○佐々木家

佐々木家は祖母の実家なので小さい時から、毎年お盆には墓参りをしていました。

また、祖母から佐々木家の歴史も少しは聞いていました。現在佐々木家は京都に引っ越しており、祖母に紹介してもらい、京都に話を聞きに行きました

佐々木小之平が江戸時代の末期に宮大工として流れてきたのがいいつたえの始まりです。

昔から父や祖母から「先祖は石州からきて宮大工だった、三次から当村にきた」という、いわば伝承がありました。

さらに、石州からだと街道が三次とつながっており、いったん三次で宮大工をしつつまた当村に北上したのではと推測します。

ここには有名なお寺もあるし、宮大工としてはいい仕事ができたのではないでしょうか?

石州の寒村で貧しくて食べられないので、手に職をつけていったのではないでしょうか。

 

また、佐々木小之平がどこからかこの村に流れ着いたので戸籍以前が遡れません。

当然、古い位牌などもなく小之平の墓が最も古い墓です

佐々木小之平は愛助の戸籍に前戸主として記載、旧墓に小之平の墓があり、佐々木の初代に当たります。

石州は冬に雪深くなるため、技術労働者が非常に多かったようです。(石州瓦は有名だし大工なども多くいた)

そんな中で小之平は技を身につけ、いろいろな村を転々としたのではないでしょうか。

そして最終の安住の地がこの村ではないでしょうか?(江戸時代末期)

もうひとつは小之平の妻「チカ」がこの村の娘で転がりこんだのではないかと推測します。

宮大工といえば当事では社会的地位は良かったのでしょうか?

曽祖父の莊太郎は地域の有力な人物で裕福だったし、祖母は尋常小学校でなくてその上の学校まで通いました。

高祖父である愛助も羽振りはよかったようです。

その父親である小之平がいきなりチカと流浪の末に村にきて財産を築くのは無理があります。

それよりは村の有力者の娘であるチカと結婚、そのまま土地を引き継いだ、と考えるのが自然ではないでしょうか。ちなみに小之平とチカがいる墓には彼らの墓以外に他の墓があります。

だれの墓かというとその土地の村役人(タタラの鉄を管理した下級武士?)です。

その墓所に小之平がいたということはやはりチカがその役人の娘だったのではと推測します。(祖母の話では戦前は駕籠や槍、刀があったらしい)

「土地を引き継いだから駕籠や槍を一緒にもらったのか」と思っていましたが、役人の娘と結婚したのではないでしょうか。

学んだこと

また、佐々木家の菩提寺は雲竜寺と祖母から聞き、そのお寺に過去帳を見せてもらいに行きました。

まったく約束なしで尋ねたにもかかわらず「佐々木の子孫です」と名乗ったところ過去帳を見せてくれました。(佐々木は村の有力者だったのでしょう)

当然、小之平以前は記載されていませんでしたが、墓に彫ってある戒名と文字が微妙に違っていたり、色々勉強になりました。

 

○名越家

名越家は祖母の母親の実家ですので、大学2年生の時に祖母と2人で話を伺いに行きました。

当時は祖母のイトコも健在でした。名越家は分限者で昔は高利貸しをしていたのではと推測しています。

本家では「江戸時代末期に冨田(トンダ)という家から独立したのだ」と、教えてもらいました。

「葬式に冨田がきた」ともおっしゃいました。さらに家紋が一致、珍しい家紋なので伝承の証明になると考えます。

明治以前が冨田出身んだと推理します。冨田に連絡を取ったが拒否され、そこから先は分からずじまいです。

ちなみに「名越」は小字だということが旧土地台帳で判明しました。明治の苗字義務で名越姓にしたのだろうと思います。

学んだこと

祖母のイトコが生きていてくれて本当に助かりました。信頼の度合いが全く違ってきます。

もし、祖母のイトコが亡くなられていて、私一人で尋ねていたら信用されなかったでしょう。

「親戚関係は早く回るべし」「亡くなったら大変だ」という教訓を得ました。墓や位牌よりも重要かもしれません。

また、「伝承」や「言い伝え」も教えてもらえたので本当に助かりました。伝承が決め手となったこともあります。

○植本家

植本家は私の祖父の実家ですが、祖父があまり多くを語らなかったらしく、詳しいことは不明です。

それでも当主である私の伯父と年賀状のやり取りはあったようですが、そのおじも倒れてからは付き合いがなくなったようです。

個人的には祖父の祖父や曽祖父の墓や位牌を見てみたいですが難しいところでした。

植本家は、高校卒業位の時に母親に電話をしてもらい先祖のことを聞いてもらおうとしました。しかし現当主が興味ないらしく

「別にそんなこと知らなくてもいいじゃないか」ということで終わりになってしまいました。当時はこれだけしかわかっていません。

当時はまだ経験も浅かったので、今から考えれば後悔する部分があります。

色々経験してきた今なら、まず、手紙を書き事情を説明し(家系図も書き関連性も説明する)次に電話連絡をし「墓だけでも見せて頂けますでしょうか」と頼んでみる。(訪問の際にはご仏前やお酒を持っていく)

