私の左翼時代ー洗脳されて革命運動に参加



第一節 私の学生運動


 価値否定した左翼時代のことを思い起こして文章にするのは嫌なものである。しかし私という人間を知っていただくには必要なことだし、誤った左翼革命運動(非合法的なものであれデモであれ言論活動であれ)を実践してしまった以上、伏せて知らんふりするのは許されることではない。また大学に入って左翼思想に洗脳されて誤った人生を歩むことになっている者は実に多いが、それは日本の政治と教育の欠陥のためでもある。これを自覚し克服していくことは喫緊の課題である。そういうことから、私の左翼活動の履歴を簡単に書いていくことにしたい。当時の意識を書くのでその点は誤解なきようお願いしたい。

 私は主に両親の影響から、大学入学後も学生の左翼運動を嫌い抵抗していたのであるが、一年の終わり頃には左翼革命を正しいと考えるように洗脳されてしまった。洗脳のプロセスについては節を改めて述べることにする。最初は、議会を通じた平和的な日本革命を支持するようになった。しかし数ヵ月後位には、平和革命が困難であれば、革命的な暴力に依拠した革命であっても良いと考えるようになり、程なくして「積極的な日本暴力革命論」を支持するようになった。しかしまだ口先だけのものであった。反日共系ノンセクトラジカルの革命論として、流行していた理論に賛同したという程度であり、自分の実践として今現在から暴力革命の一翼を担っていくのだと考えたのでは全くなかった。

 一九六九年は私が二年になった年だが、学園紛争が全国化した年でもあり、岐阜大学でも多くの学生が参加して大衆デモが行われた。ベトナム侵略戦争反対が叫ばれた。クラスの七、八割位は一度は日共系か反日共系のデモに出たことがあったと思う。女子はほぼ日共系のデモであった。左翼的でないと人間的でないと見られる空気になっていった。だが一九七〇年六月、安保闘争が終わった頃から一気に運動は下火になり、デモ参加者は激減した。「活動家」と見られていた者だけがデモに参加する状況になっていった。数学科では私の他には二、三人になっていただろう。

 岐阜で行われた反日共系のデモは、私はノンセクトラジカルということで黒ヘルメットを被って参加していたが、機動隊と市街戦を展開することは一度もなかった。だから誰一人として角材を持っている者はなかったし、投石することもなかった。もちろん催涙弾が撃たれることはなかった。言葉こそ勇ましいが、日共系のデモと大差ないものであった。二年三年の私にとっては、一部でジグザグデモをし、一部で座り込みをする位で、両側を機動隊に挟まれて行進するデモに参加することがほとんど唯一の対外的な活動であった。それ以外の日々は、左翼の本を読むにしろ友達と政治論議をするにしろ、非活動の日常生活を送っていたわけである。だから暴力革命であれ、平和革命であれ、革命を口にするのは本来であれば恥ずかしくて出来ないような生活を送っていたのであった。しかし周りの「活動家」の水準も同じようなものであったから、私は「俺は先進的で革命的だ」と満足感に浸ってさえいたのであった。「自己否定」の言葉も苦悩することもなく使っていたのであった。

 四年になると早々に「教育実習」が始まった。数学科でもデモに出る者はほとんど私一人になってしまったし、教育学部全体でも反日共系デモに出る者は数名程度になっていた。岐阜でのデモ自体が大きな記念日に行われるだけになっていた。私はそういう周りの状況に反発した。それはより厳しく自分自身の在り方を問うことになっていったからだ。私は一人で名古屋や東京のデモに参加するために出掛けていくようになった。東京では、距離をとって機動隊と対峙して投石し催涙弾を雨あられと撃ち込まれ、結局機動隊に突撃されて必死に逃げ回るという敗北の市街戦を何度か体験した。私は「ほとんど武装もせずに正面から敵とぶつかっている我々の現在の革命闘争などは児戯に等しい。非公然の都市武装ゲリラ部隊の創出が不可欠だ」と実感していったのであった。

 私は四年の後期頃には日本革命路線を非難して、日本国家とその国境またその他の国家と国境を廃絶して、単一の世界ソビエト社会主義共和国の建設を目指す世界革命こそが正しいと考えるようになっていた。「日本革命というのは富を日本人だけで平等に分配しようとする、先進国の人民の特権的な運動だ。世界規模での平等な分配、平等な社会の建設を目指す革命こそが革命の名に値する」と考えるようになった。帝国主義国における闘争形態は都市ゲリラ戦争であり、それは武装闘争と大衆的な実力闘争と大衆的な平和的闘争の有機的な結合であるだろうと考えていた。

 しかしこのように頭では考えていたものの、私には日本の体制また日本そのものに対する体の中から自然に湧き起こってくる強い怒りの感情が欠けていた。「こんな状況では到底革命闘争を実践していくことはできない。自分を革命主体へと鍛え上げていくにはどうしたらいいのだろう」と何度となく自問したものである。そのような四年の終わり頃の一九七二年一月だったが、私は書店で太田竜の『辺境最深部に向かって退去せよ!』という本を見つけ大きな衝撃を受けたのだった。

 彼の世界革命論は従来の世界革命論を、第三世界の人民と帝国本国内の市民社会から排除された被抑圧人民を、「中心的な革命主体」に措定することによって、根本から再構築した新しい革命論であった。後者は日本でいえば、アイヌ人や在日朝鮮人や沖縄人や山谷や釜ヶ崎などの底辺労働者である。窮民革命論と言われたりもした。太田は、私のような日帝市民社会出身者で、世界革命の一環としての日本を滅ぼしていく(廃絶していく)革命を志す者が、まずしなくてはならないことは、特権を捨て去り市民社会から脱出して底辺社会で同胞に包囲されて暮らすことによって、自らを革命主体へと変革していく作業であるとも主張していた。上述したように悩んでいた私であったから、太田の主張は心に迫ってくるものがあった。

 三月の卒業式とその直後の教員採用の辞令交付(私は小中高の教員免状を取得し、瑞浪市の中学校の数学の教員に採用されることが決まっていた)が迫ってくる中で、私は何度も読み考え自己と対決して、教職を捨て市民社会に別れを告げて、底辺社会へ入っていくことを決めていった。私をここまで育ててくれた両親を裏切り悲しませてしまうことが一番辛かったが、もし妥協すれば保身にもなり人間として駄目になってしまうと考えて決断していった。私は将来非公然都市ゲリラとして闘っていくときに、大学中退だと目立ち怪しまれることになると考えて卒業することにしたが、少し前に行われた卒業アルバムのための数学科の写真撮影にも卒業式にも出なかった。だから卒業アルバムの私の写真は入学時の写真で一人離れて写っている。数学科のみんなや先生方には大変嫌な思いをさせてしまったことを、今では本当に申し訳なく思う。

