「中西輝政」論文の本当の執筆者はロシアKGB(SVR)である

●日本人の物書きなら決して間違わない事実を間違えている「中西輝政」論文

   私は本年1月と2月に書いた2つの論文で、中西輝政京大教授を日本侵略・占領を狙うロシアの思想工作員(反日反米左翼)だと糾弾した。そもそも彼署名の論文は、本当に彼自身が書いているのか。それとも、ロシアKGB(SVR=ロシア対外情報省)の要員が書いているのか。

 『正論』2011年12月号と2012年1月号に、「中西輝政」論文「大東亜戦争の読み方と民族の記憶(上・下)」が掲載された。その一部にはこうある。「終戦翌年の昭和二十二(一九四七)年一月一日、昭和天皇の「年頭、国運振興の詔書」が発せられた。昭和天皇はこの冒頭に、後年の記者会見で仰っているとおり、五箇条の御誓文を自ら発案して挿入された」(1月号、166頁上段)。

 日本人であれば、終戦が昭和20年(1945年)であることは、中学生なら誰でも知っている。物を書く人間ならば、決して間違うことはない。「終戦翌年の昭和22年(1947年)」と書いているこの論文は、日本人が書いたものではない。KGB(SVR)の筆による論文ということになる。中西氏は目を通してさえいない。させてもらえない。なお、「昭和二十一(一九四六)年」と書いているつもりで、このように書いてしまったということは、このケースではない。

 『voice』2012年3月号にも、「中西輝政」論文「『キューバ危機』に陥った極東情勢」が掲載されている。そこにはこのようにある。「この年の三月、沖縄が陥落し、次は「本土決戦」といわれ、日本はもはや戦争は続けられない状況に追い込まれた。このとき鈴木貫太郎内閣が必死に試みたのは、英米連合国との講和であった。そして、その仲介をスターリンのソ連に動きかけた(!)のである。実際、近衛文磨元首相を特使としてモスクワに派遣するという計画が、5月から6月に動いている」(90頁下段)。

 沖縄が陥落したのは、3月ではなく6月23日である。3月26日から沖縄への侵攻が始まり、米軍の沖縄本島上陸は4月1日である。中学生でも分ることである。ましてや中西氏は著名な物書である。彼が書いた文ではないことは明白だ。この論文も、日本人以外が書いたものだ。すなわちKGB(SVR)である。中西氏は、目を通してチェックすることもしていない。させてもらえないということだ。なお、近衛文磨が特使として行くことになったその計画も、5月から6月ではない。7月上旬から7月下旬の動きである(『終戦工作の記録(下)』19章、20章参照)。

●国家反逆の大東亜戦争を「栄光の戦争」「日本の最良のとき」と言う「中西論文」

 先の『正論』の「中西論文」は、「日米戦争は、こうしたマクロ・ヒストリーの視点からは、やはり「宿命の出来事」だったと言うしかないのである」(12月号、153頁下段)とし、「栄光の戦争」(1月号、159頁上段)だったとする。「あの苦闘の中での自己犠牲の発揮、そして人々の絆と連帯感の高まりを日本人が見せた昭和十八年からの二年間こそ、私は間違いなく「日本の最良のとき(ファイネスト・アワーズ)」だったと思う」(1月号、166頁上段)と書いている。

 これは、大東亜戦争(1937年から1945年)を最大限に美化して、反米民族派を生み出し強化していくことを狙う、KGB(SVR)と中西氏による思想工作、情報戦である。ロシアの日本侵略・占領のためには、日米同盟関係を解体していくことが不可欠である。そのためには、左と右の反米勢力を拡大していくことが絶対に必要だ。左の反米勢力とは、いわゆる左翼だ。右のそれは、「反米民族派」のことであり、「右の左翼」でもある。「中西論文」は、反米民族派の創出・強化をめざしている。「反米」が思想の核となれば、日露同盟へと向うことになるのだ。

