○坂本家

坂本家は曾祖母の実家。キクの祖父、坂本吉右衛門までは戸籍で判明していました。

それ以前を遡るため、坂本の戸籍から住所を調べ、更に旧土地台帳を調べて現在住んでいる人を確認しました。

Mんという方が現在在住でした。

ネット地図でMさんの住所を検索、場所は確認できました。しかしネット地図では道路が書き込まれておらず、行き方が分かりません。

父と一緒に山の中をさ迷いながら家を発見し、家の裏に着きました。

表には舗装した道があり別の道(別の村から行く道)があり愕然としました。

また、この番地だけ集落から離れていました。(その家は一番最初の番地である5番地)墓は2004年2月に発見。

そこに住んでおられるMさんの話では、坂本家は昭和15年頃に町に引越をしたそうです。

墓は昭和30年代までは坂本の人間が墓参りに来ていましたが、それ以降は世話をしておらず、時折、見越さんが草を刈る程度でした。

戒名から、昔はタタラ製鉄で一家を成したようでした。

大学2年生の時(1994年)にその集落に住む96歳のおじいさんに「何か知りませんか」と聞き取り調査をしましたが何も分かりませんでした。

明治のはじめの話を調べるのはなかなか難しいです。

 

学んだこと

1 インターネットで住所から地図を調べられること。これは本当に便利でした。

2 今までは戸籍の住所と現住所は違うものだと思っていましたがそうではありませんでした。昔は戸籍住所=現住所。

 

○今井家

先祖探しの始まりは、「今井家」からでした。

図書館で「家系図を作る」という本を見つけたのがきっかけでした。その本で、まず戸籍を入手することを知り、

1993年3月3日(水)、バスで田舎の駅まで行き初めての戸籍請求をしました。

先祖探しのようにまとめて遡る場合は「先祖供養のため遡れるだけ遡ってください」と伝えれば楽だな、とその時分かりました。1993年7月28日(水)原付で田舎まで行き再度戸籍入手

1回目はバスで行きましたが、2回目は原付で行きました。

この日はあいにく朝から雨がしとしと降っていましたが朝の5時に家をでて5時間かけて田舎の役場に行きました。その時の情熱やわくわくした思いは忘れられません。

また、雨の中5時間かけていったという情熱が役場の方に理解されて、請求がスムーズにいったのではないかと思います。(その時応対してくれた役場の女性とプライベートで遊ぶようになりました。)

その後「家系のしらべ方」という本を購入しました。

そして戸籍を読んで家系図を作りました。完成したとき、大きな充足感がありましたが、戸籍では遡れない部分はどうなのか気になりました。

まず、私の一番古い先祖がどこから来たのか戸籍をみました。奴可郡加谷村というところに今井常次郎はいましたが、うちの今井家の伝承では「先祖は本村(今の庄原市)からきた」ということと「屋号は南」という事はわかっていました。

そこで一計を案じ、庄原市の今井すべて(10軒)に手紙を書いてみました。

すると「本村」ではなく「峰村」の今井さんから返信があり、かなり古い先祖まで記載されていました。また屋号も南でした。

私はいてもたってもいられなくなり、その方に電話をし、直接お会いしたい旨を伝えたところ快諾を頂きました。

後日JRに乗り手土産持参で会いに行きました。(1993年秋頃)

先方の話では「本当は自分の父親が長男だが、素行が悪く本家は下の弟が継ぎ父親が分家した」とのこと。

先方の方は自分の先祖や家の事を詳しく知っていて話が盛り上がりました。

それからその先方のおじいさんから本家に連絡をしてもらい本家に伺いました。

本家の当主はは「何もわからない」と言っておられましたが、話していくうちに意をくんで頂いて菩提寺にいく事になりました。

和尚さんは過去帳をみてから「記載人物が多いのでちゃんと整理してから渡します」との事でした。

本家の方とは最後には一緒にビールを飲み、ご機嫌で「今日は泊まっていけ」とまで言ってくれました

しかしたまたま分家のおじいさんの子供が広島から来ていたので車に乗せて頂いて帰りました。

今井家の伝承「本村からきた」はおそらく情報が錯綜したものと思われます。

もともとは「峰村からきた」と伝えられていたのではないでしょうか。これは調査によって判明したことです。

常次郎は峰村で生まれて小奴可でタキノと結婚しています。

徳三郎(次男で私の曽祖父)は明治3年に小奴可で生まれています。

そうなると常次郎の戸籍が存在するとすれば、壬申戸籍になるので交付されません。

子供の徳三郎の戸籍(住所は小奴可)は存在し、交付されました。

(正確には徳三郎は兄善兵衛の戸籍から分家しました。兄善兵衛が戸主の戸籍には前戸主として常次郎が記載されています。)