第二節 反日革命と反日亡国闘争を目指す


 私の再出発は教職の辞退と両親からの“勘当”で始まった。卒業後数日位で教員の辞令交付となったが、私は「一身上の都合」を理由に辞退して岐阜のアパートへ戻った。両親がすぐ飛んで来て、「教師を続けながら信じるところを生徒に教えたり、学校外でデモでもなんでもやればいいじゃないか。なぜ辞めてしまったのか!」と非難した。私は両親の気持ちが痛いほどに分かるから、ただただ「このようにするしかありませんでした。許して下さい」と泣いてお詫びの言葉を繰り返すしかなかった。二人も泣いていた。父は「お前を勘当する!」とまで言った。母は取りなしたが父は、「今日から親でも子供でもない!」と言って母を促して帰っていった(五ヵ月後に私は勘当を許された。)

 ショックではあったが、私はその二、三日後には岐阜で土方仕事を見つけて働き始めていた。三月中であった。六、七人の小さな工務店で、主に市発注の土木工事をしていた。朝鮮人も一人いた。その人は足も悪かった。私は工務店で働きだすのと同時に、「これからは懐かしい市民社会と決別して底辺社会で生き、内外の同胞のことを考えて、革命を目指していくのだ。私の本当の人生が始まるのだ」と考えて、アルバム等を全て処分することにした。写真館で並んで撮ったCさんの写真も、高三の運動会の時の一人で座ってるBさんの写真も、二年の修学旅行のAさん一人の写真も、いずれも知人が撮ったものを貰ったのだが、「どうか幸せになって下さい。さようなら」と語りかけて一緒に処分した。もし逮捕された時にご迷惑をかけてはならないと思ったからでもあった。

 土方になる前は、大学四年の時は別になるが、岐阜の街を歩いても公園で憩んでも疎外感など微塵も感じなかった。私は岐阜の一部であり、岐阜は私を優しく包んでくれていた。しかし土方になってみると状況は文字通り一変した。私は服装も大事な要素だと考えて、地下足袋姿でアパートから自転車で工務店へ通ったが、通行人が通勤時や仕事中の私や私たちを見る目は、あるときは冷ややかであり、あるときは露骨に差別的であり、あるときは怯えの色を含んでおり、またあるときはそこには私や私たちが存在していないかのようであった。現場が私がよく歩いた柳ケ瀬の中心部の歩道のタイル交換や、恋人や友人とよく行った柳ケ瀬のすぐ横にある公園の改修であったりもしたが、そんな時はより一層岐阜の街が、これまでと全く違った姿で私の前に現れてきたのであった。私に対立していた。私は頭では理解していた太田竜が主張する「日帝市民社会と底辺社会の対立性」を、直接体験することで実感していったのであった。私は思想によって武装することで、逆に日帝市民社会を批判し得るからよいが、思想を持たない底辺人民の苦悩を思った。

 岐阜における同年六月一五日のデモで、私は美濃加茂市でやはり土方をしながら活動しているというD氏(仮名)と知り合った。D氏は自分も太田竜の思想に共鳴していると言い、こちらには仲間もいるから引越ししてこないかと誘ったので、ふたつ返事で六月末に引越した。そこでは私は朝鮮人が親方の小さな組でD氏と一緒に土方仕事をした。美濃加茂においては、私はD氏から強い影響を受ける形で自分の中の「ブルジョア道徳性」を解体していく実践も熱心に行っていった。凄い長髪にしたし、街の中で叫び声を上げたりした(思い出したくもない恥ずかしいことを革命的な実践だと考えてやっていたのであった

 少し戻るが、私は岐阜で土方を始めてから半月位経った時に、一度東京の寄せ場・山谷へ行って五、六日ドヤに泊まって日雇い仕事に出たことがあった。その後飯場仕事も体験したくて一〇日契約で行ったが、親方と古株がヤクザ上がりの凶悪な面相と雰囲気を持つ人物であり、人使いも荒くて、山谷から行った者も一、二人と逃走するような飯場だった。私は頑張ってみたが未体験のことゆえ精神が参ってしまい、拒否反応を起こしてしまって七日目の夜に逃げ出したのだった。もちろんそれまでの賃金ももらわないままである。私は「まだ底辺社会に生きる者としてのいろんな側面での主体形成が出来ていない。もう暫く岐阜で働いて自分を鍛えよう」と考えて岐阜へ戻ったのだった。

 美濃加茂で三ヶ月間働いた九月末に、私はもっと自分を変革したいと願って、一人で名古屋にある寄せ場・笹島へ向かった。笹島のドヤは上下二段ベッド(一畳のスペースで山谷と同じ)で一〇人程の部屋だった。そこで二ヶ月余り働いた。一度一〇日契約の飯場へも行った。ドヤは電気が暗くて本も読みにくく、私は夜は喫茶店に入って本を読んでいた。

 七二年一二月の上旬くらいになるだろうか、私はヒッチハイクで大阪の寄せ場、釜ヶ崎へ向かった。釜ヶ崎は日本最大の寄せ場である。ドヤは一畳であるが鍵のかかる個室だったから大いに助かった。本も十分に読める明るさがあった。釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)が七二年夏に結成されていた。規約などなく入るのも出るのも自由な個人・団体の自由な共闘会議であった。一二月中旬に釜共闘の中興となる大きな屋内決起集会が開かれたので、私も参加した。私は思想的には自分の方が釜共闘の思想性より根源的だと考えていたが、彼らの風貌や雰囲気また演説の言葉遣いなどに、私は資本との日々の対決それはヤクザとの命がけの対決にもなりうるの中で生きてきた本物の革命闘争者を感じていた。闘争経験が乏しい私に不足しているものを彼らは多く体得していると感じ取っていた。だから私は気後れする部分もあったが、積極的に彼らと付き合うことによって自分を鍛え上げていこうと考えたのであった。

 この屋内集会で多くの釜共闘のメンバーと知り合いになり、翌日の仕事から一緒に働きに行くようになった。そして彼らと一緒に現場闘争も何度か行なったし、私一人の時にも行なった。越冬闘争が終わった七三年一月、釜共闘のほとんどのメンバーが山谷でヤクザと闘う山谷現闘委と山谷労働者を応援・共闘するために山谷へ出掛けたことがあった。私も行った。みんなヤクザとの対決も想定して雑誌を腹に巻き、武器として鉄筋工が仕事で使う「シノ」を携帯した。戦いはなかったが大いに緊張した。山谷では、その後語り継がれていくことになる山谷現闘委と釜共闘の合同集会とデモが行われた。私はその後四月の初めまで釜ヶ崎で過ごした。そして四月上旬に一人で北海道(アイヌモシリ)へ向けて出発したのであった。