 大東亜戦争とは、いかなる戦争であったのか。大東亜戦争(日支戦争と太平洋戦争)とは、左と右の左翼が推し進めた革命戦争であったのである。これが真実である。すなわち「連合国の東京裁判」は、真実の把握に全く失敗した。大東亜戦争は、アジアから自由主義の英米仏蘭を追放して社会主義化(共産主義化)すること(これを左右の左翼は「アジア解放」と称した)と、この戦争を利用して日本国自身を社会主義国(共産主義国)に改造していくこと(すなわち反日。それを「高度国防国家」と言った)を、目標にした革命戦争であったのだ。更に「左の左翼」は、太平洋戦争で「日本」を敗戦必至の状況に追い込んで、「終戦時工作」と称してスターリンのソ連と共謀して、ソ連軍を呼び込んで、ソ連による日本侵略占領とソ連領土化と共産化を、目標にしたのである。ちょうど東欧のポーランドのようにである。そうなれば、日本は文字どうりの亡国だ。

 そんな大東亜戦争が、「栄光の戦争」で、「日本の最良のとき」であるはずがないのは自明だ。大東亜戦争とは、まさに国家反逆の戦争であったのだ。ソ連の国益に奉仕した反日戦争であった。だからKGB(SVR)・中西氏は、「栄光の戦争」等々と最大限に評価する。それは、再び日米対立を創り出して、日米同盟を破壊して、ロシアと中国が日本を侵略し、領土化することを狙うからである。

●大東亜戦争を推進した「左の左翼」と「右の左翼」ー主導したのは「左の左翼」

  「左の左翼」とは、スターリン、毛沢東とつながる共産主義勢力であり、当時は主として、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)の指示を受けていた。ゾルゲや尾崎秀実もGRUに所属していた思想工作員であり、スパイであった。KGBの前身 である国家保安人民委員部(NKGB)の指示を受ける共産主義者もいた。彼らは国際共産主義者である。

 「右の左翼」は、自らを「革新派(革新将校とか革新官僚とか)」と称した民族共産主義者で、「天皇制社会主義(共産主義)」「国家社会主義(共産主義)」を目指した。永田鉄山は後に「統制派」を結成してリーダーになるが、永田が陸軍省軍務課長時代の1931年に書いた「皇政維新法案大網」は、次のような内容である。天皇主権によって、一切の政党を禁止し、既成の言論機関を閉止し、全国に戒厳令を布告し、憲法を停止し、両院を解散し、資本の私有を禁止し無償で国有化する、というものであった(竹山道雄氏『昭和の精神史』83頁参照)。永田が死んだ後は、東条英機がリーダーを継いだ。

 今日の「反米民族派」は、「統制派」や「皇道派」のことを「保守派」と言ったり、「右翼」と言っているが、明確な誤りだ。彼らは、彼ら自身が「革新派」と自称したように、保守派ではなく、明確な左翼、しかも極左である。彼ら「右の左翼」は、立憲君主である日本の天皇を否定して、全く別種の「天皇」にして、「天皇制」社会主義(共産主義)を目指したのである。右の左翼は戦後は、自分たちが左翼(革新派)であることを隠して、若い新しい仲間を作っていった。多くの人が、この嘘プロパガンダに騙されてしまっている。洗脳である。洗脳はいたるところにあるのだ。KGB(SVR)・中西氏は当然、統制派や皇道派が右の左翼であることを知っているが、知らないふりをして読者を騙し、洗脳しているのである。

 左と右の左翼の間には、共通点と対立点があった。反「法の支配」、反自由主義、反資本主義、反議会政治、反「正しい個人主義」では、共通であった。つまり社会主義(共産主義)・全体主義では、共通していた。だから反米英、反蒋介石国民党政府では共通していた。しかしながら、ソ連や中共に対する立場では対立した。革新勢力は「反ソ・反共」を唱えたが、それはソ連とその指導を受ける共産主義勢力は、日本を侵略し、天皇制打倒を目指していたからである。革新勢力が唱えた「反共」は、祖国と天皇制をめぐっての対立からであり、それ以外では、既にみたごとく、革新勢力自身も(民族)共産主義であったのだ。独裁である。

 革新勢力が政府(軍部)の主勢力であるし、革新勢力は「アジア解放」を目指したが、英米仏蘭だけでなく、ソ連と中共も追放の対象にしていた。だから左の左翼の共産主義勢力は、革新勢力に正体を偽装して、革新勢力の政策を(部分的に)利用しながら、自らの独自の目標の実現のために闘っていったのであった。大東亜戦争を主導したのは、スターリンと密通していた近衛文麿を筆頭とする左の左翼であった。

