歴史: 淀城で世に有名なのは豊臣秀吉が淀君のために築城したものだろう。現在「淀古城」と呼ばれ、現在の淀城跡から北方の納所に築かれた。現在の地に新淀城が築かれたのは伏見城廃城にともない幕府が松平定綱に命じたもの。以後、松平、永井、石川、松平、稲葉氏と代替わりして明治を迎える。幕末時には山城区域ではただ一つの藩として京都を警護し、朝廷・公家を監視する役を担っていた。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは当時の藩主稲葉家は敗走してきた旧幕府軍を城内に入れず中立の立場を取ったため、幕府軍によって城下に火が放たれ城下は灰燼に帰した。明治の廃藩後城内の建物すべてと本丸の一部を残して
天守: 淀城で最も注目はその特殊な天守の形状だろうか。伏見城の廃城にともなうその代わりの城であるから、建材はほとんど伏見城から運ばれ天守も同様に伏見城のものを移築する予定で天守台を築いた。ところが急に天皇の二条城への行幸が決まり、伏見城の天守は二条城に移され、代わりに二条城の天守が淀城に移されることに決まるが、二条城天守(大和郡山から移築の伝承)は築いた天守台より小振りなため天守の周りに二重櫓を懸造りにしてその間を多聞で連結するという設計変更になった。天守の周りを櫓、多聞で囲うのは駿府城の例があるがこれは角櫓は懸造りではないので、全国に天守は数あれど苦肉の策の異形な天守である。 |
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