 私は太田竜の影響で「アイヌモシリ独立建国の革命路線」という立場に立っていた。釜ヶ崎などでの生活と活動も、アイヌモシリに移り住んで闘っていくための助走期間だと位置づけていた。私は釜ヶ崎での生活と闘いを通して自分が随分逞しくなったと感じていた。頭髪も坊主刈りに改めていた。寄せ場での生活と闘いを通じて吸収すべきものはかなり自分のものに出来たと思ったので、お金を貯めて四月上旬にアイヌモシリへ出発したわけである。ただし、この時の旅は、アイヌ民族が置かれている状況、アイヌと道民の意識等を調査して、自分の革命思想と鍛え上げるためであり、闘いを開始していくためではなかった。アイヌ人の家に住み込んで家業の手伝いをしたりした。北海道各地を巡った。電気のない家もあった。

 旧国鉄日高線に乗った際の出来事である。一人の中年のアイヌ女性が乗り込んできた。数秒後、小学五年生位の男児が「この列車には犬(アイヌの別称)が入り込んでいるぞ!」とみんなに聞こえる声で言ったのだった。彼の友達が「本当だ」と応え、大人たちもニヤッと笑ったのだった。私は怒りで体が震えた。
お金が無くなったら札幌の小さな寄せ場で日雇い仕事をしたり、飯場に入って稼いで、また調査を続けた。途中で友達の顔が見たくなって、美濃加茂や岐阜へ帰り、釜ヶ崎の夏祭りにも参加したが、再びアイヌモシリへ行き、その年の一〇月上旬位までいた。

 私は北海道のことを当時はアイヌモシリ(アイヌ民族の国で日本が不当に占領支配していると考えていた)と呼称していた。太田竜の思想の影響で私は、アイヌ民族を自然と共生する原始共産制の今日的な実体に生きている人々だととらえていた。そして世界革命の一環である帝国主義国家日本を滅ぼし(廃絶し)共産主義社会を建設していく革命は、今なお共産主義の実体に生きているアイヌ(人間の意味でもある)の解放闘争を核に据えることによってこそ、正しく推進されていくのだと考えていた。アイヌシモリ独立闘争である。私は自らを「アイヌモシリ人民志願者」と位置づけていた。

 調査を終えた私は七三年一〇月に岐阜に戻った。次のプロセスであるアイヌシモリに正式に住所を移し生活基盤を整えて闘いを開始していくための準備をするためである。私は闘いのためには車の免許が不可欠だと考えたので、岐阜の友人宅に転がり込んで一ヶ月程コンクリートブロック製造工場で働いてお金を貯めた。そして一一月に多治見の実家に戻り、そこから自動車学校に通った。細部は省くが免許を取得し中古車(三万円だった)も入手した私は、日通多治見支店で運転手として数ヶ月働くことにした。私は家族を「もう左翼運動から足を洗いました。真面目に働くことにします」と欺くことにしたのだった。本当のことは話せないからそうするしかなかった。日通では五月末まで働き、美濃加茂の別の朝鮮人土木業者の所で、住み込みで一ヶ月間土方仕事をしてお金を稼いで、私は六月末に車に布団や自炊道具などを詰め込んでフェリーで苫小牧へ向かったのであった。

 苫小牧ではその日は車で寝て翌日には安いアパートを探してすぐ入居し、その二日後位には八百屋兼魚屋に配達係り運転手として就職した。履歴書には大学卒は書くとかえって不審に思われるので伏せて記入した。こうして私はアイヌシモリで普通の市民を装って非公然都市ゲリラ生活を始めていった。ここで半年間働き、その間にささやかなペンキゲリラ闘争(プロパガンダ闘争)を行った。その後の半年はプロパンガス運送会社で運転助手として働いた。

 苫小牧時代に私は自分の思想を大きく変えた。私はD氏が交流を始めたJ氏の雑誌論文他を読み、またD氏を仲介してJ氏と文通する中で、J氏から批判を提起されて、自分の誤りと太田竜の革命路線の誤りを認識して、思想的立場を大きく修正し変えていくことになったのである。日帝本国人の私たちが勝手に「アイヌモシリ独立建国革命戦線」を名乗るのは完全に誤っている。「アイヌモシリ人民志願者」と自己規定することで、自らを被植民地人民たるアイヌの側に位置づけてしまい、その高見から日本と日本人を糾弾していくことも完全に誤っている。私はこのように自己批判して認識を改めた。そして世界革命の一環としての日本・アジア各国その他の国々を戦場とする革命を「反日革命」と捉え、私たち日帝本国人出身者はその中の重要な部分たる「日本人反日戦線」を担っていくのだと考えるようになったのである。自分自身を「日本人反日闘争者」と規定した。

 一九七五年五月一九日、首都圏で連続企業爆破闘争を実行してきた「東アジア反日武装戦線」三部隊が一斉逮捕された。自分よりも先行して爆弾闘争を展開してきた彼らを、私は凄い連中だと思い支持してきたから、一斉逮捕は非常にショックだった。私も早く北海道の中心である札幌市へ住居を移して、反日亡国の爆弾闘争の準備をしていかなくてはならないと思った。しかし一方で私は彼らの思想性に対してはかなりの批判も持っていた。それはJ氏との文通で語り合ったことではあったが、私は札幌へ移る前に再度J氏やD氏と三部隊の思想の問題について直接話し合っておきたいと望み、運送会社を辞めて東京で会うことにした。六月半ば過ぎ頃であった。

 私はD氏にも自分の戦いの具体的な計画などは伏せていたし、J氏に対しては非公然ゲリラを志向していることも伝えてはいなかったが、J氏は察知しているようであった。むろん東京で話し合ったことは純思想的なことであった。東アジア反日武装戦線三部隊の闘いの意義は大いに評価するが、日本と東アジア諸国の人民との歴史的・現在的な敵対関係があるのだから、日帝本国人が「東アジア反日武装戦線」を名乗ってしまうことは、その資格を欠いており間違っている。日帝本国人が「アイヌモシリ独立建国革命戦線」を名乗ってしまうことと同じ誤りである。東アジア人民から見れば、日本人に「東アジア反日戦線」を僭称されたくないはずだ。こういう認識で一致した。

 そしてまた三部隊の基本的な思想は、「反日帝闘争」「日帝打倒」という従来の新左翼が用いてきた表現と同じ表現を使っていて、日本帝国主義国をその建国にさかのぼって価値否定して解体し滅ぼしていく(廃絶していく)という、「反日亡国思想」が打ち出されていないという点でも共通の認識を得た。日本人の反日闘争は反日亡国闘争である。私はJ氏やD氏と直接話し合ったことで、自分の革命思想(反日亡国思想)に対して一層自信を持つことができるようになった。