 近衛文麿らは、スターリン・毛沢東と共謀して日支戦争を起こし、和平を阻止して長期戦化していった。これによって、蒋介石国民党政府によって壊滅寸前に追い詰められていた中共を救出し、また蒋介石国民党政府を弱体化して、支那を中共のものにしようとした。日支戦争は関東軍の「北進」を阻止するから、それによってソ連を防衛することになる。近衛たちは「南進」して、米英蘭仏との敵対路線をとり、太平洋戦争を引き起こしていった。これによって、彼らをアジアから追放してアジアを共産化(ソ連圏)していく。さらに「天皇制」社会主義国(共産主義国)の「日本」を、太平洋戦争で敗戦必至の状況に追い詰め、再び近衛が首相になって、「終戦時工作」をソ連と共謀して行い、ソ連軍を呼び込んで、ソ連軍による日本侵略占領、ソ連領土化と共産化を実現しようとしたのであった。最後の目標だけは、実現されなかったが、他は実現された。

 『正論』12月号、1月号の前記「中西論文」は、既に公けになっているゾルゲや尾崎秀実や、このグループの一員である西園寺公一らを批判するが、最大の大物・近衛文麿の正体を隠したのである。戦後、ソ連と共産主義者は一貫して近衛文麿の正体を隠蔽してきたが、この「中西論文」(SVR)もしかりである。

 さらに「中西論文」は、親英米派の幣原外相を激しく攻撃している(1月号、167頁下段)。日本がもし、国際法を守り、自由主義の親英米の外交を貫ぬけば、大東亜戦争は起らなかったのだ。だから左翼の中西氏とSVRは、親英米派の幣原外相を憎んで攻撃するのである。

●社会主義国家日本は、直ちの対米英講和を拒み、「本土決戦」(継戦)の方針を採った

  1節で引用した『voice』2012年3月号の「中西輝政」論文に戻ろう。その文はさらに、「だが、このときソ連は、ヤルタ会談を終え、対日参戦が決定していた。つまりソ連は、日本がもっとも警戒しなくてはならない相手だったのである」と続けている。これらの「中西論文」には、大きな嘘が意図的に述べられているのだ。それを批判していこう。

 まず日本政府(軍部)は、必死になって米英連合国との講和を試みたのではない。逆に、「国体護持」をメインスローガンにした、「1億玉砕の本土決戦」の方針を採り、「継戦」を決めたのである。「あくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す。・・・・速やかに皇土戦場態勢を強化し・・・・」(1945年6月8日第4回戦争指導大網『今後採るべき戦争指導の基本大網』より。『終戦工作の記録(下)』170頁)。

 政府は、米軍は早ければ、1945年秋季に日本本土に上陸してくると考え、本土決戦を準備していったのであった。政府は、この本土決戦で米軍に甚大な損害を与え、日本国民の強烈なる抗戦意志を知らしめて、比較的有利な条件で「終戦」しようと考えたのである。

 日本は大東亜戦争をしない、米英と共に進む外交をしていくべきであった。しかし、「左右の左翼」が日本を侵略支配したことによって、反自由主義のこの革命戦争は行われていったのであった。軍事合理性から言えば、1945年3月に硫黄島が陥落したすぐ後に、日本 政府は直接、米国に講和(降伏)を申し入れるべきであった。それをしていれば、沖縄戦の悲劇も、本州の空爆と原爆の悲劇も、また満州、朝鮮北部、南樺太、千島、そして択捉島と国後島へのソ連軍の侵略とそれに伴う悲劇も、回避されたのである。

 ドイツが降伏した日の5月8日(日本時間)、トルーマン米大統領は日本に対して、「日本の陸海軍が無条件降伏でその武器を捨てるまでは・・・・」との降伏勧告声明を出した。それは国家の無条件降伏の要求ではなかった。米国は日本研究をしっかりやっていて、以前から天皇制を存続させる方針であったのだ。

