生い立ち

第一節 私を支えてくれた多治見・岐阜の生活


 私は獄中で長い時間を費やして左翼思想を自己批判して、保守主義(これは真正な自由主義の意味で使用する)の立場に転向した。保守主義の入り口に立ったのが一九九七年夏頃であった。左翼思想に洗脳されてしまった自己を否定して、本来の自分を取り戻していく困難な作業において力になったのは、私が父母から教育された道徳であった。また左翼になる以前の、普通の考え方と感情を持って社会生活を送っていた体験も、力になってくれた。後者は、革命運動の中で自己否定して解体してしまったと思っていたものであるが、心の奥の奥に残っていてくれて、左翼から脱却するのを助けてくれた。多治見の生活と、引き返せない程に革命運動に深入りすることとなる大学四年生以前の岐阜での生活が、それである。私は多治見と岐阜を故郷と思っている。

 控訴審判決(一九八八年一月)以降は出廷することがないため、バスの窓越しであっても社会を見る機会がない。札幌拘置支所旧庁舎時代は、独房の窓から中庭も夜空も眺めることができた。季節の草花や生きものを眺めて楽しむこともできた。運動は屋外の土の運動場で実施されていたから、運動場へ出れば高い塀越しにビルや遠くの山々を眺めることができた。草花を直接手で触れ香りを嗅ぐことも出来たし、子供たちの声や犬の声などの社会の生活音も聞こえてきた。何よりも開放空間に身を置いて三〇分ほどの運動を楽しむことが出来た。



 二〇〇一年二月に新庁舎に移ると生活環境は一変してしまった。建物全体が壁やダイヤモンドガラスに覆われて、一切外の景色を見ることが出来なくなったのである。社会の音も聞こえてこない。運動も周囲を五m程の壁で囲まれた屋上の独居運動場(二・二メートル×六メートル)でやることになったから、鉄格子のはまった天井越しに空を見ることが出来るだけである。冬場は運動時間によっては太陽を見ることも出来ないことが多い。それでも屋上での運動時間は楽しみである。青空や太陽を見ると幸せな気持ちになる。自然の有難さを身に染みて感じる。それを補うために写真雑誌や写真を持っているのだが、心の中に焼き付いている多治見や岐阜の景色、思い出が私の精神の喜びになり、心の健康を守ってくれるものになっているのである。私は一日のほとんどを四畳程の独房で生活している。房を出るのは運動、面会、風呂の時で、運動も風呂も一人である。そういう生活を三十二年間送っている。だから、多治見と岐阜の思い出は、この制約された社会性を補う大きな力となってくれている。そういう理由から、多治見時代と岐阜時代のことを必要な範囲で書いてみたい。

第二節 両親の教育


 私は一九四九年(昭和二四年)九月七日、岐阜県多治見市で大森家の第一子として誕生した。父は一九一七年(大正六年)生まれ、母は一九二三年(大正一二年)生まれである。ともに静岡県の出身であり、結婚して多治見に移ってきたのであった。父は市内の会社に勤め、母も私が小学四年頃から家のすぐ前に出来た工場にパートとして働きに出ていた。私は高校を卒業するまで一八年間を多治見で過ごし、大学時代の四年間とその後の数ヶ月を岐阜市で送った。

 多治見市は岐阜県の南東部、愛知県との境に位置する盆地の街であり、東濃地方の商工業の中心地として古くから栄えてきた。陶磁器産業(美濃焼)とタイル産業の街として、多少は全国的にその名が知られていた。私はそれを子供心にも誇らしく思ったものである。当時の人口は五万から六万五千人位だったと思う。

 一九五六年の春、私が小学二年の時、昭和天皇・皇后両陛下は全国植樹祭の際に多治見市にも御巡幸なされて、陶磁器試験場などを御視察なされた。私たちは先生に言われて、家で両親と一緒に日の丸の小旗を作り、当日学校前の沿道に全先生と生徒が並んで、両陛下の黒塗りのお召し自動車の車列を旗を振りながらお迎えしたのであった。同試験場が学校の近くにあったからだ。今でも鮮明に覚えている。同年夏には当時皇太子であられた平成天皇が同試験場を御視察なされている。学校前でお迎えすることはなかったから、この日は日曜日だったのだと思う。私たちは皇太子殿下が御視察を終えられて隣り街の土岐市に向かわれるのを、家の近くを通る国道一九号線沿いに並んで、両親と一緒に日の丸の小旗を振ってお見送りした。沿道は人々で一杯であった。暑い夏の午後だった。その場所もはっきりと覚えている。

 皇室に関係する事柄で最初の記憶がこの時のことであった。私は子供の頃両親から、「日本には天皇・皇后両陛下と皇太子殿下をはじめ皇族というやんごとなき御身分の方々がいらっしゃる。天皇陛下は日本で一番偉いお方だ」と何度か教えられてきた。それ以前にもあったと思うが、この小学二年生の時に教えられたのが実質的な最初だったと思う。日本で最も偉い高貴な天皇陛下や皇太子殿下をお迎えしたり、お見送りするというありがたい貴重な体験をしていると子供心にも考えていたから、鮮明な記憶として残ったのであろう。私は小中高等学校でも天皇陛下について悪く教えられた記憶はない。