 私は苫小牧に戻り、札幌でアパートを探して一九七五年六月末に転居したのであった。最初はススキノのナイトクラブのボーイの仕事に就いた。昼間の自由時間を確保できると考えたからだ。このアパートの時に工具類等を買い集めたり、混合火薬の勉強をしたり、時限装置に用いる旅行用時計を入手して時限装置を作ってみることなどをした。もちろん攻撃対象の調査も行った。混合火薬の材料のひとつである木炭も買った。しかしこのアパートは一間でありかつ隣室との仕切りがベニヤ板一枚であって室内の音が聞こえてしまうため、一一月初めに引っ越すことにした。仕事も一〇月中旬にススキノの駐車場の管理人の仕事に替えた。隔日出勤(勤務時間は朝九時から深夜一時まで)であり自由時間をより多く確保できるためであった。

 私はふたつ目のアパートに移ってから爆弾闘争の準備を本格化させていった。混合火薬の主剤は塩素酸ナトリウムであり除草剤として販売されているものであり、あとは木炭と硫黄である。私は次に硫黄粉末を入手した。除草剤は雪がある冬期間は入手できないから、翌年の春四月か五月頃になんとかして入手しようと考えていた。爆弾の容器としての消火器は北大が冬休みに入った一二月に盗んできた。木炭の微粉砕化作業にも取り掛かったが遅々として進まなかった。そういうまだ除草剤も未入手の準備途上にあった一九七六年三月二日に、本件の北海道庁爆破事件は勃発したのだった。「東アジア反日武装戦線」名の声明文がコインロッカーから発見された。こういう事件があったために私は春以降になっても除草剤を手に入れることが出来なかった。

 横にそれるが、このような次第で私は道庁爆破をやっていない。無実である。私であれば「東アジア反日武装戦線」という名称は使わない。別の名称を使ってこそ三部隊の闘いは発展的に継承していくことができる。事件後一週間程して、当時関西の飯場で働いていたD氏が私の職場の駐車場へ電話をかけてきたことがあった。私はその時、いまだ除草剤は手に入れてないこと、道庁爆破は私ではないが支持すること、これによって北海道では販売店でのチェック体制が厳しくなるので除草剤の入手は困難だろう。本州の方で入手できたら有難いのだが・・・ということを話した。八三年五月に逮捕されたD氏は二審(七回公判八四年一一月、二七回後半八六年六月)の時、証人になってくれてこうしたことを証言してくれた。彼は七〇年代末には完全に転向していたのであるが、裁判所はかつての仲間ということで証言は信用性なしとして排斥してしまった。

第三節 でっち上げ逮捕後の私の反日亡国闘争


 私の存在は北海道警察にノーマークだった。しかし七月初旬にD氏が岐阜県内で未開封の五キロ入り除草剤二袋と木炭粉末と硫黄粉末等を山の中の洞窟に隠そうと夜山道を歩いていたところ、偶然通りかかったパトカーに呼び止められ職務質問され交番へ連行されたところで、それらを放置して逃走する事件が起こった。D氏は全国指名手配された。彼の周辺捜査によって私の存在もつかまれて、岐阜県警から道警に通報されることとなり、私はD氏の「立ち回り先」として、道警によって七月二〇日頃から内偵捜査をされるようになったのである。そして結局私は八月一〇日に爆発物取締罰則第三条(爆発物の製造に供すべき器具の所持)違反容疑で、苫小牧港から逃走直前にでっち上げ逮捕され、九月一日に道庁事件ででっち上げ再逮捕されて九月二三日に起訴されたのである。ここでは思想的なことを述べていく。

 思想は革命闘争の土台に位置するものである。これまでの記述でもそのことが解るだろう。従って直接行動ではない思想闘争だからといって、犯罪性は小さいということにはならない。私の反日亡国闘争は法廷または獄中から発した思想闘争ということになるが、転向後の私は自分のそうした思想闘争を完全に誤ったものだと深く反省している。当時の意識に基づいて書いていく。

 私は反日亡国の武装闘争を展開する前に捕らえられてしまった以上は、法廷と獄中を戦場にして言論で反日亡国闘争をアピールしていくのが自分の任務だと考えた。でっち上げ粉砕の裁判闘争にとって不利になることなど気にしてはならないと思った。そもそも反日革命を目指したときから命は捨ててかかっていたのではなかったか。私は道庁爆破の意義を強調する一方で、その不十分さや誤りについても人々へアピールしていった。後日D氏の闘いだと判明することになった七七年初頭から暮れにかけて展開された一連の反日亡国の爆弾闘争についても、その意義をより鮮明にするべくアピールしていった。個々の闘いへの支持とは別に、日本とアジア等を貫いて闘われていく反日革命の意義、その中における日本人反日戦線の意義、日本人の反日亡国闘争の意義について、何度も社会に向かってアピールしていった。私のこうした思想闘争に影響されて、反日(亡国)武装闘争を闘っていく者が出現しなかったことは本当に幸いだったと思っている。

 私は学生時代から、「反スターリン主義」を主張していたが、ソ連の現在の体制がいかなるものであるかについてはほとんど知識を有していなかった。中国革命の実態、「文化大革命」の実態についてもほとんど知らなかった。北朝鮮についてもである。左翼世界にはその手の書籍はなかったし、当時は保守の側にも少なかったはずである。そして左翼は保守側の本は読まない。反スターリン主義とはレーニンの「プロレタリアートの革命的独裁」を復権させることであり、一国社会主義(共産主義)を否定して世界ソビエト社会主義共和国の樹立を目指す世界革命路線に立脚することであった。「スターリン主義国家ソ連」と批判して言う場合も、本物の社会主義国ではなく官僚によって歪められている体制だとするものの、資本主義国より遙かにましだと受け止められていたのであった。

 私は獄中に捕えられてから色んな本を読み、ソ連、中国、北朝鮮の実態を知るようになった。「共産党による人民への独裁支配」が実態であることを知っていった。一九七八年から八〇年である。この頃に私は共産主義者からアナキストになっていた。一九一七年のロシア革命や一九四九年の中国革命を、共産党による人民への独裁支配を作り出した反革命だと規定して否定するようになっていった。レーニンや毛沢東こそがそういう独裁支配体制をつくりだした張本人だと捉えて反革命者、独裁者と規定し否定した。私は共産主義の「プロレタリアートの独裁」「人民の独裁」という思想を否定した。それこそが共産党によるプロレタリアートや人民への独裁支配を作り出すのだと否定した。しかし私は敵(ブルジョアジーとか)への独裁は当然のことだと考えていたから、マルクス、レーニン、毛沢東の共産主義を否定してアナーキズム(無政府共産主義)の立場から「社会独裁」を主張していったのだった。アナーキズムの立場から世界革命や反日革命また反日亡国闘争を再構築して社会に向けてアピールしていった。