 しかし「右の左翼(革新派)」は、イデオロギーのために革命戦争をしているのであって、国家や国民のことなど考えない。彼らからすれば米国英国は、アジアを侵略支配している帝国主義国(自由主義国、資本主義国)であって、敵である。「悪の敵国に屈服などできるか!」なのだ。彼らは「米国に和平屈服すれば、国体(天皇制)は破壊され、大和民族男子は、支那、アフリカ、インド、ニューギニア、豪州へ奴隷的に移駐させられて、大和民族は滅亡を図られることになる」と主張した(1944年9月25日『最悪事態に処する国防一般の研究』。陸軍省軍事課。『終戦工作の記録(上)』424、425頁参照)。だから「聖戦完遂!」「1億玉粋の本土決戦を!」である。彼らは、自らの誤ったイデオロギーのために、国家と国民を犠牲にしていったのである。左翼は全てそうである。

 彼らが主張した「国体護持」にしても、「転倒語」だ。日本の「国体」は天皇制国家であるが、それは「皇室典範と自由主義の明治憲法の下の天皇制国家」だ。「法の支配」である。天皇は立憲君主である。革新派はこれらを否定して、国家権力を簒奪した左翼反日勢力(「天皇制」共産主義勢力)である。彼らは天皇制を全く異質なもの、すなわち独裁支配の道具に改造してしまった。永田鉄山の思想で明白だ。間違ってはならない。彼ら革新派は、国体の破壊者である。そして彼らは、「転倒語」である「国体護持」をメインスローガンにして、「本土決戦」を準備し、日本という国家と国民を滅亡させていく路線を進んでいったのである。

 もう一方の「左の左翼」は、ソ連主導で終戦させて、「日本」をソ連領土化し共産化することを狙ったのである。革新派よりも一層の悪の存在である。もしも「天皇制」社会主義国家の「日本」が早々に米英と講和をしてしまったら、この目的を実現できなくなる。ナチス・ドイツ(ナチスは「国家社会主義労働者党」だから、左翼国家である。独ソ戦争は、社会主義国家同士の戦争である)が降伏するのは、1945年5月7日であったが、ソ連が戦力を欧州から極東へ移動させるには3ヶ月ほどを要するのである。それ以前に「日本」が米英と講和をしてしまえば、この目的の実現は不可能になる。

 だから、革新派に偽装して闘っていた「左の左翼」も、「米英との直ちの直接的講和交渉は、国体の破壊を意味するから、決して行ってはならない」「国体護持を掲げて、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない」「1億玉粋の本土決戦を戦い抜かなくてはならない」等々と、謀略の思想工作を展開していったのである。陸軍参謀本部戦争指導班の種村佐孝大佐などである。彼は戦後、日共に入党している。種村は、1945年6月8日の御前会議で決定した『今後採るべき戦争指導の基本大綱』(第4回戦争指導大綱)の立案(4月上旬)をした人物である。

●終戦時における「対ソ施策」ー日本領土をソ連に貢ぐ

 「本土決戦」という形の対米英戦争を完遂するためには、背後のソ連が、対日参戦しないことが絶対条件になる。そこで政府(軍部)は、「対ソ施策」を考え徹底的に実施していくことになった。前記『今後採るべき戦争指導の基本大綱』の「方針」は、「七生尽忠の信念を源力とし、地の利、人の和をもって、あくまで戦争を完遂し、もって国体を護持し皇土を保衛し、征戦目的の達成を期す」であり、「要領」の「二」は、「世界情勢変転の機微に投じ、対外諸政策、特に対ソ対支施策の活発強力なる実行を期し、もって戦争遂行を有利ならしむ」であるが、ここに出てくる「対ソ施策」がそれである。『基本大網』の中心は、この「対ソ施策」である。

 前記種村大佐は、『基本大網』の起案を4月上旬にしたのが、その中心になるものとして、『今後の対「ソ」施策に対する意見』をまとめている。この文の日付は4月29日となっているが、実際は、上旬にまとめられた。その後吟味を加えて、4月29日の稿にしたということであろう。

 種村はそこで、次のように述べている。ソ連から「日ソ中立条約破棄の通告」(4月5日)を受け、かつドイツが崩壊した今日、遺憾ながら日本独力によっては、ソ連の中立態度を維持させることは出来ない。従って、全く捨て身の戦法にあらざれば、成功は難しい本施策であることを深く期して、9死に1生を得るつもりで本施策実行に邁進しなくてはならない。  (ソ連に中立態度を維持させるために、日本がソ連に譲歩すべき条件は)「必要なる条件はことごとくこれを停止し、譲歩し、開放し、断念するにやぶさかであってはいけない。換言すれば、「ソ」側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後における遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ちかえったならば、今日日本が満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟をもって、あくまで日「ソ」戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない」(『終戦工作の記録(下)』61頁から64頁参照)。

