大廻城(おおさこじょう、だいさこじょう)

 場所  島根県出雲市上塩冶町
 標高  43m
 比高  30m
 城主  塩冶氏
 別名  向山城




余湖さんのHPから引用

 

塩冶氏の居館であったと思う                         まずは東に回り主郭東側の大堀切から登っていく(ここが大堀切)

  

主郭に到着                                    2郭に行く手前の堀切

  

2郭 広さがあり何らかの建物が建っていたのではないか?       2郭から3郭に行く間の堀切


  

3郭 細長い                                   土塁も見える

  

これらも土塁                                   大廻城の矢竹

  

大廻城全景                                    別の角度から

概 要
館跡が、南側の民家部分に想定できる。『出雲・上塩冶地域を中心とする埋蔵文化財調査報告』(1980年)の報告でも、城の図に民家をわざわざ書き入れて同様の見解をとる。ただし、主要な各郭は面積も広く平坦なので、郭内にもかなりの建物があったと思われる。中世塩冶氏の中心はこのあたりだったと思われるが、周辺が無造作に開発されており憂慮される。

島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』より引用

大廻城 
この上の小高い山が大廻城跡です。おもな郭が3か所あって、土塁などが残っています。 
今から約800年前、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられました。
その孫・頼泰が弘安年間(1280〜)に築いたのが、大廻城だと伝えられています。 
頼泰は塩冶郷に守護所を移し、地名を氏とし「塩冶頼泰」と名乗りました。 
それから約50年後、南北朝の争乱の時、塩冶判官高貞(頼泰の孫:筆者注)が活躍したことは世に有名です。城跡南麓には高貞を弔った頓覚寺(とんかくじ)跡があり、上塩冶築山には高貞社跡があります。
高貞は、江戸時代の劇作家・竹田出雲の作「仮名手本忠臣蔵」の浅野内匠頭のモデルとなった人です。

平成1510月 塩冶クラブ”


標高40m、比高30m程度の低い場所に築かれている。西は平地が広がり、南と北は丘陵の間にできた谷となっている。郭は三ヵ所あり、
主郭は1辺30mほどの方形の郭である。郭の配置が単純であること、平地との比高が低いことなどから、館の防御を目的とした初期的な城と推測されている。


大廻城



塩冶家家系図

塩冶貞清----高貞
       +--時綱--通清--満通--高清--豊高--貞綱--貞清--貞慶==興久(尼子経久三男)


高貞没落後、高貞の弟時綱とその子孫は将軍の近習として存続したのでこの時綱系が塩冶の地を代々治めていた

出雲守護となった近江佐々木氏流の尼子経久は、時綱の子孫の塩冶貞慶を攻めて追放し、経久の三男興久に塩冶氏を継がせた
ただし塩冶興久が父、尼子経久に反rなを起こして塩冶家は滅亡する


感想
・城の比高や規模としては少し小さいが初期の形態若しくは居館としては十分だと思う
・塩冶関連の城は複数にわたっており(半分城や塩冶神社など)どこが本拠か分からないが、時代時代によって本拠も変更があったのかもしれない
・城というより居館っぽいがそれでも比高が30mあり上からみると塩冶の街並みが分かるのではと思う(しかし今は草木で全く視界は無い)
・島根県教育委員会『島根県中近世城館跡分布調査報告書』では向山城とある