもった後堅固の城です。本丸南端に三層の天守をあげ、その西端には小天守の役割をなす望海櫓があり、この櫓の一階は本丸に入る門も合わせ持っていました。日出城の櫓で特異な外観を持っていたのが鬼門櫓で鬼門除けのために北東隅が欠けた壁面になっていました。鬼門櫓のあった石垣にも同じように出隅を欠けさせ徹底した鬼門調伏に配慮されていました。明治の城内建物撤去の際、鬼門櫓と裏門櫓(鐘櫓)は買い取られ移築され現存はしていますが鬼門櫓の破損はひどいものがあります(幸いなことに近々に市が買取り復元の方向に動き始めたらしいです)裏門櫓は平成12年に解体保存されています。: 現在の日出城は内堀と本丸の石垣・天守台を残すのみですが、そのどれもが堂々たるものです。とても3万石の小藩のものとは思えないものです。本丸跡は日出町立日出小学校として利用されているので大手門跡(学校正門)からは本丸に入るのをためらい搦手門跡から本丸跡に入ると左手に天守台があります。この天守台に登ると眼下に海が広がります。今はない天守には空と海を仕切る水平線以外なにもなかった壮大な景色があったろうと想像させられます。本丸南西隅の望海櫓台は興味ある石組です。櫓一階内部が本丸側とその下の帯曲輪へL字で繋がる通路になっています。長方形平面の櫓門でL字の動線は見かけますが方形平面の櫓門というのは珍しいです。海に迫り出すような南端の石垣付近は天然の要害を取り入れた城の自信のようなものを感じます。
現在の城下公園から見た本丸跡と往時の復元 (右手奥に天守と左手に望海櫓。右は東の内堀。)

大手門跡。この土橋を渡った枡形の右手に大手櫓門がありました。写真の白い建物あたりですね。 本丸北西の空堀と月見櫓跡です。本丸を囲む内堀はしっかりとした深さがあります。左手は大手門の土橋。正面の石垣隅に二層の月見櫓があがっていました。
本丸石垣北東隅の鬼門櫓跡です。右手が大手門跡。
鬼門櫓が市に戻るとこの位置に復元されるのでしょうか。そう願いたいものです。
搦手門枡形跡です。左手が鐘櫓跡。搦手櫓門は突き当って(枡形の正面石垣は失われています)右手、写真の右木立の裏あたりにありました。 搦手門前の鐘櫓(裏門櫓)跡。本丸側からです。この櫓は明治の払い下げで民間に移築された後、現在は解体保存されているとか。復元されることを願います。
本丸内からみた天守台。手前の低い石垣が付櫓跡です。 天守台。本丸南の帯曲輪から見た天守台です。ひろがり勾配の美しい堂々たるものです。かっては三層の層塔式天守が海を望んで建っていました。
本丸南西隅の望海櫓台です。二層の櫓で右手にあった天守とは小天守的な位置にあります。一階は本丸と帯曲輪を繋ぐ門の機能を備えていました。 望海櫓入口石段。本丸南の帯曲輪からの入口石段です。この門から櫓内を右L字に曲がり本丸に通じます。 望海櫓の本丸への入口石段。この石段の向こうが本丸です。したがって撮影している場所が望海櫓一階内部になるわけです。
かっての東の内堀は現在では城下公園への下り道になっています。この石段を下りると右写真の浜辺通路に出ます。 現在の城下公園です。かっては左手の本丸帯曲輪石垣前の浜辺には浪が迫っていたのでしょう。今は通路堤防が設けられて浪との距離感が出来てしまっています。
城下町の趣が残る通り。写真は東の二の丸跡です。正面突き当りが搦手門跡。 二の丸の大手門前に残る重臣屋敷。現在でも格式のある四脚門や土塀が並び、当時の武家屋敷の区画が偲ばれます。

移築現存の鬼門櫓  クリックで拡大。右下マークをクリックでさらに拡大。複数同時に開き、ドラッグ可。

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城跡から離れ下仁王地区に残る鬼門櫓を探しに山に向かって斜面を少し上がったところですぐに櫓らしき屋根を発見。中村家屋敷の裏山の斜面に鬼門櫓はひっそりと木々に囲まれて建っていました。櫓を撮影中に出掛けられる先代の娘さんである中村夫人と遭遇し貴重なお話を聞くことができました。その談話です。「亡くなった父が大正10年にお城から買い取りこの地に移築。私の小さい時はこの櫓の中で寝起きをし、子供心になんと大きな建物だろうと思った。過去に何度か市から買い取りの話もありましたが父は断り続けました。今は父も亡く建物の維持保存も大変ですから市に引き取ってもらういい潮時かと思っています」。先代父上様の御城の建物に対する拘りを感じさせられたお話でした。
斜面に移築されている鬼門櫓。撮影中に当主夫人と遭遇しました。
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入口のある南面です。。
南面
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西面は城にあった当時は本丸側なので窓は二階にひとつだけです。
西面
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右の北東隅が一、二層目とも欠けているのがよく解ります。写真だけでみると東南アジアのようです。
東面
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これほど朽ちているのを目の目にすると時の凄まじさを感じます。以前に写真で見た修復前の備中松山城天守の朽ちる姿を思い出しました。あちらの方はさらに酷く倒壊寸前でしたが。。屋根瓦に木下家の紋がみえます。
崩れゆく外観

 
 年表
安土 慶長6年 1601 ○木下延俊 3万石で入封 築城開始
桃山 慶長7年 1602 ○築城完成
江戸
明治 明治7年 1874 ○廃城令により破却。
住所 : 大分県速見郡日出町
(電車)JR日豊本線暘谷駅から徒歩  

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