 5月11日、12日、14日に「最高戦争指導者会議構成員会議」が開かれ、ソ連に(1)対日参戦しない、(2)友好的中立を維持してもらう、(3)米英との講和交渉を日本に有利に仲介してもらうために、多くの譲歩をすること(多くの貢ぎ物を与えること)が決定されていったのである。ただし、(3)については当面は触れないことにして、(1)(2)に限定してソ連と交渉することになった。ソ連との交渉は、広田元首相とマリク駐日ソ連大使との間で、6月3日から始まった。そして6月18日の「構成員会議」において、(3)も発動することになった。

 「構成員会議」は、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津陸軍参謀総長,豊田海軍軍令部総長(5月28日以前は及川軍令部総長)の6人で構成されていた。鈴木首相は5月の「構成員会議」で、ソ連に譲歩するものとして次のことで意見が一致したとして、このように書いている。南樺太の返還、沿海州の漁業権の解消、津軽海峡の開放、北満州の諸鉄道の譲渡、内蒙古におけるソ連の勢力圏を認める、旅順、大連の租借は覚悟する必要がある、場合によっては北千島を譲渡するのも止むをえないだろう。南満州は中立地帯とする。朝鮮は日本に留保することとする。支那については、日ソ支3国の共同体制を樹立することが最も望ましい(前掲書80から82頁参照)。

 ここで言われている「支那は日ソ支3国の共同体制が最も望ましい」であるが、『第2回戦争指導大綱』(1943年9月30日)に基く、陸軍の『対外政略指導要領(案)』(1944年8月8日)をふまえれば、それはほとんど、ソ連が後見人となる毛沢東の中共が大部分を支配する支那ということになる。日本はそれを認めるのだ(『終戦工作の記録(上)』318頁参照)。

 右の左翼の「革新勢力」は、太平洋戦争の中で、ソ連・中共に対する考え方を大きく変化させていったわけである。つまり「天皇制」社会主義国の「日本」は、1943年初頭以降、対米英戦争において守勢になったから、ソ連との友好親善を図ることが必要になったのである。『第2回戦争指導大綱』(1943年9月30日)には、「進んで対「ソ」関係の好転を図る」と謳われている(前掲書152頁)。

 鈴木首相は1945年5月中旬の「構成員会議」で意見が一致したところとして、ソ連に対して、「将来、ソ連が米国と対抗するに至るべき関係上、日本に相当の国際的地位を保たしむるの有利なるを説き、かつまた、日ソ支3国団結して英米に当るの必要あるを説示し、もってソ連を前記諸目的((1)対日参戦しない、(2)友好的中立維持、(3)米英との講和交渉を日本に有利に仲介すること)に誘導するに努むべきなるも・・・」と述べていた。

 つまり革新勢力(阿南陸相もその一人)は、ソ連に、前記の領土を与えるならば、ソ連は(1)から(3)をやってくれて、「反自由主義の社会主義国」同士として、日ソ支(中共の支那)3国で団結して、米英と対決していくだろう、と考えるように変化していったということである。全く甘い、誤った考えである。

 左の左翼(国際共産主義勢力)は、革新勢力(民族共産主義勢力)をそのように騙しつつ、それを利用して、種村大佐の『対ソ施策に対する意見』(1945年4月29日)に言われているように、日本固有の領土まで含めてソ連にごっそり貢いでしまおうとしたのであった。

●ソ連の工作員・近衛文磨の正体と意図を隠蔽する「中西輝政」論文

 前記『voice』の「中西輝政」論文は、特使としてモスクワに行くことになった近衛文磨元首相を、何も知らない愚かな存在として描き出して、近衛の正体の隠蔽を図っている。近衛は種村大佐とも何度も会っていて、種村は「近衛の共産主義者グループ」の一員なのである。近衛こそは、ソ連のGRUの「工作員グループ」のトップである(中川八洋氏)。近衛は、日本領土をソ連にごっそりと貢ぎ、ソ連による日本侵略とソ連領土化・共産化をスターリンと協議するために、モスクワへ行こうとしていたのである(しかしソ連は受け入れなかった)。