 一九八〇年から八二年頃にかけて私はまた思想を変化させていった。自分では深化させていったと思っていた。私は革命がプロレタリアート人民に対する独裁支配に転化しないようにするにはどうしたらよいかを考え続けていったが、「民主主義」に行き着いた。ブルジョアジーを自分たちの「民主主義」から排除して彼らに対する独裁を肯定するからこそ、革命党や革命勢力によるプロレタリアート人民に対する独裁にもなっていってしまう。つまり「プロレタリア民主主義」や「人民民主主義」(これらは敵への独裁、すなわち「民主主義」からの排除と、プロレタリアや人民内部の完全な民主主義だと理論化されていた)は全くの誤りである。否定し去って、「普通の民主主義」(左翼用語でいう「ブルジョア民主主義」)の立場に立脚するようにしなくてはならない。私はこのように思想を変えていった。

 民主主義は革命という考え方自体を否定するものであるから、もし私が日本革命論者であったならば、ここから転向が始まっていっただろう。だが私はほとんど最初の頃に世界革命論者になっていた。世界をひとつの人間社会ととらえる立場である。だから民主主義も「世界民主主義」としてしか考えられなかった。第三世界各国においては、国内における民主主義などないから、人民には武装革命の権利がある。帝国主義本国においては、国内における民主主義はあるが、それは第三世界に対しては帝国主義となって現れているものだ。世界民主主義制度は帝国主義国と第三世界の独裁的政府の反対によって現在は存在していない。第三世界の人民は自らの政治的意思を平和的に世界政治に反映させることは出来ない。従って、帝国主義国の支配を打破していくための第三世界の人民と帝国主義本国の革命勢力による武力革命すなわち反日革命は正当化されるのである。私はこのように考えたのであった。革命によって国家権力を握ったときに民主主義(世界民主主義)が実現されていく。

 一九八二年頃からの私は、「真の共産主義」の実現ということで、政治的には世界民主主義、経済的には世界共産主義という立場になっていった。私はこの立場から改めてマルクスやレーニンや毛沢東らの共産主義とロシア革命、中国革命、そして全ての共産主義革命を全面否定した。自由ゼロの奴隷支配の共産主義国家の体制は、先進国(帝国主義国)の体制以上に私の憎悪の対象になった。何十倍も憎悪した。私は一九八五年頃に、アナーキズムも共産主義と同じ民主主義を否定する独裁思想だとして否定し去った。私は「反日・反米」と同時に「反ソ・反中・反北朝鮮・反共産主義国」を主張し、社会にアピールしていった。私が反日革命を自己批判して否定するようになるのは一九九二年のことである。私が「世界民主主義」という諸国家とその民主主義を否定する誤った(狂った)思想を自己批判して否定したのは一九九六年前半であった。

第四節 保守主義教育の欠如と洗脳


 私の左翼活動を書いてきた。洗脳され活動していったのにはあくまでも私の責任である。しかし小中高大学で保守主義に基づく教育(憲法教育など)が実践されているならば、私は左翼などにはならなかった可能性が高いと思っている。左翼になっていった者のうち少なからざる者もそうであろう。日本の教育の欠陥である。教育においても共産主義と対決しなくてはいけないのである。

共産主義の洗脳テクニック

 私は学生寮というのはどこの大学でも学生運動の中心であることを知らずに入寮した。寮では週に一度食堂で寮生大会が開かれた。両親の影響で理論なしの情緒的なアカ嫌いだった私は、寮生大会に出るのが嫌で、その日は同じように嫌がっていた一年生仲間と一緒に一番後ろに座って早く終わらないかとばかり考えていたものである。理由をつけてサボったこともあった。そんな私が日本共産主義革命を正しいと考えるようになってしまったのは、それまで聞いたこともない左翼理論を頻繁に聞かされたからであり、また一年生仲間が一人また一人と左翼の考え方に変わっていったからである。

 私が寮生大会他で先輩等から聞かされた理論というのは次のようなものだ。「日本の経済制度は資本主義制度であり資本家が労働者を搾取する制度だ。悪である」「日本は資本主義国家である。資本家階級(ブルジョアジー)が労働階級等を支配する階級国家であり悪である」「日本の憲法や法律は階級支配と経済的搾取を肯定し正当化しているブルジョア法であり悪である」「日本の民主主義はブルジョア民主主義であってブルジョアジーの独裁支配に等しいものであり悪である」「生産手段の私的所有こそが階級支配と搾取の元凶である」「日本は独占資本主義段階にあり、第三世界に対して必然的な帝国主義になる」「原始共産制が崩壊した後の人類の歴史は階級闘争の歴史であった。そして現在は労働者階級を中心とした階級闘争・共産主義革命によって、平等と真の自由がもたらされる人間の理想的な社会である共産主義社会を実現できる段階に至っている。共産主義社会では支配も搾取も対外的な侵略もなくなる。人類の前史は終わりを告げる」等々である。

 私は聞いたこともなかったこうした理論によって、しかも学術的な専門用語にも幻惑されて、それまでごく自然に受け入れ肯定してきた日本の政治経済体制に疑問を持つようになり、ついには価値否定させられることになってしまったのである。自分は何も知らないままに共産主義を毛嫌いしてきただけであったと反省することになっていった。上記の理論は全て虚偽理論である。しかし保守主義の確固たる思想や理論など何も教育されていない私は、虚偽を見破ることは出来ず、アカ嫌いの感情は段々と解体させられていき、白いキャンバスに赤色を塗っていくように次第に染め上げられてしまったのだった。

 洗脳のテクニックがある。日本の国家社会を否定したかったら「虚偽レッテル」を貼り付けまくり、それを反復して唱えればよい。前記のような虚偽理論である。学術的な装いを伴っていれば効果はより一層高くなる。現国家社会が悪として全否定されれば、これに対立する共産主義社会は自動的に肯定され、かつ理想化されていく。旧ソ連共産党はこの洗脳のテクニックを熟知していて、各国共産党を指導(洗脳)していった。寮の先輩は無自覚に私たちに対してそれをしたわけである。

