本丸正面復原パノラマ
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正面は平成4年〜7年にかけて復原された本丸高麗門と櫓門、石垣枡形。左奥は本丸東北櫓。
 年 表
: 赤穂城は天正年間に宇喜多秀家が岡山城の支城として築城したのが始まり。その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以後は池田輝政が播磨の領主になり池田長政が赤穂に入った。正保2年(1645)に浅野長政が笠間から移封されると本格的な新城を構築し現在みられる赤穂城が完成した。築城工事には甲州流軍学者の近藤正純や山鹿素行も入り13年の歳月を費やしたとのこと。浅野家の三代目が赤穂義士で有名になった浅野長矩で、その江戸城内刀傷事件のあった元禄14年(1701)に浅野家は断絶。あとには永井直敬が入ったが5年で転封し、宝永3年(1706)備中の森長直が入り森氏が明治まだ12代続く。 : 赤穂城は瀬戸内海と河川に面した平城でもあり海城でもありました。最も特徴的なのは江戸軍学を城造りに最大限取り入れたことで、本丸は高石垣の折れと横矢掛かりを多用した多角形をなし、他の曲輪も同じように複雑に屈曲したラインを持っている。本丸に天守台は築かれたが天守は当初から建てられる予定はなかったようで、平和になったこの時代には天守は必要とされなかったが天守台をもつことはなにようり優先されたようです。近年になって赤穂城は発掘やそれに伴う復原が大々的に進んでおり、建物では本丸門、縄張では水手門が復原され現在二の丸と庭園の復原整備が進行中。特に水手門はかって赤穂城が海城であったのを思い出させるさせる貴重な遺構です。近い将来、赤穂城は復原整備によってほぼ往時の姿を取り戻すらしいので今後がますます楽しみな城です。

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縄張図(案内図)の右手が往時は海(瀬戸内海)でした。。
縄張図
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昭和30年に古写真に基づき復原された大手高麗門と東北隅櫓。
大手門
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大手隅櫓から西に続く石垣と櫓台。左手に東北隅櫓。
三の丸北の石垣台
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二の丸門脇の堀跡。右手前の石垣台跡は横矢掛かり台の下部のようです。
外堀
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石垣台の下部だけがこのように堀に見え隠れしているのがさらに想像力をかきたてられていいです。
横矢掛かり台跡

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本丸の東にある厩口門と右奥は本丸東北隅櫓台です。
厩口門
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左(本丸南面)、中(本丸東南)、右(本丸東面)と内堀沿いから見る本丸石垣です。[左]左から出隅(横矢掛かり台)、刎橋門跡。[中]本丸東櫓台 [右]左本丸東櫓台と右奥に厩口門。
本丸東面石垣
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[上]枡形内からの櫓門表 [下]本丸御殿跡より櫓門の裏。
本丸櫓門
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天守台からみた本丸一望です。左手は昭和59年の本丸発掘調査で発見された大池泉。御殿跡は間取り表示がされている。
本丸パノラマ
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天守のあがらなかった天守台。
天守台


本丸西南方向復原 [中央石垣] 出隅(横矢掛かり台) [右手] 刎橋門跡

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現在復原整備が進行中で立ち入り禁止となっている。錦帯池と呼ばれるループ状の池があったようで復原が楽しみです。
二の丸庭園跡
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このような復原整備になるらしいです。
二の丸庭園整備計画
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正面石垣の窪みに高麗門と刎橋がありました。。
刎橋門跡
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刎橋を受ける二の丸側の石垣台です。
刎橋受台跡
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お読みください。左上の絵図で赤穂城がかって海城であったようすがよく分かります
水御門説明


水手門復原
 現在の左手にある堀状のものは往時はなくここから瀬戸内が広がっていました。正面が水手門と舟着き場で、左手は波除突堤です。


南沖櫓復元 
赤穂城の最南端に位置する二の丸南沖櫓です。現在は前方の海が埋め立てられ写真のように陸地から見れます。当然ながら堀にみえるのは後に作られたものです。復原のように瀬戸内に浮かぶ櫓は美しかったと思われます。
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かってはこれを撮影している場所も海でした。
潮見櫓台跡
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中央奥にかすかにのぞいているが東北櫓台です。往時は堀向こうに米蔵がありましたが、現在もそれらしいデザインの建物が建っています(何の建物かは不明です)
二の丸東北櫓台跡
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三の丸塩屋口脇の西隅櫓台です。
三の丸西隅櫓台


塩屋口復元 赤穂城の搦手になる塩屋口です。現在は枡形石垣の半分ほどと堀も失われています。復原の塩屋門の後方に太鼓櫓、右手の櫓は三の丸西隅櫓です。

 
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懐かしい看板で埋め尽くされた楽しいお店を発見しました。(三の丸北の堀向こう)
番外