 両親は私を丈夫で人格的に優れた人間に育てようとした。男の子はよく遊びなさいと言われたものである。家のすぐ裏、文字通り一m裏が神明山という里山になっていて、神明神社と小さなお稲荷さんがあった。そこは格好の遊び場であった。私は神明山をあたかも自分の家の裏庭のようにして、文字通り遊びまわっていた。両親もそれを望んでいた。大部分の木はよじ登って征服したし、この山のことなら知らないことはない程になった。きっと神明山の歴史の中で私ほどここで遊んだ子供はいないと思う。山頂まで二分もあれば登れてしまう里山であるが、そこから多治見市が一望できた。高校生になっても一日に一度は山頂まで行って、パノラマを楽しんだものである。天気のよい日には、東の方に二千m以上ある恵那山を望むことができた。山に登れば、その北側を流れる土岐川を眺めることも出来た。川へは何度も何度も魚取りに行った。

 父はスポーツが得意だった。私はその血を受け継いだ。小さい頃から山で遊びまわっていたので足腰は鍛えられたから、小中学校ではいつもクラスの代表、学校の代表として五〇m走、一〇〇m走、二〇〇m走、走り幅跳びに出ていた。小学三年の時、長嶋茂雄が巨人軍に入団して長嶋ブームが起こっていた。父は青年時代に野球のピッチャーをやっていたこともあり、私をプロ野球の選手にさせたいと考えるようになった。母もその気になっていた。そのため小学四年頃から日曜日になると、神明山にある小さな運動場で父にノックをしてもらう日々が続いた。私もプロ野球のスター選手になるんだと夢を追うようになっていたのである。

 私は中学に入学する前の春休みから野球部の練習に参加させてもらい、入学するとすぐに入部した。二年の後半からはキャプテンを勤めた。一生懸命努力したのだが、井の中の蛙であったことを悟るようになっていった。それと中学一年まで一・五あった視力が、二年になると遺伝のためだろうが急激に悪化し眼鏡をかけるようになった。右目と左目でボールの高さがかなり違って見えるようになってしまったから、バッティングは上達しなくなった。三年の市の大会(準優勝)をもって三年生は退部することになった。プロ野球選手になる考えは無くなっていた。それまでは野球しか考えてなかったから勉強は、宿題とテスト前の復習しかやったことがなかったし、親も口うるさく言うことはなかった。クラブを辞めてから高校受験の勉強を始めていった。

 両親は私を立派な人間に育てようとした。主に母が教育した。母の父は越前の戦国大名朝倉氏の子孫であり、母は「朝倉父は武士のような人だ」とよく口にしていた。母の母は東京の第三高等女学校をずっと首席で通したという頭の良い人であった。二人は当時東京に住んでいた。母は夫(私の父)のことを朝倉父に勝るとも劣らない人格者だと心より尊敬していて、子供たちにもそう言っていた。父が会社から帰宅すると、母と私たち子供はいつも玄関に行って、畳に座っておじぎをして「お父さんお帰りなさいませ。お仕事ご苦労さまでした」とお迎えしていた。中学生になってからは座っておじぎをすることはしなくなったが、ずっと玄関で感謝の気持ちを持ってお迎えしていた。

 私は両親から「間違ったことはしてはいけない。正しいことを常にしなさい」「正直な人間になりなさい。嘘は泥棒の始まりである」「真面目な人間になりなさい」「何事においても努力する人間になりなさい」「勇気ある人間になりなさい」「世のため人のために役立つ立派な人間になりなさい」「困っている人や弱い人を助けてあげる優しい心を持った人間になりなさい」「親や先生や目上の人が言うことをよく聞きなさい」「礼儀正しい人間になりなさい」「男の子は泣いてはいけない」「質実剛健」ということを言われて育った。私は両親のことを尊敬していたから、自分も人間的に立派な人物になろうと努力していった。小学一、二年生頃から街の中心部でも買い物のお使いに行ったり、病院も一人で行っていた。小中学校の同級生の評判はよかった私であった。

 母の教育方針でひとつだけ嫌だったのは、ズボンや上着が破れていても、「質実剛健。男の子は服とかの上辺を気にするようではいけない。女々しいことです」と、大きな色の違うあて布で継いだものを着せられたことであった。男子ばかりなら気にならないが、小学生でも三、四年生位になれば女の子を十分意識するようになる。恥ずかしい思いをしたが、「男じゃないか!」と自分に言い聞かせて乗り切って行った。しかし小学生頃は日本がまだ貧しい頃であって、そのような男子はかなりいたから目立つというわけでもなかった。

第三節 私は無自覚な保守派だった 


 男の子供は戦争の話が好きなものだ。私も小学生のとき父や母にせがんで、戦争の話を何度か聞かせてもらったものである。それは楽しみであった。両親はあの戦争を侵略戦争とは思っていなかった。父はシナ戦線に二度出征している。その後は内地で兵役に就き終戦を迎えている。母は勤労動員で軍需工場で働いたり、本土決戦に備えて竹やり訓練も受けた。空襲も何度か体験している。そんな話を聞かせてもらった。私は「戦争ごっこ」でよく遊んだ。ただ母は、「シナと四年以上も戦争を続けていてそれが終わってもいないのに、さらに世界一の工業国アメリカと戦争することになった時、日本はどうなってしまうのだろうと本当に心配だったよ。実際負けてしまって大変な苦労をした。戦争はもうこりごり!平和な世の中が一番いい。お父さん、子供たちが戦争を好きになったら困るので、余り戦争の話はしないで下さいね」と言っていた。父も、「日本軍がいくら強くてもアメリカには勝てない。アメリカとは戦うべきではなかっただろう。アメリカはいい国だ。アメリカとは戦争をしてはいけない」と言っていた。

