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復興天守と往時の復元(飾り破風が一切無いことから最上階の南蛮造りが力強い層塔式の見本のような天守です)。

縄張図
: 小倉城の前身は大友氏と毛利氏が北部九州の覇権を争っていた時期に永禄12年(1569)毛利氏が築いたものと伝えられます。大友氏の勝利で城は大友氏のものとなり(元亀元年1570)、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州平定後は森吉成が入封します。森氏の改修で本格的石垣を持つ織豊式の近世城郭に変わったと思われます。慶長5年(1600)関ヶ原合戦後に細川忠興が入封し大改修を行い、紫川、板櫃(びつ)川を利用した総構を持つ現在の大城郭が完成した。寛永9年(1632)細川二代目の忠利が熊本に移った後には徳川譜代の小笠原忠真が入封する。小笠原氏で明治を迎える前に慶応2年(1837)の第二次長州戦争で城方の付火により城中の建物はほとんどが焼失しました。
: 現在の小倉城は本丸、松の丸、北の丸、二の丸の一部と曲輪はよく残っていますが、天守北燐の二の丸跡に赤い外観のリバーウォーク北九州、北の丸跡には「小倉祇園」で有名な八坂神社、天守東の曲輪内に北九州市役所の黒い巨大なビルなど近代施設が城跡を陣取っています。天守は本来は南蛮造りに破風の全くないシンプルな当時としては最新の層塔式でしたが、昭和34年(1959)に復興された天守は観光面から大入母屋破風や千鳥破風・唐破風を付加し伝承面では意味のない天守になってしまっています。現小倉城の北側景観で面白いのは、八坂神社の石垣上の建物や本丸隅に建つ商店の建物群がすべて疑似櫓風なことです。先の復興天守もそうですが、一般市民の思い描く城というイメージ(破風が多用された白い建物)を城跡を借りて映画のセットのように再現したカラクリ感があります。それにくらべ天守より他の三方は西口門跡付近の高石垣、松の丸や大手門を仰ぎ見る大通り、かって紫川が石垣を洗っていた下屋敷の東突端など曲輪も古城然として残り往時の大城郭を彷彿とさせます。
 
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西の口門跡。現在駐車場になっている二の丸跡から土橋を渡り西口門跡をぬけると松の丸です。正面に鉄門がありましたがその枡形石垣は消滅しています。 本丸跡より西内堀をみる。左手が二の丸。堀手前が西の口門跡の土橋です。 松の丸から本丸段への石垣です。新しく修復、積み上げられた石垣です。この石垣上端まで本丸御殿があったようです。
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本丸段石垣の間にある井戸跡です。規模も小さく石垣の間にある井戸は珍しいのではないでしょうか。 正面本丸大手門跡と復興天守です。天守後ろの赤い建物がリバーウォーク北九州です。手前の道路は内堀跡で本丸に向かう広大な幅の土橋がありました。 大手枡形跡です。右手石垣上から左手に大手櫓門が懸っていました。右手奥が天守、左手が本丸段に入る槻御門跡です。
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本丸段石垣と左手が槻御門跡です。右手奥に復興天守がみえます。 本丸跡です。左の続櫓(御小天守)は往時は単層でした。天守へは続櫓の入り口から入ります。
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本丸北西隅の北の丸に通じる枡形入口です。 左写真の石段を下りた枡形空間で、左手が多聞口門跡です。正面は月見櫓跡に建てられている漬物処糖蔵という櫓風商業建築です。 本丸と北の丸の間の空堀です。往時も空堀であったのか?
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北の丸跡。「小倉祇園太鼓」で有名な八坂神社です。細川忠興が城下の鋳物師町に創建したものを昭和9年に現在地に移したとあります。 右手が北の丸、左手が下台所の石垣です。このあたりは往時の石垣と水堀の状態がよく残っています。同じものが堀が幾重にも広がっていたわけです。 下屋敷のあった曲輪東端です。手前は埋め立てられていますが、往時ここは広大な紫川でした。

 
 年 表
所在地 : 福岡県大北九州市
(電車)JR山陽新幹線・鹿児島本線
     小倉駅から徒歩約15分


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