村上春樹の シューベルト ” ピアノソナタ第17番ニ長調 ” D850


       
Clifford Curzon (1907 - 1982)
Recorded June 1963
  Walter Klien (1928 - 1991)
Recorded 1971-1973
 
  Eugene Istomin (1925 - 2003)
Recorded : June/September 1969
Leif Obve Andsnes ( 1970 ~ )
Recorded : October 2002
           
         
Alfred Brendel(1931 ~ )
Recorded September 1987 
  Christian Zaharias(1950 ~)
Recorded 1992-1993 
 
Elizabeth Leonskaya(1945 ~) 
Recoeded 1985 - 1997

 ベルトラン・シャマユのシューベルトのピアノ曲集を聴いてから、シューベルトを念入りに聴いたり、シューベルトについて書かれた様々な資料、と言っても音楽については吉田秀和の著作がほぼ全てなのだが、そう言えば、村上春樹がかつて ”ステレオ・サウンド誌” にシューベルトのピアノ曲について書いていたと思い出して、読んでみた。
 
 ステレオ・サウンドの第146号 2003 Spring から 第155号 2005 Summer に至る10回の連載で ”音楽のある場所”の題で、主にジャズ演奏家(ご存知のように彼は学生時代からジャズ喫茶店を経営していたからジャズには詳しいのだ)について毎回、結構長文の演奏家論を書いている。
 10回にわたって連載された内容は後に 文芸春秋社から ”意味がなければスイングはない” として出版された。

 しかし、村上春樹の著作にはクラシックの曲も頻繁に登場し、彼がクラシック音楽に造詣が深いことは容易に想像できる。
 この連載の中では2004年 Summer 第151号にて ゼルキンとルービンシュタインの対照的な二人のピアニストについて、さらに 2005 年 Spring 第154号ではプーランクの主にピアノ曲について述べている。
 今回取り上げたのは、同誌の 2003年 Autumn 第148号に書かれたシューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調 D850 について ”ソフトな混沌の今日性” と題して書かれた内容が出色の面白さであったからだ。
 下記のリストは村上春樹自身が入手して聴いている演奏家の一覧だ ;

アシュケナージからヘブラーまでの6枚がLP、内田光子からクリーンまでの9枚がCDと、長期間に亘ってこの曲の様々な演奏を聴いている。
  
 村上春樹の聴いたシューベルト・ピアノソナタ第17番ニ長調 D850  
 
 このリストは二つの意味で凄い代物だ ;

 まず、好みの曲を徹底的に聴き比べ、15人の演奏家のレコードを入手するほど傾倒しているという事実 : 僕もバッハの”フーガの技法”や無伴奏のヴァイオリンやチェロ曲集は数多く持っているが、それでもそれぞれ10枚程度に過ぎない。
 バッハのこれらの曲は本気で探せばそれぞれ30種くらいは簡単に手に入る。

 一方、シューベルトのピアノ・ソナタ第17番は滅多に演奏も録音もされない不人気な曲なので、中々聴く機会はもちろん、レコードも数少ない曲だ。
 そういう曰くつきのソナタが気に入って、25年以上に亘って探し求め、15枚のレコードを入手したという並々ならぬ愛着。
 
 僕自身ピアノ曲が好きで、上記のピアニストのレコードだけでも100枚余り持っているが、シューベルトのピアノ・ソナタ第17番はクリフォード・カーゾンのDECCA全曲録音集(CD23枚+BBC放送録画DVD)にようやく入っていたのみ。
 ルドルフ・ゼルキンと田部京子のいずれも5枚組みのシューベルトのピアノ曲集にも収録されていない。
 それほど、この第17番ニ長調 D850 のピアノ・ソナタは滅多に演奏されたり、レコードにならない曲なのだ。

 かくも不人気な曲の演奏を15枚とは! 
改めてこの曲を聴きなおしてみようと、クリフォード・カーゾン盤に加えてヴァルター・クリーンの6枚組のピアノ・ソナタ集、リーフ・オヴェ・アンスネスの2枚組のシューベルト曲集、さらに折よく SONY MUSIC から出たばかりの12枚組のユージン・イストミンの録音集のレコードを入手して聴いてみた。
 いずれも、上記15人の演奏の中で村上春樹が好感を持って評価している新旧のピアニストによる演奏だ。
 実は、このピアノ・ソナタ第17番ニ長調 D-850 については、ステレオ・サウンド誌に書く前年の、2002年に発表された小説 ”海辺のカフカ ” の中で、この曲の核心に触れる一節が述べられている ;
 少年カフカと大島さんとの間で交わされる会話だ ;
         


 大島さんの説明は、すなわち村上春樹自身のこの曲の解釈そのものに他ならないのは当然だが、さすがに、この天国的に冗長でとりとめのない、ソナタというよりは、即興曲や幻想曲の寄せ集めといった、それにしては40分もの長大な曲に何故か傾倒して、25年余りに亘って聴いてきた村上春樹ならではの深い洞察に溢れる解説だ。

