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西方からみた現在の大垣城跡と往時の復元(現在の西手広場はかっての内堀。天守の右手に本丸表門と後方に辰巳櫓。)
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縄張図(拡大で本丸と帯曲輪の詳細図)
: 大垣城は織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となり、1588年(天正16年)に一柳直末によって若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には石田三成が入城し、合戦に備えたが、その後東軍の攻撃を受け落城。江戸時代に入って城主の交代が度重なった後、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が転封して以降は明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。明治になって3年には総構の七口の門を取り壊し、1873年(明治6年)に発布された 廃城令により廃城となり、天守など一部の建物と本丸、帯曲輪を残して堀と他の曲輪は跡形もなく消滅した。1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定されたが、1945年(昭和20年)7月29日の空襲により天守や艮櫓などが焼失した。現在の天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年) に鉄筋コンクリート構造によって外観復元された。 : 現在の大垣城を訪れるとかって「水の城」といわれた三重の堀に囲まれた面影はどこにもありません。堀がいっさい無いのですから。。歴史上に名を残す城で内堀すら破却された城も珍しいのでは思います。唯一残されている本丸と帯曲輪の石垣の保存状態も悪く外観復興されて建つ天守や隅櫓も居心地の悪そうな佇まいです。ただ、旧藩主戸田家別邸表門になっていた旧柳口門が帯曲輪東手(何故この場所に?)に移築復元され、往時の建物を垣間見れるのが救いでしょうか。
東方からみた現在の大垣城(東門は柳口門を移設したもの。右手は復興された宗門続多聞櫓と丑寅櫓。)と往時の復元。撮影ポイントは往時の内堀です。


大垣城のいま



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駅前商店街のアーケードの店舗の隙間に大垣城の本丸東手が見えます。まったく市街に埋もれている感じです。位置的にアーケードの向こうは当時の内堀になります。
商店街越しの大垣城
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堀のすべてとほとんどの曲輪が失われた大垣城のなかで一番往時を感じとれる場所。櫓、塀、石垣などはすべて復興や修復ですがイメージ出来ます。かっての内堀跡からの撮影です。(写真左)復興の丑寅櫓と先手武具多聞。(写真右)長塀の奥に水の手門跡と復興の戌亥櫓。
帯曲輪北側
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帯曲輪北西部の水の手門跡と復興の戌亥櫓です。この水の手門跡を抜けたすぐ左手が天守です。
水の手門跡と復興の戌亥櫓
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(写真左)右手に鉄門跡と左手石段上に表門(七間多聞)跡です。(写真右)二の丸と廊下橋で繋がっていた本丸の鉄門跡です。
本丸表門跡と帯曲輪鉄門跡
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帯曲輪より本丸南東部の石垣です巽櫓があがっていた辺りでしょうか。かなり石垣は崩れていて、この左手には石垣上から人口の滝が作られてます!
本丸南東隅石垣
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本丸から帯曲輪に出る東の埋門跡です。(写真上)帯曲輪から。(写真下)本丸側から。
埋門跡
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道路奥に現在は神社としてひっそり残る大手枡形跡です。入口には喫茶「大手門」が(この看板のおかげで見つけやすい?)。
大手門跡
 
1959年(昭和34年)に外観復興された天守。最上階の窓は大きなガラス窓に改変されています。
番外
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各地の城跡には数多くの記念碑が林立していますが、この本丸西手広場(往時の内堀か竹曲輪あたり)に建つ大垣消防組員云々碑のデザインは秀逸だったので思わずパチリ。イオニア式の柱頭を持つ異様に太いエンタシスの柱を束にしたデザインがユニークで面白く、全体のサイズも手前の石段と比較するとお解かりのようにかなりこの種の碑としては小さめです。オベリスク型や石版型など画一的な記念碑が多い中では緻密なデザイン部類に属するでしょう。
美麗な碑
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本丸東門の手前に残る(放置されている?)ビリヤード場です。歴史に残るような名建築ではないですが、木造モルタル製の安普請ながらシンメトリックなファサードプランに一階の庇屋根はスパニッシュ風、二階正面に一対の飾り柱(跡)など当時の最先端デザインを取り入れた華が感じられる建物です。昭和初期あたり(?)のここに集う人々の笑い声がいまだに詰まっているようです。赤い丸看板の「玉突」がいいですね。
レトロと化したビリヤード場

 
 年 表
住所 : 岐阜県大垣市郭町
(電車)JR東海道本線大垣駅から徒歩5分

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