 今日の保守系論壇では、団塊の世代は戦後の日教組の左翼教育・反戦教育をまともに受けて育った世代だと言われているが、私はこれは間違った評価だと考えている。大都市のことはわからないが、私にはそんな教育を受けた覚えがない。小学校五年か六年の社会科の授業で、教科書に載っている日本の領土と勢力圏が、アジアと太平洋地域に拡大していく赤く塗られた地図を見て、私は日本の国が大きくなっていったと嬉しく誇らしく思ったものである。他の者も同じような感慨を抱いたことは間違いなかった。もちろんアジアを解放する戦争であったと教えられたことはないが、侵略戦争だったという教育でもなかった。中学高校でも侵略戦争だと教えられた覚えはない。左翼教師はいたはずだが、当時の教育界の力関係はまだそのようなものであったということなのであろう。

 小学生の頃に、両親あるいは父に連れられて観た映画にはアメリカ映画が多かったし、中学二年の時、家ではテレビを買ったが家族で観たドラマには、「名犬ラッシー」「奥様は魔女」「ララミー牧場」「ローハイド」「コンバット」といったアメリカドラマが多かった。両親はアメリカを好きであったが私もそうであった。というより憧れであった。同じ頃に日本のテレビドラマでタイトルは忘れたが、「見よ落下傘、空を征く」という軍歌が主題歌になっている戦争ドラマも、父たちと一緒に観ていた。当時は侵略戦争をテーマにするドラマはなかったと思う。

 両親とも政治的な関心は強くはなかった。家では政治の話はほとんど出ないに等しかった。それでも私は両親から「ソ連は自由のない恐ろしい国だ。シナもそうだ」「アカの連中は日本をソ連やシナのような恐ろしい国に変えようとしている」「暴力学生はアカだ。大学に入っても、あのような人間になってはいけない」と何回かは聞かされていた。ただそれは、私に確実に教え込むつもりで時間をかけてかつ継続して言われたものではなく、断片的な言葉として言われたものでしかなかった。私も基礎的な知識と関心を与えられたり喚起されてはいなかったから、質問をして認識を深めたいという欲求が生まれなかったから、それで終わりになってしまった。私も政治的な関心はほとんどなかった。

 高校二、三年の頃にはテレビでベトナム戦争のニュースもかなり流れたが、情けないことに私の関心は極めて低かった。それでも私は親の影響を知らないうちに受けていて、共産主義や暴力学生またソ連や中国をすごく嫌いになっていたから漠然と、「戦争はしないで済めば越したことはないが、アメリカが悪の共産主義勢力と戦争を始めたのだから仕方がないだろう」と肯定的に受け止めてはいた。また日本が友邦のアメリカに協力することも肯定的にとらえてはいた。しかし強い感情では全くなかった。両親は自覚的ではないが、保守派であったといえるであろう。私も具体的な知識はなかったが、親の断片的な主張を信じただけであったが、やはり無自覚な保守派であったといえるだろう。

 多くを学んだが、残念ながら両親の教育には私に思想や政治の大切さを気づかせてくれるだけのエネルギーと知識はなかった。一方の小中高の学校教育にはそういうものは完全に欠落していた。今もそうだ。日本の教育の根本的な欠陥である。これでは保守的な立派な日本人は生まれてこない。正邪の峻別には正統な英米式の〈法〉思想(〈法〉の支配)と正統な哲学思想(保守主義=真正な自由主義)の体得が不可欠であるが、教えられなかった。〈法〉と表記したが、〈法〉は憲法や一般の法律の上位にあるものであり、〈法〉を発見して明文化したものが「正しい憲法」となる。〈法〉がすべてを支配する。これが〈法〉の支配である。だから、私が親から強く受けた道徳教育、たとえば「正しいことをする」「努力する」という徳目にしても抽象的、一般的になってしまう側面が大きくあった。実際私は、大学時代になると左翼思想を逆に「正しい」と考えるように洗脳されてしまい、革命運動を努力して追求していくようになってしまった。

 私は大学に入るまでには、思想や政治のことはほとんど知識もなく関心も湧かなかった。ホームルーム活動や生徒会活動について、少し触れておきたい。当時の小中学校のホームルーム活動や生徒会活動の性格は道徳的なものであり、非政治的なものであった。学校当局の秩序の下で、全生徒また各クラスの秩序を決めて実行していくだけのものだった。私は伝統的な様々な秩序を守ることは正しいことだ親から教えられていたから、これらの活動の意義は理解出来たし、賛成であった。しかし議事進行という仕事をうまく出来るかどうかは別の問題であり、自分にはそういう能力は不足していると分かっていた。だから人気という意味では、学級委員長や生徒会の役員の肩書きには魅力を感じても、積極的にやりたいとは思わなかった。うまく出来ず恥をかくからだ。でも私は推薦によってよく学級委員長に選ばれていた。小学六年と中学三年のときには、生徒会の副会長にも推薦されてなった。一方には誇らしい気持ちがあったが、実力が伴わず苦労した。生徒会がある日は気が重くて仕方がなかったことを覚えている。

