勝山城(かつやまじょう)
場所 | 広島県三次市粟屋町 |
標高 | 270m |
比高 | 100m |
城主 | 粟屋隆信、粟屋五郎衛門?、三吉豊後守 三吉新四郎 |
別名 | 無し |
余湖さんのHPから引用
勝山城全景 麓にお地蔵さんがあります(結構古いです) この裏から登ります
登城路はありません直登のみ しばらくすると大きな竪堀があります
更に登っていくと最初の郭に到着(藪化で見えない) 土塁跡
何とか這い上がって次の小郭へ 石垣があります その上に3郭を発見(ここも草木で視界が悪い)
しかしこの3郭はこのような立派な石垣で囲まれています おそらく城主の館があったのかもしれません
3郭にある井戸跡 3郭には虎口があります
少し上がったところに2郭がある 2郭にある神社
そしてその上に主郭があります(ここも石垣の散乱したものがある) まあまあ広い
主郭奥の土塁 勝山城の矢竹
概要
郭は全体に方形を志向している。1郭は背後(北側)に土塁があり、西には3郭につながる土塁状の通路を設けている。
3郭には北と西に土塁を設けており、北東隅には井戸が残る。北側の土塁は中央部が開口しており、虎口となっている。
1郭の東側にも土塁で北・東を囲んだ小郭が配されている。北・南西・東に延びる尾根筋上に堀切を設け、城域を画している。
城主は三吉氏、またその後粟屋氏の名がみえる
勝山城
三吉豊高----三吉致高------------三吉隆亮--------三吉広高
+三吉久高 +----粟屋隆信(後に久高の養子となる)
+-三吉三郎右衛門------三吉豊後守------三吉新四郎
粟屋隆信
粟屋刑部少輔隆信または、三吉新兵衛隆信とも呼ばれる、戦国時代後期〜安土桃山時代の高田郡粟屋町勝山城主。
享禄4年(1531)〜天正19年(1591)
兄の三吉隆亮より、息子三吉安房守広高の後見人を任されていた。武術は素より硬骨練直な武人であった為、甥、広高に厳格な指導をし、
家臣の武士に対しても厳重な態度をとっていた。
故に、周りの家臣に専横な態度だと思われ、城中でもいろいろ取沙汰されてします。その為隆信は、その不満により最後には註殺されてしまうのである。
そうした事で、その霊を鎮める為、広高により三吉聖霊隆信を、当社の境内に神社を祭る事に成ったのである。
以後、八幡大明神の守護神となり現在も当社を守護される。
若宮八幡神社にある粟屋神社の説明文より
大鳴門神社にある主神像に「願主藤原隆述卯歳〜永禄9年」とあることから隆信の誕生年が享禄4年(1531)であることが分かる
死亡年も天正10年・19年と諸説ある
三吉豊後守(1532〜1540)
父親の三郎右衛門が討死の時9歳
初めは新四郎または松之助と名乗る
豊後守を名乗った頃に沼之城の城主となる
粟屋隆信の跡に城番を仰せられ勝山城に入城する
天正15年(1587) 55歳で病死
父親の三郎右衛門が討死は天文9年(1540)この時三吉豊後守は9歳 となると生まれたのは天文元年(1532)
天正15年(1587)に亡くなっていると粟屋隆信が天正19年(1591)に亡くなった説は成立しなくなる
三吉豊後守は粟屋隆信の代わりに城番を命じられるので粟屋隆信は1587年以前には亡くなっていないとおかしくなる
三吉新四郎
家督相続の後しばらくして勝山城から下城 志和地村の内田の土居へ移る
三吉隆信の関係図
三吉致高----------三吉隆亮
+---三吉隆亮妹
| +-----------------------井上佐渡守高重(井上土居屋敷の主)
| 前田駿河守秀貫 |
| +--------------井上高令
+----三吉(粟屋)隆信 |
+---------------------三吉隆信娘
+--福原貞俊----福原広俊--福原貞俊--------福原貞俊女
+--福原貞俊妹--毛利元就--毛利隆元---------毛利輝元
若宮八幡神社内にある粟屋神社
伝承では隆信が謀殺されたあと毎夜亡霊が現れるので広高は粟屋明神を勧請したが、さらにその後も怨霊を恐れて比叡尾山から比熊山に居城を移したという
おそらく居城を移したのが1591年であり、その事が話に尾ひれがつき広高が謀殺したのが1591年となったと思われる
隆信の墓は2つあり1つは勝山城の西に龍興寺(現在は廃寺)に祀られている宝篋印塔あり
もうひとつは岩屋寺公園内にある自然石である(こちらの方は怨霊を恐れた地元の人間が祀ったといわれている)
@龍興寺墓
粟屋にある粟屋隆信の墓(龍興寺跡にある)
臨済宗法霊山龍興寺は三吉隆信の建立っでその香華院であったが明治18年に廃寺となった
A岩屋寺公園内の墓
岩屋寺付近にあるもう一つの粟屋隆信の墓 自然石で小さい
『双三郡誌』には「粟屋隆述墓」として「畠敷にあり、高田郡勝山城主なり、比叡尾山城主広高に殺され此地に葬る」としている
この墓はおそらく地元の人間がその霊をおそれ供養塔として祀ったものと思われる
この付近からみた三次の風景
粟屋町上村にある大鳴戸神社 天文6年(1537)に三吉久高が重造するとある
まとめ
@粟屋隆信は三吉到高の次男であったが叔父の久高の養子となり粟屋姓を継いだ
A粟屋郷自体はそもそも15世紀後半には宍戸領であったとされるので三吉氏が戦で横領したものと考えられる
Bなのでその当地を三吉到高の弟である久高に預け、久高も在地名をとって粟屋の姓に変えたものと思われる
C久高には子供がいなかったのか甥の隆信を養子に迎えた
D粟屋隆信は三吉隆亮の弟で兄の補佐役(家政的な立場)であったと想像出来る
1548年当時の出雲大社への参詣についての事を三吉氏の本城である比叡尾山城で相談したいや詳しい事は奉行の河面修理進に伝えてあるなどから
杵築参詣宿之事、於比叡美被申談之姿、於此方不可有相違候、委細河面修理進可申候 恐々謹言
七月十六日 隆信
坪内宗五郎殿
進之候
E当時の居所は粟屋の勝山城であった
Eただしこの隆信は甥の広高に誘殺されてしまう理由は、隆信の厳格な人間で甥の広高はもとより家臣にも厳しく指導したり、またその態度が大柄であったりした為や内証の為という
F隆信の亡き後は三吉豊後守が勝山城の城番を仰せつかったとあるが彼が1587年になくなっているし三吉隆亮が1586年に亡くなっているので、おそらく粟屋隆信が殺されたので隆亮が亡くなった1586年からすぐの事ではないのか?
G三吉豊後守亡き跡は息子の新四郎が城番となるが太閤殿下の時代(いつか不明であるが)に下山するとある
ここに勝山城も廃城となったものと考えられる
感想
・戦国末期の城で山頂でもふんだんに石垣を使用している
・城の加工度も高く長い間ここに居住していたことがうかがえる
・城の麓の少し東に行ったところには市場という地名もあり城下形成もされていたのではないかと思われる
・3郭に虎口がありここが登城路と思われるがよく分からなかった
・2郭に神社があり、おそらく最近(そうは言っても江戸時代から戦前位)まではこの郭付近もしっかりと整備されていたと思われるが、最近は手を入れておられないように見える
・本城である比叡尾山城までは距離が12キロ弱はある