 もっとも、私が当初日本革命を志向した最大の目的は、「理想社会の共産主義社会の実現」のためではなく、ベトナム戦争に反対し阻止するためであった。「米国や日本(基地の提供と兵站を担う)がベトナムに侵略戦争を仕掛けている。これに反対し阻止するのは一個の人間としての義務だ。そのためには自民党政権を倒していかなくてはならない」というところから始まり、その延長上に日本共産主義革命を志向していくことになったのである。とはいえ、「資本主義対共産主義」という新しい対立図式と、共産主義の理念的優位という認識が私の中に芽生えていたからであったのは言うまでもないことである。なお日本社会には当時、ベトナム戦争の真実の経緯など全くといってよいほど流されていなかった。本当は共産主義国の北ベトナムが南ベトナムを侵略したのだ。しかし流布されていた情報は左翼側の「侵略者米国!」のでっち上げ情報ばかりであったから、私もそれを信じ込んでしまったのであった。国際共産主義と日本の共産主義者は情報心理戦(嘘プロパガンダ)に長けている。一方日本政府は情報心理戦の意義すら認識しえていない。

 当時多くの学生が左翼思想に洗脳されていったのは、「ベトナム侵略戦争反対!」という具体的な大きな政治課題があったからであった。国際共産主義と日本の共産主義勢力は、これを最大限に利用した。「共産主義の理念」を「理論レベル」で信じ込まされてしまった後も私は、「確かに日本には支配があり搾取があり差別がある。理想的な社会ではない。しかし階級闘争によって国民同士を闘わせて体制をひっくり返さなくてはいけない程に酷い社会ではないだろう。国民の大多数も革命を望んでいないじゃないか。改良を積み重ねていけばいいだろう」と考えて、日本革命に消極的に抵抗していた。だけど「ベトナム戦争への日本の加担を阻止していくためには現在の自民党政権を倒していくしかない」となって、「ベトナム侵略戦争反対!日米安保条約粉砕!」とデモに出て叫んでいく中で、私は急速に日本共産主義革命推進の立場に洗脳されていったのである。当時の友人たちもそうであった。

資本主義は搾取などしない

 前記した虚偽理論に戻る。搾取の問題だが、資本主義経済は搾取経済ではない。労働は確かに新しい価値を生み出すが、単独では何も創造できない。労働は資本家が提供する土地、工場、機械、材料、資金と結合して初めて価値を創造するのである。しかしマルクスは労働のみが価値を生み出すとする「労働価値説」を唱え、そして労働を「必要労働」とそれ以外の「剰余労働」に分けて、資本家が剰余労働が生み出す価値を搾取するのが資本主義だと主張したのである。全くの詭弁であるのは明らかである。資本と労働が結合して初めて新しい価値が生み出されるのであるから、創出された価値は資本家と労働者に分配されるのが当然の帰結である。マルクスは創造された価値は全て労働者のものだと主張するのである。もしそうなれば労働者が資本家を搾取することになる。資本家と労働者は労働条件(労働時間や賃金など)を決める労働契約を結ぶ。資本家は一切搾取などしていない。

 マルクスもレーニンも詭弁、嘘であることを百も承知の上で、インテリや労働者人民を騙し利用するために、「資本主義は搾取制度だ」とプロパガンダしていったのである。保守の論客の中でこのような真理を主張している人は本当に極めて小数である。だからマルクスやレーニンの嘘がまかり通っている現実がある。政府は義務として、学校教育で国民にこうした基本的な知識を教えていかなくてはならないのに、嘘を見抜けず理論的にはそのその通りであろうと考えてしまっているから、到底マルクス主義批判など出来ない。資本主義経済の自由主義国の政府として失格である。

 共産主義者が言う「日本は階級支配がなされる階級国家である」との非難も、完全な虚偽である。憲法や法律によって政府を批判する言論の自由も表現の自由も報道の自由も結社の自由も保障されているし、普通選挙も保障されている。労働者の団結権や団体交渉権や行動権も保障されている。労働基準法も制定されている。これらが「ブルジョアジーの支配」であろうはずがない。その否定である。ましてや、「ブルジョアジーの実質的な独裁支配」であるわけがない。だが彼らは共産主義社会を階級が廃絶される「無搾取・無支配社会」ととらえて、その地平からそうでない日本を先のようにレッテル貼りして価値否定しているのである。私も反復されるスローガンによっていつしか洗脳されていった。

共産主義は謀略理論である

 共産主義が「無支配・無搾取・無侵略の共同社会である」というのも真っ赤な嘘である。共産主義革命が造り出す社会は、旧ソ連や中国や北朝鮮のような共産党独裁支配の国家になる。共産党が国民を収奪しまくる国家になる。対外的には侵略国家になる。まさしくこれこそが言葉の正しい意味での「階級国家」であり、「階級支配・搾取」である。マルクスもレーニンも毛沢東もそのようになることを知り尽くした上で、インテリや労働者人民を騙し利用するために虚偽理論をつくり上げたのである。

 共産主義者は主観的には「人間の理想的社会の建設」を夢見る。狂信する。だから日本の憲法、法律を「ブルジョア法」として価値否定する。日本の民主主義を「ブルジョア民主主義」として価値否定する。資本家や自由主義者を敵として憎悪する。共産主義者は「プロレタリア民主主義」(プロレタリアートの独裁)を主張する。これは敵を自らの「民主主義」から排除するものである。つまり敵に対する独裁だ。だから彼らが平和的にであれ暴力的にであれ政権を奪取すれば、敵に対する独裁が開始されていく。ブルジョアや自由主義者は一切の権利・自由を剥奪され命さえも奪われうる。もちろん生産手段を略奪される。これはまさしく大量虐殺、大略奪、大迫害である。凄惨な一般凶悪犯罪事件も比較にならない程の大犯罪である。しかし「理想社会実現」のための「階級敵の打倒」ということで正当化されてしまうのである。日本共産党は「過渡期においても社会主義段階においても自由と民主主義を堅持する」と言っているが、完全な嘘であり謀略である。

 「プロレタリア民主主義」は、理論的には「プロレタリアート内部における完全な民主主義」ということにはなっている。しかし理論化したレーニン本人にその意思ははじめから微塵もなく、彼は共産党独裁を考えていたからプロレタリア民主主義が実現されることはあり得ない。これは共産党が敵を打倒するために、プロレタリアート人民を騙し利用するための虚偽理論、謀略理論なのである。共産党に批判を持つプロレタリアや人民の方が人数的には圧倒的に多くても、ひとりひとりがバラバラである多数派あるいは小さなグループでしかない多数派は、強固な中央集権制として組織されている共産党の前には完全に無力である。共産党はもちろんプロレタリアートや人民内部での複数政党制に基づく選挙など許さない。武力で共産党の独裁権力を作り上げていくのである。敵を打倒し終えたら、ある日、共産党に対立する革命組織が「敵の手先」だとレッテル貼りされて武力弾圧されていく。次には別の革命組織が同じ運命をたどり、共産党独裁権力が確立されていくのである。レーニンがロシアで、毛沢東が中国でやったことである。