そして彼岸毎に墓参りをして、お宅に寄り信頼を得てから位牌を見せていただく・・・という方法をとったと思います。または伝承だけを聞くならば、むげに断られなかったと思うのですが・・・残念でした。

しかし、10数年このモヤモヤが晴れずこころの奥にあった後悔を晴らしました、昨年意を決してもう一度お手紙を書きました、2軒あり

どちらか分からなかったのですが、1軒から返信があり、私の曽祖父や高祖父に当たる人物の墓が家の裏山にあるとのことでした。

早速お宅に伺い、墓参りをさせていただきました。伺った家は分家で本家が隣にありそこの家が私の曽祖父の生まれた家なのですが、

分家の当主の方と自宅に伺いましたがやはりいい返事は無かったです。しかし、お墓参りが出来たことは最大の収穫でしたし、長年のわだかまりもこれで無くなりました。

またこの植本家で始めて戸籍記載事項が100%完璧ではないということを認識しました。

戸籍では祖父明照の父は治平で、治平とアトが55歳の時の子供になっていました(9男)

しかし母親に聞いたらそうではなく、戸籍上では兄にあたる澤太郎の子供であったと聞かされました。(母親が明照から直接聞いた話なので信憑性が高い)

理由は澤太郎がハワイに出稼ぎに行くのに子供は邪魔だから連れて行かなかったとのことで自分の父親の子供にしたようです。

戸籍取得時から、55歳で子供を出産なんてありえないと思っていましたが、母親からの話を聞いて納得しました。

また、明治時代では日常茶飯にこういったことがあるのだなと思いました。

 

学んだこと

先祖や家系図に興味がない方もいらっしゃいますね。その場合はこちらの要求を押し通すとお互い損をします。

ゆっくりと理解を深めていきたいものです。私も当時人との付き合い方が分かっていなかったので変に意識してしまい失敗してしまいました。人との付き合い方は重要ですね。また、戸籍記載事項は100%信用してはいけない、ということも学びました。

 

○森重家

森重は私がコンタクトを取っていない唯一の親戚でした。そのため、詳しいことがわかりませんでした。

さらに、森重家は妻の実家のある隣村に引っ越したので、家がなくなり位牌もなくなったようです。

さらに当主が早くに亡くなったため、息子に伝承が伝えられませんでした。

昔すんでいた場所は原村なのですが、昭和30年代に原村史というものが発行されました。

それには壬申戸籍に記載されている家すべてを網羅してありました。

しかし、森重家は昭和30年以前に引っ越しているため、記載がありませんでした。

その場所からいなくなると人々の記憶や記録からなくなると思い知らされました。

 

また、森重家と付き合いのある伯父に「森重に行きたいんだけど連絡してくれないか」と依頼しても、

「森重は当主が亡くなってから、詳しいことはみんな知らんから行くだけ無駄だ」と言われ、乗り気ではありません。

伯父に頼まず行くことも出来ますが、やはり縁故のある人と一緒に行くのがよいと考えなかなか行けずじまいでした。

もう一つは、勝手に森重の家に行ったら伯父が気分を害するかな、とも考えて迷っていました。

また森重理平太、勘蔵の墓があるのですが(私からすれば高祖父とその上)

これも伯父が墓守をしており、森重の当主は墓参りに来るだけです(森重の現在の当主から見ても高祖父とその上)

自分の父、祖父、どれだけ遡っても曽祖父くらいまでしか墓守をしないといえば終わりですが、

自分の家の直系尊属ですので自身で墓守くらいはしてほしいものだと考えていました。

伯父は「当主が早くに亡くなったために伝承など聞いていないはずだ」と言い切りますが、はたしてそうでしょうか?

いくら早くに亡くなっていても位牌くらいはあるのではないでしょうか。とこれまたモヤモヤ感があるまま十数年過ごしてきました

そこで、叔父の家に行き、森重家の詳細な家系図と戸籍のコピーと昔の写真(昭和14年当時の葬式の時の写真で森重の人間が

数多く載っているもの)を送るので住所を教えてもらい送付しました。そうしたら当主よりとそこの奥様が感激されて、何も分からないが

自宅に来てもいいという事になり訪問させて頂きました。やはり、叔父の言った通りなにも分かりませんでしたが、唯一会っていなかった

遠縁の方とお話が出来てよかったです。

そして、現在の当主の方から「向こうにある高祖父の墓とかも今ある墓に一緒にしたいのだが、一族の住んでいた土地が子孫に分からなく

なるのでやめなさいと住職に言われて一緒にしていないだよ」、「でもこのままでは息子も墓参りしなくなるしどうしたものかと悩む」と言われていま

した。帰るときには家の前で栽培している野菜をたくさんもらって帰りました。また後日腰の重かった当主が役場に行って遡れるだけ遡った

戸籍を入手されたそうです。その時に1つだけ私の持っている戸籍が無かったとのことでした、

そうです役場で廃棄されていたのです、私が取得したのは平成5年、そして当主は平成18年に取得、この13年間の間にここの役場は明治45年以前の除籍は廃棄したとのことでした