 スターリンは、日本から多くの領土や権益を平和的にもらうことは、はじめから考えていない。もしそれをすれば、国際法としては、「中立違反」になり、「日ソ同盟」とみなされるからだ。つまり、ソ連は米英との同盟関係を破棄したことになってしまう。そうなればソ連は、今まさに欧州において、米英から広大な植民地(東欧各国)を認められつつあるのに、それが台無しになってしまうし、そればかりか、米英は東欧へ攻め込んでソ連軍と戦争してもよいことになる。スターリンは、こんな愚かなことはしない。

 スターリンが追求したことは、日本内の味方(左の左翼の共産主義者)と秘密裡に協議して、日本軍の抗戦は形式的なものにさせて、ソ連軍の損害ができるだけ少ない形で、日本の支配地域と領土を、短期間で広範囲に侵略占領する戦争である。ソ連軍を呼び込む「戦争」である。もちろん宣戦して侵攻することにするのだ。だからソ連としては、近衛一行が公然を訪ソすることは、避けるのが賢明であったのである。そのような呼び込む戦争は、満州(8月9日0時に侵攻)では実現している(中川八洋氏)。

 しかしながら、GRUの指示に従う左の左翼(共産主義者)の高級軍人と政治家は、左翼全体では少数派であり、右の左翼の革新勢力が左翼の主力であった。革新勢力の軍人と政治家は、もしソ連軍が「日本」を侵略するならば、抗戦するわけである(このあたりは、私は中川八洋氏とは異なる考え方をしている)。そして近衛文磨が再び首相の地位に就くことができなかったから、ソ連と共産主義勢力は、日本侵略の準備を十分には整えることができなかったのだ。何よりも、米軍の早い進撃があり、ソ連軍は十分な軍備を極東に移動できなかった。また米国は7月16日の実験で原爆を保有し、日本に投下してその威力を示した。これはソ連に対しても巨大な圧力になったのだ。そして昭和天皇の「ポツダム宣言」受諾の「御聖断」であった。これらによって、革新勢力も共有した前記の「対ソ施策」を利用して、ソ連と共産主義勢力が追求した、ソ連主導で終戦して、日本全体をソ連領土化し共産化するプランは、実現されることはなかったのである。

●日本は「ハル・ノート」を突きつけられてやむをえず「自存自衛の戦争」をしていったは、大嘘である

 既に述べたように、「天皇制」社会主義国家の「日本」は、対米英蘭の革命戦争(太平洋戦争)をはるか前から決意していた。「ハル・ノート」(1941年11月27日、日本時間)は関係がない。しかし反米民族派などの嘘プロパガンダによって、日本は「ハル・ノート」によって、やむをえず「自存自衛」のために太平洋戦争を始めていったのだと考えている人が多い。洗脳である。「中西論文」も、この嘘プロパガンダをしている(『正論』論文)。

 「ハル・ノート」は、支那(満州は含まず)と仏領インドシナからの撤退と、日独伊3国同盟の実質的廃棄を要求しているだけである。そうすれば、凍結した日本資産を解除し、石油などの輸出も再開するとしている。容易に受け入れることができるものだ。日本が「ハル・ノート」を拒絶したのは、日本が左右の左翼によって侵略支配されて、「天皇制」社会主義国という「左翼反日国家」に革命されてしまっていたからだ。自由主義国家・資本主義国家である敵国の米国の要求だから、拒絶しただけである。

 それは、鈴木首相が「構成員会議」で意見の一致をみたとして、「ソ連に貢ぐものとして挙げた領土」を見れば明らかだろう。さらに近衛文麿は「特使」として、「白紙」状態でモスクワへ行って、スターリンと交渉することになっていた。近衛が、種村大佐が『今後の対「ソ」施策に対する意見』で述べていた、南樺太、台湾、琉球、北千島、朝鮮、もちろん満州、内蒙古、支那、仏領インドシナ、蘭領インドシナなど全てをソ連に貢ぐつもりでいたことは明白である。

 つまり社会主義国「日本」は、相手が社会主義国のソ連であれば、「ハル・ノート」よりも何千倍も苛酷な条件で、日本の占領地や領土を進んで与えようと考えていたのである。まさに戦前の社会主義国家「日本」は、左右の左翼が侵略支配した反日国家であったのだ。

 

2012年4月30日脱

大森勝久


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