 しかし高校では、ホームルーム活動や生徒会活動に対する思いは一変した。嫌でたまらなかった。それはクラスに何人か左翼思想を持つ者がいて、彼らがホームルームのテーマと議論をリードしたからであった。きっと学生運動をしている大学生の兄や姉を持つ者なのだろう。あるいは共産党や社会党の党員やシンパの親を持つ者であろう。私が入った高校は東濃地方の進学校であり、愛知県から来ている生徒もいたし、岐阜県内の六市・四郡の各中学校から勉強の出来る者が三六〇人ほど集まっていたから、そのような生徒も何パーセントかいたわけである。

 具体的に思い出そうとしても全く甦ってこないが、それは、ともかく学校の秩序の改善ではなく秩序そのものへの批判、日本や世界の政治的出来事についても批判的に論じるべきではないかという、先生の政治的姿勢を批判するもの、または先生と生徒の関係性への批判といったようなものであった。私が両親や小中学校の先生から教えられてきた学校の秩序や、先生の権威が批判され、日本やアメリカが批判されたから生理的に嫌悪感を覚えたのであった。しかし私には確固たる考えは何もなかった。自分のそうした感情を理論的に正当化していく知識も思想も何ひとつ持っていなかったから、私は沈黙しているだけであった。それのみならず、聞いたこともない政治用語も交えて熱っぽく雄弁に喋る彼らに対して、私は強いコンプレックスも感じたのであった。担任の先生も彼らには困惑しているように見えた。私は熱心に生徒会活動に取り組む彼らが嫌いであった。ホームルームの時間は憂鬱であった。勇気は自分は正しいのだという自信がなくては出てこない。自信は知識と思想と理論と体験と思考能力から生まれる。私には全てが欠如していた。

第四節 高校時代と恋


 高校時代では受験勉強のことに触れておかなくてはならないだろう。日本の大学受験勉強は、青年の知的関心とエネルギーを歪め無駄に浪費させてしまうものになっている。大学受験を否定しているのではない。一生懸命勉強することは大切である。内容の問題である。丸暗記の詰め込み勉強、社会に出たときに全く役に立たない内容、また多くの科目の総合点で良い点を取らなければ合格できないシステムは、根本的に改善しなくてはならないのは明らかだ。日本をとりまく国際社会はどうなっているのか。日本はその中でどのようにして自国の安全(自由ある平和)と独立を守り抜いていったらよいのか。国際社会において偉大な国家だと尊敬されるようになるためには日本の外交と内政はどうあるべきか。国民の愛国心と深い豊かな心を育てるためにはどうしたらよいのか。日本経済を活性化し発展させるためには何が必要なのか。こういう観点が子供から大学までの教育の基本になくてはならないが、絶無である。とりわけ軍事は忌み嫌われて完全に排除されている。日本の大学のレベルも世界において極めて低い評価しか与えられていないことが、日本の教育が抜本的に改革されなくてはならない証拠である。

 高校生だった頃は、もちろんこのように考えることはできなかった。私は高校に入学したとき、いい大学に入ることを目標にした。ぼんやりと高校の数学の先生になろうかなと考えていたのだった。私は道徳的に自己を高めることは大前提として、勉強が出来るようになることは、自分の人間としての価値をさらに高めることである。それは世の中に貢献するより高い地位や仕事に就ける人間的な資格を獲得していくことであり、尊敬されうる人格になっていくことであると考えたのであった。よい大学に合格するとは、その象徴であった。私はスポーツのクラブ活動も諦めて、勉強一筋で頑張ろうと決めていた。

 最初の一年間は何も考えずに、テストで良い成績をとるべく猛勉強した。中学校時代とは様変わりである。努力の対象が野球から勉強に取って替わったわけである。私の高校入試の順位は三六〇人中一二〇番位だったらしいが、はじめの中間テストで学年で三番だと担任に言われたとき、冗談を言っているのだと最初は信じられなかった。この調子でいけば京都大学理学部にも入れるかもしれないと嬉しくなったものである。しかし私は次第に大学受験勉強に肉体的にも精神的にも疲れを覚えるようになっていった。睡眠時間を削って無理をしているのだから当然のことであった。成績も段々と下っていった。もともと頭脳の質が良いわけではないから、覚え込む時間や気力が減ったり弱まれば、頭のいい人には敵わない。それでも二年の始め頃にはまだ学年で一〇番台の前半位だったと記憶している。

 疲労を感じ出したこととも関係があるが、二年生になった頃から丸暗記の詰め込み勉強に疑問を感じるようになっていった。私は考えることは好きで、数学や物理の科目はやっていても楽しかったが、他の科目には楽しさは感じなかった。嫌いな科目も多くあった。好きで楽しいならば、継続して努力していくことはできる。しかし嫌いな科目や疑問に思う勉強(丸暗記、詰め込み)を、限られた期間であればともかく、毎日毎日何年も続けて努力してやっていくことは苦痛ですらある。数学や物理の問題は、教科書や参考書を見ても答えが載っているわけではない。考えなくてはならない。しかしそうしたものを開けば答えはすぐ見つかることを、暗記力、詰め込み力で競うテストに何の積極的な意味があるのだろうか。そのような勉強は人の価値を高めるものではないはずだ。また実社会で必要とされる知識や能力ともほとんど関係ないだろう。私はこんな疑問を覚えるようになっていったのである。

