加井妻城(かいづまじょう、かいづめじょう)

 場所  広島県三次市粟屋町
 標高  223m
 比高  58m
 城主  青屋出羽守入道友梅  三吉(粟屋)久高
 別名  青屋城、粟屋城、卑城、飼地城




余湖さんのHPから引用


  

加井妻城全景                                  高速道路の工事用の梯子がありますこれを登っていけばすぐです

  

梯子の上は藪化していたので側面からいくと親切にロープがありました   最初の郭へ到着

  

その上の郭                                    主郭(細長い)

  

主郭の石積みの残骸                              主郭の物見櫓

  

物見櫓から下の堀切を見る                          逆に堀切から主郭を望む 

  

加井妻城の矢竹                                 対面には勝山城がある

加井妻城



概要
1977年に一部発掘調査が行われている。最高所の郭には背後(南側)を土塁・堀切で区画しており、北下に向って郭を連ねている。4・7郭では多数の柱穴が検出され、小規模な建物跡あるいは、柵列跡が想定されている。7郭は本城跡中でも最も大きな郭で、柱穴のほかに土坑・集石遺構などが検出されている。8郭は堀切が確認されているが、その北方は削平を受けており郭の状況は不明である。
9郭では小規模な建物跡があり、飛礫と考えられる河原石が検出されている。またここから多数のスラグが出土しており、鍛冶遺構の存在が考えられる。出土遺物には輸入陶磁(青磁・白磁・青花)国産陶器(備前・瀬戸美濃)、土師質土器(すり鉢・鍋・香炉・皿など)
土製品(土錘)、石製品(磨臼、砥石)、鉄製品(短刀・鋤先・鉄鏃・釘など)、青銅製品(笄・和鏡・鋲など)、古銭などがある。
本城跡は、輸入陶磁や国産陶器などから、15世紀後半から16世紀代に築城され使用されたものと考えられる。
など、発掘調査報告書では城の性格を考察する際に陰徳太平記の記述を採用しているが、根拠となった1523(大永3)年の戦いは『新栽軍記』などにおいて史実ではないことが明らかにされている。
当該期における政治状況、あるいは地理的な位置関係などをみれば、三吉氏の界詰めの城としての機能を指摘した報告書の結論は否定されるものではないが、その根拠付けは慎重に行われるべきである

広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用。

陰徳太平記では大永3年(1523)に高橋久光が加井妻城を攻めていることになっているが実際には永正10年(1513)や永正12年(1515)に高橋元光が加井妻城を攻めて戦死をしている(高橋元光は高橋久光の嫡男)

永正十年、高橋元光は領境を接し永年紛争を繰り返している三次畠敷の比叡尾城主三吉氏を攻めた。ついで、永正十二年にも三吉方の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中にまさかの戦死をしてしまった。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって最初にして最大の躓きとなり、高橋氏が戦国大名に飛躍出来なかった要因となった。


しかし
永正12年(1515)4月23日 毛利興元が田総氏に宛てた書状「閥閲禄」所収田総惣右衛門家文書に「仍高橋方就於入君討死御味方中競致推察候」とあるので この時入君(現在の君田の東・西入君付近)において高橋元光が討死しているとも考えられる
そうなってくると1523年に高橋久光が加井妻城に攻めてきているという事も真実なのかもしれない


この城は比叡尾山城に本拠を置く三吉氏が、三次郡南部の支配を固めるために構築した城で、可愛川を4キロ南下した所には宍戸氏の祝屋城があり、上村川の上流域は石見国出羽の高橋氏の勢力下にあった。「陰徳太平記」には青屋の城とあり、この城は高橋大九郎久光と「備後の三吉修理亮と数年論争の地となれば」と記している。三吉氏にしてみれば、その勢力範囲の界詰めの城であった
「陰徳太平記」によれば大永3年(1523)3月、高橋大九郎は三千の軍勢を率いてこの城を一度は攻略したが油断してかえって討死。勝に乗じて三吉氏は反撃に転じようとしたが、高橋氏を支援する毛利元就が3500の兵を率いて北上して、城主青屋出羽守入道友梅以下1800をこの城に包囲した。
しかし、周防の大内氏が安芸西条に侵攻したため、青屋氏の助命を条件に城を受取って和議が成立したとある。


三吉氏家系図


三吉豊高--------三吉到高(修理亮宗高と名乗る)---------------------三吉隆亮-------三吉広高
        +----粟屋久高(この人物が青屋入道友梅では?)      +--粟屋隆信(後に久高の養子となる)

                                               (三次市史 古代・中世文献史料編より)


感想
青屋は粟屋が訛って変化したものと考えられる
入道友梅とは出家した人物と思われるのでこれらを推測するに青屋入道友梅は粟屋久高(三吉久高)ではないかと思われる

後に三吉隆亮の弟がこの久高の養子なって粟屋隆信を名乗り、対面に勝山城を築くのでこの加井妻城は城主として粟屋久高がおりその後に養子の粟屋隆信が勝山城を本拠としたときに廃城になったのではないかと思われる

久高が粟屋氏を名乗っていたという証拠はないが粟屋にいた粟田隆信の養父が久高であったという事から久高の名字は粟屋姓であり、粟屋久高に養子にきた隆信が養父の名前を継いで粟屋氏を名乗ったというほうがすんなりいく

この地域はもともと宍戸氏の領土であったとされている