しかし、常次郎が峰村出生かどうか証明する資料はありません。

ちなみに壬申戸籍が仮にあったとしても、戸主今井常次郎がどこで生まれたかは記載されていないのではないでしょうか。

常次郎の父親の名前は判明すると思いますが、どこの生まれかは記載されているのでしょうか?。

このように常次郎が峰村からやってきたかどうかは断定できませんが、屋号の一致、伝承の一致(村の名前は違っていましたが)苗字の一致から、今井家は峰村からやってきたと断定してもよいと考えています。

依頼した過去帳を手に入れたのは、それから半年後のことでした。しかも私が別件で親戚と庄原のスーパーに行った時、偶然本家の当主に会い、過去帳を催促して入手できました。

(当主自身もまだ寺からもらっていなかった。)

これらの件で色々な事が分かりました。

1 長男が後を継ぐとは限らない。常次郎が家を継がなくて、弟が継いだ理由はわからないが事例はある。

2 お寺のお坊さんには色々な人がいる。

基本的に、僧侶はサラリーマン経験がないので世俗の常識が通じない場合もあります。

全員とはいいませんが、経験上、先祖の過去帳を依頼してもなかなか作ってくれません(半年くらいほったらかしもあります)「催促すれば作る」「お布施を渡したら作る」こういった方がいらっしゃいます。

過去帳の依頼は仕事の依頼です。仕事には期日があります。期日を守らない者は社会人として信用されません。特に最近の僧侶は修業中の人的ネットワークが発達し、例えばお布施で競争しているという噂も聞いた事があります。その方がどういった方か、慎重に検討しながら付き合い方を考えてください。

過去帳を作って頂くのは仕事の依頼=報酬は当然なので布施は払う。でも依頼された仕事を遅滞するのは問題です。忙しいというのは言い訳で、どんなに大量にあったとしても1ヵ月あればできるはずです。

もう一つ、僧侶はプライドが高く、自分は人と違う、正しい道に導いてやっているという意識があるのではないか?

経験上人徳のある方もいらっしゃいましたが、概ね戦前に修業した70歳以上のお坊さんでした。

40歳以下のお坊さんは金次第の人物が多いように思いました。

なぜ本家の当主が自分の先祖のことがわからないのかというと彼は4男で兄らは戦死しているからです。

さらに、本家の当主が成人したころには父親が亡くなっている。これが長男だったら違っていたでしょう。

さらに本家の当主から「先祖は粟石峠を越えてきたと聞いている。昔は総領町のあたりに住んでいたのだろう。江戸時代にはじめに峰村にきたらしい」と教えていただきました。

その2ヶ月後、総領町を含む甲奴郡の今井さんすべてに手紙を送付し「今井の伝承について何かご存知でしょうか?」と訊ねました。江戸時代はじめの話なので、直接の先祖につながる情報は得られないだろうな、と考えていました。

すると役場勤務の今井興二さんからお手紙を頂きました。

その今井さんのお宅では「私の家では昭和50年頃までえんどう豆を作りませんでした。理由は戦国時代に私の先祖に当たる武士が戦でえんどう豆のつるで足を引っ掛け、転倒、そこを討ち取られたため縁起が悪い作物ということで作っていません。」という伝承を教えていただきました。

嬉しくなった私は、その今井さんに電話を掛け感謝の気持ちをお伝えしました。

そのとき、さらに、2人の今井家の歴史に詳しい人を紹介してもらいました。すぐにその二人に手紙を書いてみましたが音沙汰もなくそのままです。

それから3年くらいたって、図書館で甲奴郡太郎丸に「今井五郎入道和時」という人物が居住し(1350年ころ)その地で威をはっていたらしいことは確認できました。しかし、それ以上のことは分かりませんでした。

それから10年以上たった頃友人の家系図作成に刺激を受け今井について調べてみようと思い、再度調べ始めました。

まず役場に「私は趣味で郷土史を研究しているものです、太郎丸という地域に今井という武将がいたと聞き何かご存知ではないか、宜しければ何かご教示くださいませんでしょうか」とメールをおくりました。