 入試は総合点で判定される。だから嫌いな科目や不得手な科目にこそ多くの時間を費やして、総合点を高めるのが勉強のコツであることはわかっていても、それ以降の私はそのようには出来なくなっていった。まずいとは思うが、好きな数学や物理にばかり多くの時間を使っていくことになった。しかも嫌だと思うと記憶力も落ちてくるものだ。肉体的・精神的な疲労も増して勉強時間も減っていった。その結果として、学年の順位も模擬試験の総合点もさらに落ちていくことになった。当時の私には、受験勉強を正面から批判否定できるだけの知的準備はまるでなかったから、このような受験勉強の日々と、成績が落ちていく結果に苛立ち、家族にも随分と迷惑をかけてしまった。勉強することが人格を高めるどころか、逆に落とすことになっていた。大学受験勉強は、真の学問ではないということである。当時はそんなことは全く解らなかった。受験勉強は何の役にも立たなかった。貴重な知的エネルギーと時間を無駄に費やしてしまったと今では思う。

 笑えない話を付け加えておきたい。私は二年になる頃から第一志望を国立一期校の名古屋大学の理学部、第二志望を二期校の岐阜大学教育学部の数学科にしていた。私立大学はお金がかかるので除外した。当時は国立大学は一期校と二期校に分かれていて二度受験ができた。三年の時の成績は好運が重なれば名大に合格できるかもしれないが、普通ならば難しいだろうといったところだった。親の期待に応えたいとか、自分の見栄から名大を受験したが落ちた。学校で行った模擬試験の他に、名古屋でも模擬試験が時々行われていた。しかし私は大した金額ではないが、親にお金を使わせたくないと思って、一度も名古屋での模擬試験を受けたことがなかった。受験に対する姿勢に厳しさが欠けていたのであった。私は親と相談して、「あがってはいけない」ということで受験当日に、精神安定剤と、乗り物酔いする私だったから酔い止め薬を服用することにしたのであった。精神安定剤はこのとき初めて服用したのだった。そのため私は頭はボーっとして回転せず、かつ強烈な睡魔に襲われてしまった。太股をつねったり鉛筆で突いたりしながら試験を受けた。第一日目で落ちたと分かってしまった。

 話を変えよう。私は中学時代は特にコンプレックスを持っていなかったので、まあまあ自信に満ちて楽しく過ごした。真面目ではあったが明るい少年であった。しかし高校では、思春期ゆえに過剰に女の子を意識するようになったことから、人から言われたのではないのにいくつかのコンプレックスを持つようになってしまった。また性的知識の欠如から、深刻な悩みも持つようになってしまった。馬鹿馬鹿しいことだが、男性として欠陥人間ではないのかと考えたりもした。それゆえに私は、表面的にはそぶりを見せないようにしていたが、自信をかなり喪失し精神的に萎縮してしまった。明るさや活発さを失ってしまった。嫌な大学受験勉強がそれに加わっていった。

 とすれば灰色の高校生活になりそうだが、そうではなかったのである。恋をしたからである。恋といっても別のクラスの人だったから挨拶の言葉をかけたこともなく、姿を見ることがあったときに、遠くから見つめてすぐ目をそらしてしまうような恋であった。高校二年の時にAさん(仮名)を知り好きになった。三年生のときにBさん(仮名)の存在を知りBさんも好きになってしまった。前記のような実態であったから、同時期に二人の人を好きになっても不謹慎というものではないだろう。しかし次第にBさんの存在の方がより大きなものになっていった。二人とも大変美しい人であった。受験勉強はいつも頭にあったが、学校へ行く一番大きな目的は好きな人の姿を一目見るためであった。運良く見ることができて視線が合った時は、ひどい緊張感とともに胸がときめき、その後に深い幸せな気持ちが体に広がった。

 実はBさんやAさんがどう思っていたかは分からない。視線が合ったことをもって、私が自分の想いは伝わっているのではないか、そして彼女も想ってくれているのではないかと、願望的に考えていただけである。私はそのように思い込むことによって、自分の存在の支えにしていたともいえる。

 都合よく考えてしまうのが恋というものであろう。私はコンプレックスを持ち、前記の悩みも抱えていたから、気持ちを直接伝える意思はまったくなかった。遠くから見つめているだけの恋でいいと思っていた。しかし卒業式が近づくにつれ、私は「もう姿を見ることもできなくなってしまう。このままで終わってしまってもいいのか」と悩みに悩んだ。だが、これまで普通の女の子ともほとんど話をした体験もなかった私が、好きな人に何か直接的な行動をするなんてことはできることではなかった。蛮勇を奮い起こして行動した結果、もし自分の勝手な思い込みにすぎなかったとなったときのことを考えると、恐ろしくてとても勇気出てこなかった。卒業式の日、私は胸が引き裂かれるような悲しみと辛さを覚えながら、彼女の最後の姿を目で追い続けつつ学校を後にしたのだった。