 「生産手段の私的所有の廃止」とは、資本家から生産手段を強奪し、次には農民や小商工業者から生産手段を強奪して「国有化」(社会化とは国有化のことである)することである。しかし、国の独裁支配者は共産党であるから、「生産手段の国有化」とは共産党が全ての生産手段を強奪して独占的に私有することに他ならない。共産党は全ての政治権力と全ての生産手段を独占的に握るから絶対的支配者となり、国民(=奴隷)の生殺与奪権を持つことになる。国民は生産手段を持てないから共産党から離れたら生きていけない。

 マルクス、レーニン、毛沢東らは共産党を率いて国家を支配し国民を独裁支配するために、さらに外国内に共産主義勢力を作り出し、彼らを尖兵として利用して世界中を独裁支配するために、謀略理論としての共産主義を作り上げていったのである。彼らは「理想社会の建設」や「人間の解放」など考えたこともない。それらは正義感は強いが未熟であるインテリや労働者人民を騙し利用するためのスローガンにすぎない。レーニンは国家権力を握ると皇帝一族を殺し、カデットを殺し、次にはアナーキストと左翼エスエルを殺し、次にはエスエルとメンシェビィキを殺し、農民をクラーク(富農)として殺し、こうして赤色国家テロルで五〇〇万人を殺害して共産党独裁権力を確立していったのである。KGBと強制収容所をつくったのもレーニンである。スターリンはレーニンの路線を忠実に継承していったのである。日本共産党は新綱領でそのレーニンを高く評価している。

 以上で「共産主義社会は無支配・無搾取社会」というのが真っ赤な嘘であることは明白である。だが当時の私は深く検証することなく、共産主義社会の理想を盲信してしまった。その原因のひとつは、ロシア革命や中国革命の実態の知識がほとんどなかったことであるが、もう一つは日本の体制を、「階級国家」「階級支配」「搾取経済」のレッテル貼りによって、価値否定させられてしまったことによる。資本主義とその国家制度が全面否定されれば、自動的に対立する共産主義が肯定され、美化され、聖化されていく。批判的に検証しようという意識が解体させられてしまう。洗脳のテクニックである。共産主義が肯定されるから、「階級国家」「階級支配」「搾取経済」のレッテルも批判的に検証しようとする意識もなくなってしまうという相互作用でもある。

 しかし共産主義論は、主要には「資本主義論・資本主義国家論」である。現実の日本国家は「〈法〉→憲法→法律」の支配の立場から、抜本的に改革していかなくてはならないところを多く抱えてはいるが、「階級国家」ではないし、「階級支配」もない。日本の資本主義経済は「搾取経済」ではない。日本は「帝国主義」ではない。しかし私はでっち上げの「資本主義論」「資本主義国家論」を真理だと洗脳されてしまい、それを盲信して日本の体制を全面否定していったのであった。現実の日本の政治経済体制を正しく認識して全面否定したのではなくて、共産主義者が日本に貼り付けた「虚偽レッテル」、すなわち「偽りの日本像」を盲信して全面否定させられてしまったのである。ほとんどの左翼がそうである。彼らは共産主義思想・理論に騙されて利用されてしまっている。洗脳とはそういうことである。しかし洗脳された者がまた他者を洗脳していくのだし、日本を破壊していくのであるから有罪なのである。

 政府は学校教育で、国民に憲法と日本の政治制度、経済制度を教えていくとき、これを全否定する共産主義勢力の思想理論を取り上げて、上述したように徹底的に批判し論破して教えていかなくてはならない。批判を経ていない知識は真に理解されることはない。敵対者や対立者からの批判を思想的・理論的に粉砕してこそ初めて、自由主義国日本の憲法と日本の政治制度・経済制度は国民に正しく理解されて、自分を支える教養になっていく。しかし保守主義に基づくそのような教育は全くされていないのである。私は日本の保守派が共産主義を感情的レベルではなく、思想的・理論的そして体系的に批判するのをほとんど(小数の例外を除き)見たことがない。だから保守派は、正しい教育の実施という〈法〉的責務に違反している政府の教育行政も批判し得ない。保守主義は「革新」(左翼)との対決を通じて強化・深化していくものである。闘いの土台は思想なのである。

第五節 洗脳の螺旋階段

 洗脳されてひとたび共産主義革命支持の立場になってしまうと、その後は主観的には「より正しい生き方をしよう」「より真剣に革命を目指していこう」「より根源的な革命を目指していこう」とすればする程、皮肉にもより一層誤りの深みにはまっていくことになってしまう。人間性が益々歪められ解体していくことになっていく。思想と理論の土台が根本的に誤っているからそうなるのは論理の必然である。私もそうであった。

 〈法〉は憲法や法律の上位に在るものであり、〈法〉を発見して明文化したものが憲法(準〈法〉)になる。但し日本国憲法には〈法〉を発見したものではない誤った条文もいくつかある。たとえば「国民主権」(一条と前文)もそうだ。そういうのは〈法〉に反しているから無効である。「〈法〉の支配」とは英米系の〈法〉思想であり、〈法〉が全てを支配することを言う。いわば〈法〉主権である。〈法〉→憲法(準〈法〉)→法律(もちろん上位の法に反する法律は無効だ)という〈法〉の支配に基づく統治がなされるからこそ、国民の権利・自由が保障され得るのである。日本で言われている「法治主義」(法律に基づく統治)は「〈法〉の支配」とは全く別物であり批判されるものだが、そのことはここでは措いておくことにする。

 左翼は日本の憲法と法律を「ブルジョア法」だとして否定し、日本の自由民主主義制度も「ブルジョア民主主義」だとして否定する。そしてプロレタリア民主主義や人民民主主義(プロレタリアート独裁や人民独裁)を唱える。これが左翼の基本思想や理論である。国民の権利・自由を保障する前者を否定し、共産党独裁が本質の後者を肯定するわけであるから、真剣になればなる程、誤りの淵にはまり込んでいき、自分の首をも絞めることになっていくのは必然なのである。繰り返すが、共産党独裁とは共産党以外の共産主義者も弾圧されてしまう体制であり、共産党員であっても党の決定は一切批判することは許されず、無批判的に従うだけであり、またいつ粛清されるか分からない体制である。しかしほとんどの左翼は、自分が狂信している思想がそういうものであることを理解していない。利用されているのである。