 シューベルトの、この世にも不評なソナタ 第17番 ニ長調 D850 に村上春樹が何故これほどの愛着を抱いているのか、本来なら冒頭に挙げた15人の演奏を全部聴きたいものだが、それはほぼ不可能と言うもの。
 この15人の演奏の中で好感を抱いた4人のピアニストのCDが手に入っただけでも良しとしなければならない。
 村上春樹の好ましいところは、あれが良いとか、これはダメとか、決めつけたりしないところだ。
例えば、内田光子の極めて精緻な解釈、理知的であり、説得的であり、自己完結的である演奏姿勢を正しいと認めながらも、しかし彼女の採用するアーティキュレーションがいささか作為的に聴こえてしまうので、個人的な好みから最終的には取らない。 とする態度には好感が持てる。
 シューベルトの演奏では定評があり、僕も6枚ほどのCDを繰り返し聞いてきたアルフレート・ブレンデルの知的な、文脈がはっきりしている演奏を、しかし、その文脈に説得力がなく、後に残るのは品のよい、知的な退屈さ、とする判断はいささか腑に落ちなかった。 
 どんな演奏なのか、残念ながら絶版で手に入らないが、どうしても聴いてみたい演奏だった。 
というのは、ブレンデルこそは当代屈指のシューベルト演奏家であり、演奏活動のごく初期のころから積極的にシューベルトのピアノ曲に取り組み、2008年、長年の演奏活動を締めくくる最後の演奏会にてバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンを弾いて、最後の曲を、シューベルトのピアノソナタ、第21番変ロ長調、D960を選んだほど、シューベルトに傾倒したピアニストだったからだ。
 幸いにして、DECCAから晩年のピアノソナタ集がCD7枚組で発売された。
 驚いたことにはソナタ14番から20番に至る演奏会のビデオが YouTube に2017年8月14日に公開され、4時間半に及ぶ演奏が全て映像で見られることが、分かった。
 ディスコグラフィーによると、ブレンデルはこの17番のピアノソナタを1度しか録音していない。今回入手したCDは1987年と1988年にドイツのニュルンベルクに近いノイマルクトで録音されたものだ。 CDには録音時の詳細な記載がないが、映像の画質や音質、カメラワーク等を見る限り、これらの一連の演奏はテレビ放送のためにスタジオ録音され、CDはその時の同じ音源から採られたものと思われる。
 映像とCDとでブレンデルの演奏するシューベルトのピアノソナタ第17番ニ長調、D850 をようやく聴くことが出来た。何時もの通り、ブレンデルの抑制のきいた、しかし真摯な考え抜かれた演奏で、ちっとも退屈などしなかった。
 ただし、シューベルトの数あるピアノ曲の中で、破天荒ともいえるこの曲と、ブレンデルのいつもながらの、あまりにも真摯に対峙する姿勢との間に些かの齟齬があると、言えないこともないとは、クリスティアン・ツァハリアスの演奏を聴いた後で感じだことだ。
 きっと村上春樹は、この曲の本質とブレンデルの演奏スタイルとの間に垣間見える,わずかなすれ違いとを敏感に聴き取ったのだろう。

 一方、この文章が書かれる25年余り前に最初に巡り合ったユージン・イストミンの筋の通った,姿勢のいい、心のこもった穏やかな演奏が、この曲に傾倒するようになったきっかけという逸話はなるほどと思う。
 誰にでもそうした音楽との出会いがあるものだ。 この頃村上春樹はジャズ喫茶店を経営していて、もっぱらジャズやアメリカのポピュラー音楽を聴いていたはずだが、よりによってシューベルトのニ長調のピアノ・ソナタとはどうしたことかと、思わず笑ってしまう。
 そして、一般には全く話題にもならなかったヴァルター・クリーンの気張ったところのない、見事に自然体の演奏を際立っていると、高く評価している。
 さらにクリフォ-ド・カーゾンの、長く着込んだ上等のツイードの上着のように心地よい、とりわけ緩徐楽章におけるいかにもたおやかな、やさしい音楽の堪え方、を一級のもっとも心惹かれる演奏と捉える。
 最新の録音では、ノルウェーのピアニスト、アンスネスのいささか 「シューベルト的 」 ではなく、まるでグリークの音楽を聴いているような健全な 「むせかえり 」の感覚がある、若々しくギャラントであり、すぐれて情感的な流れの筋のよい演奏も高く評価している。
 いずれも、けっして巨匠と呼ばれる様な存在ではないピアニストの個性的な演奏を自らの感性で選び取っている姿勢には共感が持てる。