 私の高校生活はBさんとAさんという魅力的な人がいてくれたお陰で、大学受験というマイナス面だけでは終わらないものになった。というより、負の側面を補って余りあるものになったとも言いうるだろう。なによりも過ぎてしまえば、辛かったことや面白くなかったことは忘れ去られて、心ときめいたことばかりが思い出に残っていくものである。だから恋をした私にとって高校時代はバラ色の青春時代になった。小学校、中学校時代の思い出は、なんと言ってもまだ子供である。青年になっていく高校や大学時代が思い出の核になる。高校時代が心ときめくものになってくれたことにより、それ以前の良き思い出も活きて高校時代に連続していくことになった。私が多治見を故郷と思うその核心は、高校時代のBさんAさんに対する想いにある。とりわけBさんの存在だ。私が多治見の街や自然を思い浮かべるときも、高校二年三年のことなのである。

 人間は現在を生きる時、肯定する過去の記憶とともに生きている。意識していなくてもそうである。だからこそ人は精神の安定が得られている。もし記憶を喪 失して過去を失ったら、精神は極めて不安定になってしまうことを考えれば分かるだろう。私の場合は、左翼時代の自分の生を価値否定したから、大学四年以降の生活には肯定できる、運動と無関係な生活は少ない。そしてずっと社会性を制約される独房生活だから、私にとって多治見と大学三年までの岐阜の生活はとても貴重なものなのである。

 高校のすぐ裏が虎渓山という、山頂まで徒歩で一五分ほどの里山であった。私は授業終了後によくひとりで登った。山頂までの緑溢れた道程が好きだったし、山頂から見渡す多治見の街の姿もとても気に入っていた。展望台もあって、そこに立つと天気がいい日には北方向に三千メートル以上ある御嶽山の姿を青い空の中に小さく見ることができた。年のときAさんが友達と連れ立って登っていったのを見て、私はかなり距離を空けて後ろから登っていったことがあった。ときBさんが友達と登っていった時にも、私は大きく距離をとって後ろから登っていった。共にドキドキしながらそうしたのであった。虎渓山はこういう素敵な思い出と結びついている。私は毎日のように虎渓山や神明山を思い出している。写真も見ている。

 三年の秋のことだったが、ある用事のためにBさんの帰宅路の方へ行かなくてはならないことがあった。私はこれを口実にして勇気を奮い起こして、彼女が下校する時を待って五〇m程の距離をとって後ろを歩いて行ったことが一度だけあった。彼女が振り向いた場所などもよく覚えている。母にそのルートを写真に撮ってもらって持っている。毎日のように見ているが、当時の情景や感情が甦ってきてすごく懐かしくなる。多治見の街並みも自然も、BさんAさんの思い出と分かち難く結びついている。私に素晴らしい青春時代と故郷の思い出を残してくれた二人の女性の存在に本当に感謝している。もちろん父と母にも深く感謝している。母が今も実家で元気に暮らしていてくれるから、故郷を身近に感じることができる。

第5節 大学時代


 一九六八年春、私は岐阜大学教育学部数学科に無事合格した。合格発表日に自分の受験番号を見つけたとき、私は深い安堵感と喜びと、もう受験勉強はしなくてもよいのだと体を突き抜けるような解放感を感じた。名古屋大学を落ちて、もともと合格は難しかったからかえってスッキリした気持ちになれたから、岐大に合格したときは半喜びではなく率直に双手を挙げて喜べた。すぐ近くの公衆電話から家で報告を待っている母に合格を伝えた。母は感激して泣き声になっていた。私はこのまますぐに帰宅するのはもったいないと思い、市電沿いに歩いて岐阜の街を楽しむことにした。長良川や金華山を眺め、さらに中心街を通って岐阜駅まで歩いたのだと思う。解放感を楽しんだ。自然や街並みの色彩が違って見えた。多治見に帰ってきて街中を歩くときも何かしら誇らしい気持ちになっていた。見慣れた街並みも新鮮に見えたことを覚えている。

 岐阜大学は市の東部の長良キャンパスに教育学部と教養部があり、市の中心部に医学部と付属の三年制の看護学校があった。そして隣の各務原市に工学部と農学部があった。岐阜市の当時の人口は三〇万ちょっとだったと思う。教育学部には数学、物理、化学、生物、社会(史学・社会・法律経済・哲学)、国文、英文、音楽、美術、体育、技術職業、家政、教育の各学科があった。教育学部の全生徒は三〇〇人余り、うち女子が半数弱であった。私が入った数学科は二九人で女子は九人であった。医学部、工学部、農学部には女子はそれぞれ数人しかいなかったと思う。私は教育学部専用の男子寮・望峰寮に入った。一室各四人で全二四室合計九六人の木造二階建ての古い建物であった。ここに二年生の六月か七月までいて、その後アパートに間借りした。アパートは四畳半で共同台所、共同トイレだった。寮から大学まで徒歩一五分位で両側が田んぼになっている長い一本道を通って通学した。アパートからも一五分位であった。