 学んだこと

家長が早くになくなると一家の伝承が途絶えます。稼ぎ頭を失うわけですから、生きるのに精一杯になりますので先祖どころではないと思います。伝承が欠落すると息子は自分の先祖に興味がなくなります。逆に子供のときからきいていると、否が応でも覚えるし興味も持ちます。

 

○山崎家

山崎家は祖母の祖母の実家です。(私の高祖母)

私の祖母は3歳か5歳くらいに山崎の実家に泊まった記憶があるらしく(大正8年ころか?)

ちょんまげをしていたおじいさん(高祖母の弟か?)がいたらしいです。

はじめ祖母と付き合いのある分家の山崎さんのお宅に祖母と伺いました

 

そこで本家の方を紹介して頂き山崎本家に伺いました。

当主の方は、先祖探しに理解を示して下さり、菩提寺を紹介して頂きお寺で過去帳を拝見させていただきました。

 

そこで山崎家の旧墓を教えていただき墓を調べたところ、もう一代前まで遡れました。

当主の話では山崎家はかなり昔からこの地に居住しているとのことでした。

 

そのとき、まだ古い旧旧墓があると教えて頂きましたが、その時は意識が低く、まあいいかと思ってそれっきりになっていました。

所が、「2,3年前の正月に祖母が山崎本家に行った時、仏壇に位牌がたくさんあり立てられないくらいあった」

という話を思い出し、情熱がメラメラと湧きあがり、10年ぶりに山崎本家に伺いました(2004年2月)

そこで当主から位牌を見せていただき、旧旧墓の場所を教えていただきました。

そこで1750年ころの先祖まで発見できました。

ただし位牌や墓なので戒名で、はっきりとした系譜はかけず推測になりますが、先祖には間違いありません。

 

しかし残念なことが2つありました。

ひとつは当主が数年前に脳溢血で倒れて、先祖の伝承がすっかり忘れられていることです。

 

また、菩提寺の和尚さんもすでに他界したとのことで、現在はお寺に住職がおらず

隣村のお寺が変わりに代行しているので過去帳もどこにあるか分からないそうです。

 

まず過去帳は

家の過去帳(代々書き継がれているもの)

寺の過去帳

の二つがあります。

家の過去帳は大体仏壇の中にあります。寺の過去帳は寺にあります。

 

過去帳で分かるのは

> 戒名

> 没年月日

> 夫婦関係も分かるときがあります(こちらの可能性は高い)

> 生前の名前は分かるときもあります(こちらの可能性は低い宗派によりけりです)

そのため寺の過去帳を調べる際は、旧墓や位牌や家の過去帳で事前に戒名をチェックしておいて

寺の過去帳を依頼またはみせてもらいにいきましょう。

 

私はこの時経験不足で、旧墓などで戒名を調べずに行った為

戒名を知っている先祖だけしか抜き出しませんでした。(抜き出せなかった)

 

その後旧墓、旧旧墓をしらべ戒名を書き取りました。

「これで寺の過去帳をしらべれば色々分かるぞ」と意気込んでお寺にいったところ前述のとおり、すでに廃寺となっており本当に悔しい思いをしました。

 

また、山崎家は戸籍と伝承が符合しない部分があり、混乱しました。

祖母は初婚の時にフタ従兄弟と結婚したと聞いていましたが、実際戸籍で見たらフタ従兄弟の子供と結婚していることになっていました

祖母に家系図を作って見せて説明を聞いたらそれは戸籍が間違いだということが判明しました

学んだこと

家が増えればいろんな家に遭遇します。

子供が別の戸籍にはいったり、祖父の子供になったりした理由は、現代では推測するしかありませんが、昔は往々にしてそういう事があったのではないのでしょうか。

そもそも、明治になって近代的な体系やフォームができたのであって、

現在の人間ではおかしいと思うことでも昔はおかしくないことも多々あるように感じました。

現代では結婚しなくて子供がいれば、色々勘繰る人もいらっしゃいますが、昔はもっと大らかで、子供が生まれてから結婚することも多かったようです。

江戸時代には戸籍というものはなく、いつ結婚したとか子供がいつ生まれたとかは専用の用紙はありませんでした。(宗門人別帳はありましたが)