クリスティアン・ツァハリアスのシューベルト演奏

 
ブレンデルのシューベルト後期ピアノ曲集と共に、クリスティアン・ツァハリアスの演奏するこの17番も含むシューベルトのソナタ曲11曲を収めた5枚組ボックスを入手した。
 モーツァルト生誕250年を記念した企画で、”旅路のモーツァルト・ピアノ協奏曲集” が初めはLDで、その後2006年に6枚組のDVDにて出版された。 いずれも13曲のピアノ協奏曲とともに、モーツァルトが訪れたヨーロッパ各地を巡り、モーツァルトが演奏したり作曲した同じ曲を同じ劇場で再現するという、夢のような企画だ。
 この中で、マンハイムのシュヴェツィンゲン宮殿ロココ劇場でピアノ協奏曲第6番K238と第8番K246とを演奏したのがクリスティアン・ツァハリアスだった。
 クリスティアン・ツァハリアスは1950年生まれ、パリでイレーヌ・スラヴァンとヴラド・ペルルミュテールに学び1969年のジュネーヴ国際音楽、1973年のヴァン・クライバーン国際ピアノ、1971年のラヴェル、と名立たるピアノ・コンクールでいずれも優勝の実績がある。
 輸入盤にしては珍しくフランス語の解説しかないが HMV オンラインショップのまとめ買いでは5枚組のボックスが1390円とあれば、聴かないわけには行かない。
 実は、このクリスティアン・ツァハリアスの演奏を聴いて、スイッチが入った。
言わば、止まっていたメリーゴーランドが動き出して、周囲の景色が見えるようになった。
 シューベルトのこのソナタの神髄に触れたという確信を抱かせるほどの、明晰で鮮烈な演奏であったからだ。
 村上春樹がいみじくも述べるように、世界の裏をたたきまくるような冒頭のアレグロの連打も、クリスティアン・ツァハリアスの手にかかると、まるで騒々しくはなく、生の喜びが迸る感情の高まりなのだと納得させられる。 続く第2楽章 Con moto (動きを持って)の、懐かしさに満ちた至高のメロディーは、このソナタを作曲した時のシューベルトの心情そのものに他ならない。
 余りにも冗長で散漫と不評で、滅多に演奏も録音もされないこのピアノソナタ第17番は、しかしシューベルトの21曲のピアノソナタの中で生前出版された3曲の一つであり、当時としては300フロリンという異例の高額が支払われたもの。
 時に "Gasteiner" の表題で呼ばれるこのソナタは、ザルツブルクの南100㎞にあるアルプス山中の美しい保養地、Gastein(ガシュタイン)にて作曲されたもの。
 31年の薄幸の生涯を送ったシューベルトの人生の中で、つかの間の幸福で喜びに満ちた時期の作品だ。
 クリスティアン・ツァハリアスの演奏は、このソナタが作曲された時のシューベルトの心の内面を鮮やかに展開して見せる。
 この演奏を聴くと、過去2年間一体何を聴いていたのだろうかと思う。
 或いは、過去に様々な演奏を聴いてきたからこそ、ようやくにして、この曲の神髄に触れることが出来たのだとも言えるかもしれない。 
 何しろ吉田秀和でさえも、このソナタの本質を把握するのにずいぶんと時間がかかったのだから。

 クリスティアン・ツァハリアスの演奏で目覚めて以来、新たに入手したジョージア(旧グルジア)生まれで、モスクワ音楽院で学び、その後1976年以来、ウィーンで演奏活動を続けるエリーザベト・レオンスカのしみじみとした演奏や、村上春樹が評価する冒頭の4人のピアニストの演奏を何度も聴きなおして、改めてシューベルトのピアノソナタの独特の存在感に改めて目を開かれた思いがする。
 それくらいの経験で、吉田秀和や村上春樹ほどに的確な批評は出来るわけもないが、確かにシューベルトのピアノ曲には、薄命の天才が心の底から湧き出る旋律やリズムを、何の衒いも迷いもなく、そのままに楽譜に書き留めた音楽には違いない、と納得している今日この頃です。
 とは言え、シューベルトのピアノ・ソナタはCDを取り出して気軽に聴こうという音楽ではないのも事実であって、何らかの覚悟の様なものを持って対峙する必要がある。
 ベートベンやモーツァルトのソナタの方がよほど気楽に聴ける、というのが率直な思いだ。
 村上春樹が 「 海辺のカフカ 」 の中で述べているシューベルトのピアノ・ソナタ第17番ニ長調 D-850についての解釈は、専門家でもない一音楽愛好家が、ふと中古レコード店でであったユージン・イストミンの演奏を聴いて以来、25年に及ぶ、ありとあらゆるピアニストの演奏と対峙して到達した稀有な境地を吐露したものだ。
  まことに見事な演奏論と言うべきでしょう。 ただただ感嘆 
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