 高校時代の私を深刻に悩ませていた性的知識欠如ゆえの悩みは、入寮間もないうちに先輩の話によってあっさり解消してしまった。本当に救われた気持ちになり、身も心も軽くなった。そのことと受験勉強からの解放も相乗して私は、「これからは生き方を変えていくぞ!」と決意した。大学にも女子は多くいたが、これまで気にしていたコンプレックスは気にしないように決めた。実際そうなった。私は中学時代以上に活発になっていった。
三年生の時の私は学生運動の流行に乗っている程度だったし、年の時もまだ真剣に向き合っているとはいえないものであった。だから大学三年までは青春を謳歌して過ごしたといえるだろう。この時の体験の思い出が、高校時代のそれとともに、今の私の社会性と自然性を支える貴重な財産になっている。高校時代の思い出の登場人物はBさんとAさんそれと私自身と少数だが、大学時代の思い出は、彼女も出来たし多くの友人も作り楽しく過ごしたし、いっぱい出歩いたから人も場所も豊かである。運動のことは章を改めて書くことにして、運動以外のことを書いていきたい。

 私は「一年間は思いっきり遊ぼう」と考えていた。大学の勉強はしなかった。というより出来る心理的状況にはなかったといえる。私は高校の年間は萎縮し自分らしさを抑圧し、またつまらない受験勉強に明け暮れていたから、精神的・肉体的な解放を欲していたのである。それに大学一年の授業にも興味が湧くものはなかった。ところが二年になると左翼思想に汚染されていったから、「ブルジョア学問などやれるか!」ということになっていった。私は寮の気の合う仲間と学生生活を大いに楽しんだ。大学キャンパスでも数人集まっては女の子を観察した。寮に戻っても毎日のように私の部屋に何人か集まったり、また同室の友人と連れ立って他の部屋へ出かけていって、遅くまで楽しい時間を過ごした。一年のときは女の子の話が中心であった。時には六人連れ立って近くの焼肉店へ飲みに行った。繁華街の柳ケ瀬の喫茶店も大半の店は友達と一緒に入った。土曜日、日曜日は寮からよくアルバイトに行った。食堂のボーイ、ビアガーデンのボーイ、キャバレーのボーイ、繊維工場の掃除などであった。

 二年の前期までが教養課程で、それ以降学部課程になったが、私は一年の初めから三年の終わりまで、クラスの親睦会や娯楽関係の行事の大部分の幹事をやった気がする。コンパや花見や合宿、あるいは大学祭の模擬店やみこし行列といったものの幹事である。決して出しゃばり屋ではなかったが、寮の仲間などから幹事をやってくれよと推薦されて二つ返事で引き受けていた。一年の時の大学祭では望峰寮の一年生で演劇をやったが、この時も私が中心となってやることになってしまった。寮では大学祭に一年生が演劇をやるのが伝統になっていたのである。みんなで相談し国文科の者にシナリオを書いてもらい、それをアレンジして、観客で満員になっている市民会館の大ホールで演じた。私は演出兼主演でもあった。みんな恥ずかしさを紛らすために酒を飲んでやったドタバタ喜劇であったが、館内から何度も大爆笑が沸き起こって、みんなもかなり高揚した気分になっていた。高校時代であれば、逆立ちしてもあり得なかったことである。なんだか変な自信になったものである。そういえば小学校の学芸会では、六年の私のクラスは南極探検の「タロとジロの物語」を演じたが、私は主役のタロ役であった。

 自分ひとりの空間が欲しくなって、二年の六月か七月に借りたリヤカーに荷物を積んでアパートへ引越した。木造二階建ての二階の四畳半の部屋で、南向きの窓からは金華山を見ることができた。私はこのアパートで三年弱過ごした。アパートの西側には畑と田んぼがずっと広がっており、この風景を見るのがとても好きでよく出掛けたものである。他の寮生もこの頃にアパートへ移る者が多くなった。私はアパート住まいを始めた頃からかなり落ち着いた生活をするようになった。それでも話がしたくなると自転車で近くの元寮生の友人のアパートへ行っては、学生運動や女の子の話に花を咲かせたものであった。時々は元寮生仲間を誘って飲みに行った。私は三年頃に「ブルジョア道徳への反抗」という思想を知るようになったが、頭では理解できても身体と心が拒んでいる状態であったから、基本的に真面目であった。服装は夏はGパンとTシャツと下駄という格好であったが、ひどい長髪は嫌だったしタバコも吸わなかった。マージャンも知らなかった。パチンコは付き合い程度で自分ではほとんどしなかった。ハードロックミュージックよりもサイモンとガーファンクルの方が好きだった。

 女の人への関心は強くて友達同士で、何組の誰々が可愛いだとか、よく行くスーパーのレジの子がチャーミングだとか、寿司屋のお姉さんは凄くセクシーだとか語り合ったが、彼女のいる者は誰もいなかった。当時はまだそういう時代であった。私に彼女が出来たのは三年になってからであった。みんなと比べれば早い方だった。このCさん(仮名)は他校の人であった。一九六九年一二月、二年のクリスマスイブの岐大軽音楽部主催のダンスパーティに私たち元寮生数人も出会いを求めて参加した。そのときに目を引いた人がCさんであった。思い切って誘ってみたら踊ってくれた。終わりまでその人とばかり踊っていた。別れ際に明日も会ってもらえないだろうかと言って、翌日その場所へ行くと彼女は来てくれたが、「昨日だけの思い出にしましょう」とだけ言って別れを告げたのだった。非常に美しい人で性格も良い人で私は一目惚れだったからショックは大きかった。その後、彼女のことはもう忘れるようにしようと思い始めていた四ヶ月くらい経った頃に、突然彼女からアパートに電話があり、「会いたい」と言われて付き合いが始まったのである。一九七〇年四月のことである。