すると「太郎丸は今の甲奴町にあたるのではないでしょうか」と返信があり甲奴町にメール送ってみました。

返信で甲奴町誌があることを教えてもらい、後日、甲奴町役場にいき、町誌をすべてコピーさせてもらいました。

そして地域郷土歴史家のF先生を紹介して頂き今井の歴史についてお尋ねしたところ、古文書を持っておられました。

その古文書というのは、福島正則が大名の時に「地域の有力者の覚書を提出しろ」というお触れがでて、

そこで家が提出した文章らしいです。家の由来書のようなものです。その中で今井は平安時代の有名な武将の子孫だということが判明しました。

鎌倉時代からの先祖が記載されている家系図もありました。ただし峰村の今井家とこの戦国武将の今井がつながらないので100%この子孫だとはいえません。

それからF先生の紹介で甲奴郡上下町の今井さんを紹介していただきました。

しかし、その今井さんに資料の拝見、コピーもしくは写させてくださいとお願いしましたが、断られました。

相手さんは「こんなに自分が一生懸命調べたものを簡単にコピーはさせない、もししてほしければ、あなたもそれなりの資料を持ってきてください」とおっしゃられました。

私としてはこれ以上古い資料を調べるために、役場や先生に色々尋ねているので、資料をだせと言われてもと困りました

私は当然そのような1600年代以前のデータなどもっているわけもなく、インターネットでしらべた資料をこまめに送りましたが、当主には「興味本位の域をでない」と一蹴されました。それでも田舎に行く用事があった帰りに、集大成の資料をお渡ししました。(本人不在で奥さんにお渡ししました)

後日返信があり、「君は勉強不足だ」とありました。また全体的に私を見下しているように思えました。確かに勉強不足は否めませんが、一つ一つの指摘が私にはおかしいように思えました。

何か他に論証、資料的裏づけがあって指摘しているなら私も納得できますが、単にその方の固定観念で指摘しているように感じ、逆に「あなたも勉強不足ではないのですか?」と聞きたくなりました。

これ以上関係を続けていてもお互いのためにも良くないし、資料はきっと見せてもらえないと感じた私は今までつもりつもった気持ちを返信で爆発させてしまい、相手の指摘を一つ一つ論破してしまいました。

あまりに人を見下したような返答でしたので、すべてを論破したら、ご機嫌を損ねられ(何も知らない若造が生意気だと思われたのでしょう)「あなたは覗き見趣味だ」「変態だ」「もう二度と付き合わない」と書かれた手紙を頂きました。

その後、「ご気分を害されたなら謝ります。決して覗き見趣味のつもりはありません。またこれから二度とそちらにお伺いすることもありませんのでご安心ください」と一応詫び状のようなものを送り、そこで終わりました。

学んだこと

人間にはいろいろな人がおり自分の常識では合わない人物もいるということでした。

 

太郎丸の話

私は鎌倉時代に今井五郎入道和時が罷免されて備後の国の太郎丸というところに流されたのではないかと推測していました。

しかし、具体的な証拠もなく漠然としか分かっていませんでした。

ちょうどそのころネットで歴史に詳しそう(特に鎌倉時代)な方を知り、思い切って質問メールをしてみたところ、返事がいただけました。その方は私立小学校の教諭のようでした。

1 流された人物が土地を与えられるのか?

答えはNO

承久の乱で勝った武将が新補地頭として赴任したのではないでしょうか。

そのときは納得しましたが、後からなぜ、あんな太郎丸みたいな小さな村程度しか与えられないのだろう?と疑問に思いました。

新補地頭ならもっと大きな行政単位を与えられるのでは?

(その頃の安芸の国の地頭で有名なのは吉田一帯を支配していた毛利家です。)

後日F先生から見せていただいた家系図の中には今井朝秀という人物が建長5年(1253年)に安芸の国の今井村の地頭となるとあったので、やはり地頭にはなっていたことになります。

それらの情報から私はさらに推測をおしすすめました。鎌倉時代は武田が安芸の国の守護でその現場監督者として、武田の一族である今井が赴任してきた。

(鎌倉時代中期までは守護は赴任しない守護代を置く、後期からは下向してくるが)

学んだこと

ネットで知り合った方からとてもたくさんのことを教えていただいて勉強になりました。

また、ネットというものが無限の力をもっており、即座にしらないもの同士をくっつけるものだと認識しました。

もうひとつ、友人が調べ物のついでに県立文書館で今井を調べてくれました。

そのとき、館員が総領町誌を編纂した人物を紹介してくれました。なんでも地元の歴史に詳しく地元の歴史民俗資料館の館長をされていたとのことでした。

この人ならまた別のルートで今井の伝承について教えてもらえるのでは?と、しばらくしてから連絡をしてみましたが運悪く連絡する1ヶ月まえに脳梗塞で倒れておられました。

その後、友人に「なぜすぐに連絡しなかったのだ!」と叱られ(情報を貰った時点で倒れられていたので仕方ないのですが)人には早く聞くことが重要だということを学びました。

他に、本家中の本家の当主が現在兵庫県にいると聞き兵庫県に手紙を書きました。

すると「資料を整理してなくてぼろぼろですので整理したら連絡する」との事でしたが連絡はありませんでした。