 私の場合を書こう。私は最初は暴力革命に反対であったが、すぐに支持するようになっていった。そのうち「日本革命」という枠組みも否定して、国民国家を価値否定して、世界をひとつの社会ととらえて「世界革命」の立場を採るようになっていった。大学四年頃である。「日本プロレタリアート」というとらえ方ではなく、「世界プロレタリアートの部分」ととらえた。しかし人間の社会は国民国家である。人間はそれぞれの国民国家に帰属しているからこそ、人間たり得る。もし国民国家を廃絶させられ、世界社会主義共和国を与えられたとすれば、人間はアイデンティティを喪失して精神的に不安定になってしまう。正常な人間ではなくなってしまう。だから元に戻そうとして更なる混乱と闘いが惹起されることになっていく。大学四年頃の私は日本革命よりも何倍も酷い世界革命を「より正しい革命」と考えて目指そうとしていたのである。

 日本革命について一言述べておきたい。平和的な日本革命であっても共産党が国家権力を握ってしまえば、憲法も法律も民主主義も否定されて、プロレタリアートの独裁が開始されていき、自由が全否定され徹底的に収奪される共産党独裁体制が造られていく。これは国号が「日本社会主義共和国」となっていようとも、自由主義国日本(自由社会日本)の滅亡であるから、本質的に反日革命なのである。そして在日アメリカ軍が撤退させられているから、次の段階として中国やロシアが日本に侵略してくるから、文字通り反日亡国になる。

 私は大学卒業の間際には、太田竜の著書に触発されて、その後に「反日革命」と名乗ることになる「日本を滅ぼしていく革命」を志向していくようになってしまった。世界革命の一環としての、日本とアジア諸国他を貫いて闘われていく反日革命である。私は日本民族内部において階級対立があるものの、日本民族は総体としてアジア各国の人民や日本内部の少数民族人民に対しては侵略者、抑圧者、搾取者として在ると考えて、帝国主義民族たる日本民族を憎悪するようになってしまったのである。だから反日革命の主力は、アジア人民と日本内の少数民族人民だととらえ、かれらに同情し彼らを美化し彼らを愛していった。その反面、内部の階級対立をおさえつつも日本民族を徹底的に非難し憎悪したのである。私は自己批判を通して反日革命に主体的に参加していく日本人反日勢力―日本人反日戦線を、できるだけ多く生み出していきたいと考えたが、日本人プロレタリアート人民が総体として反日革命に参加していくようになるとは全く考えていなかった。一程程度に留まると思っていた(この点D氏は私とは異なる考え方をしていた)。

 だから反日革命の勝利と日本国家の廃絶(日本の滅亡)とは、日本人プロレタリアート人民が総体として、帝国主義的な日本民族性を自己否定して反日革命勢力に転化して、内外の非日本人の反日勢力と連帯して、日帝を打倒して日本国家を廃絶していく形で実現されるものではなかった。内外の反日勢力および日本人反日勢力と、日本国家との間で、(反日革命)戦争が闘われて反日勢力が勝利して、その革命権力によって実現されていくものであった。私はこのように日本国家と日本民族を敵だと考えるようになってしまった。まさしく悪魔のような思想であるが、当時は「世界で最も抑圧されている第三世界の人民や共産主義社会の実体に生きる原住民(アイヌなど)や帝国主義国内の被抑圧民族人民の解放を目指す根源的な革命だ」と自負していたのであった。だから私は北海道庁爆破という無差別テロも支持することができたのであった。もちろん当時は、日本のアイヌシモリ侵略占領の中枢機関たる道庁への武力攻撃だととらえて支持したものであり、無差別テロと考えていたのではなかった。

 私は獄中で読書し思索してロシア革命も中国革命も全面否定した。現実の全ての社会主義国・共産主義国を、自由ゼロ・強収奪の共産党独裁国家で侵略国家と規定して全面否定した。マルクス・レーニン主義革命やアナーキズム革命を自由民主主義を否定する独裁主義革命として全面否定し、日本の新左翼と日共や社会党などの旧左翼を全面的に批判していった。これらの点では、私は自分の誤りを一部改めたことになった(しかしこの部分の私の主張は左翼には全く受け入れられなかった)。

 だが先に述べたように、私は世界革命論者(その一環としての反日革命)であったから、民主主義を「一国民主主義だ」として否定してしまった。「世界民主主義」という思想を作り上げた。私は世界革命と反日革命を「政治的には世界民主主義、経済的には世界共産主義」として再構築したのだと考えて、そのまま継続していくことにしたのだった。反日革命戦争であるから、勝利するまでの闘い方は従来と同じであった。「世界民主主義」という概念は私が初めて主張したものであるが、国民国家を否定するものであり、現実の反日革命闘争を正当化するものであって、全くの誤りであった。民主主義の否定であった。再構築した私のやはり狂った反日革命論、反日革命戦争論も、左翼にはまったく顧みられることはなかったが、幸いであった。

 私が左翼思想を完全に否定して、保守主義(真正な自由主義)の立場に立てるようになるのは一九九七年夏から九八年にかけてであった。

 私たちは、日本等の征服を国家目標にしている全体主義侵略国の中国およびロシアに対する国防体制を完全に整え、核武装した北朝鮮に対しても同様に措置し、また国益に直結する国際社会の自由の秩序を維持する行動もしっかりと果たす、そういう立派な祖国を創っていかなくてはならない。国民からも世界各国の人々からも、日本は政治的・外交的・軍事的・経済的・文化的に偉大な国家だと評価されるようにするためには、これらの課題に正面から対決して妨害し、日本を自由ゼロ・強収奪の独裁国家に改造しようと闘っている違〈法〉・違憲存在の左翼と、〈法〉的・思想理論的に闘い、その解体を目指していくことが絶対に必要不可欠である。

 私はこうした反左翼運動によって、一人でも多くの左翼を洗脳から脱却させたいと思っている(それは彼にとって解放になる)。このを読んだ左翼は、真剣に自らの思想・理論を検証していって欲しいと思う。だが洗脳されて長らく左翼活動をしてしまった場合には、脱洗脳は非常に困難になってしまう。だから政府および保守勢力の反左翼運動の主眼は、非左翼の国民に左翼思想の本質、左翼運動の目標、それが行き着く先を具体的に明確に提示して説得し、国民が左翼を非難し孤立化させていくようにすることである。また若い人が大学や会社や役所に入ったときに、左翼思想に洗脳されてしまわないようにするために、学校教育で本稿で述べたような思想的な教育を徹底的に実践していくことである。日本国憲法は日本を自由主義の国家だと定めている。〈法〉ももちろんそうである。コレラ菌やエイズウイルスは撲滅しなくてはならないが、左翼思想も同断なのである。(二〇〇八年六月一五日記・二〇〇九年一月二九日掲載・二月一八日誤字修正


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