 その後、彼女とは頻繁にデートするようになった。私が学校からアパートへ帰ると彼女が部屋で待っていてくれるということも多くなった。二人で多くの喫茶店や食堂に入ったし、映画も何本も観た。金華山にも登ったし長良川で一緒に泳いだ。私は二年の一一月頃に水泳部に入部していた。三年の夏は長良川で開いている小学生対象の水泳教室のアルバイトをしていた。二人で長良川の花火も観たし、彼女を自転車の後ろに乗せて長良川の堤防等を走ったりした。私は彼女を愛していた。多治見にも連れて行って両親にも紹介した。卒業したら結婚するつもりでいた。二人で写真館で記念写真も撮った。大学三年の一年間は一番幸せな頃であったといえる。もしも私が左翼革命運動に深入りしていくことがなければ、私たちはきっと結婚することになっていただろう。

 だが私は四年生になり、「教育実習」も始まり、将来いかに生きていくつもりなのかを自分に問い真剣に考え出すようになった。革命への傾斜を深めていくようになった。水泳クラブもこんなことはしておれないと、四年になる直前に退部している。彼女にも同じような生き方をして欲しいと思うようになって、より急進的な暴力革命思想の話をよくするようになっていった。また私はその頃に、結婚という男女関係を否定するライヒの誤った思想にも頭を支配されるようになってしまって、怖かったが彼女にも話していった。「もしぼく以外にも素敵な人が現れたならその人とも付き合ってもいいよ」などと言ってしまった。本心は私だけを愛して欲しかったし、私も彼女だけを愛して独占していたかったが、それを語ることは思想への裏切り、新しい社会のあるべき男女関係に反することになると考えてしまって出来なかった。

 こんな誤った考え方をする私に、彼女が反発するのは当然のことであった。ある時彼女から「今、ある男性から交際を求められている。私はその人とも付き合ってもいいの?」と問われたとき、私は本心に反して「いいよ」と答えてしまった。

彼女の方が正しかった。しかし洗脳が進展していた私には、暴力革命を批判する彼女の言葉は反発を感じるばかりであった。気まずくなって二ヶ月位会わない日々が過ぎた一九七一年一一月末頃、彼女から夜七時頃に電話があって、指定場所(三年の四月に再会した時の公園)へ出掛けて行くと、別離を告げられた。考え方が違っていてついていけないと言われた。彼女の決意が固いことは雰囲気で分かった。私は彼女を愛していたから辛くて悲しくて抑えようとしても涙が溢れ出てきた。しかし彼女はそのまま身を翻して、振り向くことなく街角へ消えていった。幼稚園以来、人前で涙を見せたのはこの時が最初であった。深いダメージを受けてアパートまでとぼとぼと歩いて帰った。それから二年余り経った一九七三年一二月、彼女から当時多治見の家にいた私に電話があり、「もしよろしければもう一度会ってもらえないでしょうか」と言ってきた。私は喜んで岐阜まで飛んで行ったが、反日革命を目指す私の意志は強固になっており、彼女とは別れることになったのであった。

 あの頃の私は、革命へ向かっていく自分の誤りに気付くことは全く出来なかった。彼女を無理矢理引きずり込んで不幸な目にあわせずに済んで本当によかったと思う。そして私に素晴らしい青春の思い出、岐阜の思い出を残してくれたことを彼女に深く感謝している。

 岐阜を思い起こすとき、決まって長良川と金華山の情景が最初に浮かんでくる。彼女とのデートもこれらを眺めながらのことが多かったし、大学時代毎日のように眺めていたのがこれらであったからだ。大学からはすぐ目の前にあるという感じで金華山が見えていた。アパートからも望めた。私は一年の後期から週二回、家庭教師のアルバイトをしていたが、一年と二年の時は金華山のふもとにある長良橋を渡ってバイト先へ通った。三年と四年のバイト先へは自転車で長良川の堤防上の道路を走って通った。岐阜で一番好きな風景であった。私は街と一体化した自然、つまり人の手が加わっている自然が一番好きだ。彼女や友人と入った喫茶店や食堂の情景、あるいは一緒に歩いた街並みなども好んで思い浮かべている。友人に撮って送ってもらった岐阜の写真も毎日のように眺めている。私は岐阜時代大学の三年までは人々に好かれ、私もまたそうして生きていた。岐阜の街が好きだった。故郷とはそういうものであり、今の私を支えてくれている。

 私は獄中で左翼思想(反日亡国思想)に洗脳されてしまった自己と対決し、左翼思想=反日亡国思想から脱却していった。第一義的には思想的、理論的な批判によって成し遂げていったわけであるが、「間違ったことはしてはいけない」「自分を偽ってはならない」「正しいことを追求・実践すべきだ」「勇気」「努力」という両親に教え込まれた道徳律がこの作業を支えてくれた。また心の奥に残っていた、多治見や岐阜という故郷を愛し、女性を愛し、日本を愛した日本人としての正常な思い出が支えてくれたのである。(二〇〇八年五月一四日記・二〇〇九年一月二九日掲載・二月一八日及び六月一〇日誤字修正


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