自己紹介

大森勝久

(1)私は死刑確定囚(1994年9月6日確定)です。札幌拘置支所在監です。私の事件は、1976年3月2日の北海道庁爆破事件(2人死亡、95人重軽傷)です。2002年7月30日から、再審請求の裁判をしています。現在は最高裁で、特別抗告審がなされています。

 裁判関係の文は、トップページの上の方に載せてあります「北海道庁爆破・再審請求裁判(大森勝久)」のホームページも、ご覧になっていただければ幸いです。裁判所へ提出した「意見書」以外の文や、毎月の「コラム」も掲載してあります。

(2)私は1949年9月7日、岐阜県多治見市で生まれました。高校までは同市で過しましたが、真面目な保守的な少年でした。1968年4月、岐阜市にある国立岐阜大学教育学部数学科に入学しましたが、2年からは、嫌っていた学生運動に参加するようになっていました。左翼思想に洗脳されてしまったのです。1972年3月、同大を卒業しますが、すぐに中学の数学教師採用の辞令を辞退して、自分を革命家に変革していくために「底辺社会」へ入っていったのでした(当時の意識のことです)。岐阜や大阪や名古屋や東京等で、日雇い労働(土方)をしていきました。

 1973年4月から、アイヌの置かれている状況を調査するため、2回にわたって、合わせて半年ほど、北海道各地を回りました。私は1974年6月末に、北海道苫小牧市に移住しました。そしてささやかな「ペンキゲリラ闘争」もしました。1975年6月末に、本格的に反日爆弾闘争の準備をすすめるために、また準備が完了すれば戦いを実行するために、札幌市へ転居しました。

(3)1976年3月2日、東アジア反日武装戦線によって、北海道庁爆破テロが行なわれました。私が実行したのではありません。しかし、私は1976年8月10日に、爆発物取締罰則3条違反容疑(製造器具の所持)で逮捕され、同年9月1日に本件の道庁爆破事件で再逮捕されました。9月23日に起訴されて、1983年3月29日に、1審札幌地裁で死刑判決となりました。2審でも控訴棄却(1988年1月22日)となり、最高裁でも上告棄却(1994年7月15日)となり、判決訂正申立ても棄却されて、刑が確定しました。

 私は確かに爆弾材料を集め、いろいろ具体的な準備をすすめていました。しかしまだ、肝心要の混合火薬の主剤である塩素酸ナトリウム(高濃度の除草剤)の入手ができていなかったのです。

 捜査機関は除草剤付着の反応があったとする鑑定書をはじめ、実に多くの証拠を捏造しました。私の逮捕・起訴と有罪判決は、数多くの証拠の捏造があって、はじめて可能になったものでした。このことは明らかです。

(4)これらのことについて、保守主義に転向(1997年〜98頃です)した私が、どう考えているかにつきましては、前記ホームページに掲載しました、第7回コラム「私はかつての違法な逮捕・起訴・確定裁判を恨んではいません」に書きましたので、読んでいただけましたら、嬉しいです。

(5)私の最大の関心事は、長い間、誤った左翼運動をしてきてしまったことの反省に立って、ロシア・中国・北朝鮮という全体主義侵略国家や、国内の左翼や反米民族派の攻撃から、自由な祖国を守っていく保守主義の言論活動を行っていくことです。

大森勝久

(2010年5月9日記・6月14日掲載)


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